本文へ移動

説教要旨

4月21日説教要旨

2024年4月21日主日礼拝説教『涙を喜びへつなぐ祝福』(説教要旨)
牧師 三輪恵愛
聖書:ネヘミヤ記第8章9-12節(旧750p) 
   ルカによる福音書第6章20-26節(112p)

1.幸いと不幸。どちらも示しながら弟子たちに自己の顧みを促す
平らな土地のうえに十二使徒とともに立ったイエスさまは教えを語り始めます。それは「あなたたちは祝福されている!」という宣言から始まるものでした。貧しい人々、飢えている々、泣いている人々、憎まれているもの、四つの人々へ向けられています。次に富んでいる人々、満腹している人々、笑っている人々、褒められている人々には、あなたがたは不幸だと告げられます。幸いと不幸、どちらの生き方が良いか?耳にしたものは、自分自身がどちらなのか顧みたことでしょう。

2. 祝福はどこからくるのか、そのまなざしはどこへと注がれているのか
「幸いである」は「あなたがたは祝福されている」とも訳されます。祝福はどこから来ますか?礼拝では多くの祝福の言葉が告げられます。式の終わりには必ず牧師が祝福と派遣の言葉を告げます。祝福は「神さまはあなたのことを心から喜ばしく思っている」という神さまからのこの上ない好意です。愛が込められています。守るということも、大事だということも、かけがえのない存在だという真心も込められています。イエスさまは、神さまの眼差しは貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々、憎まれている人々にこそ注がれているとはっきり言われるのです。

3. 祝福されて共にひとつとなって生きるとき、涙は喜びへとかえられていく貧しさと富、飢えと満腹、涙と笑い、憎しみと誉れの間に明白な線を引くことが出来るのでしょうか?線を引いたとして、わたしたちはどちらにいるのでしょうか?わたしたちにははっきりとは線をひけません。ただ立つべき場所を決めることは出来ます。それは「人の子」つまりイエス・キリストを主と仰ぎ、崇める礼拝を捧げる者としての信仰を告白する立場です。キリストをのみ礼拝する生き方に生きる時、自分たちが本来は、何も持たない貧しさにいること、飢えているこ、泣いていること、憎まれていることをきづかされます。それは神を仰いで平地に立つ」こと、世界の人々と同じ目線に立ち地平を見渡すとき、そこに貧しさ、飢え、涙、憎しみがあるならば、それはわたしたちの生きる同じ地平だからです。祝福してくださる神さまを仰ぐとき、わたしたちはあらゆる不幸としか思えない境遇の人々と共に生きていることを気づかされます。だからこそ、わたしたちは祝福されているのです!礼拝は、あらゆる境遇に生きるものを神さまのもとに一つとしていきま。人間の真実の貧しさ、飢え、涙、憎しみを知る時、わたしたちは共に涙します。けれどもその瞬間、神さまは「わたしにすべてを頼って生きるあなたがたは幸いだ」と祝福し、共に生きる大きな喜びへと、その涙をかえてくださるのです。「悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」と遠き日に礼拝を導いた牧者の祝福は、今もわたしたちの教会に響いているのです。



4月14日説教要旨

2024年4月14日主日礼拝説教『いのちの約束のために』(説教要旨)牧師 三輪恵愛
聖書:エゼキエル書第33章10-15節(旧1350p) ルカによる福音書第6章12-19節(新112p)

1. 夜を徹して祈ってくださる、わたしたちの祈りの師、イエス・キリスト
教会に生きるわたしたちは良く祈ります。「祈りの法は信仰の法(Lex orandi, lexcredendi)」という古くから大事にされている格言の通り、祈りに信仰が現れます。ですから祈りについてわたしたちは時に波立つ思いもします。「祈れない、祈りの時間がない、祈りの言葉が貧しい」と痛感し、自分の信仰に心許ない感覚も抱くこともあります。そのようなわたしたちの祈りの師となってくださるのが、主イエス・キリストです。このお方がよく祈られたので、わたしたちは祈ると言えます。ルカは福音書に特にイエスさまの祈る御姿を示します。今日の箇所ではイエスさまは夜を徹して祈ります。後にゲッセマネでも祈られますが、それも夜通しの祈りだったでしょう。夜を徹して祈り続ける御姿を主はわたしたちにお示しになるのです。

2. イエス・キリストの祈りに頼るから、「主の御名によって」祈るわたしたち
そこでわたしたちは主の姿に倣い、夜を徹するとは言わないまでも懸命に、たゆまず祈ることを学ぶ熱心さも求めることでしょう。それも大切なことです。けれども懸命に祈ることでわたしどもの信仰の全ては完成するのでしょうか。「よし、今宵は夜を徹して祈るぞ」と意気込み、成功すれば「強い信仰」、失敗すれば「弱い信仰」となるのでしょうか。わたしたちはむしろここで見るべきは主イエスが夜を徹して祈るほどに祈ってくださるからこそ、その祈りに頼る信仰を与えられていると信じてよいのではないかと思うのです。わたしたちはわたしたちの言葉と境遇において、主イエスの名によって祈ることが許されている。その深い感謝をもって、夜を徹して祈られる主の御姿に支えられながら、祈るものとされているのです。

3. わたしたちの生活の現場「平らなところ」に十二使徒と共に立つ主イエス
共に読んだエゼキエル書は、神が悪を行っていたものがそこから立ち帰り、正義と恵みに御業を行うものとなるなら「死んではならない、生きよ」と言い、赦してくださると伝えます。主が夜を徹して祈られたこととは、この預言の通り、すべての人の救いです。祈られた後に、十二人の使徒を選びました。選ばれた十二人とは何か能力に秀でた人々ではありません。裏切り者のユダすら含まれる不完全な人々です。けれども祈られたことの成就のために十二人と共に平地に立ちます。そこは世の中と隔絶したところではなく、苦しみがあり、悩みがあり、呻きを抱えて生きる日々の生活の場です。主はそこに十二人と共に立ち、ご自分の祈りが御心に適うことを証しされるのです。わたしたちの教会も、夜を徹して祈ってくださる主に選ばれた群れです。キリストが罪の滅びの死を取り除いてくださったことの証し人として、現代の使徒として、主と共に平地に立ち、祈りに生きていきます。
そこでよみがえりの主は教えを語られ、わたしどものあらゆる病を癒してくださるのです。

4月7日説教要旨

2024年4月7日主日礼拝説教
『安息する日、輝く日』(説教要旨)牧師 三輪恵愛
聖書:イザヤ書第58章6-14節(旧31p) ルカによる福音書第6章1-11節(新9p)

1. 安息日の守り方について、弟子たちとイエスさまは違反を見咎められる
第6章にはいり、二つの安息日を巡る論争が連続して起きています。はじめは弟子たちが旅路のさなか、安息日に麦の穂から実を食べたこと。あとが安息日にイエスさまが右手の萎えた人を癒されたことです。この二つのことをファリサイ派や律
法学者の人々は「律法に背いている」と見咎めました。麦の穂をもんで食べる、ここに「収穫」と「脱穀」が含まれていて、安息日に禁じられている労働に当たるのです。癒しも、治癒行為ですから労働です。律法は、安息日を徹底して守るように
伝えていました。それは主ご自身が休まれ、神の民も同じように休むようにとお定めになったからです。どちらも安息日の規定に明白に違反しているものでした。

2. 見咎める人々の心のうちに深い罪を見出し、敢然と立ち向かわれるイエスさま
イエスさまは見咎める人々に対して敢然と言われます。「人の子は安息日の主である」。そして「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と。麦畑で麦の穂を摘んだ弟子たちが、今にも飢え死にしそうだったというわけではなかったでしょう。ちょっと我慢して次の宿場で食事をしても良かったのです。手の萎えた人も、今日、癒されなければ死ぬほどの重病ではなかったのです。それでも安息日違反を見咎める人々に対して、敢然と立ち向かわれるイエスさまには、強い、激しい意志を感じます。まるで見咎めるところに、深い罪を見出したかのように。そうです。イエスさまは安息日違反を見咎める人々の心のうちにこそ、今すぐに神の御前に悔い改めを迫らなければならない深い罪の根源を見出したのです。それは、自分自身の敬虔さを追い求めるあまりに、自分と他者の区別の溝が深くなり、窮乏への共感を忘れてしまった罪です。

3. 隣人を自分のように愛する愛を、主イエスの命に満たされながら輝かせよう!
安息日は主の御前に赦しを得る時、憩う時、祝福されて、日々の生活に押し出される時です。安息日を大事にすることを主は喜ばれます。けれども同時に主は、わたしたちに窮乏への共感を忘れないようにと求めます。「あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば「わたしはここにいる」と言われる。飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出であなたを包む闇は、真昼のようになる(イザヤ52:9-10)」。わたしたちも主イエスに従う弟子ならば、心の中にある真実の飢えに目を向けてみましょう。隣人との間に溝があり、窮乏への共感を忘れているならば、そこにわたしたちの飢えはあるのです。わたしたちも窮乏しているのです。他者に共感し、自分のように愛する愛に。ダビデが共のものにパンを裂き渡したように、主イエスはご自分の身体を裂き、共に歩む者を絶えず満たしてくださいます。真実の安息を誰とでも分かち合う光となるために。

3月31日説教要旨

2024年3月31日イースター礼拝説教
『さあ!新しい命へ』(説教要旨)牧師 三輪恵愛
聖書:詩編第51編9-15節(旧 p.885) ルカによる福音書第5章33-39節(新 p.111)

1. 「断食は悔い改めのしるしではないのか?」となじる人々に向けて、主は・・・
徴税人レビがイエスさまのお招きを受けて弟子となりました。盛大の宴会をもうけ、徴税人の仲間たちを招き、喜びを表します。この様子を見ていた人々が「あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています(33節)」と疑問の声をあげます。何が疑わしかったのでしょう?比べられている、洗礼者ヨハネやファリサイ派の人々は、週に定まった日数、断食をし、罪の嘆きと悔い改めの心を示しました。神さまへの立ち返りを、食を絶つことによって証明したのです。その様子とはずいぶんと違うことを人々はイエスさまに問い質したかったのでした。

2. 罪の悔い改めと、救い主のイエスさまが共にいる喜びは、同じ時に起こる
「罪を悔い改める」とは、子供っぽい言い方かもしれませんが、神さまに「ごめんなさい、申し訳ございません。わたしは悪いことをしました」と心から認めることです。自分が悪いことをしたことが分かったから悔い改められるのです。「ごめんなさい、申し訳ございません」と謝っているのに飲み食いをして楽しんでいたら、それは心と行いがちぐはぐではないのか、とこの人々は疑問を持つのです。確かに神さまに罪を認めて謝る、というほどですから、飲み食いに明け暮れているようでは反省の色が見えない、という言い方も成り立つのでしょう。でもレビがイエスさまの弟子となり、盛大な宴会を開いて徴税人たちを招いた時、イエスさまは飲み食いを咎めるどころか、弟子たちと一緒にその宴会に加わります。イエスさまはレビがそれほどに弟子になった喜びを表しておられることを、ご自分も喜んでおられるのです。イエスさまと共にいる、という大きな喜びは、自分の罪を嘆き、悔い改める思いと、同じ時において成り立つことなのです。

3. 主の復活は、どのような罪も主と弟子たちを引き裂けない確かな証しとなった
受難節を歩んできました。今年も自分自身の内に如何とも従い罪のしがらみを見出し、衝撃を受けた人もいるかもしれません。罪性の自覚はいつ与えられるかわからないのです。そうなれば喜んでなどいられません。「飲み食いなどとんでもない」と主張する人々の思いもわかるのです。でもイエスさまは「わたしが一緒にいることを喜びなさい!」と言われるのです。イエスさまの姿を見失うことが多いからです。十字架のうえにイエスさまが奪われていったとき、弟子たちはしばしの救い主の不在の恐怖を味わいました。罪の極まりである死が間を引き裂いたのです。ところが主は復活し、いかなる罪も主と弟子たちの間を引き裂くことが出来なくしてくださったのです。主はよみがえられました!罪を深く悲しむ「断食」のような思いを抱えるからこそ、すでにイエス・キリストがお与えくださった新しい命に生きていることを、盛大な宴会の大きな喜びのなかで、わたしたちは確信するのです。

3月24日説教要旨

2024年3月24日棕櫚の主日礼拝説教
『あなたも立ち上がれる』(説教要旨)牧師 三輪恵愛
聖書:ホセア書第6章1-6節(旧1409p) ルカによる福音書第5章27-32節(新111p)

1. 主に招かれて、立ち上がったレビは、すべてを棄てて盛大な宴会を開く
自分の地位や特権を利用して利益を貪る人に、世間の風当たりは強烈です。同じ社会に生きる人にそのようなことをされれば誰しも憤懣を抱くでしょう。徴税人レビには毎日、嫌悪の視線が突き刺さっていました。イエスさまはそのようなレビをお仲間に加えたのです。レビは「すべてを棄てて」立ち上がり、盛大な宴会を開きます。税を取り過ぎた人、貧しい人に施すことはしません。けれどもレビには徴税人であったからこその、その罪深さと、これに嘆く仲間たちの心の苦しみを知っていました。自分がイエスさまに招かれて、すべてをすてて立ち上がれたからこそ、仲間にも同じ体験をしてほしいと思い、そのために宴会を開いたのです。

2. 他者を愛することの出来ない罪は病気。病気は医者に治してもらうもの。
律法学者たちやファリサイ派の人々は弟子たちを問い詰めます。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」。イエスさまは「わたしは罪人を悔い改めさせるために来た」とお応えになりますが、これに先立ち「医者は病人のためにいる」とことわざをひかれます。罪は病だというのです。レビたち徴税人の罪はなんでしたか?自分たちの生きる算段のために、他者から利益となるものを巻き上げる生業に現れています。人を顧みない罪です。これを当然と思い開き直って生きる罪です。他者を愛せない罪です。他者を愛せない罪、これは病なのです。自力では治せません。イエスさまに御声をかけていただき、治してもらうよりほかないのです。けれども主の御声は聞くものを治し、立ち上がらせます。

3. イエスさまは「盛大な宴会」の真ん中に入られ、他者を愛する命を与えた
レビは全財産を徴税人仲間のための宴会に捧げます。同じ罪の痛みを抱える仲間たちと、イエスさまを引き合わせるために用いることから始めるのです。イエスさまは罪人の真っただ中の宴会に招かれることを喜ばれます。受難週の始まり、棕櫚の主日を迎えました。イエスさまが子ろばに乗って、エルサレムに入られます。時は盛大な過越し祭の最中でした。愛のために生きられた主に、憎しみのまなざしが向けられていきます。そして十字架の上に挙げられ、屠られます。盛大な宴会の真ん中で屠られる小羊のように。けれどもこの愛の犠牲を目の当たりにして、一人、また一人と立ち上がるものが現れました。「わたしに従いなさい」と御声を聴いたからです。彼らは、愛の犠牲として生きる生き方へと立ち上がらせる、神の御声に応える人々です。この人々から、同じ罪に苦しむ仲間たちをイエスさまに引き合わせていく「赦された罪人の宴会」は始まりました。今も、わたしたちは御声を聴いて立ち上がった罪人として「盛大な宴会」、主の食卓を広げ、ここに仲間たちを招きます。そのためにイエスさまは御声を聞かせて、立ち上がらせてくださったのです。

3月17日説教要旨

2024年3月17日主日礼拝説教『 癒され、そして赦されて』(説教要旨)牧師 三輪恵愛
聖書:エレミヤ書第33章3-9節(旧1240p) ルカによる福音書第5章12-26節(新110p)

1. 二つの癒しの奇跡の間に横たわる、同じことと、違うこと。
今日の箇所では先に重い皮膚病の人が癒されます。次に中風の人が癒されます。
重い病に苦しむ人をイエスさまが癒されるという点では同じことが起きています。
けれどもその同じ癒しの御業の周辺では、異なることがいくつか見受けられます。
重い皮膚病の人は独りで近づき、自分で癒しを願いました。イエスさまは癒しますが内密にさせて、祭司による共同体復帰の宣言を重んじられました。一方で中風の人は自分では癒しを願えず、友人たちが代わりに願います。これを見て、イエスさまは御自分が罪の赦しを宣言されます。そのあとに癒されます。そしてこの一部始終を見ていた群衆は皆、神を賛美し、恐れる人々になっていきます。

2. 病の癒しと罪の赦しを求める世の声の高まりは、キリストに押し寄せる
重い皮膚病の人の癒しのところでイエスさまはメシアの秘匿性を重んじていますし、律法の遵守を重んじられます。それは御自分がメシアであることが世に露わにされる時を慎重に待たれていたのではないでしょうか。天の御父に忠実であればこそ、軽々に「イエスはメシアだ」と言い広められることは望まれなかったのです。けれども重い皮膚病が癒されたことで「うわさは広まり」大勢の群衆が集まってきます。言い広めたのが本人か祭司かはわかりません。いずれにしてももはやキリストへの願いと求めは、人々のうちに留められるものではなくなっていました。キリストのもとに癒しと赦しを求めて人々は殺到していくこととなったのです。

