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礼拝説教

5月15日礼拝説教

出エジプト記20章12節 2022年5月15日(日)主日礼拝説教
「キリストの愛の中で仕える」  牧師 藤田 浩喜
 今日は5月の第3主日ですので、旧約聖書から御言葉を聞きます。前回は十戒の第四の戒め、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」でした。今日は十戒の第五の戒め、「父と母を敬え」です。
 十戒は前半が神様との関係における戒め、後半が人と人との関係における戒めという構造になっていることは、すぐに分かることです。しかし、どこまでが前半で、どこからが後半なのか。それは昔から議論のある所です。今日与えられております第五の戒め、「父と母を敬え」を前半に入ると考えるのか、後半に入ると考えるのか、そこで議論が分かれるのです。これは、十戒は二枚の板に記されましたが、一枚目の板にはどこまで記されていたのか、二枚目の板にはどこから記されていたのかという議論でもあります。十戒を記した石の板は残っていないので、いつまで議論しても結論は出ないのですけれど、この第五の戒めには、そのような議論があるほどに、二つの面があるということでもありましょう。それは、この第五の戒めが、人と神様との関係と、人と人との関係を繋ぐ、そのような位置にあるということなのでしょう。
 まず、神様との関係で考えますと、神の民は、出エジプトの出来事によって自分たちを救ってくださった神様をただ独りの神、私の主として拝み、この方と共に生きるのですけれど、このことを教えるのが父と母の役割であるということなのです。子どもは幼い時から、父と母の信仰者としての姿を見て、神様を畏れ敬うことを学び、教えられる。神様に対する信仰の基礎を、父と母によって据えられるということです。だから、前半に入るという理解をするわけです。
 一方、人と人との関係においても、私たちがどのように人と関わっていくか、その基本的なあり方を、子どもは父と母から学ぶ。人間関係の基礎もまた、父と母から教えられていくということです。それは口で教えられることもあるでしょうがそれ以上に、父と母の日常の姿によって教えられ、学んでいくということです。ハイデルベルク信仰問答などは、この戒めを後半に入れて受け止めています。
 
 神様との関係、人との関係の基礎が父と母によって与えられる。それは本当のことです。ですから、その基礎を与えてくれる「父と母を敬え」ということに対して、反対する人はまずいないだろうと思います。それは何も聖書によって教えられなくても、当たり前のことではないかと受け取っている人が多いのではないでしょうか。実際、洋の東西を問わず、父と母を敬うことを大切なこととして教えない宗教あるいは文化は、おおよそ無いと思います。ですから、「父と母を敬え」という戒め自体に反対する人はいない。しかし、それができているかと問われれば、心許ないというのが私たちの現実ではないかと思います。子どもの時は「父と母を敬え」でいいけれど、「老いては子に従え」と言うではないか。大人になったら、この「父と母を敬え」という戒めに縛られることはない。そもそも、本当に敬うことができる父や母なのか。そんな反論も聞こえてきそうです。しかし、聖書は「子どもの時は父と母を敬え」とは言っていません。この戒めはすべての神の民に命じているのです。ということは、この戒めは私たちが大人になっても、さらに実際の父と母が亡くなってしまった後にも、神の言葉として私たちを導く戒めであるということでしょう。

 ところで、「父と母を敬え」と言われた場合の「敬え」とは、どういう意味なのでしょうか。元々の意味は「重んじる」という言葉です。父と母を重んじる、尊ぶ、尊敬するということです。しかし、自分の父は、あるいは母は、とても尊敬できるような人ではない。そういう人もいるだろうと思います。誰もが両親が揃っていて、その両親から愛情深く育てられたと言えるわけではありません。中には、生みの親は知らないという人もいるでしょう。そういう人にとって、この「父と母を敬え」とは、自分には関係の無い言葉になるのでしょうか。そうはならないのです。これは神様の戒めですから、自分にはこれは当てはまらない、自分は例外だ、この戒めを無視してもいい、という人はいないのです。
 神様が「父と母を敬え」と言われたのは、私たちは父と母がいなければこの地上に生まれてきていないわけです。どんな父でありどんな母であっても、この二人から自分が生まれてきた。これは事実です。そして神様は、「その事実の背後にわたしがいる。あなたは、わたしの計画の中で、選びの中で、御心の中で、その父と母から生まれたのだ。このことを重んじなさい。」そう言われているのではないかと思うのです。子は親を選べない。それは親にとっても同じです。親も子を選べない。親にとって子は神様から与えられたものですし、子にとっても親は神様が備えてくれたものなのです。ということは、父と母を敬うということは、自分という存在、自分の人生を、神様が与えてくれたものとして受け取るということなのです。
 親子の関係というものは、なかなか難しいものがあります。青年期の反抗がずっと続いているような場合もあります。子どもの頃の親の身勝手な行動で傷つけられ、その傷をずっと抱えたままという関係だってあります。そもそも、親に全く傷つけられていない人などいないのです。親子も夫婦も兄弟も、家族というものは一緒に生活するわけです。罪ある者同士が一緒に生活をすれば、必ず傷つけてしまうということがあるのです。それが私たちの現実の家族・家庭というものです。しかし神様は、「父 と母を敬え」と命じられるのです。「その傷ついた関係のままであっては、あなたがたは幸いになれない」と言われる。なぜなら、自分が生まれてきたこと、生かされていることを、神様が与えてくださった良きものとして受け取れていないからです。この「父と母を敬え」という戒めは、「あなたの存在は、あなたの人生は、わたしが与えたものだ。わたしの心の中にあるものだ。だから良いものだ。そのようなものとして受け取りなさい。受け取り直しなさい。」そう言われているのだと思うのです。

 別の言い方をすれば、父と母を赦せということです。神様は「わたしはあなたのために、独り子を十字架にかけた。だから、あなたも赦しなさい。」そう告げられているのです。私も自分の子どもたちに対して、多くの罪や過ちを犯し、傷つけてきたことでしょう。今、父親として子どもたちに言いたいことは、「赦して欲しい」ということです。父も母も、子に赦されなければならないのです。そして、子もまた、父と母に赦してもらわなければならないのです。この赦しがなければ、この戒めに従うことができない。それが私たちなのです。
 ですから、この戒めは、何でもかんでも父や母の言うことには従わなければならないという意味ではありません。親だって理不尽なことを子に求めることはできません。子どもだって親の言う通りにしなければならないことはないのです。神様の御心に従うことが第一ですから、これに反することを求められたら退けなければなりません。父母を敬うということは、父母はいつでも正しいということではないからです。正しいのは神様であり、神の御言葉なのです。ですから、親も子も共に神様の前に額ずき、神様に従う中で、赦し合う中で、子が父と母を敬うという健やかな関係が形成されていくということなのでしょう。
 しかし、父や母が信仰を子どもに伝えようとしてこれを強制しても、なかなか上手くいきません。信仰はその人の存在そのもの、日常の生活の中での小さな言葉かけであったり、何かを選択する時の基準であったり、その人の存在そのものが表れてしまうところで、伝えていくしかないのだろうと思います。主の日の礼拝を大切にするということは、一番分かりやすいことでしょう。しかしそこだけ強調しても、父や母が祈る姿を日々の生活の中で見たことがないなどということでは、子どもに信仰はなかなか伝わっていかないのだと思います。

 さて、この「父と母を敬え」というのは、血の繋がり、親子、家族という場においてのみ適用されるものではありません。確かに、親子や家族は社会における一番小さな共同体ですけれど、ここからさらに大きな共同体の原理としても適用されていくべきものと考えてよいと思います。そもそも十戒が与えられたのは、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放された時でした。奴隷の子は、主人のものです。家畜や家具と同じように売り買いされる存在でした。父と母が子を育てるという当たり前の家族関係を、当時のイスラエルの人たちは持っていたわけではないのです。ですから、この戒めは家族という単位を超えて、神様の前に共に額(ぬか)ずく共同体、信仰共同体として、神の民がどうあるべきかをも示していると理解してよいのだと思います。
 私たちの教会にもたくさんのご年配の兄弟姉妹がいます。そういう方々を父母(ちちはは)として重んじる。それがキリスト教会の当たり前の姿なのです。信仰生活において長く人生を歩まれた方々を尊敬し、重んじる。そしてまた、長い信仰の歩みをしてきた人は、高齢になっても信仰者としての筋の通った教会生活を身をもって示していく。それが大切だということでもあります。
 長老は現任でなくなっても長老ですし、牧師は引退しても教師です。執事もそうです。年齢と共に、実務の責任からは解かれるでしょう。しかし、神様の御前における責任を解かれるわけではないのです。
 私たちの教会の高齢の方は、本当に忠実に礼拝を守られます。本当に頭が下がります。頭が下がる。それは「敬う」ということの別の言い方です。私も牧師としてもう若くはありません。ですから、「あんな牧師にはなりたくない。」そんなふうに言われないように、主の御前に喜んで精一杯、お仕えする姿をもって証しをしていきたいと思うのです。
 心と体と言葉をもって、主にお仕えすることの素晴らしさを証ししてまいりましょう。それが、「父と母を敬え」との戒めに生きる者の姿だからです。

5月8日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 5章1~8節(Ⅱ)2022年5月8日(日)礼拝説教 
「主の救いにあずかった者らしく」  牧師  藤田 浩喜
◎パウロが取り上げたコリント教会の第二の問題は、性的不道徳の問題でした。コリント教会の信徒の中に、父の妻、つまり義理の母と一緒になっている者がいたのです。今日の6~8節では、今度は主として教会自身の聖めのことが取り上げられます。教会共同体全体の霊的状態のことが問題とされるのです。
 性的不道徳を行っている者に対して、本来なら断固たる態度を取るべきであるのに、コリント教会は何もしていませんでした。それは6節の前半にあるように、彼らの誇りのため、彼らの高ぶりのためでした。
 「あなたがたが誇っているのは、よくない」とパウロは言います。コリント教
会の無感覚ぶりを責めています。つまり、不道徳の問題だけが問題なのではないのです。不道徳をしていた人だけが問題なのではない。パウロが問おうとしているのは、こうした問題を生み出す根源の事柄なのです。
 コリントの信徒たちは、教会内にあったこのような恥ずべき罪について、まったく無関心、無頓着でした。彼らの霊的な感性を鈍らせていたもの、それが誇りであり、高ぶりです。誇りとは、その人が本当に拠りどころとしているものです。その人の生きる基盤は、その人が誇っているものによって明らかになります。
パウロはローマの信徒へ手紙の中で、「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(3:27)と語りました。ただ恵みによって義とされたのであり、それゆえ人が神の前に誇る根拠は何もない、とパウロは言いました。そしてキリスト者はただ神を誇るべきだと言いました。神だけが、いのちの根拠、希望の根拠であるからです。
 しかし、コリントの信徒たちは人間のことを誇っていました。知恵を誇り、地位を誇り、外見を誇りました。人間のことを誇る者は、自己満足に陥ります。そして自己満足に陥っている者は、罪に対する感覚がとても鈍くなっています。罪の自覚が浅いのです。当然、神に対する畏れもあまりありません。となれば、教会における罪や腐敗に対しても無頓着にならざるを得ないのです。
 教会もキリスト者もこの世に生きる者です。そしてこの世には、多くの罪や腐敗があります。それらから全く影響を受けずに、無関係にいられるわけではありません。キリスト者個人も教会も、この世にあるかぎり、罪との戦いは避けられません。その戦わなければならない教会が、罪の腐敗に対して無頓着になるというのは本当に恐ろしいことです。キリスト者自身が、自らの罪に対して無感覚になるというのは恐ろしいことです。しかし、現実にはしばしばそういうことが起こります。
 その原因は「誇り」だとパウロは言います。人間的な何かを誇ろうとすること、そして頼ろうとすること。そこから、霊的な自己満足が起こり、霊的な病に陥っていくのです。
◎自己満足に陥っている彼らに対して、パウロはたとえを用いて警告します。
 「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか」(6節後半)。パン種のたとえは、邪悪なことが伝染していくたとえとして、主イエスもしばしば用いられました(マルコ8:15、マタイ16:6)。それに倣い、パウロも、悪が伝染し広がるたとえとしてパン種を用いています。大きなパン生地を発酵させるのには、ほんのわずかなパン種、イースト菌があれば足ります。パン種はわずかでも、パン全体を膨らませることができます。そのように小さな悪を容認してしまえば、その影響は全体に大きく広がります。このことは、教会においても、また個々人においても当てはまります。
 ですから、教会の中にある罪や汚れをたいしたことではない、と思い込むようなことがあってはなりません。大丈夫だと自己満足に陥ってはなりません。罪や腐敗に対する鈍感さや無頓着ほど、結果として教会を深く蝕むものはないのです。
 そしてこれは、教会だけでなく、個々人にも当てはまります。私たち一人ひとりが、自分自身の中で悪を容認してしまえば、つまり、神に反逆している要素を曖昧にして温存していれば、パン種が全体を膨らませるように、その人の全体がおかしくなっていくのです。キリスト者としての全体が腐敗していきます。ですから、自分の内なる罪や汚れをたいしたことではないと思い込むようなことがあってはなりません。霊的自己満足に陥ってはなりません。罪を悔い改めずに、これを温存していれば、次第に罪を罪と感じなくなってしまいます。
 そして罪の原理がその人の内で力をもつようになります。良心を麻痺させ、神から引き離されていきます。けれども本人は、神から離れているという感覚さえも失っていきます。霊的な渇きというものも失われていく。罪の問題は小さいから大丈夫なのではなくて、小さくても全体を支配するほどの力があることを知らなければならないのです。
 パン種の性質を強調したパウロは、7節でこう命令しています。「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。」
 教会を聖めるようにと、パウロは命令しています。もはや、不道徳をしている者のことだけではなく、もう少し広がりをもった命令がなされているように思います。教会から「古いパン種」を取り除きなさい、という命令です。
 では、この「古いパン種」とは何を意味しているのでしょうか。これは、コリントの信徒たちがキリスト者になる以前の、肉の人としての生き方、考え方を指していると思われます。
 コリント教会の信徒の多くは、異教徒から回心した人たちでした。かつては、真の神を知らず、真の神を知らない者としての価値観・道徳観で生きていました。そのときもっていた生活感情がありました。そうした古い生活感情というものを、コリントの多くの信者たちはなお引きずっていました。また、コリント人たちは、ギリシア人としての知識を誇りとしていた人たちでした。肉の誇りや肉の思いを引きずっている人たちがいました。回心以前の生き方、生活感情のままの人たちがいた。それに対してパウロは、「古いパン種」を取り除くように命じたのです。
コリントの信徒たちの心の中になお根を下ろしていた、そうした肉の思いや肉の誇りが取り去られる必要がある。古い人の原理が取り去られる必要があるのです。
 パウロは「古いパン種をきれいに取り除きなさい」と命じましたが、この勧めを基礎づける事実が、7節後半で述べられています。「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストがわたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」パウロはなぜ、コリントの信徒たちに聖めを命じたのでしょうか。それは彼らがすでに「種なしパン」であるからです。つまり、コリントの信徒たちはすでに、パン種のない聖い者なのです。すでに聖い者であるから、ますますそうあるようにと勧めているわけです。
 パウロはキリスト者とは、全く新しい者であると確信していました。コリントの信徒への手紙 二 手紙5章で彼はこう言っています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(17節)。キリスト者は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去ったのです。罪の原理から救い出され、聖霊のご支配の下に置かれている者です。聖霊によってイエス・キリストと結びつき、罪を赦され、神の子とされ、また聖なる者とされたのです。
 このことが現実となったのは、7節の後半にあるように、「キリストがわたしたちの過越の小羊として屠られたからです」。キリストが私たちの身代わりとして、十字架の上で血を流してくださったからです。キリスト者は、このキリストの死によって新しく生まれた存在です。キリストに買い取られたキリスト者は、まさに聖い「種なしパン」なのです。ですから、当然のこととして、古いパン種をきれいに取り除かなければなりません。古いパン種とキリスト者の存在は、いかなる意味でも調和しないのです。
 ですからパウロがここで「古いパン種をきれいに取り除きなさい」と命じているのは、何か理想を押しつけているということではありません。道徳や倫理を押しつけているのではありません。パウロが言っているのは、「キリスト者として、本来そうである者になれ」ということです。あなたがたはすでに新しくされている。神にある事実、キリストにある事実がある。それゆえにこうしなさいと、パウロは命じているのです。
 コリント教会は、本当に多くの問題をもっている教会でした。それはコリント教会に特有のことではなく、地上に生きるすべての教会に当てはまることでもあります。この世に生きる教会は常に罪の攻撃を受け、脅かされています。ですから、神のことばによる勧めや指示が与えられ続ける必要があるのです。
 その際に大切なことは、キリストがすでになしてくださったことに目を留めることです。教会は常に、キリストがなしてくださったことに目を留める必要があります。十字架の死によって獲得してくださった恵みの事実に、目を留める必要があります。そのキリストにある事実に、私たちはいつも立つ必要があるのです。さらに、そのキリストにある事実に、自分の生き方を一致させるのです。パウロが求めているのはそういうことなのです。
◎続く8節で、パウロはこう呼びかけています。「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実なパンで過越祭を祝おうではありませんか。」
 パウロが求めるのは、「パン種の入っていない、純粋で真実なパン」で祭りを祝うことです。「純粋」とは動機の聖さを表します。内心の動機において、神の前に責められるところのない良心をもつということです。そして「真実」とは、外なる行動における聖さを表します。新しい人として生きるということです。
 「過越祭を祝おうではありませんか」とありますが、ここの「過越祭」とは神礼拝のことです。それは喜びをもって神に仕える時です。力強く神を喜び、神に仕えるのです。神は私たちに対して、本当の愛をもって仕えてくださいました。御子を献げて、私たちを愛し、贖ってくださいました。その神の愛に私たちはどう答えるのでしょうか。パウロは「純粋で真実なパンで過越祭を祝おうではありませんか」と言います。神に対して真実に生きなさいということです。内なる思いと外なる行為において、真実を求めて、神を喜びなさい、ということです。そのような生き方に、主は私たちを招いてくださっています。そしてそこにこそ、信仰者の本当の幸いがあるのです。

5月1日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 5章1~8節(Ⅰ)2022年5月1日(日)礼拝説教
「主の日の救いにあずかるために」  牧師 藤田 浩喜
◎1章から4章では、コリント教会における分派争いのことが取り上げられました。続く5章と6章では、コリント教会における不道徳の問題が主として取り上げられています。
 パウロのところには、コリント教会に関する様々な情報が寄せられていました。1節に「現に聞くところによると」とありますが、コリント教会のことが話題になれば、いつも出てくるほど広く知られていたことがありました。それは、コリント教会の中に「みだらな行い」があるということでした。
 1節で「みだらな行い」と訳されている言葉は、ポルネイアという語です。これはポルノという言葉の語源です。そしてこのポルネイアは、あらゆる種類の不適切な性的関係を表します。5章、6章全体で扱われているのが、この「みだらな行い」の問題です。コリントの町には異教の女神アフロディーテを祭る神殿があり、そこには多くの神殿娼婦たちがいました。またコリントは国際的な商業都市で、経済的繁栄と同時に、道徳的腐敗の町であり、とりわけ性道徳の腐敗が著しい町でした。
 しかしパウロがここで問題にしているのは、そのようなコリントの町の腐敗そのものではありません。パウロが何よりも問題としているのは、そのような町に生きるキリスト者の生活態度であり、そうした問題が教会内で起こった場合の正しい対処の仕方なのです。実際に、コリント教会では大きな問題が起こっていました。1節の後半にこうあります。「しかもそれは、異邦人の問にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。」
 「ある人が父の妻をわがものとしている。」この父の妻とは、義母のことです。つまり、自分の実の母が亡くなり、父親が再婚した。その相手の女性が義母です。そしておそらく、今度は父親が亡くなった。もしくは父親と義母が離婚した。それゆえ、息子がその義母と一緒になったというわけです。
 旧約聖書の律法は、このように義母と性的に結びつくことを明確に禁じています。レビ記18章8節には、「父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである」とあります。それゆえレビ記20章11節には、「父の妻と寝る者は、父を辱める者であるから、両者共に必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる」とあり、この行為をした者に対して死刑が定められています。
 ローマ法によっても義母との結婚は禁じられていました。5章1節には、「それは、異邦人の間にもないほどの淫みだらな行い」とありましたが、神の律法を知らない異教社会においても、それはみだらな行いだと認められていたわけです。
 ところがコリント教会の中に、そのような行為をしている者たちがいました。それはいったいなぜなのでしょうか。一つには、やはり、彼らが生きていたコリントという町の道徳観が、キリスト者に影響を与えていたということです。コリントは国際的な商業都市で、道徳的にとても腐敗していました。とりわけ、性的関係のルーズさが、コリントの一般人たちの特徴でした。キリス卜者といえども、その社会の一員として生活しています。だとすれば、その影響をまったく受けないというわけにはいかないでしょう。
 また、コリント教会は、異教徒から回心した人が多い教会でした。かつては、その腐敗した道徳観に何の問題も感じずに生きていた人たちでした。そこから回心したのですが、回心後も、そのかつての道徳感覚を引きずっていた人がかなりいたということも考えられます。
 さらに、こうした問題がコリント教会で起こっていたことには、もう一つの原因が考えられます。それはコリント教会にあったと思われる教理的な問題です。彼らは、キリストによる解放、キリストによる自由を強調し、それを誇っていました。その自由を強調することで、自分たちは他の信仰者たちとは違う、という意識がありました。こうした教理的な問題もコリント教会の背後にあったのです。
◎パウロは、コリント教会にあったこうした性的関係におけるルーズさ、無感覚を、単に個人の問題としてではなく、教会の問題として厳しく断罪します。2節でパウロはこう言っています。「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。」
コリントの信徒たちは、こうした問題があるにもかかわらず、高ぶっていました。「高ぶる」と訳されている言葉は、「ふくれ上がる」という意味です。彼らはこうした問題に平気であるばかりでなく、いばりくさっていました。いわばコリント教会は高慢の中毒にかかっていたのです。そのような教会の体質が問題でした。パウロが一番問題にしているのは、そのような教会の体質なのです。
 パウロは、この不道徳が放置されている問題の根源に、彼らの思い上がり、高ぶりの体質があることを指摘しているのです。この問題と高ぶりは深いところで結びついている。教会に高ぶりがあるとき、そこを起点にして多くの問題が生じます。コリントの信徒たちは、自分たちのことを優れた信仰者だと考えていました。自分たちにはキリスト者としての自由があり、ほとんどどんなことでも許されていると考えていました。6章12節や10章23節にある「わたしには、すべてのことが許されている」というのは、コリント教会の人たちの愛用のせりふでした。自由を過度に強調し、それを誇っていた。その高ぶりが、彼らの思考と行動を支配していました。そして結果として、不道徳に陥り、かつ教会はそれを不問に付していたのです。
 しかしパウロはその思い上がりを糾弾しました。そして「むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」と言います。本来なら、これほどの不道徳があれば、教会は悲しみでいっぱいになるはずです。しかし高ぶりは、キリスト者や教会が、本来感じるべき罪に対する感覚を麻痺させます。神の聖さに対する感覚を麻痺させるのです。    
 ここでパウロが問題としているのは、罪を犯した本人のことではなく、それを放置している教会のことです。教会はキリストの体です。キリストを頭とし、キリストの栄光を現す群れです。その教会でこのような問題が起こっている。この世でも忌まわしいと思われることが、教会で起こっている。ならば、教会が嘆き悲しむのは当然ではないか。キリストの栄光を現すのが教会の使命です。しかしかえって、キリストの栄誉に泥を塗っているではないか。なのに、なぜ嘆かないのか。なぜなすべきことをしないのか。それがパウロの嘆きなのです。
 そしてパウロは、教会はその悲しみから、それほどの大きな罪を犯している者を、教会の交わりから除くという戒規を行わなければならないと言います。「むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」と言います。
 パウロが問題にしたのは、これほどの罪があるにもかかわらず、教会が無関心、無頓着であったことです。正しい戒規を行わなかったことです。それでは、キリストの教会は建たないと彼は確信していました。教会が罪の問題を正しく扱うということ、必要に応じて戒規を行うということは、イエス・キリストから教会に委ねられた責任です。教会はその責任を果たさなければ、キリストの教会として立っていくことはできないのです。
 パウロは2節で「こんなことをする者を、自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」と言いますが、それは決してその人に罰を与えることが目的ではありません。懲らしめること自体が目的ではありません。5節にはこうあります。「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。」
 ここでパウロが扱っている戒規は、戒規の中でも最も厳しい除名の戒規です。それをパウロは、「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」という言葉で表しています。この世はサタンの支配するところであるという表現が、聖書にはしばしばあります。この世は、サタンが、また罪の原理が支配するところです。それに対して教会は、神の特別な保護の下に置かれています。ですから、除名の戒規を受けて、そこから除かれた者は、この世に捨てられること、サタンに渡されることだと言うのです。それほどこの戒規には力がるということを、パウロは強調しているのです。
 しかし、それは決して、その人が滅ぼされるためではありません。「その肉が滅ぼされるように」とあります。ではなぜパウロは、ここで「肉が滅ぼされるように」と言ったのでしょうか。カルヴァンは、ここで言われている「サタンに引き渡す」ということが、永遠の滅びではなく、一時的、地上的な滅びにすぎないことを示すためだと言っています。つまり、この除名の戒規によって、罪人は決して最終的な滅びに渡されたのではないということです。
 また、こう解する者もあります。この「肉が滅ぼされるように」の「肉」とは、人間の罪に堕落した性質を意味しており、戒規によって、そのような罪の性質が滅ぼされて、その人が救われるのだというのです。
 いずれにせよ、除名の戒規は、その人の滅びのためではなく、救いのためになされるのです。それゆえ5節の後半でパウロは、「それは主の日に彼の霊が救われるためです」と付け加えています。「主の日」の救いですから、完全な意味での救いです。パウロは、終末の審きの日に、除名の戒規を受けた者も、その救いの民の中に混じっていることを期待しています。教会共同体から除外されたことによって、罪人が罪を自覚し、悔い改め、回心に導かれ、そのようにして、再び教会に受け入れられ、共に主の日の救いの恵みにあずかることを、パウロは切に願っているのです。
 教会の戒規は、罪を犯した者の懲罰のためになされるのではありません。むしろその人を、本当の意味で霊的に立ち直らせ、救うためです。さらにそれは、教会の聖さを維持するためであり、何よりも教会の頭であるイエス・キリストの名誉のためになされます。戒規がなければ、罪人は罪のうちに留まることになります。そこから救うことが戒規の役割です。そして罪の処置を通して、教会は罪の自覚と、教会の聖さへの自覚を新たにするのです。そのことを忘れてはなりません。

4月24日礼拝説教

ヨハネによる福音書21章15~19節 2022年4月24日(日)主日礼拝説教
「命を用いる道へ」    牧師 藤田 浩喜
◎今日の15節に「食事が終わると」と書かれていました。この前に書かれているのは、復活された主イエスとの食事の場面です。夜通し働いていた弟子たちを、主イエスが迎えてくださいました。炭火を起こし、魚を焼いて、パンを用意して迎えてくださいました。主は言われます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。弟子たちは喜びをもって主と食を共にしました。
 その姿によって指し示されているのは、私たちも行っている聖餐式です。そして、聖餐卓の周りに集められ、迎えられてささげる主の日の礼拝です。夜通し働いて何も捕れなかったとしても、必ず朝は来ます。そのような日が続いた一週間であっても、日曜日は必ずおとずれます。そして、復活の主が私たちを迎えてくださいます。そこには復活の主が既に、豊かな命の糧を備えていてくださいます。そして、迎えられた私たちは命の糧に養われます。今日お読みしているのは、そのような復活の主との食事に続く場面です。
◎その食事が終わると、主はペトロに問いかけました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。そこからペトロと主イエスとの間の、非常に印象的な対話がはじまります。そのやりとりはどこに行き着くかを、先に見ておきましょう。主イエスはペトロに言われるのです。「わたしに従いなさい」(19節)。
 命の糧にあずかったペトロは、主イエスから「わたしに従いなさい」と言われます。「わたしについて来なさい」と言われるのです。しかし、主イエスから「ついて来なさい」と言われているこのペトロは、かつて主イエスから「あなたは今ついて来ることはできない」と言われたペトロであることを、思い起こさねばなりません。
 それは主イエスが十字架にかかられる前夜、最後の晩餐でのことでした。主イエスは御自分が間もなく捕らえられ、十字架にかけられることをご存じの上で、弟子たちにこう言われたのです。「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」(13:33)。するとペトロは驚いて尋ねるのです。「主よ、どこへ行かれるのですか」(13:36)。すると主イエスは、ペトロにこう答えられました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」これを聞いたペトロは言うのです。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:36~37)。
 ペトロは本気だったと思います。どこまでもついていくつもりだった。命を捨てるようなことになっても、ついていくつもりだったのです。他の福音書ではこうも言っています。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)。他の人がつまずいて、ついて行かなかったとしても、わたしはつまずきません。わたしはどこまでも従ってまいります。そう語るペトロは本気だったと思います。
 しかし、その時主イエスはペトロに言われました。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)。そして、そのとおりになりました。主イエスには分かっていたのです。「あなたは今ついて来ることはできない」。しかし、それでよかったのです。なぜならそこには、主イエスがひとりで成し遂げなくてはならないことがあったからです。
 世の罪を取り除く神の小羊として、この世の罪を代わりに自らの身に負うこと。罪の赦しをもたらすために、十字架の上で罪の贖いを成し遂げること。それはペトロがついて行っても、一緒にはできないことでした。人間がいかなる形においても手を貸すことができないことでした。救いはただ主イエスの成し遂げられることにかかっているのであって、人間はただその恵みにあずかるだけなのです。そして、主イエスはひとりで成し遂げられました。主は「成し遂げられた」と言って、息を引き取られた。そのようにヨハネによる福音書は伝えています。
 ただひとりで罪の贖いを成し遂げられた主イエスは、復活されて再び弟子たちに出会います。ペトロにも出会ってくださいました。主イエスはペトロをも迎えてくださいました。主イエスはペトロにも命のパンを差し出してくださいました。そして、ペトロは聞いたのです。「わたしに従いなさい」と言われる主の御声を。
 もう主イエスは、「あなたはついて来ることはできない」とは言われません。ペトロは主イエスについていくのです。だからこそ、今日お読みした主イエスとペトロとのやりとりもまた必要だったのです。三度主イエスを否んだペトロが、ついて行くことができなかったペトロが、そこから再び主イエスについていくためでした。
◎食事が終わると主はペトロに尋ねました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。「この人たち以上に」つまり「他の弟子たち以上に」と主は問われます。もうペトロは、「この人たち以上に」とは言いません。「あなたのためなら命を捨てます」とも言いません。ペトロはあの時のことを思い起こしたことでしょう。胸を痛めながら、それでも精一杯の思いを込めて彼は答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主は言われました。「わたしの小羊を飼いなさい」。
 そして、二度目に主は言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。もう主イエスも「この人たち以上に」とは言われません。主が聞きたいのはそんなことではないからです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主は言われました。「わたしの羊の世話をしなさい」。
 そして、三度目に主は言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。主イエスが三度も尋ねたのでペトロは悲しくなって言いました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。
 しかし、本当は、ペトロは悲しむ必要などありませんでした。主が三度尋ねられたのは、ペトロの言葉を信用していないからではないからです。主が三度尋ねられたのは、三回主を否んだペトロが三回「愛しています」と、口にすることができるようにするためでした。そして、それで十分なのだとペトロ自身が知るためでした。
 主イエスは「わたしを愛しているか」としか問わなかったのです。ペトロの過去がどうであったかを問いませんでした。「あなたのためなら命を捨てます」というあの言葉はどうなったかと問いませんでした。自分の言葉に誠実であったかを問いませんでした。そうです、主はこれまでペトロがどうであったかを問いませんでした。過去の失敗を一つ一つ打ち消すかのように、「わたしを愛しているか」とだけ問うたのです。そして、ペトロに答えるチャンスを与えてくださいました。主によって重要なことは、過去がどうであったかではなく、今、主を愛しているか、ついて行こうとしているか、ということだからです。
◎「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えるペトロに、主は言われました。「わたしの羊を飼いなさい」。そして、さらに主はこう続けられます。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)。
 「手を伸ばす」というのは、古代の教会においては「磔(はりつけ)にされる」ことを意味しました。ここで語られているのは、ペトロが殉教するということです。彼は、その晩年が決して自分の思うようにならないこと、そして、最後には悲惨な死を遂げなくてはならないことを示されたのです。しかし、驚くべきことに、聖書はこのように続けるのです。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(19節)。
 与えられた使命を立派に果たして、大きな働きの実りを後世に残して、神の栄光を現すというならば話は、分かりやすいでしょう。しかし、主イエスはそのような話をされませんでした。「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」ようなことになると言われたのです。それでもなおペトロは神の栄光を現すことになると、主イエスは思っておられたのです。それでもなお、単に「連れて行かれる」のではなくて、ペトロはキリストに従う者であり得る。主イエスはそう思っておられたのです。だから主はそのように話してから、ペトロに「わたしに従いなさい」と言われたのです。
 この言葉を、主イエスの命の糧をいただいた私たちもまた聞くのです。繰り返し、「わたしを愛するか」という問いと共に聞くのです。「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。確かにそのようなことはあります。迫害の時代に生き、殉教の死を遂げることになるペトロだけの話ではありません。決して私たちの手の内には収まらない、私たちの人生があります。どのように生きるかだけでなく、どのように死ぬかということも、私たちの思い通りにはなりません。しかし、それでもよいのです。それでもなお私たちが生き、そして死ぬことは、神の栄光となり得るからです。単に「行きたくないところへ連れて行かれる」のではなく、どこまでも主イエスについていくことはできるからです。死の向こうまで、主イエスについていくことはできるのです。
 私たちの人生において本当に重要なことは、何が起こるかではありません。願った通りになるか否かでもありません。主イエスの「わたしを愛するか」という問いにどう答えるのか、そして、「わたしに従いなさい」という招きにどう答えるのか、ということだけなのです。誰か他の人の話ではありません。それは私の話であり、あなたの話です。私たち一人ひとりに、復活の主イエスが問いかけておられるのです。

4月17日礼拝説教

ヨハネによる福音書20章11節~18節 
2022年4月17日(日)主日礼拝説教
「マリアに出会われた復活の主」   牧師 藤田 浩喜
 「マリアは墓の外に立って泣いていた」(11節)。そう書かれていました。マグダラのマリアと呼ばれていたその人は、主イエスが十字架にかけられて三日目の朝、御遺体に香料を塗るために墓を訪れたのでした。しかし、来てみると墓の入口の石が取りのけてあった。墓の中に主イエスの御遺体はありませんでした。誰かが御遺体を取り去ってしまった!そう思った彼女は、悲しくて悲しくて、泣きじゃくっていたのです。
 いや彼女のことを思うならば、恐らく泣いていたのはこの場面だけではなかったでしょう。主イエスが捕らえられたことを知った時から、恐らく彼女はずっと泣き通しだったに違いありません。
 主イエスが捕らえられて不当な裁判にかけられ、むち打たれて血を流していたとき、彼女はどうすることもできませんでした。ただ泣くことしかできなかったことでしょう。主イエスが十字架を背負ってゴルゴタの丘へと向かっていた時、彼女はどうすることもできませんでした。手足が釘で刺し貫かれて、主イエスが叫び声を上げているとき、彼女はそれを耳にしても、どうすることもできなかった。主イエスが十字架の上で苦しみもがいている時にも、彼女はどうすることもできなかった。主イエスがまさに息絶えようとしているとき、彼女はどうすることもできなかった。彼女はただただ泣くことしかできなかったのでしょう。無力だから。どうすることもできないから。
 主イエスが墓に葬られた時にも、彼女は墓の前で泣くことしかできなかったのでしょう。主イエスが死んでしまった事実を変えることはできないから。三日目の朝が来て、彼女が墓に向かっていたときも、彼女には何ができるわけではありませんでした。できるのはただせめて主イエスの遺体に香料を塗ることぐらいです。しかし、その遺体さえも無くなってしまいました。もはや彼女にできることは何もありません。泣くことしかできなかったのです。
 ただ泣くことしかできない。彼女の姿は私たちにも覚えがあります。私たちにもそんな時があるからです。特に私たちが最も無力さに打ちひしがれるのは、彼女と同じように死の現実に直面したときでしょう。このマリアのように、愛する者の命の火が消えていく時、消えてしまった時、人はどうすることもできない。泣くことしかできないのです。実際、この一年の間、幾人もの方々が、ご家族を亡くされ、あるいは親しい友人を亡くされ涙するのを見てきました。ただただ泣きくれているマリアの姿は、私たちにとって本当に身近な姿に思えます。
 しかし、そんなマリアに語りかけられた言葉がありました。それは神様の側からの言葉でした。それはこの世の慰めや励ましとは全く異なる言葉でした。そのことを今日の聖書箇所は伝えているのです。
 「マリアは墓の外に立って泣いていた」。その続きはこう書かれています。「泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた」(11~12節)。
 マリアはいったいどのような姿を見たのか。どうして天使だと分かったのか。天使であったのなら、どうしてマリアは驚かなかったのか。そのあたりは良く分かりません。しかし、ここで大事なのは、天使が見えたということよりも、マリアが聞いた言葉です。泣いていたマリアに語りかけられた言葉です。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」
 マリアは答えました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら、後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた、と書かれています。ところが、それが主イエスだとは気づきませんでした。本当は主イエスがすぐ近くにいたのに、マリアは気づかなかったのです。
 ですから、マリアは再び主イエスを背にして泣き続けるのです。そのようなマリアに主は言われました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」先に墓の中から聞こえた言葉と同じです。「なぜ泣いているのか。」主イエスはマリアがなぜ泣いているのかは知っておられるはずです。ならばそれは、理由を聞いているのではありません。「なぜ泣いているのか」。それは「もう泣く必要はないよ」ということです。「もう泣かなくても大丈夫!」主イエスはそう言ってくださっているのです。主イエスはそう言うことのできる御方なのです。私たちが無力であっても、主イエスは無力ではないからです。
 しかし、マリアはまだ主イエスがすぐ近くにいるのに気づきません。園丁だと思って、泣きじゃくりながら答えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」すると、主イエスはただ一言、「マリア」と声をかけられました。「マリア」。それで十分でした。マリアには分かったのです。その声で分かったのです。彼女は振り向いて言いました。「ラボニ」すなわち「わたしの先生」。これまでいくどとなくそう呼んでいたように、いつものように主イエスを「ラボ二」と呼んだのです。まさに、聖書の中で、最も美しい出会いの場面と言われるところです。

 さて、ここで大事なことは、マリアが主イエスに気づいたのは、その姿を《見た》からではない、ということです。聖書はあえてそのことを強調して書いています。後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが「見えた」。しかし、「見えた」その時には気づかなかったのです。気づいたのはその姿によってではなく、その「言葉」によったのでした。「マリア」という呼びかけの言葉。それはただ音声としての言葉が耳に聞こえたということではありません。その言葉が心に届いたということでしょう。心に響く主イエスの声、その御声を通して、「ああ、主イエスが近くにいてくださったのだ、気づく前からそこにいてくださったのだ」と分かったのです。
 そのように、マリアが主イエスに気づいたのは、目に見えるその姿によったのではありませんでした。ですから、目に見えるその姿にすがりつこうとするマリアに対して、主イエスは言われるのです。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。
 主イエスは「わたしの父…のところへわたしは上る」と言われました。主イエスは父のもとに、天に帰って行かれるのです。確かに、主イエスは復活されてマリアに現れました。後に弟子たちにも現れます。しかし、それはある限られた特別な出来事です。ずっと続くのではありません。主イエスは天に帰られ、目に見えない御方となられるのです。いつまでも、見える姿で現れたキリストにしがみついていてはいけない。主イエスは目に見えない御方でよいのだ、ということをマリアは理解しなくてはならなかったのです。
 実際、彼女が見る前から、主イエスはすぐ近くにいてくださったのです。マリアが泣いていたとき、主イエスは既に彼女の近くにいてくださったのです。後ろを振り向いてもまだ分からなかった。でも彼女が分からなかったときにも、主イエスはそこにいてくださったのです。「なぜ泣いているのか。もう泣かなくても大丈夫」と言ってくださる方が、一緒にいてくださったのです。
 先にも見たように、そのことに気づいたのは、それは主イエスの呼びかけの声が心に響いた時でした。実際、マリアは主イエスが天に帰られた後も、繰り返しこの呼びかけを心に聞いていたことでしょう。その御方が目には見えなくても。そして、それは後の弟子たちの経験であり、後の教会の経験でもあったのです。それゆえに、この一人の人に起こった特別な出来事を、世々の信仰者は自分のこととして読んできたのです。
 今日はイースターです。キリストの御復活をこうして毎年私たちは祝います。私たちはマリアのように、目に見える姿で復活の主と相まみえるわけではありません。しかし、私たちもまた知っています。主イエスが私たちに呼びかけてくださること。私たちに語りかけてくださること。その声が今も私たちの心に響いてくるということを。
 時に私たちが涙に暮れる時にも、泣くことしかできない時にも、主イエスは呼びかけてくださいます。その時に私たちは知るのです。悲しくて悲しくて、ただただ涙していたその時にも、私たちが気づかなかっただけで、主イエスはすぐ近くにいてくださったということ。「もう泣かなくても大丈夫」と言ってくださる方が、すぐ近くにいてくださったということを知るのです。それが、信じる者ひとり一人にとっての復活体験なのです。

4月10日礼拝説教

マルコによる福音書15章33~39節 2022年4月10日(日)主日礼拝説教 
「神に叫び続けてくださる主イエス」  牧師 藤田 浩喜
今日は主イエス・キリストが最後のエルサレム入りをされた記念の「棕櫚の主日」です。今日から私たちは主が苦しみを受けて十字架につかれた、主の御生涯の最期を深く覚える受難週に入ります。毎年、私はこの週を迎える度に、ヘンデルのメサイヤの中で「すべて道行く人よ、あなたがたはなんとも思わないのか。主がその激しい怒りの日にわたしを悩まして、わたしにくだされた苦しみのような苦しみが、また世にあるだろうか、尋ねて見よ」(哀1:12、口語訳)と歌われる、あの言葉を思い起こします。主イエスの御苦しみと死に対して、私たちはそれを何とも思わずに通り過ごしていないか。今私たちは立ち止まって、主の御苦しみを深く思い、わがため十字架に悩みたもう主の御恵みをしっかりと受け取りたいと思うのです。
 福音書に記されたイエス・キリストの最後の記録を読むと、ここに「死の素顔」が現れていることを感じます。普通、人は死者を飾るものです。「ありたけの菊投げ入れよ棺の中」(漱石)。なくなった人を花で飾り、その人の生前の数々の良き思い出を語って、いわば晴れ着をまとわせて送り出します。ところが主キリストはその御生涯の最後のときに、身を飾る花も、称賛の言葉もありませんでした。むしろ警護のローマ兵士たちから、冷やかし半分に紫の衣を着せられ、茨の冠をかぶせられ、これが「ユダヤ人の王だ」と嘲られたあげく、衆人環視の中を引き立てられて、ゴルゴタの丘に、刑場の露と消えました。主は若き日も「その頭にはかむりもなく、その衣にはかざりもなく」(讃美歌122番)過ごされましたが、その最後もまた何の飾りもなく、素顔と裸で死を迎えられたのです。
 しかもこのとき、人々が主イエスを裸で死に追いやっただけでなく、主イエス御自身がこの暗く厳しい御自分の死の現実を逃避しようとなさらず、直視しておられました。人々が主イエスを十字架につける前に「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」(15:23)。これは、一種の麻酔剤で、死刑囚の感覚を麻痺させて、死の苦しみを感じさせないようにするものでした。しかし主イエスはそれをお受けにならず、醒めた、澄んだ意識で死に直面されたのです。
 こうして死の陰の谷に下られた主イエスは、十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)と叫ばれました。マタイ福音書では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」となっています(マタ27:46)。「エリ」という呼び方は、ユダヤの古い言葉であるヘブライ語、「エロイ」と言うのはこの頃の日用語であったアラム語の発音です。マルコ福音書では35節に、この言葉が「エリヤ」を呼ぶ言葉と間違われたように書かれていますので、主イエスは「エリ」と叫ばれたようにも思われます。
 この主イエスの最後の言葉は何を表しているのでしょうか。一つの解釈は、この言葉が詩編22編の冒頭の言葉であることに基づきます。詩編22編では、激しい苦しみと絶望の状態にある人間が、その苦しみの中でもひたすら神に信頼して、主の助けを呼び続けています。その祈りが最終的には聞き届けられ、「主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます」(詩22:25)と言って、溢れる感謝を捧げています。そこから、主イエスもあの十字架上で塗炭の苦しみを味わわれながらも、この詩編22編を思い起こされ、自分も又この苦しみの中で、神に信頼して動揺することなく過ごすのだとの思いで、この歌を歌い始められた。しかし、初めの句を口にしただけで、力尽き、後を続けることが出来なかったと考えるのです。そうだとすると、主イエスは死を前にしても、いささかも取り乱すことなく、外なる人は破れても内なる平安をいささかも乱すことなく、従容として死なれたことになります。
 しかしマルコ福音書全体の雰囲気は、そのような平安で穏やかなものではなく、何か異常な切迫したものを感じさせられます。昼日中、不気味に全地を覆う闇の中で、主イエスは大声で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んでおられます。ここで「叫ぶ」(25:34)と訳された言葉は、喜びにつけ悲しみにつけ、激しい感情を伴った叫びを表すものだと言われています。主イエスは落ち着いて、泰然自若として死を迎えられたというよりも、死に直面して、何か異常な、深刻なものを感じられたのです。
 パウル・アルトハウスという神学者が代表作の『終末論』のなかで、死の意味を論じていますが、これを手引きとして、主イエスの死の意味をさぐりたいと思います。アルトハウスによれば、死は第一に被造物の限界を示すものであります。「神は……唯一の不死の存在」(Iテモ6:15~16)であるのに対して「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る」(Iペト1:24)と言われています。これは人間の自然としての死です。そして、主イエスの死は、主イエスが人間となられ、私たちと連帯して死なれたことを示しています。
 第二に、罪に対する神の審判としての死があげられます。人間が死ぬということに対して、私たちの心の中には強い拒否反応があります。それは死に対する生命の抵抗感情と言えるでしょう。そしてこの拒否と抵抗を引き起こす死が、それにもかかわらず厳然として存在するという事実の中に、神と人間との関係がつながっておらず、破れ、切れているという事実が露呈しているのです。
 創世記の冒頭で、神が人間を創造されたとき、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創1:28)と語られ、生きることへの約束が与えられました。しかしアダムとエバの背きの罪によって、神との信頼関係が切れたとき、「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。……塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)と、死が立ち現れたのです。血管の切れた部分の肉が腐敗するように、死は神との関係が切れた人間世界の姿でありましょう。
 主イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたとき、主が直面しておられたのは、このような神から切り離されて、死ぬ他ない人間の現実であります。詩編22編によると、神が見捨てるということは、神が「遠く離れて助けず」、「わたしの嘆きの声を聞かず」、人間が「平安を得ない」状態を意味しています(詩22:1~2)。
 芥川龍之介の遺稿の『西方の人』の最後にこう書かれています。「クリスト教は或は滅びるであらう。少くとも絶えず変化している。けれどもクリストの一生はいつも我々を動かすであらう。それは天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子である。薄暗い空から叩きつける土砂降りの雨の中に傾いたまま」(36クリストの一生)。ここで芥川は明らかにキリストの十字架を思い浮かべています。そしてその一生はいつも我々を動かすというのです。なぜ動かすのかと言えば、恐らく芥川はその最後において、キリストが自分と同じところに立っていると感じたからでしょう。この世の戦いに戦い疲れた芥川にとって、最後の最も親しい人として主イエスが感じられたということは、深い意味をもっています。それは主イエスが死の陰の谷に立ち、そこから逃げ出そうとしなかったからでしょう。
 ここで注目されるのは、キリストの最期を見届けた百人隊長が語った「本当に、この人は神の子たった」(15:39)という告白です。主イエスの悲惨な最期に触れたのですから、「本当に、この人は惨めな人であった」と言って当然です。現に通りがかりの人々はそのように言って主イエスをののしったのです。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(15:31~32)。ところが、主イエスに直面して立っていた百人隊長が、その死にざまを見て「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。高倉徳太郎という牧師はここを取り上げた説教に、「荘厳な神秘」という題をつけました。あの百人隊長も主イエスの十字架の死の姿に、「荘厳なるもの」「厳かな神秘」を感じたのです。それは、死ぬことのあり得ぬ、死んではならないお方が死に身をさらしているのです。神と直結し、神そのものであるお方が、父なる神から捨てられて、死の深き淵に呑み込まれてしまったのです。そのことによって、死の世界が今までとは別の姿に見えてきます。今まで全くの暗黒であった死の世界に、一つの光が輝いたのです。一つの声が響いたのす。死ぬはずのない主イエスが、死ぬべき私たちの叫びを叫んでおられるのです。それによって、死ぬべき私たちに、死のどん底まで私たちと連帯し、私たちと一体となってくださった主イエスが、死によっても砕かれない命を与えてくださったのであります。
 もう44年前になりますが、ガンのために逝去された原崎百子さんという信仰者が、その遺稿集『わが涙よ わが歌となれ』(新教出版社、1979年)の中で次のように歌っておられます。
イエスさまは/神さまに捨てられた闇の中に。
私は/神さまを仰ぎながら 苦しみの床に。
何という 何という違いであることか。
そして、この主イエスの恵みを思うと、病床でも讃美が湧いてきます。
わがうめきよ わが讃美の歌となれ/わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ
わが涙よ わが歌となれ/主をほめまつるわが歌となれ
わが病む肉体から発する すべての吐息よ/呼吸困難よ/咳よ/主を讃美せよ
わが熱よ 汗よ わが息よ/最後まで 主をほめたたえてあれ
これこそ、神の子イエス・キリストの死の神秘にふれた人間が、神に向かって上げる讃美の言葉ではないでしょうか(101頁)。
 アルトハウスは、死の第三の意味として「新しい生命への通過点としての死」を挙げています。主イエスの死は人間の死をこのようなものに転じたのです。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ロマ4:25)。このことは、主イエスの十字架の死の時には、人々にはまだ見えていませんでした。主イエスが三日目に死人の中から甦られたとき弟子たちは、トンネルをくぐり抜けて後を振り返ったとき、新しい道への出発点を確認した人のように、キリストの死を新しい生命への通過点を開くものとして理解したのです。キリストの死に直面した者には「神の審判と絶滅」の入り口と思われました。しかし、復活という出口に立つとき、実はそれが「罪の赦し、体のよみがえり」の出発点であることが分かったのです。神のくすしき御業に驚かずにはおれません。

4月3日礼拝説教

ヨハネによる福音書19章25~27節  2022年4月3日(日)主日礼拝説教
「十字架のもとに生まれる家族」   牧師 藤田 浩喜
◎主イエスの十字架は、「ゴルゴダ=されこうべの場所」という都に近い丘の上に立てられました。ローマの習慣によると、受刑者は自分のかけられる十字架の横木を、自分でかついで行かねばならないことになっていました。共観福音書では、キレネ人シモンが途中で主イエスに代わってかついでいきますが、ヨハネでは、主イエスはひとりで最後まで自分の十字架をかついで、ゴルゴダまでの道を歩み抜かれます。この意味でヨハネの描く主イエスが、もっとも意志的であり、徹底的です。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)という主の言葉は、「洗足のイエス」(ヨハネ13:15)の場合にもそうであったように、主イエス御自身によってここで模範的に示されたのです。
 私たちの負うべき十字架は、すでに私たちに先立って主イエスによって完全に負われたのです。そのことは、私たちにとっての大きな慰めです。
 十字架にかけられた主イエスの上には、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きがかけられていました。マルコ、ルカでは「ユダヤ人の王」、マタイでは「ユダヤ人の王イエス」となっています。しかもヨハネによると、この罪状書きは、ユダヤ地方語であるヘブライ語、ローマ帝国の公用語であるラテン語、そして当時の世界語としてのギリシャ語の3か国語で書かれていたということです。なぜそうする必要があったのか。ここに私たちは、このことをわざわざ但し書きしたヨハネの意図を読むのです。
 主イエスは、ユダヤ人の王であるだけでなく、ギリシャ人、ローマ人にとってもそのことはあてはまる。「イエスは世の救い主である」(ヨハネ4:42)。「世の光キリスト」というモティーフは、すぐれてヨハネ的です。ヨハネの信じ、宣べ伝えた十字架の福音は、ユダヤ人の範囲を超えて、当時のギリシャ・ローマ世界に宣べ伝えられるべき、普遍的な意義と射程を持っていたのです。
◎さて、主イエスは十字架で七つの言葉を語られました。この「十字架の七つの言葉」は、主イエスの地上のご生涯を総括するものですが、その中の三つまではヨハネ福音書に記されており、その一つ一つに深い意味が込められています。
 主イエスの十字架の下には、だれが立ってその最後を見とどけたでしょうか。「(男)弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)というマルコの証言は、冷厳な歴史的事実を伝えているでしょう。十二弟子は一人残らずみな逃げ去って、主イエスの十字架の最後に立ち会った人はだれもいない。死刑執行人であるローマの兵隊たちが、何人かはそこにいたでしょう。その他には、ガリラヤの女たちがそこにいたことは、福音書の証言によってほぼ明らかです。なぜ男弟子ではなく、女弟子たちがそこにいたのかということは、考えてみると大変興味深いことです。主イエスの十字架の死を最後まで見とどけ、そのことの直接の目撃証人となったのは女弟子たちであった、ということは福音の本質にふれる何事かを語っています。ここでは、この世的な意味での強さと弱さの価値の逆転が見られるのです。
 しかし、これらの女たちがだれであったかについての証言は、四福音書で少しずつ違っています。今日読んでいただいたヨハネによる福音書19章25節では、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」とあります。4つの福音書を較べて読むと、マグダラのマリアだけが共通で、あとの女たちの名前は同じではない。特にイエスの母マリアが登場するのはヨハネだけです。そしてそこに同時に「愛する弟子」が出て来るのも、ヨハネだけです。そして主イエスの十字架の下で、このイエスの母マリアと愛弟子とが対面するのです。
 主イエスは十字架の上から、母マリアに語りかけられます。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(26節)。また主イエスは、愛弟子に向かって語られる。「見なさい。あなたの母です」(27節)。この主イエスの言葉は、大変象徴的な内容を示しています。このことは一体何を意味しているのでしょうか。
 ブルトマンというドイツの新約学者は、「イエスの母は、十字架のつまずきを克服するユダヤ人キリスト教の象徴であり、愛弟子は前者を母として、そこから生まれて来た異邦人キリスト教を示す」と述べています。異邦人キリスト教は、ユダヤ人キリスト教を母として、そこから生まれたものである、ということを証ししようとすることが、ヨハネの意図であるというのです。ユダヤ人とキリスト教とは対立的に考えられるべきものではなく、両者は母と子の深い絆で結ばれているのだ、というこの考え方は、深くヨハネ的です。
 子は母から生まれ出た後に、母を離れて一個の独立した主体となる。しかし、母と子の関係、子は母から生まれたということは、変わらないのです。成立して間もないキリスト教会が、ユダヤ人と離れて異邦人の世界に広がりつつあった時に、その成立の根、母胎、母なるものを忘れるな、というヨハネの教会への呼びかけ、勧めとして読むことができるというのです。
◎しかし、ここはもっと素直に読んだ方がよいように思います。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい、あなたの母です。」私たちの主イエスは、今、十字架にかかっておられます。手には釘、足にも釘。まもなく息を引き取られようとしておられます。その十字架の足元に私たちは座る。そのとき、主イエスは、私たちを互いに紹介してくださるのです。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい、あなたの母です。」そして、主イエスのもとに、新しい家族が生まれたのです。
 主イエスが十字架につけられたとき、弟子たちは逃げ去りましたが、最後まで主イエスのそばにいた者たちがいた。そして主イエスのそばに集まる者たちを、主は、お互いに紹介してくださいました。血のつながりがあるわけではありません。幼いころから寝食を共にしていたのでもない。共通しているのことはただ、主イエスに愛されている、主が十字架の最後まで愛し通してくださったということだけです。そしてそのひとりひとりを、互いに母とし、子とした。この主の言葉どおり、この弟子は、主イエスの母を自分の家に引き取り、新しい家族が生まれ、歩み始めたのです。
 十字架の足元に立つ五人の人たち、そこに、今日、私たちもまた招いていただいた。その仲間に加えていただいているのではないでしょうか。主イエスは、十字架の上から、ひとりひとりに愛を注がれた。そして、やがて主イエスが天に挙げられて、主がご不在になっても、なおも共に生きる群れを創ってくださった。共に生きる共同体を創ってくださったのです。それが、私たちの教会です。私たちは十字架を仰ぐごとに、主イエスの姿を見て、その御声を聞くのです。
 ――隣にいる人をみてごらん。年老いた者よ、隣の人を見てごらん。これは、あなたの息子、孫たちだ。若者たちよ、隣の人をみてごらん。これはあなたの母だ、あなたの父だ。ここにあなたの家族がいる――。
◎プロテスタント教会では、そのことが強調されることがなくなってしまっているかもしれませんが、教会は独身であることを大切にしてきました。独身で生きる決断、その生きる道を示し続けてきたのです。今は、少なくともこの日本では、独身であることはそれほど少数者ではなくなりました。けれども、結婚をして子どもを育てることが当然とされた社会にあって、その社会の風潮に逆らうようにしながら、教会は独身であることの意義を強調してきたのです。
たとえば、今でもローマ・カトリック教会では、司祭、シスターは結婚いたしません。あるいはプロテスタント教会においても、実はそのような実例があった。たとえば私たち日本キリスト教会には、その歴史において「婦人伝道者」と呼ばれる女性教職が、大切な伝道の働きを担ってくださいました。結婚をせず、教会に仕えることを選び取った人たちです。特別にそのような名前が与えられているわけではありませんけれども、神さまからひとりで生きるようにと招かれた者たちがいます。
どうして教会は、この独身性を大切にしてきたのか。このような文章を読んだことがあります。「司祭、修道女というのは、他の人が孤独に生きなくてすむように、自ら孤独に生きることを選んだ者たちだ。小さな家ではなく、大きな家を作るように召された人たちだ。」
私はこの言葉に心惹かれます。私たちは個人主義、利己主義になると、次にはそれが家族主義になって、小さな小さな安全地帯を築こうとしてしまいます。けれども、それはどんなに息苦しいことでしょう。私たちが抱える、人には言えない、一番厳しい問題というのは、家族の中から起こることが多い。
けれども主イエスはここで、大きな家を創ろうとされておられます。そしてそのとおり、教会という、新しい家族が十字架のもとで生まれた。私たちはここで、主イエス・キリストを兄とし、神を父とする大きな家族をつくる。その大きな家族のもとでもう一度新しくされ、遣わされて、それぞれの家に帰って行くのです。
聖書によれば、本当の家とは戸籍に記されているような家のことではありません。教会です。そしてここに集まり、十字架のもとに立ち、主イエスに愛し通されることを確認しながら、もう一度それぞれの家に遣わされる。そのことを繰り返しながら、私たちは生きています。
2019年の秋、コロナ禍の前の年ですが、日本に来たローマ教皇フランシスコが、東京ドームで行われたミサで、次のように説教しました。「個人の幸せを主張する利己主義は、実に巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします。」そして続けます。「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる『わたし』に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる『わたしたち』、これしかありません。」
主は、十字架によって、新しい家族をお創りくださった。それは、この世界を「私たち」として生きる家族です。そして私たちは、この礼拝で互いの存在を喜び、喜びと悲しみを分かち合い、互いが主イエス・キリストに愛されていることを祝う。そうして、共に生きる。そのようにして、いつでも「私たち」として生きる群れを創りながら、この社会の中でパン種として生きていく。主はここに、新しい群れを創ってくださいました。
私たちは、十字架のもとで、共に歌い、共に喜び、共に嘆き、祈り合い、そして主の食卓を囲み続けます。そのとき、主の御前に祝された家族の集いを続けているのです。

3月27日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 4章14~21節 2022年3月27日(日)礼拝説教
「わたしに倣う者になりなさい」  牧師 藤田 浩喜
◎今日の4章14~21節は、コリント教会の分派争いについて論じてきた最後の結論です。パウロは言います。「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」(14節)。
 13節までのパウロの語調は、彼らに恥をかかせることを目的としているかのような強いものでした。しかしパウロはここで自らの真意を語ります。パウロの目的は、彼らに恥ずかしい思いをさせることではなく、彼らを正すことです。そのために、愛する自分の子供として諭しているのです。パウロの叱責はあくまで愛から出たものでした。パウロは今、心からの愛をもって、コリントの信徒たちに語りかけるのです。
 そして、自分とコリントの信徒たちとの関係が、特別なものであることを強調します。「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」(15節)。コリント教会はパウロの福音宣教によって生まれた教会でした。開拓伝道によって生まれた教会でした。その意味でまさにパウロはコリント教会の生みの親と言えます。
 パウロの後、様々な伝道者がコリント教会で働いたことでしょう。パウロはその伝道者たちのことを、ここで「養育係」と呼んでいます。この養育係とは、当時一般的であった男の子をしつける奴隷のことです。6歳から成年に至るまで、養育係はその男児の付き人として日常生活を見守り、規律を教え、マナーを教え、また勉強も教えて、その子の世話全体を担当しました。ですから奴隷とはいえ、尊敬に値する者であり、実際に尊敬を受けていたようです。その子の成長にとって、この養育係は非常に重要な役を担いました。
 パウロは、コリント教会で働いてきた伝道者たちは、この「養育係」だと言います。養育係が大きな働きをし、尊敬に値する者たちであるように、コリントで働いた伝道者たちはすばらしい働きをしました。しかし、彼らは父親ではない。コリント教会の父親はパウロだけなのです。
 パウロはここで、自分がコリント教会にとって特別な存在であることを強調しています。彼は父としてコリント教会を諭そうとしています。パウロは父ですから、決してコリント教会に恥ずかしい思いをさせることを目的としているのでありません。あくまで父としての愛をもって諭そうとしているのです。
 ただ注意しておきたいことは、パウロがコリント教会を生んだといっても、それは彼自身の力によってなしたということではありません。パウロはここで「福音を通し、キリスト・イエスにおいて、わたしがあなたがたをもうけた」と言っています。彼らが回心に導かれたのは、あくまで「イエス・キリストにおいて」でした。つまり、彼らを回心に導いたのはキリストなのです。キリストの御霊が人の心の内に働かれることがなければ、罪人が回心に導かれることはありません。
◎こうしてパウロは、自らがコリント教会の霊的な父であり、それゆえ大きな愛をもっていることを明らかにしたうえで、16節で勧告の言葉を述べています。
 「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」パウロは自分に倣うようにと、コリントの信徒たちに勧めました。自分に倣うようにと、なぜ彼は命じることができたのでしょうか。これはもちろん、コリントの信徒たちを、個人的に自分に引き寄せようとしているのではありません。他の指導者に心を寄せることなく、自分から離れないことを望んでいるのではありません。
 パウロが望んでいたのは、彼らが自分に倣うことによって、キリストに倣う者となることでした。パウロ自身は、ひたすらキリストに倣って生きていました。ですからそのパウロに倣えば、結局、キリストに倣うことになるのです。
 パウロは決して、自分が模範だと考えていたわけではありません。自分のあり方を基準として確立しようとしているわけではありません。彼もまたキリストに倣う者でした。そして、キリストに倣う彼の生き様に倣うことによって、彼らをキリストに従う者にしようとしていたのです。
 福音宣教というのは、決して特定の思想や理論を伝えることではありません。キリストの思想や、聖書の教えをただ伝えることではありません。キリストを信じることは、生きることの全体に関わるものです。そしてそれは、理屈だけで伝わるものではありません。実際に、キリストを信じている人の生き様と共に示されるのでなければならないのです。
 理屈でどんなに説明されても、それだけで人がキリストに導かれることはありません。それによってキリスト教的になることはあっても、キリスト者になることはない。キリスト者とは、キリストに従う者です。キリストに従って生きる者です。人をそのようなキリスト者に導くことができるのは、実際にキリストに従っている者にしかできません。ですからパウロは、自分自身を指し示しつつ、福音を宣べ伝えました。自分自身を提示しつつキリスト者の生き方を語ったのです。
 このように、私たちが福音を本当に人に勧めようとするなら、福音が生き方として現れていることが必要です。自分が福音に生きていなければ、だれもその人が語る福音に耳を傾けることはありません。けれども、福音に生かされるというのは、立派な人間になるということではありません。どこから見ても申し分のない人間になるということではありません。立派でなくても、弱くても構わないのです。しかし、その自分たちの弱さやまた罪深さの中で、自分を支え、生かす御方がおられることを示すことです。自分が究極的にだれによって支えられ、平和を得ているかを示すことなのです。
◎パウロは、この勧告を現実化するために、同労者テモテをコリント教会に遣わしました。17節にこうあります。「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。」
 テモテはパウロによってキリスト教信仰に導かれた者であり、第二回伝道旅行以降、パウロについて歩いたまさに助手的存在でした。パウロがテモテのことを「私が愛する子」と言っているのは、テモテがパウロの宣教によって回心に導かれたことを表しています。テモテはまた、「主にあって忠実な子」でした。これは、主イエスに対する信仰の誠実さを意味しているのです。
 このテモテが、コリント教会に派遣されました。それはコリントの信徒たちが、パウロに倣う者となるように指導するためですが、そのためにテモテはまさに最良の人物でした。というのは、テモテ自身がまさに「パウロに倣う者」であったからです。テモテこそ、パウロに倣う絶好の見本でした。
 そしてパウロは、このテモテが「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」と述べています。「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」とは、キリストを信じるパウロの信仰のあり方、生き方全体を指します。「生き方」と訳されている言葉は、「道」という言葉です。「キリスト・イエスにあるパウロの道」ということです。パウロの信仰的生き様ということです。それをテモテがコリントの信徒たちに思い起こさせるのです。コリントにおけるパウロの姿を思い起こさせて、自らのあり方を問うように勧めるのです。
◎4章18~21節には、コリント教会の高ぶる者、誇っている者に対する最後の警告が記されています。パウロの語調もここで再び厳しくなります。「わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです」(18節)。
コリント教会には、もうパウロは来ないといって、思い上がっている者たちがいました。彼らは、パウロは結局自分たちと対面する勇気がないのだ、彼は弱虫だと批判していました。パウロをおとしめて、勝手気ままにふるまう者たちでした。しかしパウロは19節で言います。「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらいましょう。」
 こうしたコリント教会における高ぶった人たちの状況に対して、パウロはできるだけ早くそちらに行くという意志を表明しています。もちろん「主の御心であれば」という条件付きですが、とにかく主が許してくだされば、すぐにでもコリントに行くと言います そして、そちらに着いたら、「高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらいましょう」と言います。思い上がって語っている者たちの背後に、神の力が本当に働いているのか、それとも、彼らは空しい言葉を発しているだけなのか、それをパウロは確かめると言うのです。
 ここでパウロは「言葉」と「力」を対比しています。コリントのあるギリシアでは、知恵や哲学といった「言葉」が高く評価されていました。しかし問題は「言葉」そのものではなくて、「言葉」に「力」があるかどうかだ、とパウロは言うのです。どんなに崇高に聞こえる言葉、人を惹き付ける知恵であったとしても、それが言葉だけのことであるならば空しいのです。知的欲求を満たすことはできるかもしれません。優越感に浸ることはできるかもしれません。しかしそうした世の知恵や言葉には、本当の力はないのです。
◎そして、パウロは最後に、強い警告の言葉でこの段落を終えています。「あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか。それとも、愛と柔和な心で行くことですか」(21節)。パウロはコリント教会の父です。ですから、子どもを罰する者として行くことも、また子供を愛する父として行くことも可能でした。パウロは使徒として、彼らをさばく権能をもっていました。彼がどういう存在として行くかは、コリント教会の信徒たちの態度にかかっているのです。
 パウロは、「今こそ立ち止まって、自分たちのあり方を省み、改めよ」と迫っています。立ち止まって、自分自身の信仰のあり方を省みることは、私たちにとっても大切なことです。今私たちが待つのは、パウロのような使徒ではなく再臨のイエス・キリストです。そのお方と出会うためにふさわしいあり方をしているかと自らに問うことは、私たちの信仰にとって誠に重要なことなのです。そのような信仰の振り返りを、絶えず忘れないようにしましょう。

3月20日礼拝説教

出エジプト記 20章8~11節    2022年3月20日(日)
「安息日を聖別せよ」  牧師 藤田 浩喜
◎私たちは十戒を、恵みの言葉、神さまの救いへの招きの言葉、神さまとの親しい交わりの中に留まり続けるための、導きの言葉として受け取ります。これは、今朝の第四戒を受け取る場合も同じです。この戒めを、自分を縛りつける戒めとしてではなくて、私たちの信仰が守られるようにと神さまが私たちに与えてくださった恵みの言葉、愛の言葉として受け取るということです。
◎「安息日を覚えて、これを聖とせよ」との戒めは、要するに七日に一度「休め」という戒めです。これはとても面白い戒めです。私たちが戒めとして考える場合、「休め」という戒めは思いつかないでしょう。「働け」というのなら分かります。もっと働け、休まずに働け、そう言うなら分かりますけれど、神さまは「休め」と命じられるのです。何とも不思議な戒めではないでしょうか。
 私たちは七日で一巡りのカレンダーに従って生活しておりますけれど、この七日で一巡りの暦は、明治時代に外国との付合いが始まって、政府がこれからこの暦を用いると決めて使うようになったものです。それまでは、月の上旬、中旬、下旬という言葉に残っておりますように、一ヶ月30日を10日毎に三つに分けていました。そして、休みと言えば盆と正月しかありませんでした。それがいきなり七日で一巡りとなり、日曜日は休みになった。私たちは当たり前だと思っていますけれど、これも初めはなかなか大変だったようです。「日曜日を休みにするなんてもったいない。無駄だ」と言う人の方が圧倒的に多かったのです。特に、使用人を使っている人にとってはそうでした。「何で七日に一日もの休みをやらなければならないのか。そんなことは怠け者の考えることだ。」そんな風潮だったのです。「ブラック企業」などという言葉がありますけれど、そもそも日本の文化の中には「休む」ことを大切に考える伝統がないのだろうと思います。しかし、七日で一巡りのカレンダーは、日曜日が休みの日ということが前提になっています。それは、この第四戒がルーツになっているわけです。「休む」ことは神さまの御命令ですから、とても大切なことなのです。
◎では、どうして神さまは七日に一度休むように命じられたのか。理由は二つあります。一つは、出エジプト記20章11節にあります、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」ということです。神さまは六日間で天地を造り、私たちを造ってくださった。そして七日目に休まれた。だから、そのことを覚えて私たちも休むのだと言うのです。ですから「休む」とは、ただボーッとすることが目的ではなくて、神さまの創造の御業を覚えて、これに感謝するために休むということになります。こちらの理由が第一の理由と言ってよいと思います。  
そしてもう一つの理由は、申命記5章15節「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」とあります。イスラエルはエジプトの国で奴隷であった。その時は休みなどないのです。しかし、神さまによってそのエジプトから救い出されて、自由な者となった。そのことを覚えるために、七日に一日を安息日として守らなければならないというのです。神さまの救いの御業によって今の自分がある。そのことを覚えるための日だということです。ですから安息日は、自分だけではなくて、「息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」となるわけです。
 つまり、安息日は、神さまがすべてを造り、私たちを造り支配してくださっていること、そして私たちを救って神さまのものとしてくださった、そのことを覚えるための日として守るよう命じられたということなのです。ということは、安息日は仕事をしないわけですが、何もしないのかと言えば、そうではありません。神さまの創造の御業と救いの御業を覚えるわけですから、神さまを礼拝するのです。礼拝を守る日、礼拝を捧げる日、それが安息日なのです。
◎さて、安息日は、神さまが六日間で世界を造って七日目に休まれたわけですから、週の最後の日、つまり土曜日となります。しかし、私たちは日曜日に礼拝しています。それは、安息日の一つの目的が、出エジプトの出来事という神さまの救いの御業を覚えるためでありましたが、私たちにとっての救いの御業は、主イエスの十字架と復活です。ですから、主イエスが復活され、私たちを一切の罪の裁きから解き放ち、永遠の命の希望に生きる者としてくださった週の初めの日、日曜日を、神さまを礼拝する日としたわけです。
 それにしても、一週間に一日丸々神さまの恵みを覚えるために仕事をしないというのは、やっぱりもったいないのではないか。その分色々なことができるのではないか。そう思われる人がいるかもしれません。そうなのです。自分の都合で言えば、一週間に丸々一日神さまのために捧げるというのはもったいない、そんな思いが私たちの中にはあるのだと思います。この「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という戒めで、「聖とせよ」というのは、神さまのものとして取り分けよということです。安息日は私のものではなくて、神さまのものなのだということなのです。
 私たちは、時間というものを自分のものだと思っています。しかし、この安息日の戒めは、私たちの時間は神さまのものだということを覚えるためのものなのです。七日で一巡りの暦は、この時間の支配者が神さまであることを示していると申しましたけれど、実に私の時間、私の命、私の体、私の富、それらはすべて神さまによって与えられたものなのです。そして、そのことを覚え、感謝する。それが安息日を守るということの意味なのです。
 七日に一度、丸々一日、神さまのためだけに用いる。自分の時間ではなくて、神さまの時間とする。それは大変なことです。もったいないとすぐに思う。それは、私の人生、私の時間は私のものだと思っているからでしょう。その思いは本当に根深いのです。神さまとの愛の交わりに生きるより、自分の欲を満たすために生きたいのです。神さまはそのような私たちの有り様をよくよく御存知ですから、私たちが神さまに造られ、神さまに救われた恵みの中に留まることができるようにと、この戒めを与えられたのです。
 十戒の第一戒において、神さまは、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と言われました。神さまだけを神さまとする。しかし、私たちはすぐに自分を神さまにしてしまう。自分が主人になってしまう。そして、自分の欲に引きずられていってしまいます。神さまが私の主人であるということをすぐに忘れてしまう。だから、そのことを私たちが決して忘れないようにと、安息日の戒めを与えてくださったのです。
 神さまが私たちの主であられる。私の命も、私の時間も、私の能力も、すべては神さまが与えてくださったもの。そのことを、自分の心に、自分の体に、自分の生活に刻んでいく。それが安息日の戒めなのです。主の日の礼拝を守ることが習慣になっている人が多いと思います。それはとても大切な習慣です。良い習慣を抜きに、良き信仰生活は形成されないでしょう。この安息日の戒めを軽んじれば、私たちはすぐに自分を人生の主人にしてしまうのです。私たちが神さまとの親しい交わりに生きるための戒め、まさに私たちの信仰が守られる道としての戒めが、この安息日の戒めなのです。
◎主イエスの時代、この安息日を守るためにたくさんの規定が定められておりました。「いかなる仕事もしてはならない」とありますので、この「いかなる仕事」とは何を指すのか、それを具体的に列挙していきました。○○をしてはいけないという禁止条項を作ったわけです。その数は、大きな項目として39あり、その中にそれぞれ6つずつ規定がありましたので、全部で234の禁止条項がありました。これを守ることが安息日を守ることであると理解されていたわけです。この安息日の規定をめぐって、主イエスとファリサイ派の人々の間で幾つもの対立が起きました。先ほどお読みいただきましたマタイによる福音書12章1~8節にありますのも、その一つです。
 安息日に主イエスと弟子たちが麦畑を通った時、弟子が麦の穂を摘んで食べたのです。ファリサイ派の人々がこれを見て咎めました。これは、他人の畑の麦を取ったらダメだという話ではないのです。弟子たちが麦の穂を摘んだ。これは収穫だ。さらに、麦の穂を揉んで食べたわけですが、これは脱穀の仕事だ。つまり「安息日規定に反する」と咎めたのです。主イエスは、そのような安息日の戒めの理解の仕方は違う、そう言われました。ファリサイ派の人々は、安息日の戒めを守るということをがんじがらめの戒めとして受け取っていたわけですが、主イエスはそうではない、神さまはこの安息日の戒めによって憐れみを示されたのだ、男も女も牛もろばも奴隷もみんな神さまの恵みに生かされている。そのことを覚えて感謝を捧げ、休む。それが安息日の意味なのに、どうして自分を縛り、人を縛るようなこととして受け取るのか。そう言われたわけです。
 これはとても大切なことです。私たちもファリサイ派の人々のように、安息日の戒めをそのようなものとして受け取りかねないからです。キリスト教会には「聖日厳守」という言葉があります。主の日の礼拝を厳守するというのです。厳守ですから、厳しく守るのです。確かに、主の日の礼拝を守ることは大切です。ここに私たちの信仰が守られる道があることも確かです。しかし、そうしない人を裁く、あれはダメなキリスト者だ、そのような思いが生まれるとすれば、それは違うと言わなければならないのだと思います。今の時代、様々な理由で主の日の礼拝を守れない状況があります。そのような人に対して、何とか主の日の礼拝が守れるように励まし、祈り、支えていく。それが、主の日を神さまの憐れみの日として守るように命じられている私たちの有り様なのでしょう。
 戒めは確かに戒めです。だけれども、私たちはこれを神さまの愛の言葉として聞く。その時、この戒めによって、家畜や奴隷までもが休むようにと命じられた神さまの憐れみの心に触れるのです。この戒めは人を裁くためのものではなくて、神さまとの愛の交わりへと私たちを招き、その恵みの中に留まるようにと促す戒めなのです。そのような神さまの御心を、決して忘れないようにしたいと思います。

