日本キリスト教会 西宮中央教会

 
 

礼拝説教

礼拝説教
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7月26日の礼拝説教
2020-08-03
ヘブライ人への手紙13章7~16節(Ⅱ)   2020年7月26日(日)
「苦難の主イエスのみもとへ」
 将来を嘱望された三浦春馬という若手の俳優さんが、最近自らの命を断ちました。その原因ははっきり分かっていませんが、その原因の一つは、彼がツイッターで発言したことに対する、ひどい誹謗中傷ではなかったかと言われています。そのツイッターは、映画で共演した男性の俳優が、妻子がいるにもかかわらず3年間も不倫をしていた。その行為に対して当然のごとく、激しいバッシングが浴びせかけられました。その俳優は日本中を敵に回したようになっていました。そんな時三浦さんは、ツイッターでこのように発言したのです。「どの業界、職種でも、叩くだけ叩き、本人たちの気力を奪っていく。みんなが間違いを犯さない訳じゃないと思う。…国力を高めるために、少しだけ戒めるために、憤りだけじゃなく、立ち直る言葉を国民全員で紡ぎ出せないのか…」。奥さんを裏切る不倫が悪いことは言うまでもありません。しかし当事者でもない人々が、SNSを使って寄ってたかって社会的制裁を加えてしまう。自分を安全地帯において、名前も明かさずに一方的に攻撃を加える。それによって二度と立ち上がれないようにしてしまう。そういうあり方ではなく、本人に十分な反省を迫りつつも、ダメにしてしまうのではなく、立ち上がる可能性を残した言葉を紡ぎ出せないものか。三浦さんはそう訴えたかったのだと思います。しかし、その真意は伝わることはなく、人でなしの不倫男を擁護していると誤解され、今度は三浦さん自身が激しい誹謗中傷にさらされることになったのでした。自分自身を安全地帯において、名前も明かさずに、過ちを犯した人をボコボコにして社会的制裁を加える。これはまさにネット時代の歪んだ正義、現代の魔女狩りのような出来事だと思います。
 さて、今日読んでいただいたヘブライ人への手紙13章13節で、著者は次のように言っています。「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」「宿営の外に出て、主イエスのもとに赴こう」と呼びかけるのです。まず「宿営」というのは、エルサレムの町を城壁で囲んだ、城壁の内側のエリアということです。古代においては、多くの町が外敵から身を守るために城壁で囲まれていました。門を通ってしか出入りすることはできませんでした。町の中は城壁で外敵から守られていた、言わば安全地帯だったのです。町の人々は宿営の中では安んじて生活することができました。そして、亡くなった人は町の門を通って外に出されました。重い皮膚病などに罹った人、罪を犯して裁かれた人も、宿営の外に出なければなりませんでした。一方、宿営の中にはエルサレム神殿がありました。神さまを礼拝したり、犠牲を捧げたりするために、人々は神殿を訪れたのでした。
 その安全地帯とも言うべき宿営を出なさいと、著者はヘブライ人教会の人々に言います。これは文字通り宿営の外に住みなさいということではありません。比喩的に言われています。つまりヘブライ人教会の人たちに、「安全地帯から出なさい」、「安全な場所に身を置くだけではいけません」と呼びかけるのです。これまでも何度か申しましたように、ヘブライ人の教会にはキリスト教迫害の脅威が迫っていました。社会から警戒の目で見られていました。そこでキリスト者たちが表立って伝道をしたり、慈善活動をしたら、人々から反発を受けてしまいます。何を言われるか分かりません。そこでヘブライ人教会の人々は、息を潜めて信仰生活を守っていたようなのです。社会に向かって宣教するのではなく、前回お話したように教会の中中心の信仰生活を守っていました。旧約以来の食べ物についての掟をどれだけ忠実に守れるかということに、関心が向けられていました。あるいはヘレニズムの宗教の影響を受けて、神さまに捧げた肉や穀物を食べることで、神さまからの霊的な力を受けようと考えていました。そのような内向きの信仰生活に傾いていたようなのです。
 しかし、手紙の著者は「そのような安全地帯に身を置くのではなく、宿営の外に出なさい」と言います。宿営の外はご承知の通り、イエス・キリストが十字架に掛けられたゴルゴダの刑場がある場所です。今日の10節で著者は、「わたしたちには一つの祭壇があります」と言っています。旧約の祭壇は、宿営の中にありました。その祭壇に犠牲の動物の血が注がれて、罪の贖いがなされました。民はその血によって罪を赦されました。しかし、新約の祭壇は、イエス・キリストが磔(はりつけ)にされた十字架です。主イエスが私たち人間の身代わりとなって十字架で血を流し、死を遂げられることによって、私たちの罪は赦されました。神さまと人間の間に横たわっていた罪が取り除かれ、完全に救われました。キリスト者にとっての祭壇は、宿営の中にあるのではなく、宿営の外にあります。キリストが磔にされた十字架こそが、私たちの真の祭壇です。だからこそ、安全地帯である宿営の外に出て、主イエスのみもとに赴こうと呼びかけられているのです。
 その宿営の外にある祭壇に来て、私たちは何をするというのでしょう。祭壇は16節にあるように、「いけにえ」をお捧げするところです。いけにえをささげることで、神さまが喜んでくださいます。でも、私たちは主イエスが捧げたものと同じものを捧げる必要はありません。主イエスは私たちが罪を赦され、救われるために完全ないけにえとなって、ご自身を捧げてくださったからです。そうではなく、私たちキリスト者が捧げるいけにえがあります。それが15~16節に記されているのです。読んでみましょう。「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」
第一のいけにえとして、主イエスを通して賛美と感謝を、神さまに捧げることができます。昔の人の中にも、感謝の捧げ物が罪の赦しの捧げ物より、神に喜ばれると考えている人がいました。なぜなら、罪のための捧げ物は神からの罪の赦しという報いを得ようとしますが、感謝の捧げ物は、無条件に感謝の心を神さまに捧げるからです。感謝の捧げ物は、すべての人が捧げることができますし、何よりも神さまが喜んでくださる捧げ物なのです。 第二のいけにえとして私たちは、御名をたたえる唇の実を捧げることができます。これは、御子を通して示された救いの御業をたたえることであり、キリストへの信仰を喜んで人の前で告白することです。「絶えず」と言われています。キリスト者は、自分が誰のものであり、誰に仕えているかを、恥じることなく人々の前に示す生活を、神に捧げなくてはなりません。イエス・キリストを「絶えず」告白するという捧げ物をすることができるのです。 そして第三に私たちは、隣人に対する善い行いと隣人に分け与えることを、いけにえとすることができます。主ご自身も「…わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と言われています。神さまは、兄弟姉妹や隣人に対してなされる「援助」という捧げ物を、わが事として喜んでくださるのです。 ここで示されている三つの捧げ物は、自分の外に向かってなされるべきことです。教会の中や家庭生活から一歩踏み出して、進み出なくてはなりません。安全な所に身を置いたままではできません。人々の眼差しの前に、自分をさらす勇気がなくてはできません。自信の無さやためらいの気持ちも、起こってくるでしょう。しかしこのような捧げ物こそが、神に捧げられる「いけにえ」です。すなわち「いのちある供え物」なのです。神さまはどんなに小さくても、たとえ整っていなかったとしても、私たちが捧げるそのようないけにえを喜んでくださるのです。
 人はこの世に、自分の安全地帯を設けようといたします。それは昔の人々にとっては城壁に囲まれた「宿営」の中でありました。私たちキリスト者にとっては、地上の教会がそのような安全地帯になってしまうことがないでしょうか。そして、私たち一人一人も何らかの安全地帯を確保して、そこから出て来ないということがありはしないでしょうか。そうした安心の場は、確かに私たちに必要です。しかし、そのような地上の安全地帯は、永遠に存続するものではありません。今日の14節が言うように、「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」私たちの目指す永遠の都は、地上にではなく天にあるのです。そして、イエス・キリストの御後に従い、主の開いてくださった道を進んで行く者は誰であっても、その都に到達することができるのです。(2020年7月26日)
 