3. 御父に祈り、決断し、イエスさまはキリストであることを明らかにされる
この二つの癒しの間、イエスさまは人里離れたところで祈られます。この祈りがあったからこそ中風の人の癒しでは罪の赦しを宣言されたのではないでしょうか。
「あなたの罪は赦された」この宣言は反対者たちの心に「イエスがキリストである」ことへの反感を起こしました。罪の赦しにはこれに見合う犠牲が求められるからです。そこへ癒しの御業をもなさって、神の子であることも群衆の目の前で露わにされました。中風の人は神を賛美し、共同体に戻っていきます。神と人とのいずれとの関係性を回復させられていきます。キリストは祈り、御父の御心に従い、天の国はここにあるとはっきりとお示しになります。その奇跡の源には、世の求めに応じるキリストの祈りと決意があったのです。罪の赦しの代償は、十字架に御身を捧げられるまでとどめ置かれました。十字架にあげられ息を引き取られたとき、傍らの百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」と告白をし、神を讃美する人となりました。キリストが御身をささげて罪の赦しを宣言するとき、神と人との交わりが絶たれる心の病は癒され、神を讃美する人が生み出されていきます。二つの癒しの業は、はるか十字架に続くキリストの道に光が射しこむ出来事だったのです。

3月10日説教要旨

2024年3月10日主日礼拝説教
『それでも私は網を打つ』(説教要旨)
牧師 三輪恵愛
聖書:詩編第37編1-6節(旧868p) ルカによる福音書第5章1-11節(新109p)

1. 「わたしから離れてください!」ペトロは自分の罪深さに気づきひれ伏す
大勢の群衆が神の言葉を聴ききたくてガリラヤ湖畔に押し寄せてきました。そこでイエスさまはペトロに舟を出させます。湖水に響き渡る福音を一番近くで聞いていたのはペトロでした。そのあとペトロに「沖に出て漁をしなさい」と命じます。
昼間は漁をするには向いていない時間帯なのに、網を打ったところ舟が沈むほどの大漁になりました。そこでペトロは叫びます。「わたしから離れてください。罪深いものなのです」。 イエスさまが神の言葉を語るだけではなく、神の御力をもって事を起こされる方だとペトロは恐れのなかで思い知ったのです。そして自分自身が罪深いものだと、その恐れのなかで痛感したのでした。

2. 「お言葉ですから・・・」それでもペトロは罪深さのなかで網を打つ
はじめ漁師たちは、神の言葉に耳をそばだてる群衆を無視して網の手入れをしていました。その晩は不漁でした。夜通し何度も網を打った疲れを抱え、労力と時間の無駄に打ちひしがれていたのでしょう。神の言葉なんて自分たちには関係ないと思えたのです。「時間と体力に余裕があれば神の言葉とやらでも聞こうかね」自分の力に任せて人生を切り開こうとすると、こんな思いで心がいっぱいになります。
そして折角の神の国への招きを聞き逃すのです。けれどもペトロは罪深さのなかで「しかし、お言葉ですから、(わたしペトロは)網を降ろしてみましょう」。イエスさまは、この一言を語らせるために、ご自分の足元にペトロを招きました。それはもちろん群衆に聴かせるためでもあったけれど、日々の労苦に打ちひしがれ、心の余裕を失っているペトロにこそ語り伝えるためでした。ひれ伏すペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」主にすべてを信頼し、人の心を捉える福音を伝えて生きる、ペトロの生涯が決まった瞬間でした。

3. 人と人とが魂を捉え合う、新しい出会いへと主は招く
私たちも日頃、様々な形で多くの出会いを経験しています。一つの偶然の出会いが、その人の人生を大きく転換させることも起こります。そして新しい出会いは、すでに知り合っている人との間でも起きるのです。ペトロはイエスさまとの出会いを受けとめて、「お言葉ですから」と決断する信仰に生まれ変わりました。しかも三度「イエスなんか知らない」と裏切った後ですら、イエスさまはよみがえってまた訪ね、さらにペトロを信頼する者へ新しくしたのです!この日、漁師たちはすべてを後に置いて、福音を伝える初めの群れとなりました。それはもう自分の利益のために生きる群れではありません。神の国を伝える福音の群れです。イエスさまの言葉は、何度でも諦めずにみ言葉の網を打つ「福音の漁師」を創ったのです。

2024年3月3日説教要旨

2024年3月3日主日礼拝説教『福音よ、広がってゆけ』
(説教要旨)
牧師 三輪恵愛
聖書:イザヤ書第43章8-13節(旧1131p) ルカによる福音書第4章38-44節(新109p)

1. カファルナウムにとどまってほしいと懇願する人々にイエスさまは・・・
安息日に会堂で礼拝をささげられた後、イエスさまはシモン・ペトロの家を訪ねます。ところが姑が熱を出して寝込んでいました。イエスさまはこの熱を叱りつけ姑を癒します。それだけでなく、村中の病者を抱えて苦労をしている人々が集まりますが、イエスさまはその病者たちも御癒しになります。朝になって離れた場所にお一人で行かれたのは、夜通し、癒された後のことだったでしょう。そこでカファルナウムの人々はイエスさまに「離れないでください!」と願い、引き留めます。

2. 悪霊は本当に正しくメシア(キリスト)のことを言い当てているのか?
けれども「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ(43節)」と仰います。救い主キリストとはこのようなお方なのです。ところで病者から出ていく悪霊たちは「お前は神の子だ」とわめきながらもイエスさまのことを言い当てていました。会堂で追い出された悪霊も「正体は分かっている。神の聖者だ(34節)」と叫んでいました。悪霊たちが言うことは間違っていません。でもキリストを信じて言っているのでしょうか?いいえ、人に災いをもたらす存在がキリストを言い当てているとは言えません。そこでイエスさまは悪霊たちには「戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった」のです。

3. ペトロの姑が「もてなす」姿で示す、キリストの福音を広げる働き
イエスさまは救いを信じないままでキリストを告白することをお許しにはなりません。聖霊によらなければ、 だれも『イエスは主である』とは言えないのです(第一コリント12:3)。聖霊はイエス・キリストに心の底から「救われた!」と信じるとき大いに注がれます。注がれている聖霊の力を素直に受け入れる、と言ったほうがよいかもしれません。癒された姑は起き上がり、もてなしはじめます。床のうえで熱にうなされて夜を明かし、礼拝にも行けなかったこの人にとって、枕元にイエスさまが立ち、熱を叱って追い出してくださったその声がなんと力強く響いたことでしょうか。「このお方こそ、やっぱりわたしの救い主だ!」と信じる思いをいっぱいに台所に立ったはずです。ここに、神の言葉によってキリストを証しする人に新しくされていく人の姿があります。主のみ言葉には聖霊の働きが満ちていて、わたしたちの根底から新しい生き方へ向きなおらせる力がみなぎっているのです。
「わたしの証人はあなたたちわたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる(イザヤ43:10)」。イエス・キリストはわたしたちのそれぞれの生活の場所を訪れ、愛をもって癒し、立ち上がる力を与え、ご自分の証人としてくださいます。わたしたちをどこまでも広がっていく福音の波に乗せ、共に礼拝するわたしたちを一つにし、世界へ遣わしてくださるのです。

3月26日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一10章23~33節 2023年3月26日(日)礼拝説教
「すべてを神の栄光のために」   牧師 藤田 浩喜
◎キリスト者は自由です。しかしその自由を用いることが、他の人のつまずきになる危険性があるなら、その行為を控える必要があります。それゆえパウロは、他人の良心のゆえに、偶像に献げた肉を、ある場合は食べてはいけないと命じました。そのことが今日の28~29節前半で語られていました。
 とすれば、「わたしの自由は奪われることになるのか」、「わたしは本当は自由ではないのではないか」という疑問が生じても不思議ではありません。それに対してパウロは29節後半から30節でこう言っています。
 「どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。」ここでパウロは、他の人の良心に配慮したとしても、それで自分の自由が左右されることはない、と言います。また、たとえ偶像の神殿から卸された肉であっても、感謝して食べていることについて人から悪口を言われるいわれはない、と言います。パウロはキリスト者の自由が、他の人の良心の支配下に置かれることを認めません。
 しかしその自由は、勝手気ままや放縦を意味するのではありません。ギリシアの知識人たちが、知識を誇り、勝手気ままに振舞っていた、そういう自由ではありません。むしろキリスト者の自由は、愛と共に、感謝と共に働くのであって、他者の良心に配慮することと対立するものではないのです。自由な者こそ、愛と感謝に生きることができる。それが、聖書が教えるキリスト者の自由なのです。
◎さて、パウロはこの段落の結論として最後に三つの命令をしています。第一の命令が31節です。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」
 この命令こそ、キリスト者の行動の基本原則と言ってよいでしょう。「神の栄光を現すため」とは、「神のすばらしさが現されるため」、「人々が真の神をあがめるようになるため」ということです。ここでは、人間中心の視点から神中心の視点への転換が求められています。人間中心とは、つまり自己中心ということです。神とは無関係に、自分のために生き、自分のために行動することです。
 それに対して神中心というのは、自分の存在をいつも神との関係で理解することです。自分はいったい何のために造られたのか。また自分はいったい何のためにイエス・キリス卜の救いにあずかったのか。それは決して、自分勝手な生き方をするためではありません。自分の思いを第一にして生きるためではありません。私たちは神の栄光のために造られたのであり、また神に仕えるために救われました。いつもその根源にさかのぼって考えます。そして神の御心を問います。それが神中心ということです。
 そして、「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても」とあるように、神の栄光を現すというのは、何か大きなこと、偉大なこと、人から評価されるようなことをするということではありません。「食べる、飲む」といったまさに単純で、日常的なことで神の栄光を現すことができるのです。私たちは日常の生活を次元の低いことと考えてはなりません。ルーティーンに思えるような生活こそが大切なのであり、そこで神の栄光を現すことができるのです。
 そして、日常生活ということは、つまり全生活ということです。宗教改革者カルヴァンはこう述べています。「コリント人たちにしてみれば、このようなささいな事柄においては、……こまごまと気をつかう必要はあるまいと思われるかもしれなかった。そう思わせないために、パウロは、どんなささいな事柄であろうと、わたしたちの全生活において神の栄光に関係のない事柄はないと教える。そして、わたしたちは、食べるにも飲むにも、神の栄光を進めるように努力しなければならない、と説く」(『カルヴァン 新約聖書註解Ⅷ コリント前書』247頁)
 全生活で神の栄光を現しなさいとは、もちろん全生活を細々とチェックし直しなさいということではありません。むしろ問われているのは、どういう方向を向いて生きているのかということです。自己中心の視点で生きているのか、それとも神中心の視点で生きているのか。本当に神に従いたいと心から願い、そのために生活を整えたいと思っているのかということです。どこを向いて生きているのか、私たちの目指す方向こそが何より大事なのです。
◎第二の命令は32節です。「ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。」第二の命令は「人を惑わす原因にならない」ことです。「神の栄光を現す」とは、消極的に言うならば「人を惑わす原因にならない」ということです。
 パウロはここで「ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも」と言っていますが、それぞれにとって惑わす原因は違います。ユダヤ人を惑わす原因とならないために取るべき態度があり、ギリシア人を惑わす原因とならないために取るべき態度がありました。ユダヤ人に対しては、キリスト者の自由をいたずらにひけらかせば、それが惑わす原因になる危険がありました。一方、ギリシア人に対しては、彼らはとにかく自由に生きていましたから、自由が制約されると感じることが惑わす原因となる可能性がありました。さらに、神の教会の人たちも、違った理由でつまずさを覚えることがありました。
 そうした難しい状況を踏まえて、だれに対しても惑わす原因にならないことが基本的態度でなければならない、とパウロは言います。そのためには、霊的な知恵が必要なのは言うまでもありません。また、他者がどう感じるかという繊細な心配りが必要なのです。自己中心的な考えや行動は避けなくてはなりません。
 そして、この「人を惑わす原因にならない」を積極的に言い直しているのが、33節の御言葉です。「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。」 「人を惑わす原因にならない」というのは、積極的に言えば「多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうと努める」ということです。
しかし、これは決していたずらに相手の機嫌を取って喜ばせるということではありません。パウロが言う「多くの人々の利益」とは、真の意味での利益です。利益とは、神との関係における利益です。相手が神にある利益を受けることです。その神による利益、究極の利益が「救い」であることは言うまでもありません。
 ですからパウロは、「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしている」と語ります。パウロの、他者に対する態度の究極の目的は、はっきりしていました。それは「彼らが救われること」です。「人々が救われるため」、相手の救いのためになる態度を、彼は選び取ろうとしたのです。
 ですからパウロは、人を惑わす原因にならないよう懸命に心を配りました。しかし、どんな場合でもつまずきを避けるべきだというわけではありません。キリストのゆえのつまずき、福音のゆえのつまずきは避けられませんし、避けてはなりません。けれども、自分の頑なさやプライドといったものが、人を惑わすつまずきの原因になってはならないのです。
◎第三の命令が11章1節です。今日は読んでいただきませんでしたが、この節は明らかにそれまでの10章とつながっています。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者でありなさい。」
 第一と第二の命令でパウロが命じた態度は、何をするにも神の栄光を現すこと、また、だれに対しても惑わす原因とならず、真の利益のために、すなわち人々の救いのために生きるということでした。
 これはまさにキリストの姿であると言えます。パウロの命じたことの完全な姿こそ、キリストの姿でした。そしてパウロは、そのキリストに倣う者でした。それゆえ彼は続けて、「わたしに倣う者でありなさい」と命じるのです。パウロに倣うことを通して、キリストに倣うのです。
 では、倣うべきキリストの姿とはどのようなものなのでしょうか。キリストに倣うというのは、キリストのように優しい人になるとか、キリストのようにやさしい言葉を語るとか、そういうことなのでしょうか。そうではありません。
 倣うべきキリストの姿とは、何より十字架に向かって歩まれたキリストの姿です。十字架に向かうキリストの従順の姿です。フィリピの信徒へ手紙2章で、パウロはそのキリストのへりくだりと従順にこそ、倣わなければならないと述べました。それゆえキリストに倣うとは、キリストの苦難を共にし、キリストに従う道を選び取ることなのです。レントの時を過ごしている私たちは、とりわけキリストの歩まれた苦難と十字架の道に心を集中したいと思います。
 それにしてもパウロはなぜ、「キリストに倣う者になれ」と言わずに、あえて「わたしに倣う者となりなさい」と言ったのでしょうか。この命令には、パウロの傲慢さが隠されているのでしょうか。そうではありません。
 私たちは、キリスト者としての現実の生き方をどうやって学ぶのでしょうか。私たちはだれしも、他者の模範を通して、現実の生活の中でキリスト者がいかに振舞うかを学ぶのです。ですからパウロは、自分自身をモデルとして提供しました。キリストに倣う生き方のモデル、キリストに倣う生活のモデルです。
 私たちは、使徒パウロのようには生きられない、彼のようにはとてもなれないと考えます。そう言うのは簡単です。しかしそれで終わりにすることはできません。なぜなら、現実には私たち自身が、必ずだれかの信仰のモデルになっているからです。キリスト教の信仰生活とはこういうものか、と思われるモデルになっています。親は確実に子どもの信仰生活のモデルになっています。家族の中だけでなく、教会の中でも、また未信者に対しても、キリスト者は何らかのモデルとなっています。信仰の影響は、知識や理屈で受けるのではありません。やはり生活によって受けるのです。他の信仰者をモデルとして、それに倣うことによって自らの信仰生活を形づくるのです。
 そうであるなら、私たちもまた良いモデルとなることを目指すのは当然でしょう。ここには大きなチャレンジがあります。私たちはどんな信仰者としてのモデルを、他者に提供するのでしょうか。キリストに倣うというその点においてのみ、私たちもまた、キリスト者の生活をふさわしく指し示すモデルとされるのです。

