教会の言葉
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モーセの挫折から学ぶこと
牧師 藤田浩喜
「モーセが、『どうして自分の仲間を殴るのか』と悪い方をたしなめると、『誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか』と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。」(出エジプト記2章13~14節)
モーセは危機一髪のところでエジプトの王女によって水から引き上げられ、王女の子として育てられることになりました。しかし、姉ミリアムの機転によって小さい間は実母のもとでヘブライ人として成長したのでした。ヘブライ人として主なる神を信じる信仰を与えられ、しかもエジプトの王宮で育ち最高の教育を受ける。このことは、後に神の民イスラエルの指導者となり、ファラオと渡り合ってイスラエルを出エジプトさせるための、最高の条件を備えたことを意味していました。モーセも恵まれた境遇にある者として、いつかは苦しみの中にある同胞のために働きたいと思っていたでしょう。だからこそモーセは、ヘブライ人を虐待しているエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めたのです。彼の正義感がそうさせたのです。しかし肝心の同胞たちは、モーセを自分たちの仲間だとは思っていませんでした。ヘブライ人でありながら、エジプトの王宮の一員として特権的な生活をしているモーセに激しい反発を感じていました。そのストレートな思いが、冒頭の箇所には表われているのです。モーセは自分の思い上がりと未熟さを突き付けられます。そして今や彼を殺そうと尋ね求めるファラオの手から逃れるために、ミディアンの地に逃亡するのです。そしてモーセは、ひょんなことでミディアンの祭司レウエルの娘婿になり、羊飼いとしての生活を送るようになるのです。神の民イスラエルをエジプトの奴隷状態から助け出すどころか、彼は手痛い挫折を経験し、世捨て人のようになってしまったのです。「あの人は、もう終わったな!」と思われても仕方ない境遇でした。しかし、モーセが本当の意味で神の民イスラエルの指導者となるために必要だったのは、実はこの挫折でした。安っぽい正義感と思い上がりを打ち砕かれ、主なる神の前に心から首を垂れることのできる者だけが神の御業の担い手とされるのです。人生における手痛い挫折が、神の御前にあっては、かけがえのないものとして用いられるのです。出エジプトの民は、後に40年間の荒れ野の旅を余儀なくされます。その旅において、モーセの羊飼いの経験はどれほど役立ったことでしょう。神さまの導きの不思議さを、覚えないではおれません。(2015年6月)