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礼拝説教

5月16日礼拝説教

出エジプト記3章7~10節          2021年5月16日(日)
「下って来た神」    藤田 浩喜
◎私たちは、イエス・キリストを通して神さまから、キリスト者として召されました。キリスト者として、今の時代に生きています。あらためて考える時、それは一体どのように生きることなのでしょうか。キリスト者として召されているということは、何を神さまから期待されているのでしょうか。今日はモーセの召命の記事を通して、そのことに思いを馳せたいと思います。
◎ヘブライ人を助けようとエジプト人を殺してしまったモーセは、ファラオの追っ手を逃れるために、ミディアンの地に逃亡します。その地でミディアンの祭司エトロのもとに身を寄せ、エトロの娘チッポラと結婚し、男の子をもうけます。そしてエトロの生業(なりわい)であった羊飼いの仕事を受け継ぎ、早40年の年月が経過していたのでした。
 ある日のこと、羊の群れをミディアンの荒れ野に追って行き、神の山ホレブまでやって来ました。するとモーセはそこで、不思議な光景を目にします。柴の間に火が燃えていましたが、燃えるはずの柴が一向に燃え尽きないのです。モーセは、どうしてだろうと好奇心を抱きます。そして、こうつぶやくのです。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」モーセに対する神さまの働きかけは、ここから始まるのです。モーセが召命を受けるきっかけは「好奇心」であり、この好奇心をお用いになって神さまはモーセを召そうとされるのです。
 考えてみると、私たちが信仰者として召されるのは、色んなきっかけを通してです。青年期特有の生きる悩み、「自分は何のために生きているのか」「自分はどこに向かっているのか」という悩みの末に、教会の門をくぐったという人もいるでしょう。戦後のキリスト教ブームの時には、英語を学びたい、アメリカの文化を知りたいという目的で、教会に通った人も多くいました。わたしの知っている信仰者の中には、教会には女子青年が多いので、その女性たちとお近づきになりたいと、教会の門を叩いたという人もいます。その人は教会の役員を長く務めたあと、一念発起して神学校に行き、牧師になりました。神さまは主イエスを通して、色んな仕方で、色んな方向から信仰者をお召しになります。主イエスのところにやって来た人々も、偉くなりたいと野心を抱いていた弟子たちもおりましたし、病気を治してもらいたい一心でやって来た人もおりました。しかし、主イエスはご自分がその人と出会うことで、その人たちを最後にはイエスをキリストと告白する信仰者に成長させてくださいました。召されるきっかけは様々ですが、主イエスは私たちを主が願うような信仰者へと、整え成長させてくださいます。
◎さて、荒れ野の燃える柴のところで、主なる神はモーセに、「モーセよ、モーセよ」と呼びかけます。モーセは「はい」と答えます。すると神さまは、ご自分がモーセの先祖たちの神であることを告げられます。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(6節)。そして自己紹介をされる前に、次のように言われたのです。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(5節)。
この地は後に「神の山ホレブ」として、重要な役割を担うことになります。モーセが「十戒」を授かったのもこの山です。しかし、柴の中で燃える火が聖なる火であるから、その場所が聖なる土地であるというのではありません。最初から
特別に聖なる場所が存在する、というのではありません。神の御前にあること、神がモーセの前に現れてくださっていること、そのことがこの空間と場所を聖なるものとしているのです。
 私たちのことを考えてみても、教会という建物や場所が聖なる土地であるというのではありません。反対に、日々生活を営んでいる家庭や職場が聖なる土地ではない、と言うのでもありません。そこにおいて、私たちが神さまの現前にあるかどうか、神さまがそこにおいて崇められ、神さまが現れておられるかどうかで、
そこが聖なる地かそうでないかが決まってくるのです。家庭でも職場でも住んでいる地域でも、そこで神さまが崇められ、神さまのご栄光が現れているなら、そこは聖なる土地であります。反対にいくら壮麗な礼拝堂や建物があったとしても、
そこに集まる者が神さまの現前にいなければ、聖なる土地とはならないのです。主イエスを通して神さまに召された者たちは、様々な場所や空間を「聖なる土地」へと変貌させていく務めを、担っているのではないでしょうか。
◎ところで主なる神は、どうしてモーセを召し、ヘブライ人の指導者として立てようとなさるのでしょう。その理由が7~9節にはっきりと述べられているのです。読んでみましょう。「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々とした土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有り様を見た…』」。
 主なる神は、今のエジプト王ファラオ、ヨセフのことを知らないファラオが、ゴシェンの地で増え続けるヘブライ人を、圧迫しているのをご存じでした。ヘブライ人の男たちを大きな町の建設に動員し、強制労働させていたこと、ヘブライ人に男の子が誕生したら、その子をナイル川に投げ捨てよという命令を出していたことをご存じでした。民族絶滅政策ともいえる苛烈な圧迫の中で、苦しみ、喘ぎの声を上げるヘブライの民を、主なる神は見ておられました。その苦しみを「見、聞き、知った」神さまは、ヘブライ人の下に「降って行き」、彼らをその抑圧から救い出そうと、行動を開始されます。抑圧から解放するだけでなく、彼らを約束の地、乳と蜜の流れる豊かな地カナンへと導こうと行動を起こされます。その目的を果たすために、モーセを民の指導者として召し出そうとされているのです。 
神さまは高き所におられて、人間どもの愚かな有様を眺めておられたというのではありません。「わたしの民の…痛みを知った」という場合の「知った=ヤダー」という言葉は、知識や認識として知ったという意味ではありません。「アダムはエバを知り、エバは男の子を身ごもった」という場合に使われる言葉で、両者の深い一体性を表わしています。神さまは民と一体となられ、民が受けた痛みを自分が受けた痛みとして感じられました。そして、民の痛みや苦しみ、叫びを放置しておくことができず、民が喘ぐ場所へと「降りて行かれた」というのです。そして苦しめる民を、奴隷の地から救い出し、乳と蜜の流れる豊かな地、約束の地に導き入れるために、今や行動を開始されました。その最初の行動が、ミディアンの地で半ば隠遁生活をしていたモーセを、イスラエルの指導者として召し、表舞台に引っ張り出すことだったのです。
しかし、この主なる神の行動は、出エジプトのイスラエルに限定されたものではないはずです。神さまの造られたこの世界には、今も多くの人々の叫び声があり、苦しみがあり、痛みがあります。現代世界を見渡してみれば、民主的な選挙結果を踏みにじられ、軍事政権の武力と恐怖によって迫害を受け、命すら奪われているミャンマーの民衆の叫び声があります。誤ったシオニズムと国際政治の駆け引きに利用されたパレスチナの人々は、圧倒的な武力を誇るイスラエルによって、日常的に空爆を受け、当たり前の暮らしを奪われています。ガザでの悲劇はその最たるものであり、悲痛な叫びは止むことがありません。また、日本国内においても、諸外国と比べて極端に少ない難民認定のために、政治的・宗教的理由で日本に逃れてきた人たちが、入国者収容所入国管理センターという牢獄に長期収容されたり、命の危険のある本国に強制送還されたりしています。日本に助けを求めて逃れてきた人たちの悲痛な叫びが、今も響いているのです。
主なる神さまは、ご自身が造られたこの世界で上げられている苦しみ、痛みの叫びに、無関心であられるはずはあられません。ご自分が受けた痛みや苦しみとして、神さまも痛み苦しんでおられる。そして、その悩み苦しめる人たちを、苦しみから解き放つために、今も下って来て行動を起こされているのです。私たちキリスト者は、そのような神さまの御業の一端を担うために、信仰者として召されています。そのことがキリスト者の使命として覚えられなくてはならないのではないでしょうか。モーセのような大きな働きを担うことはできないかもしれません。できることは限られているかも知れません。しかし、主なる神さまがそうであったように、私たちは「苦しみ喘いでいる人たちを見、声を聞き、痛みを知ろう」とすることはできます。遠く離れた所で評論家のように論評するだけでなく、その人たちの苦しみや痛みに自分の身と心を寄り添わせることはできます。
そして、私たちのできる方法で、その人たちの痛みや苦しみを少しでも軽減することができるのではないでしょうか。真剣に「見て、聞いて、痛みを知る」。そして深く知ったからこそ、できることを考え、行動に移す。遠い所にいる人から身近な信仰の友に至るまで、苦しみ痛みを覚えている人のもとに、私たちも神さまがしてくださっているように、心と体を携えて行くよう召されている。このことは、私たちが何のためにキリスト者として召されているかということに、深く関わることだと思うのです。
◎もちろん、そのような召しを簡単には受けられないのも、現実の私たちの姿です。モーセも11節を見ますと、神さまの召しに異議を唱えています。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々を導き出さねばならないのですか」。自分の任ではありません。そんなことができるような者ではありませんと、召命を拒むのです。しかし、召された人がその時点で持っている能力や経験、強い使命感が、その人の適格性を決めるのではありません。そういうものが揃っていなくては、召しに応えられないというのではありません。神さまは言われています。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(12節)。主なる神さまは、「神ご自身が共におられる」という確かさが、召された者にとって不可欠のものだと言われているのです。「神が共におられる」。この確信こそが、召された者をその召しにふさわしい者に整えて、成長させてくれるのです。
使徒パウロは今日読んでいただいたフィリピの信徒への手紙2章6節以下で、こう述べています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者となられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6~8節)。信仰者である私たちには、このイエス・キリストが共にいてくださいます。この「神、共にいます」というインマヌエルの出来事以上に、確かで心強いしるしはありません。このインマヌエルであられるイエス・キリストに励まされ支えられて、それぞれが召された信仰者の道を歩んでいきたいと思います。