3月13日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 4章8~13節 2022年3月13日(日)礼拝説教
「キリストのために愚か者となる」  牧師  藤田 浩喜
◎先週の箇所に続いて、パウロは分派を形成していたコリントの信徒たちの高ぶりを痛烈に批判していきます。パウロはまず、コリントの信徒たちの姿について8節でこう言っています。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。」
 「満足し」と訳されている言葉は、食べて満腹していることを意味する言葉です。彼らは、霊的な食べ物を食べて満腹し、豊かになっていました。宗教的な意味、霊的な意味で、コリントの信徒たちは十分に円熟した状態になっている、ということです。
 これは、もちろんパウロの皮肉です。本当にそのような霊的豊かさをもっていると認めているのではありません。むしろ、彼ら自身がそう思っているのです。霊的な自己満足ほど危険なものはありません。なぜなら、満足している者は霊的な求めや渇きをもたないからです。自分の霊的状態を自分で良しとし、神ご自身とのさらなる交わりや、神のみ言葉を求めなくなるからです。
 しかし私たちは、天の御国に至るその日まで、み言葉の糧を必要としないような満足の状態に至ることは決してありません。この地上にある限り、完全で満ち満ちた霊的知識に至ることは決してありません。霊的な意味で満腹して、もうこれ以上はいらないというような状態に達することは決してありません。完全な恵みと霊的な富を受けることができるのは、天の御国においでです。
 ですから、地上においては、私たちは常に求める者でなければなりません。渇く者でなければなりません。主イエスは、「義に飢え渇く人々は幸いです。その人たちは満たされる」(マタイ5:6)と言われました。また「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」(同7:7)とも言われました。私たちの地上における歩みは、常に渇きをもち、求めを持つものである必要があるのです。
◎パウロはコリントの信徒たちの状況について、さらに8節の後半でこう述べています。「…わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちもあなたがたと一緒に、王様になれたはずですから。」
 パウロは、彼らが王様になっていると語りました。これも、パウロがコリントの信徒たちの思い上がりを皮肉った言葉だと言えます。彼らはすでに満足し、霊的な意味で世を支配する者になったとして思い上がり、人々を、そして使徒たちさえも裁くようになっていました。
 コリント教会に福音を宣べ伝えたのはパウロであり、その働きを引き継いだのはアポロでした。しかしコリントの信徒たちは、そうした福音宣教者の教えにとどまっていたのではなかったのです。彼らはそれを超えていきました。使徒たちが伝えた福音を超えて、いわばそれを歪曲していきました。それが、彼らの自己満足と高ぶりを招いていたのです。
 使徒たちの教えは、旧約聖書に基づいていましたから、使徒の姿勢は基本的に6節にあったように、「書かれているもの以上に出ない」というものでした。そして、キリスト者は常に、聖書に書かれていることを越えない、という姿勢をもつ必要があります。
 しかし、コリントの信徒たちはそうではありませんでした。聖書の教え、使徒たちの教えにとどまるのではなく、それを乗り越えて、独自の福音理解になっていきました。聖書にとどまるのでなければ、結局、この世の思想や哲学によって、福音は占領されてしまうことになります。
 コリントの信徒たちの福音は、当時のストア哲学の決定的な影響を受けていました。福音がストア哲学によって歪曲されていました。ストア哲学では、知恵のある賢人こそが王者とされていましたから、コリントの信徒たちは、信仰によって知恵を得て王様になったと考えていたのでしょう。そして高ぶっていたのです。
◎以上のようにコリントの信徒たちは、自分たちは満ち足りており、豊かであり、王様だと言っていたのですが、パウロはそういう彼らと自分たちを比較します。パウロは9節で、自分たち使徒のことを象徴的に「まるで死刑囚のよう」だと言います。「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚ように、最後に引き出される者となさいました。わたしたちは、世界中に、天使にも人にも見せ物となったからです。」
この9節のみ言葉の背後には、当時のローマ帝国における競技場の文化があります。ローマ時代の都市では、競技場で剣闘士が戦い、殺されるのを観客は見て楽しんだそうです。それだけでなく、死刑囚が猛獣と戦わせられたり、また囚人同士が戦わせられて、それが見せ物となっていました。
 パウロはそういうローマの文化を念頭に置きながら、自分たち使徒は、この競技場に最後に引き出される死刑囚のようなものだと言うのです。多くの観客の目にさらされ、嘲笑の的にされ、そして最後には殺されていく。それはこの世的に言えば、人間の最低の運命です。そういう者たちに自分たちをたとえています。それはまさに「見せ物」でした。群衆を楽しませるための存在であり、娯楽の一つでした。
 パウロが自分たち使徒をこのような見せ物の死刑囚にたとえたとき、十字架につけられたイエス・キリストのことを思っているのは確かでしょう。主イエスはまさに、見せ物の死刑囚のように引き出され、人々の嘲笑を浴び、嘲りの中で殺されました。主イエスはまさに見せ物の死刑囚でした。そしてそのイエス・キリストに従う者も同じようになる。とりわけ使徒は、キリストのゆえに最も卑しめられ、最も低くされる者である、とパウロは述べているのです。
 そしてパウロはその自分たちとコリントの信徒を比較します。「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いですが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されていますが、わたしたちは侮辱されています」(10節)。
 人の目から見れば、コリントの信徒たちはこの世的に賢い者であり、強く、尊ばれていました。これに対して、パウロたちは、この世的には愚かな者であり、弱く、卑しめられていました。コリントの信徒たちは、人間の知恵、この世の知恵によって高められていました。使徒たちは、人間の知恵またこの世の評価からすれば、低められ、侮辱されていました。しかし、人間の知恵と神の知恵は異なります。人の評価と神の評価は異なるのです。
 パウロはここで比較をやめて、自分たちが受けてきた苦難に焦点を当てて語ります。「今の今までわたしたちは飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、労苦して自分の手で稼いでいます」(11~12節前半)。
 パウロはユダヤ人からは裏切り者として迫害され、また異邦人からも邪魔者として、社会に混乱をもたらす者として迫害されました。この「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく」というのは、イエス・キリストの苦難の姿に重なるものです。キリストの苦難が、使徒の生涯において繰り返されるのです。それゆえ、パウロは決してこれらの苦難を思いがけないことだとは考えていませんでした。あってはならないこと、本来、克服されなければならないこととも考えていません。むしろ、これらの苦難を、キリストに従う者、とりわけ使徒職の真正さを示すしるしとみなしています。彼は、キリストのごとくに苦難にあうことを誇りに思っていたのです。
 さらに12節の後半から13節にかけて、パウロは、自分が苦難にどう対応してきたかを述べています。それが「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」という部分です。
 「侮辱されては祝福する」というのは、まさに主イエスが命じられたことでした。主は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27~28)と命じられました。パウロはまさに、この主のみ言葉に従って生きていたのです。
 また「迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」というのも、主イエスの命令によることです。主は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と命じられました。パウロはまさに、主の言葉に生きていたのです。
◎13節の後半が今日の箇所のまとめの言葉です。「今に至るまで、わたしたちは世の屑(ちり)、すべてのものの滓(かす)とされています。」本当に激しい言葉だと思います。「わたしたちは世の屑、すべてのものの滓」だとパウロは言うのです。
 コリントの信徒たちは、苦難を軽蔑していました。この世的に高められることを求めていました。そして、パウロの教えを離れ、福音の真理から離れていました。キリストに従うということ、またキリストに対する真の奉仕というのは、人間的な勝利や、人間の誇りにおいて明らかになるのではありません。むしろパウロのように、恥辱と弱さの中で明らかにされるのです。
 「屑」や「滓」というのは、捨てられることによって、そこがきれいになるものです。そういう貢献の仕方をするものです。使徒たちはまさに、そういう意味で、世を清めるための犠牲となりました。そして言うまでもなく、イエス・キリストは、神の御子であるにもかかわらず、自らが「屑」や「滓」の扱いを受けることによって、世に救いの道を開かれました。パウロが言いたいのは、キリストに従う者は、キリストが世から蔑まれ、排斥され、「屑」や「滓」の扱いを受けたように、同じ運命を共にするということなのです。
 パウロの言葉は、二千年前のコリント教会に対してだけでなく、今の時代のキリスト者、教会に対する挑戦でもあります。キリストを信じるということは、人生の成功や問題のない生活の保証になるわけではありません。むしろ逆でしょう。
 私たちは、信仰者として何を求めているのでしょうか。コリントの信徒たちの道か、パウロの道か。二つに一つしかありません。そして聖書が明言する祝福の道は、イエス・キリストにひたすら従って生きたパウロの道です。自己満足の信仰ではなくて、キリストを見つめ、ゴールを見つめて走り続ける信仰です。そのとき私たちは、約束のごとく栄光の冠を得ることができます。それがイエス・キリストの約束なのです。

3月6日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 4章6~8節 2022年3月6日(日)礼拝説教
「すべては神から受けたもの」  牧師 藤田 浩喜
◎先週の箇所でパウロは、御言葉の宣教者というのは、あくまで「キリストに仕える者」であると語りました。また、「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」であると語りました。管理者は主人から大切な働きを任されたしもべにすぎず、彼らには何より「忠実」が求められています。
 パウロは、こうした御言葉の宣教者の性質や働きを、自分やアポロを例に出して語りました。しかし、パウロがコリント教会の信徒たちに伝えたかったのは、決して御言葉の宣教者自体のことではありません。御言葉の宣教者とはこういうものだ、パウロとアポロとはこういう存在だということを教えるのが、パウロの目的ではありません。
 本当に語りたいのは、パウロやアポロのことでも、二人の関係のことでもない。語りたいのは、問いかけたいのは、コリントの信徒たちの姿勢なのです。分派を作って、いい気になっているコリントの信徒たちの姿勢。それをこれまでは、少し遠回しにパウロやアポロのことを例に出して語ってきましたが、ここからは率直に語ろうというのです。
◎パウロがコリントの信徒に伝えようとしていることが二つありました。
 第一は、「わたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶ」ということです。「書かれているもの以上に出ない」。ここで「書かれているもの」とは何かが議論になりますが、パウロはしばしばこの表現で旧約聖書に言及しています。ですからこれは、旧約聖書を指していると考えるのが適当でしょう。つまり、聖書に書かれていること以上に出ない、聖書を超えないということです。
 コリントはギリシアの大都市です。そしてギリシア人たちは、一般的に知恵を誇りとしていました。その傾向はコリント教会にも及んでいたようです。つまり、コリントの信徒たちは、この世の知恵や哲学を尊重していました。そして彼らからすれば、パウロが語る福音はあまりにも単純に思えたのです。
 十字架の福音は単純すぎるように感じました。それゆえ彼らは、その単純な福音に、自分たちの哲学を付け加えていったのです。「書かれているもの」つまり聖書を踏み越えていきました。「聖書を乗り越えよ」というスローガンさえあったと言われます。それがまた、熱狂主義をも生みました。聖書を超えることが自由ならば、人間の宗教的熱狂に歯止めがかけられることはないからです。また、聖書に自分たちの哲学を加えるとすれば、その哲学の教師である人間が重視されることになります。人間が高められることが起こるのです。パウロは、コリント教会の具体的な問題の根元に、この「聖書を超えようとする彼らの姿勢」があることを見抜いていました。神の言葉との関係が正しくなかったために、具体的な問題を生じていたのです。
 このことはそのまま、現代の私たちにも当てはまることです。私たちの信仰の性質を決定的に規定するのは、私たちが神の言葉である聖書とどういう関係をもっているか、ということです。神の言葉と自分との関係。つまり、どのような姿勢で聖書を読んでいるかということです。
 コリントの信徒たちがしていたように、聖書を超えて、それに当時の哲学を付け加えるということは、自分を基準にして、聖書をそれに従わせることです。その場合聖書はもはや、私たちの信仰と生活の規範ではなくなってしまうのです。
 ◎パウロがコリントの信徒たちに教えようとしたもう一つのことが、6節後半にあります。「だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。」
「一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにする」ことと、自分が「高ぶる」ことは別のことのように思えますが、そうではありません。「一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにする」ということは、そういう判断力が自分にあると考えているということです。ここでいう「一人」「ほかの一人」というのは、御言葉の宣教者のことであり、コリント教会での分派のことを指しています。そういう教職者たちを判断できる力が、自分にあると思っているのです。それはまさに高ぶりにほかなりません。
 パウロは、コリントの信徒たちが分派を作っていることの背後に、彼らの高ぶりがあることを見抜いていました。しかし高ぶりというのは、自分に自信がないことの裏返しでもあります。自分の不安の裏返しでもあります。ですから、自分が依存し、帰属できる人を見出して、その人を担ぎ出すことで、自分を支え、また自分を高めようとするのです。
 ありのままの自分を本当に受け入れることができている人、神によって受け入れられているがゆえに、自分も自分を受け入れて安心している人は、いたずらに人に依存することはなくなります。それで自分を支えたり、高めたりする必要はないからです。ですから、神との関係がどういうものであるかということが、高ぶりや謙遜と深い結びつきがあるのです。
◎その彼らに対して、パウロは鋭く切り込んでいくことになります。それが7節です。「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。」これまでパウロは、「あなたがた」と複数形を用いて書いてきました。しかしここで突然、「あなた」と単数形になります。これは一人ひとりに強く問いかけるためと言ってよいでしょう。いや問いかけるというより、問いつめるといってもよい強さがここにはあります。
 ここは直訳すれば、「だれがあなたを特別視するのか」です。これはパウロの痛烈な皮肉とも言えます。「だれがあなたを特別視するのか。」「だれもいるわけがない」と続くのです。パウロは、高ぶっていい気になっている彼らに対して、彼らの主張には全く根拠がないことを暴露します。ですからこれは、「そんなに思い上がっているけれども、あなたはいったい自分を何様だと考えているのか」という意味なのです。
 そして輪をかけるようにして、パウロは彼らの高ぶりの愚かさを指摘します。
 「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。」何もないではないか。すべては神から受けたものではないか、ということです。私たちに与えられているものはすべて、神から与えられたものです。まず霊的な賜物がそうです。悔い改めと信仰に導かれたこと、イエス・キリストの救いにあずかり、義とされ、子とされ、聖とされたこと。霊的な知識を与えられ、永遠の希望の約束を与えられていること。そのすべては、神の恵みの賜物です。何ひとつ、自分の努力で獲得したものではありません。
 与えられたものは、霊的賜物だけではありません。私たち一人ひとりの体も、命も、健康も、才能も、財産も、地位も、それらもまた神から与えられたものにほかならないのです。財産や地位ということになりますと、私たちは、こうしたものは自分の努力や勤勉によって獲得したと思いやすいのです。しかし神が与えてくださらなければ、この体も才能もありません。神が支えて、導いてくださらなければ、それらを生かして生きることもできません。ですから、財産も地位もまさに神の賜物にほかならないのです。
 パウロはこの手紙の15章10節で「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と言いました。口語訳では「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ている」となっていました。私たちがそれぞれ「今日あるを得ている」のは、まったく神の恵みによるのです。神によってこの世に生を与えられ、さらにはキリストにある真のいのちを与えられ、多くの賜物を与えられ、生ける糧を与えられ、家族を与えられ、友人を与えられ、教会の交わりが与えられて、「今日あるを得ている」。私たちはそういう存在です。神の恵みによって生かされてきた存在です。そして今も生かされています。そういう存在であるならば、どうして高ぶることができるだろうか、とパウロは言うのです。
 昨日、102歳で天に召された姉妹の葬儀を行いました。この姉妹は、長い人生において色んな浮き沈みがありましたが、その生き方の拠り所はイエス・キリストでした。そして主にあって神さまから与えられる状況や賜物を、不足を言うこともなくただ感謝して受け取っていました。姉妹の人生はその意味で、この世的にはどう映ろうと、「神の前に大変豊かな」人生だったのです。
◎7節の最後で、パウロはこう続けています。「もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」。すべてのものが、神からのいただきものであるならば、決して人は高ぶることはできません。むしろ、高ぶりとは正反対の態度、謙虚にならざるを得ないはずです。与えてくださった方への感謝に生きるしかありません。
 確かにこの世の基準からすれば、一人ひとりには、誇るものがあるかもしれません。また誉められることもあるでしょう。コリントの信徒たちもそうでした。パウロ自身も認めているように、彼らは確かに、この世の基準からすれば、誇れるものを持っていたかもしれません。
 しかし、神の前に立つならば、どうでしょうか。誇るものがあるでしょうか。神に対して誇れるものがあるでしょうか。また神からいただかなかったものかあるでしょうか。神に依存していないものがあるでしょうか。何もないのです。
 自分を正しく知るための大きな手がかりが、この聖句だと思います。私たちはいつも問うべきです。自分が持っているものはどこから来たのか。「あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか」と。この問いを誡実にもち続けるとき、私たちはすべてが与えられたものであることを知って、思い上からず、むしろ感謝のうちに本当の自分を生きることができます。
 私たち人間にとって根本的に重要なのは、神の御前にある自分の存在であり、その神の御前に生きることです。そのために、私たちは神の御言葉に聞かなければならないのです。その際、「書かれているもの以上に出ない」ことが大切です。聖書を超えてはならないのです。
 神の御心は、聖書に記されています。ですから私たちは、神に服従する姿勢をもって、御言葉に聞くのです。つまり、神礼拝の中で御言葉を聞く。それこそが、神の民が健やかに生きるために根本的に重要なことです。そしてその中で、生ける神は、私たち一人ひとりを養い育て、守り、導いてくださいます。必要なすべてのものを与えてくださるのです。

2月27日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 4章1~5節 2022年2月27日(日)礼拝説教
「神のご計画の管理者」  牧師 藤田 浩喜
◎パウロは4章に入り、改めて、神の視点から福音の宣教者とは何であるかを明らかにします。コリントの信徒たちは、パウロとアポロとケファを比較して、だれが優れているかを評価し、それによって自分たちの党派を作っていました。しかし、そういうことが誤りであることを明らかにします。
 「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは、忠実であることです」(1~2節)。
パウロは自分たち福音の奉仕者を、ここで二つの言葉で表現しています。一つが「キリストに仕える者」、もう一つが「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」です。「キリストに仕える者」と訳されている言葉は、いやしい仕事をする下僕を意味します。つまり福音の宣教者は、キリストの下僕であって、主人であるキリストの命令を受けて、ただこれを遂行する者であるということです。宣教者はただ、主人であるキリストから命じられたことを行うのです。
 もう一つは「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」です。この管理者
と訳されている言葉は、主人から財産の管理をゆだねられた奴隷を意味します。大家族の家政の責任を任される者で、責任ある立場です。人の上に立って、日々の用務の指揮をする者です。しかしその人自身は、主人に従属している存在で、身分は奴隷である場合が多かったのです。
 主人の下で、多くの責任を負って、ゆだねられた務めに励む者。それがここで言う「管理者」です。それゆえ、福音の宣教者は、主人であるキリストのもとで、責任と務めを与えられて励む者なのです。
 そして彼らにゆだねられているのが「神の秘められた計画」です。人間の救いのための神の計画と言ってよいでしょう。つまり、イエス・キリストの十字架の福音です。イエス・キリストの福音を宣べ伝えることが、福音の宣教者にゆだねられた務めです。福音を伝えることがゆだねられているのであって、自分の意見や思想を広めるのではありません。あくまで、主人からゆだねられた神の知恵である福音を広め、分配するという責任があるのです。
主人から務めと責任を委ねられたのが「管理者」ですから、2節にあるように「管理者に要求されるのは忠実であることです。」「忠実である」と訳されている言葉は、誠実である、信頼に値する、真実であるという意味です。管理者は何よりも、主人から与えられた務めに対して誠実であり、真実である必要があります。信頼に値する者でなければなりません。
福音の宣教者に何より求められているのは、そのような誠実さ、忠実さです。福音の宣教者は、主人であるキリストに対して忠実であり、そしてキリストの民である教会に対して誠実でなければなりません。福音の真理を、割り引かず、また水増しせず、歪曲せずに、まっすぐに伝える必要がある。福音の真理、みことばの真理以外のことを教えてはならないのです。
 パウロは、福音の宣教者をこのような「管理者」と呼びましたが、実はこれは、牧師や伝道者だけに当てはまることではありません。聖書は、すべてのキリスト者をこのような「管理者」と呼んでいるからです。ペトロはその第一の手紙の中でこう言っています。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(4:10)。私たちは一人ひとり、主人である神から賜物を授かっています。それを管理する責任と務めとを与えられています。ですからすべての人は管理者なのです。主人に対して責任を負っているのです。そして、管理者に要求されるのは忠実であることです。賜物を与えてくださった主人であるキリストに対して誠実でなければならない。信頼に値する者である必要があるのです。           
◎こうしてパウロは、福音の宣教者とはキリストに仕える者であり、福音の管理者であることを明らかにしました。それが福音宣教者の本質です。それゆえ福音宣教者である彼は、人間の行う裁きには服さないと、次のように語るのです。
 「しかしわたしにとっては、あなたがたから裁かれたり、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」(3節)。パウロはキリストの僕であり、キリストからゆだねられた務めに対して、キリストへの責任に生きる者ですから、コリントの信徒たちの裁きや一般の人々が行う裁きは、自分にとって何の重要性もない、と言います。
 パウロは神に仕える者です。真の神、主イエスだけが主人です。パウロは確かに教会にも懸命に仕えました。しかし、教会の信徒が主人なのではありません。ですから、コリン卜の信徒たちがどう思うか、またほかのだれかがどう思うかは、彼にとっては、全く取るに足らないことなのです。パウロはキリストのみに責任を負う管理者でした。それゆえ、コリントの信徒たちの人気を博することなど、全く間題ではありませんでした。
 そしてパウロは、人の評価や裁きだけが問題ではないと言ったのではありません。3節の後半で続けて「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と述べています。パウロは、他者の評価が問題ではないというだけでなく、自分で自分を裁くこともしないと言うのです。自己評価も、他者の評価と同様に、重要ではないと言います。
 私たちは、自分のことは自分が一番よく分かっていると考えて、いつも自分を評価して生きている存在だと思います。自分がどれだけ神に仕えてきたか、教会に役立ってきたか。そういうことを考える。そして、自分のしてきたこと、していることを評価して、いい気になったり、また落ち込んだりすることがあるのではないでしょうか。
 しかし、パウロによれば、それらは意味のないことなのです。自分を裁くこと、自分を評価することは、本来自分がすべきことではありません。なぜでしょう。それは、結局そうした評価で自分を支えるようになるからです。他の人の評価、あるいは自分の自己に対する評価で、何とか自分を支えようとする。そういう生き方は、キリストに仕える者の生き方ではないとパウロは言います。他者の評価、自己評価で、自分を支えて生きるべきではないのです。
 もちろん、人の評価や、自己吟味、自己評価というものが、全く無意味であるとか、悪であるとパウロは言っているのではありません。問題は、他者の評価や自己評価に支えられる、それも根源的に支えられる人間になってはならないということです。それに捕らわれるとき、人は本当の意味で、神の前に生きることができなくなります。神の前ではなく、人の前に生きることになってしまいます。真の主人に対して生きる管理者でなくなってしまう危険があるのです。
◎パウロは「自分で自分を裁くことすらしません」と言いました。ではこれは、自分のことを見つめたり、反省したり、そういうことを一切しないということなのでしょうか。パウロは私たちに「鈍感な人間になれ」と言っているのでしょうか。自己吟味は必要ないと言っているのでしょうか。そうではありません。
 パウロは4節で「自分には何もやましいところはない」と言っています。これは要するに、自分には良心の責めはない、良心の呵責はないということです。
 パウロは良心に責められることがない生き方を心がけていました。つまり、キリストの僕として、良心的に生きていたのです。主人であるキリストとの関係に生きていました。この点では、パウロはいつも自己を厳しく問うていました。
そしてパウロは、「自分には何らやましいところはない」と言いました。良心に恥じない生き方をしていると言いました。しかし続いて4節の後半でこう言っています。「それでわたしが義とされているわけではありません」。
 つまり、良心の呵責がないからといって、それで神の前に義とされるわけではないということです。良心というものは、キリスト者が生きていくうえで非常に重要です。しかし、良心は絶対的で、最後の法廷になるわけではありません。良心的な咎めがなければ、それで神が義と認めてくださるというわけではないし、また逆に、良心の咎めを感じている人は神に義とされることはないと断言できるわけではないのです。
 パウロはキリストの前に、いつも良心的に生きていました。神の御前に咎められることのない良心を保つこと、それはキリスト者の生き方の大原則と言えます。しかし同時に、パウロは良心が最後の法廷ではなくて、最後の裁きは主のものであるとはっきりと信じていました。4節の後半にあるように「わたしを裁くのは主なのです」。主人であるキリストだけが、僕であるパウロを裁くことができます。キリストだけが、パウロの働きを評価することができます。ですから、コリントの信徒たちが裁くことなど、決してできません。裁きは主のものであって、あなたがたには関係がない、とパウロは言うのです。
◎以上の議論を踏まえて、パウロは5節でまとめ的な命令をします。「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」主の裁きは、主が来られる時、主イエスの再臨の時になされます。僕を評価し、裁くことができる資格をもつのは、主人であるキリスト以外にはいません。ですからだれも、この主に先走って裁いてはいけないのです。
 そして主の裁きとはどのようなものであるかが、5節の後半に記されています。
 「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」闇というのは、新約聖書においては罪の現実、悪を指すものですから、ここでも邪悪な行為のことが特に言われているのかもしれません。いずれにせよ、隠れていることに光が照らされて、それが明るみに出されるのです。
 さらにその日には、「人の心の企てをも明らかにされます」。すべてが明らかにされるということは、それに基づいて公正な裁きがなされるということです。人間の評価・裁きはそうではありません。人は見かけを見るのです。外に現れたものでしか判断できません。しかし主なる神はそうではない。主は心の内をも、隠されていることをも見て、明らかにし、裁かれるのです。それが主の再臨の時の裁きです。その裁きによって、人にはふさわしい報いが与えられます。5節の最後でパウロは言っています。「そのときに、おのおのは神からおほめにあずかります。」本当の評価、本当の誉れは、この時に与えられます。そして、この時に与えられる称賛だけが、永遠的な意味をもちます。ですから私たちは、その日を見つめて歩んでいくのです。永遠の誉れこそが、本当に求めるべき誉れなのです。

2月20日礼拝説教

出エジプト記20章4~7節   2022年2月20日(日)主日礼拝説教
「神の似像として生きる」 牧師 藤田 浩喜
◎今日は月の第3主日ですので、旧約から御言葉を聞きます。前回は、十戒の序文と第一の戒めから御言葉を聞きました。今日は、第二戒と第三戒から御言葉を聞きたいと思います。第二戒は「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」、そして第三戒は「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」です。
 さて、第二戒ですが、これを私たちは第二戒と言っておりますが、ローマ・カトリック教会やルーテル教会では第一戒に含めております。十戒の全体としては同じなのですけれど、この第二戒は第一戒に含まれると数えるわけです。そうすると十にはなりませんので、私たちの十番目の戒めを二つに分けて、数を合わせることになっています。つまり、出エジプト記20章17節の言葉を、第九戒「隣人の家を欲してはならない」、第十戒「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」とするわけです。
 私たちはわざわざそんなことをしなくてもよいのにと思いますけれど、そこには第一戒と第二戒がそれほどまでに一体となっている、結び付いているという理解があるのです。
◎ただ実際には、ローマ・カトリック教会においては、第二戒が第一戒に飲み込まれることによって、第二戒が失われてしまった、そういう現実があると私は思います。それは、礼拝堂を一目見れば分かることです。私たちの礼拝堂には、殺風景と言えるほどに何もありません。きらびやかな像も無ければ、絵もありません。装飾らしいものは何もありません。しかし、ローマ・カトリック教会の礼拝堂に行けば、正面には十字架にお架かりになった主イエスの像がありますし、その他にもマリア像や聖人たちの絵があったりします。この違いは、十戒の第二戒をどう受け止めているのか、そこから来ているのです。私たち、改革派・長老派の教会は、この第二戒を最も真面目に、まともに受け止めている教会と言ってよいと思います。
 この絵や像についての論争は昔からあります。東のギリシャ正教と西のローマ・カトリック教会が分かれた時も、この論争がありました。東の教会は、この第二戒の「造ってはならない」と訳されている言葉は、直訳すれば「刻んではならない」という言葉なので、立体的なものはダメだ、しかし絵ならよいということで、イコン(=聖画)、絵という形で表現することをよしとしました。ですから、東方教会の礼拝堂に行きますと、正面はイコンの絵で埋め尽くされた壁(=イコノスタシス)になっていて、その壁の向こうで聖餐の用意がされて、司祭がそれを持ってこちらに出て来る。イコンの壁が、この世と神の国の境を意味するものになっています。東の教会は、ローマが主イエスの像を造ることは、この第二戒に対する違反であると激しく反対したのです。
 一方、ローマ・カトリック教会は、この主イエスの十字架像は伝道するために必要なものだと主張いたしました。そして、神様以外のものの形を刻んで拝めば第二戒の違反になるが、主イエスは神様なのだから、主イエスの十字架像はそれに当たらないと反論しました。
 今、東方教会と西方教会においてなされた画像論争についてお話ししましたけれど、絵にせよ、像にせよ、これは人間というものがいかに見えるものを拝みたがるか、そのことを示しているのでしょう。見えるものを拝みたくなる。私はここに人間の根本的な罪があるのだと思っています。天地を造られ、私たちの理解を超える大いなるお方、形を持たず、いつでもどこにおいても私たちに臨み、すべてを支配しておられるお方。そのお方を、自分に理解出来る方として、自分の想定の中で捕らえようとする。それが像を造るということでしょう。
 私たちに言わせれば、絵も像もどっちもダメということになるかと思います。神様は、この第二戒において私たちに何を求めておられるのか。そのことをきちんと受け止めなければなりません。
◎第一にそれは、私たちと契約を結んでくださる方として神様を拝むということです。私たちに語りかけてくださるお方を、生きて働く、人格を持ったお方として拝むということです。人格を持つということは、自由なお方であるということです。形なんて無いのです。そのお方が私たちと契約を結んでくださった。言葉と出来事をもって私たちの上に臨んでくださった。
 私たちは主の日の度ごとに、ここでそのお方を拝むのです。見えません。しかし、ここに臨んでおられます。私たちはそのことを、どこで確認するのか。それは御言葉です。聖書の言葉をもって私たちに語りかけてくださる。この語りかけを聞くことによって、私たちは見えざるお方がここにおられることを知るのです。
 そして、出来事です。十戒をいただいた時、イスラエルの民は出エジプトの旅において多くの出来事を目の当たりにしました。海の水が右と左に分かれる出来事、天からのマナ、岩からの水、火の柱・雲の柱による導きなどの多くの出来事によって、神様が生きて働いて自分たちを守り、導いてくださっていることを知らされました。そして、私たちは、神の独り子イエス・キリストの誕生、十字架、復活、昇天という出来事をもって、神様が私たちを生かし、救ってくださることを知らされました。もちろん、それだけではありません。私たちが今朝ここに集っている、この当たり前の主の日の歩みのために、神様が生きて働いて、ここに集うことが出来るように、すべてを備えてくださったことを知っています。この生ける神を私たちは拝むのです。
◎第二に、私たちはこの見えざるお方を拝むがゆえに、この方を愛し、この方を信頼し、この方に従うということです。この方は、その言葉と出来事をもって私たちを愛し、私たちを救い、私たちを招いておられることを知らされます。そのことを知らされた私たちは、この方を愛する。誰よりも愛する。この方を信頼する。誰よりも信頼する。そして、この方に従って生きる。他の誰よりもこの方に従って生きる者となるのです。
 この方を拝むということは、この主の日の礼拝の時に拝むというだけではありません。この言葉と出来事をもって私たちの上に臨まれる方を、いつでもどこでも誰よりも、愛し、信頼し、従う者として生きるということです。絵だろうと像だろうと、それを造りそれを拝むということは、いつでもどこにでもおられるお方をそこに固定する、限定するということになるのです。
◎私たちは、確かに神様の絵や像を持ちませんし、これを拝んだりしません。それは、この日本という国で生きる上で、「こんな場合はどうするのか。」という問いを与えられることになります。特に、家族の中で一人だけキリスト者である人にとって、それはなかなか厳しい状況があるだろうと思います。私は牧師ですので、家族や周りの人もそう見てくれますので、比較的楽です。しかし、信徒の方は大変な時が少なくないだろうと思います。それぞれの置かれている状況が違うのですから、「この場合はこうすればよい」とは簡単に言えないと、私は思っています。例えば、葬式に行く時どうするのか。数珠は持たないのか。焼香はどうするのか。他人の葬式ではなくて、家族の場合はどうなのか。いろいろあるでしょう。あるいは、家にある神棚や仏壇をどうすればいいのか。こうすればいいと簡単には言えません。それぞれが置かれている状況の中で、「ただ主なる神様だけを拝む」ということを心にはっきり刻んだ上で、できることをできるようにするしかないと思っています。
 もっと大切なことは、見える絵や像の問題ではありません。神様以外のものを神様にしてしまう。それは、神様以上に愛し、神様以上に信頼し、神様以上にこれに従うものを持ってしまうということです。これは見えざる偶像と言ってもよいでしょう。それは、時には国家であったり、その時代の思想であったり、大好きな趣味であったり、仕事であったり、富であったり、社会的な地位であったり、周りの人々の目であったり、自分の健康であったり、家族であったりするかもしれません。私たちは本当にやすやすと、神様以上に愛し、神様以上に信頼し、神様以上に従ってしまうものを持ってしまうのです。
◎神様以外のものを神としてしまう時、私たちは第三の戒め、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めをも犯しているのです。
 この第三の戒めは、十戒の中でも説明されないとよく分からない戒めではないかと思います。ユダヤ人はこれを文字通りに受け取って、聖書の中にある神様の名を記した所を、すべて「主=アドナイ」と読み換えることにしたほどです。
 この戒めが言おうとしているのは、要するに、神様を自分のために利用するなということです。神様を自分のために利用するということは、結局の所、神様を自分の召使いにする、自分が主人になるということですから、神様と私たちの関係が逆転してしまうことになります。
 しかし、これは自分の願いや他の人のために神様に祈ることが禁じられているということではありません。私たちの神様は父なる神なのですから、私たちは神様の子として、まことに自由に神様に祈ったらよいのです。願ったらよいのです。
ただ、ここで気を付けなければならないことが一つあります。それは、「神様は、きっとこれをこうしてああして、このようにしてくれるはずだ」とストーリーを作らないということです。私たちは神様に祈り願うだけです。それを神様が聞いてくださって、どのようにされるか。それは神様がお決めになることです。神様は自由なお方であり、すべてを御存知であり、私たちを本当に愛してくださっています。私たちの願いはそれとして、それが本当によいかどうか、それを知っておられるのは神様です。私たちが作る神様の御業のストーリーは、大体外れます。ストーリーを作るということは、実は目に見えない神様の像を作ることなのです。私の願い、私の理解の中に神様を当てはめることだからです。私たちは真剣に神様に願い、求め、祈ります。そして、祈りが神様に聞かれていることを信じます。神様は必ず、その祈りに応えてくださいます。神様が聞いてくださり、生きて働いて、出来事を起こしてくださることを信じて、安んじて待つことが大切なのです。そのことを今一度、心に刻みましょう。

2月13日礼拝説教

2022年2月13日(日)ローマの信徒への手紙12章1節~5節 礼拝説教
「なすべき霊的な礼拝」     牧師 藤田浩喜
◎リモートではありますが、敬愛する皆さんとこのように主日礼拝を共にお捧げすることができることを、たいへん嬉しく思います。実は今日の聖書箇所は、教会の定期総会の行われる予定であった、1月30日(日)の主日礼拝のために選んだ箇所でした。教会総会は昨年一年の教会の歩みを振り返り、主なる神さまの導きの中にあったことを覚えると共に、神さまが与えてくださる新しいビジョン
を教会全体で確認して、新しく歩み始める時でもあります。
 今年は新型コロナウィルス感染症拡大のために、定期総会は少し先になりますけれども、教会の歩みにとって一年の中で、こうした区切りがあるということはありがたいことです。それは過ぎし一年を振り返り、新たな目標を掲げて歩み出す機会となるからです。もしそうでなければ、何の反省や進歩もなく旧態依然とした歩みを漫然と続けてしまうかもしれません。そのようなわけで、主日礼拝を拠り所としながら礼拝共同体として歩む私たちの教会が、いつも何を大切にしなくてはならないかを、今日はご一緒に考えてみたいと思います。
◎与えられている聖書箇所は、ローマの信徒への手紙12章です。この手紙においては、ここから新しい区分に入ります。この区分においてはキリスト者の生活について語られています。まさにキリストによって与えられる新しい生活について語られているのです。しかし、今日の箇所には直接的に「新しい生活」という言葉は出てきません。出て来きたのは「心を新たにして」という言葉です。2節にこう書かれていました。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(2節)。
 「心を新たにして」。原文では「心の一新」という言葉です。心を置き去りにして生活だけを変えることはできません。まず必要なのは心の一新です。心を新たにすることなくして生活が新たになることはありません。
 しかし、「心の一新」と言いましても、いろいろな一新の仕方があるように思います。今回私は少し大きな病気をいたしまして、今後は少し生活の仕方を変えていかなくてはならないと思っています。年齢や体の状態に見合った生活を心がけたいと思います。これもまた心の一新と言えなくもない。そのように「心新たに」とか「心を入れ替えて」などという言葉は、私たちの日常でも時折用います。では、聖書が語る「心の一新」とはどのような意味合いなのでしょう。
 「心を新たにして」の前にパウロが言っていたのは、こういうことでした。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。そのように語られているのは、一方において「この世に倣う」という生き方があるからです。また、それを生み出す心の方向性があるからです。そして、それは教会の中にも入ってきており、私たちが知らず知らずのうちに、そのような心をもって、そのような生活をしているということがあり得るからです。
 それは教会がこの世に存在し、信仰者の人生もまたこの世において営まれている限り、避け得ないことなのでしょう。だからこそ、「心の一新」が必要なのです。心の方向転換が必要なのです。そして、この世に倣わない生き方への転換が必要なのです。
◎しかし、「この世に倣わない」とは何を意味するのでしょうか。これもまた人によって思い描くことは様々なのでしょう。
 あるキリスト者は「この世に倣わない」ということで、真っ先に「禁酒禁煙」を考えるかもしれません。別の人は「この世に倣わない」ということで、弱い立場にある人に対する優しさや思いやりを持つということを考えるかもしれません。また他の人は「この世に倣わない」ということで、右傾化する社会の動きに対して抵抗することを考えるかもしれません。二人の人が教会やキリスト者に対して「これではこの世と同じではないか!」と言ったとしても、その二人が必ずしも同じことを考えているとは限りません。
 ではパウロ自身はどのような意味において、「この世に倣ってはなりません」と言っているのでしょうか。「この世に倣ってはなりません」とは否定的・消極的な表現です。彼はすぐにこれを、肯定的・積極的な表現で言い換えます。《こうしてはならない》というだけでなく、むしろ積極的に《こうあって欲しい》というものがあるのです。彼は言います。「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。この世に倣わないとは、こういうことです。
 そこには、「何が神の御心であるか」と書かれています。当然のことながら、この世は「何が神の御心であるか」ということで動いているわけではありません。この世を動かしているのは、「何がわたしの望んでいることか」、「何が私たちの望んでいることか」という人間の願望と欲望です。同様に、この世は「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」ということで動いているわけではありません。この世を動かしているのは、「何がわたしたちにとって善いことで、わたしたちに喜びと満足を与えるのか」という人間の判断です。国家としてならば「何が国益となるのか」という判断になるのでしょう。
 そのようなこの世の姿と、いつのまにか同じ姿になってしまっていることは私たちにも確かにあります。この世と同じように、いつでも関心は「わたし」あるいは「わたしたち」のことでしかないことが起こります。そう、必ずしも「わたし」ではない。「わたしたち」を強調すれば、エゴイスティックに見えないこともある。しかし、関心はあくまでも人間の側のことなのでしょう。自分たちの望みが実現し、自分たちが喜び、自分たちが満足を得ることです。そして望みが実現しなければ失望し、満足を得られなければ不平を言い、互いに相争うことにもなるのです。
 そのように、知らず知らずのうちにこの世に倣い、この世と同じ姿になっていることが、私たちにも確かにあるのでしょう。だからこそ、「心の一新」について語られているのです。それが必要なのです。「わたし」、「わたしたち」とこちら側のことにばかり向いているこの心が、ぐいっと方向転換をして、神に向けられることが必要なのです。「何が神の御心であるのか」、「何が善いことで、神に喜ばれることなのか」に、心が向けられることが必要なのです。それこそが、「心を新たにする」ことなのです。
 心を新たにするところから、新しい祈りが生まれてきます。ただ自分たちの望みの実現を求める祈りではなく、自分たちの満足を求める祈りでもなく、「御心を教えてください」という祈りが生まれてくるのです。「何が善いことで、何があなたに喜ばれることなのかを教えてください」という祈りが、心の奥底から生まれてくるのです。
 そして、御心に従って生きようと思うなら、自分が変えられなくてはならないこともまた分かるのです。だからパウロは「自分を変えていただきなさい」と言うのです。これは「変えられ続けなさい」という表現です。「むしろ、心を新たにして、自分を変えていただきなさい!」そこにこそ、本当の意味での新しい生活があるのです。
◎しかし、今日は与えられた聖書箇所から、なお一つのことを心に留めたいと思います。パウロは続けてこう言っています。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません」(3節)。
 この後、信仰生活に関する具体的な勧めが15章まで続くことになるのですが、その初(しょ)っぱなに語られていることがこれです。心を新たにして自分を変えていただき、神の御心をわきまえて生きようとする人が、最初に聞かなくてはならない言葉がこれなのです。「自分を過大に評価してはなりません」。むしろ「慎み深く評価すべきです」と言うのです。
 この言葉で何を言わんとしているのか、続く4節以下から明らかです。要するに、自分が体の一部に過ぎないことをわきまえなさい、ということです。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」(5節)と書かれているとおりです。私たちは神の御心を行う大きな体の一部なのです。部分ならば部分としての働きで十分なのです。全てをなし得なくてもよいのです。自分を体の全てであるかのように評価してはならないのです。
 そうです。他の人ができることを自分ができないとしても、それでよいのです。部分なのですから。他の人を羨む必要も、自らを卑下する必要もないのです。自分になし得ることを他の人ができないとしても、批判する必要はないのです。自分は自分の与えられた務めに専念し、他の人は他の人のなし得るところを行ったらよいのです。
 「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから…」(6節)と聖書は言います。この世に倣って生きようとするならば、自分の願望の実現のために自分を用いて生きようとするならば、この能力が足りない、あのこともできない、とつぶやきながら、他人を羨み、自分を卑下して生きることにもなるのでしょう。しかし、心を一新して神の御心のために生きようとするならば、そのために必要な全ては既に賜物として与えられているのです。神の御心を求め、自分を献げて生きるならば、与えられている賜物が何であるかも見えてくるのです。また、自分が体のどの部分なのか、専念すべきことは何であるのかも見えてくるのです。
 教会活動の一年を顧みる時を迎えました。このような区切りが与えられていることは幸いなことです。これまでこの世に倣い、この世と同じものを追い求め、この世によってこの世と同じ姿にされていたならば、この区切りは私たちの信仰生活を振り返り、心を一新する機会です。心を置き去りにして生活だけを変えることはできません。心を新たにして自分を変えていただきましょう。変えられ続けましょう。そして、キリストによって一つの体とされている私たちとして、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかに思いを向けて共に仕えてまいりましょう。そのようなキリスト者の生活全体が変えられ続ける生き方を通して、神さまの御前になすべき霊的な礼拝が捧げられていくのです。

2月6日礼拝説教

2022.2.6  礼拝説教   「主の祈り」  
       マタイ6章9節~15節   村上英樹(西宮中央教会長老)
 今日は、主の祈りについて、平野克己(かつき)先生の書いた「主の祈り イエスと歩む旅」という書籍の内容を元に、共に学びたいと思います。まず最初は、主の祈り全体に、「わたしたち」「我ら」という言葉が使われていることに注目したいと思います。主の祈りの中で、「私」「我」という単数形ではなく「わたしたち」「我ら」という複数形が使われていることを皆さんはどのように感じているでしょうか。私は、「天にまします我らの父よ」と祈るとき、この「我ら」には誰が含まれているのかなとよく考えます。教会で主の祈りを祈るときは、周りにいる方々のことをまず思い起こします。その方々の声が身近に聞こえるからですから当然かもしれません。つぎに、その場にいない方々や、すでに天に召された方々のことも思い起こします。そして、究極的には、神を信じていない方々、教会や聖書に触れたことのない方々にまで、この「我ら」という言葉が広がっていきます。そういった思いを持つとき「我らの日用の糧を」と祈るときには、日本や世界で飢餓や貧困で苦しむ人々を、「我らの罪をも」「我らを試みに合わせせず」と祈るときには、現代社会の戦争や弾圧、またその原因となる経済的繁栄という誘惑についてもイメージすることがあります。「我」ではなく「我ら」と祈ることで、主の祈りが、大変広がりのある祈りに感じられます。
 平野先生は、この「我ら」という言葉に、次のような意味があると書いています。「主イエスは弟子たちに一人でも生きていくことができる強靭な知恵をお与えにはなりませんでした。主は弟子たちを招き、主と共に歩む旅の仲間に加えられたのです。教会は主と共に旅をする群れです。主の祈りに「我」という言葉は一度も出てこないのに、「我ら」という言葉が幾度も出てくるのは、一緒に旅を歩んでいる仲間たちがいることを忘れないでほしい、と主イエスが願っておられるからでしょう。」また、次のようにも書いています。「祈りの言葉が出てこない時、主の祈りは宝です。そのような時は、主の祈りを祈ればよいのです。それでは主の祈りさえ祈ることができなくなったときは、どうしたらよいのでしょう。そのような時は礼拝堂に座り、周りから聞こえてくる声、「我らの父よ」「我らの糧を」「我らの罪をも」「我らを試みにあわせず」と祈られている声に耳を傾ければよいのです。それは私のために祈ってくれている教会の祈りです。私とともに、いつまでもどこまでも歩き続ける旅の仲間の声です。そして私と旅をしてくださる主イエスの声です。」
 つぎに、主の祈りの最初の呼びかけに、「我らの父よ」と「父」という言葉が使われていることに注目したいと思います。イエス様が神を「アッバ(父)」と呼び、親しく祈られたことは、おそらくその当時のユダヤの人々にとっては画期的なことであったでしょうし、神への距離感がこの「父」という言葉で、ぐっと縮まる気がします。しかし前述の平野先生の本では、「私たちが神を父と呼ぶことができるのは、主が私たちを弟、妹と呼んで下さったから、そしてイエス様が十字架で死んでくださったからだ」と説明しています。そして、イエス様が生涯の最後に「父よ」と祈られた場面を思い起こすべきだと書かれています。十字架に架かられる前夜、主は、「父よ、み心なら、この杯を私から取りのけてください」と祈り、十字架に釘打たれた時「父よ、彼らをおゆるしください」と祈りました。十字架で息を引き取られるとき「父よ、私の霊をみ手にゆだねます。」と祈りました。どの祈りも、弟子たちのため、私たちのための祈りでした。この「父よ」と祈るイエス様の声に、私たちも自分たちの声をそっと重ねながら主の祈りを祈り始めるのですと書かれています。
 次に、「み名があがめられますように」の「み名」について考えてみたいと思います。神様の名前である「み名」について、こんな話を聞いたことがあります。古代世界の神の中には、人間が覚えることができないような長い名前の神様がいる。それは、古代において、相手に名前を呼ばれることは相手に支配されることを示していて、人間に支配されないように神にそのような長い名前が付いたというものでした。しかし私たちの神様は違います。神はすすんで名を持たれ、その名を明らかにし、私たちにもその名を呼ぶことができるようにして下さいました。本日の旧約の聖書朗読でもありましたように、モーセに対しては、「私はある。わたしはあるという者だ。」と名乗られました。先ほどの「父」というのも「み名」の一つであるでしょう。また、私たちが神を呼ぶとき「聖なる」「全能なる」「創造者なる」「歴史を治める」「力の」「正義の」「裁き主の」など様々なみ名を呼びます。おそらく、主の祈りの「み名」はこれらすべての神様の名が含まれているでしょう。そして神のみ名は、神の性質を現わすとも言われていますので、人々が神のみ名を崇めるとき、それは神の素晴らしい性質をほめたたえるときになるのだと思います。
 次に主の祈りでは、「み国が来ますように」と祈ります。平野先生は、この「み国が来ますように」の部分を次のように解説しています。み国とは神の国のことであり、神の支配を意味します。そして、愛と真理による神のご支配はすでに、確かに始まっているのです。しかしながら、同時に、神の国は完全な形ではこの世界に来ていないことも私たちは知っています。それは世界を覆っている、暴力やあきらめ、疑いや偽りを見れば明らかです。それでも主は、「神の国」という名の冒険に私たちを誘われているのです。 
 次に私たちは「み心が行われますように」と祈ります。平野先生は、この「み心が行われますように」の部分を次のように解説しています。神のみ心とは、天にある平和を地にもたらすことでした。そのために、御子イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。それは、人間を取り戻す特別な戦いでした。しかし私たちは、戦いとは無縁な場所、安全で暖かな場所に座り込み、ひとりひっそりと神の名を呼びたくなります。しかし主の祈りを祈る時、私たちは再びこの世界での戦いに呼び出されるのです。
 私たちは普段、信仰は信仰、日常の生活は日常の生活と、分けてしまいがちです。しかし、主の祈りによって、私たちが「み国」の冒険や「み心」の戦いに呼び出されていると考えるなら、普段の自分のあり方が試されているような、反発のようなものを感じます。平野先生は、これを「主の祈りは実に祈りにくい祈りです。祈りの言葉の一つ一つが私たちの生き方にぶつかってくるからです」と説明しています。
 次に私たちは、「我らの日用の糧を与えたまえ」「我らの罪をもゆるしたまえ」と祈ります。実はこの二つの祈りが連続しているのには、意味があるのだと平野先生は指摘しています。ドイツで良く祈られている祈りに「主よ、私どもになくてはならないものが二つあります。それをあなたの憐れみによって与えてください。日ごとのパンと罪の赦しを」というものがあります。このように主イエスは、主の祈りを通して、私たちに必要なことを教えてくださっています。私たちは日ごとのパンがなければ生きていけません。罪の赦しはそれと同じように切実なものです。
 また「我らの罪をもゆるしたまえ」の祈りの前には「我らに罪をおかすものを、我らがゆるすごとく」という言葉があります。わたしも含め、この祈りの部分には、多くの方が引っ掛かりを感じているのではないでしょうか。この点を、平野先生は次のように解説しています。わたしたちは、罪のゆるしを願う前に「私たちは人をゆるします」と言葉にしています。それは、この言葉が自然に心の中から湧いてくるからではありません。それが「このように祈りなさい」と言って主イエスが教えてくださった言葉であるからです。罪は頭の中のことではありません。人の罪によって私たちは傷つきます。そのうえ、幾度ゆるしても肝心の相手はそのことに鈍感です。赦しにも限界があるように思えます。しかし主は、恨みと仕返しとで織りなされる暗い環を、ゆるしの光で断ち切ろうとされています。その戦いの列に私たちを連れ出そうとしておられます。
 最後に、「我らを試みあわせず」という部分を取り上げたいと思います。平野先生は、主の祈りの最後の言葉が、「救いだしたまえ」という言葉で締めくくられていることに注目しています。平野先生は次のように解説しています。私たちは、主の祈りの最後で、助けを求めて声をあげています。それは、弟子たちが、ガリラヤ湖の船の上で嵐にあった時、「主よ、助けてください。おぼれそうです。」と叫んでいる姿を思い出させます。主イエスと歩む旅は、空想の世界に舞い上がる旅ではありません。現実の社会で、私たちは大きな波に飲み込まれ、おぼれそうになります。だからこそ、主イエスと歩む旅を続けられるように、主の祈りの最後で、助けを求めて叫ぶのです。主イエスは、私たちにむかって、「頑張れ」「撤退するな」と命じられることはありません。むしろ困難な時には「助けてくれと叫びなさい」と教えてくださるのです。なぜなら、父なる神がその祈りを待っていて下さるからです。わたしたちは、そのように訴え続けることで、希望の光の中に立ち続けることができるのです。

1月30日礼拝説教

2022.1.30 西宮中央教会礼拝説教「あなたのための確かな居場所」
     イザヤ書43章1~4節/マタイ20章1~16節   八尋 孝一(西宮中央教会長老)                                 
先日小説家の浅田次郎さんが書いた短編小説集を読んでいて、とても印象的な作品に出会いました。この作品の書き出しはこのようになっています。「ちえ子には帰る家がなかった。」・・・この小説の主人公ちえ子は、物心つかぬうちに両親が離婚し、祖父母に引き取られて育ち、やがて祖父母とも死に別れ、家も失います。
「ちえ子には帰る家がなかった」・・・帰る家がない。自分を温かく迎えてくれる場所、「あなたがいてくれて嬉しい」と感じさせてくれる場所がない。これは辛いことです。人が生きていく上で、自分が必要とされていると感じること、ここが自分の居場所だと言える場所があることは、とても大切ではないでしょうか。しかし今、自分の居場所を見つけることができない、それを失ってしまったと感じる人たちが増えていると言われます。大人だけではない、子どもたちの中にも増えていると言われます。
先ほどお読みした聖書の箇所にも、自分は必要とされていない、自分の居場所がないと感じている人たちが登場します。マタイによる福音書20章1節以下には、「ぶどう園の労働者たとえ」という見出しが付いています。これはイエス=キリストがお語りになったたとえ話の一つです。この時代の人々にとって大切な果実であったぶどうの収穫には、大変な労力が必要でした。霜が降りる前に収穫を終えないと、ぶどうがだめになってしまいます。時間と競い合うように収穫を終えなければならない。そのために多くの人手を必要としたのです。このたとえ話に出てくる主人は一日五回も、人集めのために広場に出向いています。最初は夜明け、一日一デナリオンの約束で労働者を雇います。一デナリオンというのは当時の一日分の労働者の賃金にあたるそうです。続いて9時、12時、3時に行って同じように労働者を雇います。最後に5時にも広場に行ってみると、6節「何もしないで一日中立っている人」がいました。3節にも「何もしないで広場に立っている」とあります。今日お読みした聖書の箇所には、「何もしないで立っている」という言葉が二回も出てきます。「何もしないで立っている」・・・これは人間にとって、とても辛い状況を表しているのではないでしょうか。何か出来るのに何も出来ず、むなしく時間だけが過ぎていく。特に5時に雇われた人は、そんな時間を一日中過ごしていました。周りの人は次々と雇われて広場を去って行くのです。どんな思いでそれを見ていたことでしょう。「何もしないで一日中立っていた」彼らは、「自分たちはだれからも必要とされていない」と感じていたでしょう。最初にお話ししましたように、自分は誰からも必要とされていない、自分の居場所を見いだせないと感じている人が増えています。この時の労働者と同じ思いを感じている人たちが増えています。今日なお、多くの人々が、この5時の労働者と同じように、広場に立ち尽くしているのではないでしょうか。私たち自身はどうでしょう。「私は真っ先に雇われる人だ」と、自信を持って言えるでしょうか。毎日が忙しく充実している人であっても、実は自分の中の深いところに、ひょっとしたら自分など必要とされていないのではないかという思いや、深い孤独があるのではないでしょうか。私たちの中にも、何もしないで立ち尽くす人がいるのではないでしょうか。私たちもこの5時の労働者の群れの中にいるのではないでしょうか。
再び、広場に目を向けてみましょう。時間は5時、労働者はまだ立っています。もう日も暮れかかり、今日雇われる望みはなくなって、あきらめかけていたかもしれません。ところが、そんな立ち尽くしていた5時の労働者のところに、再びあのぶどう園の主人がやってきます。そして立ち尽くす彼らを見つけます。声をかけます。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」労働者は答えます。「だれも、雇ってくれないのです。」そう語りながら、今日一日の光景を、雇われて去って行った仲間たちのことを、振り返ったかもしれません。誰も雇ってくれない、誰も私たちを必要としてくれない・・・それに対するぶどう園の主人の答えは、思いがけないものでした。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」・・・ぶどう園の主人は、あなたたちが必要です、私のところに来なさいと言うのです。なぜこんなことを言うのでしょうか。今雇っても、もう幾らも働けないのに、ぶどう園の主人はよほど人手が足りなかったのでしょうか。いいえ。この主人は労働力を確保するために5回も広場に来たのではないのです。それは明らかに別の目的がありました。それは広場で何もしないで立っている労働者を見つけるため、彼らと出会うためです。このたとえ話は、労働者の方からぶどう園の主人を捜し当てたという話ではありません。主人の方が労働者を見つけてくださる、出会ってくださるという話です。主人は何もしないで立っている労働者を見つけるため、彼らと出会うために広場に来たのです。
このぶどう園の主人はだれのことをさしているのでしょうか。この主人こそ、イエス=キリストです。
「自分など誰からも必要とされていない」と立ち尽くす人々のところに、イエス=キリストの方から近づいてくださいます。そして声をかけてくださるのです。「あなたは必要とされている存在です。私の所に来なさい。」 私は今から40年ほど前、高校三年生の時、生まれて初めて教会に行き、洗礼を受けてクリスチャンになりました。私は自分自身を振り帰って、自分で求めて探した末に、イエス=キリストに出会ったとは思っていません。むしろ、イエス=キリストの方から私を探しに来てくださり、見つけてくださったと感じています。私に限らず、クリスチャンというのは、イエス=キリストに見つけて頂いた人たち、出会って頂いた人たちです。その意味で、クリスチャンは、ぶどう園の労働者に似ています。イエス=キリストは、広場に立ち尽くす人々のところに来てくださる方、出会ってくださる方、そして御自身のもとへと伴ってくださる方です。そしてイエス=キリストは今もこの働きをやめてはおられません。今このお話をネット配信で聴いておられる方の中には、キリスト教の話は初めて聴いたという方もいらっしゃるでしょう。そのような方々のところにも、イエス=キリストは近づいてくださる。声をかけてくださる。「私のところに来なさい」とおっしゃる。私なんて無理だとか、もう遅すぎるなんて思わないでください。もう無理だとあきらめていた5時の労働者にも、主人は声をかけたのです。イエス=キリストとの出会いには遅すぎる、もう無理だなどということはないのです。
さて、夕方の仕事を終える時間になって主人は監督に言います。8節「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。」5時に来た者が一デナリオン受け取りました。ところが夜明けから働いた人達も同じ一デナリオンでした。考えたらこんなに経済の原則を無視した話はありません。案の定、朝から働いた労働者から不満が出ます。12節「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中を同じ扱いにするとは」
当然です。私たちには明け方から働いたこの労働者の不満がよくわかるのではないでしょうか。なぜなら、私たちもこの文句を言った労働者と同じ世界、何かやったらそれに見合うだけの何かが返ってくる世界に立っているからです。それは時給800円、5時間働けば4000円、8時間なら6400円という世界、やったことに応じて何かが返ってくる世界です。そこはまた、自分はこんなにがんばったのに、あの人たちはこれだけしかがんばらなかったと、自分と他者を比較して優劣をつける世界です。
しかし、ぶどう園の主人は、この世界とは違うところに立っています。主人はこの不満に対してこう答えるのです。14節「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前の良さをねたむのか」つまり、私はあなたたちの頑張りに応じて、見返りとして支払うのではない、心から喜んでみんなに同じように払ってやりたいから払うのだ、というわけです。これは、やったことに応じた見返りを計算して文句を言った明け方からの労働者や、現代の私たちが日常でする計算とは明らかに違っています。
実は、「このぶどう園のたとえ」ばかりではありません。聖書に出てくる計算は妙なものばかりです。聖書には、やったことに応じて何かが返ってくるのとは違う話がたくさん出てきます。ルカによる福音書15章に出てくる有名な「放蕩息子のたとえ話」は、父親から受け継いだ財産を遊びほうけて無駄遣いし、一文無しになり、ぼろぼろになって帰ってきた息子を父親が見つける話です。やったことに応じて何かが返ってくる世界だったら、この息子は父親に勘当されて絶縁です。しかしこの父親は、放蕩息子を勘当して絶縁するどころか、走り寄って抱きしめて盛大なお祝いをしたのです。極めつけはイエス=キリストです。イエス=キリストは、病める人を癒やし、友無き者の友となったにもかかわらず、十字架にかけられてしまうのです。。私たちの罪をあがない、私たちが神と和解して救われるためです。ぶどう園の主人、放蕩息子の父親、イエス=キリスト、いずれも、やったことに応じてそれにふさわしい何かが返ってくるという世界の話ではありません。
しかし、みなさんに今日ぜひわかっていただきたいのです。これこそが私たちが招かれているぶどう園、聖書が示す恵みの世界なのです。私たちを見つけてくださったイエス=キリストは、やったことに応じて何かが返ってくる世界ではない、恵みの世界へと私たちを導いていかれるのです。
旧約聖書イザヤ書43章4節(1130ページ)に「 わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」とあります。神様が私たちに、あなたは価高く貴く、あなたを愛していると言われます。それは私たちががんばったその見返りとして価高いと言われるのではありません。真面目で立派だから貴いと言われるのではない。私たちの方が神様を見つけて一生懸命信仰したから、お返しに私の方も愛してあげるよと言われているのではないのです。私たちは何もしないで広場に立ち尽くすことしかできなかったのです。そんな私たちに、神様の方から近づいてくださって、私たちを見出してくださって、「あなたは価高く、貴く、あなたを愛している」といわれるのです。これは頑張ったごほうびではなく、贈り物です。
神様に見出された私たちが導かれるぶどう園はこのような場所、恵みの世界です。そこは、もはや私たちが「必要とされていない」と立ちつくさなくてもよい世界です。私たちがいちばん私たちらしくいられる場所、ぶどう園の主人である主イエス=キリストが共にいてくださって、私たちの目から涙をぬぐい去ってくださる場所です。それが恵みの世界です。そしてここにこそ、「私たちのための確かな居場所」があります。
この確かな居場所はどんな時にも奪い去られることがありません。私たちに何ができてもできなくても、他人から評価されようとされまいと、関係ありません。私たちが元気に働けていても、老いたり病んだりして働けなくなったとしても、この確かな居場所はなくなりません。私たちが人間関係の破れに心悩まされ、大切な関係が壊れる。愛する者を失って孤独を味わう。しかし、そんなときにも私たちのための居場所は確かにそこにあります。政治の混乱や経済の不安定、感染症の拡大や思わぬ災害に見舞われて途方に暮れるときでさえ、大丈夫です。私たちのための居場所が損なわれることは決してありません。衰えた私たちが愛する人も神様も忘れてしまい、もうお祈りもできない、神様を呼ぶことすらできなくなったとしても、神様は私たちを忘れません。私たちのための確かな居場所はそこにあります。そしてやがて私たちが死を迎えたとき、その死すらも私たちのための確かな居場所を奪うことはできません。死をこえたその先にも、主イエス=キリストが共にいてくださいます。私たちのための確かな居場所はそこにあります。
皆さんも、神様がぶどう園に招いておられます。神様が手をさしのべていてくださいます。その手をつかむ力がこちらに無くてもいい。おずおずと差し出した私たちの手を、神様の方が握りしめてくださいます。そしてどんな時にも、私たちが弱るときも死ぬときも、神様は握ったその手を離されることはないのです。私たちの手を取って、神様は私たちを恵みの世界、どんなときにも決して奪い去られることのない「私たちのための確かな居場所」へと、私たちをいざなってくださるのです。

1月23日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一3章18~23節 2022年1月23日(日)礼拝説教  
「本当に知恵のある者になるために」 牧師 藤田浩喜
◎知恵の問題が、コリント教会にある分派争いの主要な原因でした。パウロはここで、その問題についての一応の結論に至ります。18節でパウロは言います。
「だれも自分を欺いてはいけません。」
 コリント教会には、自分たちが知者であり、自分たちがもっているこの世の知恵が、教会でもそのまま有効であると思い込んでいる人たちがいました。パウロはそのような人たちを念頭に、「自分を欺いてはいけません」と言っています。知恵を誇る者たちは、自分を欺いていると言うのです。
◎コリントの信徒たちは、どのように自分を欺いていたのでしょうか。18節の後半にあるように、彼らは「自分はこの世で知恵のある者だ」と考えていました。自分たちは知者だと、うぬぼれていました。そのような彼らを念頭に、パウロは命じました。「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。」
 たいへん逆説的な言葉です。しかし、ここに真理があります。本当に知恵のある者となるためには、また真の知恵を得るためには、どうしても「愚か」というものを通らなければならないのです。愚か者にならなければならないのです。
 すなわち、この世の知恵と、本当の知恵である神の知恵とは、異質なものであるということです。この世の知恵の延長線上に、神の知恵があるのではありません。この世の知恵を駆使して追求していけば、神の知恵を獲得することができるのではありません。
 神の知恵を得るためには、愚か者にならなければなりません。つまり、この世の知恵を誇り、この世の知恵によって生きてきた自分の愚かさを知らなければなりません。それまでの自分の生き方、あり方というものを捨てて、へりくだらなければならないのです。
 イエス・キリストの十字架の福音は、この世の知恵からすれば愚かなものです。あの二千年前に、パレスチナの地で十字架につけられて殺された一人の男を、自分の救い主と信じ、あの十字架を自分の罪の贖いと信じることなど、この世の知恵からすれば、真に愚かとしか言いようがありません。しかし神は、その宣教の愚かさを通して、神の民を救うことを良しとされました。ですから、この世の知恵に頼る者は、福音を信じることはできないのです。この世の知恵によって自分を支え、それに誇りをもって生きているならば、神の知恵を受け入れることはできません。その生き方を捨てて、まさに「愚か者」にならなければ、すなわち、神の御前にへりくだるのでなければ、神の知恵を得ることはできないのです。
◎19節でパウロは、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」と言います。パウロはこの手紙で、繰り返してこのことを語ってきました。
 しかしこれは決して、この世の知恵がすべての点で、無意味だとか有害だとか言っているのではありません。人間社会にある知恵や知識には意味がありますし、ある意味で重んずべきものです。しかし、それがどんなに優れていても、それで真の神を知ることができるかといえば、できないのです。それで救いにあずかることができるかといえば、できないのです。この世の知恵で救われようとすることは、全く愚かなことであり、真の救いにあずかりたい者は、この世の知恵に頼ることを捨てなければなりません。
 これは決して、パウロの個人的な意見ではないのです。それは旧約聖書がすでに語っていたことです。それを立証するために、19節、20節でパウロは二つの旧約聖書の御言葉を引用しています。19節の「神は、知恵のある者たちを/彼ら自身の悪賢さによって捕らえらえる」は、ヨブ記5章12節、13節の引用です。これは、知恵ある者たちが、人を陥れようとした悪賢い罠に自ら陥るように、神は取り計らわれるという意味です。この世の知恵は、結局、自分の罠となるのであって、自ら墓穴を掘ることになるということです。
 また20節の「主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを」は、詩篇94篇11節の引用です。当時のギリシアでは、ストア哲学の賢者たちが、その知恵こそこの世で最高のものであると誇っていたといわれます。パウロはそれを意識しているのかもしれません。パウロにとっては、そうしたこの世で最高のものであっても、あくまでこの世の知恵にほかならず、神の前にはまったく空しいのです。
◎このように、パウロは18節から20節で、この世の知恵を決定的に拒否しました。それは空しいと断言しました。
ところが21節後半で突然、「すべては、あなたがたのものです」と語るのです。原文ではこの文章の前に「なぜなら」という語があります。つまり、「だれも人間を誇ってはいけません。なぜなら、すべては、あなたがたのものだからです」と続きます。すなわち、誇ってはならない理由が記されているのです。
 コリントの信徒たちは、自分の特定の先生に執着して、それで自分を支え、自分を豊かにしようとしていました。「自分はあの高名な先生の弟子だ」と語ることで、自分を高めようとする。それはこの世の中で多くあることだと思います。しかしパウロは、そうすることで、人が豊かになることはないと言います。むしろ、彼らは豊かになるどころか、自らを貧しくしているのです。
 なぜなら、「すべては、あなたがたのもの」であることを忘れているからです。キリスト者は、ローマの信徒への手紙8章17節にあったように、キリストとの共同の相続人としてすべてのものを受け取ります。キリスト者はまさに「すべては、あなたがたのものです」と言われるほどに、すべてのものを持っています。
 しかし、コリントの信徒たちは、自分たちの小さなつまらない誇りによって、それを台無しにしています。人間に固執し、それによって自分を高めようという愚かな自己主張によって、かえって自分たちを貧しくしています。彼らは、キリスト者に与えられている本当の豊かさを見失っていました。つまらない自己顕示欲、誇りのゆえに、キリストによって与えられる大きな宝から、自らを遠ざけていたのです。
◎22節には、この「すべて」が何であるかが例示されています。コリントの信徒たちは、「わたしはパウロに」「わたしアポロに」「わたしケフアに」と言って、人間にすぎない教師に固執し、それを誇っていました。彼らに属することで、自分を高めようとしていました。
 しかしパウロは、その教師たち「すべてはあなたがたのもの」だと言います。つまり、教師があって、信徒があるのではないのです。むしろ、信徒のために教師はいるのであり、その意味で、教師は信徒のものなのです。
 またパウロは「世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、一切はあなたがたのもの」だと言っています。
 「世界」というのは、キリストを知らない者にとっては、自分ではどうすることもできない現実です。しかしキリスト者にとっては、世界は偶然の産物ではありません。神が造られ、その神が今も支配しておられる場所です。また世界は、イエス・キリストの十字架によって、神と和解させられたのであり、それゆえキリスト者にとって世界とは、神の栄光を現すための舞台と言えるのです。
 「生」と「死」、これもキリストを知っている者と知らない者では、意味が根本的に違います。キリストは死に勝利された方です。そのキリストに結びついている者も、死に勝利できます。パウロが「死ぬことは益である」と断言したように、死は終わりではなく、栄光への入り口となったのです。
 続く「今起こっていることも将来起こることも」、それらは神の恵みの支配の中にあるものです。私たちは、明日、何か起こるかわかりませんが、明日も、私を愛していてくださっている恵みの神のご支配の中にあることを知っています。その意味で、キリスト者の特権は、今も、そして将来も続きます。
ここに列挙された、世界、生、死、現在、未来というのは、通常は、人間を取り囲んで支配しているものです。人間の力では、どうしようもないと思われるものです。受身で受け入れるしかないものであり、人間はしばしば、それらの偶然に思える暴力的な力に翻弄されます。
 しかしパウロは、キリスト者にとっては、意味が根本的に違うと言います。「世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、すべてはあなたがたのもの」である。つまり、キリスト者は、万物の所有者である神の子どもであるがゆえに世界の主人であり、生と死の奴隷ではありません。また、現在も未来も支配される全能の神を父としてもっています。それゆえ、ローマ人への手紙8章28節に記されているように、ご計画にしたがって召されたキリスト者には、万事が益となるように共に働くのです。神はすべてのことを用いて、私たちの益となるように導いてくださいます。
 このように信仰者は、また信仰者の共同体である教会は、まさに大いなるものを所有しています。しかしそれはただ、信仰者がキリストのものであるということに基づいているのです。
 「あなたがたはキリストのもの」(23節)とパウロは言います。それが、キリスト者が本当に豊かな者である唯一の理由です。ですから私たちは、ただキリストの前に生きることが求められているのです。
 そしてパウロは最後に、「キリストは神のものなのです」と言います。すべての頂点としての神ご自身を指し示して、この議論を閉じています。
 「あなたがたはキリストのもの」だと、パウロは言いました。つまり、信仰者になるというのは、キリストのものになるということです。自分が自分のものではなくなるということです。人生の苦しみは結局、自分を自分のものと考えることから生まれているのではないかと思います。自分で自分を背負って、もがき苦しんでいる。自分の力で何とかしようとして苦しむのです。
 しかし、もはや自分は自分のものではありません。キリストのものです。そこに、本当の救いがあるのです。「キリストのもの」だと言ってくださるということは、主イエスが責任を取ってくださるということです。その主に信頼する者は幸いなのです。そのことを今日心に刻みたいと思います。

1月16日礼拝説教

出エジプト記20章1~3節 2022年1月16日(日)礼拝説教
「真の礼拝のための脱出」  牧師 藤田 浩喜
◎十戒を読む時には、20章2節の御言葉を前提としていつも頭に置いておかなければなりません。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。ここには、主なる神様とイスラエルの民との間の特別な関係が示されています。主とイスラエルの間には、「わたしとあなた」という関係、交わりがあるのです。その関係は、主なる神様が、奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民をエジプトから導き出し、救い出して下さった、という救いの御業によるものです。私たちは出エジプト記においてこれまでその御業を見てきました。主なる神様がモーセを遣わして数々の奇跡を行い、イスラエルの民をエジプトから解放して下さったこと。荒れ野の旅を導き、天からのパンによって養い、また岩から水を出して渇きを癒し、襲ってくる敵に勝利させて下さったこと。そして今、神の山ホレブ、別名シナイ山において、彼らと契約を結んで下さろうとしていることを見てきたのです。主なる神様はこのようにしてイスラエルの民との関係を築いてきて下さいました。十戒は、これらの神様の御業を前提として、イスラエルの民に与えられた御言葉です。主なる神様によって救われ、導かれ、養われている民が、その神様の恵みの中でどのように歩むべきかを語っているのです。十戒のどの戒めを読む時にも、この2節が前提となっていることを忘れてはならないのです。
◎さて第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」ですが、これはまさに2節とつなげて読むことによってこそ意味がはっきりする戒めです。つまり、他のどの神でもない、わたしが、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。だからあなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない、ということです。第一の戒めを正しく理解するためには、このことを捉えることが肝心です。つまりこの第一の戒めは、この世界に神様はただお一人である、ということを語っているのではないのです。聖書は全体として、まことの神は主なる神お一人であることを語っています。つまり、聖書の信仰はいわゆる一神教、ただ一人の神を信じる信仰です。けれども、十戒の第一戒がそのことを語っているのかというと、そうではない。この戒めが語っているのは、神はただ一人だ、ということではなくて、わたし、つまり主なる神によってエジプトの奴隷の苦しみから解放され、救われたイスラエルの民が礼拝し、仕える神は、わたし、主なる神以外にないはずだ、ということです。つまり第一の戒めは、主以外に神があるかないか、神は一人か複数いるのか、ということを問題にしてはいないのです。他の神があろうとなかろうと、また他の民がどんな神を拝んでいようと、イスラエルの民は、主なる神様のみを礼拝し、仕える。そのように、主なる神様に忠誠を尽くすこと、あるいは、主なる神様に対する信仰の節操を守ることを教え、求めているのです。
◎これと関連して指摘しておきたいことがあります。「わたしをおいてほかに神があってはならない」、「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」、これはいずれも、「~してはならない」という禁止の命令です。十戒は、第四と第五の戒め以外は皆禁止の命令です。しかしこの「~してはならない」と訳されている言葉の形は、禁止の命令として通常用いられる形ではなくて、むしろ未来へ向けての単純な否定文なのです。つまり単純に訳せば、「あなたは~することはない」という文章なのです。第一戒に即して言えば、「あなたには、わたしをおいてほかに神はない」ということです。このような言い方の意味も、2節とのつながりの中で見えてきます。つまり、わたしこそ、あなたをエジプトの奴隷状態から救い、導き出した神なのだから、あなたには、わたしをおいてほかに神はない、あるはずがない、あなたが、わたし以外のものを神とすることなどあり得ない、ということです。つまりこの第一戒を始めとして十戒において繰り返されて行く「~してはならない」というみ言葉は、これこれのことをしてはいけない、という「禁止」と言うよりも、主なる神様がエジプトの奴隷状態から救い出して下さった、その恵みの中を生きるイスラエルの民においてはあり得ないこと、あってはならないこと、そのようなことがあれば、主なる神とイスラエルの民の関係が根本的に損なわれ、失われるようなことを語っているのです。第一の戒めで語られているのは、そのような、あり得ない、あってはならないこと、の筆頭です。それが、主なる神様以外のものを神として拝み、仕えるようになることです。
◎他の神々に顔を向け、他の神々を礼拝するようになることは、この主なる神様から顔を背けてしまうことです。それは、主なる神様の愛を拒むことであり、主が与えて下さった解放、自由からわが身を引き離してしまうことです。つまりそれは、あってはならない裏切り行為であるだけでなく、せっかく与えられた自由を放棄することなのです。イスラエルの民は、これまでにもたびたびそういう危機に陥りました。せっかくエジプトを脱出しても、追っ手が迫って来ると、ここで殺されるくらいならエジプトで奴隷だった方がマシだったと言い出しました。荒れ野で食べ物や水がなくなってしまった時にも、エジプトにいた時には腹いっぱい食べていたのに、とモーセに詰め寄りました。そのようにして彼らは、たびたび、エジプトに帰ろうとしたのです。そこから導き出されたはずの奴隷の家に戻ろうとしたのです。主なる神様によって救われ、自由を与えられたのに、その主の御顔の前を歩むことをやめて、奴隷の家に戻ろうとする、そういう神の民の姿を聖書は描いているのです。
◎なぜそのようなことが起るのでしょうか。それは、神様が与えて下さる解放、自由に生きることは、決して楽なことではないからです。食べ物も水もない荒れ野を旅していくようなことだからです。自由というのはそういうものです。何ものにも束縛されないというのは、同時に、何の保証もなく、絶えず不安がつきまとう歩みなのです。それは決してお気楽なことではない。奴隷状態の方がよっぽど楽だとも言えるのです。自由でない代りに、言われたことをしていればよいのだし、責任を取る必要もないのですから。だから人間の心の中には、奴隷の家であるエジプトにあこがれる思いがあります。この世の神々、偶像の神々は、このエジプトへのあこがれの思いを満たすのです。それらの神々は、人間の欲望をかなえてくれます。幸福をもたらし、禍を遠ざける、という御利益を約束します。しかしその甘い言葉につられて行き着く先は奴隷の家エジプトなのです。この世の神々が約束する御利益は実は幻想でしかありません。イスラエルの民も、16章3節で、エジプトにいた時には、肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに、と言っていました。しかしそれは事実ではありません。彼らは、食うや食わずの生活を強いられている奴隷だったのです。肉の鍋を求めてエジプトに帰るならば、結局もとの奴隷の苦しみに戻るだけなのです。同じように、御利益を約束する神々に顔を向けていくことによって、人間は奴隷となっていくのです。そのように私たちを奴隷にしようとしているのは、いわゆる神々だけではありません。この社会において崇められている様々なもの、お金、地位や名誉、若さ、美貌、健康、それら全てが私たちの周りにいる「他の神々」です。私たちはそれらのものに顔を向け、そこに幸せがあると思って求めていくことの中で、それらものの奴隷となるのです。しかし主なる神様だけは、それとは全く違う関係を私たちとの間に結ぼうとしておられます。主なる神様は、私たちを奴隷にするのではなく、むしろこの世の様々な神々の奴隷となっている私たちを解放し、自由を与えようとなさるのです。その自由は、先ほど申しましたように決して楽なものではありません。何もない荒れ野を旅していくような、困難と苦しみが伴うものです。その旅路において主なる神様は私たちを、その日ごとに与えて下さる天からのパンであるマナによって養って下さるのです。それは私たちが、この世の何ものにも依り頼まずに、ただ主なる神様のみに依り頼み、主なる神様こそが私たちに必要なものを与えて下さることを信じて、その御顔の前で、主との交わりに生きていくためです。そこにこそ、この世の何ものにも支配されない本当の自由があるのです。主なる神様は私たちにその本当の自由を与えようとしておられるのです。
◎イスラエルの民は、主なる神様によってエジプトの奴隷状態からの解放の恵みを与えられました。この救いを与えて下さった主のみ顔の前を歩むことによってこそ、彼らは自由に生きることができたのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一の戒めは、彼らがこの自由を失うことなく、そこにしっかりと留まるために与えられた道しるべでした。主なる神様は今、私たちにも、同じ解放の恵みを、救いを与えて下さっています。私たちの解放と救いは、神様の独り子イエス・キリストによって与えられています。主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって、私たちは全ての罪を赦され、神の子として新しく生きる道を開かれたのです。この救いのみ業によって私たちは、独り子の命をすら与えて下さる神様の真実な愛の下に置かれています。この神様の愛こそが、私たちに本当の自由を与えます。私たちの周りには、エジプトの肉鍋である御利益を約束するこの世の神々が取り巻いています。また、私たちの目を奪い、ここにこそ幸せが、人生の充実があるのではないかと思わせるものが数多くあります。しかし、その中のいったい何が、独り子の命をすら与えて下さるほどに私たちを愛してくれているでしょうか。私たちの目を奪い、心を虜にし、エジプトの肉鍋を約束するものはどれも、結局私たちを奴隷とするものなのです。独り子イエス・キリストの命を与えて下さった主なる神様のみが、私たちを、奴隷とするのではなく、本当に自由な者として愛して下さっています。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一の戒めは、この主イエス・キリストにおける神様の愛のもとにしっかり留まり、神様のこの愛のまなざしの中で、私たちも神様にしっかりと顔を向けて生きるようにとの勧めです。そこにこそ、この世の何ものにも支配されない本当の自由があるのです。それゆえにこの戒めは私たちにとっても、神様が与えて下さった自由を失わずに生きるための道しるべです。本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、ガラテヤの信徒への手紙5章1節を選びました。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。第一の戒めはこのみ言葉と同じことを私たちに告げているのです。