7月19日礼拝説教
2020-07-27
7月19日(日)  
 説教題 「義によって助けられる神」」   藤田浩喜
 創世記42章29~38節         
 

 

 エジプトで7年の大飢饉が起きた時、ヤコブとその一族が住んでいたパレスチナもひどい飢饉に襲われていました。このままではみんな飢え死にしてしまう。そこで父ヤコブは息子たちに、穀物があると聞いているエジプトに行って、穀物を買うように言ったのでした。ヤコブの子どもたちはヨセフを除くと11人でしたが、父の考えで末っ子のベニヤミンだけが、父のもとに残されたのでした。

 エジプトでは、国の司政者となったヨセフが、国民に穀物を販売する監督をしていました。そこに10人の兄たちがやって来たのです。ヨセフは彼らが自分の兄だと一目見て気づきます。兄たちはヨセフだと知るよしもありません。そこでヨセフは素知らぬふりをして、厳しい口調で兄たちを問い詰めるのでした。「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない」(9節)。兄たちは恐れおののいて答えます。「いいえ、御主君様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。わたしどもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません」(1011節)。兄たちは、自分たちが怪しい者ではないことを必死に訴えます。しかし、ヨセフは信じようとしません。そして、兄たちが「年老いた父のもとにもう一人の弟がいます」と言ったのを逆手に取って、「お前たちの言うことを信じて欲しいなら、その証拠として末の弟を連れて来い」と、命じたのでした。そして、彼らを三日間牢獄に監禁した後、シメオン一人を人質として残し、他の9人に食糧の穀物を持たせて、父の待つパレスチナに帰したのでした。

 しかし、それにしてもヨセフはどうしてこんな行動に出たのでしょうか。13年前に自分をエジプトに売った兄たちに、復讐するためでしょうか。ヨセフの気持ちが、複雑であったことは間違いありません。兄たちの姿を見て、13年前のあの辛く悲しい場面が、まざまざと蘇って来たことでしょう。20節でルベンが言っているように、「ヨセフが我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうとしなかった」のです。とても兄たちと感激の対面というわけにはいきません。3日間、兄たちを牢獄に監禁してやろうと考えても、不思議はありません。その反面、ヨセフは兄たちに優しい一面も見せています。最初ヨセフは兄たちの一人を故郷に帰らせて、末の弟を連れて来るように命じました(16節)。ところが実際は、シメオン一人を残して他の兄たち全員を帰らせます。そして、帰る彼らの袋に穀物を満たし、道中の食糧を与えただけではありません。僕に命じて、彼らが払った穀物の代金を、彼らの袋に戻させたのです(25節)。

 こうしたことからも、ヨセフが兄たちに復讐するために、このような対応をしたとは考えられません。そうではなく、彼の行動の鍵が18節以下の言葉に示されているように思うのです。三日経ったとき、ヨセフは兄たちにこう言うのです。「こうすれば、お前たちの命を助けてやろう。わたしは神を畏れる者だ。お前たちが本当に正直な人間だというなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い。そうして、お前たちの言い分が確かめられたら、殺されはしない。」ここでヨセフは、自分を「神を畏れる者だ」と言い表します。これは真実であり、彼の生き方の根本をなすものでした。ですから、ヨセフは自分の感情ではなく、神の御旨としてこのことを行おうとしているのです。そしてヨセフは「お前たちが本当に正直な人間というなら」と言っています。兄たちはエジプトの司政者であるヨセフの前で、本当のことを言っています。兄たちが述べたことに間違いはありません。しかし兄たちは、本当に正直な人間として、神の前に恥じることのない人間として、これまで生きてきたでしょうか。13年前ヨセフの目に余る傲慢さと父の偏愛の故とは言え、彼らは肉親である弟を、エジプトの隊商に売り渡してしまいました。苦しみ助けを求めている弟を顧みようとはしませんでした。そして、弟は獣に襲われて死んでしまったと、父ヤコブに嘘を言って口裏を合わせました。彼らにとって弟のことは、心の重荷、良心の棘となって、彼らを苦しめてきたに違いありません。そのような彼らは、本当に正直な人間としてこれまで生きて来られたのでしょうか。また、これから生きて行けるのでしょうか。彼らが本当に正直な人間として生きて行くためには、避けて通れないことがあるはずです。それは自分たちが犯した罪と過ちを、真正面から見つめることです。その罪を心の底から悔いて、神さまの前に告白することです。そのように心からの悔い改めをすることで、人は本当に正直な人間として再出発していくことができます。心の重荷、良心の棘を取り除かれて、神さまに顔を上げて、新しく人生をやり直していくことができます。主なる神はヨセフを通して、兄たちにその道のりを歩ませようとしているのではないでしょうか。

 ヨセフのもとから解放された9人の兄たちは、父ヤコブのもとに帰ります。そしてエジプトで自分たちの身に起こったことを、すべて報告したのでした。兄たちが話したことは、ヤコブを当惑させずにはおれませんでした。エジプトの主君である人物が何を考えているのか、一向に分からなかったに違いありません。そして、そのエジプトの主君が命じたこと、すなわち末の息子を連れて来いという命令は、ラケルの二人の息子を寵愛していた父には、到底受け入れられるものではありませんでした。その父の思いは、38節に切々と語られています。「しかし、ヤコブは言った。『いや、この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。』」ヤコブにしてみれば、末の子ベニヤミンをエジプトに連れていくことは、彼の生きる望みのすべて奪い去られるような出来事だったのです。しかし、主なる神の御心は、そうではありませんでした。ヤコブの家には、生死を左右する飢饉の大問題がありましたが、それとは別に親と子との問題、兄弟と兄弟の問題が横たわっていました。主なる神はヤコブの神・イスラエルの神として、彼らを顧みられます。そしてこれから、神を畏れる人ヨセフを通して、家族の問題にメスを入れ、それを解決することによって、ヤコブの家を飢饉からも助け出し、神の民の歴史を将来に向けて繋いでいこうとされるのです。その物語がしばらく続いていくのです。

 さて、改めて今日の物語は、私たちに何を語りかけているのでしょうか。ここには「試す」という言葉も出てきます。15節「その点について、お前たちを試すことにする。」この言葉は「精錬する」とも訳せる言葉です。「精錬する」というのは、鉱石を溶かし、不純物を取り除き、金属を精製する工程をいう言葉です。ヨセフはここで兄たちに復讐しているのでも、兄たちを罰しているのでもありません。彼らを「精錬」しているのです。真実を隠して「不安」に生きている人間から、真実を認める人間へと練り清めようとしているのです。そして、ここでの主体はヨセフではありますが、実はヨセフの背後にあって、主なる神が兄たちを精錬しようとしておられるのです。ヨセフはそのために用いられるのです。

 そして、この神様のなさり方は、「神の義」ということを、改めて私たちに深く考えさせるのです。「神の義」というのは「神の正しさ・正義」ということです。神の正義は人間の罪を憎み、悪を罰しないではおきません。そのように受け止めてきたのではないでしょうか。しかし、以前使っていた口語訳聖書は、詩編31篇1節で次のように語るのです。「主よ、わたしはあなたに依り頼みます。とこしえにわたしをはずかしめず、あなたの義をもってわたしをお助けください。」ここでは、「義によって助ける」と言われるのです。「神の義」とは罪を憎み、悪を罰するということだけに終わるものではないのです。「神の義」は厳しい意味合いを含みつつ、最終的にそれによって私たちが救われる。そういうことまでも示しているのです。ヨセフの兄たちにも、最後には赦しと喜びが訪れる。真実が明らかにされ、心を刺し通される経験をするけれども、その罪の赦しが宣言される。そしてそれを超える救いのご計画が、やがて彼らの前に姿を現すことになるのです。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます」(Ⅰヨハネ19)。まことに神さまは、褒め称えられるべきお方ではないでしょうか。お祈りをいたします。

(2020年7月19日)
 
7月12日礼拝説教
2020-07-20
7月12日(日)  
 説教題 「恵みによって強められる」   藤田浩喜
 ヘブライ人への手紙13章7~16節1(Ⅰ)         
 
