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礼拝説教

11月29日礼拝説教
2020-12-07

ヤコブの手紙2113節(Ⅰ)        20201129日(日)

 「正しい判断で人を見る」     藤田 浩喜

 どこで読んだか分かりませんが、強盗が小さな教会を襲い、司祭に金になりそうなものを出すように迫りました。司祭はその教会に身を寄せているやもめや孤児、障害を負った人やお年寄りたちを見せて言いました。「教会に金や銀はない。目の前にいるこの人たちがこの教会の宝です」。正確に覚えていないのが残念ですが、その言葉が心に残っています。教会が本来どのような場所でなくてはならないのか、鋭く深く問い直される気持ちがしたのでした。

 

 今日はヤコブの手紙2113節の前半、17節をご一緒に読んでいきたいと思いますが、次のような言葉で始まっています。「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」イエス・キリストを信じているキリスト者が、人によってまったく違った態度をとってしまうことがある。そのことを問題にしているのです。そして、人を分け隔てる例として次のような例が挙げられています。24節です。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」

 「あなたがたの集まり」とは、おそらく家の教会での礼拝か家庭集会のことでしょう。足を置く台のついた椅子が幾つも並んでいるような大きな家だったのでしょう。その集会に見るからに立派な身なりをしたお金持ちと思しき人と、汚れた服装をした貧しい人がやって来た。両方とも、道を求めてやってきた新来会者であったのかも知れません。ところが同じ新来会者であるのに、扱いがまったく違っていた。立派な身なりをしたお金持ちと思しき人は、用意されていた足台つきの席に案内されました。ところが汚れた服装の貧しい人は、その場に立っているか、案内人の椅子の足台のそばに座るかしていなさいと、言われたのです。人を見た目で判断する典型的な事が、キリスト者の集会で行われたのです。ある注解者は、椅子の足台ということから、詩編110篇1節の次の言葉を連想しています。「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」。神にとっての敵が踏みつけられ、足台とされるという御言葉です。そこから、汚れた服装をした貧しい人は教会の中で、敵のように扱われているというのです。教会には歓迎すべき来てほしい人と、敵のようにできれば排除したい人がいる。そのような見た目による差別が、暗黙のうちになされてはいないか。教会は誰にでも開かれていると言いながら、そのような選別が密かに行われているようなことはないか。それは神さまの考えとは違う、誤った考えに基づく判断ではないかと、鋭く問いかけられているのです。

 どうして、「人を分け隔てしてはならない」のでしょう。単に差別はいけませんと言うのではなく、もう少し深い所から考える必要があると思います。第一の理由は、私たち人間が神さまに似せて造られた「似姿」(イマゴ・デイ)だからです。神さまは創世記126節において「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われました。この「似姿」については色々なことが言われますが、神さまのイメージ、神さまの尊厳を宿した存在、言葉を変えると、人格的な存在ということになります。私たち人間は皮膚の色や外見的特徴は違っていても、神さまのイメージや尊厳を宿した人格的存在であるということにおいて、変わりはないのです。根本的に共通したものを持っているのです。

 アメリカ合衆国の公民権運動で、非暴力抵抗運動のリーダーであったマルティン・ルーサー・キング牧師は、1964年ノーベル平和賞を受けました。その前年の1963年、キング牧師はワシントンで行われた公民権運動の大行進で歴史に残るスピーチをしました。「わたしには夢がある(I have a dream)」というこのスピーチの中で、キング牧師は次のように語っています。「友よ、私は今日、みなさんに申し上げたい。今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでもなお私には夢がある。それはアメリカの夢に深く根ざした夢である。私には夢がある。それは、いつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫とが、ともに兄弟愛のテーブルに着くことができることである。私には夢がある。……それは、いつの日か私の幼い四人の子どもたちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである」。どんな人も、神のイメージとその尊厳を宿した存在、人格的存在であることに変わりはありません。その人間を見た目や外見によって差別するならば、それは神さまご自身の尊厳を侵してしまうことになるのです。