1月9日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 3章10~17節 2022年1月9日(日)礼拝説教
「キリストを土台とする生き方」  牧師 藤田 浩喜
◎今日の箇所には建物の「土台」について語られていますが、石田洵先生がよく話しておられた私たちの教会の会堂建築のお話を思い出します。私たちの教会は建築のとき随分たくさんの杭を打って基礎工事をしたそうで、それを見た近所の人から、「どんな大きなビルが建つのかと思った」と言われたとのことでした。この辺りは昔湿地帯だったらしく、必ずしも地盤が強くなかったので、しっかりと土台を造ったのです。しかしそれが功を奏してか、阪神淡路大震災の時も中のものはミキサーで混ぜられたような状態になりましたが、会堂自体は大きなダメージを受けませんでした。建物にとって土台がしっかりしていることがいかに重要であるかを教えられた経験でありました。
◎さて、今日司式長老にお読みいただいた3章10節で、使徒パウロは次のように言っていました。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。」パウロはコリントの町で伝道し、それこそコリント教会の基礎を築いた人です。しかし、地中海世界に伝道を志したパウロは、一つの伝道地に長く留まることは滅多にありませんでした。信仰ゆえに牢獄につながれた時だけ、長くその地に滞在しました。そのため、教会の土台だけ据えて、その後の教会を建て上げる働きは、他の人に委ねたのでした。そのようなパウロと他の人たちの連携によって、コリント教会も建て上げられたのです。
 ただパウロは、ここで建物の建築と同様、教会の群れを建て上げるためにも、
「土台」が決定的に重要であることを語ります。どのような「土台」を置くかが決定的に大切なのです。10節後半~11節です。「ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」教会の群れを建てる時、イエス・キリスト以外の土台を据えることはできません。もしほかの土台の上に教会を建てようとするなら、それはキリストの教会ではなくなってしまうのです。
 この場合、「イエス・キリストという土台」とは、どのような土台なのでしょう。パウロはこの手紙の1章22節以下で、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と言っています。また、2章2節でも「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と述べていました。つまり、ここでいう「イエス・キリストという土台」は「十字架につけられたイエス・キリスト」ということであり、人間とこの世界を罪と滅びから救うために、徹底的に低くなられ、ご自分を十字架に捧げてくださったお方のことです。徹頭徹尾人間に仕えてくださったお方。この「十字架につけられたイエス・キリスト」を土台として、教会は建て上げられなくてはならないのです。私たちの教会の土台には、十字架につけられたイエス・キリストが横たわっておられる。その横たわるお方によって教会という群れが支えられている。そのように私たちがイメージするとき、私たちは教会を建てるということが、いかに厳粛なことであるか、襟を正される思いがするのではないでしょうか。
◎さて、教会の群れは建物がそうであるように、土台の上に建てられていきます。土台の上に上物が建って、教会としての姿を現わします。しかし、上物を建てる場合に気を付けるべきことがあります。それは建物は土台に合うようにしなければならないのです。建物の上部構造は土台の様式と一致していなくてはなりません。そうでなければ、建物はゆがんで不安定になり、建物としての強度を保つことができなくなるのです。
 教会という群れが、「十字架につけられたイエス・キリスト」という土台と合っているか、まったく様式の違った群れを建て上げてはいないか。そのことが問題なのです。十字架につけられたイエス・キリストは、徹底的に謙られ、人間とこの世界を救うために、徹頭徹尾仕えられたお方でした。しかし手紙の宛先であるコリントの教会には、自分の知恵を誇り、自分たちこそが誰よりも正しいと党派争いに血道を上げているような人々がいました。このようなあり方は、イエス・キリストという土台とはまるで合ってはいません。あべこべです。そのような土台に合っていない仕方で教会の群れを建てようとしても、それは無理なのです。
 他方パウロは、土台の上に建つ建物は、多様であることを語ります。12~13節です。「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。」「金、銀、宝石、木、草、わら」は、建て上がる建物が多様であり、バラエティーに富んでいることを表しています。前半の3つは燃えない材料、後半の3つは燃える材料と分けて考えることもできるでしょう。実際、終わりの日に現れる火によって、その仕事が吟味されるとありますので、燃える、燃えないは関係しているかも知れません。
 しかし、パウロは「金、銀、宝石、木、草、わら」という材料に、優劣を付けているわけではありません。「三匹のこぶた」のお話のように、建物の建築資材が問題であるのではありません。外観はどんなものであっても構いません。実際、同じ日本キリスト教会の教会でも、教会の姿は教会ごとに違っています。会堂の形や構造だけの話ではなく、教会の群れごとに個性や特徴があります。しかし、そこには教会としての優劣はまったくありません。教会にとって大切なのは、その群れが「土台である十字架につけられたイエス・キリスト」にふさわしい群れであるかどうか、ということです。金や宝石のように立派に見える教会の群れも、主イエスの謙遜と奉仕の姿勢が失われていれば、キリストの教会と名乗ることはできません。反対に、木や草からできたようなつつましい教会であっても、十字架につけられたイエス・キリストの姿勢が息づいているなら、それはキリストの教会と呼ばれるにふさわしいのであり、終わりの日になされる火の吟味にも耐えることができるのです。
◎ところでパウロは、今少し申し上げましたように、地上の教会がやがて終わりの日に、キリストの教会として歩んだか、試される時が来ることを告げています。私たちの教会も、土台であるお方にふさわしく歩んだか、テストされる時が来るのです。14~15節です。「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」
 あるアメリカ人の註解者は、ここの不注意な建築家が受けることになる劇的な結果の例を、1994年に起こった南カルフォルニア大地震に求めています。この大地震によって、カルフォルニア、ノースリッジのアパートがつぶれ、16人の人が死にました。その後、建築業者は裁判に訴えられ、不当な死であると主張した原告たちに、和解のために百万ドル以上払うように要求されました。パウロはそのようなことを念頭に置いているのでしょう。パウロの仕事を受け継いで、教会を建て上げることを託された者たちが、キリストの教会にふさわしい群れを建て上げることに失敗したならば、神はその責任を群れを建てた者に取らせるというのです。この群れを建て上げる責任は、長老主義教会においては牧師を中心とする長老会・小会に負わされています。牧師を中心とする小会は、終わりの日になされる火の吟味に耐えられる伝道・牧会をしているか、終わりの日の視点からそのことを問われているのです。
 しかし、火によって吟味され、燃え尽き、損害を受けた人、必ずしもキリストにふさわしい教会を建てられなかった建築家にも、主は憐れみを施されます。パウロは「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と記してます。たとえ、不十分であったとしても、少なくともキリストのために何かをやろうと努力したのだから、その人も救われるというのです。この御言葉は、失敗を恐れて、教会の群れを建て上げることに消極的にならないように、主が私たちを励ましている言葉です。「10タラントン、5タラントン、1タラントンのたとえ」でもそうですが、神の御業を担う者にとって大切なのは、神の導きを信じて積極的に行動することです。教会の群れを建て上げることはいつも順調にいくわけではありません。しかし、失敗を恐れずに果敢に希望をもって取り組んでいくよう、主は私たちを励ましてくださるのです。
◎さて、16~17節は、教会の群れを神の建物として描いているパウロが、教会の栄光について言及している有名な言葉です。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊すものがいれば、神はその人を滅ばされるでしょう。神の神殿は聖なるものであり、あなたがたはその神殿なのです。」旧約の時代、主なる神がご臨在されている場所は、エルサレム神殿のみでした。しかしパウロは、イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、「あなたがた」つまりキリスト教会が神の神殿であり、そこに主なる神さまがご臨在なさっていると、高らかに宣言しているのです。教会の礼拝において、御子イエス・キリストを通して、キリスト者は神さまのご臨在に確かに触れることができるのです。
 しかし、教会がどんな状態であっても、神が自動的に教会の内にご臨在なさるというわけではありません。主なる神のご臨在に触れることができるのは、聖霊の働きです。聖霊は父なる神と子なるキリストから、私たちの群れに注がれます。そして聖霊は、教会共同体の一致と協調があってこそ、出現します。そうであるからこそ、私たちはイエス・キリストの土台の上に、聖霊が正しく礼拝され、出現するような仕方で、教会の群れを建て上げなくてはならないのです。共同体の一致を損なわせる者は、神がお選びになったご臨在のあり方を妨げる者であり、裁きを免れることはできないのです。
◎私たちの教会も「十字架につけられたイエス・キリスト」という土台が、すでに据えられています。それはペトロの手紙一が証ししているように、「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない」(2:6)と述べられている確かな土台です。私たちの西宮中央教会も、このイエス・キリストという、揺るがぬ、確かな土台の上に、主の喜ばれる、御心にかなった教会を建て上げていきたいと思います。

1月2日礼拝説教

イザヤ書40章25節~31節  2022年1月2日礼拝説教
 「弱ることなく、疲れることなく」  牧師 藤田 浩喜
◎新年最初の主日礼拝をこうして共に捧げることができますことを嬉しく思います。この礼拝において、私たちは次のような御言葉を与えられています。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(31節)。今日の説教題はここから取りました。私たちは主に望みをおく人として、この新しい年を歩み出したいと思います。
◎さて、「望みをおく」と訳されていますが、原文の意味は「待つ」です。主を「待つ」のです。「待つ」ということは信仰生活の大事な要素です。私たちは諦めないで、望みを捨てないで、「待つ」ことのできる人になりたいものです。そのような人こそ、天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。
 しかし、このような預言者の言葉が伝えられているというのは、もう一方で「待つ」ということが時として非常に困難だからでしょう。確かに苦しみが長く続くとき、待つことが困難になります。祈り続け、訴え続けてもなお事態が一向に変わらないとき、待つことが困難になるのです。
 時は紀元前6世紀、イスラエルの民がバビロニアにて捕囚となっていた時代。既に捕囚生活が一世代以上続いていたときでした。すぐにも祖国に帰還することができるという希望に燃えていた熱狂の炎も、すっかり消えてしまいました。期待をもって未来を見つめる熱いまなざしは、もはやそこにはありませんでした。もはや待ち望むべきものなど何もありませんでした。27節に引用されているのは、当時の人々の口に上っていた嘆きの言葉です。「わたしの道は主に隠されている」「わたしの裁きは神に忘れられた」。
 「わたしの道は主に隠されている」とは、わたしがどんな苦しく辛い道を歩んでいても、主とはもはや無関係だということです。すなわち、主は関心をもって見ていてはくれない、ということです。それは長く続く捕囚生活における実感だったのでしょう。天高いところに鎮座ましましてそっぽを向いている神。もしかしたら私たちも、そのような神のイメージを思い描いてしまう時があるかもしれません。
 「わたしの裁きは神に忘れられた」も同じことです。「わたしの裁き」は、他の訳では「わたしの訴え」「わたしの権利」などと訳されています。その方が分かりやすいでしょう。どんなに神様に訴えても、どんなに権利が侵害されていても、全く神様は関心をもってくださらない。まさに忘れ去られているとしか思えない。そのように感じる時はないでしょうか。
 そのように神への不信がつのり、待ち望むことができなくなってきますと、内側から弱ってくるのです。29節には「疲れた者」が出てきます。「勢いを失っている者」が出てきます。必ずしも病弱な人や年老いた人の話ではありません。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる」ということが書かれています。
 長引く捕囚生活の中で、「待つこと」ことができなくなる。未来に何の新しいことをも期待できなくなる。そのような時、年若い者さえも倦み、疲れ、つまずき倒れるようになります。それは私たちもよく知っていることです。本当の疲れは置かれている状況から来るのではありません。待ち望むものを失った心の状態から来るのです。
◎しかし、そのような者たちに対して、預言者が語るのです。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。
 この「なぜ」という言葉は、聖書に繰り返し出てきます。人間の言葉として、祈りの言葉として出てくるのです。「なぜですか」という神への問いかけとしてです。これは詩編の中の「嘆きの歌」と呼ばれるものに特徴的な言葉です。例えば、よく知られているのは詩編22編でしょう。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(22:2)という言葉から始まる詩編です。主イエスが十字架の上で口にされた詩編の言葉です。恐らく人々が口にしていた嘆きの言葉も完全な形に再現するならば、こうなるのでしょう。「神よ、なぜわたしの道はあなたに隠され、顧みられないのか」「神よ、なぜわたしの裁きは忘れられたのか」。
 そのように嘆きの中で「なぜですか」と問いかけることは私たちにもあると思いますけれど、それは大昔の信仰者たちも皆、経験してきたことです。私たちがそのような思いを抱いたとしても、それは何ら特別なことではないと言えます。そして、嘆きを嘆きとして口に出し、「なぜ」という問いを神に向けることは、時として大事なことのようです。
 しかし、私たちの側から神に向かって「なぜ」と問うだけで終わらせてはならないのです。嘆くときは大いに嘆いたらよいと思いますが、「なぜですか」と言って、その嘆きの中に留まっていてはならないのです。そこに留まるならば、力を失っていくだけなのです。弱っていくだけなのです。神の前に嘆きを注ぎ出したなら、今度はそこから向こうからの問いかけを聞かなくてはなりません。主は問い返されるのです。「なぜ」と。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。嘆きの中にあって、さらには不信仰に陥ってしまっている時に、この主が問いかけられる「なぜ」を聞くことはとても大事なことなのです。
 主の問いかけは恵みです。主の「なぜ」は私たちを不信仰と嘆きの穴から引き上げるための問いであるからです。主が「なぜそうしているのか」と問われるのは、そうする必要がないことを主は知っておられるからです。「なぜ嘆いているのか」という問いは、「もう嘆く必要はないではないか」という語りかけでもあるのです。
 「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と、わたしの裁きは神に忘れられた、と」(27節)。ならば、もはやそのように語り、断言し、嘆き続けている必要はないのです。どうしてか。主は預言者を通してさらにこう語られるのです。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい」(28節)。
◎「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と、主は問い続けます。そうです。既に知らされていることがあるのです。聞いてきたことがあるはずなのです。私たちの主がどのような御方であるかを、既に知らされているのです。聞いてきたことを思い起こさなくてはならないのです。
 今自分が感じていることに留まっている限り、嘆きの中に留まり続けることになるでしょう。「わたしの道は主に隠されている」と感じているのですから、そこに留まっているかぎり、嘆き続けることになるのです。
 しかし、主が既に預言者を通して御自身について語ってこられたことがあるのです。例えば26節。「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない」(26節)。その他、多くの言葉をもって、既に主が「とこしえにいます神」であり、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」であることを、主は既に語っていてくださるのです。今こそ何を聞いてきたのか、何を知らされてきたのかを思い起こさなくてはならないのです。
 「主は、とこしえにいます神」(文字通りには「永遠の神」)とありますが、そこで重要なのは、「永遠の昔」でも「永遠の未来」でもありません。「永遠から永遠まで常に」ということです。すなわち、「今ここにおいても」ということです。すなわち、「わたしの道は主に隠されている」と思える今この時も、「わたしの裁きは神に忘れられた」と思える今この時も、ということです。
 神不在と思える現実においても、実は不在などではなく、「その英知は究めがたい」と語られているその英知をもって、神は支配しておられます。実際、あの時もそうでした。キリストが不当な裁きによって十字架にかけられたその時においてさえ、全地が暗黒に包まれたあの時でさえ、神は全てを支配しておられたのです。そして、実はその時においてこそ、最も大いなる救いの御業が成し遂げられていたのです。確かに「主は、とこしえにいます神」です。
 そして、神は「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」です。実はこれは意訳であって、もともとは「地の果ての造り主」と書かれているのです。しかし、もちろん地の果てを問題にしているのではありません。どこか遠いところにおいてではなく、今ここにおいても、ということです。地の果ての造り主であるならば、今目にしている目の前の世界もまた、主の手によるのだということです。この世界の諸々の問題も、人間の手に負えない諸々の課題も、全て被造物世界の中でのことです。主の手が及ばないことは何一つないのです。
 そして、私たちが知らされていること、聞かされていることは、さらには既に救い主が到来したこと、そして救いの御業を成し遂げて、復活されて、やがて完全な救いをもたらすために再びおいでになることにまで、及んでいるのでしょう。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と問われるなら、私たちは答えることができるはずです。「主よ、確かに知らされております。聞いております」と。
 ならば、私たちはそこから再び、その御方に思いを向けることができるはずです。私たちが知らされている御方、聞かされている御方に、心の目をしっかりと向けることができるはずです。私たちは待ち望むべき未来を持っているのです。
 私たちが不信と嘆きの中から再び立ち上がり、主に望みをおくならば、与えられている約束の言葉はこれです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。神は私たちに力を与えてくださいます。私たちは天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。私たちは主に望みをおく人として、この新しい年を歩み出したいと思います。

12月26日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 3章5~9節 2021年12月26日 主日礼拝説教
「成長させてくださる神」   牧師 藤田浩喜
 「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(7節)。この説教題にもいたしました聖句は、幼稚園の父母の会などでよく取り上げてきました。子どもが成長していく上で、親の関わりは大切です。水をやったり、肥料を施したりするように、多くの世話をしなくてはなりません。しかし、子どもの中には神さまが備えてくださった、自分で育っていく力があります。その力を信じて、干渉し過ぎないように、子どもがやるべきことを親が先回りしてしまわないようにしましょう。そんな内容のお話をすることがあります。
 そんなよく知られた箇所ですが、パウロはどういう経緯で今日の御言葉を記しているのでしょう。前回学んだ3章3節でパウロはコリント教会の人たちにこう言っていました。「…お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」人間はだれもが肉でできています。しかし、パウロはコリントの人たちが肉でできているだけではない。肉によって支配されていることを問題にしています。
つまり、彼らが神さまの霊に従うのではなく、神から離れた罪なる肉の性質に支配されていることを問題にします。
そして、肉に支配されている証拠が、「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロにつく」と主張する分派争いだと言っているのです。つまり、教会の中でそれぞれの指導者を祭り上げて、主導権争いをしている。「自分は何々先生の弟子だ」と威張っている。それは神さまの霊に従っているのではなく、人間の罪ある肉の性質に振り回されている証拠だと、パウロは批判しています。今日の3章5~9節の御言葉は、実は、そうした文脈の中で語られているのです。
まず5節で、パウロは次のように語ります。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」パウロは、コリントの地に福音の種を蒔き、コリント教会を設立した人です。アポロはパウロの後にコリント教会にやってきて、信徒たちの信仰生活を養う働きをした人です。「植えた者」、「水を注いだ者」という農業のたとえに、それがよく表れています。彼らは二人とも目覚ましい働きをした人でした。しかし、どんなに大きな働きをした人であっても、彼らは「主がお与えになった分に応じて仕えた者」、つまり奉仕者に過ぎないのです。奉仕者は、主人の命じたことを忠実に行う人であり、それ以上の者ではないのです。
けれども私たちは、ここでパウロが、「水を注ぐ者」としてアポロを紹介していることに注目させられます。パウロは「植えた者」としての自分の奉仕だけでなく、「水を注ぐ者」としてのアポロの奉仕を同列において評価しているのです。
教会において、教会を開拓した創立者のことは、誰の記憶にも残ります。「誰々先生の開拓した教会」とよく言われます。しかし教会は建てただけではダメで、その後を継いで、信徒たちの信仰を豊かに養っていく働きが大切なのです。きちんと信徒たちに対する世話がなされ、信仰を豊かに養うために心が砕かれているか。熱心に祈っているか。私たちの教会にもそのことが問われているのです。
 次の6節、7節は、同じことが繰り返し述べられています。パウロは特にこのことを強調したかったのでしょう。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」地上においては、植える者や水を注ぐ者の姿がクローズアップされます。しかし、作物を育てる上で決定的な役割を果たすのは、成長をもたらす神さまの働きです。それと同じように、蒔かれた福音の種を根づかせ、信仰の生きた共同体を生じさせるのは神さまなのです。この神さまの働きがなければ、植える人の働きも、水を注ぐ人の働きも、虚しいものでしかないのです。
 今日読んでいただいた旧約聖書の御言葉は、エレミヤ書24章4~7節の箇所でした。これは主なる神が預言者エレミヤを通して、捕囚の地にあるイスラエルの民に語った言葉です。神は長らく捕囚の苦しみに置かれていた民を、イスラエルに連れ戻すことを宣言し、次のように言われるのです。「彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。」「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。」仕える者は「植える者」、「水を注ぐ者」として、神さまに奉仕します。しかし、信仰を起こさせ、神さまを主と告白する心を与えてくださるのは、イエス・キリストと父なる神さま以外にはおられません。この成長させてくださる神さまの働きを祈り求めていくことが、何よりも大切なのです。
 続く8~9節を読んでみましょう。「植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」
「植える者」と「水を注ぐ者」との働きは、同じではありません。違っています。
しかし、「神のために力を合わせて働く」という目的において、「一つ」なのです。「誰々先生につく」、「アポロにつく」、「パウロにつく」という分派争いは、教会をバラバラにしてしまいます。しかし、教会に多くの働きや奉仕の種類があったとしても、「神のために力を合わせる」という目的において、教会は一致していなくてはなりません。現実の教会生活の場面では、思いや考え方の相違があり、意見が対立することもあるでしょう。事柄は決して単純ではないでしょう。しかし、「神のために力を合わせて働く」という共通の目標を掲げて、議論し合い理解し合って、一致を目指していくことが、神さまの御心なのです。
 その場合、信仰者ひとり一人の奉仕の業は違います。ある者は「植える者」、ある者は「水を注ぐ者」です。皆が同じ奉仕を担うのではなく、種類の違う奉仕を担います。教会の活動は多種多様な奉仕者によって、担われています。そして
各自が多様な奉仕を担うことによって、教会はイエス・キリストを頭とする一つの体なる教会として歩んでいくことができるのです。この個所おいても、パウロが教会という共同体を人間の体のように考えていたことが分かります。すべてが目であったら、すべてが口や手であったなら、人間は自立した存在として生きていくことはできません。多くの器官が多様でありつつ、一つの意志によって有機的に統合されることによって、支障なく活動することができます。それと同じように、それぞれの信徒が多様な賜物を神さまのために用いることによって、教会の健全な一致が生み出されていくのです。
 そして、「それぞれの働きに応じて自分の報酬を受け取ることになる」(8節)とあります。これは成果主義で報酬が決まる、報酬は出来高払いということではありません。父なる神は、一日働こうが、一時間だけ働こうが、必要な一デナリオンを与えてくださる方であることを思い出さなくてはなりません。神さまは、教会においてその人がどんな奉仕を担おうと、その人にふさわしい、その人に必要な報酬を与えてくださいます。神さまは奉仕するひとり一人に報いて下さり、神さまが与えてくださる喜びで満たしてくださるのです。
 ところで9節の最後には、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と言われています。「植える者」、「水を注ぐ者」と畑で仕事をする者のことが語られていました。それがここでは、「あなたがたは…神の建物なのです」と、建築の仕事に言い換えられています。これはどうしてでしょう。ある説教者は、「信仰生活は、多くの実を生み出すとともに、それが、教会になることが、重要なことなのです」と述べています。私たちが信仰生活を続けていく。それぞれの賜物を捧げつつ、神さまに仕えていく。それは他でもない。教会を真実な教会として建て上げていくという目的を持っているということなのです。エフェソの信徒への手紙2章20~22節にこう言われています。「(あなたがたは)…使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」私たちが信仰に入るということは、教会が神の宮として建てられることを目ざしていくということなのです。
 今日私たちは2021年最後の主日礼拝を守っています。この一年もコロナ禍に翻弄された一年でした。このコロナ禍はまだ収束してはいません。オミクロン株による感染者がじわじわと増えており、感染の第六波がやって来るかも知れません。教会の歩みは主日礼拝や日曜学校、祈祷会などは行ってはいるものの、各部の例会や愛餐会などの交わりの機会は、依然として持つことができていません。
教会生活の多くの部分が制限を受け、本来の活動を行うことができていません。
 しかし、2000年以上にわたる教会の歴史は、幾多の戦争や巨大災害、疫病の荒波を受けながらも、現在まで倒れることなく続いて来ました。それはなぜか。多くの理由があるかもしれませんが、その大きな一つの理由は、教会がこの世にあって、肉なる者の集まりでありつつ、肉に支配されることなく神の霊に従う群れであろうとしたからではないでしょうか。エフェソの信徒への手紙は、「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」と述べていました。このように肉なる人間の集まりでありながら、イエス・キリストの父なる神を仰ぎ、聖霊の働きを通して、教会が神のいまし給う場所としてこの世に存在し続けた。信仰者の群れが、自分たちも共に建て上げられた神の宮として存在し、この世に証しを立てていった。そのことが決定的に重要であったと思うのです。新しく迎える一年、私たちの西宮中央教会が神の宮として、神の喜ばしい御臨在をこの世に証していくことができるよう、共に祈り、努めてまいりたいと思います。

12月19日礼拝説教

ヨハネによる福音書1章14~18節 2021年12月19日(日)主日礼拝説教
「クリスマス~恵みと真理の追究~」 牧師 藤田 浩喜
◎クリスマスの喜び、それは私たちが救われた喜びです。イエス・キリストが二千年前にお生まれになって、私たちを救ってくださった。私たちはこの主イエスの救いに与らせていただいた。だから、クリスマスは喜びの日なのです。何にも換えることができない喜びの日なのです。もし、私たちが主イエスの救いに与っていないなら、私たちはこのようにクリスマスを喜び祝うことはないでしょう。私は、毎年クリスマスが来るたびに、クリスマスを喜び祝うことができる幸いを思うのです。
今年は、12月2日の婦人会クリスマス、11日の日曜学校小学科のクリスマス、19日のクリスマス主日礼拝と日曜学校幼稚科の讃美礼拝、24日のクリスマス讃美礼拝、25日の若い人のクリスマスと、たて続けに行事があります。その準備等で目の回るような忙しさの中にある方も多いと思います。しかし、そのような忙しいクリスマスを迎えることができるということもまた、本当にありがたいことだと思うのです。主イエスを知らなかったならば、私たちはこの忙しさを味わうことはなかったでしょうけれど、クリスマスを心から喜び祝うこともなかったでしょう。クリスマスを一年の最後のイベントくらいにしか受け取れなかったでしょう。しかし私たちは、アドベントが始まる前から、一ヶ月にもわたって「クリスマス、クリスマス」と言って過ごして来た。それは、私たちがクリスマスにお生まれになったイエス・キリストの救いに与っているからなのです。
◎今朝与えられております御言葉、ヨハネによる福音書の1章14節を見てみましょう。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。これが、ヨハネによる福音書が記すクリスマスの出来事です。ここには、マリアもヨセフも登場しません。天使も羊飼いも博士たちも登場しません。しかし、ヨハネによる福音書は、この独特の語り口で、主イエス・キリストの誕生とはどういうことなのかを告げています。
 言は肉となった、肉体をとられたと語ります。「肉となった」というのは、切れば血が流れ、打たれれば痛い、そういう私たちと同じ肉体をもつ人間となったということです。そして、この「言」とは、1章1節にあります「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と告げられている「言」です。永遠に神様と共におられ、神であられる、神の独り子としてのキリストです。この神であられるキリストが、肉体をとり、主イエスとしてお生まれになった。それがクリスマスです。まことの神であられるキリストが、まことの人である主イエスとしてお生まれになったのです。主イエスは、肉体を持つことによって、神であられることをやめられたのではありません。ですから、14節後半「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であった」と言うのです。主イエスの中に父の独り子、父なる神様の独り子としての栄光を見たのです。それは、主イエス・キリストがお語りになったこと、主イエス・キリストがなされた業は、何を聞いてもどれを見ても、優れた人間、賢い人間というようなものではない。まことにこの方は神様と一つであられると認めざるを得ない、そういうものだったということであります。18節において「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と言われておりますことも、そういうことでしょう。神様そのものを見た者は誰もおりません。ですから、神様がどのようなお方なのか明確に示すことは誰にもできないのですけれど、主イエス・キリストの言葉と業を見るならば、神様とはこの様な方ではないかと、私たちが知ることができる。主イエスとはそういうお方なのだということであります。そして、主イエス・キリストの言葉と業は、すべて十字架と復活へとつながっているのです。と言うよりも、ヨハネによる福音書は、十字架にお架かりになり、そして三日目によみがえられた主イエス・キリストというお方を、そこから見て、まことに神様そのものであったと告白しているのでありましょう。
◎神の独り子が人となって地上に下り、全く罪のないただ独りのお方が、私たちのために、私たちに代わって、十字架にお架かりになってくださったのです。パウロはこのことについて、ローマの信徒への手紙5章7~8節においてこう言っています。「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。本当にそうであります。自分と敵対する者を救うために自らの命を差し出す。これは度はずれたこと、あり得ないことです。しかし、主イエスそれをしてくださり、それをするために人となられたのです。ですから、主イエスに現れた神の独り子としての栄光は、恵みと真理に満ちた栄光なのです。更に、主イエスは三日目に死人の中から復活され、私たちに永遠の命に至る道を拓いてくださったのです。これはまことに神の独り子としての栄光であり、恵みと真理に満ちた栄光と言わざるを得ないでしょう。
 主イエス・キリストは、天地を造られたただ独りのまことの神、全能の父なる神様の独り子であられますから、父なる神様の持つすべてを持っておられます。それは、すべてを造り支配される全能の力であり、すべてを計画し御存知である全き知識であり、すべての者に命を与えられる永遠の命であり、罪人を裁きそして赦す権威であり、自分に敵対する者をも愛するまことの愛であり、私たちの心の底までも見通される知恵であります。その良きものすべてを主イエス・キリストは持っておられ、そのすべてが十字架と復活の出来事において現れたのです。しかしそれは、十字架と復活においてもっとも明らかな業として現われ出たということであって、主イエスはクリスマスにお生まれになったその時から、神の独り子としてすべてお持ちになられていたものなのです。
◎そして16節です。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」のです。主イエス・キリストの持つ良きものすべては、ただ主イエスの中に満ち満ちているだけではなくて、まさに主イエス御自身からあふれ出て、主イエス・キリストを信じるすべての者の上に注がれたのです。私たちは恵みを求めて歩むのではないのです。恵みの方が私たちを追いかけてくるのです。どこにいても、恵みが私たちを追いかけて来て、私たちを捕らえるのです。それは、「恵みの上に、更に恵みを受けた」と言わざるを得ない、恵みに満ちたものなのです。
 今、ほんのひとときでもよい。この神様からの恵みを数え上げてみたらどうでしょう。私たちは、どんなに神様の恵みに満たされて一日一日を歩んできたかが分かるでしょう。私たちがこの地上の歩みを始めた時から、その恵みは私たちを捕らえて離さず、私たちは次から次へと恵みに恵みを加えて与えられました。私たちが当たり前だと思っている一つ一つの日常の出来事、日常の営みが、キリストの恵みの中にあってのことなのであります。あの両親から生まれたこと、良き家族の中で育まれたこと、良き友を与えられたこと、この人と出会って結婚したこと、子が与えられたこと、この仕事に就いたこと、数え上げればきりがありません。そのすべてが神様の恵みです。
 そして何よりも、私たちは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、一切の罪を赦され、神の子たる身分を与えられたのです。まことに愚かな罪人である私たちが、天地を造られた神様を「アバ、父よ」と呼び、祈ることができる者とされたのです。この救いの恵みを私たちに与えるために、そしてこの世界に生きるすべての人々を招くために、神の独り子、主イエス・キリストは来られたのです。「恵みの上に、更に恵みを受けた」とは、そういうことです。主イエスが来られなかったならば、今日(こんにち)の私はないのです。そのことを思いますと、私たちは主イエスと父なる神様に感謝し、ほめたたえないではおられません。それが私たちのクリスマスなのです。
◎私たちは、自分が救われたことを喜び祝います。これは大切なことです。自分の救いの恵みがはっきりしなければ、心から喜び祝うことはできないでしょう。しかし、私たちは、この神様の救いの御業というものが、自分の所にとどまるのではなくて、更に広く更に豊かに展開していっているし、これからも展開し続けていく、このことをはっきりと心に刻みたいと思います。それは、主イエスが再び来られる日まで続くのです。そして、私たちは、その大きな神様の救いの御計画、御業の中で、今年もクリスマスをこのように喜び祝うことができたということなのです。
 この一年の歩みを顧みますならば、まことにたどたどしいものであったと言わざるを得ません。2年間近くにおよぶコロナ過の中で、右往左往した日々でした。体も心も弱くなった時もありました。しかし、それでも守られた。信仰も健康もどうにかこうにか守られ、支えられた。だから、こうしてクリスマスを祝うことができている。どうにかこうにかでしたけれど、何とか守られた。まことにありがたいことです。そして、御心ならば、これからの一年もまた、主に守られ、支えられ、次のクリスマスを共々に喜び祝いたいと、心から願うものであります。恵みに更に恵みを加えられる一年を、歩ませていただきたいと思うのです。
 私たちは今から聖餐に与ります。聖餐は天上のイエス・キリストと私たちが聖霊において結び合わされることです。この聖餐に与ることによって、私たちは自分が主イエス・キリストの内に満ちあふれている豊かな恵みの全てを受け取る者とされているということを、しっかりと心に刻むのであります。

12月12日礼拝説教

ヨハネによる福音書1章6~8節  2021年12月12日(日)主日礼拝説教
「光について証しする者」  牧師 藤田 浩喜
「初めに言があった」という独特の文で書き始められたヨハネによる福音書の序章は、第二の段階に入って、ひとりの人物を紹介いたします。その名は、ヨハネです。神の御子イエス・キリストがまだその名はあげられず、「言」という抽象的な言い表し方しかなされていないのに対して、ここでははっきりと名前が明らかにされています。彼は、神の言であるイエス・キリストを証しする証人として紹介されるのです。天に属する事柄が、地上の事柄として展開されるためには、そのことに仕える地上の人物が必要であります。それが証人、証し人です。
 旧約聖書にも新約聖書にも、神のことを証しする多くの証人たちが登場いたします。教会の2千年に渡る歴史においても、無数の証人たちが用いられました。
 ヨハネによる福音書において、そのようなキリストの証人として最初に登場してくるのがヨハネです。このヨハネは、「ヨハネによる福音書」を書いたといわれる使徒ヨハネではなくて、わたしたちが洗礼者ヨハネとして知っている人物のことです。ルカによる福音書によれば、父ザカリアと母エリザベトの間に生まれた人物であることが分かります。それは御子イエス・キリストの誕生より数か月前のことでした。その後成長して、人々に悔い改めて神のもとに立ち帰り、洗礼を受けて、罪の赦しを得よ、と訴える働きをいたしました。そこから洗礼者ヨハネと呼ばれるようになったのです。
 マルコによる福音書に、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(1:5)と記されています。そのように、彼の説く教えに多くの人々が感銘を受け、心を揺り動かされて、自分の生き方を考え直す機会を与えられていたのです。暗闇の中で光を求めるように、ヨハネの説く教えの中に生きる望みを見出そうとしていた人々が多くいたのでした。ヨハネの説くそのような教えの中心に、救い主イエス・キリストがしっかりと位置づけられていたのです。
 そのヨハネについてヨハネによる福音書は次のように語っています。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」(6~7節)。「光」とは、既に4~5節に出て来たことですが、「神の言」として言い表され、命の源として示されているイエス・キリストのことです。ヨ
ハネは、このイエス・キリストを証しするために神から遣わされた者であり、その終極の目的は、すべての人々が、このキリストをとおして神を信じるようになるためである、というのです。ここに、イエス・キリストを真の命の源、真の光として指し示す〈指〉として、あるいは、〈声〉としての生涯に徹した一人の人物をわたしたちは見出します。
 ところで「証し」とは何かということについて、もう少し考えてみましょう。「証し」とは、本来は法廷用語=裁判用語としての性格を持っていて、真実を証言するというような意味の言葉です。それが信仰の世界においても用いられるようになって、神の真理を人々の前で明らかに語ることとか、また、自分自身に与えられた神からの恵みを真実に語ることによって、神の姿をその人の言葉で明らかにする、ということを表すものとなったのです。
 そこからわたしたちが知ることができることは、「証し」の行為には、明らかに一つの制約がある、ということです。つまりそれは自分を語るのではなくて、つねに神を語る、あるいはイエス・キリス卜を語ることでなければならない、ということです。そのことを抜きにして、真の証しはありえないのです。
 この証しの行為の中には、証しする対象となるもの、それはイエス・キリストですが、そのお方と証しする者との間に密接さと距離との両面があることが分かります。密接さとは、語る者、証しする者自身が、その対象であるお方と強く結びつき、そのお方によって生かされている、という事実がなければ、真の証しはできない、ということです。単に客観的、中立的に、ある知識を披瀝することが
証しではありません。証しする者がその知識に従って生きていることが大切なことなのです。また距離というのは、「彼は光ではなく」(8節)と述べられ、「彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」(20節)と記されていることがらによって示されています。つまり証しの行為においては、自分が中心にあるのではなく、あくまでも、中心に立つキリストに仕えることなのだということからはずれてはならないのです。
 わたしたちが持っている欲望の一つとして、自分を目立たせようとすること、自分を高めようとすること、自分への賞賛を集めようとすること、そのようなものがあるかも知れません。だれにでも自分という人間が事柄の中心に立つことを願う思いというものがあります。わたしたちの生活のある分野にはそういうものがあってもよいのかも知れませんし、今日、そのような傾向が強まっていること
も事実です。しかし証しという行為には、そのような要素が入りこんで来る余地は全くといってよいほどにないのです。自分のことについてたとえ語ることがあったとしても、それは自分を浮き出させるためではありません。そうすることによって究極的には救い主キリストを人々に伝えることが起こらなければ意味がないのです。
 ヨハネは、人々の信仰のために30数年の短い生涯をささけました。ただ一つのことのために情熱を傾け、熱い炎を燃えたぎらせての生涯でありました。彼は自分のことのためではなく、人々の真の生のために、真の死のために、生きそして死んだのです。わたしたちは、人の生き方にはこのようなものもあるのだということを教えられます。つまり、自分の益、自分の栄誉、自分だけの幸福という
ことではなく、逆にそれらのことを放棄してでも、他者の命と幸福のために仕える生き方があるということなのです。カルヴァンは次のように述べています。「この証人(ヨハネ)は、わたしたちのために遣わされたのであって、キリストのために遣わされたのではない」。
 闇であるこの世、そこに生きるわたしたちは、自分自身の力だけではそこから脱け出る道を見出しえない者たちです。自分自身の力だけでは「光」そのものを理解することもできません。そこで神は、「光」を証しするものとして先ずヨハネを立てて、その生と死をとおして多くの人々に命の道を指し示されました。人の生においては、キリストを知ったがゆえに、キリストに捕らえられたがゆえに、もはや自分だけの命として自分の人生を組み立てていくことができなくなる、ということがありうるのです。まさしくヨハネがそれであったことを知ることができます。いつの時代にも「ヨハネ」は必要なのであります。
 ところで、キリストの証人としての働きは、伝道者とか牧師とかいわれるいわば専門職の人々だけの務めではない、ということをわたしたちは覚えていなければなりません。むしろ、そのような専門職にある者たちの果たすことのできる役割は、小さなものでしかない、といってもよいでありましょう。すべての信仰者、すべてのキリスト者が、それぞれの立場でキリストの証人としての働きをなす
ことが、神によって期待されています。そしてそのような神からの期待は、キリスト者の務めとなっていくのです。それぞれが、キリストによって捕らえられ、キリストによって闇から光へと移され、真の命を与えられた者として、そのような者として自分自身を人々の前で表しながら、イエス・キリストがいかなるお方であるかを明らかにしていく、そして、一人ひとりの新しい歩みのために仕えていくことが求められています。わたしたちはそのために召されている、といってもよいでありましょう。
 わたしたち自身の言葉や行いや日々の生き様、そして他者との関係などが、人々にイエス・キリストにあって生きることの喜びを示し、それによって、キリストご自身を明らかにすることに用いられるのです。信じる者の喜びや平安や信仰における逞しさが、また、他者に示される心づかいや愛や祈りが、神によって用いられてキリストを証しすることに役立てられます。神のあわれみは、そのように土の器を御国のために用いることにおいても、豊かに表されています。
 わたしたち自身が何よりも、暗闇から真の光であられるキリストのもとに招き入れられた者としての喜びと確信に立って、今もなお自分の中にある暗闇に苦しみ、その中に沈みこんでしまいそうになっている人々が、自分の外に輝いている真の命の光を見出すために、人格的な関係において、キリストの証人として仕えたいものであります。ヘレン・ケラーの日本での講演の中に次のような言葉があ
ります。「わたしは目が見えません。誕生後間もなくから、この暗黒の世界にわたしは住んでいます。しかしわたしには、良い友人が与えられ、また神さまから心を明るく照らす光を与えられていることを感謝しています。……あなたのランプの灯を、今少し高くかかげてください。見えない人々の行く手を照らすために」。ランプは、自分の足もとにおいても、何かの物かげにおいても、他の人の行く手
の助けとはなりません。しかし、少し高くかかげるならば、広く、遠く、多くの人々の歩くのを助けることになります。
 わたしたちは、わたしたちに与えられているイエス・キリストという灯(あかり)を、この時代の中で、今よりも少しばかり高くかかげることによって、今までその灯を見ることのできなかった人々の助けとなるかも知れません。キリストを宣べ伝える声を今少し大きくすることによって、キリストを自分の向かうべき目標として見出す人が生れてくるかも知れないのです。
 クリスマスは夜の出来事でした。闇の最も長い季節の出来事でした。しかし、クリスマスの時から、光が増し加わっていったのです。人がこのクリスマスの中心に立つキリストを迎え入れることができるとき、そこに逆転が起こり、闇が光に圧倒される出来事が起こるでありましょう。わたしたちに起こったことは他の人にも起こり得るのです。このクリスマスの時期に、あつい祈りをこめて、心に覚える人に語りかけるわたしたちの言葉を用意し、それを差し出すものでありたいと願います。

12月5日礼拝説教

イザヤ書7章10~14節         2021年12月5日(日)礼拝説教
「神と共にある生」  牧師 藤田 浩喜
神の御子の誕生が告げられるマタイによる福音書1章23節に「インマヌエル」という言葉が出てまいります。これが聖書に最初に登場するのは、イザヤ書の預言においてです。
 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14)。今日は、この〈インマヌエル〉について聖書から学びたいと思います。
 まず、イザヤ書において、これがどういう状況において語られたのかを見てみましょう。これは、紀元前730年頃(まだ、バビロンに捕らわれるずっと前)、南王国ユダの王アハズに対して、預言者イザヤが語ったものです。その時代、アッシリヤという超大国が猛威をふるっていました。北王国イスラエルやその他の小国は、同盟軍を結成して、このアッシリヤに対抗しようとしていました。そし
て、南王国ユダも、同盟軍に加わるよう盛んに呼びかけられていたのです。
 それに対してアハズ王は、この呼びかけを拒否いたしました。それは、自分の国の軍事力に自信があったからではありません。また、神を信じる信仰に立って、き然とした態度を示したということでもありません。要するに、アハズはどうしたらよいか分からなかったのです。彼は苦悩の真只中にありました。そのときのアハズの様子が、次のように描写されています。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(7:2)。アハズは、どこに自分自身の、そして自分の国の存在や生存の根拠をおけばよいのか分からないままに、彼の心は風に動かされる木のように動揺していました。
 揺れ動く心をもってアハズ王は、何かを決めなければなりませんでした。自国のあり方を、王として決断しなければならなかったのです。そのような中で彼が出した結論は、なんと、脅威の的となっている当の大国アッシリヤと手を結ぼう、ということでありました。これに対して、預言者イザヤはもちろん激しく反対をします。「シリヤやイスラエルの同盟車からの呼びかけに恐れを抱く必要はない。
それらは、『燃え残ってくすぶる切り株』(4節)のようなものだから。また、苦しまぎれにアッシリヤに助けを求めることなどすると、逆に、ユダの国は侵略され、食いつくされてしまうであろう。そんなばかなことはするな」と、イザヤは真剣にアハズに説いて聞かせるのです。
 その上でイザヤは、「あなたの神、主にどうしたらよいか求めよ。陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に。すなわち、現実の問題の解決を、そこにある事柄と同じ次元で考えずに、現実を超えた所に求めよ」と勧めるのです。11節にそのことが記されています。それはゼカリヤが、エルサレムを守るのは石の城壁ではなく、「火の城壁」となってくださる主なる神である、と言っていることと共通のことなのです。つまりイザヤは、神ご自身に、自分たちがどうあるべきかを尋ね求めよ、と説いているのです。
 わたしたちが遭遇する様々な困難や不安や危機は、わたしたちの生活の只中にあります。日々の生活の領域の中にそれらはあって、わたしたちを悩まします。それらの問題がわたしたちの手近かにあるために、わたしたちはそれらの解決もまた、同じように手近かなところに求めがちなのではないのでしょうか。しかし、そのようにしてみても、実際には、真の解決になり得るものをなかなか見出せな
いで苦悩が続く、ということが多いのがわたしたちの現実です。
 ある神学者は、「信仰は一種の疑問である」(トゥルナイゼン)と述べています。この場合の疑問とは、神に対するものではなくて、この世の力に対するもののことです。この世の知恵、力、方法、手近かに得ることのできる解決策といったものを疑ってみるのです。果たしてそれでよいのだろうかと問いかけるのです。そして、もっと別の次元、別の世界からものを見ようとしてみるのです。そのと
き目に見えないものへの新しい眼が開かれてくることがあります。それが信仰への道となります。
 有名なサン・テグジュペリの『星の王子さま』の中に次の一文があります。  「心で見なくちや、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ」。
 そういう世界を、自分の心の中に持つことができるとき、わたしたちは現実の貧しさ、惨めさを超えて、豊かに生きることができるものとされるでしょう。
 預言者イザヤは、小手先のことで現実の問題を解決しようとするにアハズに、天を見よ、神に求めよと訴えています、そして、自ら神によって示されたことを告知いたします。それは、ひとりの女性が男の子を産む、その名はインマヌエルと呼ばれる。それを見たならば、あなたは、神が自分たちと共にいてくださることを確信してよいのだ、という内容のものです。
〈インマヌエル〉とは、マタイによる福音書で説明されているように、「神がわたしたちと共におられる」という意味の言葉です。ある特別な誕生の出来事が起こるとき、神が共にいて救ってくださるしるしとしてそれを受けとめ、それによって平安であれ、慰めを得よ、風に動かされる木のように動揺する心を静めなさいと、神はイザヤをとおして告げておられます。
 人間は慰めを必要とする存在です。幼子から老いたる者にいたるまで、すべて同じです。貧しく生きている者から、色んな面で富んでいる者にいたるまで、すべて同じなのです。健康な者から、死に直面している者にいたるまで、すべて変わることはありません。慰めを受けるということ、平安の源をもっていること、これは人が人として生きていくときに、不可欠のことである、と言ってよいであ
りましょう。そしてそれぞれの状況でふさわしい慰めというものがあります。病のときに、癒されることは慰めとなります。意気消沈しているときに、あたたかい励ましを受けることは慰めです。困難な問題に直面しているときに、その困難さを正しく理解してくれる人がいるということは大きな慰めです。それらのことを軽く考える必要はないでありましょう。
 しかし、どんなときにも通用する慰めは、主なる神がわたしと共にいてくださるという事実ではないでしょうか。かりそめの慰めでなく、その場限りの慰めでなく、どんな人にとっても、いかなる状況においても、最もその人を慰めるもの、それは、神がわたしを離れずにいてくださる、という事実です。
 わたしたちがくり返し思いおこしてよい言葉は、『ハイデルベルク信仰問答』の第一問答の次の言葉です。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」「わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです」。信仰に生きるということは、神が自分と共にいてくださることがよく分かるということ、その心が育てられるということです。主イエスを信じるとき、神がそばにおられることをも信じるのです。あわてて神を捜しまわる必要はなく、目には見えなくても、そばにいてくださる神、わたしのすべての課題をわたしと共に担うためにいつも手を伸ばしていてくださる神、それを確信できるのが信仰者なのです。
 インマヌエル、神がわたしたちと共にいてくださる、その預言が完全な意味で実現し、そのことをわたしたちが確信してよいという神からのしるし、それが、御子イエス・キリストのこの世への誕生の出来事です。主イエスの生と死が、神がわたしたちと共にいてくださることの確かな保証なのです、信仰が、そのことを受け入れさせてくれるのです。
 共にいるということは、愛の一つの形です。誰かが共にいてくれることによって、わたしたちは慰めや平安や喜びを与えられます。しかし、これを破るもの、破壊するものがあります。それがわたしたちの罪です。他者を自分の目的のために利用する、手段とする、他者を犠牲として、自分自身を大きくふくらませていく、そういう罪がわたしたちにはあります。罪は人と人を分断してしまいます。
罪は人を孤立化させてしまいます。神との関係も、この罪によって人間の方から分断してしまっています。わたしたちはそのようにして、様々な形の分裂を味わい、生み出し、それによって自ら苦悩を抱えこむものとなっています。
そのように抱えこんだ人間の苦悩は、神の苦悩でもあります。神ご自身、それを真剣に問題とされます。それゆえに、自ら「その聖なる住まいから立ち上がられて」(ゼカリヤ2:17)、人が破った関係の修復のために、その回復のために、人の世に降りて来てくださったのです。そして、「わたしはあなたと共にいる」と告げてくださったのです。
 マタイによる福音書1章21節に次のように記されています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。「イエス」と名付けられたお方は、〈インマヌエル〉(神はわたしたち人間と共にいてくださる)という神の約束の実現であり、神の約束の内容そのものです。このイエスを見ることによって、神を見よ、イエスを信じることによって、神を信ぜよ、イエスを救い主と確信することによって、いかなる時にも神が共にいてくださることを確信せよ、とわたしたちは呼びかけられているのです。聖書を読むときに、何と「神が共にいてくださる」という神からの調べが、高らかに力強く響いてくることでしょうか。
 ユダの国王アハズは、この「共にいてくださる神」に、何よりもまず信頼を寄せよ、と預言者イザヤによって教えられています。そしてわたしたちもまた、イエスと名づけられたお方が、死んで復活し、天に昇って行かれるとき、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束してくださった事実の中におかれているのです。
 それは、神がいつもこのわたしを心にかけていてくださる、顧みていてくださるということです。「足がよろめく」と思ったとき、み手をもって支えてくださるお方として、わたしたち一人ひとりには、神がおられるのです。この神の真実に生かされている自分であることを知るとき、わたしたちは自由にされて、自分自身からも自由にされて、他の人々に向かうことができるものとされるのではないでしょうか。そのときわたしたちは、狐独や孤立、憂いや悲しみ、絶望や死への傾斜の中にある人たちに、真の慰めを運ぶ者とされるでありましょう。
 わたしたちと共におられる神は、つねに「真実であれ、誠実であれ、自由であれ、愛せよ、憎むな」とわたしたちに語りかけておられます。わたしたちの内に響くこのみ声に促され、導かれつつ、神が共にいてくださる慰めを持ち運ぶ者として生きるよう、わたしたちは促されています。アドベントの日々を、そのような神と共にある毎日として歩んでいきたいと思います。

11月28日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 3章1~4節  2021年11月28日 礼拝説教
「肉の人と霊の人」  牧師 藤田 浩喜
◎コリントの信徒への手紙は、コリント教会の抱えていた問題を取り上げつつ、パウロが議論を展開しているものです。パウロがこの手紙で取り上げたコリント教会の第一の問題は党派争いでした。パウロは1節で言いました。「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するようには語ることができず、肉の人、つまりキリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。」
 パウロはコリントの信徒たちに対して、霊の人に対するように語ることができない、と言います。「霊の人」とは、聖霊によって新たに生まれた人、聖霊の支配下にある人のことで、端的に言えばキリスト者、クリスチャンということです。
 パウロは彼らに対して「兄弟たち」と呼びかけていますから、彼らがキリスト者であることを何ら疑っているのではありません。しかし、彼らに普通のキリスト者に対するように語ることができない、と言うのです。
 むしろパウロは「肉の人」に対するように語りました。「肉の人」とは、ときには聖霊を受けていない人、キリスト者でない人を意味する場合もありますが、ここはそういう意味ではありません。しかし、あたかも「肉の人」に対するようにしか語ることができないという。つまり、ここの「肉の人」とは、キリストを信じ、洗礼を受けたにもかかわらず、なお聖霊の導きに自分をゆだねていない者を意味しています。生まれながらの人間と同じように、神とは無関係の自分自身の内なる原理によって生きている者のことです。
 キリスト者とは、キリストの霊を受け、聖霊の支配に導かれて生きる者です。しかし彼らはそうなっていません。むしろ、なお自分の心の王座に自分が座り続けており、その座をキリストに明け渡していないのです。
 ことばを換えて言うならば、心が二つに分かれているということです。キリストに従うということで一貫していない。キリストを押しのけて、自分の生来の原理で生きようとしているのです。キリストの支配を、一部だけに押し込めようとしているとも言えます。たとえば、日曜日だけはキリストを主とするけれども、他の日はこの世の原理で生きるとか、キリストの支配をあくまで「宗教」という狭い心の中だけの領域とし、その他の面、すなわち生き方においてはキリストと無関係の原理で生きるのです。
 そのようにして心が「この世の原理」と「キリスト」に分かれている状態の人。それがここで言う「肉の人」です。そしてこのように、二心に分かれているならば、人は結局、何の益も得ることはできないのです
 聖霊なる神は、私たちの全存在に関わるお方です。全存在に関わるということは、生き方に関わるということです。つまり聖霊を受けた者は、肉に従って生きるのではなく、聖霊に従って生きなければならないのです。
 しかしコリントの信徒たちは、そのような歩みをしていませんでした。それゆえパウロは彼らのことを「肉の人」と呼びます。そしてさらに「肉の人」を言い換えて「キリストとの関係では乳飲み子である人々」とも言っています。ここで言う「乳飲み子」とは、まだ一人前になっていないキリスト者のことを意味しています。まだ分別もつかない、幼い状態にあるということです。
◎コリントの信徒たちは、まだ乳飲み子だと言う。それゆえパウロは2節でこう述べています。「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。」
 回心したばかりの人が、乳飲み子であるのは致し方ありません。しかし乳飲み子というのは、日々に成長するものです。コリントの信徒たちはそうなっていませんでした。彼らはなお、生まれて間もない赤子の状態にあったのです。
 人間の赤子も成長すれば、乳を飲むことから、歯で噛む食べ物へと変わるように、信仰者も乳から固い食物へと変わる必要があります。基礎的な知識だけではなくて、福音のもっている広さ、高さ、深さを教えられていく必要があるのです。
 しかしここで気をつけていただきたいことは、「乳」と「固い食物」というのは、決して内容的に別のものではないということです。「乳」と「固い食物」という、別の福音、二つの福音があるのではありません。
 イエス・キリストの福音は一つです。人を救うことができる福音は一つです。その福音の中心は決して変わりませんし、変わってはなりません。しかしそれがどのように教えられるか、提示されるかには、ある多様性があります。相手の状況によってふさわしい形で与える必要がある。幼子には「乳」として、大人には「固い食物」としてです。
 コリントの信徒たちは、最初にパウロから「乳」を飲ませてもらいました。そして通常は、そこから次第に「固い食物」へと進んでいくはずです。しかしそうはなりませんでした。パウロは2節で「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです」と言っています。彼らは固い食物を口にすることができませんでした。今もできないのです。最初は乳飲み子、幼子であるというのは当然ですし、仕方のないことです。しかし彼らはとっくにその状態を抜け出していなければならないはずでした。パウロが最初にコリントへ伝道に行って教会が誕生してから、すでに4年が経っています。とすれば、ある程度成長しているのが当然です。しかし、そうではありませんでした。
それはいったい何ゆえなのでしょうか。はっきりしている一つのことは、コリントの信徒たちは自分たちが未熟であるとは決して思っていなかったことです。むしろ、自分たちは人よりも高い霊的段階に進んでいると思い込んでいました。非常な高ぶりがありました。誤った自己理解をもっていたのです。
◎コリントの信徒たちが未熟であることの表れとして、今日の箇所でパウロは二つのことを指摘しています。一つは3節にあるように、彼らの間に「ねたみや争い」があることです。「ねたみ」と訳されていることばの本来の意味は、「熱心、情熱、熱意」ということです。熱心、情熱そのものは悪いものではありません。それが向けられる対象によっては、これは肯定的な意味ももちます。しかし罪ある人間の熱心は、しばしば悪徳を生み出します。
 教会内に起こる争いというものは、しばしば熱心から起こります。神への熱心から起こります。信仰をもって一生懸命神に仕え、それを実行したいと思う。自分の信仰の信念を貫きたいと思う。もちろん、そうした思いは尊いものです。しかし人間の熱心は、しばしばサタンによって利用されることも知っておかなければなりません。人間の熱心というものが、いつのまにか肉による争いに変わってしまう。信仰による戦い、真理のための戦いが、いつのまにか肉的な戦いに変わってしまう。肉の戦いを、ただ信仰や真理という名目で行っているということさえ起こるのです。
 そして、教会で起こる問題の根底に、しばしばこの「ねたみ」があります。ねたみというのは、心の中のことですから、一見小さなことのように思えますが、実際はそうではありません。ねたみはその人自身を、また教会を深く蝕んでいく元凶(げんきょう)です。そして、結局そこから「争い」が生まれます。この「ねたみと争い」が絶えないのが、コリント教会の状況でした。ですからパウロは、彼らはまだ乳飲み子の信仰にすぎないと言うのです。
◎コリント教会が未熟であるもう一つの表れが分派を作ること、党派争いです。4節にあるように、「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人は『わたしはアポロに』などと言って」いました。パウロは、「わたしはパウロにつく」とか「わたしはアポロに」などという叫びが響くところにあるものは、この世の思いにすぎないと言います。分派があること自体、コリントの信徒たちがこの世的な原理で動かされている証拠だと彼は考えます。神の霊が支配しているのではないのです。
 分派を作る心理というのは、その分派の中で、自分たちの存在意義を確保しようとする思いだと言ってよいでしょう。教会であるにもかかわらず、神の民としての一体感ではなくて、また、等しく神の民とされていることの喜びではなくて、他の人とは違うという人間的な喜びや満足を求めているということです。
 分派を作って、自分たちで自分たちを誉め合い、高め、そして他の人たちを見下して、そこで自分たちの存在意義を確認しようとする。まさに歪んだ自己愛以外の何ものでもありません。そこでは、神との関係よりも、人間との関係のほうが重視されています。イエス・キリストによって等しく救われて、神の民とされたという福音の現実よりも、目に見える人間の現実を優先している。そしてその人間の現実にしがみついて、自分の存在意義を確保しようとしているのです。
 このようなコリントの信徒たちのことをパウロは、「肉の人」「ただの人」だと言います。「ただの人として歩んでいる」というのは、単なる人間の動機や感情に従って歩んでいるということです。思いとことばと行いにおいて、回心以前の自分のあり方から抜け出ていないということです。いまだ肉に支配されており、生まれながらの人間の基準で考え、生活しているということです。
 パウロはキリスト者のことを「霊の人」と呼びました。霊の人とは、この世の人ではありません。その人は、自己の内に宿る神の霊によって、新しい存在になっています。キリスト者は新しい被造物だとパウロは言いました(Ⅱコリント5・17)。しかし、コリントの信徒たちはそうではありませんでした。神の霊に支配されているのではなく、この世の基準に従って判断し、行動している。そのため教会において、この世的な誇りによる権力闘争が起こっていたのです。
 私たちにとって一番大切なのは、まっすぐにキリストを信じて、キリストを主として従う思いをもつことです。キリストを救い主として信じるだけでなく、キリストを主としなければなりません。この世の基準、自分の基準を主としているならば、キリストを主としているとは言えません。キリストを、心の王座に迎えているのでなければ、本当の意味でキリストを信じているとは言えないのです。
 しかし、キリストを主とし、王として心に迎え、みことばに聞き続けるならば、私たちは確実に成長することができます。エフェソの信徒への手紙4章13節にあるように、「わたしたちは皆、神の御子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間となって、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」。私たちは「成熟した人間となって、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」ように召されています。そのためにも、イエス・キリストを主として、この方の言葉に聞き続けていくのです。

11月21日礼拝説教

出エジプト記19章1~6節      2021年11月21日(日)礼拝説教
「あなたたちはわたしの宝」 牧師 藤田 浩喜
◎親子の関係において、子どもの「自己肯定感」を育てることの大切さが、近年強調されています。子育てをするとき、子どもの性格や行動を否定ばかりしていると、自分に価値を認めることのできない「自己肯定感」の低い子どもに育ってしまいます。「何々できれば認めてやる、成績が良ければ評価してやる」という成果主義の関り方も、安定した「自己肯定感」を育むことができません。一方、十分愛されて、その子が存在すること自体を喜ばれて育った子は、「自分は生きるに値する存在なのだ」と自分を肯定することができます。そして、生きていく中で失敗をしたり、苦しい状況に追い込まれても、安定した「自己肯定感」によって、それを乗り越えていくことができるのです。どっしり自分自身に根ざして生きていけるので、少々のことで倒れたりしないのです。
◎さて、人間の親子関係と同様、神と人間の関係は人格的な関係と呼ばれます。主なる神はイスラエルの民と人格的な関係を結ばれました。そして新約の神の民であるキリスト者とも、人格的な関係を結んでくださいました。神さまがご自身を信じる神の民と結んでくださった人格的な関係は、どのようなものだったのでしょう。今日の出エジプト記19章1~6節より、そのことをご一緒に聞いていきたいと思います。
 本日の箇所は、モーセに導かれエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野の旅を経てシナイ山に到着した時のことです。このシナイ山にモーセが登って行き、民を代表して主なる神と契約を結び、二枚の石の板に記された「十戒」を与えられます。その「十戒」のことはすぐ後の20章に出てきます。この神とイスラエルの民が結んだ契約を、私たちは「シナイ契約」と呼んでいるのです。
 この「シナイ契約」はこれまで、お互いに遵守する義務のある「双務契約」であると考えられてきました。これは私たちの社会において、様々な契約を結ぶときと同じです。双方に守るべき遵守事項があって、一方がそれを破れば契約自体が無効になってしまうというものです。これに対して、神がアブラハムと結ばれた契約を「アブラハム契約」と呼んできました。これは主なる神がアブラハムを召し、彼に約束の土地を与えること、子孫を繫栄させることを約束した契約です。「アブラハム契約」は、神が一方的に恵みとして与えてくださった契約であり、主なる神だけが遵守の責任を負われる「片務契約」だと言われてきました。そして、かつて「アブラハム契約」を与えられた神は、今やイスラエルの民に「シナイ契約」を与えられた。神だけが遵守の責任を負う「片務契約」から、神とイスラエル双方が遵守の責任を負う「双務契約」へと移行したのだ、と言われることもあるのです。もしそうだとすれば、神は神の民イスラエルにご自分と同じ遵守義務を求めておられることになります。神の一方的な恵みによって維持されていた「アブラハム契約」は無効となり、神と同じ遵守義務を求める「シナイ契約」が、神とイスラエルの関係になってしまいます。契約を守らなければ、神の民でなくなってしまうという、厳しい要求を突きつけられていることになります。神と民との関係が激変してしまうことになります。果たして、そのようなことを神は望まれて、イスラエルと「シナイ契約」を結ぼうとされているのでしょうか。
 ある聖書注解者は、「アブラハムという一個人に与えられた一方的な恵みの契約が、イスラエルという信仰共同体に受け継がれていく中で、このシナイ契約が与えられたのだ」と言っています。一度アブラハムを通して与えられた「アブラハム契約」が廃棄されることはありません。むしろ「アブラハム契約」が、信仰共同体であるイスラエルやキリスト教会を真実に生かすものとなるために、「シナイ契約」が新しく与えられたのだと思います。
◎今日の19章3節以下を見てみますと、シナイ山に登ったモーセに、主なる神は次のように言われています。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れてきたことを」(3~4節)。
 ここには、主なる神がどのようにイスラエルを慈しみをもって、これまで導いて来られたかが語られています。神はエジプトで奴隷状態にあえぐイスラエルを憐れみ、モーセを指導者としてエジプトから脱出させました。イスラエルを追撃するエジプトの軍勢を、紅海の海に沈められたのです。また神は子らがまだ一人前ではなく保護を必要とする時に、彼らをいたわる母鳥のように、イスラエルの民を慈しまれました。イスラエルの民は、その母鳥の翼の陰に、彼らの避けどころを見出しました。また、主なる神は子らを育む母鳥のように、イスラエルを育み成長させました。母鳥はその子らを巣から揺さぶり落として、自分の翼で飛ぶことを教えます。そして、もし子らがもがいて墜落しそうになると、母鳥は子らの下に舞い降りて、自らの大きな翼に乗せて運ぶのです。神の翼は常に攻撃を逃れる避けどころであり、どんな時でもやさしいいたわりでした。この母鳥のような慈しみをもって、この後も神はイスラエルを支え導き続けられるのです。「アブラハム契約」によって示された、神の一方的な恵みがイスラエルから離れることはないのです。神はご自身の民を御翼の陰で守り続けてくださるのです。
◎しかし、神の民は一方的な恵みを受けるだけではなく、神の民としての使命を与えられます。19章5節以下にはそのことが語られるのです。「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」(5~6節)。神の民イスラエルは、この地上にあって、多くの国々の間で、「わたしの宝」、「祭司の王国」、「聖なる国民」となると言われているのです。
 まず「わたしの宝」とは、神が所有するすべての民の中で特別な民ということです。「宝=セグッラー」とは、国宝とか重要文化財といったものを表わす言葉ではなく、私的な財産を表わしています。その人にとって代わりの利かない、かけがいのない宝ということです。他に代わりのない、かけがいのない宝の民として、イスラエルを愛してくださるのです。
 次の「祭司の王国」ですが、これは支配する国民ではなく、仕える国民からなる王国ということです。すべての民の中で、祭司の機能を果たすことは、神と他の国々の間に立って、とりなしの役目をすることにほかなりません。神の民のすべてが、世の人々を神の御前でとりなし、恵み深い神のことを世の人々に証しする使命が与えられているのです。
 三番目に「聖なる国民」ですが、これは他の民や国民から区別されているという以上に、特別な目的のために聖別されているということです。神の民はイスラエルであれキリスト教会であれ、主なる神御自身の目的を、この世界において具現しなければなりません。つまり神を信じて生きるとはどのようなことか、信仰者が望みを抱いている神の御国とはどのようなものかを、そのあり方によって具体的に表現する、それを体現する民として生きていくということなのです。
◎そして、今日の3節にありますように、「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる……」と言われていました。主なる神の御声に従い、これからモーセを通して与えようとされている契約を守るならば、「わたしの宝」、「祭司の王国」、「聖なる国民」となる。すなわち、神が神の民イスラエルに託した新たな使命を果たすために、「シナイ契約」が与えられようとしているのです。
 先に申し上げたように、神が一方的な恵みとして与えてくださった契約である「アブラハム契約」が廃棄されることはありません。アブラハムに与えられた恵みと祝福は、神の民・信仰共同体であるイスラエルに受け継がれていきます。しかしイスラエルは、この地上にあって多くの民の中で、神の民として生きていかなくてはなりません。「わたしの宝」、「祭司の王国」、「聖なる国民」として、周辺の国々の中で埋没することなく、生きていかなくてはなりません。主なる神はそれが可能となるように、十戒を中心とした「シナイ契約」をイスラエルに与えてくださったのです。「神の宝」、「祭司の王国」、「聖なる国民」として生きる拠り所とするために、この契約を与えてくださったのです。
 今日司式長老に読んでいただいた新約聖書の箇所は、ペトロの手紙 一 2章3~5節でした。そこにはキリスト者が「聖なる祭司」となって、神に霊的ないけにえを捧げることが勧められています。そしてその少し後の9節には、「聖なる国民」とされたキリスト者の使命が、次のように記されています。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」
神の民であるキリスト教会も、暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、この世の人々に広く伝えていく使命が与えられています。伝道であり宣教です。しかし、それを日々の生活の中で、どう具体的に伝えていけばよいのでしょう。それは、私たちが持っていないものを差し出すのではありません。旧約のイスラエルに与えられ、新約のキリスト教会にも受け継がれた「アブラハム契約」と「シナイ契約」に生きている姿を証しすれば、それでよいのです。神は神の一方的な恵み、無償の愛を、御子イエス・キリストの十字架と復活によって成就し、私たちを罪と死から救い、永遠の命を与えてくださいました。そして救いを与えてくださるだけでなく、この世にあって聖化の道を歩み、御国を証しすることができるよう、「十戒」を通して私たちを導いてくださっているのです。救い主イエス・キリストを仰ぎつつ、聖別された神の民として神の御声に従う生き方を続けていく。神の与えてくださった十戒を、生きる指針としていく。そのような御国を見つめる神の民の生き方それ自体が、世の人々に対する確かな証しとなっていくのだと思います。
◎宗教改革者ルターは、ヴァルトブルク城にかくまわれて聖書をドイツ語に翻訳していた時、サタンが現れ、驚いてインク瓶を投げつけたというエピソードがあります。ルターはその時、「わたしは洗礼を受けている。わたしはキリスト者だ」と言って、恐れる心に打ち克ったというのです。「わたしは洗礼を受けている。わたしはキリスト者だ」。この身分は、どのようなことがあっても、わたしたちから奪い取られることはありません。この事実以上に、揺るぎなく私たちを支えてくれるものはありません。何が起こるか分からないわたしたちの人生ではありますが、「わたしはキリスト者とされている」という揺るがぬ恵みを拠り所として、これからの日々を歩んでいきたいと思います。

11月14日礼拝説教

ヘブライ人への手紙11章13~16節   2021年11月14日(日)礼拝説教
「天の故郷をめざして」  牧師 藤田 浩喜
◎最近、親しくしていた先輩の牧師、同年配の牧師を天に送りました。この地上においてはお会いすることはできないと思うと、何とも言えない寂しさを覚えます。年齢を重ねていくと、親しくしていた人がどんどん天に移され、地上の方は寂しくなっていきます。天の御国は賑やかになっているだろうな、再会を喜び合っているだろうな、と思います。地上の世界よりも天の御国の方が、自分の中で存在が大きくなっていくように感じるのです。
 今日は西宮中央教会の教会創立記念・召天者記念礼拝です。先に召された主にある兄弟姉妹のお写真を礼拝堂の前方に立てて、礼拝を守っています。それはキリスト教の礼拝は、地上に生きている信仰者だけが守るものではなく、先に召されて天の御国におられる兄弟姉妹も同じ一つの礼拝を神さまに捧げているという、理解があるからです。天の御国にある兄弟姉妹も地上にある私たちも、一つとなって神さまを賛美し、その御業を褒め称えているのです。
◎さて、今日与えられた聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙11章13~16節でした。ここには「信仰を抱いて」召された信仰者たちの、地上の生き方が示されています。それは直接には、アベル、エノク、ノア、アブラハムといった旧約聖書の登場人物たちの生き方ですが、新約時代のキリスト者の生き方でもあります。主なる神さまを信じて生きる信仰者には、旧約、新約を問わず、共通した生き方があるのです。それはどのような生き方であるのでしょう。私たちにとって親しかった信仰の先輩たちの生き方も思い起こしながら、今日の御言葉に聞いていきたいと思います。
◎まず、先に召された兄弟姉妹は「信仰を抱いて死んだ」とあります。その抱いていた信仰とは何でしょう。それについては、同じヘブライ人への手紙11章1節が端的に記しています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」他の聖書では「…信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と訳しています。信仰とは何か? それは、希望しているがまだ実現していないことを実現すると確信すること。また、目には見えないことであったとしても、その存在を確信していることを表します。信仰者は、目には見えない神さまの存在を信じています。そして、神さまが約束してくださったことならば、それは必ず実現すると信じています。そのような信仰を抱いて、信仰の先輩たちはこの地上を生き、死んでいったと、ヘブライ人への手紙は言うのです。
◎それに続いて、信仰者たちの地上の人生について告白しています。信仰者はどのような人生を送ったのでしょう。13節の後半から14節です。「(この人たちは)約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」信仰者たちは、この地上が目指すべき目的地だとは考えませんでした。本当の故郷、本当の目的地を目指して、旅を続けている。自分たちは地上では「よそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した」。人前でそのことを告白し、表明している者たちだと言うのです。
 今日の箇所のすぐ前には、旧約聖書において「信仰の父」と呼ばれたアブラハムのことが紹介されていますが、アブラハムはまさにそのように生きた人でした。
彼はハランという地に住んでいましたが、ある日「あなたに約束の地を与える」という主なる神の召しを受け、75歳の時ハランを出発しました。旅立った時、彼がどこに行くかは知らされていませんでした。神が必ず導いてくださると信じて、行き先も知らずに旅立ったのです。
 アブラハムは120歳で地上の生涯を終えるまで、旅から旅への生活を送りました。「あなたに約束の地を与える」という神の御言葉を信じていましたが、約束の地カナンが彼の子孫に与えられたのは、何百年以上も後の時代のことでした。アブラハムはその生涯を終えるまで、よそ者、仮住まいの者としての生活を送りました。彼にとっては、よそ者、仮住まいの者として生きる不自由さよりも、神の与えてくださった約束に生きることの方が大切だったのです。
以前使っていた口語訳聖書では、ここを「この世では旅人であり、寄留者である」と訳していました。この訳は少しロマンチック過ぎるのではないかと思います。「よそ者」という言葉は、異国人、外国人という言葉で、古代社会において外国人は苦しい立場に置かれ、憎悪と軽蔑の対象であったと言われています。また「仮住まいの者」という言葉も、バビロニアやエジプトにいたユダヤ人について言われていたもので、彼らは社会的に奴隷同様の扱いを受けていたと言われています。お金を払って一定期間だけ、期間限定で生活することを許された者たちだったのです。肩身の狭い思いをしなければならなかったのです。
アブラハムがそうであったように、先達のキリスト者たちも、そうした「よそ者」であり、「仮住まいの者」であったと言われます。この世においてキリスト者は、この世の人々から「異質な人」、「自分たちとは違う人」と見なされることがあります。しかし、それはこの世のものにではなく、神が与えてくださる天の御国に望みをおいている以上、避けることはできません。気まずさや不自由さがあっても、覚悟しなくてはなりません。しかし、このような「よそ者」であり「仮住まいの者」である生き方を公に言い表すことによって、この世の名誉や財産等には執着しない、永遠なるものを目指して生きる自由な生き方を、世の人々に証しすることができるのです。記録されてはいませんが、主イエスの言葉として伝えられているものに、「この世は橋である。賢い人はそれを渡るが、その上に家を建てない」というものがあります。そのように永遠に向かって旅する生き方を、
信仰者は証しするのです。
◎今日の聖書が述べているもう一つ大切なことは、先輩の信仰者は自分たちが目指し熱望していた天の故郷(こきょう)が、「更にまさった故郷」だと信じていた。それを仰ぎ望みながらの地上の生涯だったということです。15~16節前半を読んでみましょう。「もし出て来た土地のことを思っていたなら、戻るのによい機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」アブラハムもそうでしたが、彼は「よそ者」、「仮住まいの者」の生活を送っていましたが、元いたハランに帰ることは一度もありませんでした。アブラハムは彼に約束された土地が、元の故郷とは比べものにならない「更にまさった故郷」であることを知っていたので、それに執着する必要がなかったのです。
 この地上という場所だけでなく、「更にまさった故郷」を目指して生きる信仰者は、この世に捉われすぎることなく、冷静にこの世界を見ることができるのです。先週亡くなった瀬戸内寂聴さんは、作家であるだけでなく仏教の僧侶でした。
瀬戸内さんは30年青空説法をなさり、多くの人の人生の指針となる名言を残していますが、次のような言葉が新聞に載っていました。「戦後の日本はお金、お金、お金になり、恐ろしいこと。本当は目に見えないものが大切。神や仏、ご先祖様は目に見えない。もっと見えないのは人の心。しかし、生きていく上で一番大切」(朝日新聞11月12日朝刊より)。この現代社会を射抜く名言も、この世を越えた目に見えない世界を信じる瀬戸内さんだからこそ、言えた言葉ではないでしょうか。
 それと同様、「更にまさった故郷」を知っているということは、地上の物事を正しく評価するための視点や洞察を与えてくれるということなのです。キリスト者は、この世のものではない「更にまさった故郷」を知っています。しかしそのことは私たちを、この世の事柄に対して無関心にさせるのではありません。「この世界には正義も幸福もない。生きていても仕方ないから自爆テロをしよう。そうすれば来世で神が報いてくださるだろう」と、現世を否定するのでもありません。そうではなく、信仰者は神が創造してくださったこの世界に、この世の人以上に関心を持ち、それを直視します。そして信仰者は、「更にまさった」神の光を受けているので、万物が激しく移り変わるこの世にあって、何が真実なことで、正しいことであるのか、何が聖く、愛すべきことであるのかを、見分けることができるのです。この世のものではない「更にまさった故郷」に望みをおくがゆえに、神の造られた世界に、責任を持って関わっていくことができるのです。
罪はこの世にあって、人間の価値判断を誤らせ、人間の生を虚無へと向かわしめる力を持っています。この世界は無垢ではありません。罪の力が激しく及んでおり、罪に苦しむ世界でもあるのです。このような世界の現実に、無関心になることなく責任的に関わっていくためにも、キリスト者はこの世のものとは別に、「更にまさった」もの、「更にまさった故郷」を追い求めて生きていくのです。
◎最後に覚えたいことがあります。アブラハムに与えられたのは、約束でした。「あなたをわたしが示す地に導く」という約束を信じて、アブラハムは地上の旅を続けたのです。主なる神の約束であるからこそ、アブラハムは生涯を終えるまで、旅を続けることができたのです。一方、新約の民であるキリスト者はどうでしょうか。神さまは約束を与えてくださっただけではありません。約束の成就である御子イエス・キリストを信仰者に与えてくださいました。そして、御子イエス・キリストは、私たち信仰者の先駆者・先導者として、「天の故郷」への道を切り開いてくださったのです。ヨハネによる福音書14章1節以下で、主イエスは弟子たちにこう言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」神さまは信仰者である私たちに、約束以上の、約束の成就を与えてくださったのです。そのことに力づけられ、勇気づけられて、「天の故郷」を望みつつ、今しばらくの地上の歩みを続けてまいりましょう。

11月7日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 2章11~16節 2021年11月7日(日)礼拝説教
「神の思いを示す聖霊」  牧師 藤田 浩喜
 今日は先ほど司式長老に旧約聖書イザヤ書40章12~14節を読んでいただきました。そこには、主なる神の御心の究め難さが述べられていました。もう一度読んでみましょう。
「手のひらにすくって海を量り/手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし/山々を秤にかけ/丘を天秤にかける者があろうか。主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え/知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。」  
人間の手のひらで海をはかったり、手の幅で天を測ることはできません。それは人間にとって及びもつかないことです。それと同じように、ちっぽけな人間が主なる神の御心やその企てを測ることはできないのです。及びもつかないことであり、不可能なことなのです。
しかし、今日の2章10節でパウロは、次のように言っています。「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」“霊”とは聖霊なる神のことです。聖霊は「神の霊」です。人は先ほどのイザヤ書の御言葉のように、自分の知恵や力で神の御心やご計画を測ることはできません。しかし、聖霊なる神が臨むとき、「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」神の霊である聖霊が、神の御心やご計画を明らかにしてくださるのです。
それは、私たち人間のことを考えても分かります。私たちの心の内にある思いや考えは、他の人には分かりません。その人にしか分かりません。それと同じように、神の内にある「神の霊」以外に、神のことを本当に知る者はいません。その「神の霊」をキリスト者は受けたのだと、パウロは言うのです。その「神の霊で」ある聖霊について、今日の箇所でパウロは証ししています。その御言葉に今日は聞いていきたいと思います。