今日の13章7節で、ヘブライ人への手紙はこう言っています。「あなたがたは神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見習いなさい。」6月に長年長老を務めてくださった兄弟が天に召されました。その兄弟について、今長老をされている方が、自分が日曜学校の生徒であった時の思い出を、短く書いておられます。「長年日曜学校の校長として、私自身も御言葉の導きをして頂き感謝しています。…穏やかな表情と語り口には、小学生の頃から敬意を抱いていました。」亡くなられた元長老が若かりし頃、日曜学校の教師として聖書の御言葉を説いてくださった。その穏やかな表情や確信に裏打ちされた語り口を、60年近くたっても思い出すことができると、言われるのです。亡くなられた元長老は、コロナ禍の影響もあって教会で葬儀を行うことは叶いませんでした。しかしこの元長老は、続く世代にとても大きな信仰的遺産をのこしてくださったのだと思います。それは神の御言葉を語り、神の御言葉によって生かされていた信仰者の姿だったのではないでしょうか。そのような信仰の先輩の地上での姿が、今の私たちにも力を与えるのです。
しかし、ヘブライ人への手紙がこのように語らなければならなかったのは、それ相応の理由があったようです。9節を見ますとそのことが伺われるのです。「いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。」実際どういう状況だったのか、詳しいことはこの文面からだけでは分かりません。詳しい説明をしなくても、当時の人たちには分かり切ったことだったのでしょう。これは良い食べ物を食べても意味がないとか、益がないと言っているのではなさそうです。わたしの家にも食べ物について敏感で、あれこれ教えてくれる家族がおりますが、食べ物の種類を選んだり、食べ方を工夫することで、以前よりも健康な日々を送ることができており、感謝しています。
そういうことではなく、ユダヤには旧約時代から様々な食物についての規定がありました。これは宗教的に汚れているから、食べてはいけない。これは清いから、食べてもよい。そういう旧約時代からの律法・食物規定を厳格に守ることで、信仰生活をより充実したものにしようとしたのです。あるいは、こういうことだったのかもしれません。当時のパレスチナはギリシャ的な世界の中にありました。そこでは多くの異教の神々がおり、その神々を祭る祭壇に肉や穀物、果物などの供え物がなされました。それらは祭儀が終わると、市場に下げ渡されたり、参拝者に分配されたりしました。それらの供え物は、神々に供えられた物なので、それを食べる人に特別の力を与えると信じられていました。そうしたギリシャ的な影響を受けて、キリスト教会でも主なる神さまに捧げたものを食べることによって、特別な力を授かると信じられていたというのです。そのどちらであったかは分かりません。しかし、ヘブライ人の教会の中には、食物の決まりを徹底して守ることや、神に捧げた食物を食べることで、神から力を与えられよう、信仰生活を充実させようという人々がいたらしいのです。人間が自分の努力や自分の編み出した方法によって、信仰的に強められようとしたのです。
しかし、信仰者を力づけるのは神の恵みです。神の最大の恵みである御子イエス・キリストです。聖書の御言葉が証しするイエス・キリストだけが、私たちの心を力づけ続けてくださるのです。人間の手になるものが力を与えることがあったとしても、それはすぐに尽きてしまいます。一時しのぎに過ぎません。しかし御子イエス・キリストが与えてくださる恵みは、決して枯渇することはないのです。主は言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ福音書6:35)。ヘブライ人への手紙が語っているように、「食べ物ではなく、恵みによって心が強められるの」がよいことなのです。それを他にして、いくら信仰生活を充実させようとしても、それは私たちの益にはならないのです。
ところで「恵みによって心が強められる」とありますが、これはどのようなことなのでしょう。信仰生活が生き生きとしてくる、神さまや主イエスを身近に感じる、聖書の御言葉や祈ることによって慰めや力を与えられる。それらのすべてが、そこには含まれるに違いありません。私に洗礼を授けてくれた故郷の牧師は数年前に召されましたが、お元気な時にお会いすると、いつも語ってくださる言葉がありました。正面を見るのではなく少し遠くを見るような佇まいで、「藤田君、神は生きて働きたもう、やな」。感慨深そうに、そう言われるのです。神さまが確かに生きておられる。働いておられる。そのお働きを日々の生活の中で、自分は生き生きと感じる。そのような信仰の証しをなされるのです。
恩師の牧師は、人口3万人の小さな城下町で60年近く伝道されました。その道のりは困難の連続でした。最初教会に赴任した時、教会は地域の人たちから不信の目を向けられていました。というのも一時教会の堂守りをしていた人が、近所の人からお金を借りて、ドロンしてしまったのでした。そんな逆風の吹く中で、伝道を始めなければならなかったのです。しかし、粘り強く、大変な時間をかけて、少しずつ地域の信頼を取り戻していきました。ボーイスカウトの隊長をしたり、地域の子どもたちのために塾を開いて、地域に溶け込んでいきました。伝道の労苦は大変なものだったと思いますが、そうした逆境の中であったからこそ、神さまが生き生きと働く出来事を、実感されたのだと思います。「恵みによって心が強められる」というのは、事が順調に運ぶということだけではなく、それ以上の深さと不思議さを湛えた信仰の体験ではないかと思うのです。
そして小さな教会ですが、母教会からは牧師や牧師夫人、長老が生み出されて、今でも各地の日本キリスト教会の教会で、宣教の業に仕えています。それぞれがこの恩師の牧師を生かしておられる神さまに出会った。そして今度は、恩師の牧師を生かしていた神さまに自分たちも生かされて、主の仕え人となる。「あんなふうに自分も生きていく者でありたい。生きていってよいのだ。」「恵みによって心が強められる」体験は、次の世代にも手渡されていくのではないでしょうか。
8節で「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」とあります。イエス・キリストは死に勝利して復活され、世の終わりまで信じる者と共におられます。この信仰告白は、主イエスが先日召された元長老や数年前に召された私の恩師を生涯にわたって導いてくださったように、私たち一人一人をも導かれることを言い表しています。私たちの先を歩んだ指導者たちだけが特別なのではありません。主イエスは例外なく誰でも導いてくださるのです。
一方、「わたしたちに神の言葉を語ってくれた指導者」は、どんなに私たちが願っても、永遠に地上に留まることはできません。やがてその生涯を終えて、御許に召されていきます。しかし、地上の愛する指導者だけでなく、私たちにはご自身が神の御言葉であるお方、生と死を貫いて私たちを導いてくださる真の大祭司であり、指導者であるお方がおられます。この「イエス・キリストは昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」。この真の大祭司であり、指導者であるお方がついているのですから、私たちは安心してよいのです。そのお方の背中を見つめつつ、今しばらくの地上の生涯を安んじて、歩いていくことができるのです。お祈りをいたしましょう。 2020年7月12日)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7月5日礼拝説教題
2020-07-13
7月5日(日)  
 説教題 「恐れからの自由」   藤田浩喜
 ヘブライ人への手紙13章1~6節         
   
