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礼拝説教

12月6日礼拝説教
2020-12-14

ヤコブの手紙2113節(Ⅱ)       2020126日(日)

 「自由をもたらす律法」   藤田 浩喜

 今日の12節を見ますと、「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい」と言われています。「自由をもたらす律法」とは、イエス・キリストによって成就された律法です。「真理は汝を自由にする」と言われているように、イエス・キリストの福音と言い換えることのできる愛の律法です。この愛の律法に則って、語り、ふるまうよう、ヤコブの手紙は宛て先キリスト者たちに求めているのです。

 

 今日はヤコブの手紙2章1~13節の後半、813節を学んでいきます。先週の箇所で手紙の著者は、「…主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と戒めていました。教会にやって来る人たちを身なりで判断して、富んでいる人を歓迎し、貧しい人をぞんざいに扱うような態度は、神さまの御心にかなわない間違った態度だというのです。

 ところが、手紙の受け取り手である教会の人々は、自分たちの誤りを素直に認めようとはしなかったようです。それどころか、「自分たちは聖書が命じている隣人への愛を実行している」と、考えていたようなのです。今日の89節を読んでみましょう。「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。」

 ここを読む限り、手紙の受け取り手である教会の人々は、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を、自分たちは実行していると思っていたことが伺えます。どうして、そう思えたのか? 富んだ人を大事にして、貧しい人を軽んじるようなことをしていても、隣人愛を勧める戒めに背いていないと、思っていた。それには、彼らの律法理解が大きく影響していたようなのです。

 「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、もともと神の民イスラエルに属する同胞たちの間での戒めでした。隣人の中に異邦人は含まれていませんでした。また、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われていますが、隣人を愛せよという律法は、具体的な場面では一つや二つではありません。貧しい人たちを大切にしなさいということも含まれていたでしょうが、隣人の農作業を手伝うとか、隣人の家畜が穴に落ちていたらそれを助け上げるとか、麦や大麦を全部刈り取らないで困窮した人たちのために残しておくとかも、隣人愛の中に含まれていたでしょう。そのような隣人愛に関わる行いを一つ守れたらプラス1(いち)、守れなかったらマイナス1(いち)という仕方で、彼らは律法遵守を考えていました。守れないことが少々あっても構わない。最終的にプラスがマイナスを上回っていれば、それで自分の行いは合格と見なしていたのです。このような考え方は、ついつい私たちも納得してしまいそうになるところがあるかもしれません。そうした律法観を持っていたので、人を見た目で分け隔てするようなことがあっても、彼らは深刻には受け留めなかったのです。

 しかし、ヤコブの手紙の著者はそうは考えません。律法を人の力で守ろうとするなら、すべてを完全に守らなくてはならない。そうでなければ守ったことにはならないと言うのです。1011節です。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪になるからです。『姦淫するな』と言われた方は、『殺すな』とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になるのです。」律法は神さまが神の民にお与えになった戒めです。そこには神さまの御心が込められています。その御心の込められた律法を、人間が自分勝手な判断で選り好みすることは許されません。「この戒めは守るが、この戒めは守らない」と選別することはできません。この世の法律でも、人が一つの法律を犯せば、犯罪者となります。それと同じように、律法においても一つのおちどがあれば、律法の違反者になるのです。

 

 それにしても、ヤコブの手紙の著者は「人を分け隔てすること」を、教会やキリスト者にとって極めて重大なことと見なしています。それは、あらためてどうしてなのでしょう? もう一度8節を見ますと、著者は「『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法」と言っています。「隣人を自分のように愛しなさい」という律法は、最も尊い律法だというのです。この「最も尊い律法」は、

原語では「王の律法」という言葉です。それは、この命令が「全ての律法の王」であることを表しています。永遠の御国の王、教会の主である神の御国の律法として、人が生きる基準は、「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。「隣人を自分のように愛しなさい」というのが、神の国、神が支配される国に生きる者にふさわしい定め、生きる道、人生の指針なのです。