まず12節でパウロは「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました」と言っていますが、私たちキリスト者はどのようにして、「神の霊」を受けるのでしょう。聖霊なる神は、啓示の書である聖書を通して、私たちに語りかけてくださいます。そして私たちの心が照らされ、聖書に教えられている神の救いのご計画が、本当に自分のこととして理解できるようになります。罪の自覚が与えられ、キリストの十字架が自分の救いのためであると分かります。それが聖霊の内的証明と言われるものです。聖書は聖霊の導きによって、新約聖書として成立しました。聖書こそが聖霊による啓示の書です。ですから私たち人間は、聖霊の働きによって成立した聖書を、「僕は聞きます。主よお語りください」と祈りつつ聞く時に、聖霊を受けることができます。御子イエス・キリストの御名を通して、父なる神に祈りつつ、聖書の御言葉に聞く時に、聖霊なる神は働いてくださいます。そして「神の霊」である聖霊が、神の御心やご計画を明らかにしてくださるのです。
そして12節の後半にあるように、「わたしたちは、神からの恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」神からの恵み、神の恵みを知るようになった。聖霊が知らせてくださった神の恵みとは何でしょう。このことが、また、注意を要するのです。なぜなら、私たちは自分の都合のよいようにしか、神の恵みを考えようとはしないからです。健康とか富とか幸福な生活というようなことしか、神の恵みとは思わないからです。
では、ここで言われる神の恵みとは何でしょう。この手紙が2章の初めから力説していますように、それは十字架の福音なのです。神の恵みはもちろん、あらゆる方向に与えられているに違いありません。しかし、それらのすべての恵みのもとになっているのが、十字架の恵みなのです。いや、十字架の恵みが、あらゆることを恵みとして受けとることのもとになるのです。十字架の恵みを信じることができれば、すべてのことが相働いて益となるのです。
続けて13節でパウロは、神の霊である聖霊がキリスト者を伝道へと促すことを語ります。「そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです」。聖霊を受けて、神の恵みを知るようになった者は、それを語る者となります。聖霊は悟らせるだけではなく、語らせる霊でもあるからです。聖霊を受けて神の恵みを知らされた者は、語らずにはいられなくなるのです。
その場合、どんな言葉を用いるべきなのでしょうか。13節後半には、「霊的なものによって霊的なことを説明するのです」とあります。霊的な恵みは、霊的な言葉で語られるべきなのです。イエス・キリストの福音、キリスト教というものを、できるだけ合理的に、理性的な言葉で説明することには、もちろん意味があります。この世の人たちに受け入れられやすい言葉や、説得力を身につけることも無意味ではありません。しかし私たちがはっきり自覚していなければならないことは、この世の知恵の言葉で、霊的なこと、神の恵みの福音を語り切ることはできないということです。
伝道にとって一番大切なのは、霊的な恵みは霊的な言葉で語るということです。そして、霊的な言葉とは何よりも聖書そのものです。ですから伝道というのは、聖書の御言葉を御霊に導かれて大胆に語る以外の何ものでもないのです。福音は、福音としてまっすぐに語られることが大切です。伝道の主体は神ご自身であり、神の御言葉そのものが働くのです。この世の知恵でまぶした余分な言葉よりも、神の言葉そのものの方がはるかに力があります。ですから私たちは、聖霊の導きを求めつつ、御言葉を語ることが何よりも大切なのです。
しかし、そのように“霊”によって教えられた言葉を語っても、すんなりと人々に受け入れられるわけではありません。神がご自分をあらわし、お示しになったとしても、人間はそれを受けつけようとしないものがあると言うのです。14節です。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」「自然の人」は、他の聖書では「生まれながらの人間」とも訳されています。神の聖霊を受ける以前の人間と言ってもよいでしょう。そのような人にとっては、神の恵みである十字架の福音が、愚かなことにしか思えず、理解することができないのです。
神に背き罪を犯した人間は、救われなければならない者です。神の恵みである十字架の救いを必要としています。しかし、十字架は人間が罪人であると言って、人間の誇りを傷つけます。また十字架は、人間には自分を救う力がないという現実を突きつけます。このような十字架は、人が神の聖霊に服従して謙遜にさせられない限り、人間が喜んで受け入れられるものではないのです。なぜなら神に関することは、神の霊によってしか判断することができないからです。聖霊に導かれることがなければ、神の恵みも賜物も、まったく空しくなってしまうのです。
しかし、神の霊を受けたキリスト者はそうではありません。神の霊に導かれた者は、神についての一切を判断することができます。神の霊である聖霊に導かれて、神の御心とご計画に適った判断をすることができるからです。その判断は全てのことを見通せた上での判断ではないかも知れません。また、この世の人からは賛同を得られないどころか、激しい反対に遭う判断かも知れません。しかし、それは神の霊に導かれてなされた判断です。神の御心とご計画に適った判断です。「だれが主の思いを知り、主を教えるのか」(16節)。人の知恵や見通しによる判断ではなく、聖霊に導かれた、神の側に身を置く者の判断であるからこそ、他のだれからも判断されることはないのです。

パウロは今日の箇所の最後に、「しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」と述べています。これはもちろん、キリスト者はキリストと同等であるとか、キリストの御心をすべて知っているということではありません。そうではなくて、キリスト者の内には、キリストの霊が、御霊が宿っている。そしてその方がいつも、キリストご自身を示し、キリストの御心を教えていてくださるということです。
先週の水曜日の公同祈祷会で、マルコによる福音書2章23~28節を兄弟姉妹と学びました。皆さんもよくご存じの箇所でしょう。安息日に弟子たちが麦畑で、麦の穂を摘んで食べた。それを見ていたファリサイ派の人たちは、弟子たちの行為を安息日に許されていない労働行為、すなわち収穫と脱穀だと見なして、厳しく見とがめたのでした。それに対して、主イエスはサムエル記上21章の記事を取り上げ、逃亡生活の途中、飢えに苦しんでいたダビデが、祭司アヒメレクから神に捧げた聖なるパンをもらい受けたことを思い出させます。祭司アヒメレクは本来祭司とその家族しか食べることを許されていなかったパンを、飢えに苦しんでいたダビデに与えたのです。そして旧約の出来事を示された後、主イエスは次のように言われたのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
人間は神の与えてくださった賜物である律法ですら、ゆがめてしまいます。神の御心から遠く離れ、律法を人間をがんじがらめにするものに変えてしまいます。
それは私たちが神の御心を知らず、人間の必要や苦しみを本当には知らないからです。しかしこのことは、主イエス時代のファリサイ派の人々だけではなく、今日のキリスト者や教会にも起こり得ることではないでしょうか。「安息日が人のためにあるのではなく、人が安息日のためにある」。私たち人間は、神の御心を見失い、これとは真逆の倒錯した状態を生み出してしまうことがあるのです。
しかし、主イエス・キリストは「人の子」として、私たちを導いてくださいます。父なる神の御心を知るお方、そして私たち人間の必要と苦しみをだれよりも知るお方として、私たちを導いてくださいます。私たちは、このお方に聞き従っていくことが何よりも大切なのです。そうすることによって、私たちは「キリストの思いを抱いて」、キリスト者として歩んでいくことができるのです。このお方がお語りになることを聞き、その御後に従って行くために、私たちは聖霊によって書かれた聖書を読み、イエス・キリストの御名によって、父なる神に祈り続ける者でありたいと思います。三位一体なる神が、私たちひとり一人の信仰生活を確かな御手をもって導いてくださるよう、お祈りをいたしましょう。


10月31日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 2章6~10節 2021年10月31日(日)説教
「隠された神の知恵」   牧師  藤田 浩喜
◎1章21節でパウロは、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」と語りました。すなわち、人間の知恵、世の知恵が、本当に人を救うことはできないのです。そこでパウロは、自分は知恵を語らないと言いました。知恵を用いるのではなく、ただ十字架を語ると述べたのです。そのパウロが今日の2章6節では意外な言葉を語っています。
 「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。」
 あれだけ知恵を否定してきたパウロが、今度は自ら「知恵を語る」と言います。これはどういう意味なのでしょうか。
 「成熟した人たちの間では」とありますから、信仰者の中で熟練して、円熟した人の中では、少し難しい知恵も語るという意味にとられる場合があります。未熟な幼い信仰者の中では知恵は語らない。しかし、成熟した信仰者に対しては知恵を語ると読むのです。けれども、そうではありません。パウロがここで言っているのは、信仰者の中にある成熟・未成熟の区別ではありません。この「成熟した人たち」というのは、すべてのキリスト者を指しています。
 キリスト者はすべて、イエス・キリストにあって救われた者です。救いがすでに成就した者です。イエス・キリストの救いは曖昧なものではありません。十字架の福音を受け入れた者は、すでに救われた者です。それがここで言う「成熟した人たち」です。ですからパウロは、信仰者の中では、つまり教会の中では、知恵を語ると言っているのです。
 一方では、知恵の愚かさを語り、もう一方では自ら知恵を語ると言う。パウロは明らかに、二つの種類の知恵を区別しています。それは、この世の知恵、人間の知恵と、パウロが語る真の知恵です。彼はこの二つを鋭く区別しています。
 パウロは決して、知恵そのものを否定したのではありません。キリスト教信仰というものは、知性や知的営み、学問というものを否定するわけではありません。信仰は、真の知恵に土台を置くのです。ではその本当の知恵とは、いったい何なのでしょうか。
◎パウロはそれを、6節後半では否定的に説明し、7節では積極的に説明しています。6節後半にはこうあります。
 「それは、この世の知恵ではなく、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。」パウロが言う本当の知恵が、イエス・キリストの十字架による救いを指しているのは確かです。これが聖書の語る福音ですが、それは「この世の知恵」ではありません。つまり、福音というものは、この世が、人間が考え出した知恵ではないのです。
 神の御子であるキリストが、私たちの身代わりとして十字架の上でさばきを受けられた。それによって、私たちは救われました。この福音は、決して人間が考案したものではありません。人間の思索の結果、努力の結果、到達した知恵ではないのです。なぜならば、この世の知恵からすれば、福音は愚かでしかないからです。ですから、福音は、決してこの世の知恵の産物ではない。この世の知恵の延長線上にあるのではないのです。
 また福音は「この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」。この「支配者」が悪霊を指しているという見解もありますが、ここはやはり人間の支配者を指していると見るのがよいでしょう。つまり、自分の力や卓越さをもって人々に影響を与えているこの世の有力者、指導者のことです。この世の様々な分野には、それぞれの有力者・指導者がいます。政治、経済、科学、教育、芸術等々です。そして彼らは確かに、その分野での卓越した知恵をもっています。それらの知恵はもちろん無意味なものではありません。しかしそれらは、決して永遠に繋がるものではない。人を永遠に結びつけ、導くものではないのです。
 福音は、そのようなこの世の知恵とは異質なのです。人間に源をもつこうした知恵と、同一線上にあるのではありません。真の知恵は、下からの知恵ではない、神からの、上からの知恵にほかなりません。
 7節でパウロは、この真の知恵を積極的に説明しています。
 「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」パウロは、その知恵が「神の知恵」であることを強調しています。福音はこの世の知恵ではない、人間の知恵ではない、それは神の知恵だと言うのです。それは「隠されていた、神秘としての神の知恵」だと言います。「神秘としての知恵」ですから、人間は本来知ることができないのです。ですから、この世の知者がどんなに努力しても、知恵と力を尽くして探求しても、見出すことができないものなのです。それは「隠されて」いました。昔からずっと今に至るまで隠され続けているということです。生まれたままの人間に対して、通常隠されている。すなわち、生来の人間は本当の知恵、本当の光を知らないのです。闇の中を歩んでいるのです。しかし、それが神の救いの歴史の中で明らかになり、現実となったのです。
 7節の後半には、この神の知恵である福音の目標と起源が記されています。この神の知恵である福音は、何を目指しているのでしょうか。パウロは端的に「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」と言います。つまり、私たち一人ひとりの栄光のためなのです。
 そして私たちの栄光とは、私たちがキリストにあって受ける救いの恵み全体を指します。つまり、この世にあって罪を赦され、すなわち義とされ、また神の子の内に数えられ、そして、御霊によって導かれ、聖められ、さらには終わりの日に全き救いの完成にあずかるのです。そしてそこに導くことが、神の知恵である福音の目指す目的なのです。
 では、その福音を神はいつお定めになったのでしょうか。パウロは、「世界の始まる前から定めておられた」と言います。イエス・キリストの十字架によって私たちが救われるということは、創造以前から神が定めておられたことです。それは決して、後で神が思いついたというようなものではありません。神は私たち罪人の救いのために、神の知恵としてご計画を立てられました。永遠の神のみこころのうちに計画を立てられました。
 永遠に変わることのない神のご計画のうちに、私たちの救いの根拠はあります。この世に根拠があるのではありません。自分の信仰そのものに根拠があるのでもないのです。この世は移り変わります。また自分自身も、この世を生きる中で揺れ動きます。正直に自分を見る人は、自分がそれほど当てにならない存在であることを知っているでしょう。
 救いの根拠は神の側にあります。それも、神の永遠のご計画のうちにある。ですから、私たちがどんな状況になっても、これだけは動かないのです。そこに私たちの揺らぐことのない安心の根拠があります。自分の頑張りではなくて、神が私たちをしっかりと捕らえていてくださる。永遠の御心のうちに導いていてくださる。そこに、神の知恵による救いの確かさがあるのです。
◎この神の知恵は、この世の知恵によって、人間の知恵や力でとらえることはできません。パウロは8節で言います。
 「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」神の知恵を、この世の人はだれも自らの力で知ることはできません。この世の支配者がどれほど優れていても、また指導者にどれほど見識があっても、この世の知恵によっては、神の知恵を理解することはできないのです。
 この世の知恵というものを、私たちは頭ごなしに否定するのではありません。神を知らない人たちも様々な良きものを生み出すことができるのであり、私たちもそれにあずかることができます。しかし、この世の知恵は究極的には、神に逆らう要素をもっていることを知らなければなりません。この世の知者がイエス・キリストを殺しました。この世の知恵は、イエス・キリストを、神の言葉を喜ぶことができないのです。
 イエス・キリストの言葉は、人間の一切の自己欺瞞を明らかにします。一切の自己義認を暴きます。一切の自己満足を許しません。そして、神の御前におけるありのままの、罪人としての惨めな自分をさらけ出し、へりくだって神に立ち返ることを迫ります。神を無視して「自分」を立てることを許しません。そういう厳しさをもちます。それがイエス・キリストの言葉です。そのイエス・キリストの言葉を、この世の知恵は受け入れることができないのです。
 人間の知恵は、まさに日ごとに発達しているでしょう。しかし、本当にそれで人間は幸福になっているのでしょうか。人間の知恵によって社会が変わることによって、本当に社会は希望に満ちるようになっているでしょうか。私たち人間に本当に必要なのは、この世の知恵ではありません。私たちに本当に必要なものを、この世の知恵が満たすことはできません。それを満たすことができるのは、神の知恵のみです。神の知恵である、十字架の福音のみなのです。
◎続く9節でパウロは、この神の知恵が明らかにされた出来事が、旧約聖書の預言の成就であることを示しています。
 「しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。」この引用はイザヤ書64章3節をかなり自由に引用したものです。人は通常、目で見、耳で聞き、心で受けとめて、物事を理解します。しかし「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」のです。人間が見ることも聞くことも、想像することさえできなかったことを、神はご自分を愛する者が理解できるように備えてくださった。あらかじめ計画していてくださったということです。
 では、私たちはどうしたらこの神の知恵を理解することができるのでしょうか。パウロはその答えを端的に10節で述べています。
 「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。」一言で言えば、神の知恵すなわち福音は、神によって、神の霊によって明らかにされるのです。つまり、神の啓示によるということです。そのことは来週詳しく学びます。実に、神の知恵である啓示は、今日、聖書において与えられています。聖霊なる神は、聖書の言葉を通して、私たちの心を開き、神の知恵である福音を、自らのこととして理解することができるようにしてくださるのです。その福音の言葉が語られるのは、この地上に教会しかありません。教会はその意味で、永遠に繋がる門なのです。

10月24日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 2章1~5節  2021年10月24日(日)礼拝説教
「神の力による信仰」  牧師 藤田 浩喜
◎NHKの朝ドラで「おかえりモネ」というドラマをしていますが、来週29日(金)でラストを迎えます。今はモネの故郷である宮城県気仙沼が舞台になっています。ご承知の通り気仙沼は10年前の東日本大震災で大きな被害を受けた被災地です。その被災地を舞台にドラマの脚本を書くにあたって、脚本家の安達奈緒子さんは、宮城県の被災地に行って、たくさんの方からお話を聞いたそうです。すると、被災者と一口に言っても、それぞれの痛みや苦しみは違った、一つとして同じ苦しみはなかったということを、知らされます。そして、ドラマではそのことを基本に据えて物語を作っていった。その人の苦しみはその人にしか分からない、という線を貫いたのです。しかし、それだけでは人と人はつながることも一緒に生きていくこともできません。そこで、「あなたの苦しみは分からない。でも一緒にいて、あなたの苦しみを分かりたいと思う」と、登場人物に語らせるのです。
 このことは、私たちが色んな方々と出会う中で実感させられることだと思います。人はそれぞれが人知れぬ痛みや苦しみを抱えており、それはその人にしか分かりません。他の人間が「分かる、分かる!」と簡単に言えることではありません。しかし、分からないからあきらめるというのでは、その人とつながることも一緒に生きていくこともできません。できる限りその人の側にいる、分からないことは承知の上で、分かりたいという思いを持ち続けていく。そのことがいつしか、両者の間に信頼の絆(きずな)のようなものを生み出していくのではないでしょうか。そしてそのようなあり方は、私たち信仰者が福音宣教をしていく上でも、第一に心がけなくてはならない姿勢ではないかと思います。
◎さて、今日司式長老に読んでいただいたのは、コリントの信徒への手紙 一 2章1~5節です。ここでパウロは、ギリシャの町コリントで彼が伝道を開始した時のことを記しています。大都市コリントで伝道をした時、パウロは何を伝えようとしたのか。また、何を頼りにして伝道したかをはっきりと記しています。そして、ここでパウロが書いていることは、21世紀の日本に生きているキリスト者である私たちにとっても、大変重要なことなのです。
 まず、今日の1~2節を読んでみましょう。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架に付けられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」
 この文章をパウロは、「わたしは」という語で始めて、「わたし」が経験したことであると強調しています。パウロは伝道する上で、何を伝えようとしたか、彼が伝えたのは、十字架につけられたキリスト以外の何ものでもなかったと言っているのです。「神の秘められた計画」とは、神が人間の救いのために志され、実行された計画です。そのことを人々に伝えるのが伝道ですが、その内容は十字架に付けられたキリストのことであって、それ以外のものではなかったのです。
もちろん、「十字架」という言葉だけを、繰り返し語ったというのではありません。イエス・キリストが十字架に掛かってくださったことによって、人間の罪が贖われ、私たち人間は救われた。その十字架の福音が、伝道の中心内容だった。その十字架の福音を抜きにした伝道はなかった、とパウロは証ししているのです。
人は神に逆らい、神から背を向けた生活をしています。その状態を聖書は「罪」
と呼んでいます。人はその罪を自覚し、その罪を贖って頂かなくては、神の救いに与ることはできません。その測り知れない罪を贖うために、イエス・キリストはこの世界に受肉され、十字架の死を遂げてくださいました。イエス・キリストがこの世界に救い主として来られたのは、十字架の死によって私たち人間の罪を贖い、永遠の命という救いを与えるためでした。ですから、キリスト教の伝道は、神の救いのご計画、イエス・キリストの十字架の目的を伝えることにあります。もし、その中心的なことを伝えないなら、それは伝道したことにはなりません。
神が志された救いの計画を実現するために、伝道はなされなくてはなりません。
 パウロは「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と、それが強い決意であったことを語っています。なぜなら、それを妨げようとする誘惑が、人間には働くからなのです。パウロが1章23節で語っていたように、十字架の福音は「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」でした。十字架の福音を世の多くの人々は、馬鹿げたもの、愚かなものとしか聞こうとしません。だから、その十字架の福音を語ることをしなかったり、混ぜものをしてぼやかしてしまおうとする誘惑が、キリスト者には働くのです。
 今日でも十字架の死などという暗いことは語らずに、キリスト教信仰がいかに人生を成功と幸福に導くかを強調するキリスト教のグループが、アメリカのメガ・チャーチなどにはあるようです。キリスト教を信じていれば、この世で成功し、幸せになれると約束するのです。勿論、それは間違いではありません。キリスト教信仰を持つことで、社会で信用を得ることができる、勤勉な努力と相まって暮らしが安定する、家族との関係が以前よりも良くなる、といったことが起こるでしょう。聖書は地上での幸いを決して否定せず、祝福しています。しかし、それは神が人間の救いとして志された計画の真の目的ではありません。神は人の罪がイエス・キリストの十字架によって贖われ、人が決して滅びることなく、永遠の救いに至ることを、願っておられます。この神の目的に仕えるために、キリスト者は十字架の福音を語り続ける決意と覚悟を持たなくてはならないのです。
◎さて、次にパウロは伝道する際に、何を頼りとし拠り所としたのでしょう。3~4節を読んでみます。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。」パウロは、自分の宣教は「知恵にあふれた言葉」を拠り所とするのではなく、「“霊”と力による証明」を拠り所としていたと証しするのです。
 ギリシャの大都市コリントに伝道した時のことは、使徒言行録18章1~18節に記されていますが、あのパウロであっても、コリントへの伝道は大きな恐れと不安を伴うものであったようです。それは、未知の大都市に一から福音を宣べ伝えることの恐れや不安があったのでしょう。他の町々で遭遇したユダヤ人の反抗や異教を信じる異邦人からの妨害が繰り返されることを恐れたのかも知れません。また、パウロには「癲癇(てんかん)」ではないかという持病があり、その病のせいで心身ともに弱っていたことが考えられます。また、すぐ前のアテネのアレオパゴスでパウロは、あらゆる知恵と知識を傾けて伝道しましたが、うまく行きませんでした。そのような失敗が彼に自信を失わせていたのかも知れません。とにかくパウロは、コリント伝道を開始するにあたって、大きな恐れと不安の中にいました。決して気力も体力も充実した状態ではありませんでした。ただひたすら、神の“霊”と力に寄りすがるような状態で、伝道を始めたのです。
 しかし、そのような最悪とも言える状態で始まった伝道ですが、その伝道を神は支え導いてくださいました。イタリヤからやってきたアキラとプリスキラというキリスト者の夫婦が、心強い協力者としてパウロには与えられました。またティティオ・ユストという人が、住居兼集会所を提供してくれました。その結果、コリントの町でもパウロの言葉を信じる多くの人たちが起こされ、洗礼を受け、キリスト者となったのです。思いもかけないことが次々に起こっていったのです。
 パウロはそのことを目の当たりにして、伝道というものが人の知恵の言葉や能力によるものではなく、神御自身の“霊”と力に依るものであることを深く悟りました。人の知恵や言葉の卓越さではなく、神御自身の“霊”と力が伝道を進めていくことを、彼自身の体験を通して知らされたのです。
 このことはもちろん、十字架の福音を語る伝道において、卓越した知恵や言葉が必要ではないということではありません。パウロ自身も御言葉を語るために絶えざる努力を怠らなかったでしょう。また、彼がいかに優れた考え抜かれた言葉で、多くの手紙を書いたかを私たちは知っています。私たち現代の伝道者もキリスト者も御言葉をより深く豊かに語るための研鑽を、怠ることはできません。
 しかしそれは、知恵にあふれた言葉を拠り所とし、頼みにするためではありません。神御自身が“霊”と力によって伝道を進めてくださることを確信しているからこそ、私たちはその神の御業に少しでも仕えるために、御言葉を伝える研鑽を熱心に行うのです。伝道において何よりも大切なことは、神の“霊”と力が豊かに強く働くように、心を合わせて祈ることです。私たちがどんなに知恵にあふれた言葉を巧みに語っても、神の“霊”と力が働かないなら伝道は進展していきません。しかし、それだからこそ伝道は、私たちが弱いからできないというものではありません。むしろ逆に、弱くないから、自分自身というものが強いから、神の“霊”と力に依り頼むことができないのではないでしょうか。伝道の進展は、神の“霊”と力が豊かに強く働くことにかかっています。だから、知恵がないから、学問がないから、病気だから伝道ができないということはありません。パウロのように、十字架の福音を自分が本気で信じて伝えるならば、伝道は進展していくのです。
◎さて、今日の5節でパウロは今日の御言葉の結論のようなことを語っています。「それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」パウロは、人の信仰を生涯にわたって支えるものは、頭で理解したり、言葉で説得されたことによるのではない。神の力がこの私に確かに働いたという信仰の体験によるのだというのです。神の力がわたしの人生や生活に表われ、わたし自身が変えられた。そのような神の力の体験が、私たちの信仰を長く支えてくれるのです。
 ウィリアム・バークレイという新約聖書の注解者は、ジョン・ハットンという人がいつも楽しげに語っていた次のような話を紹介しています。「ある男がいた。彼は飲んだくれの放蕩者であった。ところがキリストに捉えられてしまったのである。彼の仕事なかまがこれを知って、その信仰をぐらつかせようとした。『きみのように良識ある人間が、聖書に書いてあるような奇跡を信じられるわけがないじゃないか。たとえば、イエスが水をぶどう酒に変えたなんて、どうして信じられるんだ』。すると彼は答えて言った。「イエスが水をぶどう酒に変えたかどうか、そんなことはどうでもいいんだよ。ただはっきりしていることは、ぼくの家の中で、イエスが酒を家具に変えてくださったということさ。」
 だれも、キリスト者に起こったこのような生活の変化に反駁することはできません。また、私たちもこのような大きな変化を、神の力によるものであることを否定することはできません。それどころか、神の働きを心から感謝する者となります。そして、そのような神の“霊”と力による恵みの体験が、私たちの信仰を末長く生涯にわたって支えてくれるのです。


10月17日礼拝説教

出エジプト記14章5~14節      2021年10月17日(日)礼拝説教
「神の時を生きる」  牧師  藤田 浩喜
 今朝司式長老に朗読していただいた出エジプト記14章5~14節は、読む場合に注意が必要です。私たち読者は今日の箇所の後に、何が起こるかを知っています。しかしその結果を知らないイスラエルの民の立場で今日の出来事を経験しないと、本当のことは分からないのです。エジプトを脱出するイスラエルのいる場所に身を置くことによって、より本当のことが分かるのです。
 10の災いを経験し、最後にはエジプトのすべての初子を失ったファラオは、モーセに導かれたイスラエルがエジプトを出ることを許します。ファラオは、ほとんど呆然自失の状態であったでしょう。しかし、民が逃亡したとの報告を受けると、ファラオとその家臣は我に帰ったかのように、イスラエルに対する考えを一変するのです。7節です。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは」。エジプト王ファラオは、増えすぎて大きくなったイスラエルの民の力を削(そ)ごうと考えました。その目的でイスラエルの民に厳しい重労働を課したのです。そのイスラエルの民を自由の身にしてしまうなど、あってはならないことでした。どんな経緯があったにせよ、現人神として崇められ、絶対的権力を誇る者として、認めることなどできませんでした。そこでファラオは考えを一変し、自ら軍勢を率いて、イスラエルの後を追ったのです。「えり抜きの戦車六百を初め、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた」(7節)とあります。まさに、エジプト王の威信をかけてエジプトの全軍が戦闘に動員されたのでした。
 8節に「主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので」とあります。このフレーズは、これまで何度も語られてきました。ファラオはこれまで何度も、主なる神の御業を目にしてきたはずです。イスラエルの出エジプトが主なる神の御心である以上、絶対的権力を持つファラオであっても、それを妨げることはできません。これまで何度もそれを思い知らされながら、神などいないかのように振る舞ってしまう。神の存在を勘定に入れることなく、自分の力を過信して自分勝手に振る舞ってしまう。それを聖書は「心をかたくなにする」と言うのです。
◎そうしたファラオの心変わりと追撃を、出エジプトのイスラエルは全く知りませんでした。「イスラエルの人々は、意気揚々と出て行った」(8節)とあります。彼らは奴隷状態から解放された自由と喜びに、酔いしれていたのです。ところが、エジプトの全軍が物凄い勢いで迫ってきます。ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵が大軍勢で近づいて来るのが目撃されます。ファラオが心変わりし、逃亡奴隷である自分たちを抹殺しようとやってきたことは、火を見るよりも明らかです。解放感に浸っていた彼らに、今や死の剣が臨もうとしています。その現実に気づかされたイスラエルの人々は、「非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った」(10~11節)のです。「叫んだ」とは、天の雷のような、恐ろしいまでの泣き叫びであったことが分かります。そして、人々は指導者であるモーセの襟首(えりくび)を掴(つか)まんばかりに激しく抗議するのです。11~12節です。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりもエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」
 イスラエルの人々は、エジプト軍が背後から襲いかかろうとしている現実を前に、取り乱すことしかできませんでした。彼らはエジプトで奴隷として暮らした経験から、これからファラオがしようとしていることが、いやでも分かりました。
そして、恐怖に呑み込まれ、取り乱すことしかできない彼らには、これまで神がしてくださった御業も、数々の恵みも見えなくなってしまいました。切羽詰まって追い詰められてしまい、イスラエルの人々は主なる神の存在を見失ってしまったのです。神に叫びの声は挙げても、抗議と絶望の叫びでしかなかったのです。
 毎週水曜、幼稚園の先生と日曜日のお話を準備するために、聖書研究の時を持っています。先週学んだ箇所の一つは、サムエル記上13章1~15節で、初代の王サウルがペリシテ軍とギルガルという地で戦う直前の出来事でした。ギルガルはサウル王が即位したゆかりの土地で、預言者サムエルが神に犠牲を捧げる例祭日を行うために定期的に訪れる場所でした。この地でサウル王は兵を招集し、ペリシテ軍を迎え撃とうとします。敵は圧倒的な数で、多勢に無勢です。神の加護を確信して、心を一つにしなくてはなりません。そのためにも、預言者サムエルがやって来て、神に犠牲を捧げてくれることが必要だったのです。しかし、予定の日になってもサムエルは来ない。サウルに従う兵は恐くなり、だんだん戦意を喪失していく。そのような切羽詰まった状況の中で、サムエルに代わってサウル自身が焼き尽くす捧げ物をささげるという、大きな罪を犯してしまうのです。サウル王の置かれた状況は危機的な状況でした。同情すべきところもあります。しかし、この場面でサウル王が神に祈ったという記事はありません。神に心を注ぎ出して祈ることなしに、兵士たちの結束を固めるという人間的な目的のために、形だけ捧げ物をささげるという儀式を利用した。それは神に対する罪であり、王たる者にはあってはならないことだと、サムエルに非難されてしまうのです。
信仰をもっている者は、何か幸いなことがあると、神の恵みと導きを覚えて感謝をささげます。また、耐えられるような困難に見舞われても、これは神からの試練に違いないと、神の御顔を仰ぎます。しかし、人は信仰を持つ者であっても、切羽詰まった重大な危機に襲われるとどうでしょう。神さまが自分の視野からいなくなってしまわないでしょうか。神さまがおられることを勘定に入れることも忘れ、頼りになるのは自分の知恵や力だけだと思い詰めてしまうのではないでしょうか。うろたえ、余裕がなくなり、空回りしてしまうのです。
◎そのように切羽詰まってうろたえるイスラエルの民に、モーセはどうしたでしょう。彼はそのような彼らの態度を責めることはしませんでした。そうではなく、すっかり取り乱している彼らに、まっすぐに福音の言葉を語るのです。13~14節を御覧ください。「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい』」。モーセはおじまどう彼らに救いの託宣を語り、このことも神のご計画であることをはっきり示したのです。彼はイスラエル自らが救いの手立てを持っているのではないことを強調しました。そしてイスラエルは神に頼るしかないことを、三つの言葉で示して、彼らの心の姿勢を整えたのです。
 「恐れてはならない」。この言葉は神が顕現する際に語られるか、あるいは嘆く人に語られる言葉です。それは、最悪の恐れは決して現実とはならないという保証の言葉です。なぜなら、神は彼らの傍らにいまし、彼らのために働かれます。だから、彼らは恐れる必要がないのです。
 「落ち着きなさい」。民は逃げるべきではなく、持ち場に立って身構えなくてはなりません。彼らは闘うべきではなく、自分たちの武器を使用するべきでもありません。むしろ彼らは、神が先立って彼らのために行われる救いを見るために、身構えていなくてはならないのです。彼らの目は、今やエジプト人がなそうとする事柄ではなく、神がなそうとされる事柄にしっかり目を向ける構えを取っていなくてはならないのです。
 「静かにしていなさい」。これは民に身動き一つするな、と求める言葉ではありません。それは沈黙を求める言葉です。嘆きの叫びであろうと、闘いの叫びであろうと、民が挙げる声はこれから神がなさろうとする事柄とは、何の関わりもありません。イスラエルの言葉も行為も、神が彼らのために与えようとされることに、何の影響も付け加えることができません。沈黙して主の成し遂げられることを仰ぎ見ることが求められているのです。
◎今日の説教題を「神の時を生きる」といたしました。私たち信仰者も世の人と同じ時を生きています。同じ時代の息吹を吸いながら生きていることに変わりはありません。しかし、私たちの生きている時は、同時に神の時でもあるのです。
今日の出エジプトのイスラエルが経験しているように、人間的な地平で見れば絶望しか感じられない出来事に見舞われることが、信仰者にもあります。切羽詰まって、うろたえ、何の解決も見いだせず、空回りしかできないような状況に追い込まれてしまうのです。
 しかし、それは何もそこでなされていない時ではありません。神が力強く働いてくださっている時なのです。聖書はその深い秘儀を二つの聖句で示しているのです。一つは出エジプト記12章42節の聖句です。「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた」。この聖句は、端的に神の徹夜があったことを語ります。神は、雑多な、無に等しい者たち、取るに足らない者たちの救いのために、夜を徹しられたのです。新約聖書もまた、主イエスが少なくとも二度、大事な時に徹夜されたことを記しています。十二弟子を選ばれた時と、有名なゲッセマネの祈りから十字架に架かられるまでの一日です。そして詩編は、次のように神を褒め称えています。「あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない」(詩編121:3~4)。私たちの神は、夜を徹して働いてくださっているのです。
 もう一つの聖句は、今日の出エジプト記14章13~14節です。「今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。…主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」この聖句は、私たちの神が私たちの救いのために、独り闘い抜かれる神であることを示しています。私たちが切羽詰まってどうしようもないような時、神は遠く高い天から人間世界をただ眺めておられるのではありません。そうではなく私たちの救いのために、お独りで闘い抜いておられるのです。民族滅亡の危機から驚くべき紅海の奇跡へと事態が一変するには、神の徹夜と神の闘いがあったということを、聖書は私たちに語るのです。
 「人生一寸先は闇」ということわざがあります。ある著名な牧師はそれをもじって、「人生一寸先は光」と書いておられました。私たちが信仰者として経験する切羽詰まった状況は、人間の目には絶望としか見えないことがあります。闇としか感じられない時があります。しかし、「恐れることなく、落ち着き、静かにしているならば」、そのような時であっても、確かに神が働きかけてくださっている時であることが分かります。闇を光に変えてくださる出来事を、神が顕わにしてくださることを見ることができるのです。私たちはそのような神の時に生かされていることを覚えて、御顔を仰いでまいりましょう.

10月10日礼拝説教

コリントの信徒への手紙一1章26~31節  2021年10月10日 礼拝説教
「誇る者は主を誇れ」  牧師  藤田 浩喜
◎先週学んだ箇所1章25節で、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」と言われていました。そしてその神の愚かさ、神の弱さは、十字架の言葉、つまり私たち人間のためにキリストが十字架につけられたという救いの出来事に表されていると言われていました。
 続く1章26節以下の今日の箇所では、25節の御言葉の実例が示されています。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」ということが、コリント教会の信徒たちの「召し」を考えれば分かるというのです。
 まず26節を読んでみましょう。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」召されたというのは、信仰を与えられてキリスト者になったことです。洗礼を受けてキリスト者になった者の中で、人間的に見て知恵のある者、能力のある者、家柄のよい者は多くはなかったというのです。
 当時のギリシャ社会において重んじられていたのは、知識がある人、権力がある人、生まれが良い人であったと言われます。ギリシャ社会だけでなく、多くの社会においてもそうでしょう。しかし、コリント教会のキリスト者たちはそうではありませんでした。ギリシャにおいては自由人1人に対して3倍の奴隷身分の人たちがいたと言われます。戦争によって敗者となった国の人々やその子孫が、主人の所有物である奴隷として生きなければならなかったのです。
 そのような事情もあって、コリント教会には多くの奴隷身分の人々や下層階級の人々が、キリスト者となり集っていました。教会で牧師や長老のような働きをするリーダーたちの中にも、奴隷身分の人たちが少なくなかったと言います。もちろんコリント教会の中にも、皇帝に仕える役人や、裕福な商人、博識な学者のような人たちも集っていました。しかし教会に集う大部分のキリスト者は、パウロの言うように、知識がある人、権力がある人、生まれが良い人ではなかったのです。神はイエス・キリストにあって、当時の社会では重んじられていない人々をキリスト者として召されていたのです。当時のギリシャ社会とは違う価値観で
コリント教会は立てられていたのです。
◎それはなぜであったでしょう。どうして神は、教会に社会で重んじられていない人々を多く招かれたのでしょうか。その目的は何か、27~28節は次のように言うのです。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるために、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」神の目的は、知恵ある者や力ある者に恥をかかせるため、また地位ある者を無力な者にするためだったと言うのです。
 古代ギリシャ社会だけでなく、地上にある人間社会というものは、知恵ある者、力ある者、地位のある者を尊びます。多くの人々はそうなりたいと思っていますし、自分がそのような人になれたならば、自分を誇りに思うに違いありません。しかしその反対に、人間社会はたいてい、知恵のない人、力の無い人、地位の低い人を軽んじたり、さげすんだりするのではないでしょうか。また、かつて知恵ある人、力のある人、地位のある人であった人が、状況の変化に見舞われて、そうしたものを失ったらどうでしょう。もはや、自分のことを価値のない人間、生きていても仕方のない人間のように思いこんで、生きる気力を失ってしまうのではないでしょうか。
 しかし、神はイエス・キリストにあって、そのような価値観に断固反対されます。人間とは知恵があるから、力があるから、地位があるから尊い、という価値観に真っ向から反対されます。「そんなことで、生きる気力を失ってはならない」と、声を大にして言われます。そして、そのような神の価値観を世に明らかに示すために、知恵のない人、力の無い人、地位の低い人と見なされている人たちを、信仰者として召されたのです。社会が不動の真理のように思いこんでいる価値観が偽りであることを暴き、無力にしようとして、そのような人たちを多く召され、キリスト教会をお立てになったのです。
 5月でしたか、NHKのテレビで「ビジョンハッカー 世界をアップデートする若者たち」という番組を放送していました。世界や日本国内で貧困や社会的な不公平、ひずみを、インターネットなどの技術を用いて解決していこうと奮闘している若い人たちの活動を紹介していました。その一人として日本では、尼崎市出身の在日韓国人の起業家リ・ヒョンシギさんの活動が紹介されていました。この方は尼崎市の高校から東大に進まれたのですが、幼なじみの友だちの中には、生まれた地域や家庭環境のせいで上の学校に進学できず、不安定な仕事に就いて貧困の連鎖から抜け出せないでいる人たちがいました。リさんが東大で同級生たちに、故郷で苦労している友だちのことを話すと、「努力しなかったんだから仕方がないでしょ」と言われ、大きなショックを受けたと言います。与えられた機会は不平等なのに、自分の努力で頑張りなさいという自己責任論が強すぎると感じました。それで卒業すると一念発起して、家庭環境などのために十分な教育を受けられない子どもたちを教育支援をする事業を立ち上げ、行政や企業などとも連携して、その取り組みを進めているのです。
 勉強ができない、上の学校に進めないと聞くと、私たちの社会では往々にしてその人の自己責任にしてしまいます。「怠けていたからだ」とか「努力が足らないからだ」と言ってしまいます。しかし、そもそも勉強に専念できる環境があるかないかというスタート地点で、大きなハンデを背負っていることが少なくないのです。所得の格差が教育の格差を生み、それがまた所得の格差を生むという貧困の連鎖があります。日本は平等な社会であり、何事も自己責任だと考える価値観を疑い、どこに真実があるのかということに気づかされ、その課題の解決のために行動することが、私たちには求められています。そのためにも特に、若い人たちの発信する目の覚めるようなビジョンに注目し、しなやかな行動力に謙虚に学ぶ必要があるのではないでしょうか。
◎さて、パウロの言葉に戻りますと、29節以下で彼は、知恵のない人、力の無い人、地位の低い人をキリスト者として選ばれた、さらに深い信仰的な理由を記します。「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」
先週の説教で申し上げましたように、イエス・キリストは私たちの罪の赦しのために十字架にかかられました。この主イエスの十字架によって、私たちは罪とその結果である死から救われました。私たちは今や、永遠の命の冠を受けることができます。しかし、それは私たち人間の側の努力や功績によって勝ち取ったものではありません。100パーセントイエス・キリストによって、私たちに与えられたものです。私たちは、自分が知恵のない者、力の無い者、地位の低い者であることを知っています。神さまに差し出すものは一つもなく、すべてを神さまから受けなくてはならない者であることを知っています。そんな私たちであるからこそ、十字架による救いを空(から)の両手に受け取ることができるのです。
御子イエス・キリストが十字架にご自身をささげることによって、人が救われる道が開かれました。これはまことに深い神の知恵でした。そして、イエス・キリストは、一方的な救いによって、私たちの「義と聖と贖いとなられたのです。」
キリストは、私たちの「義」です。私たちは生まれながらの罪人であり、神の怒りの下にあります。私たちのだれ一人、自らの力で義を獲得することはできません。しかし、キリストが私たちの身代わりとして義を獲得され、それを私たちの義としてくださいました。キリストの義のゆえに、もはや私たちはさばかれることはないのです。
キリストは私たちの「聖」です。聖とは、神の御前に罪や汚れがないことです。私たちは、自らの力で自分を聖めることはできません。しかし、私たちはキリストと結ばれたとき、キリストによって罪の支配から解放されました。聖化にあずかる者とされました。こうして一歩一歩、キリストに似る者とされていくのです。
さらに、キリストは私たちの「贖い」です。キリストは私たちの代わりに、ご自身のからだをもって罪の代価を支払ってくださいました。それによって、私たちは罪と呪いから解放されました。そして終末において救いは完成に至ります。それはすべて、キリストの十字架の死が私たちの贖いであることによるのです。
このように神が御子キリストによってもたらしてくださったものは、徹頭徹尾神が恵みとして一方的に与えられたものです。それを受け取る者は、ひたすら主にまなざしを向け、神の御業を仰ぎ、そこにある本当の希望に目を留める者でなくてはなりません。自らの内にある人間的な誇りを葬り去らなくてはなりません。だからこそ、自分が知恵のない者、力の無い者、地位の低い者であることを知っている者たちが、キリスト者として召されているのです。
主イエスは「祈るために神殿に上った二人の人のたとえ」を語られたことがありました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。ファリサイ派の人は心の中で、自分がいかに正しく生きてきたかを語り、自分の善き業を数え上げました。一方徴税人の方は、遠くに立ち、目を天に向けようともせずに、胸を打ちながら言いました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」主イエスは二人について、こう語られたのです。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」主イエスが言われたように、自ら砕かれ、悔い改めることしかできない者だからこそ、神の救いをいただくことができるのです。
◎今日司式長老に読んでいただいた旧約聖書の箇所は、エレミヤ書9章22~23節でした。もう一度最後に読んでみましょう。「主はこう言われる。知恵ある者は知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。私こそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行うこと/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」私たち人間の誇りなど、ちっぽけなものです。それはすぐに失われてしまう虚しいものです。しかし、神さまは御子イエスを通して、この地に慈しみと正義と恵みの業を行ってくださいました。それが十字架と復活の御業でした。この比類のないくすしき救いの業を行われた神を、私たちは誇ることが許されているのです。自らのちっぽけな誇りにしがみつく必要はありません。このお方にすべてをゆだねて、信仰の道を歩んでまいりましょう。

10月3日礼拝説教

コリントの信徒への手紙一1章18~25節  2021年10月3日(日)礼拝説教
「神の知恵であるキリスト」  牧師  藤田 浩喜
◎今日の箇所には「愚かな」という言葉と、「賢い」あるいは「知恵」という言葉が繰り返し出てきます。愚かさと賢さあるいは知恵が見比べられているのです。その愚かさは、21節に「宣教という愚かな手段」とあるように、宣教ということにおいて現れています。宣教とは、教えを宣べ伝えること、つまり今私がしている説教を中心とする教会の中心的営みのことです。説教は愚かなことだとパウロは言っているのです。私も時々そう感じます。私たち牧師は、毎週日曜日の礼拝で説教をします。それが私たちの最も大事な仕事です。でも、私たちがこのようなお話を20分かそこらしたところで、世の中何かが変わるわけではありません。これは虚しい、愚かなことなのではないか、と思わされることがあるのです。聖書はそれに対して、いやそんなことはない、お前のしていることは尊い、立派なことだと慰めてくれるかと思ったら、本当にそれは愚かなことだと書いてある。神様がそういう愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになったのだ、と言っている。25節には「神の愚かさ」とすら書いてある。つまり聖書は、神様は愚かな方だとすら言っているのです。
◎「宣教は愚かなことだ」ということについて、もっとよく考えてみなければなりません。「宣教という愚かな手段」と21節にありましたが、「手段」という言葉は原文にはありません。直訳すると、「宣教の愚かさによって」です。宣教、説教という手段が愚かだと言っているのではなくて、愚かなのはむしろそこで語られている内容です。何が語られているのか、それが23節に示されています。 
「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」。「十字架につけられたキリスト」、これこそパウロが語り、教会が宣べ伝えている宣教、説教の内容です。それが愚かなことなのです。教会の宣教、説教は、聖書の説き明かしですが、それは聖書の言葉の単なる説明や解説ではありません。イエス・キリストのことを宣べ伝え、証ししているのです。しかもそのイエス・キリストを、立派な教えを説いた昔の一人の偉人として見つめ、その教えを学ぼうとしているのではありません。教会はイエス・キリストを、私たちのために十字架につけられた方として見つめ、そのキリストを神の子、救い主と宣べ伝えているのです。しかし十字架は極悪人を死刑に処する道具です。しかも当時のローマ帝国においては、最も身分の低い、奴隷などを処刑する時にのみ用いられたものでした。当時の人々にとって十字架は、見るも汚らわしいものだったのです。その十字架につけられて殺されたイエスを、キリスト、つまり救い主と信じ、宣べ伝える、それが教会の宣教、説教の内容なのです。それはまことに愚かなことだと言わなければならないでしょう。十字架につけられた者の話など、誰が喜んで聞くでしょうか。その人こそ神の子、救い主だなどということを誰が信じるでしょうか。多くの人を集め、信じさせようとするなら、もう少し見栄えのする、喜んで聞けるような話をした方がいい、と誰もが思うのです。
◎この「十字架につけられたキリスト」の愚かさをさらに詳しく述べているのが23節後半です。そこには、十字架につけられたキリストは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」と言われています。ユダヤ人も異邦人も、どちらも十字架につけられたキリストを愚かなこととして受け入れようとしないのです。しかしそこで感じられている「愚かさ」は、ユダヤ人と異邦人とでは違っています。ユダヤ人はそれを「つまずかせるもの」と感じ、異邦人は「愚かなもの」と感じているのです。その違いの原因が22節にあります。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが」というのがそれです。異邦人とは、本来はユダヤ人以外の全ての人々のことを意味する言葉ですが、ここではギリシャ人のことです。この手紙が宛てられたコリントの町はギリシャにあり、その町にいたユダヤ人のみならず、多くのギリシャ人たちに、十字架につけられたキリストが宣べ伝えられていたのです。どちらの人々もなかなかキリストを信じようとはしません。しかしその理由は異なっているのです。
ユダヤ人は、しるしを求めるがゆえに、十字架につけられたキリストを受け入れないのです。しるしとは、目に見える証拠です。イエスがキリスト、つまり神様が遣わして下さる救い主である証拠をはっきり示せとユダヤ人たちは求めるのです。これは、科学的な証明を求めているということではありません。ユダヤ人たちは、自分たちが神様に選ばれた神の民であるという誇りと自負を強く持っていました。その誇りを支えていたしるしは、旧約聖書の教えに従って、割礼という儀式を体に受けていることと、神様から与えられた掟である律法を守っていることです。それらのことによって自分たちが神様の民であると誇っているユダヤ人たちにとって、イエスが救い主キリストであるしるしとは、自分たちが受け継いでいるユダヤ的伝統を尊重し、律法を守っているか、ということです。つまり、自分たちが神の民である誇りの拠り所としている基準に主イエスが従っているなら、救い主と認めてやろう、と言っているのです。そのような彼らの思いからすれば、十字架につけられたイエスは、惨めな失敗者でしかありません。旧約聖書には、「木にかけられた者は神に呪われている」という言葉があるのです。ですから、十字架につけられて殺された者が救い主であるはずはないのです。それゆえにユダヤ人たちは十字架につけられたキリストにつまずいたのです。  
他方異邦人、ギリシャ人は、知恵を求めています。古代ギリシャには多くの思想家が生まれ、哲学の基礎が彼らによって据えられました。哲学は英語でフィロソフィーですが、フィルは愛する、ソフィーは知恵という意味です。知恵を愛する、それが哲学の基本であり、古代ギリシャ人の基本的性格だったのです。そのように知恵を愛し、求めている人々は、十字架につけられて死刑になったキリストに何の魅力も感じません。主イエスの教え、例えば「敵を愛せよ」とか「自分がして欲しいと思うことを人にもしなさい」といった教えを守って生きていこう、ということなら彼らも「それは立派な、知恵ある教えだ」と聞く耳を持ったかもしれません。しかし十字架につけられたキリストには、知恵を求める思いを満足させるものは何もないのです。それはまさに愚かなことでしかないのです。
◎ユダヤ人とギリシャ人はこのように違った理由で、しかし共通して十字架につけられたキリストを拒んでいます。ユダヤ人でもギリシャ人でもない日本人である私たちはどうでしょうか。私たちはこの両方の思いを持っているのではないでしょうか。私たちは一方でギリシャ人のように知恵を求めています。キリストの教えに人生を歩むための知恵を求めて聖書を読む人は多いのです。しかしそのような人が感じるのは、「キリストの教えは好きだが、奇跡の話には疑問を感じる、そして教会では十字架が強調されて、それが私たちのためだとか言われるのにはちょっと閉口する。まして、復活などと言われるともうとてもついて行けない」ということです。十字架につけられて殺され、そして復活したキリストなど、愚かなもの、信じるに値しないものに思われるのです。
私たちはもう一方でユダヤ人と同じようにしるしを求めてもいます。信じる決断をするためには、はっきりとしたしるし、証拠が欲しいと思うのです。その証拠とは、自分が納得できる理由や根拠のことです。納得できなければ信じることはできない、と思うのです。それはある意味当然のことで、納得できなくてもただ信じるのでは、いわゆる「鰯の頭も信心から」という世界になってしまいます。 
けれども、先ほどユダヤ人がしるしを求めるとはどういうことか、というところで申しましたことをもよく考えなければなりません。納得できる理由を求めるというのは実は、自分の思いに適っていることを求める、ということである場合が多いのです。自分が考えていること、常識としていること、あるいはこうあるべきだと思っている主張が前提としてあって、神がそれに適っているなら納得できるから信じてやろう、という姿勢です。これは実は神様を信じる姿勢ではなくて、人間が神を判定し、合格とか不合格と決める支配者になっている、ということです。そのような姿勢は、信仰を求めるのには相応しくない姿勢なのです。
◎私たちは皆、時にはユダヤ人のように思い、時にはギリシャ人のように思いつつ、いずれにせよ十字架につけられたキリストを拒んでいるのではないでしょうか。しかし神様は、十字架につけられたキリストの愚かさによって、信じる者を救おうと決意されたのです。そのみ心によって、神様の独り子である主イエスが、私たちの罪を全て背負って、見るも汚らわしい十字架の死刑を受けて下さったのです。「木にかけられた者は神に呪われている」と旧約聖書にあると先ほど申しました。それは、死刑に処せられた罪人は神に呪われているということです。神様の独り子が、その罪人の受けるべき呪いを、私たちに代って引き受けて下さったのです。つまり十字架につけられたキリストは、神様が、私たち罪人を救うために、徹底的に愚かになって下さった、そのお姿なのです。「宣教の愚かさによって」とはそういうことです。神様はそのようにして、罪人である私たちを救おうと決意して下さったのです。21節には、神様がそのように「お考えになったのです」とありますが、この言葉は、「喜んでそうする」という意味の言葉です。つまり神様は、十字架につけられたキリストの愚かさによって私たち罪人を救うことを、喜んでして下さったのです。喜んで、ご自分から、徹底的に愚かになって下さったのです。それが主イエス・キリストの十字架の死の意味なのです。
◎聖書が語り、教会が宣べ伝えているこの宣教の言葉が、18節では「十字架の言葉」と言われています。そしてそれは「滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と言われています。これは、人間はもともと救われる者と滅びる者の二種類に分けられている、ということを語っているのではありません。「十字架の言葉」が語られる時に、それを愚かなものとして退けるか、それともそこに神様の救いの力を見るか、ということによって、私たちの間に救われる者と滅びる者の区別が生じるのです。けれどもそれは、私たちの信仰の決断によって救われる者と滅びる者とが分けられる、ということではありません。24節には、「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」とあります。「救われる者」が、ここでは「召された者」と言い替えられているのです。私たちは、自分で救いを獲得するのではありません。神様が私たちを選び、救いへと召して下さることによってこそ、救いにあずかることができるのです。そのような「召された者」とされている恵みをかみしめつつ、十字架の主を見上げて、新しく始まった一週間を過ごしてまいりましょう。

9月26日礼拝説教

マタイによる福音書19章16~30節   2021年9月26日(日)礼拝説教
「引き算で生きてみませんか?」   牧師 藤田 浩喜
◎今朝は特別礼拝に参加くださった皆さまと共に礼拝を守ることができ、感謝です。与えられた聖書の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
 今日読んでいただきましたマタイによる福音書19章16節以下には、一人の青年が主イエスのもとにやって来たことが記されています。この青年は今日の箇所を読むと分かりますように、「たくさんの財産を持つ」人で、大変まじめに生きてきた人であったようです。その青年が何の目的で主イエスのもとにやって来たかというと、彼には大きな人生の問いがありました。お金持ちでまじめに生きてきた人でしたが、何か心に満たされないものがあったのでしょう。そこで青年は主に向かって、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか?」と尋ねました。
 それに対して主イエスは「掟を守りなさい」と言われました。そしてその掟は
「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をするな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」であると言われました。モーセの十戒の後半部分、人と人との関係を規定する掟を守るように言われたのです。しかし、青年にとってそれらの掟は、小さいころから守ってきたものでした。彼がすでにクリアできたと考える初級の掟でした。青年はさらに進んだ上級の掟があるに違いないと、「まだ何か欠けているのでしょうか?」と尋ねます。
 すると主イエスは、次のように言われました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。この主イエスの言葉は、彼の急所を突く言葉でした。なぜならこの青年は、この言葉を聞き、悲しみながら立ち去ったからです。彼は主イエスの言葉を聞いて、腹を立てたのでも、反論したのでもありませんでした。「悲しみながら立ち去った」とあります。彼は少なくともこの言葉の意味を理解したのです。理解したけれども、それに従うことができなかったのです。
◎このお金持ちの青年が得たいと思っていたもの、それは「永遠の命」です。永遠の命と聞くと不老不死のことかと思います。そうした意味、永遠に生きるという意味も確かにあるでしょう。しかしこの金持ちの青年が求めていたのは、生きていて感じる喜び、生きがい、幸福感といったことではないかと思います。お金持ちの青年は、当時のユダヤ教の求める色々な掟を守ってまじめに生きてきました。しかし、何か物足りないものを感じていた。今一つ、喜びや生きがい、幸福感を感じられない。だから評判の高い主イエスのもとにやって来たのです。
 永遠の命、この「永遠の」を「神の」と言い換えることができるでしょう。神の与えてくださる命、神が与えてくださる喜びや生きがい、幸福感が、「永遠の命」だと言ってもよいでしょう。主イエスは彼の悩みに答え、「永遠の命」を彼に与えようと願って、持ち物を売り払い貧しい人に施すこと、そして自分に従うことを求められたのです。
 イエス・キリストは神のもとから人間の世界に、救い主として来られました。主イエスは神から来る永遠の命、神から来る喜びや生きがい、幸福感を、私たちが得ることができるように、御言葉を語り、御業をなしてくださるのです。そうであればこそ、永遠の命を得る上で妨げになっているもの、それを阻んでいるものに気づかせようと、ここでも急所を突く言葉を語られているのです。
 もちろん、永遠の命を受けるために、いつも全財産を売り払って、貧しい人に施さなくてはならないというわけではありません。徴税人の頭ザアカイという人は、主イエスと出会い、これまでの生き方を悔い改めて、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人に施します」(ルカ19:8)と言いましたが、主イエスは「それでは足りない、全財産を施しなさい」とは言われませんでした。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」(ルカ19:9)と喜んでくださいました。ですから、主イエスの言葉はいつも同じではありませんし、財産をすべて放棄させることが目的でもありません。その人その人が永遠の命を得るために必要な言葉を、与えてくださいます。急所を突く言葉として与えてくださいます。それによって、私たちに欠けているものを教えてくださるのです。
◎このお金持ちの青年に欠けていたもの、それは何だったのでしょう? この青年は最初に申しましたように、ユダヤ教の掟をまじめに守って生きてきました。善良で親切な青年だったでしょう。親にとっても自慢の息子であり、周囲の人々からの信頼も厚かったに違いありません。絵に描いたような好青年だったのでしょう。しかし、彼の生き方は「足し算の生き方でした」。小さい時から様々な決まりを守り、掟を破るようなことはありませんでした。人に親切にすることを心がけ、慈善の業や寄付などもできる限り行ってきました。私たちのだれよりも善い行いを実践してきたに違いありません。
 しかし、この青年にとって「たくさんの財産」は彼の拠り所であり、彼の生き方の土台となっていました。たくさんの財産があるせいで、神に完全に信頼して歩むことができませんでした。立派な行いを積み重ね、敬虔な思いを持ちながらも、自分を神さまに明け渡すことができなかったのです。意識してなかったかも知れませんが、財産を最後の拠り所としていたのです。そのような土台の上に、
いくら善い業や敬虔な思いを足していったとしても、それは空しいことなのです。
神さまとその人の間にある距離を縮めることはできません。いくら足し算で高く積んでいっても、神さまのもとに至ることはできないのです。信仰の世界は、足し算で生きることよりも、引き算で生きていくことが大切です。自分が拠り所としてきたものを、一つ一つ自分の手から放していく。地上において自分をこれまで支え、誇りとしてきたものを一つ一つ引き算していく。財産や学歴、地位や才能といった地上のものを、最終的な拠り所としない。神から来る永遠の命、神から来る喜びや生きがい、幸福感は、引き算で生きていく中で、私たちにもたらされるものなのです。
 ご存じの方もあるかも知れませんが、星野富弘さんという方がおられます。この方は、群馬県で中学校の体育の先生をしておられましたが、鉄棒の模範演技を生徒に見せている時に落下し、首から下の自由を失ってしまいました。しかし、ご家族の導きがあってクリスチャンとなられ、信仰によって生きる力を与えられました。その星野さんは口に絵筆をくわえて花の絵を描き、その側に詩を書いて添えておられます。そのようにして何冊もの絵と詩からなる本を出され、多くの人たちに慰めと平安を与えてくださっています。
 その絵を添えた詩の中に、「たんぽぽ」という詩があります。こういう詩です。
「いつだったか/君が空を飛んで行くのを見たよ 風に吹かれてただ一つのものを持って/旅する姿がうれしくてならなかったよ 人間だってどうしても必要なものは/ただひとつ 私も余分なものを捨てれば/空をとべるような気がしたよ」 
 星野富弘さんは、確かに身体的には、首から下の自由を失ってしまいました。
それはどんなに大きな苦しみであり、試練であったことでしょう。星野さんは地上にある色々なものを手放さなくてはなりませんでした。自分が頼りとし、誇りとしていたものを、有無も言わさない仕方で引き算されていったと言えるかもしれません。けれども、イエス・キリストへの信仰を通して、星野さんは神さまに自分を明け渡すことができました。それは星野さんにとって、必要なただひとつのものであり、自由と喜び、生きがいと平安をもたらすものであったのです。
◎数字の計算をして、どんどん引き算をしていくと0(ゼロ)という数字になります。0(ゼロ)は何もない状態を表しているように見えます。ところがこの0(ゼロ)という数字は、大変興味深い数字です。0(ゼロ)のままならば、それは何もないことです。ところが、0(ゼロ)を他の数字の横に置いてやればどうなるでしょうか。たとえば、1の横に0(ゼロ)をならべれば「10」になります。0(ゼロ)のままならば何の意味もないのに、他の数字のそばに並べれば、他の数字を何倍、何十倍にも大きく豊かにすることができるのです。0(ゼロ)は何もないことではなく、他を生かす無限の力を持っているということなのです。
 今、私たちの生きている世界、生活している社会は、大きな試練に見舞われています。日々生きるということに、生きづらさや苦しみ、疲れや空しさを抱えておられる方々が、どんなに多くおられるかと思います。そうした社会にあって、政府や地方自治体による様々な施策が必要であることは、言うまでもありません。同じ時代に生きる者たちが、生きている場所や状況を超えて連帯し、助け合うことも同じくらい重要です。地上に生きている私たちができること、しなければならないことは数多くあるでしょう。
 しかし、それと同時に私たちひとり一人には、地上の世界を超えた神の世界からの命、永遠の命と言われる、神が与えてくださる喜びや生きがい、幸福感がぜひとも必要なのです。この世の善きものを足し算し、積み上げていくだけではなく、神が与えてくださる善きものに、私たちは生かされていくのです。それは
一見、数字の0(ゼロ)のように、何の意味もないように見えるかも知れません。
しかし、地上の生活において神の善きものに生かされるならば、それは私たちの地上の生き方を、何倍にも何十倍にも大きく豊かにしてくれるのです。そして、たとえ大きな困難に見舞われたとしても、神が与えてくださった自由と喜び、平安は決して奪われることはないのです。
 しかし、人は「自分には永遠の命を得ることなど無理」だと言うかも知れません。「悲しみながら立ち去る姿しか想像できない」と言うかも知れません。確かに後でなされた弟子との会話の中で、主イエスも「金持ちが天の国に入るよりもらくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言っておられます。しかし主イエスはすぐその後で、「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる」と断言されているのです。神御自身が、それを可能にしてくださるのです。
 ある牧師は、神さまの救いに至ることを、エベレストよりも高い山の頂上に登ることにたとえています。エベレストよりも高い山に、人は簡単に登ることはできません。どんなに高く登って行っても、頂上は遥か先にしか見えません。しかしどうでしょう。飛行機に乗って行けば、1歳や2歳の赤ちゃんでも、その山の頂上に到達することができます。それと同じように、どんなに高くそびえる山の頂であっても、イエス・キリストを信じ、その主イエスという飛行機に乗り込めば、だれでも救いの頂に立つことができるのです。このたとえは何度もお話していますが、話すたびに神の恵みと計らいを感じてうれしくなってしまいます。この大いなる神の恵みと計らいに、ぜひ信頼してみてください。そして、キリスト教信仰を求めて、教会の門をくぐっていただきたいと切にお祈りをしています。

9月19日礼拝説教

出エジプト記4章24~31節      2021年9月19日(日)礼拝説教
「死から生かされた者」  牧師  藤田 浩喜
◎先週の日曜日に最終回を迎えたテレビのドラマに、鈴木亮平さん主演の『東京MER』という番組がありました。詳しいことは省略しますが、主人公は救命救急医師のチーフです。彼は以前、ある国際的なテロリストの命を救います。しかし一命を取り留めたテロリストは、主人公に「先生、わたしを助けたことを必ず後悔させますよ」と言い残して別れるのです。それから数年後、テロリストは日本に来日し、東京都内の何か所で爆破事件を起こします。そしてその事件が進行している最中、主人公の医師の最愛の妹に近づき、主人公への贈り物だと偽って爆弾を渡し、無残にも最愛の妹を爆死させるのです。その後、テロリストは主人公にメッセージを寄せます。「『先生、わたしを助けたことを必ず後悔させますよ』と言ったでしょう。あなたは私を助けるべきではなかった。先生のような正義感やヒューマニズムでは、この世界はよくなりません。この世界は不条理なんです。
もっと徹底的なことをしなければ、この世界は変わらないんです。」
 このテロリストの言葉は間違っていると思いますが、考えさせられるところがあります。今激動の最中にあるアフガニスタンのことを考えても、イスラム国のアジトをアメリカが報復攻撃して、それが間違いで、関係のない多くの市民や子どもたちが死傷したと伝えられています。アフガニスタンのために灌漑施設を作ろうと奮闘した中村哲医師の肖像看板が、タリバンのスローガンを伝える文章に差し換えられてしまいました。そうした出来事を見聞きする度に、この世界の不条理さや不可解さを感じずにはおれないのです。確かにこの世界は、不条理なこと、不可解なことで溢れています。神さまの御心がどこにあるのか、分からなくなってしまいそうなことがよくあります。しかし、不条理や不可解な現実に呑み込まれてしまうのではなく、それにもかかわらず神さまに問い続け祈り続けることが、私たちには求められているのだと思います。
◎さて、今日司式長老に読んでいただいた出エジプト記4章24~31節の前半も、大変不可解な箇所です。主なる神は言葉の限りを尽くしてモーセを説得し、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放する指導者として立てることに成功します。彼はミディアンの地を離れて、エジプトに向かって出発するのです。
 ところが、24節でこう報告されているのです。「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。」苦労して出エジプトのリーダーとして立てたモーセを、あろうことか主なる神が殺そうとされたというのです。しかし、モーセの妻であるツィポラが、夫の危機に気転をきかせます。彼女はモーセのために次のようなことをしたのです。25~26節です。「ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、『わたしにとって、あなたは血の花婿です』と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに『血の花婿』と言ったのである。」モーセとツィポラの間には男の子がおりました。その長男である息子の性器の包皮を、ツィポラは石刀で切り取り、それをモーセの両足に付けました。触れさせたということでしょう。ツィポラが長男にしたことは、後の時代のイスラエルにおいて、生まれて8日目に行われた割礼であり、神の民の一員となったことを示す儀式でした。その神の民の一員となった長男の包皮、血で被われていたに違いない包皮に触れることによって、モーセは死を免れたというのです。
 この不可解な出来事は、いったいどういうことなのでしょう。主なる神はせっかく立てたモーセを、なぜ殺そうとされたのでしょう。モーセがあまりにも頑なに神からの召しを拒んだので、その責任を取らせようとなさったのでしょうか。しかし、そんな形でモーセを罰するなら、イスラエルの叫びを聞いてエジプトから脱出させようと考えられた神のご計画が頓挫してしまいます。今日の箇所はそういうわけで、旧約聖書における最も解釈が難しい箇所と言われてきました。
 しかし、ある注解者は次のような重要な示唆を与えています。「出エジプト記の最初の数章は…しばしば後の章句の予型になっている」(T.E.フレットハイム)というのです。つまり、出エジプトの最初の方に書かれていることが、後に神の民イスラエルに起こること、経験することの予告のような働きをしているというのです。そのように考えると、思い浮かぶのは出エジプト記12章の「過越し」の出来事ではないでしょうか。エジプト王ファラオは、度重なるモーセの説得にもかかわらず、イスラエルの民がエジプトから出ることを許しませんでした。様々な災いに見舞われて、一度は「許そう」と言うのですが、すぐに約束を反故にしました。とうとうエジプトには、人間の子から動物の子に至るまで、その長子・初子が撃たれるという災いが襲います。ただ、小羊の血を鴨居や門柱に塗ったイスラエルの家だけが、その災いを免れます。小羊の血を塗ったイスラエルの家だけを「過ぎ越された」ことから、人々は後にこの出来事を「過越しの祭」として祝うようになります。いずれにしても、エジプト人の長子・初子の死に見舞われて、ファラオはついに、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトを出ることを容認します。出エジプトのためには、血の贖いが必要だったのです。つまりこういうことです。モーセが彼の長子の血によって救われたように、イスラエルの民もエジプト人の長子の血によって救われることになるのです。そのやがて起こる出来事を、今日の記事は予め示しているというのです。
 しかし、今日の出来事はさらにもっと先のことをも、予示しているのではないでしょうか。神の長子であられる御子イエス・キリストの贖いが、ここには予示されているのです。今日司式長老に新約聖書マルコによる福音書15章33~34節を読んでいただきました。ここはご存じの通り、イエス・キリストが十字架にかけられ、まさに死を遂げようとされている場面です。神の御子イエス・キリストは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれました。神の長子であるお方が、神に見捨てられた。それがイエス・キリストの十字架の死でありました。主が十字架で流された血潮。この贖いの血が流されることによって、私たちの罪が赦され、救われたのです。この贖いの血にあずからなければ、私たちは滅びてしまうしかなかったのです。その意味で長子の血の贖いによって救われたモーセは、私たちひとり一人のことでもあるのです。
◎それにしましても、やがて出エジプトの英雄となるモーセは、ミディアンの地で結婚した妻ツィポラの気転によって、死を免れることができました。皆さんもお気づきになっていると思いますが、モーセはこれまでの人生において、何度も女性にいのちを救われ、守られてきました。その出生の時は、ファラオの命令でイスラエルの男の赤ん坊はすべて殺さなければなりませんでしたが、二人の勇敢な助産婦のおかげで、殺されずに生まれることができました。大きな声で泣くようになり、もはや母親のもとで育てられなくなり、パピルスの籠に入れてナイル川の岸辺に置いたときも、エジプト王ファラオの王女の優しさとモーセの姉ミリアムの気転によって、いのちを保つことができました。そして今日のところでは、イスラエル人ではないミディアン人の妻ツィポラのおかげで、死の危機を免れることができたのです。
 モーセは確かに偉大な指導者となり、出エジプトという大きな出来事を成し遂げました。荒野の苦難の40年もイスラエルの民を導き、約束の地カナンに到達する道筋をつけました。しかし、モーセがそのような大事業を成し遂げられたのは、彼一人の力ではありません。そこには、歴史の表舞台に滅多に登場することのないような女性たちの、いのちを失ってはならないと思う強さと優しさがあったのです。授かったいのちを何とかして守り育もうとする、女性たちの覚悟と献身の行為があったのです。
 私は今幼稚園の園長をさせていただいています。大したことはできてなくて申し訳ないのですが、毎朝登園してくる子どもたちを、副園長先生といっしょに迎えることだけはしています。毎朝、子どもとお母さんのドラマがあるのですが、お母さんたちがどんなに多くの時間と労力、何よりも深い思いを注いでおられるかを見て、頭が下がるばかりです。いつまでも甘えてお母さんから離れない姿を写真に撮って、大きくなった時に見せてあげたいと思うこともしばしばです。子どもはやがて、自分がひとりで大きくなったかのように、大きな顔をするに違いありません。それはその子がちゃんと成長した証しであり、喜ぶべきことです。しかし、一人前の顔をして成長するまでの歳月、どれだけ親や周囲の人たちの時間や労力、深い思いが注がれてきたかを、忘れてはいけないし、時々は思い出す必要があるのではないでしょうか。私たちの人生は、私たちの才能や努力だけで成り立っているのではありません。神さまがそなえてくださった多くの人たちの支えや励まし、献身がなければ、今の私たちはありません。ツィポラという一人の女性の献身は、そのことをも私たちに教えてくれるのではないでしょうか。
◎さて、モーセは神の召しを受けてエジプトに向かう最中に、主なる神によって殺されそうになりました。それは神がモーセにとって、敵となったという経験ではなかったでしょうか。実に不可解な出来事でした。私たちは創世記23章でヤコブが、エサウと再会する前日の夜、神と格闘したという出来事を思い起こします。かつて兄エサウを裏切ったヤコブにとって、エサウと再会することは容易なことではありませんでした。ヤコブには躊躇があり、なかなかエサウと再会する決心がつきませんでした。そのヤコブに神が敵対する者として現われ、この方と死力を尽くして格闘する中で彼の心は定まり、川を渡ることができたのです。
 神が敵となって現れる。モーセがした体験はきわめて深刻なものですが、そのような経験する人は、神への信頼が深い人でもあるのです。神を信じている者にとって、神は常に味方であると感じられるというなら、これほどおめでたい話はありません。しかし、神への深い信頼に生きた多くの人たちが、神が敵となって現れた経験をしています。義人ヨブは神の激しい敵対を感じ、哀歌の作者もそれを体験しました。ルターは神の試練を語っています。それは偶然ではありません。モーセやヤコブもそうであったように、信仰の道を進んで行く者は、深く進んで行けば行くほど、あたかも敵となられたかのような神と格闘する経験を、避けることはできないのです。神と格闘するまでに神の迫りを受け、神と真剣勝負で相対する経験によって、私たちの信仰は練り清められ、深められていくのです。そのよう経験を怪しむことなく、幾多の信仰の先輩たちも通って行った道のりとして、私たちも進んでまいりたいと思います。

9月12日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 1章14~18節 2021年9月12日(日)礼拝説教
「十字架の言葉は神の力」  牧師 藤田 浩喜
◎コリント教会には分裂、分派がありました。その中で、洗礼の意味を誤解する者たちがいたようです。つまり、だれから洗礼を受けたかということで、派閥意識をもつ者たちがいたのです。その意味でパウロは、コリントではごくわずかの人にしか洗礼を施さなかったことを神に感謝しています。コリントにおいて回心して受洗した者たちはたくさんいました。しかし、パウロ自身が洗礼を施した人は非常に少なかったのです。
 ある説教者は自分のお母さんが、植村正久という大変優れた牧師から洗礼を受けた。そのことを死ぬまで誇りとしていたというエピソードを紹介しています。「私は植村先生から洗礼を受けた」と言うほど、植村先生のことを敬愛していた。キリストの恵みは、そのように具体的なひとりの伝道者の姿において現されます。それはその人の信仰生活を励ますものであり、大事なものでしょう。けれども、そこに潜んでいる危険をパウロはここに見ているのです。
 14節には「クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかってことを、わたしは神に感謝しています」とあります。クリスポは、コリントの会堂司であった人物ですが、使徒言行録18章8節によると、パウロの宣教によって「一家をあげて主を信じるようになった」のでした。
 ガイオは、パウロが第三回伝道旅行でコリントに滞在したとき、宿を提供し、自宅を教会として人々に開放した人です。ローマの信徒への手紙16章23節には「わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです」という言葉があり、ガイオが自宅を教会として開放していたことがわかります。
 また16節でパウロは、思い出したように、「もっとも、ステファナの家の者たちにも洗礼を授けましたが」と付け加えています。このステファナの家の人たちについては、この手紙の16章15節に「あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖徒たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました」という言葉で紹介されています。彼らはアカイア州の初穂、つまりアカイア州で最初に福音を受け入れた家族でした。
 パウロがコリントで洗礼を授けた人として挙げたのは、これがすべてでした。もっとも16節の後半には「それ以外はだれにも授けた覚えはありません」とありますから、パウロは自分の記憶に自信をもっていたわけではないようです。ただはっきりしているのは、パウロにとって、自分が洗礼を授けたか否かは、決して重大な問題ではなかったということです。自分が洗礼を授けた人を自分と結びつけて派閥を作ることなど、パウロにはおよそ思いもつかないことでした。
 パウロは必ずしも意図的に、洗礼を授けることを避けていたわけではありません。しかしコリントにおいては、洗礼を施すことを同労者のテモテやシラスに委ねていたようです。このため、パウロは数えるほどの人にしか洗礼を授けなかったのですが、そのことが、分派が起こっているコリントの状況からすれば、本当に感謝なことであったと述べているのです。
 もしパウロがたくさんの人に洗礼を施していたら、そのことによって分派が起こる危険性がありました。また、パウロ自身も、自分の弟子をたくさん作っているという批判を受ける危険もありました。パウロは意図して、自分が洗礼を施すことを避けていたわけではありませんが、結果として、それが分派を作ろうとする人の口実を防ぎ、またパウロ自身へのいわれなき批判を防ぐこととなりました。ですからパウロは、そこに神の不思議な摂理を見出して神に感謝しているのです。
◎続く17節で、パウロは自分が洗礼を施すことが少なかった理由として、次のように述べています。「なぜならキリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」パウロはここで、キリストにある自分の使命は、洗礼を授けることではなく、福音を宣べ伝えることだと言っています。パウロの使徒としての本来の務めは、福音を告げ知らせることでした。しかしこれは決して、パウロが洗礼を軽視していたということではありません。
そのことは、ローマの信徒へ手紙6章で洗礼の奥義を説き明かしていることからも明らかです。ローマの信徒へ手紙6章3節で、洗礼がイエス・キリストと結ばれるためのものであることを明らかにしています。洗礼によりキリストに結びつくことによって、イエス・キリストの死と復活が自らのものとなるのです。それほど洗礼は決定的な恵みの出来事です。
 パウロはそれを知っていました。ですから洗礼を軽視するなど考えられないことです。しかし、自らが洗礼を施すことには固執しないのです。つまり、だれが洗礼を施すかということは、まさに二次的な問題なのです。
 洗礼にとって大切なことは、キリストを通して、三位一体の神の御名によって洗礼が授けられることです。この洗礼によって、人はイエス・キリストに接ぎ木され、キリストによる罪の赦しと、聖めと、そして子とされる恵みにあずかり、さらに永遠に続くいのちの祝福を保証されます。洗礼はそれほどに重要なものです。しかしパウロは、人々を洗礼にまで導くこと、福音を宣べ伝えて、キリストへの信仰に導くことを、自らの使命と心得ていました。ですからあえて「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるため」だと語っているのです。
◎パウロは福音宣教について、さらに17節後半で次のように述べています。
「しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」
 ここで第一に気づくことは、告げ知らされるべき福音が、「キリストの十字架」の宣教として規定されていることです。福音の内容、福音の中心が「キリストの十字架」であることが改めて明らかにされています。キリストの十字架がむなしいものとなれば、福音は伝えられていないのです。とすれば、キリストの十字架こそが福音の中心であることは明らかです。それゆえ教会においては、十字架の福音こそがその中心になければなりません。教会においては、十字架の福音以上に重んじられることがあってはならないのです。
 第二に、福音の内容は宣教の仕方を規定するということです。パウロはここで、福音は「言葉の知恵によらずに告げ知らせ」られなければならないと述べています。十字架の福音という「福音の内容」が、その宣教の仕方を規定するのです。福音には福音にふさわしい提示の仕方があるのです。
 もし福音が「言葉の知恵」によって告げ知らされたなら、どうなるのでしょうか。パウロは、その時には、キリストの十字架がむなしいものになると言います。ここで「むなしくなる」と訳されている言葉は、「無になる」「無意味になる」という意味です。つまり、言葉の知恵は、キリストの十字架を無にしかねないのです。言葉の知恵に頼って福音が語られるなら、十字架が無になる。つまり、福音から救済の力が奪われることになりかねません。
 では、「言葉の知恵」とは何なのでしょうか。コリントのあったギリシアは、哲学思想や雄弁術に高い価値が置かれていた地域でした。それゆえ「言葉の知恵」とは、当時のギリシア哲学などの哲学思想で福音を説明すること、それも言葉巧みな弁舌によって説明することと言ってよいでしょう。
 しかしパウロは、こうした「言葉の知恵」と「福音の説教」を明確に区別していました。また言葉の知恵によって宣べ伝えることは、自分の使命とは関係ないと言っています。なぜなら、言葉の知恵に頼るならば、結局人々をキリストのもとに導くことができないからです。十字架のもとに導くことができないからです。
 その場合、人々がひきつけられるのは、それを語る説教者でしょう。説教者のもつ、この世の知恵と雄弁に人々はひかれていく。キリストではないものに人々を導くことは、決して福音の目指すことではありません。福音は、この世の知恵の言葉に土台を置くのではありません。この世の知恵に、この世の哲学に土台を置くなら、十字架は無力になります。ですからパウロは、「言葉の知恵によらずに告げ知らせる」と語るのです。  
◎パウロはこのことを一つの命題として提示します。それが18節です。「十字架の言葉は、滅んでいく者には愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」この言葉こそが、この手紙全体の表題だと言う人もいます。それほど重要な御言葉だと言ってよいでしょう。パウロは福音を「十字架の言葉」と言い換えています。十字架こそが福音の中心です。イエス・キリストの十字架による救いのメッセージが福音なのです。
 そしてこの「十字架の言葉」は、人間を二つに切り分けます。つまり、滅びる者と救われる者です。すべての人は、このいずれかに当てはまらざるを得ません。他にはありません。言葉を換えて言えば、十字架の言葉は、人間に決断を迫るものだということです。それを愚かと見るものは滅び、神の力と知る者は救われるのです。
 「十字架の言葉は、滅びる者たちには愚か」なものです。人間の知恵で、十字架の福音を判断すれば、それは愚か以外の何ものでもありません。自分の罪が、二千年前にパレスチナの地で十字架にかけられた一人の男によって救われると信じることが、この世の知恵、人間の理性から判断すれば、愚かと思われるのは当然です。ですから、福音は知恵の言葉に土台を置くものではないのです。十字架の言葉は、滅びに至る人々を決して喜ばせません。人間の知恵からするならば、十字架の福音は愚か以外の何ものでもないのです。
 しかし、私たちはそれを信じています。本気で、いのちがけで信じています。それはまさに、神の聖霊の業以外の何ものでもありません。聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると告白することはできません。
 そして、私たち救われる者にとって、十字架の言葉は「神の力」です。十字架の言葉は、単なる神についての知識、情報ではありません。助言、アドバイスではありません。私たちにとって、「十字架の言葉」は「神の力」なのです。
 十字架の福音は、単なる知的理解の対象ではありません。それはまさに、力あるものであり、恵みの業を実現するものです。失われていた私たちにいのちを与え、滅びに向かっていた私たちを救い出し、罪と死からの解放を与えてくれたものです。私たちの希望は、イエス・キリストの十字架にあります。十字架は、現実となる神の救いの御業です。だからこそ、この十字架の言葉を信じる者だけが、神の救いの「現実」にあずかることができるのです。