 ただ今読んでいただいたのは、ヘブライ人への手紙13章1~5節です。12章までのところとは異なり、具体的なアドバイスが語られています。「兄弟としていつも愛し合いなさい」とか「旅人をもてなすことを忘れてはいけません」とか「金銭に執着しない生活をしなさい」とか、教会の外でも語られるような内容です。こうした教えはキリスト者だけが守っているのではなく、恐らくキリスト者でない人たちの中に、もっと誠実に守っている人がいるのではないでしょうか。キリスト者である私たちが恥ずかしくなるような立派な人々が、世の中にはいます。ただ違いがあるとすれば、キリスト者はこの様々な教えを、イエス・キリストを信じ、キリストに愛されている者として聞いているということです。
 前半の1~3節において、4つの具体的な勧めがなされています。「兄弟としていつも愛し合いなさい」。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。」「牢に捕らわれている人たちを思いやりなさい。」「虐待されている人たちのことを思いやりなさい」です。最初は兄弟、主にある兄弟姉妹として、いつも愛し合いなさいと、言われます。ここは以前使っていた口語訳聖書では「兄弟愛を続けなさい」となっていました。私たちは、教会で主にある兄弟姉妹として信仰生活をしています。教会も人間の集まりですから、色々なことが起こります。関係がぎくしゃくすることもあるでしょう。しかしそういうことがあったとしても、兄弟愛を断ち切るのではなく、続けていくことが大切なのです。また、ここでは主にある兄弟姉妹を愛することに留まらず、旅人をもてなすことや、牢獄に捕らわれている人を思いやることが勧められています。宿泊施設が十分完備していなかったこの時代、旅人を家に泊めてもてなすことは大切な愛の業でした。それは旧約聖書の時代から重んじられていたのです。また、牢獄に捕らわれている人、虐待されている人とは、キリスト教信仰のゆえにそのような境遇に置かれていた人たちだけではなかったでしょう。貧しさのゆえに罪を犯してしまった人、横暴な支配者によって理由もなく虐げられていた人たちもいたことでしょう。ここで勧められていることは、主にある兄弟姉妹の愛から、だんだん外へと広がっていくのが分かります。また、具体的な愛の業として少しずつハードルが高くなっているようにも思います。しかし、このような愛の業には、出発点があります。私たちの主イエス・キリストが、十字架に自らを捧げるほどに私たちを愛してくださった。真の兄弟愛を示してくださった。主イエスの愛という小石が一人一人の心の池に投げ込まれ、それが波紋となって私たちの内に愛の業を生み出していくのです。
 ところで、「虐待されている人のことを思いやりなさい」とありますが、その理由として言われているのは、「自分も体を持って生きているのですから」という言葉です。これをある説教者は「あなたも生身の人間なのですから」と意訳しています。私たち一人一人は、観念で生きているのではなく、生身の体をもった人間です。そのような「生身の体をもった人間」として、相手のことをおもんばかる。想像力を働かせて、その人に何が必要であり、どうすることが相手を励ますことになるかを考える。どう行動したらよいかということも、そこから見えて来るように思います。獄に捕らわれている人は、移動の自由を奪われ、狭い空間の中に捕らわれています。外界からは閉ざされ、深い孤独感にさいなまれています。それが生身の人間というものです。その人のために祈りを捧げることは大切です。祈りは主にある平安を、その人にもたらすでしょう。しかしそれと同時に、私たちが牢獄に足を運んでその人と面会をし、その人に身を寄せ、励ましの言葉をかけるなら、捕らわれた人は自分が決して独りぼっちではないことを、身に染みて感じることができるでしょう。相手が自分と同じ生身の人間であることを、自分も相手の立場に身をおいて想像してみること。そこから、私たちのなすべき愛の業も見えて来るように思うのです。
 この「生身の人間である」という前提は、5つ目の「夫婦の関係を汚してはなりません」という教えにも当てはまるでしょう。ここの「夫婦の関係」とは性的な関係です。神さまは結婚を重んじ、この「夫婦の関係」を祝福されます。「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)のです。しかし、そのような「夫婦の関係」を汚す者を神は裁かれます。夫婦以外の第三者が、この「夫婦の関係」に入り込んだり、夫婦以外の第三者と関係を持つことによって、「夫婦の関係」を汚してしまうことになるのです。「生身の人間」というのは、心と体が深く結び合っています。心と体を都合よく分けることなどできません。本来は神が祝福してくださっている「夫婦の関係」も、みだらな行いや姦淫によって体が汚されるならばどうでしょう。心も汚されてしまいます。体を汚しておいて、心の清さだけを保つことなどできません。「生身の人間」なのですから、便利に使い分けることなどできないのです。
 さて、今日の最後の6節には「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」と言われています。お金は大切なものです。特に人生百年時代と言われる昨今です。自分が生きている間、お金が続くだろうか。年金が今以上に目減りしたり、貯金が底をつくことがないだろうか。私たちの多くの者が、そのような心配をしています。そして、そういう状態に陥らないように、堅実で質素な生活を心がけたり、収入を得る手立てを考えたりしているのです。
そのような堅実な生活設計は、否定されるどころか推奨されるべきことです。しかしその一方で、新旧約聖書は、お金や富が神と並び立つ偶像になりうる危険性のあることを指摘してきました。「人は神と富の両方に仕えることはできないのです。」お金によって人間が支配されてしまうなら、人間に多大な影響を与えてしまうのです。ある注解者は、3つの影響を指摘しています。第一に、「金があれば何でも解決すると考え、神さまを不必要にしてしまいます」。第二に「お金は人をこの世に釘づけにしてしまいます。」それに希望を託す人は、見えない世界や来たるべき世のことを考えなくなるのです。そして第三に「お金は人を利己主義のとりこにしてしまいます。」お金を持てば持つほど、さらに欲しくなります。そしてその貪欲の取りつかれると、他人のことや神さまのことはもちろん、自分の健康さえ顧みなくなる危険があるのです。
そのような危うさを持つ私たちに、ヘブライ人への手紙は二つの旧約の箇所を引用して語るのです。一つは申命記31章6節。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない。」もう一つは詩編118篇6節。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」ヘブライ人への手紙は、お金に執着してしまう私たちの心の背後に、恐れと不安があることを見抜いています。恐れと不安があるからこそ、自分の力と努力で自分の将来を確かなものにしようと考えるのです。しかし、ルカによる福音書12章に登場する「愚かな金持ち」のように、人は自分の力で自分の将来を確かなものにすることはできません。「今夜、お前の命は取り上げられる」と宣告され、苦労して倉一杯に貯えた富が無駄になってしまうこともあるのです。
しかし、私たちの主イエス・キリストは、決して私たちから離れ給いません。主は私たちの助け手でいてくださいます。その主が私たちの片方の手を、愛においてしっかりと捉えてくださっています。そのことを知るとき、私たちの心は平安を与えられます。そして、しっかり握り締めているもう片方のこぶしを開き、お金に執着しがちな自分自身から、フッと身軽になることができるのです。イエス・キリストは、私たちの人生に潜む根本的な恐れと不安を取り除いてくださるのです。私たちは、主イエスを信じ主イエスに愛されている者として、生きることができるのです。お祈りをいたします。 (2020年7月5日)
 
6月28日礼拝説教
2020-07-06
6月28日(日)  
 説教題 「動揺することなく   藤田浩喜
 ヘブライ人への手紙12章25~29節         

 

 

 先々週の箇所でヘブライ人への手紙の著者は、「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム…です」と語りかけていました。モーセすら近づくのを恐れおびえたシナイ山ではなく、救い主イエス・キリストによって開かれた神の都であるシオンの山に近づくのだと、言われたのです。しかし、これは信仰者にシナイ山とシオンの山が、別々にあるというのではありません。聖なる峻厳な神と愛と慈しみに満ちた神が、別々におられるというのでもありません。神はお一人です。義なるお方であり、神の御旨を拒む者、神に背を向ける者に罰をお与えになります。29節に「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」とあるように、神以外の偶像を拝む者を滅ぼさずにはおらないお方です。そういう聖にして義なるお方であるがゆえに、私たち人間は神に近づくことを恐れます。シナイ山の頂上に至ることなどできない。神のおられる場所に至る前に、罪にまみれた私たちは滅びてしまう。神に近づこうとすればするほど、ますますその距離が遠くなっていくように感じる。自分一人の力では、いくら努力しても神のおられる高みに至ることなど、不可能としか思えないのです。

 しかしヘブライ人への手紙の著者は、今日の25節で「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい」と言います。かつて旧約の時代、地上で神の御旨を告げたのは、モーセでした。モーセは神の御旨を単なる伝令としてイスラエルに伝えました。しかし新約の時代、天から神の御旨を告げる方が与えられました。この方こそイエス・キリストであり、彼は単に神の声を伝えただけでなくて、彼ご自身が神の声でした。このイエス・キリストによって伝えられたのが福音であり、イエス・キリストの十字架と復活による救いを信じる者は誰でも救われるということでした。イエス・キリストに依り頼む者は誰でも義と認められ、神の御国に入ることができる。私たち信仰者は、この福音が天からの御旨を告げるイエス・キリストによって告げられているのですから、それを素直に、心から受け入れてよいのです。臆する必要などないのです。