 二番目の理由は、神さまによってイエス・キリストの体として呼び集められた教会が、どのような群れであるかということです。5節にこう言われています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者たちに約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」このことに関して使徒パウロは、コリントの教会を例に取りながら、次のように言っています。コリントの信徒への手紙一の12629節(300頁)です。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるために、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無きに等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」パウロのこの言葉は、コリントの教会だけに当てはまるものではありません。実際、初代教会において信仰を与えられ、群れに加わったのは、貧しい人々、この世的には低い身分の人々、奴隷階級の人々が多かったと言われています。紫布の商人ルディアのようなお金持ちや、ローマ帝国の役人などもいたようですが、それらは少数でした。そしてそうした事情は、現代にも共通しています。マタイによる福音書53節の山上の説教の冒頭で、主イエスはこうおっしゃっています。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」現代の教会においても、自らの弱さや心の貧しさを覚えている者が、教会に集められているのではないでしょうか。神さまがイエス・キリストにあって教会に集めてくださるのは、自分の弱さや心の貧しさを痛感し、それゆえに神さまを求めている者たちなのです。私たちは神さまが、まず貧しい者たちを召されたということを、聖書を通して示されます。私たち人間は、神さまから受けるのでなければ、真の富を手にすることができない、貧しい存在です。しかし神さまは、人の弱さや貧しさを、神の富が宿る場所として用いてくださいます。その決定的に大事なことを世に知らせるために、弱さを抱えた者たち、様々な貧しさに悩む者たちを、教会に集めてくださっています。教会がそのような場所であり、そこに神さまの御心がある以上、人を分け隔てするようなことがあってはなりません。貧しさを抱える者たちが、まず優先的に招かれていることを知る必要があるのです。

 

 さて、67節を読んでみましょう。「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているのではないですか。」ここでは、立派な身なりをした、教会が来てほしいと願う富んだ人々が、貧しい人が多いキリスト者を、実際にはひどい目に遭わせる側に立つ人であることを見抜いています。「裁判所に引っ張って行く」とあるのは、借金をした貧しい人が期限までに返済することができない場合、即座に裁判所に訴えられてしまうことが、言われているようです。貧しい人は、収入が不安定であり、今日のコロナ禍もそうですが、予想もしない社会情勢の変化のために、生活が成り立たなくなってしまうことがあります。しかし、お金を貸した富んだ人は、そうした事情や貧しい人の苦境を考慮することなく、即座に法的手段に訴えて、自分の損害を食い止めようとするのです。さまざまな社会的資源の使い方を熟知しており、それを最大限利用して自分の財産を守ろうとするのです。そんな人だからこそ、財を成すことができるとも言えましょう。ヤコブの手紙の著者は、教会が来てほしいと願う富んでいる人には、往々にして、このような非情な一面があり、自分たちの味方になってくれるわけではないことに注意喚起しているのです。しかし注解書によれば、この富んでいる者は教会の外にいる人に限定されるのではなく、キリスト者も念頭に置かれていると言うのです。たとえキリスト者であったとしても、富んだ人が慈悲の心よりも、富める者の非情な論理を優先して、貧しい仲間を裁判所に引っ張っていくという事例があったようなのです。聖書は、財産を多く持つこと自体を否定してはいません。旧約の族長たちも義人ヨブも多くの財産を持っていました。しかし、イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストに従う者であることと、多くの財産を持つ者であることを両立させることは、簡単ではないのです。大変難しいことなのです。

 貧しい者を裁判所に引っ張って行く富んでいる人は、「あなたがたに与えられた尊い名を、冒瀆しているのではないか」と言われています。この貴き名はイエス・キリストという名です。「この名が与えられた」とは、例えば結婚して夫の名を使うようになった場合とか、子どもが生まれてその父親の名前を受け継ぐような場合に使われる表現です。いわばキリストのファミリー、家族の一員になった時に、キリスト者という名を与えられるのです。キリスト者となった者は、その家族の一員にふさわしく生きていくように、求められ、励まされます。キリストの名を汚し、あれが「キリスト者なのか」と非難されるようでは、尊いキリストの名を冒瀆してしまいます。イエス・キリストは、人を偏り見ることをなさいませんでした。弱さを抱えた者たち、さまざまな貧しさに悩む者たち、病に苦しむ者たちの傍らに、いつもいて下さいました。その究極の姿が十字架のキリストでした。そのイエス・キリストの名を頂き、そのキリストの家族とされている私たちです。私たちはその名に喜びと誇りをもって、生きていきたいと思います。(2020年11月29日)
 
 
 
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