9月5日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 1章10~13節    2021年9月5日(日)説教
「心と思いを一つにしなさい」     牧師 藤田 浩喜
 コリントの信徒への手紙 一 の本論は、1章10節から始まると言われます。その本論の冒頭から、パウロがコリント教会の分争について切り込んでいくのは、そのことが腹にすえかねることだから、いち早く書いたのではありません。パウロはそのことを通して、キリストの十字架の真理を示したかったのです。その証拠にこの段落の終わりに、「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように」(17節)と記され、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(18節)と語っていることからも分かります。パウロは、私たちがよくするように、人の欠陥をつき、それを指摘し、教えただすような語り方をしません。彼らの欠陥を通してもキリストが明らかになることこそが大切なのです。それは、いま彼らの分争という痛ましい問題を述べる語り方の中にもよく現れています。
 10節を読んでみましょう。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」まずここで、「兄弟たち」と呼びかけています。「弟子たち」ではありません。ですからパウロは、自分の名によってではなく、キリストの名によって勧めるのです。
私たちがひとの欠陥を見る時、高みから説教するか、親切なお世話やきになるか、どちらかです。パウロは説教者として、キリストの権威において「命じる」のではありません。「兄弟」として「勧告する」のです。私たちはほかの人の欠陥を見る時、この気持ちが必要ではないでしょうか。
主イエスも、ほかの人の目にあるごみを取るという簡単なことも、自分の目にある大きな梁を取り除いてからでないと、それは人をさばくことになると言っています(マタイ7:1以下)。パウロは自分も一人の兄弟として、低くなって、しかもキリストの御名によって、勧めるのです。「勧める」のは「命じる」のでも「ほったらかす」のでもありません。愛をもって相手の変化、進歩を祈りつつ接するのです。
またパウロはここで、分争の知らせを受けたその情報源をはっきりさせます。「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました」(11節)。このことは案外大切ではないでしょうか。私たちは、ふつう悪いニュースのソースを知らせません。「ある人から聞いたんだけど」とか言って煙幕を張ります。そのことから、内容を自分で創作することもできれば、誤報の場合もありえます。主の教会で公明正大でありたいと願ったパウロは、私たちとは反対に、その情報源を明らかにします。そうすれば、間違っている場合、訂正も可能ではないでしょうか。
さらにパウロの態度のすばらしさは、ここで分争の原因究明や、その責任者を洗い出すことをしないことです。パウロは、いかに争いが生じ、そして誰が最大の張本人であるかを論じませんでした。彼の目標はただ一つ、分裂を終わらせることです。それゆえ、私たちは彼から分裂を引き起こした経過に関する詳しい報告を聞かないのです。
それにしても、ここでの分争は、どういう争いであったのでしょう。12節を御覧ください。「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」。それぞれをパウロ党、アポロ党とか、パウロ派、アポロ派などと呼んでもよいのかもしれません。
「パウロ」というのは、この手紙を書いたパウロ自身です。コリントの教会を開拓し、創立したひとりです。このコリントの信徒への手紙一というのが、パウロがコリント伝道を始めてからどれぐらい経ってから書かれたのかということは、必ずしも正確に分かるわけではありません。しかし、何年かは経っている。一年半しか伝道しなかった。その後に、このコリントの教会に属するようになったひともあるでしょう。色々な考えがある、色々なやり方があると。そこで、パウロ先生に信仰に導かれた人が言うのです。「私たちは創立者パウロ先生のことをよく知っている。パウロ先生はそんなことは言わなかった。そんなことは考えなかった。私たちこそ、この教会の本流を行くのだ。」
「アポロ」というのは、使徒言行録18~19章にかけて読んでみるとお分かりになりますように、どうやらパウロが伝道いたしましたそのすぐあとに、コリントの教会で ―どれくらいであるかは分かりませんけれども― 伝道したひとです。アレクサンドリアという、当時もひとつの学問の中心でありましたところで育った、彼自身が知識人で、なかなか雄弁なひとであったと考えられています。
 ただ興味深いことに、多少信仰理解において欠けているところがありました。使徒言行録18章の終わりのところには、主イエスのことはよく分かっていたけれども、ヨハネの洗礼のことしか知らなかった。つまり洗礼について十分な知識がなかったので、プリスキラとアキラ、つまりパウロのコリント伝道を助けた夫婦 ―明らかにこの二人は信徒ですけれども― 彼らがこのアポロの知識の足りないところを補ってあげたと記しています。雄弁で、おそらくその豊かな知識においても、コリントの教会のひとたちを魅惑したのではないかと思います。そこでアポロ・グループが生じたようなのです。
 それに続けて「ケファ」とあります。このケファというのはペトロのことです。主イエスの第一の弟子でありまして、エルサレムを中心として伝道したペトロのことです。このコリントの教会には、ユダヤ人もずいぶんといたようです。もしかすると、このユダヤ人キリスト者は特に、ギリシャ的な教養を持つパウロやアポロよりも、ガリラヤの漁師出身の生粋のユダヤ的な信仰を持っているペテロ先生に心惹かれたのかもしれません。あるいはエルサレムかどこかでペトロ先生の指導を受けて、このコリントの教会にやって来たひとたちがいたのかもしれません。そういうひとたちは、「パウロが何だ。アポロが何だ。私は主イエスの一番弟子ペトロ先生に教わったのだ。ペトロ先生のお考えはこうだ」、そう言って自分たちの考えを貫こうとしたかもしれません。
 そして、4番目は「わたしはキリストに」と言います。キリスト派というものがあったのだということです。それでこのキリスト派というグループについて、聖書学者の間で色々な推測が行われていますが、明確なことは分かりません。ただ、こう考えることはできると思います。「パウロだ」「アポロだ」「ケファ」だと言うが、みんなそれぞれ人間ではないか。そういう人間の権威にとりすがるなどというのはおかしい。私は誰の助けも、どの指導も受けない。イエス・キリストに直接つながっているのだ、と言う人びとがいたのではないか。これは信仰に特に、熱心だったひとたちではないかという推測さえあります。聖霊体験の豊かなひとだったのかもしれません。
 いずれにしましても、そういう様々なグループがあって、それをパウロがいさめるときに何と言ったかというと、ただ仲良くしなさいと言ったのではないのです。本当に悲しいことだ。キリストがバラバラに分けられてしまっているではありませんか。キリストがバラバラにされているということを、もう一つ別の言葉で言い換えているのでしょう。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」と言っています。他のひとのことを言っていないところが興味深いところです。私はあなたがたのために十字架につけられた救い主ではない。イエス・キリストだけだ。つまり、十字架の恵みがあなたがたみんなを生かしているのであって、そのことに気がついたならば、そんな分派行動を取るなどということはできないはずだ、と言うのです。
 さて、パウロが分争について書いてあるあることを、他の箇所からも二つ考えてみましょう。第一に、11章19節に「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかも知れません」と言っています。正しいことのためには、厳しい討論が必要であると言うのです。確かに歴史的に、教派が生まれるのは、例えばルターが出て宗教改革をしたように、誤った教えを改革したいと願ったからでした。しかし、真理のための論争と、つまり真理を目指していく論争と、自己主張、自己義認のための分争とは本質的に違います。前者は、自分の正しいと思う主張をするとともに、相手の正しさにも耳を傾けます。真の正しさには、この謙虚さが必要です。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(Ⅰコリ8:1)のです。
 次にパウロはここで、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)と言って、一致を勧めます。ただここで言う「心を一つにし思いを一つにして」は、すべてを上から統制する絶対主義、専制主義ではありません。コリントの信徒への手紙 一 12章で、それをパウロはからだにたとえて説明しています。からだは一つでも多くの部分があります。これはモノトーンではありません。ユニゾーンでもありません。コーラスです。多くの音声部がありながら、ひとつにハーモニーしているのです。
 9章19節以下では、彼はこのことをこう説明します。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。……弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてものになりました。何とかして何人かを救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが共に福音にあずかる者となるためです。」
 それは、時計の振り子にたとえられるでしょう。振り子が自由に動くのは、一か所しっかりと、本体につながるところがあるからです。ただその一点は、自由に動くようになっています。この支点こそが、福音でありキリストなのです。キリストにおける一致があれば、いや一致があるからこそ、振り子のように、自由に動くことができるのです。ですから、「勝手なことを言わず」と言っても、みんなが同じことを語るのではありません。互いに違いながら、一点につながって自由なのです。自分は誰々につくという分派争いは、福音とはおよそ遠いものです。それは、言ってみれば偶像礼拝にすぎません。なぜなら、パウロもアポロもケファも、いわばキリストの使者にすぎません。使者がキリストの位置に祭り上げられれば、偶像礼拝になってしまうでしょう。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリ3:6)。このことをいつも忘れないで、歩んでまいりたいと思います。

8月29日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 1章4~9節   2021年8月29日(日)説教
「神は真実な方です」   牧師 藤田 浩喜
◎1章1節から3節の挨拶に続き、4節でパウロは神の恵みに対する感謝を記しました。そして5~7節には、その恵みが具体的に語られるのです。
 「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」(5節)。コリントの信徒たちは、キリストにあってすべての点で豊かになりました。すべての点で富める者となりました。豊かな霊的いのちが溢れているというのです。
 ここでパウロは特に二つの点を取り上げています。それが「あらゆる言葉とあらゆる知識」ということです。特に、言葉と知識において豊かになっているとパウロは言うのです。「言葉」とは、コリント教会の人たちが語る言葉の力、真理を語る言葉の力、伝えるメッセージの豊かさということです。「知識」というのは、真理の把握のことです。知的な理解、真理の明確な理解、それを把握する力。その点において、コリント教会は特に優れていたのです。
 パウロはこの「言葉」と「知識」の豊かさは、神によって特にコリント教会に与えられた恵みだとしています。パウロがあえてここで「言葉と知識」を取り上げているのは、コリント教会におけるこの優れた点が神の恵みによるものであることを、彼らに確認させるためであったと思われます。
 言葉と知識の豊かさは、コリント教会の特徴であり長所でした。ギリシア人のもっていた知的な資質が、御霊によって聖められて、豊かなものとして実を結んでいたのだと思われます。しかしこの長所が、同時にコリント教会の問題にも繋がっていました。それは、彼らがその言葉や知識を誇る傾向を持っていたことです。しかしパウロはここで、これらがすべて神の賜物であることを強調することによって、神にのみ栄光を帰すように促しています。
 コリント教会の持っている言葉と知識の豊かさを、パウロは神に感謝しました。このことは改めて、私たちの信仰における知的な面の大切さを教えていると言えます。真理を言葉として把握し、それについての明快な理解をもち、それを語る力をもつ。それが、私たちの信仰にとって非常に重要なのです。
 日本においては、一般的に、宗教は非常に情緒的なものとして考えられがちです。言葉による理解、知的な理解、論理というものはあまり位置を占めません。仏式の葬儀や法事で長々とお経が読まれるのを聞くことがありますが、参列者にその内容が理解されることが期待されているわけではありません。般若心経の解説を読んだことがありますが、そこでは崇高で興味深い思想が語られています。しかし、それを理解することが期待されているわけではないように思えます。
 しかし、私たちの信仰はそうであってはなりません。キリスト教信仰にとって、言葉と知識は非常に大切です。何を信じているかということを、言葉で説明できなければなりません。なんとなく、漠然と信じているというところにとどまっていてはならないのです。基礎的な聖書の教え、救いの道筋を理解していなければなりません。福音の真理を言葉で把握し理解する。そしてそれを語れるようになることが大切です。
 ペトロもその第一の手紙の中で、「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(3:15~16)と命じました。
 聖書の学び、教理の理解はその意味でも重要です。しかし、学びにおける知識が「自分の言葉」にならなければ意味がありません。自分が深く信じていることと自分の言葉が乖離しない。そのような言葉にこそ、力があるのです。そのような言葉でなければ、言葉には力はありません。ペトロが命じたのは、そのような言葉を語れるようになりなさい、ということです。
◎続いてパウロは、コリントの信徒たちが受けた神の恵みとして、6節で次のように語っています。「こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので」す。
 パウロがコリントで行った宣教、すなわち説教は、まさに「キリストについての証し」でした。そしてその福音が、コリントの信徒たちにおいて確かなものとなりました。揺るぎないものとして確立しました。語られた福音が、そして聞かれた福音の言葉が、御霊によって一人ひとりの心の内で深い確信となり、そして教会としても深い確信として確立したのです。キリストの証しである福音が、教会に揺るぎないものとして根を下ろした。パウロはそれを神の恵みとして、第2に挙げているのです。
 そして、7節にあるように、「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けることがない」ようになりました。「賜物に何一つ欠けることがない」というのは、完全であるということではなく、なくてはならないものがすべてあるということです。キリストによって与えられる霊的な賜物が、すべて備わっているということです。欠けるところがないのです。
 ここで心に留めるべき大切なことは、パウロはこの霊的賜物に満たされることを、キリストの再臨待望と結びつけていることです。7節には「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」とあります。賜物に何一つ欠けるところがないことが、キリストの現れを待ち望むことと結びついているのです。豊かな賜物に満たされて、その現状に満足するのではありません。その現実にとどまってしまう、固執してしまうのではありません。霊の賜物に満たされることは、キリストの再臨待望に結びつくのです。
 これは、霊的な賜物が本来もっている性質から導き出されることです。というのは、現在、私たちに与えられている霊的な賜物は、将来あずかることが約束されている神の国の祝福の前味だからです。私たちは今、神の恵みを理解し、それを喜ぶことができますが、その理解もキリスト再臨の時には完全なものとなり、より大きな喜びに包まれます。私たちには今、神に感謝し、神を礼拝する思いが与えられていますが、その神への感謝と礼拝も、かの日には、より豊かで完全なものとなります。私たちに今与えられている霊の賜物とそれによる喜びは、将来与えられる神の国の栄光とそれにあずかる喜びに結びついているのです。
◎7節で恵みの賜物は将来の保証であることを示したパウロは、その確かさを8節で明言しています。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者としてくださいます。」
 キリストは、コリントの信徒たちをあらゆる点で豊かにし、また何一つ欠けるところがないように賜物を与えてくださった方ですが、そのキリストが最後まで、彼らをしっかり支えてくださるのです。
「主イエス・キリストの日」とは主が再び来られる日、再臨の日のことです。そのときに、キリストのものとされている私たちは「非のうちどころがない者」とされます。罪や汚れについて、もはやまったく非難されるところのない者とされます。義人と認められ、受け入れられます。救いの完成の時を迎えるのです。
 その完成のときまで、イエス・キリストは私たちをしっかり支えて下さいます。
この地上の生涯の終わる時まで、そして主イエスと出会うその時まで、しっかりと支えられます。
◎パウロは以上のことが空しい希望でないことを明らかにするために、9節で希望の根拠を明らかにしています。それが「神は真実な方です」という言葉です。
 どんなにすばらしい祝福の約束であっても、それが確かなものでないならば、祝福の言葉に実質はありません。確かでなければ空しいものです。そしてその確かさの根拠が、確かな方のもとになければ、確かとは言えません。
 祝福の言葉がどんなに豊かでも、その祝福の確かさが私たち人間にかかっていると言われたらどうでしょうか。本当に祝福は確かと言えるでしょうか。私たち人間はだれでも弱く、惨めな存在です。外からの誘惑や危険もあります。罪の力は強いものです。状況に左右される弱さも持ちます。私たちは決して堅固ではありません。揺れ動く存在です。
 そんな私たちに確かさの根拠が求められるなら、私たちは神の祝福を受けることについて、安心することはできないでしょう。あなたの信仰が立派でなければ神の祝福は与えられないと言われたら、正直に自らを省みる人は、だれ一人心安んじることはできないのではないでしょうか。
 しかし、神は真実な方です。神がその祝福の確かな保証なのです。神の側に、祝福の保証があるのです。ですから私たちは、そこに確かな希望を置くことができます。パウロはフィリピの信徒への手紙の中でこう述べています。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(1:6)。
 神が始められた救いの業を、神ご自身が最後まで成し遂げてくださる。途中で投げ出されることはありません。私たちを召してくださった神は、最後まで私たちを支えてくださいます。イエス・キリストの再臨の時、主とお出会いする時まで、確かに私たちを守り、導いてくださいます。私たちが自分の力で、努力でそれを実現するのではありません。真実な神がそれを実現してくださる。神の真実がそれを成し遂げてくださるのです。
◎最後に、9節の後半の御言葉を見ておきます。「この神によって、あなたがたは神の御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」このような真実な神がコリントの信徒たちを召して、主イエス・キリストとの交わりに入れてくださいました。神の召命が目指すものは何か。それが「イエス・キリストとの交わり」なのです。つまり、キリスト者になるというのは、イエス・キリストとの交わりに入るということです。主イエスとの霊的な豊かな関係をもつ。その交わりの祝福にあずかる者となることです。
 と同時に、この「交わり」と訳されている言葉は、「共に分かち合う」という意味も持っています。ですから、「イエス・キリストを共に分かち合う交わり」の中に入るということも意味します。つまり「主イエスのいのちを分かち合う共同体」に入るということです。聖書的な信仰は、共同体として共に信仰に生きるという点に特徴があります。ですから、教会が本質的に重要な意味を持つのです。私たちは、「私の神」と呼ぶことのできるお方を知ると同時に、「私たちの神」として共に主を仰ぎ、共に主を礼拝して信仰の歩みをします。共に主の再臨を待ち望みつつ歩みます。そこにキリストの教会があるのです

8月22日礼拝説教

出エジプト記4章10~17節      2021年8月22日(日)礼拝説教
「一人の力によってではなく」  牧師 藤田 浩喜
 8月12日(木)から1週間夏期休暇を頂きましたが、その期間中に1本の映画を観ました。『アウシュヴィッツ・レポート』という作品です。この映画は事実に基づいた作品で、1944年4月ナチス・ドイツの絶滅収容所であるアウシュヴィッツ・ビルケナウから、スロバキア人のアルフレッドとヴァルターの二人が脱走します。その目的は、日々多くの人々がガス室で殺されている過酷な収容所の実態を外部に伝えるためでした。二人は三日間、収容所内の資材置き場に掘られた穴に身を潜めます。そして収容所内の混乱に乗じて脱走に成功し、国境を目指して森の中を進んで行くのです。約1週間、ひどい空腹と闘い、ケガをした右足を引きずって、進んで行きます。そして親切な地元の女性の助けもあって赤十字に助けられ、収容所の実態を克明に記した「ウルバ=ヴェツラー・レポート」(通称アウシュヴィッツ・レポート)を提出します。そしてしばらく時間はかかりましたがこのレポートは連合軍に報告され、12万人以上のハンガリー系ユダヤ人がアウシュヴィッツに強制移送されるのを免れたのでした。
 この事実に基づく映画には多くの心に突き刺さる場面が出てきますが、その一つは、アルフレッドとヴァルターという二人の青年が、幾度も訪れる危機を励まし合い、支え合って乗り越えて行く様子です。収容所内でもう少しで見つかりそうになる危機の中で、言葉を掛け合うことによって、どうにか冷静さを取り戻すことができました。また、片方が足にケガを負ったときも、もう一人が手当てをし、肩を貸して歩くことによって、前に進んで行きます。一人であったらおそらく絶望してしまったと思いますが、二人であったことによって希望を持ち続けることができたのです。一人ではないということが、大きな力を生み出したのです。
 さて、今日司式長老に読んでいただいた聖書の箇所は、前回に続いてモーセが主なる神によって召命を受けた箇所です。神は、「どんな時にもわたしがあなたと共にいる」とモーセを励まします。「あなたを離れることは決してない」と約束されます。しかし、それを聞いてもモーセは首を縦には振りません。それどころか召命から免れようと、次のように言うのです。10節です。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもはやりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」モーセは自分が口下手で、人と交渉したり人を説得したりできないので、召命に答えることはできません、と言います。主なる神は怒りを発することはなさいましたが、モーセの言い分を受け止めて、彼の兄であり雄弁な人であるアロンを一緒に行かせようと約束されます。モーセはそれを聞いて、しぶしぶではあったでしょうが、主なる神の召命に応えることになりました。モーセは一人ではなく、アロンと二人で進んで行くことになったのです。しかし、今日の聖書の箇所は私たちにどのようなメッセージを語ろうとしているのでしょう。もう少し詳しく今日の聖書箇所を読んでいきたいと思います。
 まず先ほど申したように、最初モーセは「自分は口が重く、舌の重い者なのです」(10節)と言って、主なる神の召命を拒もうとします。ある注解者たちは、モーセは単に口下手であったのではなく、吃音であったのではないかと推測しています。それは主なる神が、11節で次のように答えておられるからです。「主は彼に言われた。『一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳をきこえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか』」。このように11節で神は、身体的障がいについて中心的に語っておられます。ですからモーセが吃音であることも十分に承知しておられたに違いないと言うのです。
 しかし、神はモーセのそのような言語能力を知りつつも、12節のように言われるのです。「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたの語るべきことを教えよう」。神はモーセの吃音をご存じでしたが、モーセの言語的障がいを矯正しようとはしません。ここには、神の外科的治療は見られません。なぜならば、モーセが神の言葉を他者に伝える時に、たとえ彼が吃音であっても、神はご自身の御業をなすことがお出来になるからであります。
 今日の4章11~12節は、主の御業への「神の召し」について重要なことを語っています。それは何か。神は神の民の中で欠けのない人物を指導的地位に召し出すのではありません。神は人々を「あるがまま」で、任務へと召し出されるのです。もちろんこれは、人間の賜物など神にとってどうでもいい、ということではありません。人々が持っている賜物は、神にとっても、神がなさろうとされる御業にとっても、重要な意味を持っています。しかし、一人一人の人生の中で働かれる神の御業は、その人が持つどんな賜物をも踏みつぶすことなく、神はそれにもかかわらず、その人にしてほしいと願うことをさせ給うのです。
 主なる神はモーセの吃音をご存じでしたが、それを治すように言われませんでしたし、神ご自身が治そうともされませんでした。口が重く舌が重いことは、神には問題ではありませんでした。それよりも神は、ご自身の召命にしつこく抵抗し続けるモーセの粘り強さに注目されていました。神はそこに、モーセが真の指導者としての資質を持っていることを見抜き、モーセを選ばれたのです。口が重く舌が重いことは、モーセの口と共にあろうとされる神にとっては些細なことでした。そして神は、モーセの賜物が何であるかを十分知っており、そのゆえにモーセを選んだのであります。
 私たち一人一人も、キリスト者として召命を受けております。一人一人が務めの種類は違っても、神の御業に仕えるために召されています。私たちは、託され与えられた務めに、とても自分は耐えられないと思い悩んでしまうことがあります。モーセのように口が重く、話すことが苦手だと思うこともあります。多くの人たちの声を聞き、まとめていくことなどできないと思います。他の人に寄り添って、その人に声をかけたり配慮したりすることなどできないと思います。勿論人には適性というものがあり、それを全く無視することはできません。また自分には、神さまの御業に仕えるための賜物が少しでもあるだろうかと考え込んでしまうこともあります。しかし、神さまは私たちの持っていない賜物ではなく、持っている賜物に目を向けておられます。神さまは欠点の無い者をお用いになるのではありません。神さまはあるがままの私たちが持っていて、私たち自身が気づいていない賜物をよくご存じです。神さまは私たちの賜物が何であるかを十分ご存じの上で、それぞれにふさわしい務めに私たちを召されるのです。
 さて、モーセは主なる神が「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたの語るべきことを教えよう」(12節)と約束されたにも関わらず、召命を受け入れることができませんでした。彼は頑なな態度をあらためず、「ああ主よ。どうぞ、だれか他の人を見つけてお遣わしください」と、召命から逃れようとしました。これには主なる神も、怒りを表わされます。しかし怒りつつも、モーセの訴えに耳を傾け、モーセの悩みを解消する提案をなさるのです。14~16節です。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる」。
 主なる神はモーセの頑なな応答をお聞きになって、第二案を用いざるを得なかったのです。神にとってモーセの代わりに語る人としてアロンを用いることは、この派遣を遂行する最善の方法ではありませんでした。明らかに神は、この選択を喜んではおられません。実際、アロンを出エジプトの指導者にすることによって、後にモーセが十戒を受けるためにシナイ山に登っていた時、アロンは民の要求に抗しきることができず、偶像である金の雄牛を作るという大きな罪を犯してしまうのです。しかしここで神は敢えて、アロンを立てることでこの状況を乗り切られるのです。
 しかし、そのことによって神とモーセの関係が変わることはありませんでした。神がモーセに当初期待していた役割も、最終的にはモーセ自身が担うことになります。4章15~16節でアロンについて描かれた計画は、後の物語では遂行されません。モーセは結局自分で語ることになり、アロンは出エジプト記のクライマックスである13~14章の中で、どこにも姿が見当たりません。このように、アロンがモーセに代わって語るという第二案は、あくまで暫定的な措置であることが分かります。そして、モーセ自身の成長と経験も相まって、神が当初計画されていたことが、計画通り実現することになるのです。
 ここに私たちは、神さまがその御業を柔軟に進められること、それにもかかわらずご計画を最後まで貫かれることを知らされるのです。私たち人間は時としてモーセのように頑なですが、神さまは人間の頑なな態度によって挫折させられることはありません。神さまは人間の状況において今可能なものを受け入れられることができ、またそれを用いて御業を進められます。そして、それが当初想定された道を通るものでなかったとしても、神さまのご計画はその御心に完全に合致して形で、実現していくのです。モーセが神の御心を受け、神の口となることは変わりません。また、神が望まれたように、モーセは神の与えて下さった杖によって、しるしを行います。モーセに与えられた本質的な使命と務めは変わりません。しかしそれに加えて、モーセには共に神の御業のために働くアロンという同労者が与えられるのです。労苦と喜びを分かち合う存在が与えられたのです。
 今日の説教の初めに、二人の青年が共に脱走したことによって、困難に耐え抜くことができたということをお話しました。絶望的な状況にあっても希望を失わなかったと申し上げました。しかし、私たちはいつも誰かと共にいるわけではありません。孤独な状況に一人置かれたり、たった一人で進んで行かなくてはならないことがあります。しかし、そのような時にも私たちは、一人ではないのです。
今日読んでいただいた新約の聖書箇所で、「…何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(ルカ12:11~12)と言われていました。そうです。私たちは祈るとき、心から求めるとき、聖霊が共にいてくださいます。聖霊が共にいて、言うべきことを教えてくださると言われるのです。私たちがどんなに孤独な状況におかれても、一人ぼっちで進んで行かなければならないときも、私たちは一人ではありません。神さまご自身である聖霊が私たちと共にいます。一緒に歩んでくださいます。これ以上、心強いことはありません。いつも祈りつつこのお方と共に、歩んでまいりたいと思います。

8月15日礼拝説教

マタイによる福音書19章16節~26節  2021年8月15日(日) 主日礼拝説教
「悔い改めと罪の赦し」   長老 福谷公伸
今日は、マタイによる福音書の聖句に思いを巡らして御言葉を聞きましょう。
19章16~26節には、青年とイエス様の会話、弟子たちとイエス様の会話が記されています。

一人の男性がイエス様に近寄り、尋ねます。
男性「先生、永遠の命を得るには、どんな善い事をすればいいのでしょうか」16節
イエス「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」17節
男性「どの掟ですか」18節
イエス「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、又、隣人を自分のように愛しなさい」18節19節
青年「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」20節
イエス「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」21節
青年は、この言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさん財産を持っていたからである。22節
そして、イエス様は弟子たちに話されました。
イエス「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」23節24節
弟子たちはイエス様の言葉を聞いて非常に驚き
弟子たち「それでは、だれが救われるのだろうか」25節
イエス様は弟子たちを見つめて
イエス「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」26節
と話された。

23節「金持ちが天の国に入るのは難しい」の御言葉に注目しましょう。
どうして金持ちは天の国に入るのは難しいのでしょうか。どうすれば天の国に入れるのでしょうか。
どうして難しいか。22節に「沢山の財産を持っていたからである」と理由が記されています。理由は、お金という財産に心を奪われているからです。お金にどんな力があるのでしょうか。「不自由のない生活」「何でも買える何でも手に入いる」「人を思いのまま動かせる」「人からちやほやされる」「自分は人より偉いと勘違いする」と言う魅力・魔力があるのではないでしょうか。お金以外にも心奪われる物に「名誉、地位、異性の誘惑など」があります。そして、財産に執着し手放す事が出来ないので、天の国の門をくぐれないのです。
天の国の門はどんな門でしょうか。三浦綾子さんの小説「千利休とその妻たち」の中に天の国の門が記されています。千利休は、現在の茶道の基を造った茶人です。織田信長、豊臣秀吉の時代の人物です。豊臣秀吉公から茶室を作る様にと言い渡された千利休は、日頃から考えている「茶の湯は宗教の世界」「茶室は神聖な場所」「茶室は畳二畳程度が良い」「茶室は人間の上下関係なく平等な場所」「茶室は信じる者たちの場所」を具現化しようと考えました。小説では、クリスチャンの妻おりきは、今日聖堂で「狭き門より入れ」の説教を聞き千利休に「天の国の門は狭き門」だそうだと話しました。すると、千利休は茶室の入り口を武士が刀をさして入れない「にじり口」にしようと考えました。「にじり口」とは、膝をまげて、腰を屈めて、頭を低く下げないとくぐれない茶室の入り口で縦横約60センチです。振袖に福良帯をしめた若 い人が、にじり口をくぐる時ふっくらと盛り上がった福良帯が入り口に引っ掛かる事もある小さな入り口です。頭を低く下げて茶室に入り頭をあげますと畳2畳の空間が広く感じ、炭火の温かさ、外からのわずかな光、お香の薫りが独特の雰囲気を醸し出します。そして、コロナ禍で今はできませんが「お濃茶」のお点前があります。濃い茶をひとつの茶碗に入れ3~4人でまわし飲みします。スペイン風邪が流行した100年前に、お濃茶をひとりずつ頂ける様に茶碗を4個盆にのせ一人一人に振る舞う作法が生まれました。これは裏千家第13代家元園能斎鉄中が考案された「各服点」(かくふくだて)です。コロナ禍のいま、茶道界では注目されています。
さて、武士にとって刀は武士の魂、身から離すことの出来ない大切な物です。今までの茶室では武士は当たり前のように刀を帯にさして入っていました。このにじり口では武士は刀を帯から外し、頭を下げてくぐるので「茶室での人間関係は平等」「茶室は神聖な場所」という千利休の考えが実現します。この時おりきは「目には見えない心の刀」も帯にさして茶室に入れない。と話しました。「心の刀」とは、人を傷つける想いや言葉。例えば「そしり、侮り、無慈悲、傲慢、嫉妬」ではないでしょうか。又、人間は、いつも楽な方向を向いてしまいます。「急な階段より緩やかな階段」「階段よりエスカレーター」そして、「狭い門より広い門」を選択します。イエス様は「狭い門から入りなさい」と勧めておられます。狭い門をくぐる時は、心の刀を帯から外し膝をまげ腰をかがめ頭を低く下げて、誇るべき物・自慢する物を待たず、只、信仰を抱いて我が身ひとつでくぐりたいものです。

改めて問います。「どうすれば天の国の門をくぐれるでしょうか。」財産に執着する人は、いろんな物が身にまとわり心も自己中心で腰が曲がらず頭が高い。「自分は周りの人たちのお陰で生活している」と考える柔和な人は、物事に執着せず何事にも柔軟で感謝し腰は低く頭も低い。こう考えると頭の低い人は天の国の門をくぐれると思いますが、それだけでは門をくぐれなさそうです。マタイによる福音書7章13節14節に「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、そのみちも広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、そのみちも細いことか。それを見出す者は少ない」と人間は天の国の門をすぐに見つけることが出来ないと聖書に記されています。人間には導き手が必要です。19章26節、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」人間は神様に導かれて初めて天の国の門にたどり着くのです。

もし、お金に心奪われた人間からお金がなくなればどうなるでしょう。何一つ不自由なかった安定した生活から不安な生活。欲しい物が直ぐに買えたのに買えない。人は思いのまま動いてくれない。自分の周りに人が沢山集まったのに誰もいない。と180度変わった生活となり不安が積もり眠れない日々が続くでしょう。「お金持ちが財産を使い切る」で思い出すのは、「放蕩息子」です。父から分け与えて頂いた財産を放蕩の限り使い尽くし無駄遣いをして何もかも使い果たした時、ひどい飢饉が起こり食べ物に困り父のもとに、帰ります。息子は父に言いました。「お父さん、わたしは、天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と『悔い改め』の告白をしました。そのことによって神様は息子の罪を赦し、父は「息子が死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかった」と息子を憐れみ迎えました。

最初の質問「金持ちは天の国にどうすれば入れるでしょうか」
放蕩息子の様に『悔い改め』が大切ではないでしょうか。悔い改めは神様に向きを変えて方向転換することです。「悔い改め神様から罪の許しを受け、神様がいつも私と共におられ、共に喜び、共に悲しみ、共に楽しむ。私の過ちを悔い改めると赦してくださる神様の憐れみに気づき、神様に委ねて生きる」そのことによって天の国に入ることが出来るのではないでしょうか。

聖書では「金持ちの青年は、悲しみながら立ち去った。」で終わっています。しかし、神様の掟を知っている青年ですから、「自分は神様に顔を向いていたと思っていたが、実は神様に背を向け財産に顔を向けていたと気づき、悔い改めて罪の赦しを得て神様に心を向けて生活した。」と聖書の話しが続いていると信じたいものです。

天国はイエス様を信じる者に神様が与えてくださるのです。
主イエスの恵みと平和が、すべての者と共にあるように、祈りましょう。

8月8日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 1章1~3節   2021年8月8日 主日礼拝説教
「イエス・キリストは私たちの主」 牧師 藤田 浩喜
パウロは、「コリントにある神の教会」に宛てて手紙を書きました。この「神の教会」という言葉が、2節の後半で「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」という言葉に言い換えられています。
 神の教会とは何か。それは「キリスト・イエスによって聖なる者とされた」人の集まり、「召されて聖なる者とされた人々」の集まりなのです。
 この「聖なる者とされた」というのは、神のために分離されたという意味です。この世から取り分けられて、神のものとされた者、それが聖なる者です。ですから、人間は生来、聖なる者であったのではありません。私たち人間は、聖なる者として生まれてきたのではありません。むしろ、罪を負い、永遠の死のさばきに値する者として生まれてきました。その私たちが聖なる者とされたのです。
 それは何によって起こるのでしょうか。パウロははっきりと「キリスト・イエスにあって聖なる者とされた」と言っています。人が聖なる者とされるのは、ただイエス・キリストによるのです。
 イエス・キリストを離れて、人が神に受け入れられ、神のものとされることはありません。イエス・キリスト抜きに、人が神に喜ばれる存在となることはできません。ただキリストのゆえに、私たちは罪を赦され、神と和解させられました。ただキリストに結びつくことによって、私たちは義とされ、聖とされました。それ以外の手段はありません。それ以外に、私たちが救われる道はありません。キリストを離れては、永遠に繋がる実を結ぶことは決してないのです。
 パウロは、コリントの信徒たちが、神に所属する、神のものとされた人たちであることを強調しています。コリント教会には本当に多くの問題がありました。分裂があり、不道徳があり、自由の乱用があり、無秩序があり、教理理解の誤りがありました。
 宗教改革者のジャン・カルヴァンは、コリント教会のことを「神よりもむしろサタンが支配しているとでも思われる程悪徳の充満したこの人間の集団」と呼んでいます。しかしその群れをパウロは「神の教会」と呼び、さらには「聖なる者とされた人々」と呼びました。なぜパウロはこう呼んだのでしょうか。それは、この点こそがパウロの議論の土台であり、出発点であったからです。
 パウロはこの手紙の中で、具体的な多くの問題を取り上げていきます。厳しい命令や勧告もします。しかし、そうした議論ができる土台は何なのかといえば、それはコリント教会が「神の教会」であることにあるのです。
 パウロは何よりも、神における事実、神の恵みの事実を確認してから、教会改革を進めようとします。いや、その恵みの事実があるからこそ、パウロは教会を改革することに取り組むことができるのです。神にある恵みの事実を忘れて、問題だけに取り組むことをしませんでした。それでは、本当の意味で問題は解決しません。
 コリント教会は、その具体的問題を見れば、まさにカルヴァンが言うように、サタンが支配していると思えるような悪徳の充満した集団でした。しかしパウロは、この群れを起こしてくださった神の御業、人々を召してくださった神の救いの御業を忘れません。そして、その神の業が確かであることを忘れないのです。 
ですから、大変な状態にある教会をも「神の教会」と呼びました。そして、教会に対する神の変わらない寵愛を信じて、改革に取り組むことができました。
 コリント教会だけでなく、この世に存在する教会は不完全であり、多くの問題を抱えています。また、私たちキリスト者の聖化も不完全であり、それぞれにいろいろな問題を抱えていることでしょう。しかし、問題があることが本当の問題ではありません。問題に埋没してしまい、問題だけに心を奪われることが本当の問題なのです。
 パウロは決して、コリント教会の問題、その信徒たちの問題だけに心を奪われることはありませんでした。あくまで、神にある恵みの事実に立って物事を見つめていました。恵みの現実を土台として、物事に対処しようとしていました。そうでなければ、教会やキリスト者の問題が正しく導かれることはないのです。
 教会はどんなに問題があっても、貧しくても、小さくても、神が召された群れであるならば、それは確かに「神の教会」です。そしてそこに集められた者は、どんなに弱く、問題を抱えていたとしても、「聖なる者とされた人」、神のものとされた人です。その恵みの事実を確認することから、すべてのことは始まります。そしてこの恵みの事実を忘れないなら、私たちは希望を失うことはないのです。
 
2節でもう一つ、目を留めておくべきことがあります。それは「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」ということばです。ここの「すべての人と共に」は、「すべての人へ」と、宛て先と理解して訳すことも可能です。つまりこの手紙は、単にコリント教会だけに宛てて書かれたのではなく、世の中すべてのキリスト者に読んでもらうために書かれたということです。
 確かに直接には、特定の読者を想定して書かれた手紙ですが、同時に、不特定多数の読者に向けた公開書簡でもあるのです。その意味で言えば、まさに私たちの教会に向けて書かれた手紙として読むことができます。
 パウロはコリント教会を、世界の教会の交わりの中に位置づけています。コリント教会は、孤立しているのではありません。全世界の教会の一つとして位置づけています。そしてパウロは、彼らがそのような自覚をもつように促しています。すなわち、教会的交わりの一員であることの自覚をもたせようとしているのです。
 私たちも常にそのような自覚をもつことが大切です。私たちは特定の教会に召されてそこに集っているのですから、まずその教会のことを考えるのは自然なことです。しかし、自分の教会のことだけを考えればよいというわけではありません。同じ教派に属する他の教会のことも、さらには教派を超えて、日本や世界の教会のことにも心を留める必要があります。そのような大きな交わりの中に、私たちの教会もまたあるのです。
 パウロはここで、「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」と記していますが、そこに教会の本質が明らかにされています。つまり、主イエス・キリストの名を呼び求めている人々の集まりが教会なのです。旧約時代以来、神の民とは御名を呼び求める者たちでした。御名を呼び求める、すなわち神を礼拝するのが神の民であり、教会は礼拝共同体なのです。
 イエス・キリストを救い主と信じ、告白し、讃美し、感謝し、祈ることが礼拝です。そしてそのように礼拝する共同体は、すべて「神の教会」です。それゆえ、神の教会は本来一つであると言わなければなりません。私たちもその一つなる神の教会の一つの部分です。その自覚を忘れてはなりません。
 2節の終わりでパウロは「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります」と言っています。イエス・キリストは自分たちの教会の主であるだけでなく、イエス・キリストの名を呼び求めている人々すべての主なのです。
 それゆえ私たちも、全世界にいるイエス・キリストを求める人々と共に、神の教会をつくる必要があります。私たちはその視点を失ってはなりません。もちろん、自分たちの教派の伝統や歴史を大切にする必要があります。そのことは他の教派や教会でも同じです。それは、それぞれの教会の歩みを導かれた神に対する真実な応答です。ですから私たちはまず、所属する教会や教派のことを考えます。
 しかし、それがすべてであってはなりません。同時に私たちは、自分たちが、全世界にあって御名を呼んでいる者たちの一部であることを、自覚する必要があります。そしてその全体の一部として、自分に与えられているところで、主に忠実に、キリストのからだなる教会を形づくっていくのです。

1節が差出人、2節が宛名人、続く3節が挨拶文となります。パウロは言います。「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにあるように。」
 これはパウロの多くの手紙に出てくる表現です。これは、挨拶であると同時に祈りのことばでもあります。パウロは恵みと平和が与えられるように祈りました。その恵みと平和は、父なる神がイエス・キリストによって与えてくださるものです。ここで、父なる神と主イエス・キリストは区別されていますが、しっかりと結ばれています。父なる神は創造者であり、私たちを救うための計画を立てられたお方です。そして子なる神は、その父の救いのご計画に従って、この世に来られ、私たちのために救いの業を成し遂げてくださいました。父なる神と子なるイエス・キリストとの御業によって、私たちは救われたのです。そして今も、御父(おんちち)と御子は一つとなって、恵みと平和を与えてくださるお方なのです。
 「恵み」とは、神が自由に無償で与えてくださるものです。それが私たちの幸福の唯一の基盤であると言ってもよいでしょう。神の恵みがなければ、私たちに幸いはありません。この世のどんなものも、本当の意味で私たちを幸福にすることができるわけではありません。それを実現できるのは、神の恵みのみです。
 そして「平和」とは、「エイレーネ―」という言葉であり、ヘブライ語の「シャローム」にあたります。全体的・全般的な繁栄、祝福を意味します。単に争いがないということ、つまり外的な平和だけでなく、内的な平和もそこには含まれます。ある説教者が「平和こそ、すべての人間が最後に求めるものです」と語っていました。人間が最後に求めるものは平和、エイレーネ―だというのです。
 確かに、地上の生活において、人間を幸福にするものはたくさんあるでしょう。しかし、どれも一時的なものです。そしてどれも最後まで人間を幸福にできるわけではありません。最後に求めるものは、本当の平和です。たましいの安らぎと喜びです。この平和をもって生涯を閉じることのできる者こそが幸いなのです。
 そしてこの平和はただ、神から与えられるものです。イエス・キリストを通して与えられるものです。たましいの平和を脅かすのは人間の罪であり、それに対するさばきへの恐れです。ですから、罪の赦しがなければ、人は平和を得ることはできません。その平和を、イエス・キリストは与えてくださいます。その平和に生きる者は真に幸いです。パウロはだからこそ、その幸いが与えられることを祈っているのです。

8月1日礼拝説教

ヤコブの手紙5章19~20節    2021年8月1日(日)主日礼拝 説教 
「迷いの道から主のもとへ」 牧師 藤田 浩喜
 ヤコブの手紙を学んできましたが、今日で最後の回となります。ヤコブの手紙は、宗教改革者ルターによって「わらの書簡」と呼ばれましたが、今回ヤコブの手紙を学んで来て、大変中身の詰まった文書であることが分かったように思います。今日の結びの箇所においても同様です。教会共同体にとって非常に大切な教えが述べられているのです。  
 まず、5章19節を読んでみましょう。「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば」とあります。教会の中に真理から迷い出る人たちがいたら、その人たちを真理に連れ戻すことが述べられているのです。
 マタイによる福音書18章12~13節にも、「迷い出た羊」のたとえが記されておりますが、そこではこう言われています。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」(12節)。ここで使われている「迷い出た」という言葉と、今日のヤコブ書の「迷い出た」という言葉は、まったく同じです。マタイによる福音書でも、真理から迷い出て、群れから離れてしまったキリスト者が、羊にたとえられています。
 ここの「真理」をある説教者は、「人を救おうとする神の御意思であり、人に真の命を与えることのできる神の御心」と言い換えています。父なる神さまは、罪を身に負い滅ぶしかなかった私たちを救い、とこしえの命を与えるために、救い主イエス・キリストを私たちのもとに遣わされました。そうであるならば、真理から迷い出るということは、イエス・キリストから遠ざかって行くことを意味します。イエス・キリストを自分の救い主として捉えることができなくなって、キリストを見失ってしまった者のことが言われているのです。
 しかし、「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に…」と言われています。「あなたがたの中に」起こる。真理から迷い出ることは、教会共同体の誰にでも起こり得ることなのです。教会の中でキリスト者の模範であると見なされているような人であっても、真理から迷い出ることは起こるのであり、どんな信仰者も自分を安全圏に置くことはできないのです。自分の我がままな考えによってか、あるいは自分以外のところから襲って来る誘惑の力によってかは分かりません。イエス・キリストを「我が主」として信じることができなくなって、主のもとから遠く離れてしまうことが、誰にでも起こり得るのです。
 この「真理から迷い出る者」の問題は、初代教会の時代からキリスト教会が直面してきた問題でありました。マタイによる福音書の教会でも、ヤコブの手紙を読んだ教会でも、そして今日のキリスト教会においても、深刻な問題であると言わざるを得ません。それだからこそ、迷い出た人を真理に連れ戻すことが、大切な取り組むべき課題として述べられているのです。手を拱(こまね)いてはならないと言われているのです。
 「信仰」というのは、イエス・キリストによって示された神の「真理」を受け入れることです。「真理」はその人の自由な決断によって受け入れられるものであり、強制されるものではありません。たとえ、その「真理」から迷い出る人があったとしても、物理的な力や様々な圧力によってその人を引き戻すことはできません。そのようなことは間違っています。
 しかし、主イエスがご自分を捧げて示してくださった「真理」を、単なる知識や見解、観念に過ぎないと考えてしまうのは、どうでしょう。教会の中に「真理」から迷い出る人があったとしても、「それは見解の相違だから仕方がない。信仰は自由だから」と物分かりよく納得してしまうことが、ありはしないでしょうか。それは、「真理」というものを余りにも軽く考えてしまってはいないでしょうか。
 ある注解者が述べているように、「キリスト教の『真理』とは、人がそこから出発して行くものです。キリスト教の真理は単に知的、哲学的、瞑想的、抽象的なものではありません。」Ⅱテサロニケ2:10では「彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです」と言われています。「真理」は愛さなければならないものなのです。また、ガラテヤ5:7では「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか」と言われています。「真理」は従うべきものなのです。そしてヨハネ福音書8:31では「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われています。「真理」は自由を与えるものなのです。これらの箇所からも分かるように、キリスト教の「真理」は知的な認識ではなく、実行されなくてはならないものなのです。
物分かりよく、受け入れるだけではいけません。群れの中の誰かが、その人を「真理」へと連れ戻す行動を起こすよう、求められているのです。連れ戻すというのは、迷い出た者をキリストのもとに再び連れて来るということです。その人が迷い出る原因となったものを取り除くために、共に重荷を負い合い、戦うこともしなければなりません。主イエスが「帰って来なさい」と呼びかけておられることを確信して、その人と交わりを持ち続け、み言葉を運び続ける。その人を迷いから主のもとへ復帰させるために祈り続ける関わりが、誰かに求められています。ヤコブの手紙は、誰かがそれをすべきである。いや、「わたしの兄弟たち、あなたがそれをすべきだ」と、一人一人に訴えているのです。
では、「真理から迷い出た人」を連れ戻すことによって、どのようなことが起こるのでしょうか。ヤコブの手紙は、迷い出た者を主のもとに連れ戻すことができた時の喜びと祝福について、次のように語るのです。20節です。「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」そこにおいて起こる第一のことは、その罪人の魂を死から救い出すことになるというのです。
「人間は死と太陽だけは見つめられない。」これは16世紀フランスのモラリスト、ラ・ロシェフーコという人の言葉です。私たちは太陽を直接、見つめることはできません。同じように、死を見つめることもできないのです。
古代マケドニアの王フィリップという人は、毎朝、下僕たちに「死を覚えよ」と叫ばせたそうです。さらに中世のある修道院では「死を覚えよ、メメント・モリ」と、互いに挨拶したということはよく知られています。それは、人間は死すべき存在だからです。そのことをいつも思い出せ、忘れるなと挨拶したのです。
死を覚え、死を見つめて生きることは、真剣に人生を生きるものとなります。死ぬことを曖昧にし、軽視することは、生きることを軽視することなのです。死を見つめて初めて、本当の幸福というものが分かるのです。そして、人間は死に直面して、初めて神がおられること、神こそ創造者であること、審判者であることを恐れ、むしろ畏怖をもって知るのです。
しかし、多くの人は神の存在を見ようとしません。人間は死に至るものであることを知っているにもかかわらず、現代の文明は死を直視せず、死ぬべき人間が死ななくなることを目ざすような文明であると言われています。現代人は死から目を背け、直視せず、避けて通ろうとしているのです。事実、人間は死を考えたくもないし、死について考えることもできません。見つめたくても、見つめることができないのです。まさに「人間は死と太陽だけは見つめられない」のです。
キリスト者が「真理から迷い出て」しまうなら、その人は今申し上げた状態、死を直視できず、不安を先送りして、カーペットの下に隠しておくような状態に逆戻りしてしまうのです。あるお医者さんが書いておられましたが、人はある日突然、死と直面しなくてはならない状況に立たされます。何の心の準備もないまま、死を迎えなくてはならず、呆然自失の状態になってしまう人が多いと言うのです。それは想像するだけでも耐え難い状況です。
しかし、イエス・キリストが示された「真理」に留まる者は、魂の救いを得ているのです。イエス・キリストに導かれて、死の門を通って、永遠の命へと歩み出すことができるのです。ペテロの手紙 一 1章8~9節を読んでみましょう。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽せないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして、魂の救いを受けているからです。」ここにも魂の救いという言葉が用いられています。迷い出たままであったなら、望みなく生涯を閉じなければならなかったかも知れない一人の人が、主のもとに立ち帰ることによって、永遠の死から救い出されます。新しい命の約束のままに、平安のうちに生涯を全うすることができる者とされます。それが、罪人の魂を死から救うことの内実なのです。かつての信仰仲間を、不意打ちの死に直面させ、呆然自失のままに死に赴かせてはなりません。神はその人に永遠の命を約束され、永遠の滅びから彼を救い出して下さる。それが神の御心です。そしてそのみ心が実現するために、私たちは仕えることができるのです。
そして、もう一つ「罪人を迷いの道から連れ戻す人は…多くの罪を覆うことになる」(20節)と言われています。この場合、「多くの罪」とは誰の罪なのかということが、長い間、聖書学者の間で論じられてきました。迷い出た人の過去と現在の罪、そのまま放っておかれたら更に犯すかもしれない数多くの罪のことだと考える人がいます。また、その人を連れ戻す働きをした人が罪を抱えていた場合、その罪のことだという人もいます。さらには、迷い出た者が属していた群れが、その人の影響によって犯すかもしれない様々な罪のことだと、考える人もいます。
しかし「多くの罪」というのですから、そのすべてを含んでいると考えてもよいのではないでしょうか。「多くの罪が覆われる」ということは、まさしく多くの罪がそこで赦されるということです。イエス・キリストがその罪を、ご自分の体で包んでくださるゆえに、神はその罪を見るのではなく、その罪を包んでいる御子ご自身を見てくださる。そのゆえに私たちは、義と認められているのです。主のもとから迷い出た者が立ち帰って来た。その出来事を通して、その人自身の罪が赦され、それに関わった人の罪も赦され、さらにその人がそのままであれば群れ全体が影響を受けて犯すかもしれない、これからの罪も回避される。そのようにして命と救いがみなぎる交わりが、そこに生み出されてきます。そのような意味で、多くの罪を覆うことができるということが、語られているのです。ヤコブの手紙がその最後に、「このことだけは忘れないでほしい」と語る勧めのみ言葉を、私たちは心に刻みつけていきたいと思います。

7月25日礼拝説教

ヤコブの手紙5章13~18節(Ⅱ)2021年7月25日(日) 説教
「互いのために祈りなさい」 牧師  藤田 浩喜
 ヤコブの手紙5章13~18節を司式長老に読んでいただきましたが、今日はその後半から御言葉に聴いていきたいと思います。前回のところでは特に重い病の人に、教会の長老を招いてオリーブ油を塗ってもらい、祈ってもらいなさいと、勧められていました。それに対して16節以下では、祈りによるいやしと罪の赦しが教会全体に拡大されています。重い病にかかっている信仰者にだけ言われているのではなく、教会のすべての信仰者に対して言われているのです。
 まず16節を読んでみましょう。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」ここで言われているいやしというのは、肉体的な病のいやしのことだけではありません。ある注解者は「人は神に対して正しくなるまでは、魂であろうが心であろうが肉体であろうが、健康というものを知ることはできない」と言っています。私たちの生活が健やかなものとなるためには、神や人に対して罪を告白し、互いのために祈り合うことが欠かせないのです。
 その場合、「罪を告白し合いなさい」と言われています。カトリック教会はこの個所を聖書的根拠に、「告解」ということを七つの秘跡の一つとして制度化しました。「告解」というのは隣り合った小部屋に司祭と信徒が入って、信徒が犯した罪や過ちを告白し、それを司祭が聴いて罪の赦しを与えるという制度です。この「告解」の秘跡は今日も行われています。
プロテスタント教会はサクラメントを洗礼と聖餐の二つに限定しましたが、この「告解」の秘跡は手放すべきではなかったのではないか、という人もいます。カルヴァンの伝統に連なる私たち改革派教会は、礼拝の初めに「罪の告白と赦しの宣言」を行いますが、カルヴァンなどは、主日礼拝の中で罪の告白と赦しの宣言が起こるのだと、考えていたのだと思います。
それは何よりも重要なことですが、もう一方で信徒同士が「罪を告白し合う」ということ、神や隣人に対して抱いている罪の意識を正直に打ち明けて聴いてもらうこと。そして、そのような悩みを抱えている自分のために祈ってもらうということが、大切なのではないでしょうか。今日心や魂の問題を解決するために、カウンセリングという方法が盛んに用いられていますが、この技法を最初に考えたのは、バイステックという聖公会の教職であったと言われています。聖公会も典礼はカトリック教会に似ていますが、神学的にはプロテスタント教会です。聖礼典も洗礼と聖餐の二つです。「告解」はありません。しかし「告解」がない代わりに、それを補うものとして信徒同士がカウンセリングの心(カウンセリング・マインド)をもって関わっていく。互いの魂の悩みに耳を傾け、深く共感し、信仰の友のためにとりなしの祈りを捧げることが求められているのだと思います。

ところで「祈り」ということが5章13~18節の中心主題なのですが、16節の後半には「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」と言われています。ある注解者はここを、「義人の祈りが働く時には、多くをなしうるのである」と訳しています。正しい人(=義人)の祈りは、大きな事柄をなす。その祈りは、神の力と恵みが人生の困難や問題、病気を担うために与えられる通路となるというのです。
先ほども名前を出しました宗教改革者カルヴァンは、『キリスト教綱要』第三篇第二十章において、祈りについて多くのページをさいて述べています。その標題は「祈りについて、これは、信仰の修練の主要なものであり、われわれはこれ(祈り)によって、日々に神の恵みを受けるのである」となっています。「祈り」によって、日々に神の恵みを受けるのである」という言葉の中には、たいへん重要なポイントがあります。私たち信仰者が神の恵みを受けるのは、祈りという通路を通ってあり、この祈りを通してやって来る神の恵みが、大きな事柄を成し遂げるのです。
では「正しい人の祈り」という場合の「正しい人」とは、どんな人なのでしょう。ある注解者は「正しい人とは、罪を犯さない人間というのではなく、自分の罪を素直に告白し、神に従う気持ちを新たにしていく謙虚な信仰者という意味である」と述べています。また、別の説教者は「正しい人とは、道徳的、倫理的、人間的に正しい人というのでなく、自分が罪深い者であることを知り、告白している人であり、まさにキリストの救いなしには生きていけない人、見えない神の助けなしには生き得ない人のことです。また、正しい人とは、罪深いからこそ、罪を赦してくださる神と深いところで繋がり、結合している人のことです。だからねばり強い祈りの人のことでもあります」と言っています。つまり、「正しい人」というのは、自分が罪深い者であることを謙遜に認めている人、それを深く知っているがゆえに、神の助けを求めて、ねばり強く祈り続けないではおれない人。そのような人が「正しい人」と言われているのです。
詩人として何冊もの信仰詩集を出された河野進牧師をご存じの方もおられるでしょう。その河野先生が『母』という詩集の中に、「悔い」という題の詩を収めておられます。「一日の終り 最大の悔いは 祈りのたらざりしこと/一年の終り 最大の悔いもまた 祈りのたらざりしこと/一生の終り 最大の悔いもついに/祈りのたらざりしことであろう」。
祈りのうちに生きてこられた牧師の悔いは、祈りの足りないことであるというのです。私たちにもいろいろな悔いがあり、後悔があります。一日が終わり、一年が終わり、ついに一生が終わる時、最大の悔いは何でしょうか。祈りの足らないことなのです。祈らない人にとっては、祈りが足らないことなど、何のこともありません。しかし真に祈る人にとって、祈りが足りなかったということは、最も悔やまれることなのです。私たちはどうでしょうか。祈りの足りなさを実感しているでしょうか。そのように「正しい人」とは、真に祈り続けるがゆえに、自分の祈りの足りなさを心から悔いる人なのです。

さてヤコブの手紙は、「正しい人」がどのような人か、さらに例をあげます。その例として、旧約の預言者エリヤがあげられているのです。17~18節です。「エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨がふりませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。」この短い二節の中に、列王記上17~18章の長い物語が凝縮されています。
エリヤは紀元前9世紀に活動した最初の預言者で、新約時代になって、バプテスマのヨハネがエリヤの再来とも考えられたほどに、偉大な人物とされてきました。確かにエリヤは特別な存在であって、最後は「嵐の中を天に上って行った」とあります(列王記下2:11)。しかしここでは、「わたしたちと同じような人間でしたが」と釘を刺しています。エリヤを超人、特別な人に祭り上げるのではなく、私たちと同じような人間であったけれども、力ある祈りをなし得る人であったことを強調しているのです。
それでは、どのような点で「わたしたちと同じような人間」だったのでしょう。それは「熱心に祈った」という点です。これは直訳すると「祈りをもって祈った」という言葉で、祈りに祈った、祈り続けたといってもよいのです。執拗に祈ったのです。その結果、「三年半にわたって地上に雨がふりませんでした」し、「再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました」というのです。エリヤは、ねばり強く祈りました。そのエリヤと同じような人間である以上、私たち信仰者も祈りに祈り、ねばり強く祈って、大きな事をなすことができるのです。エリヤは、神に特別近い存在だから、その祈りが聴かれたのではない。一人の人間に過ぎないけれども、熱心に祈る者だったから、神に近い存在となった。したがってエリヤと同じように、祈りを受け入れてもらえる可能性が私たちにもあるのだ。ヤコブの手紙はそのように、信仰者を励ましているのです。
今日司式長老に読んでいただいたのは、列王記上18章41~46節でした。ここは3年半の干ばつが終わり、やっと大地に雨が降る場面です。エリアはもうすぐ雨が降ることを、アハブに予告します。王に神の御心の確かさを分からせたいのです。しかし、雨が降るまでには容易でない厳しい祈りの格闘があったのです。 
42~45節をもう一度読んでみましょう。「アハブは飲み食いするために上って行き、エリヤはカルメルの頂上に上って行った。エリヤは地にうずくまり、顔を膝(ひざ)の間にうずめた。『上って来て、海の方をよく見なさい』と彼は従者に言った。従者は上って来て、よく見てから、『何もありません』と答えた。エリヤは『もう一度』と命じ、それを七度繰り返した。七度目に従者は言った。『ご覧下さい。手のひらほどの小さい雲が海のかなたから上って来ます。』エリヤは言った。『アハブのところに上って行き、激しい雨に閉じ込められないうちに、馬を車につないで下って行くように伝えなさい。』そうするうちに、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出てきて、激しい雨になった。アハブは車に乗ってイズレエルに向かった。」
エリヤは雨の与えられることを信じて、真剣な祈りを捧げます。「うずくまり、顔を膝の間にうずめた」というのは、ひたすら祈りに集中する姿です。しかしエリヤが従者に「海の方をよく見なさい」と言うのですが、従者は「何もありません」と言います。空しい答えです。しかも「それを七度繰り返した」とあります。徹底的にということです。いくら祈っても、むなしい答えばかりなのです。エリヤはその都度、幻滅、意気阻喪、意気消沈しました。祈っても祈っても、「何もありません」というむなしさに直面しなければならなかったのです。これが祈る者の経験です。祈るからこそ、祈りが聞かれないという経験をするのです。
それではエリヤは、あきらめたでしょうか。そうではありません。ついに七度目に、従者は言いました。「ご覧下さい。手のひらほどの小さい雲が海のかなたから上って来ます」と。ついに、そのように言われる時が来たのです。海のかなたに、小さな雲が現れたのです。神は祈りを聞かれたのです。「海のかなたの小さな雲」。このように、正しい人の祈りが聞かれるということは、小さな雲を見つけ、それを見逃さないということなのです。その小さな雲がやがて大きな雲に成長しました。そしてその雲から、大地に実りをもたらす恵みの雨が、あきらめや絶望を超えて注がれたのです。私たちはこのエリヤのあきらめない、ねばり強い祈りの姿から、神の前に「正しい人」とはどのような人かを、さやかに示されるのではないでしょうか。

7月18日礼拝説教

出エジプト記4章1~5節   2021年7月18日(日)説教
「神の杖を与えられる」 牧師 藤田 浩喜
 第三主日は旧約聖書を学んでいますが、今日は出エジプト記4章1~5節を司式長老に読んでいただきました。出エジプト記の3~4章は、モーセの召命物語と見なすことができます。エジプトで奴隷状態に置かれていたイスラエルの民の叫びを聞かれた主なる神は、イスラエルの民を救い出すために、モーセを指導者として立てようといたします。しかし、モーセはなかなか首を縦に振りません。彼は悩みためらい、なかなか召しに応えようとしません。前回のところでは、「あなたを遣わした神さまの名は何と言うかと、イスラエルの民が尋ねたらどう答えましょう?」というのがモーセの悩みでした。彼が召命になかなか応じない姿に、彼がかつてエジプトにいた時に経験した挫折がいかに大きく深いものであったかが伺えます。そして今日のところでは、イスラエルの人々が「主がお前などに現れるはずがない」と信用してくれなかったらどうしよう、という悩みを主なる神にぶつけているのです。信用してくれなければ、自分の言うことなど聞いてくれるはずがない、と恐れているのです。
 それを聞かれた主なる神は、どうされたでしょう? 主なる神はモーセが手に持っていた杖に注目するように言います。そして、その杖を地面に投げるように言います。モーセは主の言われたとおりにします。すると、杖が蛇になったのです。主なる神はモーセに、蛇のしっぽをつかむよう命じます。モーセが言われたようにすると、蛇はもとの杖に戻りモーセの手の中に収まったのです。そして主なる神は、イスラエルの民の前でこのようにすれば、「…彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる」(5節)と言われたのです。この杖が蛇に変わるしるしをはじめとして、主なる神はモーセに、3つの不思議なしるしを行う力を授けられたのでした。

 島崎光正というキリスト者の詩人がおられました。名前をご存じの方もおられるでしょう。島崎光正さんは、生後間もなく両親と別れ、また先天性二分脊椎症のため下半身に障がいを持っておられました。しかし、そうした中で詩作をなさり、『故園・冬の旅抄』、『憩いのみぎわ』などの作品を世に問われました。また、身体障害者キリスト教伝道協力会会長を長年務められ、晩年には胎児の出生前診断(しゅっせいぜんしんだん)に対する反対運動を行われました。
 その島崎光正さんが詩集『故園・冬の旅抄』の中で、次のような詩を詠んでおられるのです。
「神様/あなたは私の足をこんなにお作りになりました/まるで曲がった根っこのようです/何かの瘤のようです/近所の子供がよく訊ねます/火傷(やけど)をしたのかい? いたずらをしたのかい?/いやいやと、私は何時(いつ)も彼等に申します。/神様、あなたがお作りになったのだと答える以外に方法がありません/私は悲しうございますけれども、あなたは松葉杖をお貸しになり/私はそれを頼りに歩きます
杖は私を運びます、人より遅く/けれども路(みち)の上を運びます/村の音楽会にも出かけます/友との別れには送ります
この杖は私にだけさずけたもうた/私にだけ、だから名札をつけません」
 この〈杖〉と名付けられた詩は、前半は神さま(あなた)と私が主語で示され、松葉杖が目的語になっています。しかし後半になると、松葉杖は「杖」に変わり、しかも目的語から主語に変化しています。貸し与えられて「それを頼りに」歩くものが、神から「さずけ」られ、私を運ぶものになっています。そこに聖なる変容が示されているのです。
 最初に申しましたように、モーセは主なる神から召しを受け、今、不安の中にいます。恐れおののいています。そのとき主なる神は、「あなたが手に持っているものは何か」と問います。モーセは「杖です」と答えます。モーセが手にしている杖は、彼がミディアンに来て、エテロのもとに身を寄せて以来、毎日使っていた羊飼いの杖です。つまり、極めて日常的なものであり、モーセ自身の手持ちの道具です。彼はことさら気にもとめずに、持ち歩いていたでしょう。しかし、大きな使命を前にして、自分の無力を見つめざるをえなかったモーセ。そのモーセが当たり前のように持っていた杖に、主なる神は目を止められたのです。モーセが持っていないものではなく、すでに持っているに目を止められたのです。
 一人の人間を主なる神が用いるとき、一人の人間にその人だけのかけがいのない使命を与えるとき、神が見つめてくださるのは、その人が手にしている、日常的な、特に気にも止めないものであることを、今日の記事は教えています。神は何か特別の、他の人にない特異な能力を求めたりはなさいません。神は使命を与えた人自身が持っているものを利用されます。この記事では、それは杖です。神はそれをまったく異なるものに変えられます。その姿・形を全く別のものに変えられます。それがここでは召命の保証になります。そして、日常持っているものを神の命じられるままに用いるとき、その人の持つ力以上のものが発揮されるのです。ただの「杖」であったものが「神の杖」(出エ4:20)に変えられるのです。

 しかし、そもそも主なる神は、どうしてこのようなしるしをモーセに与えられたのでしょう。杖が蛇に変わるというしるしを見たイスラエルの人々は、それを「主なる神がモーセに現れた」証拠として認めてくれるのでしょうか。4章6節以下には、他に2つのしるしが追加の保証としてモーセに与えられています。そのことから考えると、主なる神は杖を蛇に変えるというしるしだけでイスラエルの民が信用するとは、考えてはおられなかったのではないでしょうか。また出エジプト記7章11節以下を見ると、エジプト王ファラオが集めたエジプトの魔術師も、秘術を用いて同じことを行ったと報告されています。不思議な業ではありましたが、杖を蛇に変えるということだけで、すべてがうまく行くというわけではなかったのです。しるしを見れば、すべての人が信じるようになるわけではないのです。それ以上のもっと大切なメッセージがここには込められているのです。
 先週の木曜に聖書の学びと祈祷会を行いました。前の週大雨警報が発令されたため、順延になった聖書の学びと祈祷会でした。その時、兄弟姉妹とご一緒に学んだ箇所が、ペトロを初めとする弟子たちの召命の箇所だったのです。
ペトロたちは漁師でした。ガリラヤ湖における漁業のプロでした。その彼らが一晩中漁をしても何も捕れませんでした。ところが主イエスはペトロに向かって、舟を沖に漕ぎ出して網を降ろしてみなさい、と言われたのです。漁には適さない昼間です。漁のプロから見て、魚がかかる可能性は限りなくゼロに近い。しかし、姑の熱病を治してもらった恩義もあってか、ペトロは主の言われる通り、網を降ろします。すると、どうでしょう。「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました」(ルカ5:6)。他の舟に助けを求めなければならないほどの、二そうの舟が沈みそうになるほどの大漁だったのです。
それを目の当たりにしたペトロは、陸に上がると主イエスの足もとにひれ伏します。そして「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫びます。イエスを「先生」と呼んでいたペトロは、この時「主よ」と呼びかける者に変えられます。ペトロがこのように主イエスを拝して、自分から離れるように願ったのは、主イエスが自らの言葉を実現する権威のある方であるのに対して、ペトロ自身はそういう主の言葉を半信半疑でしか受け止めていなかったからでした。自らの不信仰という罪を見せつけられ、驚嘆させられたペトロは、そう叫ばずにはおれなかったのです。ペトロは自分の目の前にいるお方が、単なる指導者ではなく、自らの言葉を実現する神からの権威をお持ちの方であることに気づかされて、こう叫ばずにはおれなかったのです。彼は、主イエスというお方において、神がそこに御臨在されていることを知らされました。そのお方が「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とお召しになった。その召しに応えて、ペトロたちはすべてを捨てて、主イエスに従ったのでした。
モーセの召命もペテロたちの召命も、彼らが働いていた日常生活の場で起こりました。モーセは羊飼いの杖によって羊の群れを導く中で、ペトロたちはガリラヤ湖で漁師として働く営みの中で、召命を受けました。召命において何が最も重要であるかを、主イエスがペトロを弟子として召された出来事に見ることができます。それは、「他ならぬ私自身に主が現れてくださった」という体験です。全能の主なる神が、私のような者に臨み、ご自身の使命へと用いてくださろうとしている。ペトロは主イエスの御業に接したときに神の御臨在をリアルに感じ、自らの罪深さにひれ伏さずにはおれなかった。このような「主が現れてくださった」というリアルな信仰体験が、その人を押し出し、神の使命へと立ち上がらせていくのです。モーセはこの時、イスラエルの人々が「主がお前などに現れるはずかない」と信用しないことを恐れていました。しかし、信仰において大切なのは、自分自身が確信を持っていることです。他の人にそのことを信じてもらう前に、モーセ自身が「主が現れてくださった」ということに驚嘆し、主なる神の前にひれ伏す必要があったのではないでしょうか。この私に神が現れ臨んでくださっていることを確信できないならば、どうしてイスラエルの同胞たちに、神が現れてくださったことを証しすることができるでしょう。主なる神は、召命にためらいと不安を覚えるモーセに、その最も肝腎なことを分からせようと、辛抱強く関わり、み言葉としるしを与え、心を用いてくださっているのです。

 今日司式長老に読んでいただいた新約聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙 二 4章7~10節でした。パウロは7節で「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と述べています。測り知れない神の力、人を命へと至らせる神の恵みが、土の器にすぎない私たちに盛られているのです。その宝を私たちは神から遣わされた使者として、世の人々のもとに持ち運んでいくのです。そのような光栄ある神の御業に、用いていただくことができるのです。
勿論、私たちはどこまでいっても土の器にすぎません。盛られた宝に決してふさわしいものではありません。しかし主なる神は、私たち自身が持っているものを「神の杖」に変えてくださり、役立つものにしてくださいます。私たちは主イエス・キリストが、私のようなものを召してくださっていることに驚き、そのことを心から感謝して仕えていけばそれでよいのです。「主なる神ご自身がこの私を召してくださった!」。この驚きと喜びの中で、主に仕え、教会とこの世に仕えていきたいと思います。


7月11日礼拝説教

ヤコブの手紙5章13~15節  2021年7月11日(日)説教
「信仰に基づく祈り」 牧師 藤田 浩喜
 ヤコブの手紙もあと少しで読み終えることになりますが、今日司式長老に読んでいただいた5章13~18節では、「祈り」について教えられています。今日はその前半部分13~15節からご一緒に聞いていきたいと思います。
 まず、5章13節を読んでみましょう。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」ヤコブの手紙は、私たちが何かに苦しんでいるとき、とにかく祈りなさいと勧めます。「苦しい時の神頼み」はいけないなどとは考えずに、祈ってよいのだというのです。
 ここで「苦しんでいる」とはどのような苦しみなのかは、書かれていません。肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、個人的な苦しみもあれば人間関係における苦しみもあります。社会的な苦しみ、経済的な苦しみ、内的苦しみ、外的くるしみ、様々な苦しみがあります。どのような苦しみであるにせよ、「苦しんでいる人」はどうすればよいかというと、「祈りなさい」と言うのです。
 実は「苦しむ」と訳されている言葉は、「苦しみを耐え忍ぶ」という意味を持っています。この言葉の名詞形が5章10節の「辛抱」という言葉なのです。だから「苦しんでいる人」というのは、現実の苦しみの中で、すでに葛藤したり、辛抱したり、我慢したりしている人のことです。そしてもう行き詰って、どうしようもない状態の人でもあります。しかしそういう人は遠慮なく「祈りなさい」と言うのです。もちろん苦しみの始まりにある人も祈ってよいのです。しかしなかなか祈れなくて、祈れないままに、葛藤したり、辛抱してしまうことがあります。もう逃れる道、出口がないと、思い詰めてしまう。そのような人は「祈りなさい」と言います。全能の神、イエス・キリストの父なる神、見えない神に祈りなさいと言うのです。
 しかし人生には苦しみだけではありません。喜びの時も少なくありません。その時は「賛美の歌をうたいなさい」と、勧められています。喜びや感謝が自分に与えられたのは、すべて神の愛と恵みに基づくものであることを覚えて、神の御名をほめ歌うように促されているのです。
 詩編33篇1~2節で詩人は次のように歌います。「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。琴を奏でて主に感謝をささげ/十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。」喜びの時に感謝と喜びの歌を神に捧げること、これも祈りなのです。喜びの中においても、神に目を向け、素直に自分の心の内にある喜びを表す。「あなたがそれを与えてくださいました。心から御名を賛美します。神さまも共に喜んでください」と願う。それが祈りであり、祈りに基づく私たちの生き方なのです。
 こうして私たちは、苦しみの時に神の御名を呼び、喜びの時に神の御名を賛美する。あらゆる時に、神と向き合って、神と語ろうとすることが許されています。この恵みに満ちた特権を使わずに、時を過ごすことは信仰者にはありえない。苦しんでいる時も喜んでいる時も、活ける神さまに祈ることができるのです。
 続いて14節には、次のように記されています。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」
「あなたがたの中で病人の人」とあります。「あなたがた」とは、教会の群れのことです。教会の兄弟姉妹のだれかが病気を抱えたならば、それは個人のことにとどまらず、あなたがたが共に負うべき重荷であり、教会全体の問題であるということなのです。だれかが苦しめば、共に苦しみ、だれかが喜べば共に喜ぶ。これがキリストに結ばれた神の家族、キリストの体なる教会のあるべき姿です。
 ここに出て来る「病人の人」は、自分では教会に来ることのできないほど重症の人であると考えられます。そういう人は教会に連絡して、「教会の長老を招いて」祈ってもらいなさいと言うのです。「長老」という言葉は複数形なので、牧師と長老、あるいは長老たちのことです。しかし制度的な意味の長老だけでなく、信仰の先輩や仲間であってもよいのではないかと思います。そして「オリーブ油を塗って」とありますが、当時はオリーブ油を塗ることが、一つの医療行為であったようです。
 しかしここで大切なことは、「主の名によって」ということです。主の名によって、オリーブ油を塗り、祈りを合わせるところに、主が現在されるのです。病気の兄弟姉妹を囲んで集まるところに、十字架の主が、病気で苦しめられている者を自由にしてくださるイエス・キリストが、共にいてくださるのです。病気になると、自分では祈れなくなることもあります。だから「祈ってもらいなさい」と勧められているのです。
 これは私自身の経験でもありますが、重い病を患っている方たちをお見舞いしたとき、自分には何ができるだろうと、分からなくなったことがありました。自分は医者でもないので病気を治すこともできないし、看護師でもないのでお世話することもできない。信仰があるからといって、目の前にいる方にしてあげることがあるのだろうかと、分からなくなってしまったのです。
 しかしある本を読んだとき、その本の著者は「私たち信仰者には、思っている以上にたくさんのことができる」と書いていました。もちろん、病気を治したり、看護することはできません。でも、病んでいる信仰の友の語る言葉に耳を傾けることができる、聖書の御言葉を読んであげることができる、許されれば一緒に讃美歌を歌ってあげることができる、そして何よりもその友のために祈ってあげることができる。一緒にひと時を過ごしてあげることができる。私たちにできることは思っている以上に多いのだ、と言うのです。だから、自分にできることの少なさを恐れてお見舞いを敬遠するのではなく、許される限りその友を訪ねなさいと言うのです。この言葉を読んで、だいぶ気持ちが楽になったのを覚えています。
 「重い病の友のために自分が何かをしてあげなくては」と考えると、何もできなくなってしまいます。しかし、聖書を読むことも、讃美を歌うことも、祈ることも、「主の名によって」なされることです。目の前にいる信仰の友を、すべてのことをご存じの主イエス・キリストの御手にゆだねることです。真の平安をお与えになることのできる神さまにとりなすことです。それは信仰をもっている者だけが行うことのできる貴い業なのです。
今はコロナ禍で、家族や信仰の友のいる病院や施設には、なかなか行けません。それは本当に残念なことですけれども、それでも大切な家族や信仰の友のために祈ることはできます。私の牧師としての経験の中で、闘病生活をされた教会員の方から、しばしば感謝されたことがあります。「それは、教会の人たちの祈りによって支えられた。皆さんに祈っていただいていることが本当によく分かった」という言葉でした。そのように祈りには力があります。たとえ離れていても、とりなしの祈りによって、家族や信仰の友を支えることができます。私たちはそのことに確信をもって、いよいよ祈りを篤くしたいと思います。
さて、15節の御言葉を読んでみましょう。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」「信仰に基づく祈り」というのは、「いささかも疑わない」(ヤコブ1:6)祈り、神さまに完全に信頼した祈りのことでしょう。そのような祈りは、確かな効果もたらすと言うのです。それは「病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」と言われるのです。
ここで言われている「救い」とは、身体的な健康の回復だけが言われているのではありません。新約聖書における「救い」ということを考える時、主イエスと出会い、主に心身の病を癒された人たちのことを思い起こします。この人たちは主イエスによって確かに心身の病を癒されます。病気の労苦から解放されます。しかし、それ以上に重要なこととして聖書が記しているのは、彼らがイエス・キリストを神の子・救い主と信じる信仰を与えられて、歩み出したということなのです。自分のこれからの人生を、救い主イエス・キリストを信じて歩き出すことができた。そのような人たちが、「救われた人」として証しされているのです。
心身の病が無くなるということはないかもしれません。水野源三さんも星野富弘さんも、病気や障がいがなくなったわけではありません。しかし彼らは活けるイエス・キリストと出会って、主の御手によって起き上がらされた人たちです。彼らはその人生において、救い主イエス・キリストと共に力強く歩み続けることができたのです。私たちが捧げる「信仰に基づく祈り」は、心に思い浮かぶ人たちに、そのような救い主との出会いをもたらすことができるのです。それは驚くべきことであり、感謝すべきことではないでしょうか。