5月9日礼拝説教

ヤコブの手紙4章13~17節      2021年5月9日(日)
「主の御心の中で生きる」  藤田浩喜
 今日司式長老に読んでいただいたヤコブの手紙4章13~17節は、ある商人たちに呼びかけることから始まっています。13~14節です。「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。」
 ここに言われている商人は、自分のお店で物を売るような小規模な商人ではなく、地中海を股にかけて取り引きをするような大規模な商人であったようです。ある注解書によると、地中海のある場所で新しい町を起こそうとする時、このようなユダヤ人の商人が呼ばれ、各地から建築資材や調度品、燃料や食料品などを調達し、商ったようです。一つの町全体に関わる事業ですから、一年近くの時間がかかり、儲けも莫大であったに違いありません。今日の総合商社のような仕事をしていたのではないかと思います。
 しかしヤコブの手紙は、これから一年にわたる事業を始めようとしている商人たちに、冷や水をかけるようなことを言います。「あなたがたは一年先まで商売の計画を立てているけれども、自分の命が明日どうなっているか分からないではないか。あなたがたの命は、しばらく現れているが、やがて消えて行く霧のようにはかないものではないか。」そのように問いかけるのです。
 ここでヤコブの手紙は、商売をして金を儲けるのが悪いことだと、言っているのではありません。また、将来の事業を建設的に進めるために、綿密な計画を立て準備をすることが間違っていると、言うのでもありません。自分は自分の人生の主人であり、自分の力や才覚で思い通りに人生を進めることができる。自分の人生は自分の手の中にあり、自分の思うがままにできる。そのような思い上がった態度が、ここでは批判されているのです。主イエスが語られたたとえ話に、「愚かな金持ちの」たとえがあります(ルカ福音書12章13~21節)。あるお金持ちの畑が大豊作で、倉に収まらないほどでした。そこで新しい倉を建て、そこにすべての穀物を収めることを思いつきます。お金持ちはたくさんの蓄えができ、安心して飲み食いできると喜びます。しかし安心したのもつかの間、その金持ちの命はその日の夜に取り上げられるというのです。金持ちは財産を蓄えることはできましたが、自分の命を保つことはできなかったのです。
 今、関西3府県ではコロナ禍第4波が猛威を振るっています。ウイルスが変異株に置き換わったために感染力が3割程度増しただけでなく、より若い世代でも重症化することが分かってきました。そしてなお悪いことに、何でもないような人が短時間の内に重症化し、医療の逼迫と相まって、命の危機に直面しなければならないような事例も増えています。昨日までぴんぴんしていた人が、自分も全く予想もしなかった仕方で、死を迎えなくてはならない。だれにその番が回って来るかは分からない。ヤコブ書が言うように、「わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎ」ないのが、私たち人間という存在なのです。
◎では、そのような私たちはどのような心構えで、人生を生きて行ったらよいのでしょう。ヤコブの手紙は15節で、次のように語るのです。「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」。「主の御心であれば」、「主が望まれるのであれば」ということを前提にして、計画を立てたり、行動を起こしたりするということです。
 この「主の御心であれば」は、「ヤコブの条件」と言われ、初代教会以来、キリスト者の合言葉として使われてきました。使徒パウロもコリントの信徒への手紙 一 において、「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう」(4:19)とか、「主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています」(16:7)と述べています。自分の願いや計画を絶対視するのではなく、主なる神の御心を尋ね求めること、その御心に自分をゆだねていくことが、キリスト者の生き方なのです。
 それはもう少し具体的に言うと、次のような二つの心構えとして表現できるのではないかと、私自身は考えています。一つは一日一日を、神さまに与えられた時として生きて行くということです。先ほどの御言葉にありましたように、私たちは明日どうなるか分からない命です。明日のことは誰にも分かりません。また、明日のことを思い煩ったからといって、少しでも寿命が長くなるわけでもありません。私たちの命は神さまの御手の内にあります。ですから、一日一日を神さまが与えてくださった時として、日々受け取っていくのです。「神さま、今日も新しい命に生かしてくださってありがとうございます」と感謝の祈りを捧げ、神さまの御旨を尋ねつつ、聖書の教えにかなった一日を過ごしていく。その積み重ねが、キリスト者の生き方を形づくっていくのだと思うのです。
 エジプトを出て、40年間荒れ野を旅したイスラエルの民は、毎日一日分のマナを神さまからいただいて生きていきました。天からの食物であるマナをその日ごとに新しくいただいて、神の民として歩んでいきました。それと同じように、御子イエス・キリストを通して、その日ごとの命を神さまからいただいていく。それが、新しい神の民であるキリスト者の生き方なのだと思います。
 二つ目に大切なことは、自分の計画が実現することよりも、主の御心がなることこそが最もよいことだと信じ、受け容れていくということです。旧約聖書の箴言16章9節に、次のように記されています。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えて下さる」。また同じ箴言19章21節には、「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」とあります。人は様々なことを計画し、実行します。しかし、神の御心でなければ事はならない。このような信仰による人生の受け止め方、このような人生に対する洞察は、人間の行動力を殺すことは決してありません。逆に、その人を行動へと向かわせ、祈りつつ精一杯取り組む姿勢を生み出します。そして、そのようになした事柄の結果がいかなるものであったとしても、自分の願う結果でなかったとしても、それを受け止める力がその信仰から生まれて来るのです。
 バークレーという聖書注解者は、この個所について次のように述べています。「真のキリスト者の道は、未来の不確実性による恐怖におののくのではなく、またこれに麻痺して無為に過ごすのでもなく、神の御手の中にある未来とわたしたちのいっさいの計画に全力投球し、常にわたしたちの計画そのものが神の計画から外れることもありうることを記憶することである。」私たちキリスト者は、自分が正しいと信じた使命に全力投球で取り組まなくてはなりません。それは教会の宣教においても、キリスト者個人の生き方においても大切です。しかし、そのような私たちの全力投球の計画が、神さまのご計画から外れてしまうこともあります。使徒パウロもアジア州での伝道を志ましたが、聖霊によってアジア州で御言葉を語ることを禁じられました。しかしパウロは、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを救ってください」と言うマケドニア人の幻を見て、マケドニアに行く決断をします。パウロはこの幻を見たとき、「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを召されているのだと、確信するに至った」(使徒言行録16章10節)と証ししています。「主の御心であれば」というのは、自分の計画が実現することよりも、主の御心が実現することこそが最もよいことだと信じて、それを受け容れるということなのです。
◎しかし、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」というヤコブの条件は、そう簡単に守ることはできません。人間は自分の人生の主人ではなく、明日の命を保証することもできない者ですが、それでも主人のように振る舞い続けてしまうのです。そのことをヤコブの手紙は、15~16節でこのように言うのです。「ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」ヤコブの手紙4章は、主の前にへりくだり、謙遜な者となるように勧めてきました。しかし、実際の人間は、主の前にへりくだり、謙遜になるのではなく、誇り高ぶってしまっている。なすべき善を頭では分かっていても、実行に移そうとしない。主の御心にゆだねる生き方をしようとしない。それは神さまの御心に背くことであり、罪であるとヤコブは言うのです。
 ここで使われている「誇り高ぶる」という言葉ですが、ギリシャ語では「アラゾネイア」という言葉です。この言葉は語源をたどると、放浪性のあるやぶ医者の特徴を表していると言われます。やぶ医者は治ってもいないのに治ったと言い、彼がやりもしなかったことを成し遂げたと誇りました。それゆえ「アラゾネイア」というのは、自分がもってもいないものをあるように言ったり、できもしないことを誇ったりする人の特徴を示しているのです。残念ながら、明日は人間の手の内にはありません。明日の命がどうなるかも分かりません。私たちの中の誰一人、明日は自分で決定できると、誇り高ぶって言うことはできないのです。
◎今日は、「神の御心ならば」ということに思いを集めてきました。しかし、そのような神の御心の中心にあるものは、そもそも一体何なのでしょう。色んな言葉で語ることができると思いますが、ヨハネによる福音書の言葉から、神の御心は何なのかを最後に見てみましょう。6章40節です。イエス・キリストが語られた神の御心は、次のように記されています。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」神の御心は、たとえ地上でどんなことが私たちの身に起こることがあるとしても、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることなのだ。地上でいかなる苦しみ、艱難があったとしても、主に結びつく者が永遠の命を得ることこそが神の御心である、と主は語ってくださいます。
私たちの上には、死の陰が覆っています。そして陰は事実になる、やがて真の出来事になるのです。それを避けることはできません。しかし、今主の言葉を聞く時に、私たちの上を覆っているのは死の陰だけではありません。それ以上に、復活の光が強く私たちの上に降り注いでいます。そして、これもまた事実となる、真の出来事として私たちに起こるということを、知ることができるのです。
生きている時も、死ぬ時も、主なる神の御手の中にある私たちです。それと同じように、いやそれ以上に死を通して、新しい命に招かれることも神の御手の中にあるのです。神の御心がそれほどに深く、それほどに恵みに満ちたものであることを、私たちはあらためて噛みしめたいと思います。