3月19日礼拝説教

出エジプト記34章1~10節 2023年3月19日(日)主日礼拝説教
「恵みによる出直し」  牧師  藤田 浩喜
◎毎月第3主日は旧約から御言葉を聞いています。今日も出エジプト記から御言葉を聞いていきます。前回は出エジプト記33章でした。
 その前の32章において、イスラエルの民は、モーセがシナイ山からなかなか下りて来ないので、自分たちで金の子牛の像を造り、これを神とすることにしました。まことの神様から十戒をもらって契約を結んでから、まだ40日しか経っていないのにです。神様はこのことを知り、当然怒(いか)ります。モーセは直ちに山から下り、人々が子牛の像を囲んで踊っているのを見ると、神様からいただいたばかりの契約の石の板二枚を投げつけ、砕いてしまいました。そしてモーセは、レビの子らに三千人もの人々を殺させました。
 その後、モーセはイスラエルの民を赦していただけるよう、神様に執り成しをします。それが33章でした。
 モーセは、二枚の石の板を持って、再びシナイ山に登っていきます。改めて神様に契約を刻んでいただくためです。これが今日の34章です。ここにイスラエルは、神様の赦しに与り、再び神の民として出直すことになりました。
◎神の民は、神様に赦され、神様の恵みを受けて出直すということを知っています。それは神の民に埋め込まれたDNAのように、すべての神の民に受け継がれています。神の民は、一回の失敗や過ちですべてが終わってしまうとは思いません。甘いと言われようとも、自分たちの歩みというものは、悔い改めて出直すことができると信じています。なぜなら、神様御自身がそれを私たちに求めておられるからです。そして、神の民の歴史がその神様の御心をはっきりと示しているからです。
 その具体的な例はいくらでも挙げることができます。例えば、士師記において、「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった」(士師記2章11節ほか)と繰り返し記されます。何度も何度も繰り返し記されます。しかし、その度に、「イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた」(士師記3章9節ほか)のです。この救助者が士師です。オトニエル、エフド、デボラとバラク、ギデオン、トラ、エフタ、サムソンといった士師が起こされ、イスラエルの民はこの士師と共に出直しました。何度も何度も出直したのです。
 また、ダビデは、ウリヤの妻バトシェバとの間に罪を犯しました。預言者ナタンにそのことを指摘されたダビデは、「わたしは主に罪を犯した」(サムエル記下12章13節)と悔いると、ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる」と告げるのです。神様はダビデをイスラエルの王の位から退けはしなかったのです。やり直させるのです。出直しをさせるのです。
 新約のペトロだってそうです。三回主イエスを知らないと言ってしまい、裏切ったにもかかわらず、再び弟子として召し出し、復活の証人として立て、使徒ペトロとして遣わすのです。
 パウロだってそうです。キリスト者を迫害していたパウロを、異邦人伝道の使徒として召し出したのです。
 あるいは、パウロやバルナバと一緒に伝道に行ったマルコは、その途中で帰ってしまいます。もう伝道者としては使い物にならないとパウロは思ったのでしょう。次の伝道旅行には、マルコを連れて行かないことにしました。しかし、バルナバはマルコを連れて行くのです。それでパウロとバルナバは別々に伝道することになりました。しかし、そのマルコがマルコによる福音書を書くことになるのです。神の民の歴史は、神様の憐れみによるやり直しの歴史なのです。
◎皆、一度や二度、いや三度や四度の失敗はするのです。五度も六度も道から外れてしまうことだってあるのです。しかし、再び神様の御許に立ち帰るならば、神様は赦してくださり、再出発の道を備えてくださいます。神様はそういうお方なのです。
 6~7節「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す』」とあります。このように自ら宣言されるとおりのお方です。実に神様は、御自身のことを「憐れみ深く恵みに富む神」と言われます。そういうお方であるがゆえに、私たちのために、私たちに代わって十字架にお架けになるために、愛する独り子を私たちにお与えくださったのです。さらに、「忍耐強く、慈しみとまことに満ち」ていると言うのです。忍耐強いお方であり、慈しみとまことに満ちたお方ですから、何度も何度も裏切ってしまうイスラエルでも決して見捨てないのです。イスラエルだけではありません。私たちも、何度も何度も立ち帰り、赦していただいている。
 神様がそのようなお方だから、御子イエスも、ペトロに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問われた時、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と教えられたのです(マタイによる福音書18章21~22節)。この7の70倍というのは、7の70倍である490回赦したら、491回目には赦さなくてもよいという意味ではありません。聖書では、7という数字は完全数と呼ばれます。それの70倍というのですから、何回でも、どこまでも、最後まで、完全に、赦しなさいということです。主イエスが、そのように弟子たちに教えておきながら御自分はそのようになさらないということは考えられないでしょう。主イエスはそうしてくださいますし、主イエスがこのように言われたのは、父なる神様がそのようなお方だからなのです。
 もちろん、神様は罰すべき者を罰せずにはおかれません。「父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」なのです。しかし、一方で、「幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」と言われるのです。罰するのは三代、四代。赦すのは幾千代。明らかに赦す方に力点があります。それが私たちの神様なのです。ですから、十戒をいただいて神様と契約を結んだ時も、わずか40日後に決して赦されないような金の子牛の像を神とするという罪を犯したのに、それでもなお神の民イスラエルは出直すことができたのです。神の民はその最初から出直す民だったし、私たちの神様は憐れみをもって出直しさせてくださるお方なのです。私たちは、神様が赦してくださる限り、何度でも何度でも出直すのです。それが神の民です。
◎先ほど読んでいただいたヘブライ人への手紙3章15節に、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」とあります。神の声を聞いたなら、そこで自分の過ちをはっきり示されたなら、心をかたくなにすることなく、赦しを求め、神様に立ち帰らなければなりません。私たちは、神様の声、神様の促しに対しては、素直でなければなりません。そうでないと、出直すことができなくなってしまうからです。
 この時、神様がモーセに対して御名を宣言されると、モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して言ったのです。9節「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」モーセは、イスラエルの民の赦しを求めることを躊躇しません。ストレートです。神様が自ら「憐れみ深く恵みに富む神」と言われたなら、すかさず「わたしたちの罪と過ちを赦してください」と神様に赦しを求めます。神様もこのタイミングで言われたら、赦すしかありません。御自分のことを「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」と言った直後ですから、赦さないなんて言えません。実にモーセは賢いです。何よりも、御声を聞いたなら心を頑なにしないのです。赦しを求めるのです。このモーセの執り成しは、主イエスの執り成しを指し示しています。主イエスもまた、天において、父なる神様の右において、私たちのために今も執り成してくださっています。だから、私たちは神様に赦され、出直し、やり直すことができるのです。
 私たちが過ちを犯すのは、個人の単位でばかりではありません。教会という単位において過ちを犯すこともあります。十字軍などはどう見ても間違いでしょう。だったら、それを認めて、神様に赦しを求めて、新しくやり直したらよいのです。神の民は、キリストの教会は、過ちを犯さない。そんなことは全くありません。教会も罪を犯し、道を誤るのです。しかし、それで終わりではありません。やり直せるのです。何度も、何度もです。
◎神様は言われます。10節「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である。あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。わたしがあなたと共にあって行うことは恐るべきものである。」これがやり直しをすることを許された神の民に対してなされた神様の約束です。この「驚くべき業」「全地のいかなる民もいまだかつてなされたことのない業」「恐るべきもの」が何なのか。多分、神様がイスラエルの民の前から多くの民を退けることを意味しているのでしょう。しかし、それだけではないと思います。イスラエルの民が変えられる、大きく変えられる、そう受け取っても間違いではなかろうと思います。刑務所に入ろうと、あるいは病院に入ろうと、出直すことができる。やり直すことができる。それが私たち神の民に与えられている、希望に満ちた神様の約束なのです。
 今、日本の教会は高齢化が進み、厳しい状態にあります。大会や中会の会議に行きますと、いつもその話です。確かに献金も少なくなり、援助を受ける教会も増えています。これからどうなるのか、どうすればよいのか、色々話し合われます。しかし、神の民であり、キリストの体である教会がお金で建ったことは無く、お金が無くて潰れたこともありません。教会はただ信仰によって建つのです。ただ、神様の御業によって立つのです。神の民の出発の時からそうでしたし、今もそうです。私たちは神の民なのですから、神様のなさる驚くべき御業を見る者として召し出され、立てられているのです。私たちが頑張って、何とかして教会を維持しましょうということではないのではないかと思うのです。神様から私たちに求められていることは、今日、神様の御声を聞いたなら心を頑なにしないこと、悔い改めて神様の御言葉を信じること、神様のなされる御業にのみ期待して歩むことです。神様はどのような驚く御業を私たちのためになしてくださるのか、そのことを信じて期待することです。
◎モーセは、石に再び契約を刻んでもらうためにシナイ山に登りました。最初の石の板を砕いてしまったからです。神様が石に刻んだ契約。神様が神の民と結んだ契約を石に刻んだのは、この契約は未来永劫変わらないということを示すためでしょう。石に刻まれた文字は消えることがないからです。ところが、その契約の石さえも作り直してくださるというのです。これが神様の御心です。短気ですぐに諦めてしまう、もうダメだと思ってしまう私たちに対して、神様は十戒を刻んだ石を新しくしてまでも、ここに生き直せと神の民を招かれるのです。
その神様が与えてくださった、御子イエス・キリストの十字架。これによって与えられる罪の赦しの契約。これは、何度も何度でもやり直し、出直しするように私たちを促すのです。私たちは、神の子・神の僕として歩むようにと、先週の主の日の礼拝から一週の歩みへと送り出されました。しかし、祈ること少なく、神様の栄光ではなくて自分の栄光を求め、愛の労苦に仕えること少ない私たちでありました。それでも尚、主の日にここに集い、共に「わたしの子、わたしの僕として生きよ。新しく生きよ。」そう神様に促される私たちです。確かに、喉元過ぎれば熱さを忘れるような私たちです。同じような過ちを何度も繰り返してしまう私たちです。しかし、それでもやり直したいのです。出直したいのです。神様はそのような私たちを憐れみ、聖霊を注ぎ、新しい歩みを始めるための力と勇気を与えてくださいます。この聖霊のお導きの中で、健やかに、勇気を持ってやり直し、出直しして、この一週も御国に向かっての歩みをなしてまいりたいと思うのです。

3月12日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 10章14~22節 2023年3月12日(日)礼拝説教
「キリストのからだにあずかる」  牧師 藤田浩喜
◎10章でパウロは、旧約聖書にあるイスラエルの歴史、とりわけ出エジプトの民の歩みを取り上げてきました。それは、新約の神の民が、そこから警告を受け取る必要があるからです。出エジプトの民は偶像礼拝に陥って、主なる神の怒りを招きました。また、偶像礼拝に結びついていた不品行に陥りました。そのために、出エジプトの民の大半は、荒れ野で滅ぼされることになったのです。
 この事例を受けて、14節でパウロは言います。「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」「こういうわけですから」は、イスラエルが滅んだ恐ろしい前例を受けています。彼らは、エジプトでそして葦の海で、神の力強い御業を見、また体験した人たちでした。シナイ山で契約を結び、神の民として歩む誓いを立てた人たちでした。しかしその大半は、荒れ野で滅びることになりました。その大きな原因が偶像礼拝でした。ですからパウロは改めて、「偶像礼拝を避けなさい」と命じます。
 「偶像礼拝を避けなさい」。「避けなさい」という言葉は、「逃げなさい」と訳すこともできます。これは性的不品行についてのパウロの忠告と同じで、不品行や偶像礼拝からはとにかく逃げなさい、と命じるのです。
 性的不品行や偶像礼拝は、取り組むべきものではありません。むしろ、近づかない種類のものです。戦いなさい、攻撃しなさいと命じられているのではありません。逃げなさい、逃れなさいと命じられています。
 パウロは13節で、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をもそなえていてくださいます」と語り、キリスト者が試練の時に与えられる、神の助けを保証しました。しかしこれは決して、だから誘惑に対して無防備になってもよいということではありません。誘惑に対して不注意であっても大丈夫ということではありません。彼らがしなければならないことは、とにかく誘惑から逃げることです。性的不品行と偶像礼拝については、できるだけ逃げることが求められているのです。
◎しかしパウロは、彼の判断をただ頭ごなしに押しつけているのではありません。15節でこう言っています。「わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。」
 パウロは自分で考え、自分で判断するように求めました。パウロが命じていることを、ただ鵜呑みにするのではなく、それをしっかり考えて、納得するように求めています。コリントの信徒たち自身の判断力を呼び起こそうとしています。
 信仰生活にとって、自分で考えて判断するのは、本当に大切なことです。信仰はある意味で、自分で考え納得して歩んでいくものです。考えることを停止し、言われたとおりになることが、真の信仰生活ではありません。
 思考を停止させることを、心理学等を使って意図的に行っているのがカルト宗教です。そして考えることのない、言いなりの人格を作ろうとします。それが恐ろしい、そして許されざる人格破壊であることは言うまでもありません。
 しかし真の宗教はそうではありません。パウロがここで求めたように、信仰者は自分でしっかり考えて、判断できるようになることが大切です。教会はそのための教育を行うのです。自分で判断できる人を育てるのが、教会に託されている教育の使命です。
◎こうして、自分で判断することを命じたパウロですが、判断基準として、いくつかのことが取り上げられます。第一が、16節、17節にある主の晩餐、聖餐式です。第二が、18節に記されている旧約聖書にあるイスラエルの犠牲の儀式です。先に18節から見ておきます。「肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが備えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。」
 「肉によるイスラエルの人々」とは、旧約聖書の神の民、ヤコブの子孫であるイスラエルの民のことです。そして旧約聖書には、律法によって、犠牲を献げる儀式のことが定められていました。供え物の種類にもよりますが、祭司は犠牲の肉を食べることができ、また、献げた人の家族も共に食事にあずかることができました。そしてこれは、単なる食事ではありません。パウロが18節で、「供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか」と述べているように、この食事によって、祭壇の交わりにあずかる者となりました。この食事は、「祭壇の神」と「民」との契約のしるしでした。その供え物を食べる者は、祭壇の交わりにあずかる者となります。つまり、その祭壇の神との交わりに入り、その祭壇の神による霊的な恵みにあずかるのです。
 さらに、この祭壇の前での食事は、新約の聖餐式にもつながりをもちます。つまり、イスラエルの民が供え物を食べることによって祭壇の交わりにあずかる者となり、祭壇の神の恵みが確証されたように、キリスト者はパンとぶどう酒にあずかることによって、キリストの体と血にあずかり、キリストにある恵みが確証されるのです。旧約聖書にある祭壇の前での食事は、これほどの大きな意味をもっていました。それは単なる食事とは言えません。
 一方、偶像の神の前での食事はどうなのでしょうか。それは単なる食事であって、偶像の神とは何の関係もないと言うことができるでしょうか。パウロは20節以下でそのことを問いかけ、自分で判断するように求めています。コリント教会のある者たちは、憚ることなく偶像礼拝者の集まりに出かけて行き、偶像のために催された儀式に参加して、食事にもあずかっていました。それが許されることなのか、正しいことなのか、自分で判断せよとパウロは言うのです。
◎もう一つの判断基準が、主の晩餐、聖餐式です。パウロは主の晩餐を判断基準にして考えることを求めています。16節にはこうあります。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」
 パウロは、主の晩餐が私たちにもたらすことを二つあげています。第一のことが16節に記されています。すなわち、聖餐式は、キリストの血にあずかること、またキリストの体にあずかることであるということです。
 キリストの血にあずかるとは、キリストに結びつくことであり、キリストが自分のうちに生き、自分がキリストのうちに生きることです。私たちの罪のために死んでくださったキリストの贖いの死にあずかり、私たちのために復活されたその新しいいのちに生きることです。キリストのいのちに生きる者とされる。キリストによる新しい契約の祝福と効果にあずかる者とされるということです。
 聖餐式のパンとぶどう酒にあずかることは、決して単なる象徴的行為ではありません。それは「キリストの血にあずかり」、「キリストの体にあずかる」という、現実的な恵みにあずかる行為です。キリストとの結びつきが保証され、キリストにある贖いの恵みが確証されることです。聖餐式を通して私たちは、キリストに結びつく者となり、キリストによる救いがいよいよ確かなものとされます。
 このように、聖餐式が私たちにもたらす第一のことが、「キリストとの交わり」です。そしてもう一つのことが、17節に記されています。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」
 ここでパウロは、聖餐式で一つのパンが裂かれて与えられることに関心を向けています。パンは一つで、一つのパンを共にいただく。それは皆が一つの体であることを示します。どんなに多くいるキリスト者も、実は一つの体なのです。そしてその体とは、キリストの体にほかなりません。パウロが12章27節で、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と述べているように、キリスト者は多くいても一つの体なのであり、キリスト者はそのキリストの体の部分です。
 私たちの教会の聖餐式では、一つのパンが裂かれるわけではありません。小さな教会ならば、それも可能かもしれません。神学者によっては、一つのパンにもっとこだわるべきだという意見もあります。ただ皆様に覚えておいていただきたいのは、本来、聖餐式の中で必ずパンが裂かれるということです。これは、一つのものが裂かれることを象徴しています。そして一つのものが裂かれて、分け与えられていることを覚えていただきたいと思います。つまり、そこでまさに、一つであるキリストの体が裂かれて、それぞれがそれにあずかるのです。すなわち、キリストの体の一体性の中に入れられるのです。聖餐式はこのように、キリストの体にあずかることによって一つになる礼典です。聖餐式は、キリスト者の一致、教会の一致の基礎なのです。
 教会の一致はいったい何によってもたらされるのでしょうか。教会では、一致のための様々な工夫がなされるでしょう。また信仰告白の一致も重要です。しかしより具体的には、私たちは聖餐に共にあずかることによって一つになるのです。聖餐式は、教会共同体に本当の意味での一致をもたらします。それゆえ、聖餐にあずかる者は、この一致を妨げることから自らを遠ざけねばなりません。とりわけ偶像礼拝から遠く離れる必要があります。しかし、避けることだけが大切ではありません。避けるだけでなく、この主イエス・キリストが備えてくださった恵みにしっかりと心を向けて、熱心にこれにあずかることが大切なのです。
 「偶像礼拝を避けなさい」とパウロは命じましたが、偶像というのは目に見えるものだけではありません。人の心をとらえ、従わせる「この世」のものは、すべて偶像になり得ます。そのような偶像礼拝に陥らないための唯一の手段は、真の神を深く知り、その神を礼拝し、その恵みに生かされていくことです。
 主が備えてくださった恵みの手段は、御言葉と聖礼典と祈りです。それらが集約しているのが、主の日の礼拝です。ですから礼拝こそが、私たちにとって最大の恵みの時です。そして礼拝への熱心な参与こそが、あらゆる意味での偶像礼拝から私たちを守るのです。
主イエスは、この誘惑の多い世の中にあって、恵みのうちに生きるために必要なすべてのものを備えていてくださるお方です。主の日の礼拝を第一にし、聖礼典にあずかり、御言葉と祈りに生きる者を、主はしっかりと守り、祝福してくださいます。それが主の約束なのです。