7月4日礼拝説教

ヤコブの手紙5章12節     2021年7月4日(日)説教          
「誓いとは何か」  牧師 藤田 浩喜
 今日司式長老にお読みいただいたヤコブの手紙5章12節では、「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません」と言われています。ここと同じようなことが、マタイによる福音書5章34節以下の主イエスの言葉にも出てきます。その34節には「一切誓いを立ててはならない」と言われています。これらの御言葉は、一体何を語ろうとしているのでしょうか。
 ある説教者は誓いを2種類に分けています。一つは誓約と言われるもので、結婚式の時に神さまと列席者の前でなす誓約や、教会で牧師や長老、執事の任職式をするときに行うような誓約です。夫や妻の務め、牧師、長老、執事の務めを忠実に果たすことを、神さまと会衆の前で誓うのです。
 もう一つは、自分の語る言葉が偽りでなく真実であることを証拠立てようとするときに誓います。たとえば、自分が人と約束を交わしたとき、その約束は確かで必ず果たされることを相手に保証するために、神さまの名が持ち出されます。神さまの名において誓うことで、語られた約束とこれからの行動が一致することを示そうとするのです。誓約が主(おも)に神さまに向けられているのに対し、こちらの誓いは主(おも)に人に向けられています。そして交わされた約束のいわば保証人として、神さまやその名が持ち出されるのです。

 しかし、二つの内後者の方は、その誓いが守られないことがしばしばです。国会で証人喚問を受けるとき、証人は「真実を語ります」と誓いますが、必ずしも真実を語るとは限りません。後で嘘の証言をしたことが明るみに出てしましまうことがあります。また、最近色んな企業がしていない検査をしていたと長年に亘って偽っていたことが問題になっています。企業は安全に関わる理念の遵守を誓っていたに違いありませんが、それは踏みにじられてしまいました。約束したことを間違いなく行いますと誓ったにもかかわらず、誓ったことが歯止めにはならなかったのです。逆に誓うことによって、それがもう成し遂げられたかのような無責任な錯覚に陥ってしまうこともあるのかも知れません。
 しかし、このことは一般社会だけでなく、まさに教会においても起こりうることではないでしょうか。ヤコブの手紙をこれまで学んできましたが、ヤコブがこの手紙で指摘していた重要事項の一つは、「言葉と行い」の乖離ということでした。2章1節以下では、人を外見の身なりで判断し、立派な身なりの人は良い席に案内し、汚らしい服装をした貧しい人には立っているか、地べたに座るように案内していることが指摘されていました。また、2章15節以下では、兄弟姉妹が着る物にも、その日食べる物にも事欠いている時に、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」というだけで、体に必要なものを何一つ与えない、という姿勢が指摘されていました。これは「人を偏り見てはならない」という聖書の御言葉からの逸脱です。また、言っている言葉と実際の行いがまったく乖離してしまっています。ひょっとすると、自分たちはキリスト者であり、主の名によって神さまに祈っている者たちだからという自己認識が私たちの目を曇らせ、自己正当化の拠り所になってはいないでしょうか。神さまに誓うということはしていなくても、神さまの名を呼んで信仰生活をしているというだけで、語る言葉と行いの乖離ということが曖昧にされ、見えにくくされているのです。「虎の威を借りる狐」ではありませんが、神さまの名によって誓うことで、できてもいないことをまるで成し遂げたかのように、思い込んでしまいます。勘違いしてしまいます。ヤコブはそのようなキリスト者の落とし穴を熟知していました。だから「何よりもまず、誓いを立ててはなりません」と戒めているのです。

 それでは、キリスト者は人間関係において、どのような姿勢で臨めば良いのでしょう。神さまを証人として持ち出さないなら、どのように他者との信頼関係を築いていったら良いのでしょう。ヤコブはそれについてこう言うのです。12節の後半です。「裁きを受けないようにするために、あなたがたは『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなさい。」
 「『然り』は『然り』とする」とは、自分がこれを正しいと思ったなら、正しいと意思表示しなさい。「『否』は『否』とする」とは、自分でよく考えて間違っていると思ったら、反対の意思表示をしなさいということです。白虎隊で有名な会津藩には「ならぬものはならぬのです」という家訓がありましたが、まさにそのようなことでしょう。神さまの権威を借りて、神さまの名により誓うことで自分の言葉の真実さを担保するのでなく、神さまを信じる一信仰者として、自分の考える意思表示を率直に示すのが一番良いというのです。そのようにして、人との信頼関係は築かれていくというのです。
 勿論これは、感じたままのことを他者への配慮もなしに語るということではありません。相手の性格を考えて、言葉を選ぶことが大切です。また「否」と言うことは、相手が力関係で勝る場合、決して簡単ではありません。しかし恐れによって真実を曲げてしまうなら、相手を対等な人間として尊重していないことになります。相手を対等と見なすことから、双方にとって意味のある信頼関係が築かれていきます。恐れて何も言えない関係は、支配と隷属の関係であり、対等な人格的な関係ではないのです。
 しかしそれよりももっと大切なのは、私たちキリスト者が生ける神の御前で生かされていることを自覚することです。今日司式長老に詩編139篇1~6節を読んでいただきました。1~4節をもう一度読んでみましょう。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬ先に/主よ、あなたはすべてを知っておられる。」「わたしの舌がまだひと言も語らぬ先に/主よ、あなたはすべてを知っておられる。」主なる神は、信仰者がひと言も語らぬ前に、私たちの思いや考えをすべて知っておられるというのです。これは考えると恐ろしいことです。日頃の自分を考えると、穴があったら入りたくなります。しかし、神さまの前には隠しごとはできないのですから、もう開き直ったらよい。神さまがすべてをご存じなのですから、私たちは安心して自分の思いや考えを表してよいのです。神さまは在りのままの私たちを、受け入れて下さっているのです。
 そしてこの詩編139篇で詩人は、最後にこのように歌います。23~24節です。
「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。ご覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」自分が迷っているとき、道を見失っているときに、神さまは必ず、正しい道、とこしえの道へと導いてくださる。詩人は全幅の信頼をもって、主なる神さまに依り頼んでいるのです。そのような神さまの御前にある私たちなのですから、安心して「然り」は「然り」とし、「否」は「否」として表明して良いのです。

 勿論、「然り」は「然り」とし、「否」は「否」として生きていこうとするキリスト者ですが、私たちがどんなに努めても、完全であることなどできません。不真実さを自分からぬぐい去ることのできない一面を持っています。それが私たちのありのままの姿です。しかし、私たちはその自らの不真実に絶望することはありません。なぜなら、真実なお方が不真実な私たちを支え続けて下さり、いくらかでもその不真実を少なくする方向へと、私たちを導いてくださるからです。
 テモテの手紙 二 2章13節にこうあります。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは真実であられる。キリストはご自身を/否むことができないからである。」私たちが誠実でなくても、不真実さを持っていても、キリストは常に私たちに対して真実であってくださいます。このキリストに捕らえ続けられる限り、私たちの不真実はいくらかでも減少の方向へ向かって行くということを、信じてもよいのです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と、ヘブライ人への手紙13章8節に記されています。きのうも今日も、また永遠に変わることなく私たちに対して真実であり続けてくださるお方、それが私たちの主イエス・キリストです。このキリストによって捕らえられ、神に属する者とされていることを覚えつつ、真実な言葉を語り続けようとし、人を生かす真実な福音の言葉を証ししようと努める限り、キリストは私たちをその道に導いてくださる。そのことを覚えたいのです。不正の言葉や、真実のおおいを持ちながら偽りに固められている言葉があふれるこの社会にあって、真実であり給う主の導きを信じて、私たちは真実の限りを尽くして言葉を語り続けていく。そこに、真実の主の支えがあることを信じたいと思うのです。

 そして、そのためにもぜひ必要なことがあります。それは不真実なわたしの言葉が、いくらかでも主イエスの真実に近づくものとなるために、私たちのすべてをご存じの神に祈りつつ、言葉を捜すということです。祈りつつ行いを見出していくことが、私たち求められているのです。語るべき言葉を神から与えられるということは、私たちのなすべき行為を神から示されるということと同じです。言葉が与えられるということは、生き方が示されるということです。神に従おうという思いのない誓いの言葉を神の名によって語るよりも、神の名を出さなくても、「然り」は「然り」と言い、「否」は「否」という、単純な言葉で自らを表しつつ、主の御心に従おうとする。そういう祈りのあるところに、私たちの生き方は新しくされていきます。言葉と行いが乖離しない生き方へと近づいていきます。
だからこそ、祈りつつ、神の真実、イエス・キリストの真実を証しする言葉を語る者として自分が成長していくことができるように、祈りを欠かすことのない者となりたいのです。そして、そのようにして祈りを通して与えられた真実な神の言葉を自分の言葉としていくことが、私たち信仰者には求められています。なぜならば、祈りを通して自分の言葉となった真実な神の言葉こそが、他者との信頼関係を揺るぎのない確かなものに築き上げていくからです。そのことを心に刻みつつ、生ける神さまの御手に導かれて、新しい一週間を歩んでまいりましょう。

6月27日礼拝説教

ヤコブの手紙5章7~11節     2021年6月27日(日)説教
「神の御手に支えられて」   牧師 藤田 浩喜
◎私たちは1年以上続いているコロナ禍に、今も忍耐の日々を過ごしています。
今回のコロナ禍を経験して感じたことがあります。それは今回のコロナ禍で辛いことは、一つには「この禍がどこまで続くか、いつ終わるか分からない」ということです。もう一つは「この禍によって自分は、どうなってしまうのだろう」という不安です。これらの辛さや不安は、1年以上も私たちを苦しめています。だからこそ、科学的根拠に基づいたこれからの見通しを知りたいと願いましたし、私たちの不安を和らげ、一致して頑張っていくことのできる、リーダーの真摯な言葉を願い求めたのではないでしょうか。しかし、そのような十分客観的な見通しもリーダーの真摯な言葉も、残念ながら私たち国民には、伝わってきていないように思うのです。
◎さて、今日司式長老に読んでいただきましたヤコブの手紙5章10~11節は、前回ヤコブの手紙を読みました時の続きです。前回は私たちキリスト者が経験する忍耐というものが、どんな特質をもっているかをご一緒に学びました。キリスト者は、やがて再臨されるイエス・キリストを待ち望みつつ、そこから射し来る光の中で、キリスト者が経験する苦しみを忍耐することが語られていました。また、自然を相手にしている農夫に倣うことが語られていました。すべての時を支配したもう神に委ねなければならないことがあるということ、それは何であるかということを、農夫は承知しています。その経験から来る知識が、農夫に忍耐を身につけさせます。それと同じように、信仰者も神に委ねなければならない時があるということを知っているからこそ、身を低めて忍耐することができるのです。
◎ヤコブが忍耐することの意義を語るために取り上げている二つ目の例は、旧約の預言者たちです。そのことが10節に記されています。その名前は挙げられていませんけれども、今度は実際に存在した預言者たちのことを思い起こし、彼らの忍耐を思い浮かべながら、彼らを模範とせよと語ります。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」と述べています。
 旧約の真実な預言者たちは、神の栄誉が傷つき、神の御名が汚される中で、その神に仕え、その神の言葉を語り、神の名において人々に悔い改めを求めてきました。「主の名によって語った」とありますが、人々が信じようとしなくなったその主なる神がこのように語られる、主がこう言っておられると、人々に主の言葉を取り次ぎました。イザヤがそうし、エレミヤもそのように語り、アモスもそのようにいたしました。そのために、彼らは人々から様々な恥や屈辱を受け、命の危険にさらされ、実際に迫害を受けて死んでいった者たちもいました。
 使徒言行録に、ステファノが殉教の死をとげる前に説教した記録が残されていますが、その中で彼はこういう言葉を語っています。使徒言行録7章52節です。「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。」救い主が来るということを預言した預言者たちを、あなたがたの先祖は殺したのです、と預言者たちの苦しみを述べています。
 また、実際に旧約の預言者の言葉を見てみますと、エレミヤの場合、神の愛や慈しみ、あるいは神の全能を知っている者として、どんなに苦しくても彼は語らざるを得なかった、忍耐しつつ彼は御言葉を宣べ伝えていきました。その状況が彼の言葉によって次のように記されています。エレミヤ書20章7節から9節をお読みします。1214頁の上段です。
「主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはおれません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。私の負けです。」
 このように神に押し出されて御言葉を語った忍耐の預言者エレミヤの言葉が、感動的に響いてきます。神への絶対的な信頼のゆえに、多くの艱難の中で、その務めを放棄しなかった預言者たちの姿を、旧約聖書の中に数多く見ることができます。それは生きておられる神が彼らを支えてくださったからこそ、可能となった出来事でした。彼らの精神力、忍耐力、肉体の力ではなくて、生ける神の生ける力が彼を支えた。忍耐はそのように、神によって支えられるものであることを預言者を通して知ることができるのです。
◎三番目に、忍耐して祝福を得た人の例として、旧約文学の傑作と言われるヨブ記の中の中心人物ヨブの名が挙げられています。11節です。多くの方がご存じの人物です。彼は敬虔な信仰深い人物であり、地上の富にも恵まれていました。  
しかしある時以来、ヨブから祝福や幸いや平安が次々に奪われていくことになります。そういう中で、彼は始めは、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ2:10)と信仰の強さを示していました。しかし、次第に、友人の説得に対しては激しく反論するようになり、そして、自分の命、自分の存在さえも呪って、死を願うところまで彼は至りました。「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか」(ヨブ3:11)という言葉もヨブ記に記されています。そのような苦しみや悲惨の中で、なお彼の顔は、神の方を向き、彼の心は神から離れませんでした。自分の存在を呪うようなことはあっても、神を呪うことはいたしませんでした。忍耐して彼は生き抜いたのです。
その結果、今日のヤコブへの手紙5章11節に、あなたがたは「主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」と述べられているとおり、神は「ヨブを以前にも増して祝福された」のです。ヨブ記42章12節にそう記されているとおりのことを、神はしてくださいました。忍耐の先に神は、大いなる祝福を用意して下さっていたのです。
しかし、ヤコブの手紙が言おうとしているのは、財産や子どもを前にも増して与えられたということだけではないのです。それよりも大切なことは、ヨブは神を仰いで、悔い改めたということなのです。生ける神の御臨在に触れたということなのです。11節の後半を見ていただくと、「主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」とあります。この文章の中の「最後」という語は、「目的」という意味を持っています。いくつかの外国語で「最後」という語と「目的」という語が同じものであるということがありますけれども、これも同じです。ヤコブはこのヨブの例から、最後の結果がどうであるかを知っているとだけを言おうとしているのではありません。そうではなく、神が人に忍耐を要求する時の目的が何であるか、ということもよく分かるはずだと言いたいのです。
つまり、神が人に忍耐を要求される時の目的は、より大きな祝福をその人に与えることにあるということです。結果として祝福が与えられるということだけでなくて、その人をより近くご自分に呼び寄せるという祝福のために、神は人に忍耐を要求されることがある。このことをあなたがたはヨブの例から知ることができるはずだ、とヤコブは語っています。忍耐しなければならない状況の中で、神は決してその人から手を放しておられるのではない。主なる神はしっかりとその人を捕らえ、より大きな使命や実りや祝福へとその人を導こうとされている。忍耐にはそういう目的があるのだということを、ヨブから学ぶことができるではないかと、ヤコブは訴えているのです。
そのことは、忍耐の渦中にある時は分からないことが多いのです。耐え抜いた者のみが、そのことを自分の事柄、神の業として語ることができるのです。「主は慈しみ深く、憐みに満ちた方だからです」。11節にそう記されています。結果として人は忍耐の後に、この言葉を語ることができる。「ああ、そうだったのか」と分かる。ヤコブが11節初めに「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います」と語るのも、そういう信仰の経験から来ているのだと思います。
◎皆さんの中の多くの方が、マーガレット・F・パワーズの『あしあと』という詩をご存じだと思います。あらためてこの詩を味わってみましょう。
『あしあと』
ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
この『あしあと』の詩は、今日の聖書箇所の最もすぐれた注解だと思います。私たちキリスト者は、人生の中で様々な苦しみに襲われます。それは信仰者であるゆえに受ける苦しみであることもありますし、そうでないこともあります。そのような大きな苦しみを受けて、耐え忍び、忍耐しなければないません。その忍耐は、辛く苦しく、深い孤独感にさいなまれていたかも知れない。しかしその忍耐の時は、主イエスが私たちに最も近くいてくださった時なのです。近くどころか、『あしあと』の詩のように、私たちと一体となり、私たちを背負ってくださっていた時なのです。その最中には、分からなかったかも知れません。しかし後で振り返った時、耐えなければならなかった時に、まさに主イエスの御手が私たちを支えてくださっていたことを知らされるのです。私たちの忍耐は、生きる希望が失われているにもかかわらず信仰に従って生きようとする者に、神が与えてくださる恵みの贈り物です。私たちの忍耐は、私たちがキリストに固着している以上にキリストがわたしに固着していることの表れなのだ、ヤコブはそのことを私たちに教えてくれるのです。

6月20日礼拝説教

出エジプト記3章11~15節        2021年6月20日(日)説教
「ともにいます神」     藤田 浩喜
◎私たちの大部分は日本に生まれ、日本の歴史と伝統の中で生きていますが、古来より日本人が帰依してきたカミとは、どのような存在であったのでしょうか。 
国語学者の大野晋(すすむ)氏によれば、古代日本語のカミは上にいますカミ(上)とはミの音が別であり、上代の文献からすれば、恐るべき、威力をふるう鬼、狐、狼、妖怪の類で、恐怖の対象であったと言います。それはふつうの人間にその姿を見せずに行動し、人間界を領有・支配するただただ恐るべき存在であって、人間はこれをマツルこと、つまりものを差し出し、捧げ、機嫌を静めてもらうことが重要なことだったのです。
このカミ信仰は、平安時代にホトケが広まることにより、その後人を愛し、ゆるし、救うという意味を持つようになります。しかし、大野氏によれば「外来のこの思想は、本当に根深く人々の心の底、文化のもろもろの底辺にとどくほどに浸透したかどうか」と、疑問を呈しておられるのです。
◎さて、モーセが登場するこの時代のイスラエルの人々は、神をどのようなお方として捉えていたのでしょうか。ヨセフがエジプトの宰相をしていた時代から4百年以上が経っていました。イスラエルの人々は、先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神については、もちろん知っていたと思います。族長たちの歴史と共に、先祖たちの神のことを伝え聞いていたに違いありません。
しかし、ヨセフのことを知らないエジプト王から警戒され、ひどい圧迫を受け、奴隷のように扱われていたイスラエルの人々にとって、先祖たちの神は遠い存在だったのではないでしょうか。自分たちの生き方に深く関わり、日々の生活の中で礼拝を捧げるような身近な存在ではなかったのではないでしょうか。実際この時代のエジプトでは、王ファラオが太陽神の子として崇められ礼拝されていました。ファラオを現人神として祀る礼拝が、国家儀礼として行われていました。エジプトに住むイスラエルの人々は、ファラオ以外の神を集まって公的に礼拝することはできませんでした。かろうじて私的な信心だけが許されていました。そうした宗教的環境の中で、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神への信仰も遠いものになっていたのではないでしょうか。
モーセにしてもそうです。彼はレビ族の出である両親から生まれました。当然先祖の神への信仰を幼い日に教えられたことでしょう。しかし少年時代以降は、ファラオの王女の子として、エジプトの王宮で育ちます。その宗教的環境は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神への信仰と無関係なものであったに違いありません。そして、ご承知の通り、同族を助けるためにエジプト人を殺してしまったモーセは、ミディアンの地に逃れ、その地の祭司レウエルのもとに身を寄せます。娘の一人チッポラと結婚し、40年近く羊飼いとして暮らします。レウエルは異教の神に仕える祭司です。そのように考えると、モーセもまた、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神からは遠い所で、生活を営んでいたのです。親からは聞いて知っているけれども、身近な存在ではなかったのです。
◎しかし、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である神は、隠遁の地にあったモーセに現れられます。前回学んだ出エジプト記3章9節以下で、神は次のようにモーセに言われています。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(9~10節)。「今」、「今」と繰り返されています。神は今こそ、アブラハム、イサク、ヤコブになさった約束を果たすために行動を開始する時だと決断され、モーセに現れられました。そしてモーセを指導者として立て、イスラエルの人々を奴隷の地エジプトから脱出させる御業を、始めようとなさっているのです。そして、今日司式長老に読んでいただいた3章11~15節では、神が「ともにいます神」としてイスラエルの民と歩まれることが、はっきりと宣言されているのです。
◎モーセは神の御言葉を聞いた時、どう反応したでしょう。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)と反論しています。エジプト人を殺してしまい、ファラオの追っ手から命からがら逃れてきたモーセです。また、エジプトの王宮で育ったモーセを、イスラエルの人々は仲間とは認めていませんでした。モーセにしてみれば、そんなことは不可能としか思われませんでした。想像もできないことでした。
しかし、神は言われました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(12節)。つまり、神であるわたしがあなたを遣わしていることは、どこで分かるか。何で分かるか。それは「わたしが必ずあなたと共にいる」という経験を、あなたがこれから重ねることで分かる。そのように言われるのです。神はモーセに委託だけをして、なすべきことを命じ、後は天に引きこもって成り行きを見守るといった遠い神ではありません。モーセと共にご臨在され、歩みを共にされます。「あなたと共にいる、離れることはない」と、はっきり請け負ってくださっているのです。
◎しかし、モーセはその御言葉を聞いても、納得することはできませんでした。
モーセは、イスラエルの人々がモーセを遣わした神を信じるだろうかと、心配になったのでしょう。遣わした神を信じてもらえなければ、イスラエルの人々はついてきません。そこでモーセは、次のように神に尋ねるのです。13節です。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 それに対して神は、モーセに次のように答えられたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」…「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(14節)。ここは大変有名な箇所ですが、旧約聖書で最も難解な箇所とも言われています。以前使っていた口語訳聖書では、「わたしは、有って有る者」、「わたしは有る」と訳されていました。ヘブル語原文では「エフィエ アシュル エフィエ」となっており、「わたしはある」という言葉が「アシュル」という関係詞を仲立ちにしてつながっているだけの短い文です。この個所については、古来多くのことが議論されてきましたが、今日はそこには立ち入りません。
 それよりも注目すべき見解が、近年提案されています。それは、14節で神は御自分の名を名乗っておられるのはない。13節のモーセの問いには、神は15節でお答えになります。そうではなく14節で神は、御自分がどのような神であろうとされるのか、イスラエルの民にどのように関わられるのかを表明されている。「わたしはある」、「わたしはある」、「わたしはある」という神の強い御意志が明らかにされているのです。12節において主体的にモーセと共にあろうとして彼に臨んだ神は、御自身の揺るぎない意志と決意を、モーセを通してイスラエルの民にも啓示しようとされているのです。「わたしはある」と三度繰り返されることで、これからイスラエルと関わられる神が、「わたしは必ずあなたと共にいる。離れることはない」ということを、表明なさったのです。
 最初に申しましたように、イスラエルの民にとっても、モーセにとっても先祖の神は遠く感じられていました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は先祖の神ではありましたが、自分たちの神と感じるほど身近ではなかったかも知れません。しかし神は「わたしは必ずあなたと共にいる」と、モーセにもイスラエルの民にも約束されます。神はご自身に誓われたゆえに、この約束をどこまでも守り抜いてくださる方なのです。
◎そして先に申しましたように、13節のモーセの問いに、神は15節で答えておられます。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしたちをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。」結局神は、オリエント世界の神々のように固有の名を名乗られることはありませんでした。ここで繰り返されているように、「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とだけ名乗られました。
しかしその神は、「わたしはある」、「わたしは必ずあなたと共にいる」と、御自分を啓示されました。このようなご性質をもった神として歩み続けてくださる。神の民は、そのようなお方として神を呼び続けることができる。「これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名」と、神をそのようなお方として、世々とこしえに呼ぶことができるのです。「わたしはある」という「エフィエ」という言葉は三人称では「彼はある」となりますが、ヘブル語では「ヤハゥエ」となります。神の民は世々にわたって、神を「ヤハゥエ」と呼ぶようになりました。そのように「わたしはある」、「わたしは必ずあなたと共にいる」という神のご意志とご決意が、イスラエルの神の呼び名となっていったのです。
◎今日司式長老に読んでいただいた新約の箇所は、マタイによる福音書28章16~20節でした。これは復活の主イエスが、ガリラヤの山に登り、主の大宣教命令を授けられた箇所です。主イエスは弟子たちに宣教の使命と権能を授けられ、彼らを全世界へと派遣されます。その大宣教命令の最後に言われたのが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という御言葉だったのです。
 「わたしはある」、「わたしは必ずあなたと共にいる」という旧約において与えられた約束は、変わることはありません。新約の神の民であるキリスト教会は、御子イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して、さらに感謝と確信をもってこの約束を聞くことができます。神はいつでもどこでも、神の民と共にあり、神の民に味方してくださるお方として、その名をお呼びすることができるのです。
ある注解者は、次のように書いています。「イスラエルがその歴史において神と共にある経験を重ねることで、この神の名の意味は確認される。イスラエルはその名からイスラエルの歴史を理解すると同時に、歴史からその名を理解する。」新しいイスラエルであるキリスト教会も同じです。遣わされている宣教の歩みの積み重ねの中で、「わたしはある」という神の名の意味を、いよいよ恵み深く、理解していくことができるのです。


6月13日礼拝説教

ヤコブの手紙5章7~9節          2021年6月13日(日)説教
「忍耐がもたらす祝福」  藤田 浩喜
◎私たち人間は、人生の中で色んな問題や困難を抱えます。社会全体が経験するような困難からその人固有の個人的な困難まで様々です。今は新型コロナウィルス感染症のため、全世界の人々が困難を経験しています。そのような問題や困難に遭遇したとき、私たちキリスト者はどのように忍耐し、その状況に対処していったらよいのでしょうか。信仰を持っているキリスト者だからできる忍耐の仕方といったものがあるのでしょうか。そのことについて、今日と再来週の二回に分けて、聖書の御言葉に聴いていきたいと思います。
◎今日司式長老に読んでいただいたヤコブの手紙5章7節は、次のように語ります。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」「主が来られるとき」とは、主イエス・キリストが終わりの日に再臨される時のことです。その主の再臨の時まで忍耐しなさいと言われています。
そして主の再臨のことは、8節でも9節でも言及されています。8節では「主が来られる時が迫っているからです」と言われ、9節では「裁く方が戸口に立っておられます」と言われます。この「裁く方」とは再臨の主イエスのことです。このように見てきますと、キリスト者が忍耐するということは、復活の主イエスが再臨されるということと、大いに関係することが分かります。
イエス・キリストの再臨を仰ぎ望みながらキリスト者が生きることを、終末論的に生きると言います。この悩み多き世界、悲しみの尽きない世界に、主イエスがもう一度到来し、正しい裁きを下され、この世界の全時間、全領域に正義をもたらせてくださる。すべてのことを明らかにされ、十字架と復活によって成し遂げてくださった救いをあまねく行き渡らせてくださる。その日を待ち臨みつつ地上の生涯を生きるのが終末論的に生きるということですが、そのような生き方の中でキリスト者の忍耐ということも理解されなくてはならないのです。
もちろんヤコブがこの手紙を書いた1世紀の終わりは、主の再臨ということが間近なこととしてリアルに信じられていました。「主が来られる時が迫っています」(8節)、「裁く方が戸口に立っています」(9節)という切迫感が、キリスト者たちの中にリアルに感じられていただろうと思います。それはローマ帝国による迫害の足音が不気味に近づいて来る中で、切実な願いとして主の再臨がキリスト者の間で待ち望まれていた状況も影響していたのでしょう。
しかし、パウロやヤコブの手紙の著者、初代教会の人々が予想していたように早く、主の再臨は起こりませんでした。これは「再臨の遅延」と言われ、2021年を生きる私たちの時代に至るまで、起こってはいません。しかし「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Ⅱペトロ3:8)と言われます。神さまの御心を人間のものさしで計ることなどできません。明日、主イエスが再臨され、この世界を裁き、すべての事柄に解決をもたらしてくださらないとも限りません。その意味では、現代のキリスト者である私たちも終末論的に生きて行かなくてはなりません。終わりの日から現代へと射し来る光の中で、歩んでいく私たちです。その光に照らされ、励まされて、この世で遭遇する様々な問題や困難を忍耐することができるのです。
◎今日与えられた聖書の箇所に戻りますと、7節で農夫がキリスト者の模範として挙げられています。「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」農夫に忍耐を学ぶことができるというのです。
パレスチナでは、秋の10月頃から次の年の5月頃までが雨の降る季節、雨期だということです。まず、農夫は秋の雨を待ちます。雨の降らない夏、大地はカラカラに乾燥します。土は固く、種もみを蒔いても受け付ける状態ではありません。しかし秋の雨が降ると、大地は柔らかくなり、種を受け入れ、芽を出すことができます。秋の雨が降るまで、農夫はじっと待たなくてはならないのです。
また、農夫は次の年に春の雨が降るのを待ちます。作物は茎を伸ばし、葉を茂らせ、ずいぶん大きくなりました。しかし、豊かな実を付けるためには、春の雨を十分吸収しなくてはなりません。この時期の雨が少なければ、作物は十分に育つことはできません。農夫はだからこそ、春の雨を忍耐強く待つのです。
今でも大半の農業が、天候や気温などの自然的条件に依存しています。農家の方は水や肥料をやり、丹精込めて作物の世話をしますが、自然的条件が整わなければ豊かな収穫は望めません。自分にできることはどこまでで、どこからは自然のなせる業かを熟知しています。ですから、自分にできるベストのことをした上で、後は自然的条件が整うのを、忍耐強く待ち続けるのです。
 よく、大きな台風に襲われたり、大雨による洪水などで、作物がダメになってしまったことが、テレビなどで放映されることがあります。大変な被害であり、一年間丹精込めて作ってきた作物がダメになったわけですから、どんなに大きな痛手だろうと思います。「この先どうしたらよいか分からない」と、途方に暮れた表情で話されるのも当然だと思います。
 しかし、そうした中にあっても「自然相手のことだから」と、力なく言われる農家の方の言葉には、静かな諦念のような思いが感じられます。自然の恵みを享受している以上、そのマイナス面も受け入れなくてはならないという、覚悟のようなものが感じられ、「農家の方はすごいな」と思わされます。自然を相手にしておられる農家の方は、自然への恐れと畏敬の念を持っておられます。それと同時に、やがて再び実りをもたらしてくれる自然への信頼と感謝の念を持っておられます。両者は相反するように思われますけれど、畏れを内に含んだ揺るぎない信頼としか言えないものが、農家の方の中にはあるのです。自然は人間のちっぽけな力でコントロールできるようなものではない。手ひどい仕打ちを受けることもある。しかし自然の持つ力と豊かさは、再び大地をよみがえらせ、たくさんの収穫をもたらしてくれる。そのような農夫に見られる揺るぎない信頼が、キリスト者の忍耐の模範として挙げられているのです。
自然は天地の造り主なる神が造られたものです。その被造物である自然が農夫の信頼に応えてくれるのならば、創造主である神が私たちキリスト者の信頼に応えてくださらないはずがありません。私たちキリスト者にも、人生の嵐が見舞うことがあるでしょう。大きな困難が前に立ち塞がり、様々な問題に心悩まされることもあるでしょう。しかし主イエス・キリストの父なる神は、私たちの忍耐を軽んじられません。私たちの悩みや困難を補って余りある豊かな収穫をもたらしてくださいます。
今日司式長老に読んでいただいた旧約の箇所は、詩編126編5~6節です。そこをもう一度読んでみましょう。「涙と共に種を蒔く者は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」忍耐がムダになることはなく、忍耐をもって神に依り頼んで行くなら、神は豊かな実りを私たちにもたらしてくださるのです。私たち大切なのは、「心を固く保つ」(8節)ことであり、揺るがないことなのです。
◎さて、今日の9節を見ますと、次のように言われています。「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。」ここをお読みになった皆さんは、「互いに不平を言わないように」と、大変身近で具体的な教えを聞き、少し文脈にそぐわない感じを受けられたかも知れません。しかし、このことは終末論的な生き方をするキリスト者にとって、大変重要なあり方なのです。
ウィリアム・バークレーという注解者は、キリスト者が主の再臨を待ち望む心構えとして、幾つかのことを挙げています。(1)人は油断してはならない。(2)再臨がどれだけ遅れても失望したり、それを忘れたりしてはならない。(3)人は再臨のキリストと出会うために、生涯の日々をキリストの近くで生活しなければならない、と述べています。いずれも大切なことです。
そしてそれと並んで、人は再臨の日が訪れたならば、交わりの中で見出されなくてはならないと言います。つまり、愛によって結ばれた人格的な関係を築いているということが、再臨を待ち望むキリスト者の群れにとって重要なことなのです。ペトロの手紙一4章7~9節は、再臨を待ち望む群れに次のように語っています。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。」また、以前学んだヘブライ人への手紙10章24~25節では、こう言われていました。「互いに愛と善行を励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」そして、あの使徒パウロも、フィリピの信徒への手紙4章5節で、主の再臨を待ち望む者のあり方を、次のように言うのです。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主がすぐ近くにおられます。」「広い心」とは寛容な心であり、正しさを求めるよりも赦しを与えようとする心構えなのです。
このように新約聖書は、キリストの再臨を待ち望む者たちが、自分の群れの仲間と正しい人格的関係を持ち、互いに愛し合うことの大切さを、繰り返し強調しているのです。考えてみますと、主イエスが最初に到来された時、十字架と復活の御業によって成し遂げられたのは、神さまと私たち人間との和解でした。神さまは、人間が罪のゆえに永遠の滅びに落ちることを良しとされず、人間を愛してやまないがゆえに、御子イエス・キリストを十字架に付けられました。神は愛であることを示されました。その十字架に極まる愛によって、罪にまみれた人間同士を和解させ、互いに愛し合う者に造り変えてくださったのです。主は言われました。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ福音書13:34~35)。
再臨の主イエスは、御自身がお与えになった愛がキリスト者の間で生かされているかどうかを、ご覧になるのです。互いに不平を言い合う関係ではなく、互いに愛し合う関係がキリストの群れの中に生き生きと見られることを楽しみになさって、再びやって来られるのです。それは明日かもしれません。もう戸口に立っておられるかも知れません。だからこそ、いつ主イエスが来られても大丈夫なように、目を覚まして備えておくことが大切なのです。

6月6日礼拝説教

ヤコブの手紙5章4~6節            2021年6月6日(日)
「叫びは、主の耳に達した」  藤田浩喜
◎前回もお話しましたように、ヤコブの手紙は富んでいる人と貧しい人の問題、富の問題を中心問題の一つとして取り上げています。前々回では地中海を股にかけて商売をする金持ちのことが、前回では大土地所有者の金持ちのことが取り上げられていました。この手紙が回覧された教会の中に、それらのお金持ちが実際にいたかどうかは、分かりません。しかしどちらにせよ、ヤコブの手紙は地上の富の持つ問題性や富が神と対抗する偶像になってしまう危険性を、ここで明らかにしていることは間違いありません。富そのものは良いとも悪いともいえない中立なものです。しかし神を忘れ、富に心奪われることによって、色んな問題や危険性が生じてくるのです。
◎今日の5章4~6節において、富に心を奪われたお金持ちの問題性が、三つの観点から語られています。まず、4節にこう言われています。「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」大土地所有者であるお金持ちは、たくさんの労働者を雇って作物を栽培していました。ところがその金持ちは、賃金を労働者に払わなかったか、正当な額を支払わなかったのです。
 イスラエルの労働者の多くは貧しく、貯蓄することなどできなかったと言われます。その日その日もらう賃金によって食べ物を買い、何とか家族が食いつないでいた。けがや病気をしても労働者を助ける制度はありません。その日その日の賃金で生きていた。そのため律法であるレビ記19章13節は、次のように定めていたのです。「あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。」ところが土地を所有する金持ちの中には、自分の利益が減ることを惜しんで、正当な賃金を支払わない人がいたのです。そんな律法を無視した不正に対して、労働者たちの叫びが「万軍の主の耳に達した」。正しい裁きをされる主なる神は、そのような不正を放置してはおかれない。かならず正しい裁きを下されるというのです。
 この金持ちの不正は、日本に生きる今日のキリスト者と無関係でしょうか。私たち一人一人は、事業をしていてもそのような不正とは無縁だと言うかも知れません。しかし、私たちの日頃の食生活を考えてみましょう。私たちが食べる牛肉1キロを作るために、11キロの穀物が必要です。豚肉は7キロ、鶏肉は4キロ必要だそうです。そして、日本を含む先進諸国が消費する穀物の6割(4億トン)が、牛、豚、鶏を育てる飼料にされているのです。その飼料にされる穀物は先進諸国だけでは賄いきれず、発展途上国や貧しい国から輸入します。しかし経済力に勝る先進諸国は穀物を大量に買い付け、穀物の値段も上昇してしまいます。それによって、本来貧しい国の人々の口に入るはずの穀物を、その国の人々は買うことができません。結果として貧しい国の人々の食料となるべき穀物が、豊かな国の人々の食卓を飾る牛肉や豚肉を生産するための飼料となってしまうというわけです。私たち一人一人は自覚していませんが、豊かな国と貧しい国の経済格差によって、貧しい国の人々が本来食べるはずの日々の糧を、構造的に奪い取っていることになるのです。
◎次に5節には富の問題性が、次のように語られています。「あなたがたは地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ」ている。ここのお金持ちは、不正な仕方で貧しい労働者からかすめ取った富を、ぜいたくや快楽につぎ込んでいました。刹那的な楽しみを追い求めていました。しかしぜいたくや快楽にうつつを抜かす間に、彼らは大事なことを見過ごしていたのです。それは、自分のすぐ側に貧しい隣人がいるということ。そしてぜいたくや快楽の報いを、やがて受けなくてはならないということです。
 ルカによる福音書16章19節以下に、主イエスが語られた「金持ちとラザロ」のお話があります。金持ちは「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしてい」ました。一方ラザロは、できものだらけの貧しい人であり、金持ちの「食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだ」と思っていましたが、与えられることはありませんでした。金持ちは、貧しくできものだらけのラザロなど、まるで視野に入っていなかったのです。
 しかし、死んで後金持ちとラザロの立場は逆転します。ラザロは天の祝宴に招かれ、アブラハムの側(そば)にいます。一方金持ちの方は、アブラハムのもとにいるラザロを遠くに見ながら、ゲヘナの炎の中でもだえ苦しんでいたのです。そして呼びかけられたアブラハムは、金持ちに向かってこう言うのです。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(16:25)。
 ここのラザロと金持ちの寓話は、ぜいたくと快楽に夢中になっていた金持ちが、自分の家の門前にいる貧しい隣人ラザロの存在に、まったく心を留めていなかったことを示しています。富に魅入られ夢中になると、人は隣人のことなど眼中から消えてしまいます。貧しい隣人を見ても、何一つ憐れみを示さない者となってしまうのです。これが富める者の第二の不正です。しかし、このような不正は、必ずその結果を刈り取ることになります。神さまは驕るものを引き降ろし、苦しみに沈んでいる者を高く引き上げてくださるのです。
 富による第三の問題性は、5章6節に記されています。「あなたがたは…正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」古代においては現代とは比べものにないほど、不正な裁判が横行していました。たとえばお金持ちが、賃金の未払いで法廷に訴えられたとします。どちらが有罪であるかは火を見るより明らかです。しかし、富や権力を持つ者が裁判をねじ曲げ、自分に有利な判決を出させることは、決して少なくはありませんでした。お金で証人を買収して嘘の証言をさせること、裁判官に賄賂を渡して自分に都合のよい判決を出させることもありました。中にはやってもいない濡れ衣を着せられて、死刑に処せられるという不条理もありました。
私たちはイエス・キリストが十字架に付けられる過程で、どれほど不正な裁判が行われたかを、福音書の記事から知らされています。富を持つ者が、富の力に物を言わせて、正しい人を罪に定め、その人を亡き者にしてしまう。そのような恐ろしい不正が起こり得るのです。「隣人に関して偽証をしてはならない」という十戒の第9戒が、富の力によって踏みにじられてしまうのです。
 このような富の力に依り頼む人々は、富を天にではなく地上にのみに積み、神ではなく富にのみ仕えてきた人々です。そのことが5節の「屠られる日に備え、自分の心を太らせてきた」という皮肉たっぷりの言葉で語られているのを見ることができます。「屠られる」というのは、小牛などの動物が犠牲の捧げものとして屠られる、あるいは食卓のために屠られるという内容をもった言葉です。その屠られる日のために、動物は十分に食物を与えられて太らされます。しかし、それは死ぬために太らされるのです。それとよく似て、金持ちたちの不正の富は自分たちの滅びのために彼らを太らせてきた。自分たちの屠りの日に備えて彼らは自らを太らせてきた。このような痛烈な皮肉を込めてヤコブは語ります。
 ヤコブはこう語ることで、地上の終わりのことを言っているのではありません。終末的な審判のことを語っています。その日が来ることを彼らは知らない。その裁きを行われる神を、まったく知ろうともしない。神を恐れることもしない。自分たちの終わりが、永遠の滅びに至る死であることを知らない。富の享楽にふけることの究極の悲しさはそこにあるということを、私たちは教えられるのです。
◎先ほど6節で、富める人々が不正な仕方で裁判をねじ曲げ、「正しい人を罪に定め、殺した」という御言葉を読みました。この「正しい人」とは誰かについて、昔から論じられてきました。この「正しい人」は単数形ですが、集合概念を表していると考えることができます。昔から現代に至るまで、ねじ曲げられた裁判によって罪に定められ、殺された人々がたくさんいます。その人たちすべてのことが含まれていることは間違いありません。
 しかしこの「正しい人」の中心におられるのは、やはり主イエス・キリストではないでしょうか。イエス・キリストは、この地上において貧しい者の側に身を置いてくださいました。その日の賃金によってその日を暮らしていかなくてはならない貧しい者、富める者に搾取され無視されている貧しい者、富の力によってねじ曲げられた不条理な判決を受けなくてはならない貧しい者の側に、身を置かれました。徹頭徹尾貧しい者の側に身を置かれたために、イエス・キリストは十字架の死を遂げられたのです。「屠り場に引かれていく小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように」(イザヤ53:7)抵抗されなかったのです。
 しかし、この徹頭徹尾貧しい者の側に身を置かれたイエス・キリストを、神は復活させられました。主イエスは死に勝利し、永遠の命にいたる道を貧しく哀れな人間に開いてくださいました。使徒パウロは言っています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(Ⅱコリント8:9)。
 私たちキリスト者は今やこのように、イエス・キリストによって豊かにされています。地上の富ではなく天に宝を積む生き方、富にではなく神に仕える喜びを与えられた生き方、地上のものではなく永遠なるものに望みを置く生き方を、主イエスによって可能とされました。ペトロが証ししているように、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださったのです。」(Ⅰペトロ1:4)。そのようにキリストによって豊かにされた私たちなのですから、キリストに倣い、その御後に続く者として、地上の貧しい人たちの側にこそ私たちの身を置くように、促され励まされているのです。
 最初に先進国と貧しい国との経済格差のことをお話しましたが、その経済格差はマイナス面だけではありません。その経済格差のゆえに私たちの送るささやかな募金が、日本国内の何倍もの援助になることもあります。私たちは力の小さい者たちですが、できることは決して少なくはありません。この世にあっていと小さき者を顧み、貧しくされた者の側に立ち続けられた、神さまの御心に適った人生を送っていきたいものだと思います。神さまの御心に適ったことだけが、失われることのない永遠の価値を持つのです。

5月30日礼拝説教

ヤコブの手紙5章1~3節          2021年5月30日(日)
「富は終わりの日に耐えられるか」  藤田浩喜
 聖書において富の問題、あるいは富める人たちの問題がしばしば取り上げられていることは、皆さんもご存じのとおりです。ヤコブの手紙の主題の一つも、富あるいは富と貧しさの問題であると言ってよいでしょう。2章6節、7節において取り上げられている「富んでいる者たち」とは、教会に属していない人々であって、それらの人々にこびて、教会内の人々が、より貧しい人々を苦しめていることが明らかにされ、それに対する厳しい警告がそこで発せられていました。その警告は、「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい」という言葉で、語り始められていました。
 それに対して、今日学ぼうとしている5章1節以下においては、「富んでいる人たち、よく聞きなさい」という言葉で始められています。この「富んでいる人たち」とは、前回学びました4章13節以下で取り上げられている人々が商人であるのに対して、ここではたぶん地主のことが問題にされているであろうと考えられます。しかし、この地主である富んでいる人たちがキリスト者であるか、あるいはそうでないのかということに関しては、解釈が分かれるところです。

 ある人々は、ここで名指しされている「富んでいる人たち」とは、教会に属していない非キリスト者の地主たちであると考えます。一方他の人々は、それとは反対に、「富んでいる人たち」と呼びかけられている人々は、キリスト者の地主であって、この手紙の受取人たち、あるいは読者の中に実際にそれに該当する者たちがいると考えます。
 前者の解釈の場合、つまり、これは非キリスト者、教会に属していない人のことだととらえる場合は、富んでいる人たちは直接この手紙を見たり、それを読み上げる場にいるわけではないことになります。そこでは直接彼らに悔い改めが呼びかけられているのではなくて、むしろ、彼らの悲惨な終わりを教えることによって、キリスト者たちに、どういう生き方をすべきかを示そうとしている言葉としてこの部分を理解することができます。キリスト者たちに悔い改めが呼びかけられていたのではありません。
このような呼びかけがなされても、非キリスト者であるこの富んでいる人たちには、その意味が分からない。きびいしいことが信仰的な言葉で言われても痛くも痒くもない、そういう立場にある人たち、ということになります。ですから、そのような人々の悲惨な最後をヤコブは明らかにすることによって、今手紙を読み、また読まれているのを聞いている教会に属する信仰者たちが、自分のあり方を吟味して、その上で富んでいる者たちとは異なる生き方をするようにと促している、それがヤコブの狙いである、そのように解釈することが一つの可能性です。
 一方、富んでいる人たちを教会に属している地主たちであると理解する場合には、ヤコブの狙いは、その地主たちに直接悔い改めを求めるとともに、一つの教会が、あるいは信仰者の群れが、富のある無しによって混乱を生じさせるのではなくて、真にキリストの恵みによってのみ生きる共同体として自らを回復し整えていくことが求められている、という解釈が可能になります。群れが今向かっている方向、群れの今の状態、それを大きく変えて、とりわけ富める人々の傲りが打ち砕かれて、パウロが勧めるように「体に分裂がなく、各部分が互いに配慮し合って」生きる教会の本来の姿を目指していくことが求められている、これが第二の解釈になります。
 そのいずれの解釈が、この手紙の状況に即しているのかを決定することは困難ですけれども、それぞれに意味のある捉え方であることは確かです。見落としてならないことは、ほとんどの人々にとって魅力があり、また、幸福に結びつくはずの富というものを、ヤコブが危険なものと見なしている点です。それは、何もヤコブに限られたものではなくて、旧訳聖書、新約聖書の全体を貫いている一つの思想である、と言ってもよいものです。「富」そのものが悪とか無価値であるというのではなくて、それはある意味では必要なものです。善悪ということから言えば、中立的なものであると考えてよいでしょう。
 しかし、それは人間にとってある種の悪魔性を持っている、人を誘惑する力を持っているものであるというのが聖書の考え方です。そのような性格や特質をもつ富への人間の関わり方、姿勢によって、つまり、その富の獲得の仕方、その用い方によって、その人の人間性が測られる、もっと言うならば、神との関係が決定づけられる、ということまで聖書は語っています。それゆえに、聖書は繰り返し、富や富める人を問題にするのです。
 その言葉は私たち自身にも関わってくる事柄です。私たちの心に時には不快に響く言葉、あまり聞きたくないような言葉も聖書の中には出てきます。むしろ、そういうものを素直に聞くこと、それが私たちの生き方を新しくするものとなります。そういう力をその言葉は秘めているという思いをもって、不快に聞こえる聖書の言葉も私たちは聞いていかなければなりません。

 ヤコブは、この5章1節以下においては、これまでの、愛する兄弟たちよ、といった勧告的、訓戒的な調子ではなく、むしろ、旧約の預言者が、イスラエルの民の罪を責め、悔い改めを求め、裁きを宣告するような強く厳しい調子でこの部分を書いていることに、私たちは気づかされるのではないでしょうか。ヤコブの心に、富める者の不義と傲りとに対するはげしい怒りとともに、その終わりの時の悲惨さに対するあわれみが秘められています。そのような心から出てくる言葉である、という思いがいたします。これが私たちにどう関わってくるのか、そういう問いを持ちながら、私たちは5章1節以下の言葉を学んでいかなければなりません。
 そのような思いを持ちながら、富める人たちの悲惨さをヤコブがどのように語っているかを見てみましょう。1節においてヤコブは、「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい」と語りかけています。「泣け」ということは、旧約の預言者たちがしばしば口にした言葉でした。「泣き叫べ、主の日が近づく。全能者が破壊する者を送られる」。これはイザヤ書13章6節の言葉です。自分たちの滅びの日が近づいたことを知って、「泣き叫べ、泣きわめけ、泣け」と旧約の預言者たちはイスラエルの民に繰り返し語りました。
 ヤコブは、富んでいる人たちにふりかかってくる不幸を思って、泣きわめけ、と言っています。これは旧約の預言者の心と同じである、ということが分かります。彼らの不幸とは何か。その第一は、彼らを富ませている富そのものが富でなくなることがある、ということです。そのことが三つのものを用いて描かれていることが分かります。
「富が朽ちる」ということが最初に出てきます。地主としての富ですから、穀物のことが考えられているのかも知れません。大量に穀物を蓄えても、それが腐ってしまうことがあるのだ、あるいは、土地を広く持っていても、土地が使いものにならなくなることもある。富は朽ちるという不幸が襲うことが第一に語られています。また、衣服や着物も古代の人々にとって大切な宝でしたけれども、これも虫がついて食い破って財産としての価値を失うことがあるという不幸も語られています。さらに、金や銀といったとっておきの宝さえさびてしまうことも3節で記されています。実際にはそう簡単にさびたり、朽ちたりすることのない金銀でさえ、使いものにならなくなる時が来るというのです。このように彼らの不幸の第一は、自分を偉いものとしていた地上の宝、自分の将来を保証すると考えていた地上の宝は、永久不変なものなのではなく、それが朽ち果て使いものにならなくなる時が来るのに、それを知らないことにあります。そのような惨めさが富んでいる人たちにはあるのだ、ということです。
 私たちはイエス・キリストの言葉を思い起こします。「あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また盗人が忍び込んで盗み出したりする」。マタイによる福音書6章19節の言葉です。所有する地上の宝を失ったり、その価値がなくなったりする不幸が富んでいる人たちを襲うことがある。それが第一の不幸として語られていることです。 
 もう一つの不幸は、彼らにはそのように、地上の富の価値を失うとか、富そのものを失うことが起こるだけはなくて、彼ら自身もついには神の前でその命を失うということです。それこそが、泣きわめけ、と言われていることの中心にあることだと言ってよいでしょう。地上の宝を誇り、それに頼って生きる者は、いわば富を自分の神として生きてきた者たちです。しかも、その富はここでは不正な手段を用いて手にしたものであると指摘されています。富が朽ち、金銀がさびていくことは、その所有者自身が神の前にさびていくことのしるしであって、彼らを守ることは、その富には何一つできないのだ、ということです。3節に、「このさびこそがあなたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう」と記されています。地上の宝は終末的な価値を持つものではない、逆に不正な手段によって得た富は、彼らの罪を告発する働きをすることになる。そして、その罪の告発のゆえに彼らは神の前から永遠に滅びてしまう。そのことを知って泣きわめけとヤコブは語ります。
 司式長老が朗読されましたが、旧約聖書エゼキエル書7章19節に次の言葉が出てきます。「彼らは銀を外に投げ捨て、金は汚れたものとなる。主の怒りの日には、銀も金も、彼らを救うことができないからだ。銀も金も、彼らの飢えを鎮めることができず、腹を満たすこともできない。かえって、それは彼らをつまづかせ罪を犯させた。」こうして、富める者たちは、その富のゆえに自らを神の裁きの前に立たせることになる。宝そのものが朽ちていくことがあるという第一の不幸に加えて、その富のゆえに彼らは神の前で裁きを受けなければならなくなるという第二の不幸が彼らを襲います。そして、それこそが究極の悲惨、惨めさといことである、とヤコブは述べています。誰もが死ぬ。しかし彼らの死は永遠の滅びに至る死である。ヤコブは、そこに人々の心を向けさせている。私たちはそのことを、今日の箇所からぜひ学びたいと思います。

5月23日礼拝説教

ヨハネによる福音書14章15~19節       2021年5月23日(日)
「聖霊において共におられる神」  藤田 浩喜
◎今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。イエス・キリストの復活・昇天後、エルサレムで祈りつつ待っていた弟子たちに、約束の聖霊が下された日です。この日は聖霊降臨によってキリスト教会が生まれたことから、教会の誕生日とも言われています。この聖霊降臨日に聖霊が降ったわけですが、その聖霊とはどのようなもので、どのような働きをするのでしょうか。今日はヨハネによる福音書14章15節以下から、そのことを聞いていきたいと思います。
◎まず、今日のヨハネによる福音書14章16節以下に、このように言われています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(16~17前半)。聖霊は、ここでは「別の弁護者」と言われています。イエス・キリストの昇天後、弟子たちのもとには「別の弁護者」が遣わされると言われたのです。
 この弁護者はギリシャ語では「パラクレートス」と言い、「(傍らに)招き入れられた者」という意味を持っています。以前使っていた口語訳聖書では「助け主」と訳されていましたし、聖書によっては「慰め主」と訳しているものもあります。「パレクレートス」とは、困難や、苦難や、疑惑や、あるいは当惑のもとにある人を助けるために、招き入れられる者であることが分かるのです。
◎そして「この方は、真理の霊である」と言われています。主イエスは14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である」と、ご自分のことを証しされました。それゆえ聖霊は、真理であるイエス・キリストと分かち難く結びついており、イエス・キリストを証しする御方なのです。
 パウロはコリントの信徒への手紙 一12章で「…聖霊によらなくてはだれも『イエスは主である』とは言えないのです」(3節)と述べています。聖霊が働かなければ、人はだれもイエス・キリストを救い主として信じることも、告白することもできないのです。
 また、私たちは毎週主日礼拝において『使徒信条』を告白しますが、その中で次のように信仰を言い表します。「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠の命を信じます。」この「聖霊を信じます」のところでは、聖霊が何をキリスト者のもとにもたらしてくださるかが告白されます。それは公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠の命です。聖徒の交わりは聖餐式を表わすとも考えられています。これらのものは、すべて救い主イエス・キリストが、その十字架の死と復活によって獲得してくださったものです。それらの良きものを、キリスト者一人ひとりに届けて実現してくださるのが、聖霊の働きなのです。聖霊の働きが無ければ、私たちはイエスを救い主と信じることはできませんし、主イエスが十字架と復活によって獲得してくださった恵みを、自分のものとすることはできません。聖霊はそれほど強く、私たちとイエス・キリストを結びつけてくださるのです。
 そして、聖霊はそれだけではありません。私たち地上に生きるキリスト者が、今も生きて働かれる復活の主の現臨を、仰ぐことができるようにしてくださるのです。18節以下を読んでみましょう。「わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたのところに戻ってくる。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(18~19節)。
 この御言葉は主イエスが、十字架の死と復活・昇天を遂げられた後のことを、弟子たちに語っておられます。主イエスは栄光のうちに、天の父なる神のもとに帰られます。それによって、世は主イエスの姿を見なくなります。しかし、復活の主イエスは、神の右におられますけれども、聖霊の働きによって残された弟子たち、私たちのもとに現臨されます。聖霊において、地上を生きる私たちと共に歩んでくださいます。だからキリスト者は、みなしごになることはないのです。
 「みなしご(=孤児)」は古代にあって、父親のいない子どものことでした。また、この言葉は敬愛する恩師をなくし、その指導を失った弟子や学生にも使われたと言います。ソクラテスが死んだ時、弟子たちは「残りの人生を、父親に逝かれた子供のように寂しく過ごさなくてはならないと考えた。そしてどうしたらよいか分からなかった」と、プラトンは語っています。
 しかし、主イエスの弟子であるキリスト者はそうではありません。復活の主は聖霊において、キリスト者と共に生きてくださいます。2千年以上前、ペトロやヨハネたちと共に生きてくださったように、キリスト者と一緒に生きてくださいます。私たちはみなしごのような寂しさを、経験することはありません。また、私たちがどのように進むべきか分からなくなった時も、進むべき正しい道を指し示してくださいます。そして、私たちが挫折し、失意の中にうずくまってしまうような時には、私たちの手を取って立ち上がらせて下さり、再び歩み始めることができるように励ましてくださるのです。そして、地上を歩むどのキリスト者に対しても、同じようにしてくださるのです。
 2千年以上前、ペトロやヨハネたちと共に歩まれたイエス・キリストは、彼らとだけしか歩むことはできませんでした。真の人となられた神の御子は、私たちと同じように、時間と空間の制約の中に生きられたのです。しかし、今や天において神の右におられる復活の主は、もはや時間と空間に制約されることはありません。キリスト者がいつ、どんなところにいようとも、主イエスは聖霊において私たちと共におられます。「わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない」という約束の御言葉は、このように恵み深く成就しているのです。
 しかし、このような復活の主の現臨を、世は信じようとはしません。その原因は、17節の後半以下で次のように言われるのです。「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(17節後半)。聖霊なる神の働きは、2千年以上前にエルサレムで起きたペンテコステ以来、今も働き続けています。聖霊の風は勢いよく、今も吹き続けています。しかし、その聖霊の働きを見ようとも知ろうともしないので、復活の主イエスの現臨が分からないのだと言うのです。それとは反対に、聖霊の働きを一所懸命求めるなら、信仰の奥義に至ることができます。復活の主がキリスト者のうちにおられ、私たちキリスト者が主の内にいるということが、確かな実感と共に分かってくるのです。19節「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」。主イエスはそのように言われているのです。
◎では、私たちキリスト者はどうしたら、聖霊の働きを見たり、知ったりすることができるのでしょう。船が帆に風を受けて前進するように、私たちが聖霊の風を身に受けて進むためには、どうしたらよいのでしょう。私自身は、二つのことが大切ではないかと考えています。
 一つは、聖書に聴きながら、聖霊の働きを祈り求めるということです。聖書は聖霊の働きを受けて、初代教会のキリスト者たちが書き記したものです。そのような聖書の御言葉に聴くことによって、私たちは聖霊の息吹に身を浸すことができるのです。また、キリスト者たちは初代教会の初めから、「聖霊よ、来てください」と祈り求めてきました。主イエスが「風は思いのままに吹く」と教えられたように、人は聖霊の風を自分の思い通りにすることはできません。操ることもコントロールすることもできません。しかし、それが聖霊なる神さまの働きであるからこそ、私たちは聖霊が来てくださるように祈ることができるし、そのように祈り求めることが大切なのです。主イエスは言われました。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)。聖霊は、神さまが子とされた私たちにぜひ与えたいと願っておられる良き物なのです。
 二つ目になすべきことは、何でしょう。主イエスは今日の箇所の15節で、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と述べておられます。そして21節では決定的なこととして、次のように述べられているのです。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現わす」。
 「わたしの掟」とありますが、これは冷たい律法や戒律のようなものではありません。これは主イエスが与えてくださった「新しい掟」、「愛の掟」です。今日の箇所の少し前、13章34節以下を見ていただくと、次のように言われているのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(34~35節)。ここで主イエスが言われている愛は、「わたしがあなたを愛したように」と言われているように、主の十字架によって示されたアガペーの愛です。三位一体の神の本質である愛です。ドストエフスキーは「人を愛することは、神がごらんになっているように/その人を見ることである」という深い言葉を記しています。互いに愛し合うということは、キリスト者において、感傷や感情に流されることではなく、意志的なことです。キリストがしてくださったように、相手のために自分を捧げることです。
愛は忍耐と服従によって仕え合うことに他なりません。しかし、そのように隣人を愛し喜んで受け入れるとき、隣人が聖霊に生かされていることが分かります。そしてその隣人から逆に照らされて、自分の内に働いている聖霊に気づきます。するとますます隣人の内に息づく聖霊が分かります。教会という信仰者の共同体は、まさにこの往還(行き来)が行われている場所です。そして、愛し合う中に起こる往還(行き来)を通して、キリスト者は「自らを聖霊の風に委ねきる」生き方へと成長していくのではないでしょうか。
聖霊の豊かな働きは、聖書の御言葉に聴き、「聖なる霊よ、来てください」と祈る個人の信仰生活においてだけではありません。信仰共同体である教会においてなされる愛の業の中にこそ、生き生きと起こります。キリストの愛をもって互いに仕え合う中で、お互いに注がれている聖霊なる神の息吹を、目をみはる思いで知らされ、感じることができるのです。そのことを忘れてはならない、心に深く覚えていたいと思います。

5月16日礼拝説教

出エジプト記3章7~10節          2021年5月16日(日)
「下って来た神」    藤田 浩喜
◎私たちは、イエス・キリストを通して神さまから、キリスト者として召されました。キリスト者として、今の時代に生きています。あらためて考える時、それは一体どのように生きることなのでしょうか。キリスト者として召されているということは、何を神さまから期待されているのでしょうか。今日はモーセの召命の記事を通して、そのことに思いを馳せたいと思います。
◎ヘブライ人を助けようとエジプト人を殺してしまったモーセは、ファラオの追っ手を逃れるために、ミディアンの地に逃亡します。その地でミディアンの祭司エトロのもとに身を寄せ、エトロの娘チッポラと結婚し、男の子をもうけます。そしてエトロの生業(なりわい)であった羊飼いの仕事を受け継ぎ、早40年の年月が経過していたのでした。
 ある日のこと、羊の群れをミディアンの荒れ野に追って行き、神の山ホレブまでやって来ました。するとモーセはそこで、不思議な光景を目にします。柴の間に火が燃えていましたが、燃えるはずの柴が一向に燃え尽きないのです。モーセは、どうしてだろうと好奇心を抱きます。そして、こうつぶやくのです。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」モーセに対する神さまの働きかけは、ここから始まるのです。モーセが召命を受けるきっかけは「好奇心」であり、この好奇心をお用いになって神さまはモーセを召そうとされるのです。
 考えてみると、私たちが信仰者として召されるのは、色んなきっかけを通してです。青年期特有の生きる悩み、「自分は何のために生きているのか」「自分はどこに向かっているのか」という悩みの末に、教会の門をくぐったという人もいるでしょう。戦後のキリスト教ブームの時には、英語を学びたい、アメリカの文化を知りたいという目的で、教会に通った人も多くいました。わたしの知っている信仰者の中には、教会には女子青年が多いので、その女性たちとお近づきになりたいと、教会の門を叩いたという人もいます。その人は教会の役員を長く務めたあと、一念発起して神学校に行き、牧師になりました。神さまは主イエスを通して、色んな仕方で、色んな方向から信仰者をお召しになります。主イエスのところにやって来た人々も、偉くなりたいと野心を抱いていた弟子たちもおりましたし、病気を治してもらいたい一心でやって来た人もおりました。しかし、主イエスはご自分がその人と出会うことで、その人たちを最後にはイエスをキリストと告白する信仰者に成長させてくださいました。召されるきっかけは様々ですが、主イエスは私たちを主が願うような信仰者へと、整え成長させてくださいます。
◎さて、荒れ野の燃える柴のところで、主なる神はモーセに、「モーセよ、モーセよ」と呼びかけます。モーセは「はい」と答えます。すると神さまは、ご自分がモーセの先祖たちの神であることを告げられます。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(6節)。そして自己紹介をされる前に、次のように言われたのです。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(5節)。
この地は後に「神の山ホレブ」として、重要な役割を担うことになります。モーセが「十戒」を授かったのもこの山です。しかし、柴の中で燃える火が聖なる火であるから、その場所が聖なる土地であるというのではありません。最初から
特別に聖なる場所が存在する、というのではありません。神の御前にあること、神がモーセの前に現れてくださっていること、そのことがこの空間と場所を聖なるものとしているのです。
 私たちのことを考えてみても、教会という建物や場所が聖なる土地であるというのではありません。反対に、日々生活を営んでいる家庭や職場が聖なる土地ではない、と言うのでもありません。そこにおいて、私たちが神さまの現前にあるかどうか、神さまがそこにおいて崇められ、神さまが現れておられるかどうかで、
そこが聖なる地かそうでないかが決まってくるのです。家庭でも職場でも住んでいる地域でも、そこで神さまが崇められ、神さまのご栄光が現れているなら、そこは聖なる土地であります。反対にいくら壮麗な礼拝堂や建物があったとしても、
そこに集まる者が神さまの現前にいなければ、聖なる土地とはならないのです。主イエスを通して神さまに召された者たちは、様々な場所や空間を「聖なる土地」へと変貌させていく務めを、担っているのではないでしょうか。
◎ところで主なる神は、どうしてモーセを召し、ヘブライ人の指導者として立てようとなさるのでしょう。その理由が7~9節にはっきりと述べられているのです。読んでみましょう。「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々とした土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有り様を見た…』」。
 主なる神は、今のエジプト王ファラオ、ヨセフのことを知らないファラオが、ゴシェンの地で増え続けるヘブライ人を、圧迫しているのをご存じでした。ヘブライ人の男たちを大きな町の建設に動員し、強制労働させていたこと、ヘブライ人に男の子が誕生したら、その子をナイル川に投げ捨てよという命令を出していたことをご存じでした。民族絶滅政策ともいえる苛烈な圧迫の中で、苦しみ、喘ぎの声を上げるヘブライの民を、主なる神は見ておられました。その苦しみを「見、聞き、知った」神さまは、ヘブライ人の下に「降って行き」、彼らをその抑圧から救い出そうと、行動を開始されます。抑圧から解放するだけでなく、彼らを約束の地、乳と蜜の流れる豊かな地カナンへと導こうと行動を起こされます。その目的を果たすために、モーセを民の指導者として召し出そうとされているのです。 
神さまは高き所におられて、人間どもの愚かな有様を眺めておられたというのではありません。「わたしの民の…痛みを知った」という場合の「知った=ヤダー」という言葉は、知識や認識として知ったという意味ではありません。「アダムはエバを知り、エバは男の子を身ごもった」という場合に使われる言葉で、両者の深い一体性を表わしています。神さまは民と一体となられ、民が受けた痛みを自分が受けた痛みとして感じられました。そして、民の痛みや苦しみ、叫びを放置しておくことができず、民が喘ぐ場所へと「降りて行かれた」というのです。そして苦しめる民を、奴隷の地から救い出し、乳と蜜の流れる豊かな地、約束の地に導き入れるために、今や行動を開始されました。その最初の行動が、ミディアンの地で半ば隠遁生活をしていたモーセを、イスラエルの指導者として召し、表舞台に引っ張り出すことだったのです。
しかし、この主なる神の行動は、出エジプトのイスラエルに限定されたものではないはずです。神さまの造られたこの世界には、今も多くの人々の叫び声があり、苦しみがあり、痛みがあります。現代世界を見渡してみれば、民主的な選挙結果を踏みにじられ、軍事政権の武力と恐怖によって迫害を受け、命すら奪われているミャンマーの民衆の叫び声があります。誤ったシオニズムと国際政治の駆け引きに利用されたパレスチナの人々は、圧倒的な武力を誇るイスラエルによって、日常的に空爆を受け、当たり前の暮らしを奪われています。ガザでの悲劇はその最たるものであり、悲痛な叫びは止むことがありません。また、日本国内においても、諸外国と比べて極端に少ない難民認定のために、政治的・宗教的理由で日本に逃れてきた人たちが、入国者収容所入国管理センターという牢獄に長期収容されたり、命の危険のある本国に強制送還されたりしています。日本に助けを求めて逃れてきた人たちの悲痛な叫びが、今も響いているのです。
主なる神さまは、ご自身が造られたこの世界で上げられている苦しみ、痛みの叫びに、無関心であられるはずはあられません。ご自分が受けた痛みや苦しみとして、神さまも痛み苦しんでおられる。そして、その悩み苦しめる人たちを、苦しみから解き放つために、今も下って来て行動を起こされているのです。私たちキリスト者は、そのような神さまの御業の一端を担うために、信仰者として召されています。そのことがキリスト者の使命として覚えられなくてはならないのではないでしょうか。モーセのような大きな働きを担うことはできないかもしれません。できることは限られているかも知れません。しかし、主なる神さまがそうであったように、私たちは「苦しみ喘いでいる人たちを見、声を聞き、痛みを知ろう」とすることはできます。遠く離れた所で評論家のように論評するだけでなく、その人たちの苦しみや痛みに自分の身と心を寄り添わせることはできます。
そして、私たちのできる方法で、その人たちの痛みや苦しみを少しでも軽減することができるのではないでしょうか。真剣に「見て、聞いて、痛みを知る」。そして深く知ったからこそ、できることを考え、行動に移す。遠い所にいる人から身近な信仰の友に至るまで、苦しみ痛みを覚えている人のもとに、私たちも神さまがしてくださっているように、心と体を携えて行くよう召されている。このことは、私たちが何のためにキリスト者として召されているかということに、深く関わることだと思うのです。
◎もちろん、そのような召しを簡単には受けられないのも、現実の私たちの姿です。モーセも11節を見ますと、神さまの召しに異議を唱えています。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々を導き出さねばならないのですか」。自分の任ではありません。そんなことができるような者ではありませんと、召命を拒むのです。しかし、召された人がその時点で持っている能力や経験、強い使命感が、その人の適格性を決めるのではありません。そういうものが揃っていなくては、召しに応えられないというのではありません。神さまは言われています。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(12節)。主なる神さまは、「神ご自身が共におられる」という確かさが、召された者にとって不可欠のものだと言われているのです。「神が共におられる」。この確信こそが、召された者をその召しにふさわしい者に整えて、成長させてくれるのです。
使徒パウロは今日読んでいただいたフィリピの信徒への手紙2章6節以下で、こう述べています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者となられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6~8節)。信仰者である私たちには、このイエス・キリストが共にいてくださいます。この「神、共にいます」というインマヌエルの出来事以上に、確かで心強いしるしはありません。このインマヌエルであられるイエス・キリストに励まされ支えられて、それぞれが召された信仰者の道を歩んでいきたいと思います。

5月9日礼拝説教

ヤコブの手紙4章13~17節      2021年5月9日(日)
「主の御心の中で生きる」  藤田浩喜
 今日司式長老に読んでいただいたヤコブの手紙4章13~17節は、ある商人たちに呼びかけることから始まっています。13~14節です。「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。」
 ここに言われている商人は、自分のお店で物を売るような小規模な商人ではなく、地中海を股にかけて取り引きをするような大規模な商人であったようです。ある注解書によると、地中海のある場所で新しい町を起こそうとする時、このようなユダヤ人の商人が呼ばれ、各地から建築資材や調度品、燃料や食料品などを調達し、商ったようです。一つの町全体に関わる事業ですから、一年近くの時間がかかり、儲けも莫大であったに違いありません。今日の総合商社のような仕事をしていたのではないかと思います。
 しかしヤコブの手紙は、これから一年にわたる事業を始めようとしている商人たちに、冷や水をかけるようなことを言います。「あなたがたは一年先まで商売の計画を立てているけれども、自分の命が明日どうなっているか分からないではないか。あなたがたの命は、しばらく現れているが、やがて消えて行く霧のようにはかないものではないか。」そのように問いかけるのです。
 ここでヤコブの手紙は、商売をして金を儲けるのが悪いことだと、言っているのではありません。また、将来の事業を建設的に進めるために、綿密な計画を立て準備をすることが間違っていると、言うのでもありません。自分は自分の人生の主人であり、自分の力や才覚で思い通りに人生を進めることができる。自分の人生は自分の手の中にあり、自分の思うがままにできる。そのような思い上がった態度が、ここでは批判されているのです。主イエスが語られたたとえ話に、「愚かな金持ちの」たとえがあります(ルカ福音書12章13~21節)。あるお金持ちの畑が大豊作で、倉に収まらないほどでした。そこで新しい倉を建て、そこにすべての穀物を収めることを思いつきます。お金持ちはたくさんの蓄えができ、安心して飲み食いできると喜びます。しかし安心したのもつかの間、その金持ちの命はその日の夜に取り上げられるというのです。金持ちは財産を蓄えることはできましたが、自分の命を保つことはできなかったのです。
 今、関西3府県ではコロナ禍第4波が猛威を振るっています。ウイルスが変異株に置き換わったために感染力が3割程度増しただけでなく、より若い世代でも重症化することが分かってきました。そしてなお悪いことに、何でもないような人が短時間の内に重症化し、医療の逼迫と相まって、命の危機に直面しなければならないような事例も増えています。昨日までぴんぴんしていた人が、自分も全く予想もしなかった仕方で、死を迎えなくてはならない。だれにその番が回って来るかは分からない。ヤコブ書が言うように、「わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎ」ないのが、私たち人間という存在なのです。
◎では、そのような私たちはどのような心構えで、人生を生きて行ったらよいのでしょう。ヤコブの手紙は15節で、次のように語るのです。「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」。「主の御心であれば」、「主が望まれるのであれば」ということを前提にして、計画を立てたり、行動を起こしたりするということです。
 この「主の御心であれば」は、「ヤコブの条件」と言われ、初代教会以来、キリスト者の合言葉として使われてきました。使徒パウロもコリントの信徒への手紙 一 において、「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう」(4:19)とか、「主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています」(16:7)と述べています。自分の願いや計画を絶対視するのではなく、主なる神の御心を尋ね求めること、その御心に自分をゆだねていくことが、キリスト者の生き方なのです。
 それはもう少し具体的に言うと、次のような二つの心構えとして表現できるのではないかと、私自身は考えています。一つは一日一日を、神さまに与えられた時として生きて行くということです。先ほどの御言葉にありましたように、私たちは明日どうなるか分からない命です。明日のことは誰にも分かりません。また、明日のことを思い煩ったからといって、少しでも寿命が長くなるわけでもありません。私たちの命は神さまの御手の内にあります。ですから、一日一日を神さまが与えてくださった時として、日々受け取っていくのです。「神さま、今日も新しい命に生かしてくださってありがとうございます」と感謝の祈りを捧げ、神さまの御旨を尋ねつつ、聖書の教えにかなった一日を過ごしていく。その積み重ねが、キリスト者の生き方を形づくっていくのだと思うのです。
 エジプトを出て、40年間荒れ野を旅したイスラエルの民は、毎日一日分のマナを神さまからいただいて生きていきました。天からの食物であるマナをその日ごとに新しくいただいて、神の民として歩んでいきました。それと同じように、御子イエス・キリストを通して、その日ごとの命を神さまからいただいていく。それが、新しい神の民であるキリスト者の生き方なのだと思います。
 二つ目に大切なことは、自分の計画が実現することよりも、主の御心がなることこそが最もよいことだと信じ、受け容れていくということです。旧約聖書の箴言16章9節に、次のように記されています。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えて下さる」。また同じ箴言19章21節には、「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」とあります。人は様々なことを計画し、実行します。しかし、神の御心でなければ事はならない。このような信仰による人生の受け止め方、このような人生に対する洞察は、人間の行動力を殺すことは決してありません。逆に、その人を行動へと向かわせ、祈りつつ精一杯取り組む姿勢を生み出します。そして、そのようになした事柄の結果がいかなるものであったとしても、自分の願う結果でなかったとしても、それを受け止める力がその信仰から生まれて来るのです。
 バークレーという聖書注解者は、この個所について次のように述べています。「真のキリスト者の道は、未来の不確実性による恐怖におののくのではなく、またこれに麻痺して無為に過ごすのでもなく、神の御手の中にある未来とわたしたちのいっさいの計画に全力投球し、常にわたしたちの計画そのものが神の計画から外れることもありうることを記憶することである。」私たちキリスト者は、自分が正しいと信じた使命に全力投球で取り組まなくてはなりません。それは教会の宣教においても、キリスト者個人の生き方においても大切です。しかし、そのような私たちの全力投球の計画が、神さまのご計画から外れてしまうこともあります。使徒パウロもアジア州での伝道を志ましたが、聖霊によってアジア州で御言葉を語ることを禁じられました。しかしパウロは、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを救ってください」と言うマケドニア人の幻を見て、マケドニアに行く決断をします。パウロはこの幻を見たとき、「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを召されているのだと、確信するに至った」(使徒言行録16章10節)と証ししています。「主の御心であれば」というのは、自分の計画が実現することよりも、主の御心が実現することこそが最もよいことだと信じて、それを受け容れるということなのです。
◎しかし、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」というヤコブの条件は、そう簡単に守ることはできません。人間は自分の人生の主人ではなく、明日の命を保証することもできない者ですが、それでも主人のように振る舞い続けてしまうのです。そのことをヤコブの手紙は、15~16節でこのように言うのです。「ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」ヤコブの手紙4章は、主の前にへりくだり、謙遜な者となるように勧めてきました。しかし、実際の人間は、主の前にへりくだり、謙遜になるのではなく、誇り高ぶってしまっている。なすべき善を頭では分かっていても、実行に移そうとしない。主の御心にゆだねる生き方をしようとしない。それは神さまの御心に背くことであり、罪であるとヤコブは言うのです。
 ここで使われている「誇り高ぶる」という言葉ですが、ギリシャ語では「アラゾネイア」という言葉です。この言葉は語源をたどると、放浪性のあるやぶ医者の特徴を表していると言われます。やぶ医者は治ってもいないのに治ったと言い、彼がやりもしなかったことを成し遂げたと誇りました。それゆえ「アラゾネイア」というのは、自分がもってもいないものをあるように言ったり、できもしないことを誇ったりする人の特徴を示しているのです。残念ながら、明日は人間の手の内にはありません。明日の命がどうなるかも分かりません。私たちの中の誰一人、明日は自分で決定できると、誇り高ぶって言うことはできないのです。
◎今日は、「神の御心ならば」ということに思いを集めてきました。しかし、そのような神の御心の中心にあるものは、そもそも一体何なのでしょう。色んな言葉で語ることができると思いますが、ヨハネによる福音書の言葉から、神の御心は何なのかを最後に見てみましょう。6章40節です。イエス・キリストが語られた神の御心は、次のように記されています。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」神の御心は、たとえ地上でどんなことが私たちの身に起こることがあるとしても、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることなのだ。地上でいかなる苦しみ、艱難があったとしても、主に結びつく者が永遠の命を得ることこそが神の御心である、と主は語ってくださいます。
私たちの上には、死の陰が覆っています。そして陰は事実になる、やがて真の出来事になるのです。それを避けることはできません。しかし、今主の言葉を聞く時に、私たちの上を覆っているのは死の陰だけではありません。それ以上に、復活の光が強く私たちの上に降り注いでいます。そして、これもまた事実となる、真の出来事として私たちに起こるということを、知ることができるのです。
生きている時も、死ぬ時も、主なる神の御手の中にある私たちです。それと同じように、いやそれ以上に死を通して、新しい命に招かれることも神の御手の中にあるのです。神の御心がそれほどに深く、それほどに恵みに満ちたものであることを、私たちはあらためて噛みしめたいと思います。