5月2日礼拝説教

ヤコブの手紙4章11~12節    2021年5月2日(日)説教
「人を裁く罪」   藤田浩喜
 今日お読みいただいた聖書には、「悪口を言い合ってはなりません」とか「兄弟を裁いたりしてはなりません」と言われています。「悪口を言う」、「人を裁く」ことは、社会においてしばしば行われています。人間が生きる社会には「つきもの」と、言わざるを得ないのかも知れません。特に今コロナ禍の中にある日本の社会では、その傾向が強く表れているように思います。自分の考え方と同じ考え方をしない人を激しく攻撃したり、自分と同じように行動しない人を断罪したりしてしまいます。自分の考えや行動は正しいと信じて疑わず、そこから少しでも外れている人を見かけると、許すことができないのです。
 三浦綾子さんの小説に『裁きの家』という作品があります。大学教授である兄と普通のサラリーマンである弟と、その二組の家庭で展開される夫婦、親子、兄弟、嫁姑の人間関係における家庭の問題、その確執が描かれ、作品全体を通して、「人は人を裁くことができるか」という鋭い問いを投げかけています。
 この兄弟の母クメが、兄の家から弟の家に引き取られるあたりから物語は始まり、姑のクメを引き取ったことで、嫁の優子はいろいろと葛藤することになりますが、彼女が次のように語るところがあります。「考えてみると、すでに自分たちは、日々人を裁き、また裁き合っている。朝起きた時から、夜に至るまで、いや夢の中でさえ、自分は人を裁き、人を責め、人を怒っていると優子は思った。クメが花や置物の置き方を、優子の置いた反対に置くことで、優子は繰り返し怒ってきた。クメが新聞を読む時に、経文を読むように節をつけるのを嫌ってきた。クメが修一に嫌味を言う度に、優子はクメを憎んで来た。クメが外出するとホッとし、帰る時間になると憂鬱になった。つまり、ありていに言えば、姑のクメなど、この家にいてはもらいたくなかったのだ。何かに書いてあったが、自分のそばに特定の人がいることを嫌うのは、つまりその人を見たくないということだ。もっと鋭く言えば、永久にその人の顔を見なくてもいいということなのだ。(それは)その人は死んでくれということなのだ、とその本には書いてあった。自分では気づかずに、自分はクメの死を願っていたことになる。クメは死に価する何をしたというのだろう。少しのことが気に入らないからと言って、人間は何と恐ろしい気持ちを持つものであろうと、優子は今しみじみ思った」と。
 優子という名のごとく、優しい心の持ち主である優子にも、冷たく厳しく人を責める恐ろしい心が宿っていたのです。また兄の嫁・滝江は悪徳な女性で、ひとり息子の清彦は自動車のブレーキを故障させて、殺すことを考え実行します。そして自分の前で事故が起こります。しかし殺したいと思っていた母は死なず、清彦が好きであったおばさんの優子がその車に同乗していて、死んでしまうのです。清彦は獣のような声を上げて、坂の下に向かって走っていった、というところで物語は終わります。清彦という名のように、人を裁く資格があるとすれば、最も清く正しく冷静である清彦でしょう。しかしその裁きは失敗に終わるのです。
 三浦さんは本の「あとがき」で、「『家庭は裁判所ではない』ということを、わたしは度々口にする。しかし、現代は家庭もまた裁き合う場であって、憩いの場でもなければ、許し合う場でもなくなっていると言える」と述べておられます。
 そして家庭だけではありません。主イエスを信じる信仰者の集まりである教会もまた、悪口を言い合ったり、兄弟姉妹を裁いたりする場になることがあるのです。新約聖書の手紙の中に、いわゆる「悪徳表」というものが幾つも収められています。その悪徳のリストの中に、悪意とか悪口、あるいは陰口をいったものが必ず含まれています。「そういったことを避けなさい」と勧められています。そのような悪徳表を記した手紙が、各地の教会に宛てて書かれていたということから、悪口を言うことや言葉で兄弟姉妹を裁くことが、教会の交わりを揺るがす大きな問題になっていたことを伺い知ることができるのです。教会もまた『裁きの家』になってしまう危険性を秘めているのです。そうではないでしょうか。
 そのような危うさを秘めた教会に、ヤコブは今日の言葉を語っているのです。あらためて読んでみましょう。まず11節でこう言います。「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし、律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。」同じ教会の兄弟姉妹の悪口を言ったり、裁いたりする。これは相手のことを間違っていると否定し、断罪することです。しかしこれが律法を裁くことになるというのは、どういうことでしょう。
 先に学んだヤコブの手紙2章8節で、ヤコブはこう言っていました。423頁。「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。」ヤコブは「隣人を自分のように愛しなさい」という教えを、最も尊い律法と見なしていたことが分かります。隣人を愛するように神が命じておられるのに、隣人の悪口を言い、隣人を裁くということは、律法を裁くことになります。そしてそのことは、この教えに込められた神の心を踏みにじることになります。それどころか、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を与えられた神に代わって、自分が裁き手になってしまうことなのです。
 旧約の律法を成就するものとして、イエス・キリストもヨハネによる福音書13章34節で「新しい掟」を与えられました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」キリスト者は、イエス・キリストが全存在をかけて与えてくださったこの新しい愛の掟を、実践することが求められています。この愛の律法に従い、この愛の掟の実践者となることが大切なのであり、それと対立するような律法を立てて、人を裁くようなことをしてはならないのです。神が私たちに求め給う兄弟姉妹との関係は、互いに排斥しあうことではなくて、互いに愛し合うことです。それは別の言葉で言えば、互いに生かし合うことです。悪口と裁きの言葉を語るのではなく、赦しと励ましと希望の言葉を語り合うことなのです。愛の掟にこそ、私たちは従う者でありたいと思います。
 それに続けて、ヤコブは12節で次のように語ります。「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになります。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」。ここでは、隣人や兄弟姉妹に悪口を言ったり、裁いたりする立場に、私たちはない。そんな務めは与えられていないと言われているのです。そんな、与えられてもいない務めを行うあなたは何者かと、諫(いさ)められているのです。
 私たちは教会の兄弟姉妹との関係の中で、色んな思いを抱くことがあります。「あの人の言っていることや行っていることは間違っている」と、強く感じることもあるでしょう。そのような思いが募るうちに、「相手の人を甘やかしてはならない」、「厳しく断罪することが相手のためだ」と、思い込んでしまうことがありはしないでしょうか。自分の批判の言葉や厳しい態度が、相手を正しい方向に立ち直らせることができると、思い込んでしまうのです。
 確かに愛を込めて忠告したり、愛を込めて何かを相手に伝えようとすることは無駄ではありません。主イエスも「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とか「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」(マタイ18:15~16)と教えておられます。対話を通して、御心に沿った思いを伝えることは大切です。
 しかし、どこまでも私たちが忘れてはならないのは、キリスト者である一人ひとりには、主人であるお方がおられるということです。そして、このお方だけが兄弟姉妹を御心にかなった正しい方向に立ち直らせることができるのです。ローマの信徒への手紙14章4節を読んでみましょう。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」一人ひとりのキリスト者の主人は、神であられます。その神が、一人ひとりを赦し、愛し、生かし、またご自身の用に用いようとしておられます。たとえ間違った方向に進んで倒れてしまっても、神がその人を立ち上がらせることがおできになります。私たちが兄弟姉妹のためにできることは、この神を越えて人の生き方を指図することではありません。愛を込めて忠告したり、愛を込めて何かを相手に伝えようとすることはあるでしょう。しかし最終的にわたしたちができることは、一人ひとりの主人であり給う神に、その人のことを祈るということです。それはこの神に、兄弟姉妹を委ねるということなのです。
 私たちの悪口や裁きは、人を立たせることができないことが多いのです。しかし、主はその人をもう一度立たせることがおできになります。真にその人にふさわしい生き方を造り出してくださる神に、私たちは委ねることができるし、委ねなければならないのです。
 預言者イザヤは、神の言葉を次のように取り次いでいます。「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。…わたしの目にあなたは値高く、貴く/わたしはあなたを愛する。」イザヤ書43章1節、4節の言葉です。
わたしはあなたの名を呼ぶと、一人ひとりに向かってイエス・キリストの父なる神は語りかけて下さっています。あなたはわたしの目に値高く、貴いものである。わたしはあなたを愛する。神はこのように一人ひとりに向かって、語りかけてくださっています。神がわたしのものと言われる人を、私たちが裁くことはできません。神が、わたしの目に貴いと言われたその人を、私たちが裁くことは許されません。この主なる神が一人ひとりに向けておられる愛の眼差しを、私たちが妨げることがあってはならないのです。
 神が一人ひとりに向けておられるあの眼差し、その眼差しがまさに私たちにも向けられています。それを覚える時、私たちの口から出るのは、悪口や裁きの言葉ではなく、感謝と賛美の言葉、そして共に生きようと励まし合う言葉であるはずです。私たちは、信仰に基づいてヤコブのこの戒めを、謙虚に、そして新たな示しを受けつつ、聞き取っていきたいと思います。

4月25日礼拝説教

ヤコブの手紙4章7~10節        2021年4月25日(日)
「もっと神に近づこう」  藤田浩喜
 今日司式長老にヤコブの手紙4章7~10節を読んでいただきました。ここには、十の戒め、命令があります。旧約聖書にモーセの十戒がありますが、それに因んでか、この個所が「ヤコブの十戒」と呼ばれることがあります。十というのは完全数です。たまたま十になったのではなく、無数に多くある戒めの中で、煮詰めていって、熟慮の結果、ここに十の戒めとしてまとめたのでしょう。ここに大切な戒めのすべてが、象徴的に凝縮して語られていると言ってもよいのです。それほど大切な戒めとして受け止めたいものです。もちろんここにはキリストの十字架の血によって贖われた者として、ふさわしく生きるべき道が示されています。それは救いの道であり、福音的戒めなのです。