 ちいろば先生として有名な榎本保郎先生は、『新約聖書一日一章』の中で次のようなたとえを話されています。私たちが救われるということは、エベレストのような高い山に登ることに似ている。エベレストに、自分の足で、自分の力で登ることは、気が遠くなるほど大変だ。たくさんの人が挑戦しても、登頂に成功する人はほんの一握りだ。まして、救いの山頂に辿り着こうとするなら、それ以上に大変だ。しかし、8千メートルを超えるエベレストでも、飛行機に乗れば簡単にその高さにまで達することができる。まだ歩けない赤ちゃんでも、そこに行くことができる。それと同じように、私たちはイエス・キリストという飛行機に乗ることによって、誰でも救いの高みへと到着することができる。榎本先生はそのように言われるのです。私たちは自分一人で神の御許に至ることはできません。しかし、イエス・キリストが私たちの先頭に立って歩いてくださることによって、それが可能とされたのです。彼は偉大な大祭司であり、「御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる」(ヘブ725)のです。

 さて、今日の26節以下において語られているのは、「揺り動かす」ということです。モーセがイスラエルの民に十戒を告げた時、シナイ山が揺れ動き、煙に包まれたと報告されています。それに対してヘブライ人への手紙の著者は、ハガイ書26節の預言の言葉を引用して、次のような神の約束を語ります。「わたしはもう一度、地だけでなく天をも揺り動かそう」(26節)。十戒を授与された時のようなことが「もう一度」起こる。しかもそれは、地だけでなく、天をも揺り動かす決定的な出来事として起こるというのです。

 「揺り動かす」という言葉で私たちが連想するのは、地震です。最近日本各地で地震が起こっています。つい何日か前も、千葉県で震度5の大きな地震がありました。地震は自分が立っている大地が揺さぶられたので、大きな恐怖を覚えます。生きている場所が土台から揺さぶられることほど、不安なことはありません。こうした地震のような出来事は、私たちの人生にも起こります。今回の新型コロナウィルスによるパンデミックも、その一つでしょう。予想もしない自然災害に見まわれたり、大切な家族を亡くしてしまう。長年勤めていた職場を失ったということもその中に入るでしょう。自分の生活の土台を成していたものが、激しく揺さぶられ、崩れてしまうということがあるのです。そして、その中で最大のもの、私たちにとって「それこそ天地がひっくる返るほど」揺り動かされるもの、それは自分の死ということではないでしょうか。地だけでなく、天も地も、わたしにとってのあらゆるものが、揺り動かされてしまうのです。

 しかし、今日の聖書はこの「揺り動かし」には、確かな目的があることを教えます。27節です。「この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。」つまり、天地が滅びても、決して揺り動かされないものが姿を現すように、この「揺り動かし」が起こるのだというのです。もともと頼りにならない不安定なものが取り除かれて、本当に不動なものが見えるように、この「揺り動かし」が起こるのだというのです。そして、天地が滅びても、決して揺り動かされないもの、本当に不動なものとは何か。それは私たちが神の永遠の御国に、すでに属する者となっているということ。イエス・キリストによって、神の子として迎え入れられているという事実なのです。地上の死は天地がひっくり変えるほどの揺り動かしです。しかし、たとえそのような揺り動かしも、イエス・キリストによって結ばれた、神と私たちとの関係を断ち切ることはできません。死を超えてもなお、神が私たちの父であられ、神のもとにとこしえに命を保ち続けているということに、何一つ変化はないのです。むしろ、そのことがはっきりと姿を現すために、死という揺り動かしも、神によって用いられるのです。揺り動かされて、本当に価値あるものが目の前に現れるのです。「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるよう仕えていこう」(28節)。この励ましの御言葉を胸に、新しい一週間を過ごしてまいりましょう。お祈りをいたします。(2020年6月28日)

 
6月21日礼拝説教
2020-06-29
6月21日(日)  
 説教題 「神は広い視野を示される   藤田浩喜
 創世記41章41~49節         
 
先月の創世記の箇所で、ヨセフは7年の大豊作と7年の大飢饉を予告するファラオの夢を解きました。エジプト中の魔術師や賢者たちが、夢を解けなかったからです。しかし、ある注解者は興味深い解釈をしています。エジプトの魔術師や賢者たちは、夢が意味することはすぐに分かった。しかし、もし夢を解いて、その通り実現しなかったら、その責任を取らなくてはいけない。どんな罰が待ち受けているか分からない。だから魔術師たちは、あえてファラオの前で夢を解こうとしなかったのだ。彼らはリスクを冒すより、保身を選んだと言うのです。
 それに対して、ヨセフにとって夢解きは、神のなさることでした。神が夢で語られた以上、ヨセフは語らないわけにはいきませんでした。ヨセフは今日の箇所でファラオから「ツァファナト・パネア」という新しいエジプトの名前をもらいますが、それは「神は語り、彼は生きる」という意味でした。異教の王からもらったエジプト名ですが、この名前はヨセフの生き方をよく表しています。ヨセフにとっては、神が何をお語りになるかが最も重要でした。彼は神の御言葉を示され、その御言葉に生きるのが彼の人生でした。そんな彼には、自分の利害を考えたり、保身を図ることよりも、神の御言葉に生きることの方が重要だったのです。
 「神は語り、彼は生きる」。神に促されるように、ヨセフは夢を解きました。それだけではなく、豊作の後に来る7年の大飢饉にどう備えたらよいか、具体的な対応策をも進言しました。大豊作の7年に収穫の5分の1ずつを毎年備蓄し、大飢饉になればそれを民に有料で提供する。そうすればエジプトの国は、大飢饉にも耐えることができると進言したのです。この提案はファラオと家来たちを大いに感心させました。この人には神の霊が宿っているに違いないと、ファラオは確信しました。そのため、ファラオはヨセフを王に次ぐ第二の位につけました。今日で言う総理大臣の地位です。その地位にふさわしいあらゆるものが、ヨセフに与えられました。それは、エジプトの統治者であることを示す指輪、亜麻布の衣服、金の首飾り、王の第二の車、そして祭司ポティ・フェラの娘であるアセナトという妻でした。そして彼は、エジプトの総理大臣として大飢饉に備えるという一大国家プロジェクトを指揮することになるのです。
 私たちはここを読むときどうでしょう。ファラオの夢を解いたことによって、ヨセフが信じられないような成功を収めたと、思うかもしれません。エジプト人ではないヘブライ人、かつては獄につながれていた男が、エジプトの総理大臣にまで上り詰める。確かにこれはシンデレラ物語のような展開です。しかし、これはヨセフが願っていたことでも、予想していたことでもなかったでしょう。彼は侍従長の獄から出られることと、何らかの見返りが与えられることは願っていたかもしれません。彼の願いはもっと身近でささやかなものであったでしょう。しかし彼は、自らがエジプトの総理大臣に任命されて、大飢饉に備えるという一大国家プロジェクトを任されてしまいました。彼に与えられたものの華々しさに目を奪われてしまう私たちは、彼が負わされた責任の重さ、事業の困難さに、改めて目を向けなければなりません。大豊作の続くエジプトで、各地に備蓄倉庫を建設し、収穫物の5分の一を強制的に備蓄させたのですから、当時はどんなに逆風が吹いたことでしょう。「異国人の成り上がり者がとんでもないことをしている」と陰口を叩かれたでしょう。神から示されたこことは言え、ヨセフの感じるプレッシャーは、相当なものであったに違いありません。しかし「神は語り、彼は生きる」。神の御言葉に生きたヨセフは、神さまから託された使命としてその務めを黙々と担っていきました。そのことによって、エジプトの民だけではなく、周辺諸国の人々をも飢饉の苦しみから救うことになるのです。
 「神は語り、彼は生きる」。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」これは私たち信仰者の生き方です。そして神の御言葉は、私たちが自分の小さな幸せに留まっていることを、お許しにはなりません。神さまは「わたしたちの足を、広きところに立たせよう」となさるのです。神さまは私たちが見るべき世界、生きるべき世界を広げ、広い視野をもって生きていくように促すのです。私たち人間はたかだか百年にも満たない、限りある人生を生きています。そんな私たちがまず願うのは、ささやかな自分の幸せです。穏やかに大過なく、この人生が過ぎていけば良いと思います。私は今日還暦を迎えましたが、「もう年だし、あんまり無理をしても仕方がない」と自分に言い聞かせてしまう時があります。小さくまとまってしまおうとするのです。
 しかし「神は語り、彼は生きる」。神さまは、イエス・キリストを通して、私たちに語りかけます。神さまがこの世界をどのようにご覧になっているか。神さまがこの世界をどのようになさりたいかという御心を知らされます。御言葉は、自分の小さな幸せだけを守ろうとする私たちの視野を広げ、神さまがなそうとされているご自身の御業へと、私たちを促します。そしてヨセフがそうであったように私たちもまた、予想もしなかった神の大いなるご計画の一端を担うよう、一人一人が招かれているのです。神さまは、私たちが幾つになっても、あるいはどのような状況に置かれていても、期待なさっておられます。神さまの御心を受け止め、自分だけの幸せから一歩踏み出す者となることを、願っておられるのです。
 この度のコロナ禍は、人間の自然開発と都市化、世界のグローバル化がもたらしたものだと言われます。そして私たちに、様々な未来への課題を提示してくれました。それは私たちの生きる世界がいかに壊れやすく、この世界がいかに密接につながっているかということです。そして、私たちが自分の安全と幸せを願っても、手を携えて力を合わせて生きなければ、私たちや後の世代の未来はないということです。私たちは、それぞれの置かれた所で、たとえそれがささやかであっても、そのために寄与することが求められているのです。神さまはこのコロナ禍のような経験を通しても、私たちの見るべき視野を押し広げてくださったとは言えないでしょうか。「神は語り、彼は生きる」。私たちは御言葉に深く聞く者、そして御言葉に生かされ生きる者でありたいと思います。お祈りをしましょう。 2020年6月21日
 