3月5日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 10章6~13節  2023年3月5日(日)礼拝説教
 「耐えられない試練はない」  牧師  藤田 浩喜
◎旧約の神の民であるイスラエルは、新約の神の民である私たちと同じように大きな恵みを受けていました。しかしそれにもかかわらず、5節に記されているように、「彼らの大部分は神の御心に適わず、荒野で滅ぼされ」てしまったのです。
 その出来事を私たちキリスト者はどう受けとめたらよいのでしょうか。パウロは6節でこう述べています。「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。」
 これらの出来事は、私たちを戒める前例だとパウロは言います。「前例」と訳されている言葉は「型」という意味です。つまり、旧約のイスラエルの民はキリスト教会の型、すなわち原型であって、イスラエルの歴史は単なる過去の出来事ではなく、キリスト教会を指し示す意味をもっています。ですから旧約聖書にあるイスラエルの民の出来事を、単なる歴史としてとらえてはなりません。それ以上の意味があります。すなわち、それは「型」であって、霊的な教訓を伝えるものです。そこから、新約の神の民は警告を受け取るべきなのです。
 パウロはコリントの信徒たちが、同じ過ちに陥らないために、ここでイスラエルの民の悪しき事例をあげていきます。出エジプトのイスラエルの民の大部分は荒れ野で滅ぼされました。それはなぜだったのか。パウロはイスラエルが滅びた4つの原因を、ここで具体的に取り上げていきます。
◎イスラエルが滅ぼされた第1の原因は偶像礼拝でした。7節にこうあります。
「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります」。
 パウロがここで引用しているのは、出エジプト記32章6節の御言葉です。エジプトを脱出したイスラエルの民は、シナイ山の麓に導かれました。そしてモーセがシナイ山に登り、神から十戒を記した石の板を授けられました。イスラエルはこうして神の契約の民となりました。しかしモーセがなかなか山から下りて来ないため、民はいらだちました。そしてついに、金の子牛を作り、これを神として礼拝しました。この子牛礼拝の中で、人々は食べたり、飲んだり、踊ったりしたのです。
 偶像とは人間が作り、人間が支配する神のことです。それゆえそれは、人間の利益に奉仕するために作られたものです。ここには、神を人間に仕えさせようとする態度があります。神を拝し、神に仕えているようで、実はそこには、人間が神を支配し、自分の都合に合わせて神を動かそうとする意図が隠されています。
 それゆえ偶像礼拝はしばしば、人間の享楽と結びついていました。偶像の前での宴会が、しばしば不道徳を招いていました。イスラエルの子牛礼拝においても、それが示唆されています。この子牛礼拝に対して、主なる神が激しい怒りを示されたのは言うまでもありません。モーセの懸命のとりなしがなければ、イスラエルの民は、ここで滅ぼされて終わるところでした。
 イスラエルの民が滅ぼされた第2の原因は、淫らな行い、不品行です。8節にこうあります。「彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。」ここでパウロが取り上げているのは、民数記35章に記されている出来事です。イスラエルの民は、異邦人の女と交わり、その女たちの招きによって偶像礼拝に陥りました。性的不品行が偶像礼拝に繋がっていきました。
 イスラエルの民が滅ぼされた第3の原因は、主なる神を試みたことです。9節にこうあります。「また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。」パウロにとっては、旧約聖書の主なる神の位置がキリストに当てはまります。なのであえて、「キリストを試みることのないようにしましょう」となっています。
 ここで取り上げられているのは、民数記21章の出来事です。荒れ野を旅していたイスラエルの民は、その放浪生活の厳しさに耐えかねて神を疑いました。特に食べ物のことで不平を言い、主なる神を試みたのです。それに怒られた主は、燃える蛇を民に向かって送り、蛇は民を噛み、多くの死者が出たのです。
 神を試みるというのは、与えられた神の恵みに感謝しないことであり、神に信頼しないことです。神を試みるというのは、自分が神の力を試そうとすることですから、傲慢な思いがそこにはあります。
 たとえば私たちが、自分はすでに赦されており、今後犯す罪も必ず赦されると考えて、罪に対する警戒感を解くとすれば、それは神の赦しを試みていることにほかなりません。私たちキリスト者には確かに自由が与えられています。しかしこの自由を乱用して、あえて不用意な生き方をするなら、それは神の守りと赦しを試みていることにほかなりません。神を試みるというのは、神の恵みを侮り、神ご自身を悔ることです。それが神の怒りを招かないはずはありません。
 イスラエルの民が滅ぼされた第4の原因は、不平を言ったことです。10節にこうあります。「彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはならない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。」
 不平を言うこと、つぶやくこと、それが荒れ野を旅したイスラエルにしばしば見られました。彼らはモーセとアロンに不平を言い、エジプトで死んだほうがましだったと言いました。また、神が授けてくださった恵みの賜物について不平を言いました。神が与えてくださった食べ物であるマナについて、「どこを見回してもマナばかりで、何もない」(民数11:6)と言い、肉が食べたいと不満を言いました。さらには、民数記16章にあるように、コラとその仲間たちは、神が立てられたモーセとアロンに反逆し、その秩序に反抗し、自分たちが上に立とうとしました。けれども彼らは主に裁かれ、滅ぼされたのです。
 パウロはこうして、出エジプトの民が犯した4つの罪をあげました。そしてそれらに対して、主なる神がなさった裁きを示しました。11節にあるように「これらのことは前例として彼らに起こったのです。」コリントの信徒たちだけの戒めではありません。私たちにとっても、このイスラエルの歴史は、戒めであり、警告なのです。
◎パウロはこうして、教訓とすべき前例として、出エジプトの民のことを取り上げました。これを受けて、コリントの信徒たちに警告と励ましを与えます。
 これまで学んできたように、コリント教会には様々な問題がありました。中でも大きな問題は、強いキリスト者、自らの信仰に自信をもっているキリスト者がいたことです。パウロはまず、彼らを念頭に12節で警告しています。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」
 この「立っていると思う者」というのは、自分の信仰は大丈夫と思い込んでいる者のことです。信仰的にうぬぼれている者のことです。しかし、自分で立っていると思ったとき、人は神以外のものに頼っています。信仰に自信があるというのは、あたかも救いはすでに完成しているかのように思い上がっているとも言えます。もうどんなことがあっても、倒れることはないと居直っているのです。
 しかし実際は、イスラエルの民のように、倒れる可能性はあります。ですからパウロは「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と命じるのです。パウロは、自分を強いと自認している人々が、案外もろいことを見抜いていたのでしょう。パウロ自身の姿勢は、フィリピの信徒への手紙3章で明らかにされています。こう言います。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とか捕えようとして努めているのです」(3:12)。
◎コリント教会には、そのようにおごり高ぶった、強いキリスト者がいる一方で、心の弱い者たちもいました。その彼らに対する励ましの言葉が13節です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。」試練が厳しすぎて、自分には耐えられないと感じていたキリスト者たちがいました。そのような者たちに対して、パウロは二つの面から励ましを与えています。一つは、過去を振り返ることによって、もう一つは、未来の約束を示すことによってです。
 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」は完了形です。これまでのことに目を留めさせています。これまで人間的でないような試練はなかった。彼らが経験したことは、人の知らないようなものではない。つまり、それは人間の力に応じた試練であり、耐えられるような試練であったということです。
 そしてこの過去を踏まえて、パウロは未来への約束を示します。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
この約束の根拠は、「神は真実な方」である点にあります。神は真実であられる。すなわち、神は信頼に値するお方であり、安心して身をゆだねることができるお方です。神は人間の歩みの単なる傍観者ではありません。神は、試練の中にある人にこそ、関心を払い、また関わってくださる方です。
 耐えられない試練にあわせることはなさらないのですから、試練がない、苦難がないということではありません。キリストを信じれば、安穏とした人生が与えられるわけではありません。思わぬ苦難や、この世の誘惑との戦いや、また信仰ゆえの苦難もあります。人生の苦しみや悲しみにも出合います。
 しかし神の約束は、「耐えられない試練にあわせることはなさらない」であり、さらには「耐えられるように、試練と共に逃れる道も備えてくださる」ということです。この「逃れる道」と訳されていることばは、出口、抜け出る道という意味です。試練の真っただ中にあったとしても、それを突き破っていく出口があるということです。ちょうど、山に逃げ込んだ兵隊が、山を敵に包囲されて絶体絶命の状況になっても、そこから狭い山道を通って逃れ出る、そのような道があるという意味です。試練の中で、後ろに退くのでも、立ち尽くすのでもありません。また、ただじっと耐えるのでもありません。神は「出口」を、「逃れる道」を備えていてくださいます。神に信頼して、前に抜け出る道があるのです。
 パウロはただじっと耐えるという消極的姿勢ではなく、主に信頼して積極的に立ち向かう姿勢を示しています。必ず主が「出口」を与えられる。だから、どんな試練の中にあっても、主に希望を置いて、前に向かって歩むように勧めているのです。

2月26日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 10章1~5節 2023年2月26日(日)主日礼拝
「神の祝福と養いに留まりなさい」 牧師  藤田 浩喜
コリント教会には、自分たちは霊的な知識をもっていると傲り高ぶっている者たちがいました。彼らに対して、パウロは10章で改めて警告の言葉を述べます。「兄弟たち。次のことはぜひ知っておいてほしい」と、パウロは語り始めています。この表現は、パウロが重要な新しい議論に向かう場合に好んで用いる表現です。「ぜひ知っておいてほしい」と言いますが、いったい何について「ぜひ知っておいてほしい」のでしょうか。それは1節にある、「わたしたちの先祖」についてのことです。この「先祖」とは、旧約のイスラエルの民のことです。
 パウロが語っているのは、コリント教会の信徒たちに対してです。そこには、少しばかりのユダヤ人もいましたが、その大半はギリシア人でした。ユダヤ人から見れば、彼らは異邦人です。しかしパウロはその彼らの先祖として、旧約のイスラエルの民のことを語ります。そしてその先祖の歴史について、無知でいてはならないと言うのです。
 ここには、私たちキリスト者と、旧約のイスラエルの民との関係が教えられていると言えます。旧約聖書にあるイスラエルの民は、単にユダヤ人の先祖ではありません。私たちキリスト者の先祖なのです。確かに私たちには、肉の先祖がいるでしょう。肉の先祖も確かに先祖です。しかしより本質的な先祖、私たちの真(まこと)の先祖は旧約のイスラエルの民なのです。
 どうして、そう言うことができるのでしょうか。パウロはローマの信徒への手紙11章17節、18節でこう述べています。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」パウロは接ぎ木を比喩にして語っていますが、異邦人キリスト者とは、神の契約の民という木に、接ぎ木された存在です。そして接ぎ木された枝は、その契約の民という木から豊かな養分を受けることができるのです。
 神はアブラハムを選ばれ、彼の子孫が神の民とされました。それがイスラエルの民であり、その歴史が旧約聖書に書かれています。その契約の神の民に、キリスト者は接ぎ木され、神の民となりました。それゆえパウロは、ガラテヤの信徒への手紙の6章では、キリスト者のことを「神のイスラエル」(16節)と呼んでいます。神がおひとりであられるように、神の民も本質的には一つです。キリスト者は、神の救済の歴史を経て、時至ってその神の民の中に加えられた存在です。それゆえ旧約のイスラエルの民は、まさに私たちの先祖なのです。したがって、旧約聖書にあるイスラエルの歴史は、コリント教会の信徒にとっても、また私たちにとっても、無関係な他人の物語ではありません。まさに自分たちの霊的先祖の物語です。
◎ではパウロはここで、「わたしたちの先祖」から何を学ぶべきだと言っているのでしょうか。10章11節にはこうあります。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」
 旧約のイスラエルの出来事は「前例」だとパウロは言います。そしてその戒めを通して、警告がなされています。私たち新約の民が、なぜ旧約聖書をしっかりと学ばなければならないのか。その大きな理由は、そこから前例を学び、それを警告とするためです。無知でいることは、前例に目を閉ざすことであり、危険なことなのです。
◎そこでパウロは、イスラエルが経験した出エジプトの出来事をここで取り上げています。出エジプトの出来事の特徴を示す要素は四つあります。第一は雲、第二は海、第三はマナ、第四は岩です。パウロはその四つの要素をここで取り上げています。まず1節、2節にこうあります。「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ……」
 雲は、聖書全体を通して「神の臨在のしるし」です。出エジプト記13章21節、22節にはこうあります。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」
 主なる神は、ご自身の民であるイスラエルに伴われることを、雲をもって示されました。雲こそ神の臨在のしるしであり、神がイスラエルと共にあることを証ししていました。そしてイスラエルは葦の海を渡りました。エジプトの王ファラオの軍勢が彼らを滅ぼそうと押し迫ってきたとき、葦の海の水が分かれ、イスラエルはそこを渡りました。そしてそれを追ったエジプト軍は、元に戻った海の水によって滅ぼされたのです。
 こうして主は、イスラエルをエジプトの王ファラオから守ってくださいました。葦の海の奇跡は、イスラエルの決定的な解放のしるしです。これは、主がイスラエルを保護し、何としてでも彼らを守り支えるという決意の現れでもあります。それほどに主は、イスラエルを心にかけ、救いを強く望まれたのです。
 このように雲は神の臨在による守りを、そして水は解放と救いを象徴しています。そしてパウロは、この雲と水に、キリスト者にとっての洗礼の予型を見ています。パウロがここで「皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」と述べているように、モーセをキリストの予型と見ています。モーセを来るべきキリストを指し示す存在と見ています。
 そして主イエスの御名による洗礼は、キリストに結びつくことであり、それによってキリスト者は、神の特別な保護の下に入り、罪に囚われた状態から解放されます。洗礼は神の臨在による守りと、解放を保証するものです。
 それはまさに、旧約の神の民であるイスラエルが、「雲の下におり、皆、海を通り抜けた」ことと重なります。イスラエルが雲に導かれ、海を通り抜けたことは、将来のキリストの御名による洗礼を指し示すものでした。私たちの先祖たちは、形は違いますが、私たちの洗礼に見合う祝福を与えられていたのです。
 続く3節、4節にはこうあります。「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」出エジプトの民は、天から与えられたマナによって養われました。また、イスラエルの民が不平を言ったとき、主なる神は岩から水を湧き出させ、それによって民を養われました。
 パウロは、この出エジプトの民に与えられたマナと岩の水を、主の晩餐の予型とみなしています。キリスト者が今日、主の晩餐で霊的な食べ物と霊的な飲み物を受けるように、荒れ野のイスラエルも、霊的な食べ物と霊的な飲み物を受けていたというのです。特徴的な表現は、4節後半にある「自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」という部分です。水を湧き出した岩が、イスラエルの民に離れずについて行って、彼らを養ったということですが、ここは、ユダヤ教の伝統的なラビの伝承を用いている部分です。そのように絶えず、必要な飲み水が与えられたのです。
 そしてパウロは、「この岩こそキリストだったのです」と述べています。旧約時代ですから、まだキリストは受肉していません。しかし三位一体の第二位格である先在のキリストが、このときすでに、神の民イスラエルを養っていたとパウロは確信していました。神と人との間の唯一の仲保者、救い主はイエス・キリストです。それは旧約時代も新約時代も変わりません。キリストはこの時はまだ人の目には隠されていましたが、すでに民のもとにいて、民に付き従い、命を与える水を供しておられたのです。
 こうしてパウロは、旧約の神の民イスラエルが受けていた神の恵みを、新約の神の民が受けている恵みと比較して述べました。パウロが語るのは、旧約のイスラエルも、今のキリスト教会と同じように、洗礼と聖餐の礼典で十分に神の守りと祝福と養いを受けていたということです。すべての点でイスラエルは、神の臨在と恵みを享受していたのです。
◎1節~4節では、私たちの霊的先祖であるイスラエルが、私たちと同様に、十分な神の恵みを与えられていたことが強調されました。彼らは、神の臨在と解放を経験し、また継続的な霊的養いを受けていたのです。
 そして、1節~4節では「皆」という言葉が繰り返されています。イスラエルの民は「皆」、これほど豊かな恵みを受けました。しかし5節にはこうあります。
「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。」
 4節まで繰り返された「皆」と、5節の「大部分」が対比されています。イスラエルの民は、その時代における洗礼を受け、聖餐にもあずかりましたが、その大部分が滅ぼされました。この対比によって、パウロは強い警告を与えています。
 なぜこれだけの大きな恩恵を受けたにもかかわらず、大部分は神の裁きを受けて滅びたのでしょうか。具体的なイスラエルの問題が、6節以下で数えあげられていきます。6節を読みますと、こうあります。「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることがないために。」
 イスラエルの民は悪をむさぼったのです。悪の楽しみにふけりました。神を畏れず、神をあなどりました。そして、その典型的な悪こそ偶像礼拝でした。
 旧約の神の民イスラエルと同様に、私たちにもすばらしい特権が与えられています。その中心は、洗礼と聖餐という神の恵みです。私たちはそれを本当に感謝しなければなりません。しかし同時に、それが最終的で絶対的な祝福の保証にならないことも知らなくてはなりません。
 旧約の神の民イスラエルは、救いと恵みの手段を与えられていました。繰り返して神の助けを経験し、味わいました。しかしそれでも彼らは悪をむさぼって、滅ぼされたのです。ですからコリントの信徒たちも、また私たちも、洗礼を受け、聖餐にあずかっているのだから、何をしようが大丈夫などと思いあがってはいけません。礼典にあずかっているから大丈夫と考えて、自己過信に陥ってはなりません。おごり高ぶる者たちへの厳しい警告が、ここに記されているのです。そしてこの警告は、私たちにも向けられているのです。