 まず①「神に服従しなさい」とあります。この言葉は10節の「主の前にへりくだりなさい」という戒めとみごとに対応しています。この二つの言葉がサンドイッチのように囲んで、あとの8つの言葉をはさみこんでいます。まず「神に服従しなさい」と言い、そして最後に「主の前にへりくだりなさい」と言うのです。これらはすべて2人称複数形で、「あなたたち……しなさい」となっているのです。私たちひとりの例外もなく命じられています。「服従する」は「下に置く、下に配置する」の意味ですが、神の大いなる支配の下に、自分を置くことなのです。神の力強い支配の下に服し、あらゆる恵みの源である全能の神の力の前に屈服することです。
 次に②「悪魔に反抗しなさい」とあります。神に服することは、決して不自由ではなく、悪魔に反抗し対抗することです。悪魔の束縛から自由になることです。悪魔なんか神話的存在だと思われるかも知れませんが、きわめて現実的実在的な存在なのです。神に服従しようとする時、悪魔が現れるのです。悪魔なんかいないと思っている間は、神に従っていない証拠です。旧約聖書でヨブが神に忠実であったから、サタン・試みる者の厳しいテストを受けたとあります。主イエスも洗礼を受けて、いざ神に従おうとした時、荒れ野で悪魔の誘惑に遭われました。神に一歩でも近づこうとする時、悪魔が現れるのです。悪魔の手下になっている間は、悪魔は攻撃してきません。いざ神に服従しようとする時、悪魔が登場して、神に近づくことを妨げるのです。祈ろうとする時、悪魔は祈りを妨げようとします。しかしその時、悪魔に反抗し、敢然と立ち向かいなさいというのです。エフェソの信徒への手紙6章13~17節には「神の武具を身につけなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、…その上に、信仰を盾として取りなさい。…救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」とあります。このように悪魔に対抗するためには、完全防御、完全武装の態勢が必要なのです。そうすれば悪魔は逃げていきます。これはエフェソ書の信仰の経験であり、またヤコブの信仰の経験であったに違いありません。ここに悪魔のアキレス腱、弱点・ウィークポイントがあるのです。
 さらに③「神に近づきなさい」とあります。神にアプローチする、神に近づくことができるのです。本来、神は天にいます方です。遠くにおられる方です。しかしイエス・キリストにおいて、限りなく近くに来てくださいました。だから私たちは神に近づくことができるのです。私たちが神に近づこうとする時、神はこんなにも近くにいてくださったのだということを知ることができるのです。私たちが神に近づく時、神は急接近してくださいます。これも神に近づく者の経験なのです。
 続いて④と⑤では、「罪人たち」と呼びかけています。立派で正しいと思われる人も、みな罪人にすぎません。人生を経験すればするほど、自分の罪の深さを経験することになります。人の前に顔を上げられないような罪深い者なのです。そのように呼びかけて、「手を清めなさい」、「心を清めなさい」と勧めます。「心の定まらない者たち」とは「二心の者」で、神とこの世に同時に心が引かれている者ということです。ここでは「手」と「心」が対になっています。手は外なる行為を示し、心は内なる思いを意味しています。
 そして⑥「悲しみなさい」、⑦「嘆きなさい」、⑧「泣きなさい」と語っています。これは私たちの常識とは反対のことを言っています。人生において、私たちは悲しみの涙を流し、嘆きがあり、号泣することもあります。そこで悲しむな、嘆くな、泣くなというのではなく、悲しみ、嘆き、泣きなさいというのです。まだ悲しみ、嘆き、泣くことが足らないというのです。言い換えれば、私たちの本当の姿は、悲しみと嘆きと涙にあふれた存在なのです。人はみなやがて下される神の裁きの前に立つことになるからです。自分の罪、最後の絶望を覚えて、少しは悲しみ、自分の最後のことを覚えて嘆き、自分の弱さを知って泣きなさい、と言うのです。
 そして⑨「変えなさい」と言っています。「笑いを悲しみに、喜びを愁いに変えなさい」と言うのです。「愁い」は意気消沈、意気阻喪、失望落胆することを意味しています。今、笑っている人は、悲しみなさい。喜んでいる人は、落胆しなさい。このような悲しみ、嘆き、泣き、落胆することをまとめるかのようにして、最後に⑩「主の前にへりくだりなさい」というのです。6節の「謙遜」と10節の「へりくだりなさい」は同根の言葉です。ブックエンドのように、二つの言葉が囲んでいます。この「へりくだり」の中に、神の恵みが輝き現れているのです。神の恵みとは何か。どこに現れるのか。へりくだりの中に現れるのです。
 トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』の中には「けんそん」という言葉が繰り返し出てきます。しつこいほどに出てくるのです。トマス・ア・ケンピスという人は、1380年にドイツのケルンに近い、ケムペンという所で生まれました。父はヨハン・ヘメルケンで、従ってケムペンのトマス・ヘメルケンというわけで、トマス・ア・ケンピスというのです。彼は生涯、修道士として生き、若い修道士の指導をしました。雄弁な説教者でしたが、けんそんな人でした。「沈黙が彼の友であり、仕事が彼の伴侶であり、祈りが彼の助けであった。彼は人知れず働くことに甘んじていた」と自ら書いています。また「へりくだって服従すべきこと」という文章の中で、次のように書いています。「人がへりくだって自分の欠点を認めるならば、たやすく人を和らげ、感情を害した相手とすみやかに和解するであろう。神はへりくだる者を守り救い、愛し慰められる。へりくだる者に彼は御自分を傾けられる。へりくだる者に彼は大いなる恵みを与え、そのへりくだりの後にこれを光栄にあげられる。へりくだる者にその奥義を示し、いつくしんでこれを自分に引き寄せられる。悩みのさ中にあってもなお、へりくだる者は全く平安のうちにいる」。そしてここにたたみかけるようにして、へりくだることを勧めています。それは私たちが高慢な人間だからです。しかし「神はへりくだる者を守り救い、愛し慰められる。へりくだる者に彼は御自分を傾けられる。へりくだる者に彼は大いなる恵みを与え、そのへりくだりの後にこれを光栄にあげられる」と書いているのです。
 神はへりくだる者、謙遜な者に傾斜されるのです。へりくだる者に神は恵みを与えられます。私は恵まれていないと思う時があるなら、みずから謙遜でないことを肝に銘じるべきなのです。謙遜の中にこそ、神の恵みは輝き現れるからです。フィリピの信徒への手紙2章にある「キリスト賛歌」の中には、「キリストは神の身分でありながら、…自分を無にして、人間の姿で現れ、へりくだって、死にいたるまで従順でした」とあります。この「へりくだって」がヤコブ書に出てくる「へりくだりなさい」と同じ言葉です。ただ異なるのは、今日の個所では受身形で出てきます。主イエスはご自分で「へりくだった」のです。しかし私たちは自分がいくら努力し修業を積んでも、へりくだることはできません。ますます高慢になってしまいます。だから神の力によって、聖霊の働きによって、「へりくだらせられなさい」というのです。へりくだること自体が神の働き、恵みです。へりくだったところ、そこに神の恵みが輝き現れるのです。そして主イエスを引き上げられた神は、へりくだる者を高めてくださいます。私たちは自分の弱さ、貧しさ、悲しみ、罪と絶望を経験するばかりですが、しかし神は高めてくださるとの約束を抱きつつ、望みをもって生きることができるのです。
 ジョン・ウェスレーだったと記憶していますが、臨終の時に、弟子が「人生で第一に大切なことは何ですか」と聞くと、「謙遜である」と言いました。「第二は何ですか」と聞くと、「謙遜である」と言い、さらに「第三は何ですか」と聞くと、「それも謙遜である」と言ったといいます。「一にも謙遜、二にも謙遜、三にも謙遜」なのです。キリストは謙遜であられました。聖霊の導きによって、このようなキリストに倣うものでありたいものです。