 
6月14日礼拝説教
2020-06-22
6月14日(日)  
 説教題 「天に向かう旅人の群」   藤田浩喜
                      

 ヘブライ人への手紙121424節    

 NHKのBS放送で「聖なる巡礼路を行く~カミーノ・デ・サンティアゴ1500㎞」という番組を見ました。キリスト教の聖地スペインのサンティアゴ・コンポステーラを、フランスから徒歩で目指す巡礼の旅です。今ブームと言えるほど多くの人たちが参加しています。巡礼の旅に出る人たちは様々です。大病をし、これまでの働き詰めの人生に疑問を感じて参加した男性、夫に全財産を持ち逃げされて心を病み、藁にもすがる思いで参加した女性、巡礼することを人生の目的として7回以上歩き通した男性などが登場します。彼らは、思い思いのペースで巡礼路を歩き、声を掛け合います。一緒に歩くこともありますが、一人で歩くこともあります。巡礼者用の宿で一緒になると、食事と会話を楽しむこともあります。そのように巡礼仲間と、接点を持ったり離れたりしながら、色々なことを感じつつ、目的地であるサンティアゴ・コンポステーラを目指すのです。

 私はこの番組を見ながら、教会に集う兄弟姉妹としているのも、神の御国を目指しての巡礼の旅ではないかと、あらためて思わされました。私たちは神の御国を目的地として歩んでいます。その歩みはその人自身が歩まなければならず、だれかが代わるわけにはいきません。しかし、私たちは孤独であるわけではありません。同じ目的地を目指して歩んでいる多くの信仰の友がいます。お互いが関りや接点を持ちながら、それぞれの歩みを進めていきます。声を掛け合い、時には励ましの言葉を掛け、時には叱咤激励の言葉を受けながら、目的地を目指します。

 そのように、私たちの信仰生活を御国を目指す巡礼の旅と考えるなら、今日の聖書で語られていることもよく分かるのではないかと思います。14節でこう言われます。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」御国を目指しての巡礼は、順位を競う競争ではありません。この巡礼路から他の道に行ってしまわないことが大切です。そして、皆が励まし合ってだれも脱落することなく、目的地に着くことが重要なのです。このためにまず必要なのは、「すべての人との平和」です。巡礼で歩く道を平らにして、だれもが歩きやすくすることです。躓きや障害となるものを置かないことです。教会に集う兄弟姉妹が、主イエスの示された愛と慈しみを示し合うことで、この巡礼路は平らになり、歩きやすくなります。お互いに思いやりをもって歩んでいくことが大切なのです。

 しかし、この巡礼路を他の道に逸れることなく進んで行くのは、簡単ではありません。15節ではこう言われています。「神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないように、気をつけなさい。」実際、ヘブライ人への手紙を受け取った当時の教会は、ローマ帝国による迫害や圧迫の脅威を感じていました。そういう危険を冒すよりも、別な道を歩いて行ったほうが、よほど楽ではないかと考える誘惑は大きかったのです。また、15節の「苦い根が現れる」とは、ヤハウェなる神以外の偶像を拝む、人間の罪が表現されています。人には弱いところがあり、人生の目的が神以外の他のところに見つかるのではないか、と思ってしまうのです。御国を目指す巡礼の旅ではなく、別の道に自分の求める幸せがあるように思ってしまうのです。神さま以外のものを追い求めてしまうのです。そのような弱さは、誰にとっても他人事ではありません。だからこそ、信仰者は14節が教えていたように「聖なる生活を追い求め」なくてはならないのです。「聖なる」とは、「別にされた」「離れた」「違った」という意味を持つ言葉です。信仰者は、主の日ごと礼拝を守るために教会に集まって来ます。それぞれの日常生活から離れて、主の日を取り分けて、礼拝をささげます。こうした「聖別された」、世とは「違う」礼拝生活を大事にしているからこそ、キリスト者は巡礼の道から外れることなく、共に歩んでいくことができるのです。

 さて、今日の箇所の1824節には、シナイ山とシオンの山が対照的なものとして出てきます。シナイ山はホレブ山とも言い、旧約聖書においてモーセが神から律法を授けられた場所です。神がモーセに顕現された場所です。それに対してシオンの山は、生ける神の都、天のエルサレムと並んで出てきます。これはイエス・キリストの受肉と救いの業によって実現した、父なる神と新しい神の民との交わりの場所です。旧約聖書において神に近づいたり、御声を聞くことは、命の危険を感じるほど恐ろしいことでした。モーセすら「わたしはおびえ、震えている」と言ったといいます。神は限りなく聖なるお方であり、罪に満ちたちっぽけな人間など、滅びる他はないと思われていたのです。へブライ人への手紙を読んだ人々も、少し前までこの旧約の信仰に立っていた人たちでした。それゆえ、御国という目的地に至ることに、素直に喜べない恐れのようなものを抱いていたのではないでしょうか。限りなく聖なる神と見えることへの緊張と不安が、御国への巡礼を続けることに、ためらいを生じさせていたのかもしれません。私たちはどうでしょう。御国に着いたは良いが、御国の門は自分に対して開かれるだろうか、ひょっとしたら最後に失格者になってしまうのではないか。そんな不安が心のどこかにあるかも知れません。そう感じるほど、神は聖の聖なるお方なのです。

 しかし、御子イエス・キリストによって、景色は一変したのです。天と地ほどの隔たりのあった神と私たち人間は、イエス・キリストの十字架と復活によって、その隔たりを埋められたのです。イエス・キリストのゆえに、神は私たちの父となってくださいました。そして、放蕩息子の物語の父親がそうであったように、罪に迷い出た私たちが御許に帰って来るのを、今か今かと待っていてくださるのです。そして、天の父は私たちのために、喜びの宴を催して下さり、そこには無数の天使たちの喜び歌う声が、響き渡っているのです。私たちは、そのような御国、生ける神の都、天のエルサレムの情景を思い浮かべながら、今しばらくの巡礼の旅を続けていくのです。ご一緒に歩んでいきましょう。お祈りをいたします。(2020年6月14日)

 