2月19日礼拝説教

出エジプト記33章12~23節 2023年2月19日(日) 主日礼拝説教
「神がわたしたちと共に」  牧師  藤田 浩喜
◎信仰によって私たちに与えられた最も大きな恵み、祝福は何か。それは、色々な言い方、答え方があるでしょう。罪の赦しと言ってもよいでしょうし、復活の命、永遠の命と言ってもよいでしょう。信仰・希望・愛と答えてもよいでしょう。答え方は色々あるでしょうけれど、神様が私たちと共にいてくださるということ、これもまた忘れることのできない最も大いなる恵み、祝福の一つでありましょう。もちろんそれは、神様が私たちの傍らにただ存在しているということではなくて、私たちが神様との親しい交わりを与えられているということです。
 私たちは、天と地のすべてを造られた全能の神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈ります。これは、子どもが自分のお父さんに向かって相対するように、私たちが神様との親しい交わりを与えられているということです。これは実に驚くべきことでありましょう。この驚くべき恵みは、主イエスが私たちのために、私たちに代わって十字架にお架かりになってくださり、私たちに下される神様の一切の裁きを引き受けてくださったことによって与えられたものです。そして、私たちが洗礼によってこの主イエスと一つに結び合わされて、主イエスと父なる神様との永遠の交わりに与る者とされたということです。
◎今朝は、2月の第三主日ですので、旧約から御言葉を聞いてまいります。前回は、出エジプト記32章から御言葉を聞きました。イスラエルの民が金の子牛の像を造って祭りをしたこと、神様がお怒りになったこと、モーセが契約の石の板を砕いたこと、そして神様に執り成しをし、赦されたこと。それが32章に記されていることでした。
今朝与えられております33章はその続きです。神様はモーセにこう告げます。1~3節「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」
神様はここでもう、イスラエルの民の罪を赦しています。しかし、完全に赦したかというと、疑問が残ります。「しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。」つまり「わたしは一緒には行かない」と言われたからです。理由は、イスラエルの民は心がかたくなで結局また同じようなことをするだろう、そうなればわたしはイスラエルの民を滅ぼしてしまう、だからわたしは一緒には行かない、と言われるのです。
 皆さんはこの主の言葉をどう受け止めるでしょうか。神様は一緒でないけれど、約束の地に行けるのだからそれでいいではないか。そう思われるでしょうか。もし、私たちが信仰というものを、目に見えるよきものを神様によって与えられるための手段と考えるならば、それで十分ということになりましょう。私を豊かな土地に導き上ってくれるならば、金の子牛でも天地を造られた神でも、どっちでもいいということかもしれません。
 現代の私たちの言葉に置き換えますと、こういうことかもしれません。家族がみんな健康で、仲良く暮らし、経済的にもそこそこ安定していれば、他に何を求めることがあろう。それで十分だ。それを与えてくれるのならば、どんな神でも同じこと。あるいは、それさえ確保できるのならば、別に神様だって要らない。そういうことになるでしょうか。
◎しかし、聖書はここで驚くべき言葉を記します。4節「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ」とあります。イスラエルの民は、これを「悪い知らせ」と受け止めたのです。イスラエルの民は、神様が一緒にいてくださらないということを悪い知らせとして聞いたのです。約束の地には行けるのです。しかし、それだけではダメだと思ったということです。神様が共にいてくださる。神様との交わりが与えられている。神様に祈り、神様がそれに応えてくださる。この神様との交わりこそ、なくてはならないもの。最も大切なもの。そうイスラエルの民は考えていたということです。
 7~11節には、この時まだ神様はイスラエルと共におられたことが記されています。モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来ました。この雲の柱というのは、神様の御臨在を示すものです。そして、神様は、友と語るようにモーセに語られました。ここで「顔と顔を合わせてモーセと語られた」と記されているのは、それぐらい親しくという意味であって、実際に顔と顔を合わせたということではないでしょう。人は神様と顔と顔を合わせたならば、それは滅びるしかありません。20節に「あなたは私の顔を見ることは出来ない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである」と神様がモーセに告げている通りです。ですから、ここで聖書が告げているのは、モーセと神様はそのような親しい交わりの中にあったということです。
この交わりの中で、モーセは神様にイスラエルを執り成します。神様が、14節「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と告げますと、モーセは、それではまだダメだと言うのです。ここのポイントは、神様がモーセに「あなた」と単数形で告げていることです。つまり、ここで神様はモーセだけを相手にしています。神様は、モーセだけなら何の問題もないと言われた。しかしモーセは、「わたしだけではダメです。イスラエルの民と一緒にいてくださらなければ」と言うのです。15~16節「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう」とあります。
それに対して神様は、17節「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」と応えます。神様はモーセの執り成しを受け入れ、イスラエルの民と共に行くことを承知されたのです。
◎この神様が共にいてくださるという恵み、祝福は、イエス・キリストの十字架と復活という出来事によって完全な形で与えられました。主イエス御自身がこのことをはっきり約束してくださいました。それが、先ほど読んでいただいたマタイによる福音書28章20節後半、マタイによる福音書の一番最後の言葉です。復活された主イエスは、弟子たちに対して「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。この主イエスの約束を信頼して歩む。そして、この約束が真実であることを知らされ続けるのが、私たちの地上における信仰の歩みなのです。主イエスはまことの神であられますから、主イエスが共におられるということは、神様が共におられるということです。これは日常的なことです。特別な時だけ神様は私たちと共におられるのではありません。
主イエスは「いつも」と言われました。いつでも、どんな時でも、いつまでも、私たちと共にいてくださるのです。良いときも悪いときも、健やかなときも病むときも、喜びの時も悲しみの時も、主イエスは私たちと共にいてくださいます。主イエスの御手の中に、主イエスとの交わりの中に、私たちは置かれているのです。これこそが、私たちに与えられている最も大いなる恵み、最も大いなる祝福です。これが、私たちが救われているということです。
◎では、どのようにして私たちはそのことを知るのでしょうか。モーセは、18節で「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言います。この「あなたの栄光」というのは、「神様の御臨在のしるし」ということです。あなたが共におられることのしるしを見せてくださいと、モーセは神様に求めました。モーセが神様を見ることができるなら、一番はっきりします。しかし、それはできません。先ほど見ましたように、20節で「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」と神様は告げられます。 
さらに、21~23節「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」神様は、わたしの顔を見ることはできないけれど、後ろなら見ることができるようにしてあげようと言われたのです。
これはどういうことなのかと思いを巡らしてみました。そして、こういうことかと思いました。私たちは日常の歩みの中で、神様が共にいてくださることをいつも意識するわけではない。しかし、神様のお働きによる出来事が起きる。出来事に出会う。この出来事は、神様がなされた業なのですから、神様が通られた跡と言ってよいでしょう。それが神様の後ろを見るということなのではないでしょうか。神様のなさる出来事によって、「ああ、神様は私と共にいてくださった」と知るということです。
 また、こうも言われました。19節「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。」この「善い賜物」について、聖書はその代表として「信仰・希望・愛」を挙げています。信仰も希望も愛も、聖霊なる神様によって与えられるものです。しかし、それだけではありません。聖霊なる神様が与えてくださる最も身近な「善き賜物」として、「祈り」が私たちに与えられているのです。
もっと具体的に言えば、私たちが「天にまします我らの父よ」と神様に祈る時、私たちは既に神様との親しい交わりの中に置かれています。神様が私と共にいてくださることを知ることができるのです。祈りは、どんなに短い祈りでも同じです。「主に感謝します!」これでも十分です。私たちの日々の歩みの中で、「主よ、感謝します」という祈りが何度も何度も捧げられるならば、私たちは一日に何度も何度も、神様が共にいてくださることを知る者となるです。その恵みを日々かみしめながら、信仰生活を送りたいと思います。

2月12日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 9章24~27節 2023年2月12日(日)礼拝説教
「朽ちない冠を受けるため」  牧師  藤田 浩喜
◎コリントの信徒への手紙 一9章では、自由ということをめぐっで、信仰者としてのパウロの生き様が語られました。最後の24節以下では、こうしたパウロの生き様との関連で、コリントの信徒たちへの勧告が記されています。
 「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです」(24節)。古代ギリシアでは運動競技会が盛んでした。オリンピアという場所で、四年ごとに開かれていた競技会が、今日のオリンピックの原点であることはよく知られています。オリンピックは四年ごとでしたが、二年ごとにコリントにおいても大規模な競技会が開かれていました。
 競技会における競走は、おそらくコリントの人たちを熱狂させていたのでしょう。そこでパウロは、この競走を信仰の歩みにたとえて語るのです。パウロは競技場での競走の比喩を好んで用いました。
 信仰生活は「走ること」だと、パウロはしばしば言います。競技場で走るためには、「自分の足で走る」という自覚と意志が必要です。スタートしたら、あとは勝手に、いわば動く歩道のように、自分を自動的にゴールに連れて行ってくれるわけではありません。自分で自覚的に一生懸命走り続けることが求められます。
 こうした意志と自覚が求められるということは、言葉を換えて言うならば、信仰生活というのは決してやさしいものではないということです。動く歩道のように、乗っていれば自動的にゴールに連れて行ってくれる、そうした安易なものではありません。信仰生活を守り抜くことは、決してたやすいことではないのです。
 24節の後半でパウロは「あなたがたも賞を得るように走りなさい」と命じました。「賞を得るように走る」。ですから、参加することに意義があるのではありません。とにかく洗礼を受けてキリスト者になった、もうこれで大丈夫だというわけではありません。
 また「賞を得るように走る」ということは、ゴールさえできれば最下位でも構わないというような走り方をしてはいけないということです。救われて天国に行けるならば、末席でも構わないと考えて、自分を甘やかさないことです。半身(はんみ)の構えで信仰生活をしないということです。
 また、賞を得るように走るには、重いものを持っていては無理です。言うまでもなく、トラックを走る選手は極力軽装でなければ速く走れません。このことも信仰生活に当てはまります。ヘブライ人への手紙はこう述べています。
 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群に囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12:1~2)。
 「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」走るのです。重荷を抱え込んだままでは走れません。それは主に委ねることが必要です。また罪を曖昧にしたままでも走れません。キリストによる罪の赦しにあずかることが必要です。日々に赦しをいただくことが必要です。主に明け渡すことをせずに、自分で問題を抱え込んでいたら走ることはできません。主の御前に明け渡して、主に信頼しきって、身軽になって、走る必要があるのです。
◎賞を得ることを目指した競技者は、大変な努力をしていました。25節でパウロは言っています。「競技をする人は皆、すべてに節制します。」
当時の競技者は、実際に競技場で走るずっと前から、厳しい規律に服しました。約10か月に渡る厳しいトレーニングがあり、あらゆることを節制する必要がありました。特別な禁欲期間、訓練期間を過ごさなければなりませんでした。そして検査にパスできなければ、出場資格が得られなかったのです
 この競技者の節制が、キリスト者にも求められるとパウロは言います。競技者が厳しい訓練の期間を過ごし、節制したように、キリスト者も同じような節制が必要だと言うのです。
 さらにパウロは、競技者の節制とキリスト者の節制との違いを次のように述べました。「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」(25節)。
 このコリントで開かれていた競技会の勝利者には、セロリや松で作られた冠が贈られたそうです。それはまさに「朽ちる冠」、一時的な冠でありました。
 しかしキリスト者が目標とする冠は、「朽ちる冠」ではありません。キリスト者が目指す冠、勝利者に約束されている冠は「朽ちない冠」です。そして「朽ちない冠」とは、永遠の命を象徴していると言ってよいでしょう。
 競技場の選手は「朽ちる冠」のために、一時的な栄光のために、厳しく節制しました。ではキリスト者はどうなのかと問います。彼らに与えられるのは「朽ちる冠」ではありません。「朽ちない冠」です。永遠の命です。
 「朽ちる冠」のためにあれだけ競技者が節制しているのに対して、キリスト者は「朽ちない冠」のためにどれほどのことをしているのか、ということです。パウロは、中途半端な信仰生活、緩んだキリスト者の歩みを戒めているのです。
◎続いてパウロは、キリスト者の節制がどのようなものであるかを、たとえを用いて述べています。「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」(26節)。
 パウロはここで競走と共に拳闘、ボクシングを例に挙げています。「やみくもに走ったりしない」。「空を打つような拳闘」もしない。つまり、目標が不明瞭な仕方で、励むことはないということです。競走にしろ、拳闘にしろ、明確な目標があり、それに向かってなされなければならないのです。
 信仰生活も同じです。キリスト者にとって大切なのは、はっきりとした目標を知り、それに向かって励むことです。宗教改革者のカルヴァンはこう述べています。「主は、わたしたちに一つの目標を与えておられる。わたしたちは、この目標を目ざさなければならない。また、主は、この拳闘や競走において、いかに行動すべきかを定めておられる。それは、わたしたちが、むなしく疲れ果ててしまわないためである」(『カルヴァン新約聖書註解Ⅷ コリント前書』219頁)。
 私たちは目標がはっきりしないような信仰生活を送ってはなりません。信仰生活の目標は、救いの完成です。この目標に向かって、自分の生活を整えるのです。努力し、節制するのです。
 では、信仰者にとっての目標に到達するためには、何か必要なのでしょうか。パウロは27節の前半でこう言っています。「むしろ、自分のからだを打ちたたいて服従させます。」
 パウロがここで強調したのは、自分との戦い、自己訓練です。この27節前半の文も拳闘と関係があります。「打ちたたいて」と訳されている動詞は、相手に効果的なパンチを食らわす、という意味です。ボクサーは通常、相手の顔面に効果的なパンチを食らわせようとします。しかしパウロはここで、そのパンチの先である目的語を「自分のからだ」としています。
 つまり、ボクサーが狙いの定まったパンチで敵を打つように、パウロは自分のからだを打ち叩いて服従させると言うのです。自分のからだが救いの妨げとなることがないように、的確にパンチを食らわせて従わせると言うのです。
 もちろんパウロは、肉体というものを邪悪なものと考えているわけではありません。神は人間の霊肉の全体をお造りになったお方であり、それゆえ肉体もまた善きものです。
 しかし罪人にとっては、肉体は重荷となり、また落とし穴になることがあります。ですから信仰者は、肉体をコントロールする必要があるのであり、その力が必要だとパウロは言うのです。自分の体を、自分の目標のために使いこなせるようにせよ、と言うのです。
 信仰生活には、様々な闘いがあります。しかしその多くは、実は自分との闘いなのです。罪人である私たちは、戦う相手は自分の外にいると考えがちです。あの人が自分の敵だ、この状況こそ自分が戦うべきものだと考えます。しかしそうなのでしょうか。
 パウロはむしろ、本当の戦いは自分との闘いだと言います。しっかりとした信仰に生きることができないようにしているのは、他でもない自分自身なのです。
 信仰の闘いは、何より自分との闘いだということを、私たちはしっかりと心に刻んでおかなければなりません。パウロの持っていた自分に対する厳しさに、私たちは倣わなければならないのです。
 そして彼は最後にこう言っています。「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」(27節)。
 「失格者になる」というのは、自分が救いから洩(も)れるということでしょう。つまりパウロは、使徒であり伝道者でありながら、常に、自分自身の救いについて緊張感を持ち続けていました。
 それほど彼は、自分の弱さ、自分のもろさを知っていたのです。自分の内にある罪が、どれほど根深く、自分を神から遠ざけようとする力であるかを知っていたのです。ですから彼は、失格者にならないための緊張感を持ち続けたのです。
 そして、パウロが晩年に書き残したと言われているテモテヘの手紙二の中で、彼はこう書きました。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(4:6~8)。
 パウロは、決められた道を走り通したと自らの人生を総括し、そして今や、「義の冠を受けるばかりです」と語りました。生涯の終わりにこのように語ることができる人は幸いです。
 そしてこの祝福は、パウロに特有なものではありません。私たちも同じです。しっかりと走るべき信仰の道を走り抜くならば、ゴールに到着した時、キリストから義の栄冠を授けていただけます。私たちはこの約束に希望をおいて、走り続けるのです