4月18日礼拝説教

創世記49章29節~50章6節         2021年4月18日(日)
「取り消されない神の愛」   藤田浩喜
◎今日司式長老に読んでいただいた聖書箇所は、創世記の最後のところです。ここには、族長ヤコブが生涯を閉じたことと、その壮麗な葬りのことが記されています。ヤコブは亡くなる前に、息子たちに命じます。それは自分をどこに葬ってほしいかということでした。49章29節のところです。「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」この畑と洞穴は、祖父アブラハムが買ったものであり、アブラハムとサラ、イサクとリベカ、そしてヤコブの妻レアも葬られていました。ヤコブは、約束の地カナンにあるその墓に自分を葬ってほしいと、遺言するのです。
 私たちの教会でも、教会員の皆さんに「私の教会生活データベース」というのを書いていただくようにお願いしています。そこには、ご自分の教会生活のあらましや、愛唱聖句や愛唱讃美歌、最後を迎えたときどこに連絡したらよいかの連絡先、そしてどこで葬儀をしてほしいかなどを書き込むようになっています。葬りに関するご自身の希望を文書にして残しておくと、多くのご家族は故人の希望を尊重してくださいます。そういった書いたものがないと、ご家族がどうしていいか分からないということが、起こります。まだ「私の教会生活データベース」を書いてくださっていない教会員の方は、ぜひ書いてくださり、1部をご家族に1部を牧師の方にお預けくださいますよう、お勧めいたします。
◎さて、ヤコブが生涯を閉じ、その葬りがどのようなものであったかが、創世記50章1~14節に記されています。それはひと言で言って、エジプトの総理大臣の父上にふさわしい葬儀であったと言えましょう。ヨセフはまず、医者たちに命じて、父のなきがらに防腐処置をするように命じます。私たちの知っている言葉で言えば、ヤコブのなきがらをミイラにしたということです。これはエジプト人の思想では宗教的な意味がありましたが、ヤコブの場合は、カナンの墓地まで運ばなくてはならなかったので、このような処置をしたのでしょう。
 そして、エジプト人は総理大臣ヨセフの父上のために、七十日間喪に服したのでした。エジプトでは王ファラオが亡くなると、七十二日間喪に服したと言われます。それより2日間だけ短い期間、ヤコブのために喪に服しました。それは、ファラオをはじめエジプトの人々が、どれだけ総理大臣ヨセフに恩義を感じていたかを示すものでありました。
 そして、ヤコブの遺言を果たすために、ヨセフは王ファラオに、カナンの地まで父の葬りに行く許しを得ます。すると、ヤコブの一族だけでなく、エジプトの主だった人々がこぞって、その葬儀に出席したのでした。7~9節をご覧ください。「ヨセフは父を葬りに上って行った。ヨセフと共に上って行ったのは、ファラオの宮廷の元老である重臣たちすべてとエジプトの国の長老たちすべて、それにヨセフの家族全員と彼の兄弟たち、および父の一族であった。ただ幼児と、羊の群れはゴシェンの地域に残した。また戦車も騎兵も共に上って行ったので、それはまことに盛大な行列となった。」その葬儀は、カナンの墓に行く途中のヨルダン川の東側にあるゴレン・アタドという場所で行われました。そしてその壮麗な葬儀を見ていたその地のカナン人が、「あれは、エジプト流の盛大な追悼の儀式だ」と感嘆の声を上げました。そのためその地が、アベル・ミツライム(エジプト流の追悼の儀式)と呼ばれることになったと、報告しているほどなのです。
 これが族長ヤコブの葬りの様子です。一方、創世記50章にはそれからだいぶ経って、息子のヨセフが最後を迎えた時のことも報告しています。ヨセフは、他の兄弟たちより短命であったようで、百十歳で生涯を閉じます。その少し前、ヨセフは兄弟たちに次のように、遺言を残します。25節後半です。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。その時には、わたしの骨をここから携え上ってください。」ヨセフも父ヤコブと同じように、カナンの地に葬られることを願ったのです。それは四百数十年の歳月を経て、果たされることになります。
 しかし、ヨセフの葬りについてはどうでしょう。エジプトの総理大臣であり、エジプトの国を飢饉から救った人ですから、さぞかし壮麗な葬儀がなされたのではないかと予想します。しかし、50章26節には、だだ次のように記されているだけなのです。「ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに収めた。」ミイラにされたことは間違いありませんが、その葬儀についてはひと言も語られていないのです。ヨセフは、父ヤコブの葬儀を経験して、自分は父のような葬儀ではなく、質素な葬儀をしようと考え、そのように命じたのかもしれません。その人の置かれた立場やその人の考え方によって、葬儀の行い方も違ってくるということでしょう。
 最近、日本においても葬儀の行い方について、意識が大きく変わって来ているのを感じます。社会の高齢化と昨年来のコロナ禍の影響もあって、遺族や親族だけで営む「家族葬」というのが、どんどん増えています。わたしはそんな場合でも、主にある「兄弟姉妹」でもあり、讃美歌を歌う人も必要なので、ある程度教会員が出席させてもらえるよう、お願いすることがよくあります。