 
6月7日礼拝説教
2020-06-15
6月7日(日)  
 説教題 「鍛えられる私たち」   藤田浩喜
                       

 ヘブライ人への手紙12章4~13節

 

 新型コロナウィルス感染症の影響で、多くのキリスト教会が以前と同じような教会活動をできていません。主日礼拝、愛餐会などの交わり、外に向けての伝道や奉仕も、ほとんどできていません。果たしてこれで教会と言えるのだろうかという問いを、多くの教会が持っているのではないでしょうか。

 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。キリスト教会が生まれた誕生日だと言われます。この記念すべき日に、ペンテコステの出来事を振り返りたいと思います。それによって「教会とはいったい何なのか?」ということを、あらためてご一緒に確認したいと思うのです。

 ペンテコステは主の復活から50日目に、聖霊が降った出来事です。エルサレムのとある場所で、ペトロを初めとする弟子たちが120人ほど祈っていました。主イエスが約束されたものが与えられるのを、彼らは祈りつつ待っていました。その弟子たちに聖霊が与えられたのが、ペンテコステだったのです。聖霊とは、神からイエス・キリストに与えられたものであり、キリストの内に豊かに働いていたものでした。キリストは聖霊を受けられて、神の国の福音を語り、力ある業をなされたのです。イエス・キリストを信じるキリスト者には、この聖霊が注がれます。聖霊はイエス・キリストの霊でもあります。そのため、キリストは教会と共におられるだけではなく、教会の内側にいて働いてくださるのです。そこにキリストのからだなる教会のさいわいがあるのです。

 ペンテコステの日に聖霊が降りましたが、使徒言行録2章はその出来事を大変ドラマチックに報告しています。「炎のような舌が…一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(34節)。これは急に外国語をしゃべり出したということに強調点があるのではありません。彼らが今まで語ったことのない、イエス・キリストの福音を語ったということに強調点があります。実際、ペンテコステの後、三度主イエスを否んだペトロが、主イエスの福音を堂々と証しします。聖霊が降ることによって、恐れ、身を隠していた弟子たちが、主イエスの福音を証しする者に変えられたのです。また、弟子たちの言葉を聞いていた人々は、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(6節)とあります。ここでも人々が自分の国の言葉を聞いた、ということに強調点があるのではありません。11節を見ますと、色んな地方から七週の祭にやって来た人たちはこう言って驚きます。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」ここでは、その場にいた色んな地方の出身者たちが、神の偉大な業を知らされたと驚いています。もちろん全部の人ではありませんでしたが、多くの人たちが神の偉大な救いの業を聞いて、受け入れる者に変えられた。聖霊が降ることによって、御言葉を聞いて信じる者が起こされたのです。

 使徒言行録は、昔から「聖霊行伝」と呼ばれることがありました。初代教会やそこでのリーダーたちのことが語られていますが、主役は教会やリーダーたちではなく、聖霊です。キリスト教会は聖霊の働きに押し出され、導かれて、地上での宣教の業を続けていきます。主役はあくまでも聖霊です。その聖霊が成し遂げる神の偉大な業を目撃し、証ししていくのがキリスト教会なのです。使徒言行録を読むと分かりますように、臆病で弱々しい弟子たちを力強い福音の証し人としてくださるのは聖霊です。また、頑なで疑い深い人々を福音を受け入れる者に変えてくださるのも聖霊です。もし、私たちの力だけで宣教をしなければならないなら、どんなに心細いことでしょう。しかし、そうではなく聖霊が、教会の宣教を導き、推し進めてくださるのです。そして、このような聖霊による御業は、どのような状況に見舞われても途絶えることはありません。この世界には、新型コロナウィルス感染症のような大きな混乱が起こります。しかし聖霊の御業は、そのような混乱や試練をも乗り越えて、進んで行くのです。

 ところで、今日の旧約の箇所は創世記11章を読みました。皆さんもよくご存じの「バベルの塔」の物語です。「高い塔を神さまのおられる天にまで届かせよう」とした人間の物語です。それをご覧になっていた神は、人間の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまいます。これは世界にどうして多くの違う言語があるかを説明する、原因譚物語だとも言われます。しかし高い塔を天にまで届かせよう、それによって有名になろうというのは、人間のおごり、高ぶりです。それは人間が自分を神の位置に置こうとすることであり、果てしない自己中心主義です。歴史が教えているのは、人間の神格化や自己中心主義こそが、人間社会に差別の構造を生み出し、癒しがたい分断をもたらしたということではないでしょうか。神が言葉を混乱させ、人々を散らされたというよりも、人間は自らのおごり、高ぶりによって、共存できなくなったのです。

 しかし、今日の使徒言行録2章のペンテコステの出来事は、創世記11章のバベルの塔の悲劇を回復する物語として読まれます。私たち人間は、言語の違い以上に、心が通い合わず、分断されています。人間の神格化、自己中心主義は、この世界をさらに危機的な状況に陥れようとしています。しかし、神の聖霊は今もこの世界に注がれ、分断された私たちの世界に連帯と共存を生み出すために働いているのです。コロナ禍は人間の文明化やグローバル化がもたらしたものだと言われます。これからも感染症との絶えざる闘いは続くでしょう。そうした状況下で、世界が対立ではなく連帯することが、人類の生き残る道であることを痛感させられます。私たちは連帯へと促してくださる聖霊に、祈る者となりましょう。 2020年6月7日)

 
5月31日説教
2020-06-08
5月31日(日) ペンテコステ礼拝 
 説教題 「連帯へと押し出す聖霊」   藤田浩喜
                       

 使徒言行録2章1~13節

 

 新型コロナウィルス感染症の影響で、多くのキリスト教会が以前と同じような教会活動をできていません。主日礼拝、愛餐会などの交わり、外に向けての伝道や奉仕も、ほとんどできていません。果たしてこれで教会と言えるのだろうかという問いを、多くの教会が持っているのではないでしょうか。

 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。キリスト教会が生まれた誕生日だと言われます。この記念すべき日に、ペンテコステの出来事を振り返りたいと思います。それによって「教会とはいったい何なのか?」ということを、あらためてご一緒に確認したいと思うのです。

 ペンテコステは主の復活から50日目に、聖霊が降った出来事です。エルサレムのとある場所で、ペトロを初めとする弟子たちが120人ほど祈っていました。主イエスが約束されたものが与えられるのを、彼らは祈りつつ待っていました。その弟子たちに聖霊が与えられたのが、ペンテコステだったのです。聖霊とは、神からイエス・キリストに与えられたものであり、キリストの内に豊かに働いていたものでした。キリストは聖霊を受けられて、神の国の福音を語り、力ある業をなされたのです。イエス・キリストを信じるキリスト者には、この聖霊が注がれます。聖霊はイエス・キリストの霊でもあります。そのため、キリストは教会と共におられるだけではなく、教会の内側にいて働いてくださるのです。そこにキリストのからだなる教会のさいわいがあるのです。

 ペンテコステの日に聖霊が降りましたが、使徒言行録2章はその出来事を大変ドラマチックに報告しています。「炎のような舌が…一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(34節)。これは急に外国語をしゃべり出したということに強調点があるのではありません。彼らが今まで語ったことのない、イエス・キリストの福音を語ったということに強調点があります。実際、ペンテコステの後、三度主イエスを否んだペトロが、主イエスの福音を堂々と証しします。聖霊が降ることによって、恐れ、身を隠していた弟子たちが、主イエスの福音を証しする者に変えられたのです。また、弟子たちの言葉を聞いていた人々は、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(6節)とあります。ここでも人々が自分の国の言葉を聞いた、ということに強調点があるのではありません。11節を見ますと、色んな地方から七週の祭にやって来た人たちはこう言って驚きます。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」ここでは、その場にいた色んな地方の出身者たちが、神の偉大な業を知らされたと驚いています。もちろん全部の人ではありませんでしたが、多くの人たちが神の偉大な救いの業を聞いて、受け入れる者に変えられた。聖霊が降ることによって、御言葉を聞いて信じる者が起こされたのです。