5月2日礼拝説教

ヤコブの手紙4章11~12節    2021年5月2日(日)説教
「人を裁く罪」   藤田浩喜
 今日お読みいただいた聖書には、「悪口を言い合ってはなりません」とか「兄弟を裁いたりしてはなりません」と言われています。「悪口を言う」、「人を裁く」ことは、社会においてしばしば行われています。人間が生きる社会には「つきもの」と、言わざるを得ないのかも知れません。特に今コロナ禍の中にある日本の社会では、その傾向が強く表れているように思います。自分の考え方と同じ考え方をしない人を激しく攻撃したり、自分と同じように行動しない人を断罪したりしてしまいます。自分の考えや行動は正しいと信じて疑わず、そこから少しでも外れている人を見かけると、許すことができないのです。
 三浦綾子さんの小説に『裁きの家』という作品があります。大学教授である兄と普通のサラリーマンである弟と、その二組の家庭で展開される夫婦、親子、兄弟、嫁姑の人間関係における家庭の問題、その確執が描かれ、作品全体を通して、「人は人を裁くことができるか」という鋭い問いを投げかけています。
 この兄弟の母クメが、兄の家から弟の家に引き取られるあたりから物語は始まり、姑のクメを引き取ったことで、嫁の優子はいろいろと葛藤することになりますが、彼女が次のように語るところがあります。「考えてみると、すでに自分たちは、日々人を裁き、また裁き合っている。朝起きた時から、夜に至るまで、いや夢の中でさえ、自分は人を裁き、人を責め、人を怒っていると優子は思った。クメが花や置物の置き方を、優子の置いた反対に置くことで、優子は繰り返し怒ってきた。クメが新聞を読む時に、経文を読むように節をつけるのを嫌ってきた。クメが修一に嫌味を言う度に、優子はクメを憎んで来た。クメが外出するとホッとし、帰る時間になると憂鬱になった。つまり、ありていに言えば、姑のクメなど、この家にいてはもらいたくなかったのだ。何かに書いてあったが、自分のそばに特定の人がいることを嫌うのは、つまりその人を見たくないということだ。もっと鋭く言えば、永久にその人の顔を見なくてもいいということなのだ。(それは)その人は死んでくれということなのだ、とその本には書いてあった。自分では気づかずに、自分はクメの死を願っていたことになる。クメは死に価する何をしたというのだろう。少しのことが気に入らないからと言って、人間は何と恐ろしい気持ちを持つものであろうと、優子は今しみじみ思った」と。
 優子という名のごとく、優しい心の持ち主である優子にも、冷たく厳しく人を責める恐ろしい心が宿っていたのです。また兄の嫁・滝江は悪徳な女性で、ひとり息子の清彦は自動車のブレーキを故障させて、殺すことを考え実行します。そして自分の前で事故が起こります。しかし殺したいと思っていた母は死なず、清彦が好きであったおばさんの優子がその車に同乗していて、死んでしまうのです。清彦は獣のような声を上げて、坂の下に向かって走っていった、というところで物語は終わります。清彦という名のように、人を裁く資格があるとすれば、最も清く正しく冷静である清彦でしょう。しかしその裁きは失敗に終わるのです。
 三浦さんは本の「あとがき」で、「『家庭は裁判所ではない』ということを、わたしは度々口にする。しかし、現代は家庭もまた裁き合う場であって、憩いの場でもなければ、許し合う場でもなくなっていると言える」と述べておられます。
 そして家庭だけではありません。主イエスを信じる信仰者の集まりである教会もまた、悪口を言い合ったり、兄弟姉妹を裁いたりする場になることがあるのです。新約聖書の手紙の中に、いわゆる「悪徳表」というものが幾つも収められています。その悪徳のリストの中に、悪意とか悪口、あるいは陰口をいったものが必ず含まれています。「そういったことを避けなさい」と勧められています。そのような悪徳表を記した手紙が、各地の教会に宛てて書かれていたということから、悪口を言うことや言葉で兄弟姉妹を裁くことが、教会の交わりを揺るがす大きな問題になっていたことを伺い知ることができるのです。教会もまた『裁きの家』になってしまう危険性を秘めているのです。そうではないでしょうか。
 そのような危うさを秘めた教会に、ヤコブは今日の言葉を語っているのです。あらためて読んでみましょう。まず11節でこう言います。「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし、律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。」同じ教会の兄弟姉妹の悪口を言ったり、裁いたりする。これは相手のことを間違っていると否定し、断罪することです。しかしこれが律法を裁くことになるというのは、どういうことでしょう。
 先に学んだヤコブの手紙2章8節で、ヤコブはこう言っていました。423頁。「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。」ヤコブは「隣人を自分のように愛しなさい」という教えを、最も尊い律法と見なしていたことが分かります。隣人を愛するように神が命じておられるのに、隣人の悪口を言い、隣人を裁くということは、律法を裁くことになります。そしてそのことは、この教えに込められた神の心を踏みにじることになります。それどころか、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を与えられた神に代わって、自分が裁き手になってしまうことなのです。
 旧約の律法を成就するものとして、イエス・キリストもヨハネによる福音書13章34節で「新しい掟」を与えられました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」キリスト者は、イエス・キリストが全存在をかけて与えてくださったこの新しい愛の掟を、実践することが求められています。この愛の律法に従い、この愛の掟の実践者となることが大切なのであり、それと対立するような律法を立てて、人を裁くようなことをしてはならないのです。神が私たちに求め給う兄弟姉妹との関係は、互いに排斥しあうことではなくて、互いに愛し合うことです。それは別の言葉で言えば、互いに生かし合うことです。悪口と裁きの言葉を語るのではなく、赦しと励ましと希望の言葉を語り合うことなのです。愛の掟にこそ、私たちは従う者でありたいと思います。
 それに続けて、ヤコブは12節で次のように語ります。「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになります。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」。ここでは、隣人や兄弟姉妹に悪口を言ったり、裁いたりする立場に、私たちはない。そんな務めは与えられていないと言われているのです。そんな、与えられてもいない務めを行うあなたは何者かと、諫(いさ)められているのです。
 私たちは教会の兄弟姉妹との関係の中で、色んな思いを抱くことがあります。「あの人の言っていることや行っていることは間違っている」と、強く感じることもあるでしょう。そのような思いが募るうちに、「相手の人を甘やかしてはならない」、「厳しく断罪することが相手のためだ」と、思い込んでしまうことがありはしないでしょうか。自分の批判の言葉や厳しい態度が、相手を正しい方向に立ち直らせることができると、思い込んでしまうのです。
 確かに愛を込めて忠告したり、愛を込めて何かを相手に伝えようとすることは無駄ではありません。主イエスも「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とか「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」(マタイ18:15~16)と教えておられます。対話を通して、御心に沿った思いを伝えることは大切です。
 しかし、どこまでも私たちが忘れてはならないのは、キリスト者である一人ひとりには、主人であるお方がおられるということです。そして、このお方だけが兄弟姉妹を御心にかなった正しい方向に立ち直らせることができるのです。ローマの信徒への手紙14章4節を読んでみましょう。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」一人ひとりのキリスト者の主人は、神であられます。その神が、一人ひとりを赦し、愛し、生かし、またご自身の用に用いようとしておられます。たとえ間違った方向に進んで倒れてしまっても、神がその人を立ち上がらせることがおできになります。私たちが兄弟姉妹のためにできることは、この神を越えて人の生き方を指図することではありません。愛を込めて忠告したり、愛を込めて何かを相手に伝えようとすることはあるでしょう。しかし最終的にわたしたちができることは、一人ひとりの主人であり給う神に、その人のことを祈るということです。それはこの神に、兄弟姉妹を委ねるということなのです。
 私たちの悪口や裁きは、人を立たせることができないことが多いのです。しかし、主はその人をもう一度立たせることがおできになります。真にその人にふさわしい生き方を造り出してくださる神に、私たちは委ねることができるし、委ねなければならないのです。
 預言者イザヤは、神の言葉を次のように取り次いでいます。「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。…わたしの目にあなたは値高く、貴く/わたしはあなたを愛する。」イザヤ書43章1節、4節の言葉です。
わたしはあなたの名を呼ぶと、一人ひとりに向かってイエス・キリストの父なる神は語りかけて下さっています。あなたはわたしの目に値高く、貴いものである。わたしはあなたを愛する。神はこのように一人ひとりに向かって、語りかけてくださっています。神がわたしのものと言われる人を、私たちが裁くことはできません。神が、わたしの目に貴いと言われたその人を、私たちが裁くことは許されません。この主なる神が一人ひとりに向けておられる愛の眼差しを、私たちが妨げることがあってはならないのです。
 神が一人ひとりに向けておられるあの眼差し、その眼差しがまさに私たちにも向けられています。それを覚える時、私たちの口から出るのは、悪口や裁きの言葉ではなく、感謝と賛美の言葉、そして共に生きようと励まし合う言葉であるはずです。私たちは、信仰に基づいてヤコブのこの戒めを、謙虚に、そして新たな示しを受けつつ、聞き取っていきたいと思います。

4月25日礼拝説教

ヤコブの手紙4章7~10節        2021年4月25日(日)
「もっと神に近づこう」  藤田浩喜
 今日司式長老にヤコブの手紙4章7~10節を読んでいただきました。ここには、十の戒め、命令があります。旧約聖書にモーセの十戒がありますが、それに因んでか、この個所が「ヤコブの十戒」と呼ばれることがあります。十というのは完全数です。たまたま十になったのではなく、無数に多くある戒めの中で、煮詰めていって、熟慮の結果、ここに十の戒めとしてまとめたのでしょう。ここに大切な戒めのすべてが、象徴的に凝縮して語られていると言ってもよいのです。それほど大切な戒めとして受け止めたいものです。もちろんここにはキリストの十字架の血によって贖われた者として、ふさわしく生きるべき道が示されています。それは救いの道であり、福音的戒めなのです。

 まず①「神に服従しなさい」とあります。この言葉は10節の「主の前にへりくだりなさい」という戒めとみごとに対応しています。この二つの言葉がサンドイッチのように囲んで、あとの8つの言葉をはさみこんでいます。まず「神に服従しなさい」と言い、そして最後に「主の前にへりくだりなさい」と言うのです。これらはすべて2人称複数形で、「あなたたち……しなさい」となっているのです。私たちひとりの例外もなく命じられています。「服従する」は「下に置く、下に配置する」の意味ですが、神の大いなる支配の下に、自分を置くことなのです。神の力強い支配の下に服し、あらゆる恵みの源である全能の神の力の前に屈服することです。
 次に②「悪魔に反抗しなさい」とあります。神に服することは、決して不自由ではなく、悪魔に反抗し対抗することです。悪魔の束縛から自由になることです。悪魔なんか神話的存在だと思われるかも知れませんが、きわめて現実的実在的な存在なのです。神に服従しようとする時、悪魔が現れるのです。悪魔なんかいないと思っている間は、神に従っていない証拠です。旧約聖書でヨブが神に忠実であったから、サタン・試みる者の厳しいテストを受けたとあります。主イエスも洗礼を受けて、いざ神に従おうとした時、荒れ野で悪魔の誘惑に遭われました。神に一歩でも近づこうとする時、悪魔が現れるのです。悪魔の手下になっている間は、悪魔は攻撃してきません。いざ神に服従しようとする時、悪魔が登場して、神に近づくことを妨げるのです。祈ろうとする時、悪魔は祈りを妨げようとします。しかしその時、悪魔に反抗し、敢然と立ち向かいなさいというのです。エフェソの信徒への手紙6章13~17節には「神の武具を身につけなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、…その上に、信仰を盾として取りなさい。…救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」とあります。このように悪魔に対抗するためには、完全防御、完全武装の態勢が必要なのです。そうすれば悪魔は逃げていきます。これはエフェソ書の信仰の経験であり、またヤコブの信仰の経験であったに違いありません。ここに悪魔のアキレス腱、弱点・ウィークポイントがあるのです。
 さらに③「神に近づきなさい」とあります。神にアプローチする、神に近づくことができるのです。本来、神は天にいます方です。遠くにおられる方です。しかしイエス・キリストにおいて、限りなく近くに来てくださいました。だから私たちは神に近づくことができるのです。私たちが神に近づこうとする時、神はこんなにも近くにいてくださったのだということを知ることができるのです。私たちが神に近づく時、神は急接近してくださいます。これも神に近づく者の経験なのです。
 続いて④と⑤では、「罪人たち」と呼びかけています。立派で正しいと思われる人も、みな罪人にすぎません。人生を経験すればするほど、自分の罪の深さを経験することになります。人の前に顔を上げられないような罪深い者なのです。そのように呼びかけて、「手を清めなさい」、「心を清めなさい」と勧めます。「心の定まらない者たち」とは「二心の者」で、神とこの世に同時に心が引かれている者ということです。ここでは「手」と「心」が対になっています。手は外なる行為を示し、心は内なる思いを意味しています。
 そして⑥「悲しみなさい」、⑦「嘆きなさい」、⑧「泣きなさい」と語っています。これは私たちの常識とは反対のことを言っています。人生において、私たちは悲しみの涙を流し、嘆きがあり、号泣することもあります。そこで悲しむな、嘆くな、泣くなというのではなく、悲しみ、嘆き、泣きなさいというのです。まだ悲しみ、嘆き、泣くことが足らないというのです。言い換えれば、私たちの本当の姿は、悲しみと嘆きと涙にあふれた存在なのです。人はみなやがて下される神の裁きの前に立つことになるからです。自分の罪、最後の絶望を覚えて、少しは悲しみ、自分の最後のことを覚えて嘆き、自分の弱さを知って泣きなさい、と言うのです。
 そして⑨「変えなさい」と言っています。「笑いを悲しみに、喜びを愁いに変えなさい」と言うのです。「愁い」は意気消沈、意気阻喪、失望落胆することを意味しています。今、笑っている人は、悲しみなさい。喜んでいる人は、落胆しなさい。このような悲しみ、嘆き、泣き、落胆することをまとめるかのようにして、最後に⑩「主の前にへりくだりなさい」というのです。6節の「謙遜」と10節の「へりくだりなさい」は同根の言葉です。ブックエンドのように、二つの言葉が囲んでいます。この「へりくだり」の中に、神の恵みが輝き現れているのです。神の恵みとは何か。どこに現れるのか。へりくだりの中に現れるのです。
 トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』の中には「けんそん」という言葉が繰り返し出てきます。しつこいほどに出てくるのです。トマス・ア・ケンピスという人は、1380年にドイツのケルンに近い、ケムペンという所で生まれました。父はヨハン・ヘメルケンで、従ってケムペンのトマス・ヘメルケンというわけで、トマス・ア・ケンピスというのです。彼は生涯、修道士として生き、若い修道士の指導をしました。雄弁な説教者でしたが、けんそんな人でした。「沈黙が彼の友であり、仕事が彼の伴侶であり、祈りが彼の助けであった。彼は人知れず働くことに甘んじていた」と自ら書いています。また「へりくだって服従すべきこと」という文章の中で、次のように書いています。「人がへりくだって自分の欠点を認めるならば、たやすく人を和らげ、感情を害した相手とすみやかに和解するであろう。神はへりくだる者を守り救い、愛し慰められる。へりくだる者に彼は御自分を傾けられる。へりくだる者に彼は大いなる恵みを与え、そのへりくだりの後にこれを光栄にあげられる。へりくだる者にその奥義を示し、いつくしんでこれを自分に引き寄せられる。悩みのさ中にあってもなお、へりくだる者は全く平安のうちにいる」。そしてここにたたみかけるようにして、へりくだることを勧めています。それは私たちが高慢な人間だからです。しかし「神はへりくだる者を守り救い、愛し慰められる。へりくだる者に彼は御自分を傾けられる。へりくだる者に彼は大いなる恵みを与え、そのへりくだりの後にこれを光栄にあげられる」と書いているのです。
 神はへりくだる者、謙遜な者に傾斜されるのです。へりくだる者に神は恵みを与えられます。私は恵まれていないと思う時があるなら、みずから謙遜でないことを肝に銘じるべきなのです。謙遜の中にこそ、神の恵みは輝き現れるからです。フィリピの信徒への手紙2章にある「キリスト賛歌」の中には、「キリストは神の身分でありながら、…自分を無にして、人間の姿で現れ、へりくだって、死にいたるまで従順でした」とあります。この「へりくだって」がヤコブ書に出てくる「へりくだりなさい」と同じ言葉です。ただ異なるのは、今日の個所では受身形で出てきます。主イエスはご自分で「へりくだった」のです。しかし私たちは自分がいくら努力し修業を積んでも、へりくだることはできません。ますます高慢になってしまいます。だから神の力によって、聖霊の働きによって、「へりくだらせられなさい」というのです。へりくだること自体が神の働き、恵みです。へりくだったところ、そこに神の恵みが輝き現れるのです。そして主イエスを引き上げられた神は、へりくだる者を高めてくださいます。私たちは自分の弱さ、貧しさ、悲しみ、罪と絶望を経験するばかりですが、しかし神は高めてくださるとの約束を抱きつつ、望みをもって生きることができるのです。
 ジョン・ウェスレーだったと記憶していますが、臨終の時に、弟子が「人生で第一に大切なことは何ですか」と聞くと、「謙遜である」と言いました。「第二は何ですか」と聞くと、「謙遜である」と言い、さらに「第三は何ですか」と聞くと、「それも謙遜である」と言ったといいます。「一にも謙遜、二にも謙遜、三にも謙遜」なのです。キリストは謙遜であられました。聖霊の導きによって、このようなキリストに倣うものでありたいものです。

4月18日礼拝説教

創世記49章29節~50章6節         2021年4月18日(日)
「取り消されない神の愛」   藤田浩喜
◎今日司式長老に読んでいただいた聖書箇所は、創世記の最後のところです。ここには、族長ヤコブが生涯を閉じたことと、その壮麗な葬りのことが記されています。ヤコブは亡くなる前に、息子たちに命じます。それは自分をどこに葬ってほしいかということでした。49章29節のところです。「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」この畑と洞穴は、祖父アブラハムが買ったものであり、アブラハムとサラ、イサクとリベカ、そしてヤコブの妻レアも葬られていました。ヤコブは、約束の地カナンにあるその墓に自分を葬ってほしいと、遺言するのです。
 私たちの教会でも、教会員の皆さんに「私の教会生活データベース」というのを書いていただくようにお願いしています。そこには、ご自分の教会生活のあらましや、愛唱聖句や愛唱讃美歌、最後を迎えたときどこに連絡したらよいかの連絡先、そしてどこで葬儀をしてほしいかなどを書き込むようになっています。葬りに関するご自身の希望を文書にして残しておくと、多くのご家族は故人の希望を尊重してくださいます。そういった書いたものがないと、ご家族がどうしていいか分からないということが、起こります。まだ「私の教会生活データベース」を書いてくださっていない教会員の方は、ぜひ書いてくださり、1部をご家族に1部を牧師の方にお預けくださいますよう、お勧めいたします。
◎さて、ヤコブが生涯を閉じ、その葬りがどのようなものであったかが、創世記50章1~14節に記されています。それはひと言で言って、エジプトの総理大臣の父上にふさわしい葬儀であったと言えましょう。ヨセフはまず、医者たちに命じて、父のなきがらに防腐処置をするように命じます。私たちの知っている言葉で言えば、ヤコブのなきがらをミイラにしたということです。これはエジプト人の思想では宗教的な意味がありましたが、ヤコブの場合は、カナンの墓地まで運ばなくてはならなかったので、このような処置をしたのでしょう。
 そして、エジプト人は総理大臣ヨセフの父上のために、七十日間喪に服したのでした。エジプトでは王ファラオが亡くなると、七十二日間喪に服したと言われます。それより2日間だけ短い期間、ヤコブのために喪に服しました。それは、ファラオをはじめエジプトの人々が、どれだけ総理大臣ヨセフに恩義を感じていたかを示すものでありました。
 そして、ヤコブの遺言を果たすために、ヨセフは王ファラオに、カナンの地まで父の葬りに行く許しを得ます。すると、ヤコブの一族だけでなく、エジプトの主だった人々がこぞって、その葬儀に出席したのでした。7~9節をご覧ください。「ヨセフは父を葬りに上って行った。ヨセフと共に上って行ったのは、ファラオの宮廷の元老である重臣たちすべてとエジプトの国の長老たちすべて、それにヨセフの家族全員と彼の兄弟たち、および父の一族であった。ただ幼児と、羊の群れはゴシェンの地域に残した。また戦車も騎兵も共に上って行ったので、それはまことに盛大な行列となった。」その葬儀は、カナンの墓に行く途中のヨルダン川の東側にあるゴレン・アタドという場所で行われました。そしてその壮麗な葬儀を見ていたその地のカナン人が、「あれは、エジプト流の盛大な追悼の儀式だ」と感嘆の声を上げました。そのためその地が、アベル・ミツライム(エジプト流の追悼の儀式)と呼ばれることになったと、報告しているほどなのです。
 これが族長ヤコブの葬りの様子です。一方、創世記50章にはそれからだいぶ経って、息子のヨセフが最後を迎えた時のことも報告しています。ヨセフは、他の兄弟たちより短命であったようで、百十歳で生涯を閉じます。その少し前、ヨセフは兄弟たちに次のように、遺言を残します。25節後半です。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。その時には、わたしの骨をここから携え上ってください。」ヨセフも父ヤコブと同じように、カナンの地に葬られることを願ったのです。それは四百数十年の歳月を経て、果たされることになります。
 しかし、ヨセフの葬りについてはどうでしょう。エジプトの総理大臣であり、エジプトの国を飢饉から救った人ですから、さぞかし壮麗な葬儀がなされたのではないかと予想します。しかし、50章26節には、だだ次のように記されているだけなのです。「ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに収めた。」ミイラにされたことは間違いありませんが、その葬儀についてはひと言も語られていないのです。ヨセフは、父ヤコブの葬儀を経験して、自分は父のような葬儀ではなく、質素な葬儀をしようと考え、そのように命じたのかもしれません。その人の置かれた立場やその人の考え方によって、葬儀の行い方も違ってくるということでしょう。
 最近、日本においても葬儀の行い方について、意識が大きく変わって来ているのを感じます。社会の高齢化と昨年来のコロナ禍の影響もあって、遺族や親族だけで営む「家族葬」というのが、どんどん増えています。わたしはそんな場合でも、主にある「兄弟姉妹」でもあり、讃美歌を歌う人も必要なので、ある程度教会員が出席させてもらえるよう、お願いすることがよくあります。
 しかし、教会員の方々には、生前お交わりのあった友人や知人の方々をある程度お招きする葬儀をするようにお勧めしています。その理由の一つは、家族葬にしてしまうと、後日その知らせを受けた友人、知人の方が、五月雨式に弔問に来られ、その対応にご遺族が追われてしまうことになるからです。もう一つの理由は、キリスト教の葬儀では、故人の信仰者としての歩みが、牧師の語る葬儀の辞を通して、あるいは信仰仲間の捧げるお祈りを通して、紹介されます。故人が神さまとイエス・キリストを信じて、どのような生涯を歩まれたかが語られます。それは、故人のご遺族に対してはもちろん、友人や知人に対しても、福音の良き証しの機会になるのではないでしょうか。色んな事情があるかもしれませんが、「教会の方に迷惑をお掛けするのは申し訳ない」などと、お考えにならないでください。むしろ人生最後の礼拝の時、キリスト者として最後の証しの機会とお考えになって、教会での葬儀を行っていただきたいと願っています。
◎さて、創世記50章の残りの部分、15~21節にはもう一つの意義深いエピソードが記されています。父ヤコブが亡くなり、ヨセフと彼の兄弟たちだけが残されます。すると、兄たちは父という重しが無くなった今、ヨセフが自分たちに仕返しをするのではないかと、おびえるのです。ヨセフはエジプトの絶対権力者です。彼が願えば、昔自分に悪を行った兄たちを、どうにでもすることができます。たとえ血を分けた兄弟と言えども、100パーセント心を許すことはできません。それどころか、血を分けた肉親だからこそ恨みが残り続けることもあるのです。
 そこで兄弟たちは、人を介して次のようにヨセフに伝えたのです。16節の途中からです。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」兄たちは、父の執り成しの言葉に免じて、そして、自分たちが父の神に仕える僕であるという理由に訴えて、かつての罪を赦してほしいと懇願したのです。
 その言葉を人づてに聞いた「ヨセフは涙を流した」(17節)とあります。この涙にはどんな思いが込められていたのでしょう。自分を信じていない兄たちの言葉に、悲しくなったのかも知れません。あるいは、たとえ肉親であっても、大きな罪と過ちによって修復不可能な関係に陥ってしまったことを、今更のように突きつけられ、嘆いたのかも知れません。大きな出来事、裏切りや罪によって、人はもう二度と、元には戻らない状態に陥ってしまう。疑いや不信、恨みをどうしても拭うことができない。それが人間という存在の悲しい現実なのでしょう。
 しかし、ヨセフは自分のもとに来て、ひれ伏し、頭を地面にこすりつける兄たちに向かって、次のように言うのです。19節の後半以下です。「『恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちと子供を養いましょう。』ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」ヨセフははっきりと、兄たちが自分にしたことは「悪」だったと指摘しています。いい加減にはしていません。しかし、彼は「わたしが神に代わることができましょうか」と言っています。「自分が神のように善悪を判断するのではありません。神のなさろうとしておられる御心に、あなたがたと同じように自分も従う側にいるのです」とヨセフは言います。
そして、エジプトに自分を売るという悪を、神さまは善に変えてくださった。それによって、契約の民であるイスラエルの民を救うだけでなく、エジプトの民をも救ってくださった。「その神さまの御心に、わたしは従います。その御心から逸れることはありません。神さまの御心に背くことはありません。だから、その神さまのゆえに、あなたがたは恐れる必要はありません。」ヨセフは、神さまが間に立ってくださることによって、決定的に壊れていた関係が、今や赦しと和解に至っていることを宣言しているのです。
人は、大きな出来事によって破れた関係を、容易に修復することはできません。その関係が親しければ親しいほど、それは困難なことです。しかし、双方が悪を善に変えてくださり、夫々を最善に導いてくださる神さまの御心に服することができる時、その神さまの愛と慈しみのまなざしの中で、人は赦しと和解へと進んで行くことができるのだと思います。大切なのは共に神さまを見上げることです。
◎さて、最後にヨセフは、主イエス・キリストの原型とも言える存在であったことを、覚えたいと思います。使徒パウロはローマの信徒への手紙11章29節で、「神の賜物と招きは取り消されないものなのです」と述べています。これは今日朗読していただいた箇所からも分かるように、ユダヤの民のことが言われています。私たちは、イエス・キリストの到来によって、神の救いはユダヤ人から異邦人へと開かれたことを知っています。しかし、それによってアブラハムに約束された祝福と約束が、ユダヤの民から失われたわけではありません。一度与えられた「神の賜物と招きは取り消されないものなのです」。神さまの大いなるご計画の中で、異邦人である私たちだけでなく、ユダヤの民も最後に救いに至るのです。
 ヨセフはエジプトの総理大臣となり、食糧を備蓄し、飢饉からイスラエルの民を救いました。しかし、救ったのは自分の民イスラエルだけではありません。その救いのお相伴に与るかのように、エジプトの民も飢饉から救われたのではなかったでしょうか。それと同じように、ヨセフが指し示すイエス・キリストも、十字架の死と復活によって、契約の民イスラエルに救いをもたらされました。そして、その救いのお相伴に与るかのように、私たち異邦人にも救いの道が開かれたのです。私たちキリスト教会は、その福音を異邦人世界に告げ広める使命を、今も担い続けているのです。神のご計画のスケールの大きさに目を瞠(みは)りつつ、この光栄ある務めに仕えていきましょう。

4月11日礼拝説教

ルカによる福音書24章13~27節        2021年4月11日(日)
「心燃やされて歩み続ける」   藤田浩喜
 幼稚園では、先週金曜日に入園式をいたしました。その際、お子さんたち、保護者の方たちが密にならないように、入園児と保護者の写真を一組ずつ撮りました。そして後日一組ずつの写真を加工して、クラスの全体写真を写真屋さんが作ってくれるそうです。一緒に撮ったのではないのに、一緒に撮ったかのような全体写真をこしらえる。今日のデジタル技術からすれば、そんなことは簡単なようです。写真はおろか映像も、実際存在しなかったシーンを、映像加工技術でこしらえることができるようです。「百聞は一見に如かず」ということわざがあります。一回見ることは、百回聞くことよりも真実を伝えるという意味でしょう。英語にもSeeing is believingという、同じような意味のことわざがあります。しかし現代においては、自分の目で見たからといって、それが真実であるかどうかは分からない。写真でも映像でも、それが本物かどうか見極める見識や力を持たなければならない。そういう難しい時代なのだと思います。

 今日司式長老に読んでいただいたルカによる福音書24章13節以下は、エマオという町に旅するクレオパともう一人の弟子に、復活の主イエスが近づいて来て、一緒に歩いてくださったという記事です。イースターの時に読まれる有名な箇所です。この記事を読んでいきますと、興味深いことですが、「目で見る」ということの頼りなさや不確かさということが描かれています。
 まず、復活の主イエスはクレオパともう一人の弟子に近づかれ、一緒に旅をします。間近で主イエスにまみえます。「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(16節)のです。そんなことがあるのだろうかと思いますが、ヨハネによる福音書20章でも、マグダラのマリアはすぐ前に立っている復活の主イエスのことが分かりませんでした。園の手入れをする園丁だと思い込んでしまいました。マリアも復活の主に気づくことができなかったのです。
 どうして、そんなことになったのでしょう。クレオパともう一人の弟子は、その人と話していた時、エルサレムで十字架にかけられた主イエスを、次のように紹介しています。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」(19節)。「預言者でした」と過去のことにしています。それは、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)という言葉からも明らかです。彼らにとって主イエスは、死んで過去になってしまった人でした。マグダラのマリアの場合も、慕ってやまない主イエスは、亡骸としてしか存在しない人でした。そんな過去になってしまった人が、今生きて自分たちの目の前に現れるなど、想像することもできません。そのような彼らの目は、生きて彼らと共に歩まれる復活の主イエスを、正しく見ることができなかったのです。
 また、共に旅する人から、聖書の解き明かしを聞いたクレオパともう一人の弟子は、この人を無理に引き止めて、同じ宿に泊まるように願います。共に旅をした人はその願いを受け入れ、同じ宿に泊まることになります。そして、食事の時、その人は「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しにな」りました(30節)。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)とあります。パンを裂く所作は、過越しの祭のときや5千人の群衆をパンと魚で養われたときに、主イエスがなさったものであり、それを思い出して二人は、目の前にいるお方が主イエスだと気づいたのかもしれません。
しかし、主イエスの姿はすぐに見えなくなってしまうのです。復活の主であるとその目で見て分かったことが、あたかも重要なことでないかのようにです。
 先週、幼稚園の先生たちと今日の聖書箇所の聖書研究をしていました。その時ある先生が、「どうして、主イエスの姿はみえなくなったのですか」と質問をされました。「クラスの子どもたちの中で、きっと聞いてくる子がいるので教えてください」とおっしゃいました。わたしも不意を突かれたような質問で、すぐに答えることができませんでした。「復活したイエスさまは、二人の弟子たちが自分のことに気づいたので、『もうこれで大丈夫』と安心されて、姿を消されたのではないでしょうか」というような、苦しい答えをしたことを覚えています。
 しかし、主イエスの姿が見えなくなったのは、目で見ることや目で確認することが重要なことではないということを、語ろうとしているのではないでしょうか。
復活の主イエスを、自分の目で見たのはペトロを始めとするとする弟子たちやマグダラのマリアを始めとする女性たちだけです。パウロはダマスコにキリスト者を逮捕しに行ったとき復活の主を見ますが、それは幻視体験のようなものとして描かれています。しかし、復活の主イエスを目で見なければ分からないとするなら、それは同じ時代を生きた人や特別な力を持った人たちに限られてしまいます。しかし、復活の主イエスを信じて受け入れるということは、目で見なければ起こらないということではありません。目で見るということが、復活信仰をもたらすのではありません。むしろ、十字架と復活の主イエスを証しするみ言葉に聞くということが、復活信仰において決定的な役割を担っているのです。

 エマオの町へ旅するクレオパともう一人の弟子は、ここ数日の間にエルサレムで起こったことをめぐって、論じ合っていました。それは「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていた」主イエスが、十字架にかけられ、儚くも死んだことでした。しかし、それだけでは終わらずに、日曜日の朝、仲間の婦人たちが亡骸を収めたはずのお墓に行くと、墓が空っぽだった。そして天使たちが現れ、「イエスは生きておられる」と告げたという。実際、婦人たちが言った通りで、見に行くと墓は空っぽだった。そうした一連の出来事をめぐって、クレオパともう一人の弟子は、「ああでもない」「こうでもない」と議論を戦わせていたのです。彼らは正直、何ががどうなっているか分からず混乱していたのです。
 しかし、共に旅する人(実は復活の主イエス)が、二人のために旧約聖書を解き明かしてくれたのです。経験した出来事の意味がさっぱり分からず、暗い顔をしていた二人の心に、み言葉の光が投じられたのです。25~27節を読んでみましょう。「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された』」。   
クレオパともう一人の弟子は、人々からの拒絶や苦難を経験せずに栄光に至るメシアに望みをかけていました。それは、他の弟子たちも当時のユダヤの民も同様であったでしょう。しかし、いかに熱心であったとしても、自分流のメシア待望は正しい信仰とは言えません。そもそも、神さまの救いのご計画を正しく理解することはできません。しかし、復活の主イエスは、聖書のみ言葉を通して、本当のメシアは苦しみを経て栄光に至るお方であることを、説き明かしてくださいました。旧約聖書の全体が、苦難を経て栄光に入る救い主を証ししていることを明らかにされました。二人はその聖書の解き明かしを聞いたとき、この聖書が証しする救い主が、イエス・キリストであることが分かったのです。イエス・キリストが十字架で死を遂げられたこと、それにもかかわらず復活され、今も生きておられることが、はっきりと分かったのです。
 その時の心の高揚感を32節で、二人は次のように回想しています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」「心が内で燃えていた」。これは、火にたとえられる聖霊の働きによるものに違いありません。二人の弟子たちは、イエス・キリストを証しする聖書のみ言葉の解き明かしを聞いたとき、主が死の苦しみに打ち勝ち、いのちに復活されたことを、信じることができたのです。
 エマオに近い宿に入られた主イエスは、食事のとき「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しにな」りました。この出来事は、後のキリスト教会において、聖餐式を指し示すものとして理解されてきました。そして、現代の私たちにも受け継がれている聖餐式は、「見える神のみ言葉」とも言われます。教会の講壇で語られる説教は、イエス・キリストの十字架と復活を証しする「見えざる神のみ言葉」です。一方、パンと杯に与かる聖餐式は、十字架と復活を証しする「見える神のみ言葉」と言われます。この両方が今日の聖書箇所に出て来るのは、偶然ではありません。先ほど申し上げたように、私たちは聖書の弟子たちや女性たちのように、この目で復活の主を目撃することはできないかもしれません。パウロのように特別な賜物を与えられて、幻視体験の中でイエス・キリストを見ることはできないかもしれません。しかし、私たちはだからと言って、落胆する必要はありません。エマオに向かう二人の弟子たちと同じように、イエス・キリストを証しする見えざる神のみ言葉が、礼拝において説教を通して語られています。また、今は守ることができていませんが、イエス・キリストを証しする見えるみ言葉である聖餐式が、私たちには備えられています。この両方のみ言葉に与ることによって、私たちはイエス・キリストの復活を、受け入れ、信じることができます。私たちの心は聖霊によって燃やされ、復活の主が今も私たちと共に生きてくださっていることを、心から喜ぶことができるのです。私たちは、どんな時代に生きていても、それがどのような場所であっても、イエス・キリストを証しするみ言葉によって、聖書に登場する弟子たちや婦人たちと同じように、復活体験をすることができるのです。今日の聖書はその恵みを語っているのです。
 「イエス・キリストは死に勝利され、復活された。今も生きておられる。復活の主は、信じる私たちをも、朽ちることのないいのちへと導き入れてくださる。」それが復活信仰であり、復活体験です。それは弟子たちや婦人たち、使徒パウロもそうであったように、彼らが自分の力で到達したものではありません。人はどんなに努力を積み、深く探求しても、復活信仰に至ることはできません。聖書の復活の記事が示しているように、イエス・キリストがご自分の方から近づいてくださることによって、神さまからの働きかけがあって初めて、人は復活信仰に至ることができるのです。しかし今日の箇所で、クレオパともう一人の弟子は、先へ進もうとされる主イエスを、「無理に引き止め」ています(29節)。「一緒にいてください」と、強く懇願しています。そのような信仰者の積極的な応答や行動に、復活の主は喜んで応じてくださり、期待以上の御業をもって答えてくださるのです。私たちはこのようなお方に心から信頼して、それぞれの地上の生涯を希望を持って、これからも歩んでいきたいと思います。

4月4日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 15章20~28節   2021年4月4日(日)

「キリストは初穂として復活された」   藤田浩喜

◎最近は私たちの周りの色々な場所で、「イースター」という言葉を聞く機会が増えました。ディズニーランドでは去年今年はありませんが、イースターパレードが毎年行なわれています。近くのショッピングセンターでも、イースターバーゲンなどと名前が付けられたセールが開かれるようになりました。世の人たちは、イースターを「春のお祭り」のように理解しているのかも知れません。
  教会に来られている皆さんに今更説明することもおかしいのですが、イースターはイエス・キリストの復活を記念する祝日です。キリスト教会の歴史の中でクリスマスをお祝いするようになったのは、教会が誕生してからずっと後になってのことだと考えられています。一方、このイースターはキリスト教会の誕生と共に始まったお祝いであると言えます。いえ、このイースターの出来事こそが、キリスト教会を生み出したものだとも考えることができるのです。
  今から二千年近く前に十字架にかけられて、殺された主イエスが墓から甦られました。そして主イエスは多くの人々に復活された御自身の姿を示すことで、御自身が死に勝利され、甦られたことを明らかにしてくださったのです。イースターは、この復活されたイエスに出会った人々の喜びに起源をもつ祝日です。わたしたちキリスト者は、このイースターを過去に起こった出来事として記念するだけではなく、この日に甦られた主イエスが今も私たちと共に生きてくださっていることを喜び祝うのです。
  「死人が復活するなど、古代人が考え出した妄想にすぎない」と、多くの人は思われるかもしれません。しかし、聖書を読んでみると実はこの復活と言う出来事は聖書の時代の人々であっても、到底受入れることが出来ないものとして考えられていたことがよく分ります。今日のテキストとなっているコリントの信徒への手紙一15章でパウロは、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(12節)と述べています。
  「死んだ者が甦るなど聞いたことがない」。人間の経験に基づく結論は、死人が甦る、復活という出来事を決して受入れることはできません。だから、当時の人々の中でも復活なしのキリスト教を作りだそうとした人々がいたのです。しかし、パウロはそのような人々に対して、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(14節)と強く非難したのです。
  イエスの復活は、人間の経験や理性では決して証明することも、受入れることも出来ない神のみ業であると言えます。この復活という出来事は信仰によってしか、受入れることが出来ないのです。人間の力でイエスの復活を証明することはできません。しかし私たちは、実際にこのイエスの復活という出来事を経験した人々の証言を通して、この出来事がその人々にどのような希望を与え、その人々の人生を変えることができたかについて、聖書を通して知ることが出来ます。そこで今日はイエスの復活という出来事に出会った三人の人々の証言を通して、イエスの復活が私たちに与える希望とは何かについて、考えてみたいと思います。

◎イエスの復活を最初に知らされたのはどの福音書の記事を読んでも分るように、何人かの女性たちであったようです。彼女たちは生前のイエスに付き従っていた女性の弟子たちでした。日曜日の朝にイエスの墓に向かった女性たちの名は福音書により記録されている名前が微妙に違っています。しかし、その中でも必ず登場するのはマグダラのマリアという婦人です。特にヨハネ福音書ではマグダラのマリアがイエスの墓の前で泣いていると、イエス御自身がそこに現れ、マリアに親しく語りかけたという物語が記されています(ヨハネ20章11〜18節)。
  このマグダラのマリアがどのような女性であったか、聖書は詳しくは記していません。ただ、ルカ福音書には彼女について次のような記述が残されています。「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア…」。イエスの周りに付き従っていた女性たちは、イエスに病気を癒していただいた人が多かったようです。その中でもマグダラのマリアはイエスに「七つの悪霊を追い出していただいた」という説明がつけられているのです。聖書の中には悪霊に支配されて苦しむ人々の姿が度々登場しています。これらの出来事を見ると、悪霊に支配されている人は、自分の意志とは違った力によって人生を操られて、自分で自分の人生を生きることができない姿が示されています。悪霊が彼らの毎日の生活を支配して、苦しめ続け、自分の力ではどうすることもできないのです。
  マグダラのマリアはイエスによって悪霊を追い出していただき、初めて自分の人生を生きることができるようになった人物であったと考えることができます。そして彼女は自由にされた自分の人生をイエスのために使おうとしたのです。ところが、その彼女の人生設計に大きな壁が突然出現しました。それがイエスの死という出来事です。ですからイエスの死は彼女にとって、自分の人生の目的を失うような危機であったと言えるのです。イエスを失った彼女はこれから目的もない人生を送らなければなりません。もしかしたら、再び彼女の人生を悪霊が支配し始めるかもしれない、そのような不安も残されていました。
  そのようなマグダラのマリアにイエスは、復活された御自身の姿を真っ先に現わしてくださったのです。それは彼女にとって大きな喜びであったに違いありません。マグダラのマリアの人生は決して逆戻りすることはなかったのです。彼女はこれからも自分の人生を自分らしく生きることができるのです。復活されたイエスの愛に支えられたマグダラのマリアの人生は、自分を支配しようとする様々な力から自由にされ、喜びに満ちたものへと変えられたのです。
 ◎次に私たちは、復活されたイエスに出会ったもう一人の人物シモン・ペトロの物語に目を向けてみたいと思います。彼はイエスの弟子の中でも最も重要な弟子であったと考えられています。かつてガリラヤ湖の漁師であったペトロはイエスの弟子となることで、いつもイエスの側でそのみ業を目撃し、その話を聞くことができた特別な人物だからです。おそらく、ペトロはイエスの弟子としてその生涯を終える覚悟を持って、イエスに付き従っていたのでしょう。しかし、彼のその覚悟は思いも寄らない出来事によって阻まれてしまいます。それがイエスの逮捕という出来事であり、またそれに続くイエスの十字架上での死でした。
  何よりもイエスの逮捕という出来事は、ペトロの弱さを露呈させるようなものとなったことを聖書は証言しています。ペトロはイエスが逮捕された際に連れて行かれた大祭司の館に、後ろからついて行きました。しかし、そこでペトロは人々に「お前もイエスの仲間ではないか」と問われると、あわててそれを打ち消して「イエスなど知らない」と否定してしまったのです(ルカ22章54〜62節)。それも一度きりではなく、三度も否定してしまったと言うのです。聖書において三という数字は特別な意味で用いられます。三は完全数と考えられているからです。つまり、ペトロがイエスを「知らない」と三度否定したということは、完全に否定したということで、これはもはや取り返しのつかないような出来事であったと言うことができます。
  ですから、イエスの復活の後にもペトロにはこのつらい体験が、トラウマのように残されてしまったようです。彼はイエスの弟子を辞めて、ガリラヤ湖の漁師に戻ろうとしてしたのです(ヨハネ21章1〜19節)。そして取り返しのつかない失敗を犯したことを悔やむペトロの前に、復活されたイエスは現れます。そこでイエスはペトロに「わたしを愛しているか」と三度も尋ねられたのです。これはペトロの犯した失敗を完全にゆるし、その心の傷を癒すために語られた言葉でした。そしてこの言葉によってペトロは立ち直り、イエスの弟子としての生涯を再出発することができたのです。
 ◎私たちは最後に、復活されたイエスに出会って完全に人生を変えられたもう一人の人物について考えてみたいと思います。それは今日の礼拝のテキストにもなっているコリントの信徒への手紙を記したパウロのことです。パウロが復活されたイエスに出会った体験は、他の弟子たちの体験と大きく違っています。聖書の記述によればパウロは、イエスの昇天の後に、復活されたイエスと出会う体験をしているからです(使徒9章1〜9節)。

パウロはかつて自分の力で神の律法を守ることで、神の愛を獲得しようとした「律法主義者」の一人として活動していました。営業マンがその売上げによって、その成績が評価され、会社の待遇も変わるように、律法主義者たちは自分の行なう熱心な行為を通して、神から善い評価を受け、その祝福に与ろうとしたのです。パウロはその自分の熱心を示すために、それまでキリスト教徒を迫害し続けていました。多くの信者を捕らえ牢獄に入れました。教会における最初の殉教者とされているステファノの死にも、彼は関わっていたという記録が聖書に残されています(使徒7章54〜8章1節)。
  この律法主義者パウロの生涯が、復活されたイエス・キリストとの出会いによって180度変えられてしまいます。パウロはイエス・キリストに出会う以前と以後の自分の違いについて次のように証言しています。
  「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3章7〜8節)。
  パウロはここで、自分の力で自分の価値を証明しょうとうする律法主義者から、キリストの恵みによって生きる信仰者に変えられたと語っています。自分の力を頼りにする者は、その力が失われることにいつも不安を抱いて生きて行かなければなりません。しかし、私たちがどんなに健康に気をつけて、アンチエージングに心がけても、年を取れば肉体も心も必ず弱っていくはずです。だから自分の力に希望を置く者は、その希望を失うときが必ずやって来るのです。しかし、自分の力にではなく、キリストの恵みに希望を置く者はそうではありません。むしろ、キリストの恵みによる希望は私たちの内側で日に日に強められるのです。この希望は私たちが地上の死を経たとしても、決して失われることはありません。なぜなら、そのことをキリストの復活という出来事が私たちに保証しているからです。
  イースターの日に復活されたイエス・キリストは、今も生きておられます。だから私たちも、イエスの復活に出会った弟子たちと同じ体験をすることができるのです。イエス・キリストのご復活を、心から喜び合いたいと思います。

3月28日礼拝説教

ルカによる福音書23章32~44節       2021年3月28日(日)
「イエスは罪人を救われる」  藤田浩喜
◎受難週の主日礼拝において与えられた聖書箇所は、ルカによる福音書23章32~43節です。ここでは主イエスが二人の犯罪人と並んで、十字架に付けられた時のことが報告されています。「犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」とありますので、主の付けられた十字架が真ん中に立っていたことは間違いありません。この場面を描いた絵など見ますと、主が付けられた十字架は他より手前に、大きく描かれています。クローズアップされています。しかし実際は、同じ大きさの十字架が3本立っていたに違いありません。イエス・キリストは、二人の犯罪人とまったく同様に、罪ある一人の人間として十字架刑に処せられたのです。そうでなければ、罪ある人間の身代わりとなり、その罪を贖うことはできないのです。
◎34節以下を見ますと、十字架に付けられた主を見つめる様々な人たちが登場します。ある「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合」います(34節)。人の不幸などお構いなく、自分の得になることだけを考える人がいます。また、「民衆は立って見つめていた」(35節)とあります。興味本位にやってきた野次馬であったかもしれませんし、主イエスが無実であることを知りつつ、なすすべもなく沈黙するほかなかった人たちだったのかも知れません。
 次に出て来るのは議員たちです。これはユダヤ教の最高法院のメンバーであり、主イエスを総督ピラトに訴え、死刑に追い込んだ側の人たちです。彼らはあざ笑って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)。「もし神の子なら、何々せよ」(4:9)というのは、かつて主イエスがサタンから受けた誘惑です。主なる神に仕えるユダヤ教の指導者たちが、自分たちの企みを果たすために、サタンの手先になっているのです。
 次に出て来るのは兵士たちです。彼らはローマの兵士たちでなく、ユダヤの王ヘロデに仕える兵士たちではなかったかと言われます。「兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱」します(36節)。酸いぶどう酒は主の苦しみを和らげるためでありません。主に紫の衣を着せて王として拝むまねをしてからかった時のように、面白半分でしたことでしょう。そして言うのです。「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」(37節)。主イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げてありました。この札は、ユダヤの祭司長たちが「ユダヤ人の王と名乗った者」と変えてほしいと願ったのに、総督ピラトが「そのままにしておけ」と命じて付けられた札です。しかしそれは真実でした。イエス・キリストは言葉の真実な意味で、メシアであり、ユダヤ人の王として死なれたのです。
 最高法院の議員たちは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)と言いました。しかし、本当のメシア・救い主は、自分を救うためではなく、多くの人々を救うために到来した方です。神さまの御心は、御子イエス・キリストが自ら十字架にかかり、すべての人間の身代わりとなって、その罪を贖うことです。主イエスは、より広い意味で他の人々を救うために遣わされたメシアであるので、自分自身を救うことができないのです。主イエスは、ご自分に濡れ衣を着せ、十字架へと追いやった最高法院の議員たちのためにも死なれました。自分に悪意を抱き、死へと追いやった者のためにも死ぬ。本当のメシアの働きは、それほどまでに深く広いのです。
 兵士たちは「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と言いました。本当の王とは、どのような王なのでしょう。一国のリーダー、政治的指導者は、本来自分が治める国民に責任を持たなくてはなりません。自分を救うことよりも、国民を救うことを優先するのが、本当の王であり、指導者です。しかし、私たちの生きている世界を見渡すとき、そのような王や指導者は滅多に見つかりません。まず自分の保身をはかるのであり、その結果国民がどんなに犠牲になっても意に介しません。司馬遼太郎という作家は、日本の政治家に失われたのは「志」
だと言いましたが、それを痛感せずにはおれません。しかし、イエス・キリストはこの世界の真の王であり、霊的な指導者です。主イエスはご自分のことよりも、主に属する者たちのことを、第一に考えてくださるのです。
◎さて、次に登場しているのは、十字架に付けられた二人の犯罪人です。その内の一人は、あの議員たちと同じように主イエスをののしります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」というのです。迫りくる死の恐怖に、自暴自棄になっている者の叫びでもあったでしょう。しかし、もう一人の犯罪人の態度は異なりました。彼は主イエスをののしる犯罪人をたしなめて、次のように言うのです。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40~41節)。
 このもう一人の犯罪人は、他の福音書マタイ、マルコ、ヨハネには出てきません。ルカによる福音書だけが記しています。しかし、それだからこそ、ここにはルカによる福音書の真髄とも言えるメッセージが込められているのです。
この犯罪人は、イエス・キリストが無実の罪で十字架の死を遂げようとしていることを知っています。そしてそれだけではなく、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには」(42節)と、主イエスが神の御国から来られたメシアであることを、告白しているのです。彼は、十字架に付けられた主を見ただけで、主を救い主と告白することができたのです。これは主が息を引き取られたとき、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)と告白した百人隊長と匹敵する告白です。主イエスの弟子たちは、復活された主と出会って初めて、「わたしの主よ、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と告白しましたが、それよりももっと前に、この犯罪人は、主を救い主と告白することができたのです。
これは驚くべきことです。どうして、そのようなことが起こったのか。彼は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」(41節)と言っています。どんな罪であったかは分かりません。盗みをしたのか、人を殺めたのか、ローマへの反逆を企てたのか、詳しいことは分かりません。しかし、彼はいずれにしても、十字架での処刑を前にして、自分のしてきたことが、いかに神さまの御心から遠いことであり、いかに神さまを悲しませる生き方であったかが、分かったのではないでしょうか。そのことが神さまに背を向ける生き方であったことを悟った犯罪人は、自分の罪を告白しました。地上の生を終える間際ではありましたが、悔い改めました。その時彼は、自分と並んで十字架に掛けられているお方が、まことの救い主であることが分かり、イエスをキリストと告白することができたのです。
このことを思うとき、私たちは同じルカによる福音書にある徴税人の頭ザアカイの回心の記事を思い起こします。ザアカイも、イエスと出会い、自分がどんなに神さまから遠く離れた歩みをしていたかを悟ります。彼は自分の罪を知らされます。そして回心した彼は、このように告白するのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:8)。自分の罪を告白したザアカイは、イエスを心から「主よ」と告白し、新しく歩む決意を表明しているのです。この犯罪人は、死の間際に立っており、ザアカイのように、新しく地上を歩むことはできません。しかし、彼は死の間際であったとしても、自分の罪を悔い、心からそれを告白することができました。そしてその時彼は、自分の傍らにおられるお方が、まことの救い主であることを知り、主に自分を委ねることができたのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、言うことができたのです。
 すると、主イエスは言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。イエス・キリストは、この犯罪人の罪の告白と悔い改めを受け入れられました。そして、彼に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、救いの約束を与えてくださったのです。
ザアカイの回心の言葉をお聞きになって、主が彼にかけられた言葉を思い起こします。「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』」(19:9~10)。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」主イエスの救い主としての使命は、この十字架の時にも貫かれていたことが分かります。今日出て来た犯罪人は、死の間際まで失われたままでした。神さまに背を向け、神さまから遠く離れた生き方をしていました。彼が自分の罪を悔い改め告白したのは、今まさに死を迎えようとしている時でした。しかし、主イエスは彼を失われたままにしておくことはなさいませんでした。主はこの犯罪人を今わの際に捜し出し、彼に救いをお与えになりました。自分の罪を悔い改め、罪を告白し、神さまに向かって方向転換する者には、遅すぎるということはありません。私たちの主イエス・キリストは、私たちが死を迎えようとする時にいたるまで、あきらめることなく、見つかるまで私たちを捜し続けてくださるのです。
 今日の聖書を読みながら、あらためて思わされたことがあります。それはこの犯罪人の姿は、他ならぬ私たちの姿ではないかということです。私たちこの礼拝に与っている者たちは、すぐ先に死が迫っているということはないかもしれません。しかし、私たちには明日のことも、次の瞬間のことも、正確には分かりません。東日本大震災や今回のコロナ禍が私たちに突きつけるのは、明日という日の不確かさです。今日という日の延長に、必ずしも私たちが思い描く明日が来るとは限りません。気がついたときには、もう死が間近に迫っていたということが、残念ですが、人生には起こり得るのです。人の生とはそのようなものであることを、どこかで覚悟しなくてはなりません。
 しかし、たとえそのような終わりであったとしても、私たちは今日の犯罪人と同じ立場にあります。死の間際にあっても、傍らにはイエス・キリストがおられます。主は私たちの恐れと不安をすべて受けとめ、私たちの切なる祈りをお聞きくださいます。そして、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束をしてくださいます。人の死を一緒に経験された主イエスが、その先にある楽園へと私たちを連れて行ってくださるのです。第一のアダムはその罪のゆえに、エデンの園から追放されました。しかし真の人として生まれ、第二のアダムとなられたイエス・キリストは、信じるすべての者たちを神の永遠の住まいであるエデンの園へと導き入れてくださるのです。

3月21日礼拝説教

創世記49章18~26節             2021年3月21日(日)
「祝福の輪の中に置かれる」  藤田浩喜
◎創世記49章の冒頭には、「ヤコブの祝福」という題が掲げられています。イスラエルというのは、ヤコブが神さまからもらった、新しい名前だということは、これまで何度か申し上げました。そのヤコブ、すなわちイスラエルと呼ばれたこの人から、イスラエルの12部族は始まり、広がっていくのです。
 創世記49章は、もともとヨセフ物語にはなかった独立した文書ともいわれます。やがてそれがどういう部族になるかということを、「部族の詞(ことば)」という形で入れて、12人の息子に対するヤコブの祝福という大きな枠組みの中に置かれたのだということです。それは、後代の出来事と関連付けられているとも言われます。つまりルベン族はどういう部族となるのか。ユダ族はどういう部族となるかということが書かれている。もっとはっきり言ってしまえば、ずっと後に、創世記がまとめられた時代の状況を反映しながら、それをさかのぼって、ヤコブの口を通して語られたようにして挿入されたのでしょう。
◎この部族の詞を見て、まず気づくのは、この12人についての記述は必ずしも同じ割合で書かれてはいないということです。ほんの数節、あるいは1節だけの人と、詳しい人がいます。ほんの数行しか触れられていない人を先に挙げてみますと、13節のゼブルン、14~15節のイサカル、16~17節のダン、19節のガト、20節のアシュル、21節のナフタリです。そして意外なことに27節のベニヤミンもそうです。合計7人。そしてここに記されているのは、簡潔にその部族の特徴のようなこと、そしてある種の金言(ことわざ)のような言葉です。
 残りの5人は、もう少し詳しいことが述べられています。それは3~4節のルベン、5~7節のシメオンとレビ、また8~12節のユダ、22~26節のヨセフです。
 まず長男ルベンです。「ルベンよ、お前はわたしの長子/わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した」(3~4節)。最後の記述は、創世記35章22節の出来事を指しています。「イスラエルがそこに滞在していたとき、ルベンは父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った。」本来、ルベンが受けるべき長子の特権は、その自由奔放さにより失われ、ユダに委ねられることになったということを暗示しているのでしょう。「ルベンが父の寝台に上った」というのは性的衝動のことを指しているともとれますが、むしろそれにより父の権威を奪おうとしたということが大きな意味を持っていると思われます。
 シメオンとレビについては、5~7節に次のように語られます。「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し/思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく/憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け/イスラエルの間に散らす」(5~7節)。
 シメオンとレビに対しては、祝福とは言い難いような言葉ですが、この言葉の背景にあるのは、創世記34章に記されていたシケムでの虐殺事件です。シメオンとレビと同じ母親から生まれた妹のディナが、現地の人シケム(町の名と同じ名前)に、いわばレイプされてしまいます。そのシケムはその後態度を改めて、正式に結婚を申し込んできます。しかしシメオンとレビはそれを許さず、憤り、彼らを下劣な方法でだまし、殺してしまいました。一見和平を受け入れたように見せかけて、「あなたたちが、私たちと同じように割礼を受けるなら、その結婚を認めよう」と提案をするのです。シケムの人たちはその提案を受け入れるのですが、実はそれはわなでした。彼らが割礼を受けて、まだ傷が回復しない間に、シメオンとレビはシケムだけではなく、一族の男たちを皆殺しにしてしまうのです。その場ではその罪は問われず、すっと流れていくのですが、決してそれは許されることではなかった。その罪がここでは問われている、そのことのゆえに散らされるのだと、語られているのです。
 8~12節はユダです。ユダについては長い言及があります。とても大きな祝福を受けています。前半の8~9節は他と同じ「部族の詞」の部分ですが、10~12節では将来への約束が書かれています。
 ユダは、「兄弟たちにたたえられる」(8節)とありますが、この詞が書かれたずっと後の時代には、すでにユダ族は他の部族よりも卓越した位置を占めていました。11節に、「彼はろばをぶどうの木に/雄ろばの子を良いぶどうの木につなぐ」とありますが、「ろば」は王の乗り物(ゼカリヤ9:9)につながっていくこと、そしてそれはイエス・キリストのエルサレム入城の乗り物につながっていくことを、はるかに指示しているように思います。
 また「彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる」(11~12節)というのは、神の祝福を象徴し、この部族から、やがて理想の王と呼ばれることになるダビデが登場することを指し示しているようです。さらに言えば、それは、ダビデの子孫としてユダ族から生まれるイエス・キリストをも指し示しています。
 しかし、ユダのこれまでの行動を見れば、それは決して称賛されるようなものとは言えません。若いヨセフを兄たちみんなで殺そうとしたとき、確かにユダは止めようとしましたが、売り渡せばよいと提案したのはユダでした。また38章に記されているタマルの物語はもっとひどいことをしています。長男の嫁であるタマルと、娼婦と勘違いして交わり、タマルが妊娠したことを知ると、それを厳しく罰しようとしました。
 しかしユダは罪を犯したのち、それを謙虚に認め、悔い改める者でもありました。タマルの事件においてもそうでした。また弟ヨセフを売り渡したことでは、ずっと咎めを感じていました。末弟ベニヤミンがエジプトで罪を犯したように見えたときには、自分たちはその時の罰を受けているのだと受け止め、自分の身を挺して、ベニヤミンを助けてやってほしいと乞いました。そのユダが大きく祝福を受けているのです。
 ヨセフに対する祝福は、ユダに対する祝福よりも、さらに大きな祝福です(22~26節)。「ヨセフは実を結ぶ若木/泉のほとりの実を結ぶ若木」(22節)と始まり、最後の25~26節では、「祝福」という言葉が、何度も何度も出てきます。「どうか、あなたの父の神があなたを助け/全能者によって祝福を受けるように。上は天の祝福/下は横たわる淵の祝福/乳房と母の胎の祝福をもって。あなたの父の祝福は/永遠の山の祝福にまさり/永久の丘の祝福にまさる。これらの祝福がヨセフの頭の上にあり/兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように」(25~26節)。
 やがてヨセフの息子たち、マナセ、エフライムがヨセフを継ぐ者となりますが、エフライムの名は、イスラエルの呼び換えのような栄誉を受けることになっていくのです(ホセア11:18など)。
◎さて、49章18節を見ますと、「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」という不思議な言葉が挿入されています。これはそのまま読むと、直前のダンという部族の救いについて語っているようですが、そうでもなさそうです。この言葉は、後代の付加だと言われますが、そうだとしても、私には、この言葉が全体を意味付けているように思えます。この時の情景そのものが、神さまの救いを待ち望んでいる姿だということです。そしてその情景は、やがてイエス・キリストの時代まで引き継がれ、12弟子が新しいイスラエルとして、イエス・キリストから救いと祝福を受けることへとつながるのです。
 今、私たちはレント(受難節)の時を過ごしており、今日の聖書朗読ではマタイによる福音書の最後の晩餐の準備の部分を読んでいただきました。「夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた」(マタイ26:20)。十二という弟子の数は、イスラエル十二部族の場合と同様に、完全数を表わしています。イスカリオテのユダをも含めた12人全員が一人も欠けることなく、この場に連なっていることが重要です。
 私は、最後の晩餐について語るときにいつも触れることですが、後に裏切ることになるイスカリオテのユダも、弟子の輪の中に加えられていることは、とても大きな意味があると思います。イスカリオテのユダも、そこから洩れてはいない。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(マタイ26:21)というのは、呪いの言葉のようにさえ聞こえますが、それでも排除はされていない。それはイエス・キリストの嘆きの言葉です。彼も同じ祝福を受けているということに意義があります。そのイスカリオテのユダのためにも主イエスは十字架にかかり、彼のためにも死なれた。また十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られたその祈りには、イスカリオテのユダも含まれています。
 そのイエス・キリストの祝福と同じように、このヤコブの祝福の前にも十二人の兄弟が皆顔をそろえて集まっています。レビやシメオンに対しては「呪われよ」とさえ言われるのですが、全体として祝福と位置付けられています。28節には、「これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである」とあります。この祝福の輪の中に、厳しく非難されたルベンも、「呪われよ」と言われたシメオンとレビも加えられている。このことは、イエス・キリストの最後の晩餐に、イスカリオテのユダも加えられていることにも通じています。どんなに酷いことをしたとしても、そして一見、呪いの言葉をかけられたように見えたとしても、祝福の輪の中から洩れていない。それは、アブラハム以来継承されてきた神の祝福なのです。だからこそ、希望がある。だからこそこの言葉の中に、私たちは希望を見ることができるのです。
 ある人は、「父親が子になし得る最高の贈り物、それは子を祝福することであり、祝福を神に求めることである」と言っています。この言葉は大変深い言葉です。祝福は、神さまが私たちに与えてくださるものです。この祝福は今も、イエス・キリストを通して私たちに注がれています。私たちに求められていることは、人がどんなに大きな失敗や過ちを犯しても、神さまを裏切るようなことをしても、私たちは神さまの祝福の輪の中にいると、子どもたちに伝えることです。そして、子どもたちが神さまの祝福の輪の中に置かれていることを確信できるように、絶えず祈り続けることなのです。その最高の贈り物を、子どもたちだけでなくこの世の隣り人たちにも、贈り続る者でありたいと思います。

3月14日礼拝説教

ヤコブの手紙4章4~6節         2021年3月14日(日)
「ねたむ神の愛」   藤田浩喜
◎先週新聞を読んでおりましたら、歳を取ってからの友だち関係のあり方を、若い人に学べと書いてあり、興味深く読みました。歳を取ると出かける回数も少なくなり、コロナ禍などもあり、どうしても友だち付き合いが少なくなる。それによって寂しさが募り、孤立感が強くなります。でも、今の若い人たちを見ていると、オンラインも使い友だちと適当な距離を保ちながら上手に付き合っている。独りで過ごすことも恐れず、自由を楽しみながら、緩やかに友だちとつながり、孤立することなく日々の生活を続けている。こうした友だち関係が、年配者が心のバランスを保って生活するためにも、大切ではないかというのです。
 その記事にはまた、「♪一年生になったら、友だち100人できるかな♪」という歌が、友だちは多くつくらないとダメだという強迫観念を、日本人に植え付けてしまったのではないかと、書いてありました。確かに友だちは多い方がいいという考え方が、私たちの世代の者たちにもあります。しかし、子どもたちの話を聞いていると、「そんなに友だちは多くなくてもいい、親しい友だちが2、3人いればそれでいい」と言います。確かに「親友」は英語で「ベスト・フレンド」ですから、ベストな友だちがたくさんいるというのも、おかしな話です。私たちにとっては、100人の友だちを見つけることよりも、本当に心を許せる親友がいることの方が大切なのかもしれません。
◎さて、今日のヤコブ書4章4節には、「友」という言葉が出てきます。「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」。世の友になることは、イコール神の敵になることだというのです。この言葉をお聞きになって皆さんは、ずいぶん極端なことが言われているな、と感じられたかもしれません。
 しかし、ここの文章を理解するには、「世」という言葉と「友」という言葉を理解しなくてはなりません。「世」は私たちが住む世界です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)と言われているように、「世」は神さまの愛の対象です。神さまは「世」とそこに生きる私たちを救おうとされます。しかし同時に、「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(ヨハネ1:10)とあるように、この世は、神と御子にそむき、イエス・キリストを受け入れようとしないところでもあるのです。神さまの愛の対象でありながら、御子イエス・キリストを頑なに拒むのが「世」なのです。
そして「世」には、世の持っている原理や価値観があります。今日の「世」であれば、「能力主義」「成果主義」「自己責任論」といった考えがそれに当たるかもしれません。そして「友」となることは、それらと親しく、強い結びつきを持っている関係、時には一つの魂、一つの心を共有し合っている関係に入ることを意味します。つまり、そのような価値観を持つ「世」と親友になるならば、もはやあなたは神の友ではない。神の敵であると言われるのです。
これまでも繰り返して申し上げてきましたが、ヤコブの手紙の宛て先である教会には、看過できない大きな問題がありました。人を見かけで判断し、裕福そうな人は教会の上席に案内し、みすぼらしい身なりをした人はぞんざいに扱うということがありました。明日の生活にも困っている兄弟姉妹に、具体的な援助をまったくせずに、見せかけの優しい言葉ですませる、ということもありました。
礼拝で神さまを賛美したかと思えば、その舌の先も渇かないうちに、同じ舌で兄弟姉妹を貶めるということもありました。ヤコブはそのような教会の諸問題の根底には、世の大勢となっている物の見方や世の価値観が、そのまま教会に入りこんでいる状況があることを見抜いていました。世と変わらない有り様だったのです。教会の人たちは、それほど深刻に受け止めていなかったかも知れません。しかしヤコブは、「そのようなあなたたちのあり方は、世の友になっている状態であって、もはや神の敵になっている」と、厳しく警告しているのです。
 私たち今日の信仰者も、教会で聞く聖書の教えとこの世で力を揮っている価値観のズレを感じることがあるでしょう。私たちは、その両方を折り合わせたり、状況に応じて二つを使い分けたりしながら、信仰生活を送っているのではないでしょうか。それはヤコブの手紙の宛て先教会の信仰者たちも、同様であったのではないかと思います。しかし、主イエスが言われているように、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか。一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」(マタイ7:24)。神だけを「友」としない限り、教会は「世」の原理や価値観に浸食され、呑み込まれていくのです。
◎そもそも神さまと私たち信仰者の関係は、どのような関係なのでしょうか。先ほどは「友」という関係だと言われていました。しかし、4節の冒頭でヤコブは宛て先教会の信仰者たちを、「神に背いた者たち」と呼んでいます。これはもっとはっきり訳すと、「不貞の者どもよ」と言われているのです。「姦淫を働いた者ども」というのが、正確な意味なのです。
 旧約聖書において、神ヤハウェとイスラエルの民の関係は、しばしば夫と妻の関係にたとえられることがありました。そして、イスラエルがヤハウェ以外の神を信じたり、偶像を拝んだりした時、イスラエルはヤハウェに不貞を働いた、姦淫の罪を犯したと、見なされたのです。そこからも分かりますように、神さまと信仰者の関係は夫婦の関係であり、そこに第三者が入り込むことは断じて許されないのです。これは驚くべきことです。神は取るに足らない私たちを、王に仕える家臣と見なされたのでも、主人の所有する奴隷と見なされたのでもありません。夫と妻という極めて親しい関係にあるものと見なしてくださるのです。
◎その神さまの私たちへの愛の大きさは、いかばかりでしょう。今日の5~6節には、聖書の御言葉として次のように記されているのです。「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。』それで、こう書かれています。『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』」。
創世記2章7節には、人間を創造された時の様子が次のように記されています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」土の塵から造られた肉なる人間は、命の息である霊を吹き込んでいただいて、生きる者となりました。神さまは、その霊を吹き込んだ人間を、ねたむほど深く愛してくださっていると言うのです。ねたむとは、「嫉妬する」ということです。神さまは「やきもちを抑えきれない」ほどに、私たちを愛してくださるのです。
ここを読んで、出エジプト記20章4節以下を思い出す方も多いでしょう。主なる神は、モーセの十戒の第二戒で「あなたはいかなる像も造ってはならない」(4節)と命じられました。そしてそれに続けて「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(5節)と言われました。ここは口語訳聖書では、「ねたむ神」と訳されていました。「ねたむ」が「熱情の」と訳されたように、この言葉は、「その中に熱く燃えている熱」という意味を持っています。神さまが人間の霊を熱く―他の愛が人の心に入り込むのに耐えられないほどに熱く―愛しておられるということを示しているのです。そして、その愛は神さまに従う者に豊かな恵みを与えてくださるのです。出エジプト記の20章5節以下は、次のように続きます。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」否む者の罪を問うのは三、四代であるのに対し、愛する者への慈しみは幾千代にも及ぶと言われています。
そして、この神さまの豊かな恵みは、イエス・キリストの十字架の恵みとして「世」と私たちにもたらされたのです。私たちは今レントの時を過ごしています。神の御子が苦難と十字架の道を歩まれたことを思い起こしながら、この時を過ごしています。神の御子がどうして、私たち人間の身代わりとなり、私たちの罪を負って十字架に命を捧げられたのか。それは、神さまが創造の時、ご自身の霊を住まわせ、人としてこの世に誕生させた私たちへの燃えるような愛が引き起こした出来事だったのです。神さまは御子を十字架に付けるほどに、「世」と私たちを愛してくださったのです。それは、愛する者への幾千代にも及ぶ慈しみです。その恵みは、世の終わりまで尽きることがないのです。
◎先週11日(木)は、東日本大震災からちょうど10年の追悼の日でした。テレビや新聞でも、多く特集が組まれました。あるテレビの番組で、福島県の南相馬に住む40歳の男性と70歳近い父親の二人が出演されていました。その方たちの家は東日本大震災による大きな津波に襲われ、40歳の男性のおばあちゃん、お母さん、奥さんと7カ月の男の子が流され、命を落としました。4人の遺影が横一列に並べられている場面が映ると、この家を見舞った悲劇の大きさが胸に迫ってきました。10年前の4月の終わり頃でしょうか。その40歳の男性は流された家の跡に、近くで見つかった鯉のぼりを立てました。鯉のぼりは、7か月で亡くなった男の子が初節句を迎えたら、立ててあげようと買ってあったものでした。その初節句を迎えることなく、あの3月11日に我が子は波にさらわれてしまった。せめてその子が生きていた証しにと思って、鯉のぼりを立てました。すると、その翌日行方不明だった男の子の骨が、偶然見つかったのです。お父さんは、「あの子が鯉のぼりを見に来てくれたのかな」と、言っておられました。子を思う親の気持ちが、その思いの深さゆえに、不思議な出来事を引き寄せる。そのようなことが、私たちの生きる世界にも起こるのではないでしょうか。
そうであれば、神さまがこの「世」と私たちに向けられている至高の愛は、多くの恵みの出来事を、この世界にもたらしてくださるのではないでしょうか。その出来事の頂点はイエス・キリストの十字架の出来事ですが、その後もなお、神さまはご自身に自らを明け渡し委ねる「謙遜な者」たちに、くすしき恵みの出来事をもたらしてくださるのです。神に頼ることをよしとせず、この世の価値観に身を委ねる「高慢な者」となってはなりません。「世の友」となって、「神の敵」となる道を歩んではなりません。神さまの燃えるような愛を受け、私たちも心を燃やされて、神さまを愛する信仰者としての道を、一途に歩んでいきたいと思います。

3月7日礼拝説教

ヤコブの手紙4章1~3節            2021年3月7日(日)
「神に何を求めるべきか」  藤田浩喜
◎私たちの世界には、今も多くの「戦いや争い」があります。国と国、部族と部族、支配者層と民衆との「戦い」があります。会社や政党、学校にも、派閥「争い」があります。個人と個人の間にも、「戦いや争い」があるのではないでしょうか。その「戦いや争い」は、どこから来ているのでしょう。
国連のユネスコ憲章前文には、次のように記されています。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなくてはならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通して世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通部分であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争になった。」戦いや争いはどこから来るのか。戦争は人の心の中で生まれるものなのです。そして「相互の風習と生活を知らないこと」が、「疑惑と不信をおこした共通部分である」と言います。お互いをよく知らないこと、そこから来る誤解と偏見によって大変な問題が生じるのです。
それに対して今日のヤコブの手紙は、1節で次のように言います。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」ヤコブの手紙は、人の心の中で争い合う欲望が、戦いや争いの原因であるというのです。私たちの中には、食欲、物欲、愛欲、名誉欲、権力欲、知識欲などがあります。そのような欲望が、心の中で頭をもたげ、自制心や正常な判断と争って打ち勝ってしまう時、戦いや争いが起きると言うのでしょう。私たちはこの世界において、一部の政治的指導者の欲望によって、どれだけ無益な戦いが起こり、その国の国民が悲惨な目に遭っているかを知っています。人の心の中の欲望が、一つの国のみならず世界全体を危機にさらしてしまうことすら、起こり得るのです。
◎それでは、心の中で争い合う欲望は、具体的にどのような事態を引き起こしてしまうのでしょう。2節の前半を読んでみましょう。「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」ウィリアム・バークレーというイギリスの聖書学者は、欲望に支配された生活が引き起こす結果を、次のように述べています。《一つは人間を共倒れにしてしまうということです。欲望が人間同士をお互いに戦わせるのです。人は、金銭、権力、名声、肉体的な快楽などを求めます。すべての人間が同じ目当てを獲得しようとして競い合う時に、人生は避けがたく競争社会になってしまいます。人間はひとつのものを強引に獲得するために、お互い同士を踏み倒してしまうのです。欲望に支配されることによって、人間は分断させられてしまうのです。二つ目は、欲望が人間を恥ずべき行為に追いやり、妬みと嫉妬と敵意を起こさせるということです。人が心の中に欲望を起こした時、その欲望はその人の思いを圧倒しはじめます。彼は目覚めている時にそれについて無意識に考え、眠っている時にはその夢を見るのに気づかされます。それから彼は、それを手に入れるために想像力を働かせて、計画を練り始めます。この計画には、これを邪魔する者を排除する方法も含まれています。これらの計画はすべて、人の知性と思想の中で十分あたためられます。そしてある日、その想像力が行動へと燃え上がります。彼は、自分が欲しているものを手に入れるために、恐るべき手段を講じつつあるのに自ら気づくのです。欲望とは、はじめは心の中で思うだけのことなのですが、心の中でじっくり養われたのち、結局は行動に移されてしまうのです》。この聖書学者の述べていることは、強い欲望が頭をもたげる時、私たちの心に何が起こるかを、不気味なほどリアルに描写しているのではないでしょうか。
 たとえば、教会という共同体においても、私たちの心の中の欲望が戦いや争いをもたらすことがあり得ます。ヤコブの手紙は、宛て先の教会でそのような戦いや争いが実際に起こっていることを聞いていたので、このようなことを書いているのです。もっともどのような戦いや争いであったのかは、正確には分かりません。しかし、教会の兄弟姉妹の交わりにおいて想定され、とかく起こりがちなのは、人と人との関係が上手くいかないということです。教会内のある特定の兄弟姉妹に敵意を抱き、その人を拒否したいという強い気持ちに捉われてしまうのです。敵意を抱いている人の上に立ちたい、その人に言うことを聞かせたい、その人を折あらば「ぎゃふん」と言わせたいという欲望が、むくむくと頭をもたげてくるのです。気がついたら、その人をどうしたらやり込めることができるかばかり考えていた。そんな経験を、皆さんもお持ちなのではないでしょうか。
 しかし、ヤコブによれば、そうした欲望は「人を殺します」。教会内でそんな物騒なことは滅多には起こりません。しかし、相手の存在を否定し、その人があたかもいないかのように、相手を無視してしまうことはあり得ます。そして、そうした否定的な思いがエスカレートして、あってはならないことも起こるというのが、人間の現実なのではないでしょうか。またヤコブは「熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします」と言っています。敵意を抱いている人の上に立ちたい、その人に言うことを聞かせたいと心を燃え上がらせても、お互いが自我と意地を張り合っているのですから、思うように事が運ぶはずもありません。相手を自分に服させるどころか、両者の関係はますます険悪になり、戦いは果てしなく続いていくことになります。そのような敵意のために、時間も気力も消耗してしまいます。教会に来ること自体に、意味を見出せなくなるのです。
 そもそも冷静に考えた時、敵意を抱いている相手を否定することは、大きなリスクを冒すことにもなります。私たちは不遜にも「その人がいなければ、どんなに楽しく教会生活ができるだろう」と想像するかもしれません。その人を除きさえすれば、万事上手く行く、ハッピーになると考えがちです。しかし、その時私たちは、その人が教会にとってどんなに大切な働きを担っているか、その人がいなければどんなに大きな痛手であり、困ったことになるかが見えていないのです。強い欲求に捉われるあまり、全体的な状況を見失ってしまうのです。アメリカの諺に、「壊れていないものを、直してはいけない」という諺があるそうです。当たり前だと思いますが、人はしばしばそのような愚かな行動をしてしまいます。まだまだ十分働いているのに、下手に直そうとして、前よりも状態が悪くなってしまう。人間の関係においても同様です。自分を正義だとする独りよがりの対応が、共同体全体の状態を良くするどころか、悪くしてしまうこともあるのです。
◎では、どうすればよいのでしょう。欲望に捕らえられて身動きできなくなった時、どこに解決を見出すことができるのでしょう。2節後半から3節には、次のように記されています。「得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分のために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」「得られないのは、願い求めないからである。」願い求めるとは、主イエスの名において神さまに祈ることです。どうしても上手くいかない人間関係がある。その人を見ると、避けがたく敵意を感じてしまう。相手を否定してしまいたくなる。そういう心の欲求に捉われていても、その解決を私たちは神さまに願い求めているでしょうか。神さまに相談しても、埒があかないと考えているかも知れません。
そんなみっともない祈りはできない、と思っているかも知れません。しかし、そうではありません。神さまに願い求めるところにこそ、解決の道があるのです。
 主イエスは「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)と言われました。「こんなことは願い求めても無駄だろう」と考えてはなりません。神さまに祈り求めるとき、人が思いも寄らなかった道が開かれていくのです。どうしても見つからなかった解決の糸口が、不思議な仕方で見つかるのです。考えたこともなかった素晴らしい導きが与えられるのです。
誰かを否定したくなるという心の欲望は根強いものがあり、もがけばもがくほど、深みにはまっていくようなところがあります。意識すればするほど、関係はギクシャクしていきます。しかし、そんな関係を、神さまと時間にゆだねてしまうのです。自分で何とかしようとすることを止めて、神さまにお任せしてしまうのです。すぐには何も起こらないかもしれません。時間はかかるかも知れません。しかし、神さまに祈りつつゆだねてしまうならば、心に平安が戻ってきます。無理にどうこうしようと思わなくなります。そして、時間はかかるかも知れませんが、神さまは自分と相手の状況、自分と相手の気持ちを、少しづつ変えていってくださるのです。私たちが予想もしないところから、考えもしなかった仕方で、平和と和解への糸口を開いてくださるのです。主イエスの名によって神さまに祈り求めるとき、私たちは自分が神さまの御心のうちに守られていることを知ります。自分が願ったこととは違った結果を与えられたり、自分の願いが応えられなくても、神さまの御臨在とご意志を感じます。神さまの御心の内におかれていることが分かるので、私たちは平安であり、安心なのです。すべてのことを最善に導いてくださるのは神さまです。そのことが分かっているので、神さまの御心に適った道を歩むことが、キリスト者の最善なのです。祈り願っていることが叶えられるか否かが、祈りの究極の目的ではありません。神さまの御心に適う道を示され、それに従うことが祈りの目的なのです。
だからヤコブが3節の後半で語っているように、「自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求め」ても、神さまは願うものをお与えになることはありません。神さまは、人間の欲望を叶えるための僕でも手段でもありません。神さまは、ご自身が最善と考えられる御心に適った賜物を私たちに与えてくださいます。私たちに大切なのは、神さまに全てをゆだねて祈り続けることなのです。
今私たちは、レントの時を過ごしています。主イエスは十字架への歩みにおいて、ゲッセマネの園で切なる祈りを捧げられました。「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。しかし、この祈りを通して主イエスは、十字架の杯を受けることが神さまの御心であることを知らされました。そして、そのことを悟った主イエスは、眠りこける弟子たちを促して、「立て、行こう。見よ。わたしを裏切る者が来た」(マルコ14:42)と、決然と前に進まれるのです。神さまの御心がそこにあることを知らされて、主イエスは全てを神さまにゆだねて、十字架の道を進まれるのであります。
キリスト者にとって何よりも大切なのは、神さまの御心を知らされ、御心にゆだねて歩んでいくことです。それ以上に、確実で平安な道はありません。そのためにも、願い求めることを決して止めない一人一人でありたいと思います。