2月5日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 9章19~23節 2023年2月5日(日)主日礼拝
「共に福音にあずかるために」  牧師 藤田 浩喜
◎パウロは今日の箇所で、キリスト者の自由の問題を再度論じ始めます。19節の冒頭で、「わたしはだれに対しても自由な者です」と言います。
キリスト者が自由であるというのは、まさに福音の本質に属することです。主イエスご自身が「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)と言われました。福音の真理が自由をもたらすのです。
 またパウロもガラテヤの信徒への手紙の中で「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです(5:1)と述べています。ですから今日の箇所でも、「わたしはだれに対しても自由な者です」と言います。
けれども19節全体はこうなっています。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。できるだけ多くの人を得るためです。」
 パウロは前半で、福音による恵みの事実をはっきりと述べています。それが、自らが自由であることです。パウロは、内面においてはいつも変わりません。キリスト者としての自由をもって生きていました。
 しかし一方でパウロは、「すべての人の奴隷」になりました。内面は変わらないのですから、その対象となる人々の状況に合わせて、自分の外面を変えたということです。この「すべての人の奴隷になりました」という文は、直訳すれば「すべての人に対して私自身を奴隷にした」となります。「私自身を奴隷にした」とあるように、奴隷になったのは自らの意志による決断的行為でした。外から強いられて奴隷になったのではありません。
 キリスト者の自由というのは、放縦や勝手気ままを意味する、そのような自由ではありません。コリント教会には、自由を履き違えている人たちがいました。自由を主張して、不道徳に陥ったり、またその勝手な言動によって弱い人々を傷つけていた人たちがいました。しかし福音的な意味での自由はそういうものではありません。キリスト者は完全に自由であると同時に、すべての人の奴隷なのです。キリスト者の自由はその意味で、他者のために制限されるのです。
 パウロが自由を自発的に制限することには、一つの明確な目的がありました。それが19節にある「できるだけ多くの人を得るためです」。できるだけ多くの人を、キリストによる救いに導くためです。そのために、すべての人の奴隷になりました。具体的には20節以下に記されているように、ユダヤ人にはユダヤ人のように、また異邦人には異邦人のようになりました。そこで出会う他者の姿のようになったのです。
 しかし、目的があって他者のようになったのですから、これは決して、出会った他者といたずらに妥協することや、他者のあり方そのままを受け入れて埋没することではありません。ただ他者のあり方と同じになるだけならば、もはやその出会った他者に対して、何のメッセージもインパクトも与えることができません。
 もし私たちが異教徒に伝道するという名目で、異教の習慣に対して妥協的になり、摩擦を避けることに終始したならば、それによって人々をイエス・キリストのもとに導くことができるでしょうか。できません。イエス・キリストの救いの独自性が曖昧になるならば、福音は結局意味を失うのです。キリスト教でもキリスト教でなくてもどちらでも良いならば、なぜ人々があえて福音を求めるでしょうか。「すべての人の奴隷になる」というのは、自分が無節操に相手に合わせることではありません。
 パウロは明確な目的をもっていました。それは「できるだけ多くの人を得る」ことです。一人でも多くの人をイエス・キリストの救いに導くことです。そのためには、出会う対象との接点が必要です。最初から、全く異質で接点がなければ伝道はできません。ですからパウロは、自由なパウロの側が、自らへりくだって相手に合わせ、接点を作るのです。そしてその接点を起点として、相手を救うことを目指します。パウロは福音によって、人が造り変えられることを願っています。そのために、自らすべての人の奴隷になると決心しているのです。
◎20~22節には、「すべての人の奴隷になる」ことの具体的な例が挙げられてい
ます。「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです」(20節)。
 パウロはもともとユダヤでした。しかしここであえて「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました」と言っています。それゆえ、この「ユダヤ人のようになる」というのは、20節の後半に出てくる「律法に支配されている人」と同じ意味だと言えます。ユダヤ人を救うために、パウロはときには「律法に支配されている人」の姿を取りました。
 パウロがユダヤ人に福音を伝えるために、その慣例に自分を合わせた事例が使徒言行録に記されています。たとえば16章3節には、テモテを伝道旅行に連れて行くために、ユダヤ人の手前、彼に割礼を授けたことが記されています。また21章には、エルサレムでユダヤ人の反感を和らげるために、彼自身も清めの式を受けたことが記されています(26節)。
 パウロは、ユダヤ人がもっていた神の律法への誇りや、神を畏れる思いを大切に考えていました。そしてそれらがいずれ、キリストへの信仰に結びつくことを願っていました。ですから、律法に支配されている人と同じように振舞いました。彼らが話を聞く前に、つまりイエス・キリストの福音を聞く前に、パウロを裁き、排除してしまうことがないためです。
 続く21節には、今度は律法を持っていない人に対するパウロの態度が記されています。「また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。」
 「律法を持たない人」とは異邦人のことです。直接的にはギリシア人のことを念頭に置いていると思われます。異邦人に伝道するために、パウロは異邦人の立場に立ちました。通常のユダヤ人のように振舞ったならば、ギリシア人は決してパウロに耳を傾けることはありません。
 パウロがユダヤ人に接したときには、ユダヤ人のもっていた律法への誠実を尊重し、彼自身もそれに従うことがありました。他方ギリシア人に対しては、律法への服従を要求せず、むしろ自分のほうが律法をもたない者のようになりました。
 このような態度を取るパウロは、無節操なのでしょうか。もちろんそうではありません。パウロはイエス・キリストの福音によって、自らがどのような恵みにあずかっているか、その恵みによる自らの立場を十分に知っていました。
 21節に、「わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのです」とあります。キリストは律法の完成者です。それゆえパウロは、ユダヤ人が置かれていた律法の支配から解放されていました。そして新しい救いの秩序の中にありました。それが「キリストの律法」だと言えます。
 パウロはどこまでも神の意志に従順であり、キリストの律法に従順でした。ですからたとえ彼が、ユダヤ人のようになるにしても、また異邦人のようになるにしても、それはあくまで神に従順であり、キリストの律法に従うがゆえです。神の御心に反するような仕方で、ユダヤ人のようになったり、異邦人のようになったりすることはありません。外側から見れば、無節操に見えたかもしれません。しかし彼自身の中ではまっすぐに筋が通っていました。それはまさにキリストの律法に従うという原則です。
 宗教改革者のカルヴァンは、このように状況や対象によって、振舞いや態度を変えることができるのは「どちらでも良い事柄」に限る、と明確に述べています。神の御前にそれ自体が善でも悪でもない事柄、どちらでも良い事柄については、確かに自由です。しかしむしろ、そのような事柄にどう対処するかという点で、キリスト者の真価が問われるのです。
 私たちの日々の生活の中で、それ自体が善でも悪でもない事柄に対処することはたくさんあります。「どちらでも良い」のだから、「どちらでも良い」と開き直ってはいけません。そこでこそ、パウロのように、他の人の救いのために何か益となるかをよく考え、それを選び取ることが大切です。まして、どちらでも良いという気安さで、キリスト教への躓き、福音への誤解を招くようなことをしてはなりません。私たちに与えられている自由をどう用いるのかということが問われています。
パウロは以上の態度をまとめて、22節の後半でこう述べています。「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」パウロの原則ははっきりしています。キリストの律法に従うということです。その原則の中で、パウロはできるだけ相手の立場に立ち、相手に合わせることをしたのです。
 そしてその動機は、「何とかして、何人かでも救うため」でした。すべての人を救うためとは言いません。彼の務めは、確かにすべて人のためでした。しかし、救いは主の御業です。彼としては、せめて「何人かでも救うために」常に全力を尽くしたのです。
◎さて、23節がこの段落の結論です。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」
 パウロの行動を決定していたのは福音でした。パウロにとって大切なのは福音であって、福音の宣教者である自分ではありません。しかしその福音宣教というパウロの務めが、実は彼個人にとっても大きな意味をもっていました。福音宣教というパウロの務めは、自分の救いを全うすることに結びつくのです。
 私たちキリスト者にとって、福音を宣べ伝えることは神の務めです。ですからこの務めを果たすことと、自らの救いが切り離されることはありません。神の務めに忠実であることによって、私たちは福音の恵みにあずかる者とされるのです。
私たちは確かに、神への奉仕によって救われるのではありません。しかし、神への奉仕に向かわないような生き方で、自らが福音の恵みにあずかることを期待することはできません。神の務めを懸命に果たす中で、私たちも福音の恵みに共ににあずかる者とされていくのです。

1月29日礼拝説教

エフェソの信徒への手紙2章14~22節  2023年1月29日(日)礼拝説教
「神の家族、聖なる神殿となる」  牧師 藤田 浩喜
◎私たちは、今朝もこのように一つ所に集まり、礼拝をささげております。この六日間、全く違う所で生活していた私たちです。ほとんどの人とは、この六日間、顔を合わせなかったでしょう。全く違う場所で、全く違う営みをしていた。仕事も違えば、環境も違います。その全く違う者たちが今、一つ所に集められ、ただ一人の神様に向かって礼拝をささげています。いえ、この教会だけのことではありません。今朝、世界中で何億という人が、主の日の礼拝をささげているのです。国も違えば、言葉も違います。置かれている状況も、政治的立場も違うのでしょう。しかし今、父・子・聖霊なるただ一人の神様に向かって礼拝をささげている。何億という人が礼拝している。これは実に驚くべきことです。国という枠を超え、民族という垣根を超え、言葉や文化という隔たりを超えて今、何億という人々が一つになっているのです。そしてこのことは、日曜日のたびごとに繰り返されていることなのです。これは驚くべきことではないでしょうか。
 主イエス・キリストは自らの十字架の血潮によって、ユダヤ人と異邦人との間の隔ての壁を打ち壊されました。そしてこの二つを、御自分の体である教会において一つとされました。この一つとされたということが最も具体的な形で現れる場、それがこの礼拝なのです。この礼拝において、私たちはまず沈黙します。自分の主張、自分の考え、自分の好み、自分の立場、そのようなものを口にしません。ただ神の御言葉の前にひれ伏します。そして、父・子・聖霊なる神様をほめたたえます。ここに平和があるのです。
◎18節「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」とあります。私たちは、この父なる神様に近づき礼拝をささげる時、お互いがキリストの霊によって一つに結ばれていることを知るのです。主イエス・キリストは十字架にかかり、三日目によみがえり、天に昇られました。そして、御自身の霊、聖霊を私たちに与えて下さいました。私たちは、この聖霊を与えられることによってキリストを信じる者とされたのであり、この聖霊によってキリストと共に生き、キリストに従う者とされたのです。
◎さて、この聖霊なる神様によって一つとされた私たちを、今朝与えられた聖書は三つの言葉で言い表しています。一つは「聖なる民に属する者」、二つ目は「神の家族」、そして「聖なる神殿」です。この三つは、キリスト教会という同じものを指しているのですが、一つずつ見ていきましょう。
 第一に「聖なる民に属する者」ということですが、これは別の言い方をすれば「神の民」ということです。「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもない」と言われています。外国人や寄留者というのは、その国の法律によって守られるということがありません。そこに住んではいても、本当の恩恵を受けることができない。周辺的な存在として位置づけられている。しかし、あなたがたはそうではない。神様の恩恵を十分に受ける者となったというのです。
 この「聖なる民」という言葉で思い起こすのは、出エジプト記19章6節「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」という言葉です。イスラエルがモーセに率いられて出エジプトをし、シナイ山において十戒による契約を結ぶ直前の言葉です。イスラエルは、神様と契約を結んだのですが、それによって何が起きたかというと、「聖なる民」となったということです。この「聖なる民」というのは、何もイスラエルが潔く正しい民になったということではありません。聖書において「聖なる方」は神様しかいないのであって、「聖なる民」というのは、聖なる神様のものとされた民ということなのです。つまり、「神の民」ということです。旧約における「神の民」とは、イスラエルのことでした。しかし、主イエス・キリストの救いの御業によって、その民族的枠は壊され、ただ聖霊の導きによって、キリストを信じる全ての者へと広げられたのです。そして、私たちもまた、聖なる民、神の民に属する者となったのであります。
 この神の民に属する者となったということは、神様との親しい交わりを与えられるようになったということです。しかし、ここには旧約の民が「十戒」という律法を与えられたことからも分かりますように、ただ「良かった良かった」というだけでは済まないことを含んでいるのです。それが、使命ということです。神の民には神の民としての使命があるのです。神様は、私たちにその使命を果たさせるために、神の民へと召して下さり、救って下さったということなのです。このことについては、後でもう一度お話しします。
◎第二に「神の家族」です。これは、神様に対して、「父よ」と呼び奉ることができる者とされたということでしょう。同じ一人の神を父と呼べるのですから、まさに「神の家族」であります。しかし、家族であるということは、皆が一人一人父なる神様と結びついているだけではないでしょう。勿論、このことが何よりも大切であることは言うまでもありません。しかし、それだけではない。家族ということは、お互いが兄弟姉妹とされているということでもあるのです。この兄弟姉妹としての交わりがなければ、ただ名前だけの家族ということになってしまうのではないでしょうか。この手紙が書かれた時、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間に深刻な対立があったのです。パウロはここで、それは神の家族としてふさわしくないことだと言っているのでしょう。そして、それは私たちにおいても同じことであります。
◎第三に「聖なる神殿」ということです。私たちは互いに組み合わされていって、聖なる神殿となるのです。互いに組み合わされるためには、ごつごつした所も削られていかなければならないということでしょう。「キリストにおいて、組み合わされる」のですから、キリストによって削られ、寸法に合わせられていくということが起きるのでしょう。個性は大切ですけれど、それはキリストにあっての個性です。キリストを愛し、キリストにお仕えする中で、私たちは変えられていかなければならないのです。そうでないと、互いに組み合わされるということが起きないからであります。私たちは、そのままで神様に愛され、赦され、神の子とされました。しかし、いつまでもそのままではないのです。聖なる民に属した者として、神の家族の一員として、一人一人変えられていくのです。私たちは、わがままな自分のままで良いのだ、そんなところにあぐらをかいているわけにはいかない。それでは、キリストの十字架を無駄にしてしまうからです。
 この私たちが互いに組み合わされて建て上げられていく建物は、丈夫にしっかり建っていれば何でもいいというのではないのです。この建物には目的がある。使われ様があるのです。この建物は神殿なのです。神殿というのは、神様の住まいということです。つまり、神様がここにおられるということが明らかになるというあり方で、建てられていかねばならないということなのです。ここで思い起こすのは、コリントの信徒への手紙 一14章24~25節です。「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人が、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」これは、私たちの目指す礼拝の姿としてしばしば引用される所です。私たちが組み合わされるというのは、このような礼拝を形成するということなのです。しかし、これはただ礼拝のことだけではないでしょう。信者ではない人、キリストを知らない人がここに来たならば、自らの罪を知らされ、ひれ伏して神を礼拝するようになる。「まことに、神はあなたがたの内におられます」との告白へと導かれる。こういうことが起きる。これこそ、私たちが神の住まい、神の神殿として、組み合わされ建て上げられていくということなのです。
 この建物は、私たちがキリストによって組み合わされた交わりです。これが教会です。そして、この土台は使徒や預言者であり、この石を取り除いたら全てが崩れてしまうというかなめの石は、主イエス・キリスト御自身なのです。教会は、主イエス・キリストというお方の救いの御業・十字架・復活・昇天・聖霊降臨という出来事によって生まれたのです。この方を横に置いたところでいくら仲良しになっても、それは決して神殿とはなりません。教会は、この主イエス・キリストというお方によって、そして、その方の救いを宣べ伝えた使徒や預言者(この預言者というのは、使徒と同じ時代に伝道者として立てられていた人を指していると考えられます)、彼らの教えによって立っているのです。主イエス・キリストを取り除いて教会は建たないように、使徒たちの教えを取り除いてしまっては、やはり教会とはならないのです。第一新約聖書そのものが、使徒たちが記したものです。使徒や預言者という土台ということは、聖書という土台と言い換えてもよいと思います。これを抜いてしまったら、それは単なる人の集まりに過ぎません。そして私たちを選ばれ、召された神様の御心にかなわないことであることは明らかでありましょう。
◎さて、先程、聖なる民に属する者とされた、神の民とされた私たちには、使命があると申しました。その使命というのは、この神の住まいである神殿というキリスト教会を、御心にかなったものとして建て上げていくということなのです。そのために、午後の教会総会も行われるのです。今日の聖書の御言葉で言えば、21節「この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」とあるように、教会が成長していくために仕えるということなのです。もちろん、この教会が成長するというのは、数が増えれば良いというものではないことは明らかです。この教会が、神様の住まいとして成長するということです。全ての人に向かって、ここに神様がおられますということが明らかになるような存在になっていくということです。
そこにおいて求められていることは、何でしょう。聖霊の導きに従うこと、御言葉に聞き従うことです。自分を土台とせず、キリストを、聖書を土台とするということです。キリストにお仕えし、教会にお仕えするということです。そこにこそ、キリストによって新しくされた私たちの、新しい歩みがあるからです。
 この一週も、互いに心を一つにして、与えられた場において、キリストにお仕えしてまいりましょう。キリストの福音の光を放つために仕えてまいりましょう。それが私たちの使命なのですから。