 使徒言行録は、昔から「聖霊行伝」と呼ばれることがありました。初代教会やそこでのリーダーたちのことが語られていますが、主役は教会やリーダーたちではなく、聖霊です。キリスト教会は聖霊の働きに押し出され、導かれて、地上での宣教の業を続けていきます。主役はあくまでも聖霊です。その聖霊が成し遂げる神の偉大な業を目撃し、証ししていくのがキリスト教会なのです。使徒言行録を読むと分かりますように、臆病で弱々しい弟子たちを力強い福音の証し人としてくださるのは聖霊です。また、頑なで疑い深い人々を福音を受け入れる者に変えてくださるのも聖霊です。もし、私たちの力だけで宣教をしなければならないなら、どんなに心細いことでしょう。しかし、そうではなく聖霊が、教会の宣教を導き、推し進めてくださるのです。そして、このような聖霊による御業は、どのような状況に見舞われても途絶えることはありません。この世界には、新型コロナウィルス感染症のような大きな混乱が起こります。しかし聖霊の御業は、そのような混乱や試練をも乗り越えて、進んで行くのです。

 ところで、今日の旧約の箇所は創世記11章を読みました。皆さんもよくご存じの「バベルの塔」の物語です。「高い塔を神さまのおられる天にまで届かせよう」とした人間の物語です。それをご覧になっていた神は、人間の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまいます。これは世界にどうして多くの違う言語があるかを説明する、原因譚物語だとも言われます。しかし高い塔を天にまで届かせよう、それによって有名になろうというのは、人間のおごり、高ぶりです。それは人間が自分を神の位置に置こうとすることであり、果てしない自己中心主義です。歴史が教えているのは、人間の神格化や自己中心主義こそが、人間社会に差別の構造を生み出し、癒しがたい分断をもたらしたということではないでしょうか。神が言葉を混乱させ、人々を散らされたというよりも、人間は自らのおごり、高ぶりによって、共存できなくなったのです。

 しかし、今日の使徒言行録2章のペンテコステの出来事は、創世記11章のバベルの塔の悲劇を回復する物語として読まれます。私たち人間は、言語の違い以上に、心が通い合わず、分断されています。人間の神格化、自己中心主義は、この世界をさらに危機的な状況に陥れようとしています。しかし、神の聖霊は今もこの世界に注がれ、分断された私たちの世界に連帯と共存を生み出すために働いているのです。コロナ禍は人間の文明化やグローバル化がもたらしたものだと言われます。これからも感染症との絶えざる闘いは続くでしょう。そうした状況下で、世界が対立ではなく連帯することが、人類の生き残る道であることを痛感させられます。私たちは連帯へと促してくださる聖霊に、祈る者となりましょう。 2020年5月31日)

 
5月24日説教
2020-06-01
5月24日(日) 礼拝説教題 「すべての人にわが霊を注ぐ」 
                      藤田浩喜

 ヨエル書3章1~5節

 

 次週5月31日(日)はペンテコステ(聖霊降臨日)ですが、その日に弟子のペトロのした説教の中に、今日のヨエル書3章の御言葉が出てきます。ペトロは、ペンテコステが旧約の預言の成就であることを示そうとして、このヨエル書3章を引用しました。しかし、預言者ヨエルの時代の人々、すなわち紀元前400年頃の人々は、この3章の預言をどのように聞いたのでしょう。
 今日のヨエル書3章は大変有名ですが、その前の2章18節~3章5節までをひとかたまりとして読む人もいます。そこでヨエルは何を語っているかと言うと、主なる神が「いなごの大軍」をイスラエルから追いやる。そして、いなごによって損害を受けた幾年もの作物を償うだけの実りを与える、と神が約束されているのです。古代のパレスチナにおいては、空が暗くなるほどのいなごの大群が押し寄せ、作物を食べ尽くしてしまうという被害があったようです。被害は壊滅的でした。そのような自然災害を終わらせ、何年もの被害を償うだけの実りを、神は約束されているのです。また、ここで言われている「いなごの大軍」は、ペルシャ帝国の軍事的な侵略を示している、と読む人もいます。ペルシャ軍の進軍によって、イスラエルの支配は、バビロニアからペルシャに移りました。そのペルシャの大軍が、あるとき神によって一挙に滅ぼされるという約束が、ここには語られているのです。ここに約束されていることは、イスラエルの歴史において、これほど劇的ではありませんが、実現していくことになります。「いなごの大軍」が作物を食べ尽くしても、神が統べ治めたもう大地は、やがて豊かな実りをもたらしました。大帝国を築いたペルシャも、紀元前4世紀後半、アレキサンドロス大王の遠征によって衰退の一途をたどることになります。
 預言者ヨエルは、そうしたイスラエル民族が経験した出来事を、単なる自然現象だとか歴史の偶然とは考えません。そうではなく、18節にあるように、神は「御自分の国を強く愛し、その民を深く憐れまれた」からこそ、イスラエルを助け回復されるのだ、というのです。そして、その出来事を通して、神はイスラエルに何を求めておられるのか。26節以下に、それは記されています。「主の御名がほめたたえられる」こと、イスラエルのうちに神はおられるのであり、この神なる主以外に他に神がないことを、イスラエルが悟るためだというのです。
神の民は、被造世界に生かされ、歴史の中を歩んで行きます。それは旧約の神の民も新約の神の民である教会も変わりません。そして神の民は、自然の大きな動きの中に、歴史のうねりの中に、主なる神が私たちに向けてくださっている愛と憐れみを聞き取っていくのです。自然の大きな脈動や歴史の奔流の中に、神が立っておられ、確かに私たちを導いてくださっていることを、知らされていく。神の民として生きるとはそういうことだと、預言者ヨエルは言うのです。それは21世紀の科学的知見を無視せよと言うのでも、歴史上起こることを短絡的に神に結びつけよ、ということでもありません。アウグスティヌスという古代教父は、神の国は地上の国の歴史と並び立って、進んで行くと言いました。この世界の歴史の中に、神の御心と摂理が大きなスケールで働いていることを、見逃さない。その結果、この地上の歴史に絶望したり、没交渉になったりしない。歴史に責任的に関わっていく。そこに、神の民の本領が発揮されるのではないでしょうか。
 さて、今日のヨエル書3章1~2節は、「神の霊の降臨」ということが語られています。「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」旧約聖書において、神の霊は、特別な使命を帯びた人々に与えられました。エフタやサムソンなどの士師たち、サムエルやエレミヤなどの預言者たち、サウルやダビデのような王たちに、神の霊は臨みました。神の霊、聖霊が注がれることは、神との直接的な関係に入れられることであり、神の特別な力を与えられるということでした。その聖霊が、男女や世代、社会的な身分とは全く無関係に、すべての人に注がれる。それは旧約の時代においては、あり得ないことでした。ヨエルの預言を聞いた人は、これは夢物語であり、決して実現するようなことではないと、思ったに違いありません。第一、神の霊はヘブル語で「ルーアッハ」と言い、激しい風という意味を持っています。風は思いのままに吹くのであり、人間が全くコントロールできないものなのです。
 しかし、皆さんもご承知のように、このヨエルの預言は400年余りの時を経て、成就することになります。主イエスはエルサレムの都に集まって祈っていた弟子たちに向かって、「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いていた、父の約束されたものを待ちなさい。…あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を受けるからである」(使徒1:4~5)と言われました。そして、その約束された聖霊は、五旬祭の日(ペンテコステの日)に、信じるすべての者に注がれることになるのです。ご自身の民への深い愛と憐みのゆえに、父なる神は御子イエス・キリストをこの世に遣わされました。そして、イエス・キリストは十字架の死を遂げられ、三日目に復活し、父なる神の御許に高挙されました。この救いの出来事によって、主イエスが仲保者となってくださり、主を信じるすべての者に、神の霊が注がれているのです。主イエスは使徒言行録1章8節で、次のようにも言われていました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」「御子であるを私を通して、神はあなたがたのただ中におられる。」「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)。私たちは聖霊に押し出され、イエス・キリストの証人として、この世に遣わされていくのです。お祈りをいたしましょう。(2020年5月24日)
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