 しかし、教会員の方々には、生前お交わりのあった友人や知人の方々をある程度お招きする葬儀をするようにお勧めしています。その理由の一つは、家族葬にしてしまうと、後日その知らせを受けた友人、知人の方が、五月雨式に弔問に来られ、その対応にご遺族が追われてしまうことになるからです。もう一つの理由は、キリスト教の葬儀では、故人の信仰者としての歩みが、牧師の語る葬儀の辞を通して、あるいは信仰仲間の捧げるお祈りを通して、紹介されます。故人が神さまとイエス・キリストを信じて、どのような生涯を歩まれたかが語られます。それは、故人のご遺族に対してはもちろん、友人や知人に対しても、福音の良き証しの機会になるのではないでしょうか。色んな事情があるかもしれませんが、「教会の方に迷惑をお掛けするのは申し訳ない」などと、お考えにならないでください。むしろ人生最後の礼拝の時、キリスト者として最後の証しの機会とお考えになって、教会での葬儀を行っていただきたいと願っています。
◎さて、創世記50章の残りの部分、15~21節にはもう一つの意義深いエピソードが記されています。父ヤコブが亡くなり、ヨセフと彼の兄弟たちだけが残されます。すると、兄たちは父という重しが無くなった今、ヨセフが自分たちに仕返しをするのではないかと、おびえるのです。ヨセフはエジプトの絶対権力者です。彼が願えば、昔自分に悪を行った兄たちを、どうにでもすることができます。たとえ血を分けた兄弟と言えども、100パーセント心を許すことはできません。それどころか、血を分けた肉親だからこそ恨みが残り続けることもあるのです。
 そこで兄弟たちは、人を介して次のようにヨセフに伝えたのです。16節の途中からです。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」兄たちは、父の執り成しの言葉に免じて、そして、自分たちが父の神に仕える僕であるという理由に訴えて、かつての罪を赦してほしいと懇願したのです。
 その言葉を人づてに聞いた「ヨセフは涙を流した」(17節)とあります。この涙にはどんな思いが込められていたのでしょう。自分を信じていない兄たちの言葉に、悲しくなったのかも知れません。あるいは、たとえ肉親であっても、大きな罪と過ちによって修復不可能な関係に陥ってしまったことを、今更のように突きつけられ、嘆いたのかも知れません。大きな出来事、裏切りや罪によって、人はもう二度と、元には戻らない状態に陥ってしまう。疑いや不信、恨みをどうしても拭うことができない。それが人間という存在の悲しい現実なのでしょう。
 しかし、ヨセフは自分のもとに来て、ひれ伏し、頭を地面にこすりつける兄たちに向かって、次のように言うのです。19節の後半以下です。「『恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちと子供を養いましょう。』ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」ヨセフははっきりと、兄たちが自分にしたことは「悪」だったと指摘しています。いい加減にはしていません。しかし、彼は「わたしが神に代わることができましょうか」と言っています。「自分が神のように善悪を判断するのではありません。神のなさろうとしておられる御心に、あなたがたと同じように自分も従う側にいるのです」とヨセフは言います。
そして、エジプトに自分を売るという悪を、神さまは善に変えてくださった。それによって、契約の民であるイスラエルの民を救うだけでなく、エジプトの民をも救ってくださった。「その神さまの御心に、わたしは従います。その御心から逸れることはありません。神さまの御心に背くことはありません。だから、その神さまのゆえに、あなたがたは恐れる必要はありません。」ヨセフは、神さまが間に立ってくださることによって、決定的に壊れていた関係が、今や赦しと和解に至っていることを宣言しているのです。
人は、大きな出来事によって破れた関係を、容易に修復することはできません。その関係が親しければ親しいほど、それは困難なことです。しかし、双方が悪を善に変えてくださり、夫々を最善に導いてくださる神さまの御心に服することができる時、その神さまの愛と慈しみのまなざしの中で、人は赦しと和解へと進んで行くことができるのだと思います。大切なのは共に神さまを見上げることです。
◎さて、最後にヨセフは、主イエス・キリストの原型とも言える存在であったことを、覚えたいと思います。使徒パウロはローマの信徒への手紙11章29節で、「神の賜物と招きは取り消されないものなのです」と述べています。これは今日朗読していただいた箇所からも分かるように、ユダヤの民のことが言われています。私たちは、イエス・キリストの到来によって、神の救いはユダヤ人から異邦人へと開かれたことを知っています。しかし、それによってアブラハムに約束された祝福と約束が、ユダヤの民から失われたわけではありません。一度与えられた「神の賜物と招きは取り消されないものなのです」。神さまの大いなるご計画の中で、異邦人である私たちだけでなく、ユダヤの民も最後に救いに至るのです。
 ヨセフはエジプトの総理大臣となり、食糧を備蓄し、飢饉からイスラエルの民を救いました。しかし、救ったのは自分の民イスラエルだけではありません。その救いのお相伴に与るかのように、エジプトの民も飢饉から救われたのではなかったでしょうか。それと同じように、ヨセフが指し示すイエス・キリストも、十字架の死と復活によって、契約の民イスラエルに救いをもたらされました。そして、その救いのお相伴に与るかのように、私たち異邦人にも救いの道が開かれたのです。私たちキリスト教会は、その福音を異邦人世界に告げ広める使命を、今も担い続けているのです。神のご計画のスケールの大きさに目を瞠(みは)りつつ、この光栄ある務めに仕えていきましょう。