1月22日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 9章13~18節 2023年1月22日(日)礼拝説教
「ゆだねられている務め」  牧師  藤田浩喜
◎コリントの信徒への手紙 一 9章においてパウロは、伝道者が教会に生活を支えてもらう権判があることを、理由を挙げて論証してきました。この9章13節以下で、彼はさらに二つの理由を挙げています。
第一の理由が13節です。「あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。」神の宮での働き人がそこから生活の資を得るというのは、律法に規定されていることで、当たり前のことでした。民数記18章8節にはこうあります。「主は更にアロンに仰せになった。『見よ、あなたには、イスラエルの人々が聖なる献げ物としてささげる献納物の管理を任せ、その一部を定められた分として、あなたとあなたの子らに与える。これは不変の定めである。』」
 神の宮に仕えるレビ人と祭司は、その働きに対する報酬として、ささげ物の中から一定の部分を受け取ることができました。それは8節にあるように「定められた分」でありました。律法の規定に基づいて、祭司もレビ人も、その神殿での奉仕によって生活の資を得ていました。その旧約時代の聖職者についての規定が、新約時代の聖職者にも当てはまるのは当然ではないかとパウロは言います。
 第二の理由が14節です。「同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」主イエスご自身が、福音を宣べ伝える者はその伝道の働きによって生活の資を得るように指示されたということです。主は十二弟子を伝道に派遣する際、こう言われました。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(マタイ10:9~10)。七十二人の弟子を派遣するときにも同じく、「働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(ルカ10:7)と言われました。
◎以上のようにパウロは、いくつかの論拠を挙げて、使徒である自分も含め、伝道の働きに専念する人が教会によって生活を支えてもらう権判があることを明らかにしました。彼は使徒として、また伝道者として、その自分の権利を疑ったことはありませんでした。
 けれども、彼はその権利を用いませんでした。15節にこうあります。「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。」「わたし」の部分に強調があります。他の人のことはともあれ、「わたし自身は」ということです。これだけ、教会から生活を支えてもらう権利があることを丁寧に論証してきたなら、これまでは用いなかったけれども、これからは用いようと思う、と言うなら分かります。しかしそうではありません。これほど権利のことを書いてきたのは、自分のこれまでの慣例を変えるためではない、と言います。
それはいったい何ゆえなのでしょうか。15節の後半にはこうあります。「それくらいなら、死んだほうがましです…。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。」「死んだほうがまし」というのはかなり感情的な表現です。
 どうしてこれほど感情的になったのでしょうか。またどうして彼はあくまで教会から報酬を受けるのを拒んだのでしょうか。それは、「パウロの誇り」に関係がありました。15節の最後に「だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」とあるとおりです。
 パウロは自らの誇りをとても大切にした人です。また、「誇り」というものを、信仰と深い関連のあるものとして理解しています。実は新約聖書の中で、「誇り」という言葉が用いられるのは、その大半がパウロの手紙なのです。
 誇りとは、その人の生の拠りどころ、その人の存在の基盤、実存の基盤を明らかにするものです。その人が何を誇りにして生きているか、それがその人自身を表す、その人自身を定義すると言ってもよいでしょう。
 パウロはすでに、キリスト者が退けなければならない「誇り」を明らかにしました。避けるべき誇りとは、肉を誇ること、外面的なことを誇ること、究極的には人間を誇ること、そして自己を誇ることです。3章22節で彼ははっきりと「だれも人間を誇ってはなりません」と命じました。
 なぜ人間を誇ってはならないのでしょうか。それは高ぶりに結びつくからです。コリント教会の一部の信徒たちは知恵を誇っていました。しかしそれがその人たち自身を、また教会を損なっていました。
 では逆に、キリスト者はどのような誇りをもつべきなのでしょうか。パウロは端的に「誇る者は主を誇れ」と言いました。主だけを誇る。主の恵みを、主の御業を誇るのです。
 パウロは徹底して主を誇りとする人でした。そしてその主イエスによって召されて、使徒とされた人です。ですから、自分のこと、また自分の働きのことで、主の栄光を傷つけることを避けたかったのです。お金のために伝道しているとか、報酬欲しさに回心したなどと思われることに耐え切れないのです。それは、自分のために主の御名が辱められることだからです。パウロはいかなる意味でも、自分との関係で、主の御名が見下されることに耐え切れないと感じていました。そのことがパウロのこの行動と結びついています。
◎パウロはこの意味で誇り高い人でした。しかし福音宣教そのものは、彼にとって「誇り」の問題ではありませんでした。16節で「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです」と言っています。パウロにとって福音を宣べ伝えることは、どうしてもしなければならないことでした。そのどうしてもしなければならないことをしたとしても、それは誇りにはなりません。誇るような事柄ではないのです。
 パウロが伝道者になったのは、彼自身の選択によるのではありません。ダマスコ途上で復活の主が、彼をとらえ、回心させ、使徒として任命されました。ですから彼が伝道するのは、生活のため、食べるためではありません。そうではなく、何より神の命令に従うことなのです。
 それゆえ、彼の働きのすべては、主への服従にほかなりませんでした。彼はなすべきことをしていただけです。神の僕として、神の奴隷として働いていただけです。ですからこうした働きが、誇りにはならないのです。彼はある意味で、神にある義務をひたすら果たしただけなのです。
 それゆえ、パウロは16節の後半でこう言っています。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」ここには、神にある強烈な義務感が表されています。パウロがいかに神に迫られて伝道していたかを表す表現です。彼は決して悠然と伝道していたのではありません。神にいわば強制されて、必要に迫られて伝道していたのです。
 このパウロの立場は、旧約の預言者たちと共通していたと言えるでしょう。たとえば、ユダ王国の時代に生きた預言者エレミヤは、王国の滅亡とエルサレム神殿の破壊を語るように神に迫られました。ユダ王国には多くの偶像と神への背信が満ちていました。しかし、この裁きの言葉を語ることは、彼への嘲りと迫害を招くことでした。人間の思いとしては、語りたくなかったでしょう。しかしエレミヤはこう述べています。「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」(20:9)。
 パウロもまさに、このエレミヤと同じでした。語らないでいることができないのです。そしてパウロもエレミヤと同じように、語ることで自らに苦難を招き続けました。しかし語らないわけにはいかない。語らなければわざわいなのです。それほどの、神からの強い義務感を負わされていました。
◎その当然の帰結として、17節でパウロはこう言います。「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。」
 パウロはここで、「それは、ゆだねられている務めなのです」と言っています。この「務め」と訳されている言葉は「オイコノミア」という語ですが、これは主人から委ねられた管理の仕事を意味する言葉です。
 当時、大金持ちは、家政や農園を切り盛りする管理人を置きました。それがオイコノモス、管理人です。パウロはここで自分をこの管理人にたとえています。パウロは自らの宣教をこうした性質のものだと考えていました。主人である神から委託された務めであり、自分はただそれを果たす管理人なのです。そしてそれを完全に果たしたとしても、義務を果たしているにすぎません。十分に働いた後であっても、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(ルカ17:10)と言わなければならないのです。それがパウロの自覚でした。
 そしてパウロは、主人である神によってそのような福音の管理人とされたこと、務めを託されたことこそが、自らの報酬だと考えていました。ですから18節でこう言います。「では、わたしの報酬とは何でしょう。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。」パウロにとっての報酬は、外面的、物質的なものではありませんでした。彼にとっての報酬は、福音の管理人として選ばれたことでした。福音を伝えるという務めを託されたことでした。
 管理人はいわば主人の奴隷です。自由人のように、その働きによって対価として報酬をもらう立場ではありません。パウロは、神がそういう立場に自分を選んでくださったこと、そのことを何より誇りに思ったのです。そしてその誇りのゆえに、教会から報酬を得るという当然の権利さえ、利用しようとしませんでした。
 このように、パウロは徹底的に「神の務め」に生きました。神を主人として、委ねられた務めを行う管理人として生きました。そのためだけに、自らを整えて生きました。この管理人としての生き方は、私たちキリスト者に基本的に求められていることです。
 そして、パウロが身をもって示したのは、「主を誇る生き方」でした。そして、聖書が約束するのは、そのような生き方こそが真に幸いであるということです。主を誇りとするところに、人間の本当の自由と幸いがあります。その幸いに、私たちはいつも招かれているのです。

1月15日礼拝説教

出エジプト記32章1~14節  2023年1月15日(日)主日礼拝 説教
「危機の中でこそ」  牧師 藤田 浩喜
◎今日は1月の第三の主日ですので、旧約から御言葉を聞きます。出エジプト記24章において主なる神は、「教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われました。そこでモーセはこの「石の板」、十戒を記した二枚の板を神様からいただくためにシナイ山を登っていきました。
◎これを受けているのが、今朝与えられている32章です。1節「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て」とあります。モーセが十戒を記した石の板を神様からいただいてくるはずなのに、山に登ったきり、40日間下りて来なかったということです。40日というのは、待っている者にとって決して短い時間ではありません。
 エジプトを出発して3か月、このシナイ山に着くまで色々なことがありました。前は海、後ろはエジプト軍という絶体絶命の時がありました。その時、イスラエルの人々はもうダメだと思いました。しかし、モーセが海に向かって手を差し伸べると、海は左右に二つに分かれて道ができ、その道を通ってエジプト軍の手から逃れることができました。また、マラにおいて、水が苦くて飲めないと彼らは不平を言いましたが、モーセが神様に向かって叫ぶと、神様は一本の木を示され、それを水に投げ込むと水は甘くなりました。食べ物がなくなると、神様は天からの食物、マナを与えて養ってくださいました。アマレクとの戦いにおいても、モーセが手を挙げて神様に祈ると勝利することができました。何度も何度も危機的状況はありましたけれど、その度にモーセは祈り、神様の守りと導きの中、イスラエルの民は何とかここまでたどり着きました。そして、シナイ山において、イスラエルの民は神様と契約を結びました。彼らはこれでもう大丈夫と思ったでしょう。ところが、ここに来て、モーセがシナイ山に登って行ったきり帰って来ない。荒れ野のただ中に、イスラエルの民は置き去りにされてしまった。イスラエルの民全体は、不安でいっぱいになってしまったのでしょう。だから、モーセが山に登って行って40日が経った時、イスラエルの民はアロンのもとに集まって来て言ったのです。1節「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。」もう待てない。これ以上待っても無駄だ。イスラエルの民はそう思ったのでしょう。そして彼らは何と、「我々に先立って進む神々を造ってください。」そうアロンに申し出たのです。
◎皆さんはどう思うでしょうか。40日は短いと思われるでしょうか。だったら、60日待てばよかったのでしょうか。私には分かりません。ただ、ここには私たちと同じように、神様を信じ切ることのできない民がいる。そう思うのです。
 イスラエルの民は、「エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言います。40日経っても指導者モーセは帰って来ない。しかし、イスラエルの民は、モーセと契約したのではありません。神様と契約したのです。それに、イスラエルの民をエジプトから導き出したのは、モーセではなく神様です。そして、彼らはその神様と契約を結んだのです。モーセと契約を結んだのではありません。でも、彼らにはモーセしか見えていなかったということでしょう。
 ここで私たちがはっきり心に刻んでおかなければならないことは、私たちが神の民となるために契約を結んだのは、神様御自身とであるということです。私たちの人生を守り、支え、導いてくださっているのは神様御自身であるということです。神様は見えません。神様を見た人は一人もいない。私たちは見えない方を信じ、拝んでいる。しかし、見えないということは、おられないということではありません。見えないけれどおられ、すべてを支配し、導いておられる。それが私たちの神様です。
◎ここで、イスラエルの民にも、またモーセの片腕であったアロンにも、決定的に欠けていることがありました。それは、祈り求めるということです。この時、アロンがしなければならなかったことは、民を指導し、契約の書を読み聞かせ、共にモーセが帰って来るように祈り求めることだったのではないでしょうか。そうすれば、神様はアロンを通して、「もう少し待つように」とか、何らかの御言葉をお与えになったかもしれません。しかし、彼らはそうしませんでした。
 「モーセがいなくなった。だから代わりの神を造ってくれ」と民は言うのです。そして、その求めにアロンは応えてしまいました。2~4節「アロンは彼らに言った。『あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。』民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った。」これは明らかに、十戒の第一戒、第二戒を破っています。アロンとイスラエルの民は、40日前に神様と契約を結びましたが、ここでその契約を反故にしてしまったのです。何ということでしょう。たった40日で契約を破ったのです。ちなみに、アロンが造った若い雄牛の像というのは、当時の人々が牛を力の象徴と考え、拝んでいたということです。そしてアロンは、この雄牛の像の前に祭壇を築き、祭りを行うと宣言したのです。
 この祭りの様子は、6節に「彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた」とあります。この「戯れた」という言葉には、「性的不品行」の意味があると言われています。金の子牛という偶像、それは物言わぬ神です。ただの置物に過ぎません。それを神とするということは、要するに、自分自身の思いを神とする、自分の思い通りに生きていく、自分の願いを叶えることを第一とする者となるということです。これは、生ける神の御言葉に従って生きるということと正反対です。
 アロンがイスラエルの民に、各々が持っている金の耳輪をはずして差し出すようにと言うと、彼らは従いました。もったいないとは思わなかった。偶像を作るとはそういうことです。これだけ大切な物をささげたのだから、自分の願いは叶えてもらえると考える。これは偶像礼拝の根っこにあるものです。私たちのささげる献金とは、全く意味が違うのです。
◎さて、この時、山の上ではどうだったのでしょうか。もちろん、神様はアロンとイスラエルの民がしていることを御存知でした。神様はモーセにこう言われました。7~10節「主はモーセに仰せになった。『直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と叫んでいる。』主は更に、モーセに言われた。『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。』」この言葉は不思議です。神様はイスラエルの民のしていることを御存知です。そして、怒りに燃え上がっていると言われます。彼らを滅ぼし尽くすと言われます。だったら、放っておいて、イスラエルの民を滅ぼし尽くせばよいのでしょう。モーセを直ちに下山させる必要はありません。なぜ、モーセに「直ちに下山せよ」と言われたのでしょうか。それは、イスラエルの民による祭りを中止させるためです。ここに、神様の本質と申しますか、神様がどういうお方なのかということが示されているように思います。神様は聖なる方ですから、このような罪を放っておくことはできません。しかし、御自分の民とされたイスラエルの民を滅ぼし尽くすことはなさらない。なぜなら、愛のお方だからです。私には、ここで神様はモーセに対して、イスラエルの犯した罪を執り成しをするよう促している、そう思えてならないのです。
 モーセは、11節から必死にイスラエルの民のために執り成します。モーセは、イスラエルを滅ぼし尽くすことを思いとどまらせようと、神様を必死に説得します。神様の真実に訴えるのです。「このままイスラエルを滅ぼしたら、エジプト人に『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言われます。そんなことを言わせてよいのですか。アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こしてください。」イスラエルはあなたがアブラハムに対して、「あなたの子孫を天の星のように増やす」と祝福された、その民ではありませんか。ここでイスラエルを滅ぼし尽くしてしまえば、アブラハムに対してなした祝福の約束は、どうなるのですか。どうか思いとどまってください。そう説得するのです。その結果、14節「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。」神様はモーセに説得されてしまうのです。ここに、イエス・キリストを送り、私たちの一切の罪を赦された神がおられます。ここでモーセに説得されないような神様ならば、主イエスを送られることもなかったでしょう。罪人を赦すために、我が子を十字架にお架けになるようなことはなさらなったでしょう。罪人を滅ぼし尽くし、天地創造からすべてをやり直せばいいだけです。しかし、私たちの父なる神様はそのような神様ではありません。聖なる方であると同時に、愛のお方だからです。憐れみ深いお方だからです。
◎この金の子牛の出来事は、旧約における最も罪深き出来事として記憶されることになりました。そしてこの出来事は、すべての神の民がこのような罪を犯すことのないようにという戒めとなりました。イスラエルの民は、荒れ野のただ中で具体的指導者であるモーセを失ったかもしれない、これからどうすればいいのかという不安に陥るという危機の中で、偶像を造るという罪を犯しました。私たちも様々な危機を迎えるでしょう。頼りにしている人、愛する人を失うのは、最も深刻な危機の時でしょう。この危機を迎えた時こそ、私たちの眼差しを神様に向けなければなりません。私たちは誰に救われたのか、私たちは誰と契約を結んだのか、その契約による約束は何なのか、そのことをしっかり心に刻んで歩んでいきたいと思うのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちに約束されたものは、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命です。この救いの恵みを私たちから奪うことができるものなど、この世界には存在しません。私たちは神様の子とされているのです。だから、大丈夫です。神様は「安心して行きなさい」と言われています。神様に依り頼んで生きていきましょう。