2月28日礼拝説教

ヤコブの手紙3章13~18節      2021年2月28日(日)
「上からの知恵と良い実」   藤田浩喜
◎今日先ほど司式長老に読んでいただいたヤコブの手紙3章13~18節には「知恵」という言葉が出てきます。「知恵」を簡単な辞書で調べますと、次のように記されていました。「知恵」とは、「道理を判断し処理していく心の働き。筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。」今日のヤコブは、「知恵」について語っているのです。
 「知恵」についてヤコブはまず、二つの表われ方をする知恵があると申します。ヤコブにおいては「知恵」は一通りではないようです。今日の13~14節を読んでみましょう。「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。」
 片方の「知恵」は、柔和な行いや立派な生き方となって表われる知恵です。知恵が頭の中だけの考えや心の動きに留まらず、柔和な行いに結実するというのは、いかにもヤコブらしいところです。他方「知恵」を発揮しても、心の中にねたみや利己心が渦巻いているなら、それは自慢できない知恵であり、そうした知恵であることを偽ってはならない、ちゃんと認めなさいというのです。片や柔和な行いや立派な生き方となって表われる知恵があり、片や心の中にねたみや利己的な思いを燃え上がらせるような知恵がある。その二つは区別されなくてはならないのであり、一緒にされてはならないのです。「知恵比べ」という言葉があるように、人は知恵の深さや高さを競う性質があります。「自分の知恵はあの人より上だ」と優越感を抱くこともあれば、「あの人の知恵には遠く及ばない」と劣等感にさいなまれることもあります。知恵がねたみや利己的な思いを燃え上がらせるというのは、そうした状況を描いているのかもしれません。
◎そして次にヤコブは、その二つの「知恵」の違いが知恵の出どころの違いにあることを語っているのです。15節を読んでみましょう。「そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。」
15節は、ねたみや利己的な思いを燃え上がらせるような知恵のことを言っています。この知恵は上から、すなわち神から来たものではなく、地上のもの、この世のもの、神に敵対する悪魔から出たものである、というのです。「地上のもの」から出た知恵は、命を持っているすべての動物に共通な知恵です。それは、自分が生き残るために他のものにかみつき、餌食にすることも辞さない動物的な知恵なのです。「この世のもの」から出た知恵は、この世的な意味での成功を計ります。その目的はこの世的な目的なのです。そして、「悪魔」から出た知恵は、神が喜ばれるような人間の状況ではなく、悪魔が喜ぶような状況を生み出すのです。
他方、柔和な行いや立派な生き方となって表われる知恵は、上から、つまり神やイエス・キリストから出たものである、というのです。旧約聖書の外典(カトリック教会が聖書に収めている文書)である『集会の書』では、「すべての知恵は主から下る。それは常に神の傍らにある」(1:1)と言われています。また使徒パウロの書いたコリントの信徒への手紙 一 1章30節には、次のように記されています。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」そのように、主なる神や御子キリストから出た「知恵」に生きるように、ヤコブは宛て先教会のキリスト者たちに強く勧めているのです。
わたしは最近、思うことがあります。それはこの世を生きる私たち人間の賢い生き方とは、どういう生き方か。それは、「リスクを最小に抑え、利益を最大にしようとする生き方」ではないかということです。どうしたら自分に降りかかる危機や面倒な事柄を最小限度にできるだろうか。どうすれば無駄のない効率のよい方法で利益を最大にできるだろうか。私たちはキリスト者も含めて、いつの間にかそのような生き方を目指しているのではないでしょうか。人間関係においても、できるだけ面倒なことには首を突っ込まない。時間や労力が掛かりそうだなと判断すると、上手にそれを避けて遠ざかっていく。そのような生き方が、賢い人の生き方、知恵のある人の生き方だと思ってはいないでしょうか。
しかし、私たちにとって神の知恵となってくださったキリストの生き方は、
それとは正反対でした。イエス・キリストは、病める者、苦しみに喘ぐ者、悲しみに打ちひしがれた者のもとに、ご自分の方から出向かれました。律法学者やファリサイ派の人たちの反感や憎悪を買うことが分かっていても、手の萎えた人を病から解放するために、安息日に癒しの奇跡を行われました。それだけではありません。ご自分は少しの罪も犯されなかったのに、わたしたちの罪を贖うためにご自分の命を捧げてくださいました。私たちは今レントの時を過ごしていますが、主イエスが歩まれた苦難と十字架の道は、私たちが賢いと考えている生き方とは正反対であったことを知らされます。私たちを罪と滅びから救い出すために、リスクを負い、面倒なことを厭わず、ご自分を捧げ尽くされたのが、主イエスの生き方でした。私たちはもちろん、主イエスのように生きることはできません。主の御後を少しでもついて行きたいと、願うことしかできません。しかし「リスクを最小に抑え、利益を最大にしようとする生き方」に閉じこもるのではなく、苦労を買って出るような、多少お節介な生き方が、キリスト者にはふさわしいのではないでしょうか。主イエスが模範となってくださった生き方に倣うとき、私たちはそれまで体験したことのなかった豊かな地平へと踏み出していくことができます。信仰が新しくされ、神さまや隣人との深い交わりが開かれます。聖書がそのような「上から出た知恵」に生きるように勧めている御言葉に、私たちは聴きいていきたいと思うのです。
◎さて、これまで何度も申し上げてきましたが、ヤコブの言葉は一般的な道徳訓ではなく、宛て先教会の状況を踏まえたものだと言われます。ヤコブは、今まで申し上げてきた二つの「知恵」が、実際の教会生活や兄弟姉妹の交わりにどのような影響を及ぼしていたかを、知っています。それを踏まえた上で、二つの出どころの違う「知恵」が、何を教会にもたらしているかを語るのです。16~18節を読んでみましょう。「ねたみや利己心のあるところには、混乱や悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず純真で、さらに温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」
 二つの「知恵」のうち、ねたみや利己心を通して表われる知恵は、「混乱」や「悪い行い」を引き起こすと言われます。この「混乱」は、「不安定な」という言葉の名詞形です。このような知恵は、信仰生活や教会を不安定にする。妬みや利己心は、神さまへの確固たる信頼を失わせると共に、教会全体に不安定さを生じさせ、教会を混乱へと陥れるというのです。私たちはコリントの教会で、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」などと主張する分派争いがあったことを知っています。それぞれが自分の主張を譲らないために、教会が分裂しそうになったのです。教会において真剣な議論は大切です。しかし、自分の考えに固執し、自分の知恵を過信してしまうと、他者との建設的な対話ができなくなってしまいます。どんなに優れた人であっても、すべてを見渡すことはできません。主の体なる教会は、それぞれの知恵を出し合う建徳的な対話の中で、健やかに建て上げられていくのです。
 一方、上なる知恵、神から与えられる本当の知恵は、たくさんの良い実を生み出します。9つの良い実が挙げられていますが、4つのものだけ見てみましょう。「何よりもまず、純真で」と言われています。これは「ハグネー」という言葉で、神に対する一心さを表わしています。外典のマカベヤ書では、殉教者の魂の清さを表わしており、処女の純潔の意味でも用いられています。新約ではコリントの信徒への手紙 二が、キリスト者を、夫としてのキリストに献げられた清い乙女と表現しています。この言葉は、神さまの前に出るのに十分清いということです。
本当の知恵は、神さまの吟味に耐えることができるものなのです。
 本当の知恵は「温和で」あると言われています。これは「エイレイネー」という言葉で、「平和的」と訳すこともできます。この言葉の基本的な意味は、「人間と人間、または人間と神さまが正しい関係にある」ということです。人間の間には、その同胞に対して優越感をもって臨むという類の傲慢な知恵があります。清さと神への忠誠から人を逸脱させてしまう悪しき知恵があります。しかし、本当の知恵は、時と共に人間をお互い同士近づけ合い、神へと近づける知恵なのです。
 また、本当の知恵は「憐れみ」に満ちていると言われます。これは「エレオス」という言葉です。「エレオス」はたとえその苦悩がその人自身の過失であったとしても、苦悩している人を憐れむことを意味しています。この同情は神の同情の反映です。神さまは、人間が不当な苦しみを受けていた時ではなく、自分自身の罪や過失に苦しんでいた時に、憐れんでくださいました。私たちは、ある人が苦悩に陥っている時に、「それはあいつの過失が原因だ。蒔いた種は刈らねばならない」と言いがちです。そんな人に対して責任はないと思いがちです。しかし、キリスト教の憐みは、たとえその人が自分で苦悩を招いたとしても、苦悩に陥っている人に憐れみを示すことなのです。神の憐れみを受けた者だからこそ、憐みを示そうとするのです。
 そして、最後の18節には、「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」と言われています。ここの「義の実」とは、終わりの時に神から与えられる義認であり、終末時に与えられる救いであると言われます。そして、この義の「実」をもたらす種が、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれていると言われるのです。つまり、真の救いをもたらす義の実へと成長していく種が、教会の中に平和を実現しようとしている人たちよって、すでに蒔かれていると言うのです。これは本当に慰められ、励まされる御言葉ではないでしょうか。教会の中で人間の努力で造り出される平和が、終わりの時に神から与えられる救いへとつながっている。その種をすでに、キリスト者は蒔いていると言うのです。何と喜ばしい種蒔きでしょう。今日から始まる一週間、この喜ばしいヴィジョンをいつも目の前に描き出しながら、イエス・キリストの「知恵」に生きる者でありたいと思います。

2月21日礼拝説教

創世記48章1~11節              2021年2月21日(日)
「わたしを背負ってくださる神」   藤田浩喜
 ドイツの首相アンゲラ・メルケルさんの『わたしの信仰 キリスト者として行動する』(新教出版社)という本を最近読みました。メルケルさんがキリスト教会関係の大会などで語った講演やスピーチを集めたものです。メルケルさんのお父さんは共産主義国家の旧東ドイツでプロテスタントの牧師をしていたのですが、お嬢さんの信仰も筋金入りであることが、この本を読むとよく分かります。また、幾つかの講演やスピーチで何度か強調されていることがあります。それは定年後の世代に色んな分野でボランティアとして働いてほしいということです。ドイツでも日本と同様速いスピードで高齢化が進んでいます。しかし定年後の世代は、まだまだ体力や気力に満ちています。培った経験や能力があります。それを社会の様々な分野でボランティアとして活用してほしい、それがドイツの将来にとって大きな力となるというのです。日本でもおそらく状況は同じでしょう。少子高齢化の中で、色んな分野の働き人が不足しています。定年後の世代が、無理のない程度に仕事をし、そこで得た収入を生活費の足しにしたり、余暇を楽しむために使うことも大切でしょう。それと同時に週の1日、2日を社会的に意義のあるボランティアのために使うということも、大変豊かな過ごし方だと思います。神さまに与えられている命と時間を、社会や他者のためにも使うなら、それは神さまに喜ばれるキリスト者の生き方になるのではないでしょうか。
 さて、今日は創世記48章を読んでいただきましたが、ここにはヤコブ(イスラエル)の最晩年のことが記されています。目も見えなくなり、床に就いていることが多くなった、終わりが近づいている時のことです。ヤコブは死を迎える前にやっておかなくてはならない三つのことをしています。ヤコブの終活とも言えることが記されているのです。
◎一つ目のことは、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムを、自分の子どもにしたい、養子にしたいということです。ヤコブはヨセフに、主なる神がヤコブの子孫の繁栄とカナンの土地所有を約束された言葉を伝えたあと、このように言うのです。5節以下です。「今、わたしがエジプトのお前の所に来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となるが、その後に生まれる者はお前のものとしてよい。しかし彼らの嗣業の土地は兄たちの名で呼ばれるであろう。」ヤコブは息子のヨセフではなく、ヨセフとエジプトの祭司の娘アセナトの間に生まれた二人の息子を自分の子どもとし、主なる神の祝福を継ぐ者としたいと言うのです。ここには、ヨセフがエジプトで王に次ぐ地位にあり、エジプトから離れられないだろうという配慮があったのかも知れません。
 それにしても興味深いのは、イスラエルの12部族の中に初めからエジプト人の血を引くマナセとエフライムが加わっていたということです。旧約聖書を見ますと、イスラエルだけを正統とする国粋主義的な面がある一方で、外国や異邦人にも門戸を開くような普遍主義的な面が見受けられます。主なる神の祝福を受け継ぐ契約の民の中に外国人の血が入っていても、気にする風はありません。そうした異なる者、ある種異質な者も含みながら、神の約束の民は地上に増え広がっていくのです。そういう懐の深さがあるのです。
 先ほどドイツのメルケル首相の話をしましたが、大陸でつながっているということもあり、ドイツはトルコなどの国々から多くの労働者を受け入れてきました。ドイツできちんとした生活が成り立つように、無償で語学教育をしたり、就労先を提供したり、様々な生活保障を講じたりしてきました。こうした素地もあって、シリアからの難民を百万人以上も受け入れる決断をしたのです。もちろん、コロナ禍の少し前、この政策によってメルケルさんは窮地に追い込まれつつありました。あまりにも多くの難民を受け入れることが、ドイツ国民から仕事を奪い、ドイツ国民との様々な摩擦を引き起こすことが懸念されたからです。しかし、日本と同様少子高齢化が進むドイツにあって、民族を問わないで多様な人々を受け入れる、特に若い世代を受け入れることが、国力を維持し、更に発展させていくというビジョンが、そこにはあるように思います。民族とか血とか文化の同質性だけにこだわるあまり、国そのものが衰退し、体をなさなくなっていくことを、私たち日本人は心配すべきなのかもしれません。その意味でも、異質なものを取り込みつつ神の民を広げていく聖書の懐の深さに、学ばされる思いがするのです。
◎ヤコブがしている終活の二つ目は、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムを祝福したことです。しかし、その場面でも大変興味深いことが起こっているのです。祝福はまず長子に授けられるべきものです。長子には右手を置いて祝福しました。ところが、それとは反対のことが起きているのです。13~14節を読んでみましょう。「ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。」皆さん、理解できたでしょうか。ヨセフはヤコブと向かい合っています。そこで右手で次男のエフライムをヤコブの左側に置き、左手で長男のマナセをヤコブの右側に置きました。普通にすれば、ヤコブは右手を長男のマナセの頭の上に置き、祝福することになります。ところが、ヤコブはその両手を交差させて、右手を事もあろうに左側にいた次男のエフライムの頭の上に置いたというのです。最晩年のヤコブが行うとは思えないアクロバティックな動きです。ヨセフも当然いぶかしく思い、ヤコブの手を置き換えようとします。しかしヤコブは、それを拒んで「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている」と言ったのです。これはどう考えたらよいのでしょう。後のイスラエルの歴史をたどりますと、マナセ族よりも次男の子孫であるエフライム族が勢力を増し大きくなります。ヤコブは祝福の瞬間、そのことを主なる神に示されて、両手を交差させたのかも知れません。ある注解者が言うように、「死にゆく者には遠い未来が見えた」のかもしれません。
 いずれにしても、祝福の担い手であるヤコブは、このとき主なる神の示しを受けたのでしょう。長男だから祝福を第一に受け継ぐ、次男だから二番目に受け継ぐというのではなく、神はご自身の主権において自由に人を選ばれたり、お立てになったりする。神さまの自由な選びは、人に妨げられることなく御心のままに進められていく。そのことが示されているのではないでしょうか。
 今日司式長老に、マタイによる福音書20章15~16節だけを読んでいただきました。有名な「ぶどう園の労働者」のたとえです。一日中汗水たらしてぶどう園で働いた人は、自分が一時間しか働かなかった人と同じ1デナリオンの報酬であったことに文句をいいます。それに答えて主人が言った言葉が15節以下なのです。「『自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」私たちはここで語られているのがたとえ話であり、神の救いの恵みがどんな人にも等しく与えられることを、教えるものであることを知らなくてはなりません。どんな境遇にある人も救おうとされる神さまは、人の常識や論理に妨げられることなく、まったく自由に、御心のままに、御業を進められます。私たちはそこに人間の考える最善ではなく、神さまの考える最善のあることを信じて、神さまの御業に従っていくことが求められているのです。最晩年を生きたヤコブでしたが、彼は神さまの自由な選びを受け入れることができたのです。
◎ヤコブの終活の三つ目は何でしょう。それは二人の息子の父であるヨセフを祝福すること、そして自分の生涯を通じて生きて働いてくださった神さまの恵みを証しすることでした。自らの人生を回顧しつつ、15~16節のように語るのです。「そして、ヨセフを祝福して言った。『わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。』」
 ヤコブは11節でヨセフに、感慨を込めて語ります。「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」ヤコブの神さまへ深い感謝、その御業への驚きが、この言葉から伺えます。そして、信仰者として長い歳月を生きてきた皆さんは、多かれ少なかれ、このような感慨を持っておられるのではないでしょうか。
 そしてヤコブは、息子ヨセフとその息子たちを前に、主なる神さまがどのようなお方であったかを、証しするのです。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。」彼らがその御前に歩んだ。それはとりもなおさず、神さまが先祖や自分と共に歩んでくださったということです。
 「わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。」羊飼いは迷いがちな羊を正しい道に導いてくれます。それだけでなく、羊を青草の原に伴い、養ってくださいます。過ち多かったヤコブは、そのことをしみじみ感謝しているのです。主なる神は、弱く迷いやすい私たち一人ひとりを導き、養ってくださるのです。
 「わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。」ここでは神ご自身ではなく御使いが登場します。ヤコブの生涯を振り返ると分かりますが、ヤコブは幾多の苦しみを味わいました。しかし神の不思議な働きによって、その幾多の苦しみから贖い出されました。そのように神さまは、私たちが苦しみの虜になったままに放置されることはありません。ご自身の貴い犠牲の代価を払って、ご自分の恵みのもとに取り戻してくださるのです。それが贖われるということなのです。
 ヤコブは自分の波乱万丈の生涯を回顧し、主なる神がいかにその強き恵みの御手をもって導き、支えて下さったかを証ししました。それがヤコブの終活の仕上げであり、最も大切ななすべき業であったことを思います。私たちもやがて自分の生涯を終える時に、信仰者としてこのような証しと祝福を、親しい者たちに遺すことができるならどんなに幸いでしょう。そのような者として神さまに用いて頂けることを願って、祈り、努めてまいりましょう。

2月14日礼拝説教

ヤコブの手紙3章5節後半~12節      2021年2月14日(日)
「舌を制御できる人」   藤田浩喜
 先週に続いて、舌によって発せられる言葉のことが語られています。言葉を語ることについて、三浦綾子さんは著書『小さな一歩から』の中で次のように書いておられます。「言葉は力である、と私は思う。ひと言がその命を奪うこともあれば、受けた人の人生を変えることもある。『舌先三寸で人を殺す』という言葉を、幼い頃からよく聞いたものだ。言葉というものは理不尽なほどに人を動揺させ堕落させ、非情に走らせるかと思うと、奇跡のように甦らせ、向上させ、意欲を与えるものである。……人間の言葉は、本来なおざりであったり、真っ赤な虚偽であったり、裏切りであったりしてはならないのだ。人を力づけ、慰め、励まし、希望を与えるものでなければならない。いつもそのような真実な言葉を出せたらと思う。」三浦さんの考えに、私たちもうなづかされます。しかし、私たちが舌によって語る言葉は、私たちの性格や、心がけや、気持ち次第で、良くなるのでしょうか。人を力づけ、慰め、励まし、希望を与える言葉になるのでしょうか。それについてヤコブの手紙は、とても深い思索を思い巡らせているのです。

 今日の3章5節後半以下の所で、まずヤコブは「舌」を「火」にたとえています。ペンテコステの時「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」たとあり、「舌」と「火」は形が似ているのかも知れません。そして、「火」が瞬く間に燃え広がり、あらゆるものを焼き尽くすように、「舌」の語る言葉も炎のように人を焼き尽くすと言うのです。5節後半以下です。「御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」昨年、オーストラリアやアメリカのカリフォルニアで
大規模な山火事が発生しました。逃げ惑い、傷つく動物たちの姿が目に焼き付いて離れません。そのように自然発火の小さな火や、ハイカーの捨てたタバコの火によって、何百ヘクタールという広大な森が焼き尽くされてしまったのです。それと同じように、小さな「舌」の語る言葉が、その人自身やその人の人生を滅ぼし、死に至らしめることがあるというのです。
 それはなぜかと言いますと、欲望に操られた「舌」は神に敵対する勢力の支配下にあるからです。そのことがここでは、「舌は『不義の世界』です」と表現されています。1章15節で「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」と言われていました。人は欲望に操られているとき、神の御支配の下にはなく、神に敵対する勢力の虜になっています。神に敵対する勢力は、神とは正反対であり、人を滅ぼし、死に至らせようといたします。それだからこそ、小さな「舌」の語る言葉が燎原の火のように燃え上がり、その人自身やその人の人生を焼き尽くしてしまうのです。欲望に操られた「舌」は、そのような恐ろしさを持っているのです。
 また、欲望に操られた「舌」は、制御することができません。そもそも人は、そのような「舌」を制御する力を持っていないのです。7~8節を読んでみましょう。「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」 
この言葉の背景には、創世記1章28節の天地創造の御業があります。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」支配せよと言うと、自分勝手に好きなようにするというふうに取られがちですが、そうではありません。世話をして馴らすという意味を持っています。ある注解者は馴らすとは、制御し有益で有用なものにすることだと言っています。神は天地創造のときに、世界のあらゆる生き物を人間にお任せになり、世話をして馴らすようにお命じになった。そのような創造の秩序を、神はお立てになったのです。そのような創造の秩序に則って、人間はあらゆる生き物を制御し、それを善用することが許されているのです。だからこそ人間はそのことを感謝し、慎み深くあらなくてはいけません。生き物たちに対して、神の御心に背くようなことをしてはならないのです。
それに対し、欲望に操られた「舌」は神に敵対する勢力の虜になっているのですから、神の立てられた創造の秩序に則ってはいません。人間に託されたあらゆる生き物たちとは違い、制御することはできません。創造の秩序の外にあるのですから、人間がどうこうできるものではありません。人間の力によって有益なものにすることも、善用したりすることもできないのです。
この創造の秩序の外に、欲望に操られた「舌」があるということを、興味深いたとえで示しているのが、11~12節です。ヤコブの手紙は、同じ一つの「舌」から、神への賛美と神のかたちに造られた人間への呪いが出て来る矛盾を、次のようなたとえで指摘するのです。「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」ここに述べられていることは、いずれも神が立てられた創造の秩序に則っています。泉のわき出る同じ水中の穴から、甘い水と苦い水がわき出ることはありません。いちじくの木はいちじくの実を付けるのであり、ぶどうの木がいちじくを付けることはありません。しかし欲望に操られた「舌」は、同じ舌であるのに、神へ讃美と神のかたちに造られた人間へ呪いが出て来る。これは神の立てられた創造の秩序を無視したことであり、「このようなことはあってはなりません」と、ヤコブは厳しく批判するのです。

さて、少し込み入ったことを申し上げてきましたが、今日の御言葉はそもそも誰に向けられたものだったのでしょう。9~10節をあらためて読みますと、こう言われています。「わたしたちは舌で、父なる主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」聖書の注解者たちは、「父なる主を賛美し」というのは、教会での主日礼拝を指しているのだろうと申します。また、これはヤコブの手紙が、二枚舌のような物言いを一般的、道徳的に批判しているのではない。そうではなく、彼が教会において実際に見聞きしていたリアルな状況を、取り上げているのだと申します。つまり、主日礼拝において高らかに神さまを賛美し、神の御名を褒め称えたと思ったら、その舌の根も乾かないうちに、同信の兄弟姉妹の悪口を言ったり、陰口を叩いたりする。そのような嘆かわしい有り様を取り上げて、ヤコブは「このようなことはあってはなりません」と、厳しく批判しているのです。
こうしたことは、私たちの西宮中央教会では起こり得ないことでしょうか。私たちの教会には当てはまらないと、自信をもって言えるでしょうか。あるいは、そういうことが実際あったとしても、「人間ですから、そんなことがあるのは当然です」と、開き直ってしまうでしょうか。「人の世ではよくあることですから、気にするには及びません」と、軽くやり過ごしてしまえばよいのでしょうか。
わたしはそうではなく、ここには深刻な状況があると思わずにはおれません。
こうした態度の根底には、私たちを惑わし操る悪の力が働いています。霊的な危機に瀕しているのです。ヤコブが警告しているように、欲望に操られた「舌」は神に敵対する勢力の虜になっており、小さな火のように見えても、やがて激しく燃え広がり、その人やその人の人生を焼き尽くしてしまうかもしれません。また、欲望に操られた「舌」は、神の創造の秩序の外にあり、人間の力では制御することも、有益なものにすることもできません。小さなことのように軽視していると、教会の交わりを損ない、教会そのものを破壊していくことにもなりかねません。小さな舌の語る言葉など心配ないと油断するのではなく、ヤコブが今日の箇所で警告していることを、霊的な心で真剣に受け止める必要があるのだと思います。

 それでは、どうしたらよいのでしょう。どうしたら、三浦綾子さんの言うような、人を力づけ、慰め、励まし、希望を与える言葉を語ることができるのでしょうか。今日は司式長老に旧約聖書の詩編19篇12~15節を読んでいただきました。詩人はそこに先立つ8節以下で、主なる神の示してくださる様々な御旨を数え上げ、それらは「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」と歌います。そして、それらの示された御旨をいつも思い巡らし、それを守ることができるように願います。詩人は自分が知らずに罪を犯してしまうことや、すぐに驕り高ぶってしまう弱さのあることを告白しています。そして詩人は懇願します。そのような危うさや弱さのあるわたしを、罪から清めてくださいと、切に祈るのです。
ある神学者は「言葉の最高の使用は、祈りである」と言っています。主イエスも、御国の福音宣教と力ある御業をなさったあと、しばしば静かな所に退かれ、父なる神さまに祈りをお捧げになりました。私たちも主に倣い、自らの弱さや危うさを神さまの前に注ぎ出して、神さまに罪を赦していただくことが、神さまの御旨から離れない信仰者の歩みを造り出していくのではないでしょうか。
 そして19編の最後15節には、こう歌われています。「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」この15節の御言葉以上に、今日の私たちの切なる願いを率直に言い表してくれている祈りはありません。私たちの発する言葉は、欠けや過ちを避けることができません。人を力づけ、慰め、励まし、希望を与えるのではなく、聞いた人が傷つき、悲しみを味わい、希望を失ってしまうような言葉を語ってしまいます。しかし、私たちの心の思いを神さまの御前に置き続けること、すなわち、神さまを見上げ、神さまに依り頼み、神さまの御前から決して離れないときに、神さまは必ずや、御旨にかなった言葉を備えてくださるでありましょう。私たちの語る御旨にかなった言葉だけが真実であり、人を生かし、立ち上がらせることができるのです。そのことを私たちの心に刻みつけたいと思います。

2月7日礼拝説教

ヤコブの手紙3章1~5節前半          2021年2月7日(日)
 「舌は大言壮語する」   藤田 浩喜
 最近世間では舌禍事件がマスコミを賑わせています。少し前は緊急事態宣言下の東京で、与党の有力議員が同僚議員二人と酒宴を楽しんでいた事件です。最初一人で行っていたと答えていましたが、お連れがいたことをすっぱ抜かれると、若い人たちをかばう為だったと、苦しい言い訳をしていました。その場をやり過ごす嘘をついても、後でバレて大変なことになることが分からなかったのでしょうか。もう一つは首相経験者の女性差別発言です。女性の委員が多くなると、競うように発言するので、会議が長くなるといった発言をして、国内外から批判を受けました。しかし、責任を取って辞任するということには、どうもならないようです。自分の舌から出た言葉がこんな大騒ぎになるとは、くだんの人たちは予想もしなかったのかも知れません。
 しかし、今日の聖書にあるように、舌は小さな体の器官ですが、そこから発せられる言葉は大きな影響を及ぼしてしまうのです。3~5節は、そのことを二つの分かりやすいたとえで示してくれるのです。「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。」小さな舌の語る言葉が、大きな力や影響力を持っているのです。

 そのように舌が語り出す言葉は、とんでもない波紋を引き起こすことがあり得ます。そこで著者ヤコブは、そのような言葉を使って教える教師には、滅多になるものではないと、助言するのです。1節「わたしの兄弟たち、あなたがたのうちの多くの人が教師になってはなりません。」たいていの人は、教師になるのに慎重であるべきだというのです。それはどうしてなのでしょう。日本のキリスト教会の教会員には、「教師」が多いというのはよく言われることです。この教会にも、幼稚園の先生から大学の先生まで、「教師」の教会員がたくさんおられます。また、教会の牧師も「教師」と呼ばれ、ヤコブがここで問題にしているのは、どちらかというと、牧師のように神の御言葉を教える「教師」であろうと思います。しかしいずれにせよ、誰かの前に立って教えを述べる教師になるのは、慎重にならなくてはならないというのです。
 なぜか? 一つは1節の後半にあります。「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」これは終わりの日、最後の審判の時に、教える務めを託された教師が、より厳しい責任を問われることを示しています。それと同時に、教師の教えたことや語った言葉が、教えられた側の人たち、生徒たちに、後々まで影響を及ぼすことを伝えているのではないでしょうか。「中学生の時に、あの先生に言われたあの一言で、私の人生は変わってしまった」というような話を、私たちは聞くことがあります。教師の側からすれば、ほんの冗談で言ったようなひと言が、聞いた生徒に深い傷を残すともあります。反対に、「あの絶望しかなかった時に、あの先生のひと言で救われた、もう一度がんばってみようと思った」、ということもあるに違いありません。教師が語る言葉はそのように、聞いた人の人生に影響を与えないではおかないという意味で、将来にわたって責任があるのです。
 また、「教師」になるのに慎重でなければならない2番目の理由は、言葉で失敗したり、過ちを犯すことが避けられないからです。2節でこのように言われています。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」語る言葉でしばしば、失敗をしてしまうのです。間違いは避けられないのです。あるベテランの保育士の先生が、子どもたちへの言葉掛けで上手くいくのは3割ぐらいだと、ある本の中に書いておられました。まだ十分状況を説明したり、自分の気持ちを言葉で言い表せない幼児たちです。保育者が懸命に状況判断して言葉掛けをし、子どもの心に共感しようとしても、うまく伝わらないことも多いのです。それが保育という営みの持つ奥深さなのでしょう。
 また、「教師」は長く続けていれば、それで務まるというものでもありません。だいぶ昔に聞いた話ですが、大阪教育大学の先生が保育士の先生を対象に講演してくださいました。その時にその先生は、長い経験を積んだ保育者には、経験が長いがゆえに落とし穴がある。それは自分が培ってきた知識や経験に間違いはないと過信して、今自分の目の前にいる子どもを保育しようとする。しかし、子どもたちが置かれた環境も、育ってきた状況も、社会のあり様も、刻々と変わっていく。同じではあり得ない。だから保育士の先生は、鉄腕アトムのように、「心やさしき科学の子」である必要があるのだと、言うのです。豊かな経験で子どもたちをやさしく受け入れると同時に、社会や子どもたちの変化を、最新の研究に学びながら客観的に見ていく必要がある。その両方が求められるのです。学校や幼稚園の先生方は、多くの研修の時を持ち、精力的に学んでおられます。それは教え導く対象が、今をまさに生きる子どもたちであり、その教育実践がダイナミックで難しいものだからでしょう。間違いや失敗を経験し、乗り越えて行くことなしに、「教師」の務めを全うすることは到底できないのです。

 さて、今日の聖書は「教師」になることにおいて慎重であれと語っていますが、先に触れたように、それは誰よりも教会で神の言葉をつたえる「教師」たちに向けられたものです。私たちの教会で言えば、牧師や長老、日曜学校の先生などがそれにあたるでしょう。ヤコブが手紙を送った教会では、神の言葉を伝える「教師」になりたがる人が、少なくなかったようです。「教師」という務めを何か名誉なことのように感じていたのかもしれません。あるいは人の上に立てるかのような優越感を求めていたのかも知れません。けれどもヤコブの手紙の著者は、その務めには将来にわたって大きな責任が伴うことや、過ちを犯してしまうことも度々であることを示して、思い止まらせようとするのです。
 しかし、教会には神の言葉を伝える「教師」がいなくてはなりません。だれもが「教師」に召されているわけではありませんが、預言者イザヤの語るように「良い知らせを伝える者の足」が必要です。イザヤ書52章7節には、次のように歌われています。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」伝える者の麗しい足があってこそ、良き知らせである福音は、主にある兄弟姉妹の信仰を養い、教会の外に向かって持ち運ばれていくのです。 
 その場合に、選ばれ立てられた「教師」に求められていることは何でしょう。教師は小さな舌を通して言葉を語ります。その言葉は、天の神さまが御子イエス・キリストという「言(ロゴス)」を、この世界に送ってくださったことに基礎づけられます。ヨハネによる福音書1章14節はこう記しています。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」父なる神さまは、この世界と私たちを救うために、御子イエス・キリストという「言(ロゴス)」を差し出してくださいました。この「言(ロゴス)」には、神さまの慈愛と真実のすべてが込められています。だからこそ、教師が伝える福音の言葉も、全存在を懸けて語られなくてはならないのです。言葉は、それを語る人から独立してあるのではなくて、他の人に働きかける時の自己表現であり、交わりの手立てです。そこには、自分自身が差し出されています。だからこそ、イエス・キリストを証しする言葉は、口先だけ語る言葉や、心と裏腹の言葉であってはなりません。イエス・キリストを信じる日々の信仰生活から出てくる言葉でなければ、伝えることはできません。イエス・キリストを信じる生活の背景がなければ、どんなに巧みな言葉を見事に語っても、それは相手には伝わりません。しかし、それが感謝に溢れた信仰の生活に根ざしているなら、たとえたどたどしい言葉であったとしても、それは確実に相手の心に響いていくのです。
 そしてもう一つ大切なのは、何を語り、何を差し出すべきかは、神ご自身によって示されるということです。自分が神の言葉を捉えるというよりも、先に神の言葉によって自分自身が捕らえられる。それによって初めて言葉を語り得る者とされるのが、教師のあるべき姿なのです。先ほども読んだヨハネによる福音書1章ですが、その17~18節で、聖書はバプテスマのヨハネの言葉として、次のように記しています。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」私たちは旧約の信仰者たちとは違い、御子イエス・キリストを与えられました。イエス・キリストにおいて、神さまの恵みと真理は現れました。この方は今も聖霊を通して、私たち信仰者と共にいまし、父なる神さまを余すところなく啓示して下さっています。そのイエス・キリストに固着し、キリストを通して御言葉を聴き取っていくことによって初めて、教師は神の御言葉を取り次ぐことができるのです。改革派教会はその伝統において「礼拝において語られた説教が、神の御言葉である」と語ってきました。しかし、これは牧師が礼拝説教で語った言葉が、何でもそのまま神の御言葉になるということではありません。神さまはイエス・キリストを通して語ってくださいますが、説教者が「語れ」と言われる御言葉を聴き取ることができるまで、徹底的に耳を傾けなければ、それを語ることはできないのです。そのようなことを、人間の誰ができるでしょうか? それは聖霊の力をいただかなくては不可能です。そうであればこそ、語る者は祈りながら、神の御言葉を徹底的に聴くことが求められます。それと同時に、その務めは、聞く人々の祈りに支えられなければ、到底果たすことはできません。語る者と聞く者が、祈りつつ懸命に、神の御旨を聴き取ろうとしていく。その営みがあって初めて、「礼拝において語られた説教が、神の御言葉である」という出来事が起こるのです。生きた神の言葉が語られる教会を目指すために、教師と呼ばれる者も、それを迎えている群れ全体も、神から真剣に聞き、聖霊の助けを祈り求めることが不可欠です。そのことを私たちは、心深く覚えていきたいと思います。

1月31日礼拝説教

マルコによる福音書4章35~41節        2021年1月31日(日)
「嵐の中を進む教会」   藤田 浩喜
◎今日は一年に一度の教会総会の日です。教会が昨年一年の歩みを振り返り、新しい一年の歩みへと踏み出していく日です。昨年は皆さんもご承知の通り、新型コロナウィルス感染症の甚大な影響を受けた一年でした。色んな課題を突き付けられ、その対応に右往左往した一年でした。その影響は、今もなお続いています。コロナ禍の出来事が今後の教会の歩みをどのように変えていくのか、恐れや不安を感じないではおれません。しかし神さまは、御言葉と聖霊をもって教会の歩みを必ずや導いてくださいます。その確信に立って、今年の教会総会を行い、2021年の歩みを始めていきたいと思います。
◎この朝、私たちに与えられた聖書の箇所はマルコによる福音書4章35~41節です。故郷ガリラヤのナザレで福音宣教を始められた主イエスは多忙でした。12弟子を選ばれた後、多くの人々に神の国の福音を宣べ伝えました。病気の癒しや悪霊の追放など力ある業も行われました。主イエスの評判は高まり、多くの群衆が切れ目なくやって来ます。祈りと静まりの時を持つこともできません。弟子たちも疲れていたに違いありません。そこで主イエスは、舟に乗って「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われたのでした。主イエスと弟子たちは、何艘かの舟に分かれて、向こう岸を目指してガリラヤ湖に漕ぎ出したのでした。
 キリスト教会は、よく舟にたとえられることがあります。舟は船着き場に留め置かれるのではなく、目的地に向かって海や湖に漕ぎ出していきます。漕ぎ出さないなら、舟はその役目を果たすことはできません。それと同じように教会も、新しい歩みへと漕ぎ出していくよう促されているのです。主イエスは「向こう岸に渡ろう」と、舟の行先を示してくださいました。あてどなくさまようのではありません。教会という私たちの舟に対しても、神さまはヴィジョンを与え、進むべき方向を示してくださいます。
◎舟は順調に目的地に向けて進んで行きました。弟子の中にはガリラヤ湖の漁師出身の者が何人もいます。彼らの熟練した舵(かじ)さばきのおかげで、舟は快調に目的地を目指して進んでいました。ところがです。今まで静かだったガリラヤ湖に突風が起こりました。大きな波が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどでした。このままでは舟は沈むか、転覆してしまうかもしれない。突然、危機的な状態に陥ったのです。
 ガリラヤ湖は狭い渓谷の中にありました。ハウランの高地やヘルモン山から吹き降ろす風が、その狭い渓谷を通って、南の平野部に解放されます。そのためガリラヤ湖には、天候に関わりなく、予想もしない時に突風が吹き、舟を襲うことがあったのです。漁師であった弟子たちは、当然そのことを知っていたでしょう。
しかし自然の脅威は、いつ、どこで起こるか分かりません。また、どんなに熟練した技術を持ち、豊富な経験があったとしても、大きな自然の脅威の前では無力です。弟子たちは激しい突風にあおられて、どうすることもできませんでした。
 私たちの教会という舟も、今同じような状況に置かれています。去年の今頃、私たちのだれが、コロナ禍という恐ろしい突風に見舞われることを想像したでしょう。コロナ禍という自然の脅威に対して、私たちは無力です。できることは何百年も前にペストを経験した人たちと、基本的には変わりません。ワクチンの開発など、現代科学の恩恵には感謝すべきです。しかし自然の脅威は巨大です。現代に生きる私たちも、それが過ぎ去るのを身を屈めて待っているしかないのです。
◎ところで、このガリラヤ湖に漕ぎ出した舟には、主イエスが乗っておられました。「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」(38節)とあります。主イエスは初めに申しましたように、数々の力ある業をなさった方です。そのような主イエスがこの舟に乗っておられます。そんな舟がどうして突風に襲われなくてはならなかったのでしょうか。教会という舟もそうです。教会はイエス・キリストを頭とする、キリストのからだなる教会です。教会には主イエスがご臨在くださいます。そのような教会がなぜ、コロナ禍や巨大地震や津波などに襲われなくてはならないのでしょう。そこにはどんな意味があるというのでしょう。
 弟子たちは突風に翻弄されている最中に、「イエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った」(38節)のでした。彼らは突風に見舞われて、初めて主イエスの存在に気づいたかのような様子です。そしてこのお方にすがる他に術はないとばかりに、主を揺さぶり、助けを求めるのです。あなたが乗っておられるのですから、何とかしてくださって当然です、という響きすら感じます。弟子たちはそれほど切羽詰まっていたのでしょう。
 先日、片田敏孝という災害情報学の先生が書いた『人に寄り添う防災』という新書を読んでいましたら、興味深いことが書いてありました。片田先生は、日本の各地に講演会に行かれます。するとかならずその場所で、「次にいつ巨大地震は起きますか」、「それはどのくらいの規模ですか」と聞かれるそうです。片田先生はそれに対していつも、「分かりません」と答えるそうです。そのように敵とも言うべき災害について、人は正確に知ることはできない。しかし、災害から身を守るために大切なのは、敵ではなく「我を知ること」。自分が地震や津波、大規模水害などの自然災害に対して、どんな気持ちでおり、どんな姿勢で臨んでいるかを正確に知ることから、防災は始まるというのです。たとえば人は、心の平静を保ちたいという気持ちがあって、自分が災害に見舞われるような状況を、積極的に想像しようとしません。これを正常性バイアスと言うそうですが、これが働いてハザードマップを見たり、避難経路を確認したり、緊急避難袋を備えたりするのを怠ってしまうのです。しかしその反面、誰かのためになら行動したいという愛他性というものがあります。「おじいちゃんがいるので、自分たちだけなら行かないけれど、早めに避難所に行っておこう」と考える。「あなたが積極的に率先して避難することで、他の多くの人も後押しされて避難するんですよ」と言われると、他の人に役立つならと、率先して避難をする。そういう正常性バイアスと愛他姓を併せ持っているのが人間です。そのような「我を知ること」から、災害に備えることは始まるのだと言われるのです。
 これを知って、なるほどと思わされました。教会という主イエスが乗り込んでおられる舟にも、突風のような出来事が起こります。今回のコロナ禍のような、自分の力ではどうしようもない、無力としか感じないような出来事が起こります。神さまは勿論、私たちを苦しめようとして、このような疫病や自然災害を起こされる方ではありません。これらの疫病や自然災害は、神さまが天地創造の時に造られたこの地球のメカニズムが、様々な外部要因を受けて、自ら引き起こしているものではないでしょうか。コロナ禍にしても、人間による過度な開発によって、本来人間が接点を持たない野生生物の領域に踏み込んでしまったことが、原因の一つだと言われています。航空輸送の飛躍的な発達によって、人々が全世界を行き来できるようになったことも、その一因でしょう。ですから、疫病や自然災害を神さまが引き起こしたと、単純に言うことはできません。
 しかし、神さまはこうした大きな出来事を通して、教会という舟に乗っている私たちが、本来あるべき自分の姿に気づくように、促しておられるのではないでしょうか。信仰者である「我を知ること」、「信仰者である我が神に改めて立ち帰る」機会として、神さまはこのような出来事をも、用いられようとされるのです。決して無駄にはされないのです。この嵐のような出来事にも、神さまの不思議な御旨が働いています。この嵐も、主の御旨の中に入っているのです。
ボンヘッファーはナチスドイツに抵抗したために、投獄され、その後処刑された牧師であり神学者ですが、彼は牢獄の中で次のように書いています。「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生ぜしめることができ、それをお望みになります。そのため、すべてのことが働いて、益となるような奉仕をする人を必要としておられます。神は、どんな困難にあたっても、わたしたちが必要とするかぎりの抵抗力を与えてくださいます。しかし、その力を前もってはお与えになりません。それはわたしたちが自分にではなく、神により頼ませるためにほかなりません。こう信じれば、将来に対する不安はなくなります。わたしたちのあやまちや過失さえも、むなしくはなく、神は、そのような過失や誤りをさえ用いて、わたしたちが良いと思っていることよりも、もっと良いことをしてくださることが、困難でないと信じます。神は、無時間的な運命ではありません。誠実な祈りと責任ある行為を期待し、それに答えてくださることがおできになる方だと信じます。」突風に襲われた弟子たちも、コロナ禍という出来事に見舞われている私たちも、湖面が穏やかな間は、どれだけ深く神さまに依り頼んでいたでしょう。主イエスがこの舟におられることすら忘れているような、自分本位な生活を送っていたのではないでしょうか。しかしそれは信仰とは言えません。教会の存亡に関わるような巨大な嵐が襲ってくならば、決して耐えることはできないでしょう。「あるべき我」を見いだし、「依り頼むべき方」に本当に依り頼むことができるように、神さまは必ずや今回の出来事も用いてくださるでありましょう。
◎弟子たちに起こされた主イエスは、立ち上がり、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」ました。「すると、風はやみ、すっかり凪になった」と言われています。主イエスは、弟子たちが恐れ、驚嘆したように、「風や湖さえ従わせられた」のです。これは主イエスが神と等しい方であり、自然的世界をも支配されること表しています。これに関連して興味深いことは、主が同じような言葉を、汚れた霊を追い出したときに、使われていることです。1章21節以下は、会堂にいた悪霊につかれた男を主イエスが癒された出来事が記されています。主は悪霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」(1:25)とお叱りになって、その人を悪霊の支配から解き放ってくださったのです。イエス・キリストは、自然的世界を従わせるだけでなく、神に逆らう悪霊をも従わせられます。私たちは主にあって、自然的な脅威や悪魔的な支配から解放されて、今や、神の恵みの支配へと移されているのです。この舟は「向こう岸へ渡ろう」と主が言われて船出したものでした。そして、この舟は湖を進んで行きます。前途には色んな出来事が起こるでしょう。しかし、この舟は神の御心に導かれ、神の恵みの御支配のもとに進んで行きます。どんな自然的な脅威も悪魔的な攻撃も、この舟を損なうことはできません。神の守りの中で、神の御心に適った目的地に到達することができるのです。教会という私たちの舟が、そのような特別な舟、神の小羊を旗印に戴く特別な舟であることを、私たちは深く覚えたいと思います。

1月24日礼拝説教

ヤコブの手紙2章20~26節      2021年1月24日(日)
 「行動の中に具体化した信仰」 藤田 浩喜
 今日読んでいただいた聖書ヤコブの手紙2章26節において、ヤコブはこのように言っています。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」「行いを伴わない信仰は死んだものです。」大変はっきり、ズバッと言っています。これを聞いて皆さんは、どんな感想をお持ちになるでしょう。「確かに、信仰にとって行いは大切だ。しかし、行いがなければ信仰は死んだものとは、言い過ぎではないか。行いたくてもできないこともある。行い至上主義になってはいけない。」あるいはそれとは正反対に、こう思うこともあるでしょう。「マザー・テレサや石井十次といったキリスト者のことを考えると、自分はあまりにも愛の行いができていない。信仰が心の中だけのことになってしまっている。先人たちのように、もっと愛を行う人になりたい。」
 このように「信じること」と「行うこと」は、なかなか難しい問題です。この両者の関係をどう考えたらよいのでしょう。ある人は、パウロはこの関係を教理的に考え、ヤコブは実践的に考えたと言っています。以前にも申し上げましたように、使徒パウロもキリスト者の「行い」を大切なものと考えています。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)という彼の言葉を紹介しました。しかしパウロは、割礼や安息日厳守などの律法を守らなくては救われないという律法主義と戦っていました。もしそうならば、ユダヤの律法を守らない異邦人は救われないということになってしまいます。しかしパウロはその律法主義を否定し、人はイエス・キリストの十字架と復活を信じることによってのみ救われるという信仰義認を主張したのです。それによって、ユダヤの律法を守らない私たち異邦人にも救いがもたらされたのです。パウロはそのことを明確にしなくてはなりませんでした。だから信じることと行うことを分離して、救いにはただ信じることだけが必要だと述べたのです。しかしだからと言って、キリスト者に行い、特に隣人への愛が不必要というわけではありません。キリストによって救われた者は、その恵みへの喜ばしい応答として隣人への愛に生きるように促されます。だからキリスト者として、キリストの御後に従って生きる時に、愛を行うことが大切になってきます。パウロはそのように、信じることと行うことを段階的に考えているところがあるのです。理屈に適っているという意味で教理的なのです。
 一方ヤコブは、パウロより後の時代に生きています。ヤコブにおいても、人が救われるのはイエス・キリストの十字架と復活を信じることのみによることは変わりません。しかしヤコブは、信仰を信じることと行うことに分けて考えることに反対します。仮に教理としては正しくても、信じることと救いが直結しているため、どうしても行うことが軽んじられてしまいます。パウロの言うことを最後まで聞かないで、行いなしの信仰が存在するかのような誤解が生まれてしまいます。行うということが、信仰において大して意味を持たないかのように思い込んでしまします。プロテスタント教会には、そうした傾向があるように思います。それに対して、ヤコブは強烈な異議申し立てをしているのです。そもそも神さまを信仰するということは、信じることと行うことの両面から成り立っている。信じることは人を行うことへと駆り立てずにはおかない。反対に行うことによって、その人の信じていることが明らかにされ、より深く信じることへと導かれる。それは私たちも、経験的に感じていることではないでしょうか。ヤコブは信仰が、信じることと行うことの両面からなることを実践的、経験的に知っていました。それが見過ごされてはならないと、強く感じていました。だからこそ今日の21節でヤコブは、次のように言うのです。「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。」ヤコブは信じるだけで自己満足しているキリスト者を、嘆かわしく思っていたことが分かります。彼の信仰的な経験によれば、信じることだけで行いの伴わない信仰は、役に立たないだけでなく死んだものなのです。
◎そしてヤコブは、自分が確信していたことを、旧約聖書に登場する二人の人物を取り上げることで証明しようとしています。旧約聖書も信じることと行うことを、深く結びつけていたことを、明らかにしようとするのです。
 まずは「信仰の父」と呼ばれたアブラハムです。21~22節を読んでみます。「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」そのようにヤコブは語りまして、それに続く23節には、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という大変有名な言葉が語られるのです。
 この「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という言葉は、創世記に出てくる言葉です。しかし、イサクを祭壇に犠牲として捧げようとした創世記22章ではなく、少し前の15章に出てくるのです。この15章で主なる神は、子どものいないアブラハムに向かって、祝福を述べられます。そしてその祝福をあなたの子どもが受け継ぐことになると言われるのです。それだけでなく、主なる神はアブラハムを外に連れ出し、満天の星が輝く夜空を彼に仰がせます。そして言われるのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)。子どものないアブラハムは、その主の約束を信じます。心から受け入れます。そこに出てくるのが「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という御言葉なのです。確かにアブラハムは、主なる神の約束を信じることで義と認められたのです。
 しかしアブラハムの信仰は、主なる神の約束を受け入れるだけに留まることはありませんでした。創世記22章では、主なる神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい…彼を焼き尽くす献げ物としてささげない」とアブラハムに命じます。この戦慄すべき命令を受けたアブラハムの感情は、聖書の記事からほとんど読み取ることができません。出来事は淡々と進んで行きます。そして、アブラハムは、祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。そのまさにその時に、主なる神は御使いを通して介入され、次のように言われたのです。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ」(創世記22:12)。主なる神は、愛する我が子すら献げようとするアブラハムの行いをご覧になりました。その御言葉に従う行いを見て、彼が本当に神を畏れる者であることが分かったと、認めておられるのです。主なる神にとっても、人間の信仰は、心で信じることに終わるものではありません。主なる神も、信じていることが具体的な行いとなって現われ出ることを求めておられる。行いとして表してほしいと願われている。イサクを捧げる出来事は、そのことを教えてくれるのです。
◎もう一人の旧約聖書の人物は遊女のラハブです。今日の25節を読んでみましょう。「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。」この女性をめぐる出来事は、ヨシュア記2章に詳しく記されています。約束の地カナンに攻め込む準備のため、ヨシュアは密かに二人の斥候をエリコに送り込みます。斥候というのは偵察員・スパイのことです。二人はラハブという遊女の家に宿を取ります。ところがエリコも警戒していたのでしょう。偵察員が潜入したという情報が入り、エリコの王はそのスパイを捕まえるために、追っ手を放つのです。その追っ手は、遊女ラハブの家にもやって来ます。怪しい者がいるなら引き渡せと、迫ります。しかし、ラハブはそのような者は見かけたが、すでに町を出て行ったと、うその報告をします。彼らを見当違いの所に向かわせます。それだけでなく、斥候の二人を壁伝いに綱で家の窓からつり降ろし、追っ手に捕まらないための策を授けて、二人を無事に町から逃がしてやるのです。
 異邦人であり、エリコの住人であったラハブがどうして、イスラエル方の斥候をかばい、彼らを町から安全に逃がしたのか。どうして、自分の町に攻め込んで来るような者たちに味方したのか。聖書はその理由を、ラハブがイスラエルの神を、まことの神だと信じたからだと言うのです。ラハブは、イスラエルの主なる神が出エジプトの時、紅海の水を干上がらせたことを聞いていました。また、同じカナンの王たちであるアモリ人のシホンとオグを滅ぼし尽くしたことを聞いていました。そうしたことを聞いて、ラハブは次のように言うのです。「それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」(ヨシュア2:11)。ラハブは主なる神こそが、まことの神であり、この方の前では何人も立ち向かうことはできないと確信しました。天と地のすべてを治めておられることを確信しました。この方の御心であれば、エリコの王がどんなに抵抗しても、防ぐことはできません。そのことを確信したラハブは、ヨシュアたちが攻め込んで来た時、自分と家族に危害を加えないという交換条件で、二人の斥候をかくまい、逃がしたということだったのです。彼女は状況を的確に読める女性であり、二人の斥候を助けたのも自分とその家族の身を守るためではありました。しかし、そうではあっても、彼女はイスラエルの主なる神こそが、全地を治めるまことの神であることを信じました。そして信じたことが、その神の御心に仕えるために何をすべきかという行いへと、彼女を導いたのです。
主なる神こそが全地を治める神であると、私たちも信じています。しかしその信仰は、私たちの生き方や日々の生活の中で、どのような行いとなって結実しているでしょうか。主なる神は、ラハブがそうであったように、ご自身への信仰を具体的な行いとして表すことを、お喜びになります。異邦人であり、社会的に低く見られていた女性の勇敢な行為を、神は御心に仕えるものとして用い、イスラエル民族の記憶の中に深く刻んでくださったのです。信じることから促された行いを、それがどんなにささやかであっても、神は祝福し用いてくださるのです。
◎今日の箇所でもそうですが、ヤコブは信仰において信じることと行うことを切り離すことのないように、強く訴えています。行いが救いを生み出すということではありません。そうではなく、信じることと行うことは、私たち人間が生ける神を現実に体験する、切り離しがたい二つの面なのです。その両面があってこそ、信仰生活は、死んだものではなく、生きたもの、いのちに満ちたものになっていくのだと思います。「それを、どうしても知ってほしい!」そのヤコブの切実な訴えに、心から聴いていく私たちでありたいと思います。

1月17日礼拝説教

創世記47章18~26節             2021年1月17日(日)
「キリストによって買い取られた命」   藤田 浩喜
 中東世界を襲った飢饉は、収まる様子がありませんでした。ヤコブの一族が住んでいたカナン地方も同様でした。飢饉により食べる穀物が少しも獲れません。そこで、エジプトの総理大臣になっていたヨセフの勧めに従って、ヤコブの一族すべてが全財産をたずさえてエジプトにやって来たのでした。
 ヨセフは兄弟たちの内五人を選ぶと、エジプト王ファラオに謁見させます。ファラオは兄弟たちの願いを聞くと、エジプトのどこにでも住んでよいという許可を出し、有能な者はファラオの家畜の監督者に取り立てようと言います。そして、兄弟たちとは別の機会に、父ヤコブをエジプト王ファラオと謁見させるのです。
 その時のことです。ファラオの前に立ったヤコブは、「ファラオに祝福の言葉を述べた」(7節)です。エジプト王ファラオを祝福したというのです。片や大帝国エジプトの絶対的君主であるファラオです。中東世界の支配者とも言うべき存在です。片やカナン地方の牧畜を生業とする一部族の長にすぎないヤコブです。しかも今は、エジプト王に住まいや食料の援助を受けなければ、生きていくこともできません。その立場は比較することすらできません。ところが、ヤコブの方がファラオを祝福したというのです。祝福というと、より高い立場にある者がより低い者に与えるものという感じがします。しかし、ここでは立場的には圧倒的に低いヤコブが、エジプト王ファラオに祝福の言葉を述べているのです。
 ご承知のように主なる神は、アブラハムを召し出し、祝福して言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」(創世記12:2)。この主なる神の祝福は、その子イサクを通して、孫であるヤコブに受け継がれていました。ヤコブは今、祝福の源として、エジプト王ファラオを祝福しています。それによって「あなたの祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)という約束が成就するのです。
ヤコブは確かに地上にあっては今、エジプト王ファラオの庇護を受けなくてはならない者です。ファラオは主なる神の御心に沿って、ヤコブの一族に住居、食料、仕事を提供します。しかし、ヤコブは地上の権威を超えたお方の約束を与えられ、その約束のもとに生きています。彼は地上でどんな境遇に置かれても、神から与えられた祝福の源としての使命に生きています。だからこそ、この世で絶大な力を持つファラオの前でも堂々としており、その計らいに感謝しつつも、ファラオに祝福の言葉を述べることができたのです。
これは、私たちキリスト者の生き方にも通じるものです。私たちはキリスト者として、この祝福の系譜に連なっています。ヤコブと同じように私たちは、この世に生きる限り、様々なものをこの世に負っています。この世から受け取っています。食料、財産、仕事など。しかしこの世を超えた権威の下、この世を超えた約束の下に生きているがゆえに、この世で力あるものの前で卑屈にならず、時にそれに感謝しつつも、それを絶対化することなく生きていくことができるのです。
さて、今日司式者に読んでいただいた箇所は13節から始まりますが、「ヨセフの政策」という小見出しがついています。読まれてお分かりになったように、飢饉が一向に収まらない中で、エジプトの民が生きんがために、色々なものを穀物に換えていったことが記されています。最初はお金と引き換えに、総理大臣のヨセフから穀物をもらいました。その次に、エジプトの民は財産であった家畜を連れて来て家畜と引き換えに、穀物をもらいました。それでも飢饉は収まる様子はありません。そこでとうとうエジプトの民は、自分の持っている土地と自分自身を差し出すことで、ヨセフから穀物をもらうことができたのです。それは、彼らが土地共どもファラオの所有となり、ファラオの奴隷になるということでした。
ここの箇所を読まれて、あまりよい感じを受けなかった方もおられるでしょう。強大な力を持つ者が、弱い立場にある民の窮状を利用して、次々に彼らの持ち物を取り上げ、最後には民自身も奴隷にしてしまう。その巧妙さと冷徹さに、嫌悪感を抱く方もおられるに違いありません。聖書の学者たちによれば、これは当時のエジプト王が持っていた強大な権力(至上権)が、どのように形作られてきたか、その由来を語る物語(原因譚物語)であろうと言われています。ヨセフが非常に優秀な為政者であったので、ヨセフの政策によってこのようなエジプト王の強大な権力が確立していったのだと述べている。つまり、それができた原因を、ヨセフの政策と功績に帰そうとしているというのです。
それはともかく、聖書はこの13~26節の箇所を通して、どのようなメッセージを私たちに語ろうとしているのでしょう。キリスト教信仰は、ここに登場しているヨセフを、イエス・キリストの予型、イエス・キリストを指し示すような存在として考えてきました。ヨセフを後に現れる救い主イエス・キリストに準えることによって、聖書のメッセージを受け取ることができるのです。
まず第一に、私たちはエジプトの民が、自分の命を保つために自分の持ち物を全部携えて行き、奴隷となろうとしたことを知らされます。エジプトの民は、自分の持ち物にしがみついて死ぬよりも、すべてを捧げて必要なものをいただき、生きる方を選んだのです。彼らは命を保つためには、自分の持っているものを携えてヨセフのもとに行くべきだと知っていたのです。
このせっぱ詰まった状況の下で王の僕となる人々の経験から、私たちは神さまの僕となって命を与えられることを学びます。自分の持ち物や能力に依り頼んでいる人は死んで滅んでいきます。しかし、すべてを主イエスの御前に携えて行き、神さまの御支配の中に入れていただくなら、生きることができるのです。自分の小さな力やわずかな持ち物で何とかしようと思っても、活路は開かれません。思い煩いが深くなるばかりです。しかしそうではなく、私たちの持てる物を携えてとにかくイエス・キリストのもとに駆け込むなら、生きることができます。困難の中で生きていくために、必要なものが与えられるのです。
実際、23節以下には土地と共に奴隷となったエジプトの民のために、ヨセフが具体的な手立てを授けています。彼らはファラオの所有とはなりましたが、収穫の五分の一だけをファラオに納めるように言われました。あとの五分の四は、自分や家族の食料にしたり、種もみにすることができたのです。この二割の上納分は、驚くほどの低さです。バビロンの記録では四割、エレファンティネ島の記録では六割だったと言われます。日本の江戸時代でも年貢は五割が基本で、藩によっては六割というところもありました。確かにエジプトの民は土地共々ファラオの所有にはなりましたが、打ち続く飢饉の中にあっても、彼らは生きるための確実な手立てが与えられていたのです。
それと同じことが、持てる物を携えてイエス・キリストのもとに駆け込む私たちにも当てはまります。飢饉のような困難や試練は、相変わらず続いているかもしれません。状況はすぐに好転しないかも知れません。しかし、イエス・キリストは、その中で私たちが生き抜いていくために必要な手立てを示してくださいます。パウロが言うように、「試練と共に、それに耐えられるように、逃れる道をも備えていてくださるのです」(Ⅰコリント10:13)。
この箇所が語る二つ目のメッセージは、23節でヨセフがエジプトの民に言った言葉です。「よいか、お前たちは今日、農地とともにファラオに買い取られたのだ。」穀物という代金を払って、彼らが買い取られた。ファラオの持ち物になったということが宣言されているのです。今日このことに関わって読んでいただいたのは、コリントの信徒への手紙7章22~23節でした。もう一度読んでみましょう。新約聖書308ページです。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。」
ヨセフは穀物という代価を払って、エジプトの民をファラオの奴隷としました。ファラオの所有物となりました。しかし、ヨセフが指し示した救い主イエス・キリストは、キリストの死という身代金を払って、人を神のものとされました。神の所有とされたキリスト者は、神のご支配の下にあります。神の御心に服さなくてはなりません。キリストの奴隷となった以上、主人はイエス・キリストです。イエス・キリストが聖書を通して語られているように、キリスト者は生きていかなくてはなりません。もはや、自分勝手に生きることはできないのです。
しかし、それは本当に窮屈で不自由なことなのでしょうか。エミール・ブルンナーというドイツの著名な神学者は、「人間というのは立像(スタチュー)ではなく、浮彫(レリーフ)である」と言っています。つまり、何ものからも独立して自由に立っているのではなく、何かを背景に持ちながらそれに張り付いて生きているのが人間だというです。いつも何かに支配され、それに捕らわれて生きているのが人間の掛値のない姿だというのです。パウロは先ほどのⅠコリント7:23で「人の奴隷となってはいけません」と言っています。自分は自由だ、何ものからも独立していると思っていても、人の目の虜になっているかもしれません。お金や名誉や権力欲の奴隷になっているかも知れません。神に敵対するサタンや様々な偶像の奴隷になっているかも知れません。そういう私たちを、イエス・キリストが買い取って自分のものとしてくださった。私たちはイエス・キリストという背景を持たなくては、他の悪しき者を背景として生きていかなくてはなりません。私たちを利用し、滅ぼそうとするものに張り付いて、生きていかなくてはなりません。そうならないように、イエス・キリストはご自分の命を捧げて、私たちを買い取ってくださったのです。私たちを生かし、本当の自由を得させるために、そうされました。だからこそパウロは、「しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤ5:1)と、叫ぶように語るのです。
今日の説教の始めに語りましたように、アブラハムの約束を受け継ぐヤコブは、この世にあって、この世を超えた約束のもとに生きた人でした。彼はこの世で力ある者の前でも卑屈にならず、時にそれに感謝しつつも、威厳をもって生きることができました。彼は時の絶対的な権力者であるファラオもまた、主なる神のご支配の下にあることを知っており、彼に祝福の言葉を語ったのです。この約束は、私たち今日のキリスト者にも、イエス・キリストを通して受け継がれています。イエス・キリストに買い取られ、イエス・キリストの所有とされた私たちも、アブラハムやヤコブと同じように、この世を超えた約束のもとに、祝福を世にもたらす源として歩んでいくように、励まされているのです。この世にあってこの世を受け入れつつも、この世を超えたものに導かれて、神の祝福を持ち運ぶ者として用いられている。そこに、キリスト者として生きる私たちの歩みがあるのです。

1月10日礼拝説教

ヤコブの手紙2章14~19節          2021年1月10日(日)

「行いを伴う生きた信仰」  藤田 浩喜

 今日読んでいただいたヤコブの手紙2章15~16節で、著者ヤコブは実にショッキングな例を挙げています。実際にあったことか、ヤコブの創作かは分かりませんが、次のように言うのです。「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」「兄弟あるいは姉妹」というのは、教会で兄弟姉妹と呼び合う信仰仲間のことです。その信仰仲間が、着る物だけでなく食べる物にも困窮している。それを知っていながら、耳ざわりのよい言葉を掛けるだけで、必要な食べ物や着る物を何一つ提供しようとしないなら、困っている仲間には何の役にも立たたない。耳ざわりのよい言葉は、絵空事でしかありません。そこから分かるように、信仰を持っていると言っていても、行いが伴わなければ、絵空事に過ぎないし、何の役にも立たないと言うのです。

 特にここの言葉「安心して行きなさい」は、人々が分かれる際に交わされるあいさつであると同時に、当時の教会において、礼拝の最後に語られる祝福の言葉でもあったと言われています。本来、礼拝から遣わされて世に出て行く人に、守りと平安を祈る祝福の言葉が、中身のない、わざとらしい、絵空事の言葉になっているのです。しかし、このような言葉を、信仰を持っていると言う私たちキリスト者も使っていることがありはしないか。空々しい言葉を掛けるだけで、兄弟姉妹にとって実際の助けとなる行いがどれだけできているのか。この例話は、私たち信仰者の心に鋭く迫って来るのです。

 

 そもそも今日の箇所で著者ヤコブが言わんとしていることは、一体何でしょう? 彼は「人は信仰のみによって救われる」という信仰義認を否定しているのではありません。「信仰」と「行い」を二者択一的に並べて、「行い」こそ選ぶべきだと言っているのではありません。新約聖書学者たちは、ヤコブがパウロのことを知っており、ローマの信徒への手紙の内容も知っていたと言います。

 ご承知のように使徒パウロは、「行い」による救いを否定し、人は「信仰によってのみ」救われると主張しました。人がどんなに善い行いを積み重ねても、救いを生み出すことも、救いに到達することもできません。主イエス・キリストが十字架と復活によって私たちの罪を贖い、神と私たちを和解させてくださった。そのことを信じることによってのみ、私たちは救われるのです。

 しかし、パウロは手紙においてそのような救いの教理を語った後で、キリスト者がどのように生きるべきかという実践的な勧告を、必ずと言ってよいほど語ります。キリスト者にとって、御心に適った生活をすることや隣人に愛を行うことがいかに大切かを丁寧に教えています。ガラテヤの信徒への手紙5章6節では、「…愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と言っています。パウロは、救われた信仰者がキリストの愛に根ざした愛の行いに生きることを、強く勧めているのです。人が救われるために行いは必要ありません。しかし、救われたキリスト者が、信仰をもって生きるということの中に、愛の行いは不可欠なのです。限りなく愛してくださる神さまに応答して、私たちも隣人への愛を行っていくこと。それが私たち信仰者にとって、聖化の道を歩んでいくということなのです。

 ところが使徒パウロの健全な信仰を誤解して、「信仰」と「行い」を分けて考える人たちが現れました。イエス・キリストの救いを信じることだけが大切で、行いには何の意味もない。それは行いによって救われようとする「行為義認」である。「信仰だけあれば十分なんだ。」そういうパウロの健全な信仰を誤解したキリスト者たちが、ヤコブの手紙の宛て先教会にもいたようです。ヤコブはそのような人たちの考えを糾し、彼らを健全な信仰理解に連れ戻すために、今日の言葉を強い口調で語っているのです。三つのことを聞いていきましょう。

 まず、ヤコブの手紙がここで言っていることは、「耳ざわりのよい言葉を語る感情に酔うな」ということです。冒頭に取り上げた言葉の中で、貧しい兄弟姉妹に語りかけた信仰者は、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言っています。この人は恐らく、心からそう思って声を掛けているのでしょう。着る物や食べ物に困っている信仰仲間に、具体的な援助を行うということには全く思い至りませんが、そういう信仰者らしい言葉を掛けている自分の気持ちに酔っているのです。これは他人事ではありません。私たちはしばしば「あなたのことを祈っていますからね」と、信仰仲間に言葉を掛けます。実際にその日から、その友のために祈り始める人もいるでしょう。しかし、「あなたのことを祈っていますからね」と言えたことに満足して、実際には祈らなかったということもあるのではないでしょうか。信仰仲間が置かれた状況に共感し、感情が動かされ、その人のためを思う言葉が口をついて出てくる。そんな自分であることに満足して、そこで止まってしまうのです。

 こうした人について、ウィリアム・バークレーという注解者は次のように言っています。「いつも、すばらしい感情にひたっているだけの人は、その感情領域を出て行動にあらわすことはない、ということはよく経験する事実である。ある意味で、人は少なくとも憐れみと同情を行動に移すのでなければ、憐みとか同情を感じる権利をもつことはできないと言える。感情とはそれをもてあそぶものではない。それは努力と苦労と規律と犠牲という代価を払って、人生という織物におりこまねばならないものである。」聴くべき言葉ではないでしょうか。

 二番目にヤコブが言っているのは、信仰を行いによって示しなさいということです。18節を読んでみます。「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」この18節の前半は難解で、色んな読み方が提案されてきました。ヤコブが言っていることと、ヤコブが批判している人の言葉があべこべではないかとも感じます。そこで、日本におけるヤコブの手紙の第一人者である新約学者は、ここを次のように訳しています。「だが、ある人は言うだろう、『君は信仰を持っているのか?』ならば私は[言おう]、私は行いを持っている、と。行いなしで君の信仰を私に見せてくれ。そうしたら私は、行いによって私の信仰を君に見せよう。」批判されている者の言葉を、「君は信仰を持っているのか?」という疑問文一文だけとすることで、ヤコブの論旨が明快になっています。いずれにしてもヤコブにとって、信仰は信仰だけで独立したものではありません。信仰は行いとなって現われてくるものなのです。信仰はその人の心の中にあって見えないものです。しかし、その人が信仰によって生み出す行いを見て、周囲の人々はその人の中に確かな信仰が宿っていることを知るのです。

 主イエスはマタイによる福音書7章15節以下で、「良い木はその実によって分かる」と言っておられます。私たちはキリスト教信仰が良いものであり、人を救うものであることを、家族や周囲の人たちに分かってほしいと、願っています。そのキリスト教信仰の良さ、素晴らしさは、言葉による説明や説得ではなかなか伝わりません。それも必要ですが、イエス・キリストの愛に照らされ、押し出されて行う、私たちの日々の行いや生きる姿勢といったものを通して、周囲の人々はキリスト教信仰の素晴らしさを感じるのではないでしょうか。もちろん立派なあなたを見せなさいということではありません。背伸びをすることでもありません。心から依り頼めるお方と共に、人生を歩んでいける。自分には心から自分を愛してくださる方がいてくださる。その嬉しい思いが、小さな行いや態度を通して伝わっていくよう、祈りつつ努めればそれでよいのです。それで十分なのです。

 第三番目のことは、知識や概念だけの信仰は、死んだものであり、人を生かさないということです。19節にはこう言われています。「あなたがたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」ここで「神は唯一だ」ということが出てくるのは、唐突だと思われるかも知れません。これは、旧約聖書時代以来のイスラエルの人たちが唱え続けた正統的な信仰告白、信条、また信仰箇条でした。しかし、そのように信仰を告白するだけなら、悪霊でもしているというのです。いくらそのことを知っていても、生活が変わらなければ悪霊と同じだというのです。やがて滅ぼされてしまう悪霊と変わらない境遇にあるのです。それとは反対に、信仰から出てくる行いによって生活は変わり、毎日が生きたものになっていくのです。自分の生活だけではありません。日々関わっている家族や周りの人たちにも、いのちの息吹が及んでいくのです。

 

 今日の説教の最初に、行いの伴わない信仰者が信仰仲間に掛けている言葉として、「安心して行きなさい」という言葉が語られていました。実はこの言葉を、主イエスもしばしば、弱い立場にある人や病を癒された人に向かってお掛けになったのです。マルコによる福音書5章21節以下に、主イエスが12年間も出血の病に苦しんでいた女性を癒された記事があります。その癒しは、主イエスがご自分の意志でなさったものではありませんでした。「この方の服にでも触れればいやしていただける」という女性の信心に応えるように、主イエスの内から出て行った力によってなされたものでした。いずれにせよ、女性の長年の病は癒されたのです。そして、主イエスはそのまま彼女を、その場から去らせはしませんでした。群衆のひしめく中でしたが、主は触れた者を見つけようと辺りを見回されました。そして、おずおずと名乗り出た女性に向かって、この言葉を掛けられたのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」(34節)。主イエスは、ここで実際に、この女性の病の苦しみを解決されて、この言葉を語っておられます。この言葉にふさわしい事柄が、実際に主イエスによってなされています。そしてそこから、病の苦しみから解放された、この女性の新しいいのちが始まっていったのです。これまでの日々とは違う、喜びの歩みが始まっていったのです。「安心して行きなさい」と言うだけでなく、その言葉にふさわしい信仰の行いがなされていく。それはどんなにささやかな行いであっても、主イエスの与えてくださるいのちの息吹を持ち運んでいくことなのです。たとえ、その行いが小さな祈りであったとしても、主はその行いを豊かに祝し、いのちの息吹をもたらしてくださるのです。そのことを心に刻んで、今日からの新しい一週間を過ごしてまいりましょう。

2021年 1月3日礼拝説教

ルカによる福音書2章41~52節 2021年1月3日(日)
「父の家にいます主イエス」  藤田 浩喜
 今日は1月3日(日)のお正月です。例年ですと、神社にたくさんの人たちが初詣に訪れます。今年はコロナ禍のせいで、分散して参拝するよう呼びかけられています。いずれにしても日本人の多くは、お正月に初詣に出かけ、思いのこもった願いを捧げます。けれども、神社との関りは一年に一度だけ、という人も多いのではないでしょうか。

 さて、今日司式者に読んでいただいた聖書でも、ヨセフとマリア、12歳のイエスが、エルサレム神殿に詣でています。旧約の律法によれば、「律法の子(パル・ミツヴァー)」と呼ばれる成人男子は、年に3回エルサレム神殿を詣でるように定められていました。過越しの祭、五旬祭、仮庵の祭の時でした。ヨセフとマリアの夫婦はこの律法の定めを熱心に守っていたようです。そして、この過越しの祭の時にも、ナザレから100キロの道のりを旅して、エルサレムまで上って来たのでした。
 息子のイエスは12歳で、来年には律法の定める成人になります。そのこともあって、息子のイエスにも宮詣の経験をさせようとエルサレムに連れてきたのでしょう。一行は祭の期間中何日かエルサレムに滞在し、神殿にも参り、その後帰路についたのでした。
 ところがナザレに向けて一日進んだところで、マリアとヨセフは息子のイエスが、旅の一行にいないことに気づくのです。当時、エルサレム詣では村単位、町単位で行われていました。大勢の人たちが男組、女組に別れて、その日の集合地点まで旅をしていました。ヨセフは息子イエスが母と一緒にいるだろうと思い、マリアの方は息子が父と一緒だと思っていたのでしょう。集合地点で落ち合うと、父母のどちらとも一緒に来ていない。どこにもいない。これは大変だということで、ヨセフとマリアの夫婦は親せきや知り合いの人に尋ねながら、息子イエスを探して、エルサレムへの道を戻って行ったのです。12歳の成人間近とは言え、まだ子どもです。二人は気が気でない思いで、必死に息子を探しながら、来た道を戻って行きました。

 そして、息子の姿が見えなくなって三日後のことです。マリアとヨセフはとうとう都エルサレムまで戻ってきました。ひよっとしてと思って、エルサレム神殿に行きました。すると、そこに息子イエスがいたのです。46節以下の所です。「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの受け答えに驚いていた」。過ぎ越しの祭の期間、神殿の境内では律法学者や信仰熱心な人たちが、神の教えである律法について学び合う機会が設けられていたようです。日頃疑問に思っていることについて、律法の先生に教えを請うたり、自分の考えを述べる機会になっていたようです。今日で言えば、公開学習会といったところでしょうか。その場の真ん中に12歳の少年が座り、律法について話を聞いたり、質問をしたりしていたと言うのです。勿論、後の主イエスのように、人々に教えを述べていたというのではないようです。しかし、律法学者や信仰熱心な大人たちに交じって、対等に受け答えをしていた。熱心に語られることに耳を傾け、的を得た質問をしていた。人々はイエスの賢い受け答えに、驚き、感心していたのでした。
 その場面を目撃したマリアとヨセフは、驚きます。12歳のまだ子どもでしかない息子が大人たちに交じって、対等に受け答えをしているなど、想像もつかなかったからです。しかし、していることはともかく、何の断りもなしに旅の集団から離れて、単独行動をしたことは許されることではありません。マリアは少しきつい口調で、こう声をかけたのでした。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです」(48節)。私たちがマリアの立場であれば、もっときつく叱りつけたに違いありません。三日間も行方知れずの息子を見つけたのですから、親としては当然のことです。
 しかし、それに対する少年イエスの答えは、父母のまったく虚を突くような、思いも寄らないものだったのです。49節です。「すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか』」。エルサレム神殿を、「自分の父の家」だと言っている。父の家とは、ナザレのヨセフの家ではないのか。この子は何を言っているのだろう。マリアとヨセフは、イエスの言っている言葉の意味が分かりませんでした。しかし、行方知れずの息子が見つかったことには違いありません。父と母は息子を伴って、ナザレへと帰って行ったのでした。母マリアも、息子が何を言おうとしたのかは、分かりませんでした。しかしそれでも、ベツレヘムで羊飼いの礼拝を受けた時と同じように、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(51節)のでした。

 12歳の少年イエスは、神殿の境内の真ん中に座りながら、マリアとヨセフに言いました。「…わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)。この言葉は、ヨセフではなくて、父なる神こそが自分の父であると表明した言葉です。少年イエスは、自分が神の子であり、子である以上、父なる神の家である神殿にいることは当たり前であると、述べているのです。これまで、羊飼いたちに現れた天の御使いが、イエスは神の御子であると伝えました。羊飼いたち、シメオンや女預言者アンナも、幼子イエスが神の子であると証ししました。そして、ここでは少年イエスご自身が、自分は神の子であると、自ら述べているのです。そして皆さまがご存じの通り、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、父なる神ご自身がそのことを証しされるのです。イエスが洗礼を受けて祈っておられると「…『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」(3:21)のでした。そのように、主イエスは神の御子であられますから、本来、父である神の家、すなわちエルサレム神殿におられるのが、当然なのです。そこが本来、おられるべき場所なのです。
 しかし、「自分の父の家にいるのは当たり前」なのは、神の独り子イエス・キリストだけではありません。主の功(いさお)しにより神の子として頂いたキリスト者にとってもそうなのです。私たちには肉の父親がおり、その父の家に住んでいる者たちです。しかし、