4月11日礼拝説教

ルカによる福音書24章13~27節        2021年4月11日(日)
「心燃やされて歩み続ける」   藤田浩喜
 幼稚園では、先週金曜日に入園式をいたしました。その際、お子さんたち、保護者の方たちが密にならないように、入園児と保護者の写真を一組ずつ撮りました。そして後日一組ずつの写真を加工して、クラスの全体写真を写真屋さんが作ってくれるそうです。一緒に撮ったのではないのに、一緒に撮ったかのような全体写真をこしらえる。今日のデジタル技術からすれば、そんなことは簡単なようです。写真はおろか映像も、実際存在しなかったシーンを、映像加工技術でこしらえることができるようです。「百聞は一見に如かず」ということわざがあります。一回見ることは、百回聞くことよりも真実を伝えるという意味でしょう。英語にもSeeing is believingという、同じような意味のことわざがあります。しかし現代においては、自分の目で見たからといって、それが真実であるかどうかは分からない。写真でも映像でも、それが本物かどうか見極める見識や力を持たなければならない。そういう難しい時代なのだと思います。

 今日司式長老に読んでいただいたルカによる福音書24章13節以下は、エマオという町に旅するクレオパともう一人の弟子に、復活の主イエスが近づいて来て、一緒に歩いてくださったという記事です。イースターの時に読まれる有名な箇所です。この記事を読んでいきますと、興味深いことですが、「目で見る」ということの頼りなさや不確かさということが描かれています。
 まず、復活の主イエスはクレオパともう一人の弟子に近づかれ、一緒に旅をします。間近で主イエスにまみえます。「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(16節)のです。そんなことがあるのだろうかと思いますが、ヨハネによる福音書20章でも、マグダラのマリアはすぐ前に立っている復活の主イエスのことが分かりませんでした。園の手入れをする園丁だと思い込んでしまいました。マリアも復活の主に気づくことができなかったのです。
 どうして、そんなことになったのでしょう。クレオパともう一人の弟子は、その人と話していた時、エルサレムで十字架にかけられた主イエスを、次のように紹介しています。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」(19節)。「預言者でした」と過去のことにしています。それは、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)という言葉からも明らかです。彼らにとって主イエスは、死んで過去になってしまった人でした。マグダラのマリアの場合も、慕ってやまない主イエスは、亡骸としてしか存在しない人でした。そんな過去になってしまった人が、今生きて自分たちの目の前に現れるなど、想像することもできません。そのような彼らの目は、生きて彼らと共に歩まれる復活の主イエスを、正しく見ることができなかったのです。
 また、共に旅する人から、聖書の解き明かしを聞いたクレオパともう一人の弟子は、この人を無理に引き止めて、同じ宿に泊まるように願います。共に旅をした人はその願いを受け入れ、同じ宿に泊まることになります。そして、食事の時、その人は「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しにな」りました(30節)。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)とあります。パンを裂く所作は、過越しの祭のときや5千人の群衆をパンと魚で養われたときに、主イエスがなさったものであり、それを思い出して二人は、目の前にいるお方が主イエスだと気づいたのかもしれません。
しかし、主イエスの姿はすぐに見えなくなってしまうのです。復活の主であるとその目で見て分かったことが、あたかも重要なことでないかのようにです。
 先週、幼稚園の先生たちと今日の聖書箇所の聖書研究をしていました。その時ある先生が、「どうして、主イエスの姿はみえなくなったのですか」と質問をされました。「クラスの子どもたちの中で、きっと聞いてくる子がいるので教えてください」とおっしゃいました。わたしも不意を突かれたような質問で、すぐに答えることができませんでした。「復活したイエスさまは、二人の弟子たちが自分のことに気づいたので、『もうこれで大丈夫』と安心されて、姿を消されたのではないでしょうか」というような、苦しい答えをしたことを覚えています。
 しかし、主イエスの姿が見えなくなったのは、目で見ることや目で確認することが重要なことではないということを、語ろうとしているのではないでしょうか。
復活の主イエスを、自分の目で見たのはペトロを始めとするとする弟子たちやマグダラのマリアを始めとする女性たちだけです。パウロはダマスコにキリスト者を逮捕しに行ったとき復活の主を見ますが、それは幻視体験のようなものとして描かれています。しかし、復活の主イエスを目で見なければ分からないとするなら、それは同じ時代を生きた人や特別な力を持った人たちに限られてしまいます。しかし、復活の主イエスを信じて受け入れるということは、目で見なければ起こらないということではありません。目で見るということが、復活信仰をもたらすのではありません。むしろ、十字架と復活の主イエスを証しするみ言葉に聞くということが、復活信仰において決定的な役割を担っているのです。