1月8日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 9章8~12節 2023年1月8日(日)主日礼拝説教
「使徒の働きと報酬」 牧師  藤田 浩喜
◎コリント教会は、パウロの開拓伝道によって生まれた教会です。パウロは、天幕作りの仕事をしながら伝道しました。そして回心者が与えられ、群れが形成されました。
 パウロが自ら労働して稼ぎながら伝道したのは、それがコリント伝道にとって益が大きいと判断したからです。決して、教会から報酬を受け取らないのが原理的に正しいと考えたからではありません。むしろパウロは、伝道者は教会によって生活を支えてもらう権利があると明確に考えていました。8節以下でその議論を展開していきます。
 「わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているのではないですか」(8節)。パウロは、一般常識からの判断だけでなく、旧約聖書の律法も教えていることとして、伝道者は教会に生活を支えてもらう権利があると主張します。
 そして彼は旧約聖書の律法を引用しています。9節以下にこうあります。
 「モーセの律法に、『脱穀している牛に口龍をはめてはならない』と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのですか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。」
 「脱穀をしている牛に口龍をはめてはならない」は、申命記25章4節の御言葉です。古代イスラエルでは、脱穀には牛が用いられました。平らな岩の上や床の上に広げられたもみの上を、牛は繰り返し歩かされました。そして牛がもみを踏めば、もみ殼が穀粒(こくりゅう)からはずれます。それを農夫が空中に投げて、もみ殼だけを風で飛ばすのです。それが当時の脱穀作業でした。
 ですから、脱穀の主要な労働は牛が行いました。そして律法は、牛が穀物を踏んでいる最中は口龍をかけてはならない、と規定しました。繰り返して労働をしているにもかかわらず、残酷にも食事ができないようにしてはならない、ということです。牛は仕事をしているのだから、当然、それを食べることは許されるべきです。食べられないように口龍をはめることは残酷であり、してはならないと定められていました。
 文字どおりの意味でいえば、それは牛のための規定でした。しかしその律法の真意は、人間の労働と報酬の関係を教えるものでした。そしてパウロは「もちろん、わたしたちのために書かれているのです」と述べることによって、それが人間の労働一般に当てはまるだけでなく、使徒や伝道者にも当てはまると言います。伝道者もまた、その働きに対して報酬を与えられて当然なのです。
◎パウロは以上のことをまとめて、10節の後半でこう記しています。
 「耕す者が望みをもって耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。」報酬を待ち望み、期待して働くのは当然だということです。労働者が報酬を望んで働くのは当然です。それは伝道者も同じだとパウロは言います。報酬や収益があることを期待して働くことは、決して悪いことではありません。人間は報酬の望みや期待をもって働くべきであり、それが大切なのです。
しかし、私たちはもう一歩踏み込んで考える必要があります。それは、その報酬というのは、本当のところはだれから与えられているのかということです。確かに働きに対する報いとしての報酬は当然でしょう。しかし、働きというのはすべて自分の力でできたのでしょうか。
 だれしも健康でなければ働けません。また、仕事をするための賜物がなければ働けません。そして働く機会と場所がなければ働けません。さらに働きを支えてくれる人たちがいなければ働けません。自分の力で働いているようで、実は多くの自分以外のことに依存しています。支えられています。そのすべてが神のご支配とご配慮の下にあります。
 キリスト者である私たちはそのことを知っています。ですから、権利といっても自分の働きの背後にある神の御手を覚えずにはいられません。またそのことを、私たちは決して忘れてはならないのです。
 そう考えれば、権利としての報酬も、実は神が与えてくださった恵みであることが分かります。自分の力で獲得したのではなく、神が恵みによって与えてくださったものです。とすれば、感謝しかないのではないでしょうか。神に感謝をささげることは、むしろ当然なのではないでしょうか。
◎こうしてパウロは、労働に対して報酬が与えられるのは当然だということを論証しました。そしてこれを、自らに当てはめて11節でこう語ります。
 「わたしたちがあなたがたに霊的なのものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。」パウロはコリント教会に霊的なものを与えてきました。イエス・キリストの福音、霊の賜物、キリスト者として生きるうえでの勧めや慰め、そのほかあらゆる意味での霊的なものです。
 そのパウロが、今度は教会から「肉のもの」、つまり地上的なもの、生活の資を得ることは行き過ぎなのでしょうか。もちろんそうではありません。彼は豊かに教会に与えてきました。ですから、それに対して報いを受けるのは、当然です。
 しかし伝道者の特徴は、霊的なものを蒔いて、物質的なものを刈り取ることです。ここに特徴があります。霊のものを与えるところが特殊です。特殊であるということは、それだけ責任が重いということです。伝道者は何より、霊的なものを蒔かなければならない、霊的なものを与えなければならないのです。霊的なものの代わりに、肉のものを与えることで責任を逃れることはできません。霊的な糧を与えて群れを養い、群れを導く責任があります。それを与えることができなければ、伝道者の責任を果たしているとは言えません。そうでなければ、肉のものを刈り取る資格はありません。
 パウロはひたすら、コリント教会に霊的なものを与え続けた使徒、伝道者でした。それゆえ彼は12節でこう断言します。
 「他の人々が、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちは、なおさらそうではありませんか。」他のだれよりも、自分こそがコリント教会から生活の資を得る権利をもっているということです。
◎しかしそれにもかかわらず、パウロはその権利を用いませんでした。12節の後半で、パウロはこう記しています。
 「それなのに、わたしたちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。」パウロはコリント教会から生活を支えてもらう権利をもっていました。しかしそれを用
いませんでした。その理由は、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」ためでした。
 ご存じのように、パウロは熱心なユダヤ教徒からキリスト教に回心した人物です。その意味で、常にユダヤ教徒からの批判にさらされる危険がありました。つまり、彼が伝道によって生活の資を得れば、ユダヤ教徒たちから、彼は金銭欲のために転向したのだと中傷される危険性がありました。
 またギリシア世界には、金儲けのための宗教者がたくさんいました。異教の祭司、占い師、異教の教師や教祖。その多くは、宗教を金儲けの手段としていました。おそらくパウロは、彼らとの違いを明確に示す必要を感じたのでしょう。金品を求めないことによって、不純な動機で働いていた多くの宗教者との違いを浮き彫りにしようとしたのです。
 パウロは伝道が第一で、生活の問題は二義的なものであるということを、自らの姿勢で明らかにしておきたかったのです。伝道者でありながら、この順番が入れ替わるならば、それは人々につまずきを与えることになります。神に召されて霊的なものを与えることが第一でなく、生活の糧を得るための単なる手段として牧師をすることは許されません。
 パウロは、ギリシア世界の宗教者との違いを明らかにするために、また、ユダヤ教徒からの批判を受けないためにも、コリント教会から生活費を受けることを拒みました。それによって福音が第一であることを示そうとしました。まさに身をもって示そうとしたのです。
 けれども、このことは当然ながら、パウロの生活に忍耐を強いることになりました。彼自身「すべてを耐え忍んでいます」と言っているように、困難と欠乏を自分の身に引き受けました。報酬を受け取らないことで、パウロが自分に課した犠牲は実に大きなものでした。しかし、あらゆる意味でキリストの福音の妨げとならないために、パウロはその一切を耐え忍んだのです。
 パウロ自身は権利をもち、自由な存在でした。しかし彼にとって自由は、決して放縦を意味するのではありません。彼の行動原理は常に、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」というものでした。これは言い換えれば、他の人のつまずきにならない、ということです。他の人が信仰の道を歩いていくときに、つまずいてしまうような障害物にならないことです。
 これは、他者に対する愛にほかなりません。パウロにとっては権利も自由も、他者に対する愛へと向けられるべきものでした。パウロは、単なる原則や理念のために、窮乏を耐え忍んだのではありません。他者に対する愛のゆえに、耐え忍んだのです。教会の益のために、一人ひとりのたましいのために、耐え忍びました。まさに愛は「すべてを忍び…すべてに耐える」(13:7)ものなのです。
 パウロは、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」と言いました。これは、福音の力を信じている者の表現です。福音には本来、力があります。それは前進するものであり、人々の心をとらえ、救いに導くものです。しかし、しばしば人間がその妨げになります。
 私たちは勘違いしてはなりません。自分が福音を担い、福音に力を与えるのではありません。弱々しい福音を、自分たちの懸命の努力で人々が受け入れられるようにするのではありません。そうではなく、福音に力があるのです。私たちは、それを妨げないことが大切です。私たちに力があるのではありません。イエス・キリストの福音に力があるのです。ですから、下手な小細工は要りません。福音を福音として伝えることが大切です。そのために何か必要なのか。その姿勢を、使徒パウロが鮮やかに示しているのです。

2023年1月1日礼拝説教

イザヤ書42章1~9節 2023年1月1日(日)主日礼拝 説教
「傷ついた葦を折ることなく」  牧師  藤田浩喜
◎今日の旧約聖書朗読では、神様が私たちに「見よ」と言って一人の人物を指し示しています。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」(1節)。その人は「わたしの僕」と呼ばれています。僕は仕える者です。彼は主に仕えるために選ばれた人です。
 このイザヤ書の言葉は、新約聖書朗読で読まれたマタイによる福音書12章にも引用されています。話の流れは次のとおりです。
 それはある安息日(あんそくび)のことでした。主イエスはいつものように会堂に入られました。するとそこに一人の片手の萎えた人がおりました。悪意を抱いている人々は、主イエスを試そうとしてこう言います。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか。」イエスはきっとその人を放ってはおけないだろうと彼らは思ったのです。だからきっと癒すに違いない。そして、もし癒したならば、安息日の律法違反として訴えようと企んでいたのです。
 彼らの魂胆を知っている主イエスは、このように答えられました。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(マタイ12:11~12)。そう言って、あえて安息日にもかかわらず、いや、安息日であるからこそ、その人を癒されたのです。
 この出来事はユダヤ人たち、特にファリサイ派の人々の憎しみを引き起こすことになりました。そこでこう書かれています。「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」(12:15~17)。そして、今日読まれたイザヤ書の言葉が引用されているのです。つまり福音書は、このような主イエスのお姿の中に、あのイザヤ書の預言が成就しているのを見ているのです。
 神様は私たちに「見よ」と言って、一人の人物を指し示します。そして、その指先の方向に目を向けると、そこにはキリストがおられるのです。
◎「見よ、わたしの僕、わたしが支えるものを。わたしが選び、喜び迎えるものを」。その「主の僕」については、「彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」と語られています。それが主の僕に与えられた使命です。
 しかし、「国々の裁きを導き出す」とは、何を意味しているのでしょう。「裁き」という日本語は、教会の中で聞かれる時、あまり肯定的な響きを持ってはおりません。「あの人は他人を裁く人だ」と言った場合は否定的な評価ですし、「神の裁き」と聞くと、多くの人は恐ろしさしか感じないことでしょう。しかし、ここで「裁き」と訳されている言葉は、もともと否定的なニュアンスを持った言葉ではありません。以前の口語訳聖書では「彼はもろもろの国びとに道をしめす」と訳されておりました。
 イザヤ書においてこの言葉は、神の定められた計画を意味しているものと思われます。ですから、そこには「裁き」も含まれます。神の正義が貫かれることが含まれます。神の道が示されることも含まれます。すべては救いが実現することへと向かっているのです。そのような神の意志と計画をこの僕は示し、またそれを実現するのです。
 しかもここで「国々の」と書かれていることは重要です。国々というのは、イスラエルの民以外の諸国民です。「異邦人」と言い換えてもよいでしょう。4節には「島々は彼の教えを待ち望む」と書かれています。地中海の島々は、当時の認識では「世界の果て」です。神様の救いの御計画は諸国民に及び、地の果てにまで及ぶのです。神様の関心の対象は常に世界全体です。イスラエルの民だけではありません。信仰者だけではありません。神様の関心は常に外へと向かいます。
 しかし、ここで注目したいのは、そのような世界の果てにまで及ぶ働きをする主の僕が、次のように描写されている点です。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」(2~3節)。
 「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」。そのように、彼は人々の耳に、人々の心に、無理矢理に入って行こうとはしないのです。そのような形で人々を動かそうとはしないのです。人々を支配しようとはしない。そのような主の僕の姿がここに描かれているのです。
 しかも、彼は「傷ついた葦」を折りません。傷ついた葦とは何でしょうか。同じ言葉が別の箇所では、「折れかけの葦の杖」(列王下18:21)と訳されています。ある人は、杖ではなくて燭台の支柱のことだと説明しています。杖であろうが支柱であろうが、折れかけていたら役に立ちません。そんなものは危ないので、折って捨てるものです。ところが、主の僕は、その《役立たず》にあえて目を向けます。彼はそれを折らないのです。捨ててしまわないのです。
 また、彼は「暗くなってゆく灯心(とうしん)」を消すこともしないのです。暗くなってゆく灯心とは何でしょう。それは火がくすぶって煙を出している灯心です。役に立たないだけならまだよいでしょう。暗くなってゆく灯心は、煙を出すので存在するだけで迷惑です。そんなものは消してしまうものです。ところが、主の僕はその迷惑な存在に目を向けます。彼はその火を消しません。再び明るく輝くのをじっと待つのです。
 傷ついた葦や暗くなってゆく灯心に関わり合うのは面倒なことです。叫ぶことなく、巷に声も響かせず、そんな事をちまちまとやっていたのでは事は進みません。世界に及ぶ働きのために立てられた主の僕が、そんなことをしていてよいのでしょうか。しかし、そのような「主の僕」を指さして、神様は「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と言うのです。
◎神様が「見よ」と言っているのは、私たち人間が往々にして全く別な方向を見ているからでしょう。
 この預言の言葉がもともと語られたのは、紀元前6世紀のことでした。それは世界が大きく変わりつつあった激動の時代でありました。その時代の立役者となったのは、ペルシアの王キュロスという人物です。彼が率いるペルシアは東方から勢力を伸ばし、メディアを征服し、リディアを征服し、ついにバビロンに入城を果たし、バビロニア帝国をも征服してしまいました。こうして、彼は古代オリエントの勢力図を完全に塗り替えてしまったのです。
 人々はそのような世界の有り様を、目の当たりにしていました。力が世界を変えていく有り様を間の当たりにしたのです。人々はまさにその中心となっているキュロスという人物とその力に目を注いでいたのでしょう。
 確かに今日の私たちが見ているのも、「力がものを言う」という世界です。力を持つ者が世界を動かしているように見えるのです。それゆえに、教会もまた人々と同じ方を見て、神の御計画の実現のためには、神の救いが世界に及ぶためには、力が必要であると考えてしまうかもしれません。政治的な力、経済的な力、あらゆるメディアの力。今日では声を巷に響かせるぐらいでは、人々の耳と目に届きません。人々の耳と目と心の中に無理矢理にでも入り込んでいこうとするならば、ありとあらゆるメディアを駆使することになるのでしょう。
 しかし、そのような私たちに神様は、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」と言われるのです。そして、私たちは、神様の指先が誰を指し示しているのかを、既に知らされているのです。
 それは全くこの世の権力やカネの力とは無縁であった御方です。金持ちや為政者を動かすような大きな運動を展開しようともしなかった御方です。神の国を告げ知らせ、神の救いの御計画を実現するために来られた主イエスは、それどころか、人々が熱狂的に主イエスのことを触れ回ろうとした時、御自分のことを言いふらさないようにと戒められたのです。
 私たちは聖書の中に「大勢の群衆が従った」という言葉を読みます時に、主イエスが当時の世界において誰もが注目するような一大ムーブメントを巻き起こしたかのように錯覚しやすいのです。しかし、すべては所詮あの狭いユダヤの世界の中での出来事に過ぎません。実際、福音書などの教会の文書を除くと、当時のイエスに関する歴史的記録はほとんど残ってはいないのです。要するにこのイエスという御方に関して、世間は私たちが思うほど注目していなかったということです。世界史の観点からするならば、主イエスに起こった出来事は、ローマ帝国に起こった諸々の出来事の中に埋もれてしまうような、小さなことに過ぎないのです。声は巷に響き渡ってなどいなかったのです。
 そのような中で、主イエスはまさに傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、箸にも棒にもかからないような弟子たちと共に忍耐強く歩まれ、誰からも顧みられない人々にちまちまと関わりながら生き、そして十字架の上で死なれたのです。そのキリストの十字架はまさに、この世の片隅に立てられたのです。
 しかし神は、このキリストを指し示して、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と言われるのです。十字架にかかられたその御方は、復活して今も生きておられます。そして、キリストの体である教会を通して今も働いておられるのです。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、ひとりひとりの人間に忍耐強く関わり続けておられるのです。そのようなキリストであるからこそ、私たちもまたここにいるのでしょう。そのようにして、神の救いの御計画は確実に現され、進められているのです。
 ならば神の救いの御業が実現するために必要なのは、この世の力ではありません。キリストの体がまことにキリストの体として、この世に存在することです。すなわち、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない御方の体として、私たちもまた、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない者であり続けることなのです。新しい2023年を迎えました。私たちは「見よ」と神様が指さされた主イエスを見つめつつ、このお方の後を真実に従っていく歩みを続けていきたいと思います。

日本キリスト教会
西宮中央教会

〒662-0832
兵庫県西宮市甲風園
2丁目4番15号
TEL.0798-67-4347
FAX.0798-67-4561

TOPへ戻る