 私たちの人生において、最も大切なことは、自分のために生き、自分を生かすことです。自分を愛し、自分を生かすことのできない者が、他の人を愛し、生かすことはできません。三浦綾子さんはそのエッセーの中で、「『人生』は、人を生かすと書く。即ち、自分を生かし、まわりの人間を生かすのが人生である。それが本当の『人生』だ」と言いました。自分を生かしてはいるが、人を生かしてはいないということはないのです。人を生かしていないなら、自分をも本当に生かしていないのです。人を愛していないなら、自分をも愛していないのです。自分を愛していないなら、人をも愛することはできないのです。主イエスが教えてくださった道は、自分のために生きるということと、人のために生きることが、一つになることです。そのように、神が支配される御国に生きる者にふさわしい戒め、また生きる道だからこそ、「全ての律法の王」と呼ばれているのです。

 また、さらに大切なことは、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟が、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ2237)という掟と、分かちがたく結び合わされていることです。主イエスは、律法学者の問いかけに対して、律法の中心がこの二つに要約されることを示されました。「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めは、「全身全霊を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めに生きることによってしか、それを本当に行うことはできません。反対に、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに生きることによって、「全身全霊を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めが、いかに恵み深いものであるかを、人は悟ることができます。だからこそ、「全ての律法の王」と呼ばれているのです。

 皆さんも身に染みて感じておられると思いますが、「隣人を自分のように愛する」ということは、難しいことです。隣人を愛そうと願っても、そこで気づかされるのは、自分の愛の無さです。いくら隣人のために善い業を行おうと努力しても、自分の罪を知らされるばかりです。パウロが言うように、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ719)ことを、思い知らされます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ724)。

 しかし、イエス・キリストの十字架による罪の贖いによって、私たちは神さまの前に義なる者(正しい者)としていただきました。イエス・キリストが私たちの代わりに律法の要求を完全に満たし、律法を守らなければ救われないという重荷から私たちを解放してくださいました。私たちは今や神さまの前に、義とされた者、救いを与えられた者として立つことができます。そして、そのような自由をもたらされた者として、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに、新しく生きてくことができるのです。イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、律法の束縛から解放され、神に愛された者として、新しく律法に生きることができるのです。そして、そのような神の愛を知った時、私たちは神の愛の中にいる自分の存在の大きさを知るだけではありません。それと同時に神の愛の中にある隣人の存在の大きさにも気づかされるのです。まさに、「隣人を愛する」ということと「神を愛する」ということは、分かち難く結び合わされているのです。

 

 さて、今日の最後の箇所である13節には、次のように言われています。「人に憐れみをかけない者には、憐みのない裁きが下されます。憐みは裁きに打ち勝つのです。」「人に憐れみをかけない者」とは、人を見かけで判断し、貧しい者やみなしご、やもめなどを顧みない者たちのことが言い換えられています。人に憐れみをかけないこのようなあり方は、その人自身の性格や人柄に因るものではありません。人間の善意など、五十歩百歩の違いに過ぎないのです。そうではなくヤコブの手紙は、人に憐れみをかけないこのあり方の原因が、律法に対する向き合い方の間違いにあることを、鋭く見抜いているのです。救いの条件として律法を守ることが間違いなのです。イエス・キリストが来られる以前、律法はそのすべてを守らなくては、律法の違反者となりました。律法はその意味で、人が決して満たすことのできない呪いであったのです。しかし、イエス・キリストはこの世界に来て下さり、律法のすべての呪いを引き受け、律法を完全に満たしてくださいました。律法の完成者であられました。そのキリストの十字架の恵みと憐みに与った私たちは、キリスト以後のあり方で「神を愛し、隣人を愛する」という律法に生きていけば、それでよいのです。自分の救いを得るためでない。イエス・キリストに救われた者として、喜びと感謝をもってキリストの愛と憐れみに押し出されていけば、それでよいのです。

 終わりの日に、人はその為してきたことに応じて、裁きを受けることになります。その際に、どんなに忠実に自分の力で律法を守った人も、キリストの愛と憐れみの中で律法に生きた人に打ち勝つことはできません。なぜなら、人はどんなに律法を守ろうと努力しても、100パーセントに達することはできません。しかし、キリストの憐れみを受けた人は、キリストが律法の要求をすでに100パーセント満たして下さっています。そして、キリストの愛によって隣人愛へと押し出されることによって、100パーセント以上に上積みすることができるからです。まさに、「憐みは裁きに打ち勝つのです。」私たちは、イエス・キリストの到来以後の時代に生かされています。イエス・キリストの大いなる恵みと憐みに押し出されて、隣人へ愛に向かう生き方をしたいと思います。(2020年12月6日)

 
 
 
 
 
 
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