教会の言葉
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賜物が用いられるために
西宮中央教会 牧師 藤田浩喜
「ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った。『聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束うぃ結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。』」
(創世記37章5~7節)
ヨセフは族長ヤコブの年寄り子でした。ヤコブはヨセフを溺愛し、彼には裾の長い晴れ着を作ってやりました。兄たちはヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかったといいます。ある日ヨセフは夢を見ます。夢の中でヨセフの麦の束が起き上がり、兄たちの麦が周りに集まって来て、ヨセフの束にひれ伏したというのです。これは明らかに、ヨセフが兄たちの上に立つ者となることを意味します。このような夢を得意になって話す無神経なヨセフに、兄たちの憎しみはますます燃え上がりました。ご承知のように、ヨセフは夢を見、夢を解く賜物を与えられていました。この賜物は、後にヨセフの運命を大きく変えていきます。彼は夢を解く賜物のおかげで、料理役の長から推薦され、ファラオを悩ましていた夢を見事にとき明かします。そして夢で7年のい飢饉が来ることを知らされたファラオは、ヨセフを大臣に登用し、豊作の年に備蓄することによってエジプトを飢餓から救うのです。そしてエジプトに食糧を求めてやって来た父ヤコブの一族をも救うのです。夢を解くという一人の人間の賜物が、こんなにも大きく用いられるのです。ところが、今日の箇所のヨセフはそうではありません。彼は自分が見た夢を、得意になって兄たちにひけらかします。彼は自分を誇るために賜物を利用します。それによってヨセフは、何としてでも夢の実現を阻んでやろうとする兄たちによって、もう少しで殺されそうになるのです。私たち人間にとって、与えられている賜物がいつも良い方向に働くとは限らない。時には私たちを傲慢にし、窮地に追い詰める両刃の剣であることを、強く思わされるのです。ヨセフが本当の意味で、自分に与えられた賜物を生かして用いるためには、その後長い時間が必要でした。多くの苦労を経験し、神の御前にあって謙遜な者へと変えられていかなくてはならなかったのです。それにしても、主なる神はくすしき方です。ヨセフの麦束の夢は、ヨセフがエジプトの大臣となることで成就します。神の御業はダイナミックですが、ぶれることはないのです。(2015年3月)