 エマオの町へ旅するクレオパともう一人の弟子は、ここ数日の間にエルサレムで起こったことをめぐって、論じ合っていました。それは「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていた」主イエスが、十字架にかけられ、儚くも死んだことでした。しかし、それだけでは終わらずに、日曜日の朝、仲間の婦人たちが亡骸を収めたはずのお墓に行くと、墓が空っぽだった。そして天使たちが現れ、「イエスは生きておられる」と告げたという。実際、婦人たちが言った通りで、見に行くと墓は空っぽだった。そうした一連の出来事をめぐって、クレオパともう一人の弟子は、「ああでもない」「こうでもない」と議論を戦わせていたのです。彼らは正直、何ががどうなっているか分からず混乱していたのです。
 しかし、共に旅する人(実は復活の主イエス)が、二人のために旧約聖書を解き明かしてくれたのです。経験した出来事の意味がさっぱり分からず、暗い顔をしていた二人の心に、み言葉の光が投じられたのです。25~27節を読んでみましょう。「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された』」。   
クレオパともう一人の弟子は、人々からの拒絶や苦難を経験せずに栄光に至るメシアに望みをかけていました。それは、他の弟子たちも当時のユダヤの民も同様であったでしょう。しかし、いかに熱心であったとしても、自分流のメシア待望は正しい信仰とは言えません。そもそも、神さまの救いのご計画を正しく理解することはできません。しかし、復活の主イエスは、聖書のみ言葉を通して、本当のメシアは苦しみを経て栄光に至るお方であることを、説き明かしてくださいました。旧約聖書の全体が、苦難を経て栄光に入る救い主を証ししていることを明らかにされました。二人はその聖書の解き明かしを聞いたとき、この聖書が証しする救い主が、イエス・キリストであることが分かったのです。イエス・キリストが十字架で死を遂げられたこと、それにもかかわらず復活され、今も生きておられることが、はっきりと分かったのです。
 その時の心の高揚感を32節で、二人は次のように回想しています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」「心が内で燃えていた」。これは、火にたとえられる聖霊の働きによるものに違いありません。二人の弟子たちは、イエス・キリストを証しする聖書のみ言葉の解き明かしを聞いたとき、主が死の苦しみに打ち勝ち、いのちに復活されたことを、信じることができたのです。
 エマオに近い宿に入られた主イエスは、食事のとき「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しにな」りました。この出来事は、後のキリスト教会において、聖餐式を指し示すものとして理解されてきました。そして、現代の私たちにも受け継がれている聖餐式は、「見える神のみ言葉」とも言われます。教会の講壇で語られる説教は、イエス・キリストの十字架と復活を証しする「見えざる神のみ言葉」です。一方、パンと杯に与かる聖餐式は、十字架と復活を証しする「見える神のみ言葉」と言われます。この両方が今日の聖書箇所に出て来るのは、偶然ではありません。先ほど申し上げたように、私たちは聖書の弟子たちや女性たちのように、この目で復活の主を目撃することはできないかもしれません。パウロのように特別な賜物を与えられて、幻視体験の中でイエス・キリストを見ることはできないかもしれません。しかし、私たちはだからと言って、落胆する必要はありません。エマオに向かう二人の弟子たちと同じように、イエス・キリストを証しする見えざる神のみ言葉が、礼拝において説教を通して語られています。また、今は守ることができていませんが、イエス・キリストを証しする見えるみ言葉である聖餐式が、私たちには備えられています。この両方のみ言葉に与ることによって、私たちはイエス・キリストの復活を、受け入れ、信じることができます。私たちの心は聖霊によって燃やされ、復活の主が今も私たちと共に生きてくださっていることを、心から喜ぶことができるのです。私たちは、どんな時代に生きていても、それがどのような場所であっても、イエス・キリストを証しするみ言葉によって、聖書に登場する弟子たちや婦人たちと同じように、復活体験をすることができるのです。今日の聖書はその恵みを語っているのです。
 「イエス・キリストは死に勝利され、復活された。今も生きておられる。復活の主は、信じる私たちをも、朽ちることのないいのちへと導き入れてくださる。」それが復活信仰であり、復活体験です。それは弟子たちや婦人たち、使徒パウロもそうであったように、彼らが自分の力で到達したものではありません。人はどんなに努力を積み、深く探求しても、復活信仰に至ることはできません。聖書の復活の記事が示しているように、イエス・キリストがご自分の方から近づいてくださることによって、神さまからの働きかけがあって初めて、人は復活信仰に至ることができるのです。しかし今日の箇所で、クレオパともう一人の弟子は、先へ進もうとされる主イエスを、「無理に引き止め」ています(29節)。「一緒にいてください」と、強く懇願しています。そのような信仰者の積極的な応答や行動に、復活の主は喜んで応じてくださり、期待以上の御業をもって答えてくださるのです。私たちはこのようなお方に心から信頼して、それぞれの地上の生涯を希望を持って、これからも歩んでいきたいと思います。

4月4日礼拝説教

コリントの信徒への手紙 一 15章20~28節   2021年4月4日(日)

「キリストは初穂として復活された」   藤田浩喜

◎最近は私たちの周りの色々な場所で、「イースター」という言葉を聞く機会が増えました。ディズニーランドでは去年今年はありませんが、イースターパレードが毎年行なわれています。近くのショッピングセンターでも、イースターバーゲンなどと名前が付けられたセールが開かれるようになりました。世の人たちは、イースターを「春のお祭り」のように理解しているのかも知れません。
  教会に来られている皆さんに今更説明することもおかしいのですが、イースターはイエス・キリストの復活を記念する祝日です。キリスト教会の歴史の中でクリスマスをお祝いするようになったのは、教会が誕生してからずっと後になってのことだと考えられています。一方、このイースターはキリスト教会の誕生と共に始まったお祝いであると言えます。いえ、このイースターの出来事こそが、キリスト教会を生み出したものだとも考えることができるのです。
  今から二千年近く前に十字架にかけられて、殺された主イエスが墓から甦られました。そして主イエスは多くの人々に復活された御自身の姿を示すことで、御自身が死に勝利され、甦られたことを明らかにしてくださったのです。イースターは、この復活されたイエスに出会った人々の喜びに起源をもつ祝日です。わたしたちキリスト者は、このイースターを過去に起こった出来事として記念するだけではなく、この日に甦られた主イエスが今も私たちと共に生きてくださっていることを喜び祝うのです。
  「死人が復活するなど、古代人が考え出した妄想にすぎない」と、多くの人は思われるかもしれません。しかし、聖書を読んでみると実はこの復活と言う出来事は聖書の時代の人々であっても、到底受入れることが出来ないものとして考えられていたことがよく分ります。今日のテキストとなっているコリントの信徒への手紙一15章でパウロは、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(12節)と述べています。
  「死んだ者が甦るなど聞いたことがない」。人間の経験に基づく結論は、死人が甦る、復活という出来事を決して受入れることはできません。だから、当時の人々の中でも復活なしのキリスト教を作りだそうとした人々がいたのです。しかし、パウロはそのような人々に対して、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(14節)と強く非難したのです。
  イエスの復活は、人間の経験や理性では決して証明することも、受入れることも出来ない神のみ業であると言えます。この復活という出来事は信仰によってしか、受入れることが出来ないのです。人間の力でイエスの復活を証明することはできません。しかし私たちは、実際にこのイエスの復活という出来事を経験した人々の証言を通して、この出来事がその人々にどのような希望を与え、その人々の人生を変えることができたかについて、聖書を通して知ることが出来ます。そこで今日はイエスの復活という出来事に出会った三人の人々の証言を通して、イエスの復活が私たちに与える希望とは何かについて、考えてみたいと思います。

◎イエスの復活を最初に知らされたのはどの福音書の記事を読んでも分るように、何人かの女性たちであったようです。彼女たちは生前のイエスに付き従っていた女性の弟子たちでした。日曜日の朝にイエスの墓に向かった女性たちの名は福音書により記録されている名前が微妙に違っています。しかし、その中でも必ず登場するのはマグダラのマリアという婦人です。特にヨハネ福音書ではマグダラのマリアがイエスの墓の前で泣いていると、イエス御自身がそこに現れ、マリアに親しく語りかけたという物語が記されています(ヨハネ20章11〜18節)。
  このマグダラのマリアがどのような女性であったか、聖書は詳しくは記していません。ただ、ルカ福音書には彼女について次のような記述が残されています。「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア…」。イエスの周りに付き従っていた女性たちは、イエスに病気を癒していただいた人が多かったようです。その中でもマグダラのマリアはイエスに「七つの悪霊を追い出していただいた」という説明がつけられているのです。聖書の中には悪霊に支配されて苦しむ人々の姿が度々登場しています。これらの出来事を見ると、悪霊に支配されている人は、自分の意志とは違った力によって人生を操られて、自分で自分の人生を生きることができない姿が示されています。悪霊が彼らの毎日の生活を支配して、苦しめ続け、自分の力ではどうすることもできないのです。
  マグダラのマリアはイエスによって悪霊を追い出していただき、初めて自分の人生を生きることができるようになった人物であったと考えることができます。そして彼女は自由にされた自分の人生をイエスのために使おうとしたのです。ところが、その彼女の人生設計に大きな壁が突然出現しました。それがイエスの死という出来事です。ですからイエスの死は彼女にとって、自分の人生の目的を失うような危機であったと言えるのです。イエスを失った彼女はこれから目的もない人生を送らなければなりません。もしかしたら、再び彼女の人生を悪霊が支配し始めるかもしれない、そのような不安も残されていました。
  そのようなマグダラのマリアにイエスは、復活された御自身の姿を真っ先に現わしてくださったのです。それは彼女にとって大きな喜びであったに違いありません。マグダラのマリアの人生は決して逆戻りすることはなかったのです。彼女はこれからも自分の人生を自分らしく生きることができるのです。復活されたイエスの愛に支えられたマグダラのマリアの人生は、自分を支配しようとする様々な力から自由にされ、喜びに満ちたものへと変えられたのです。
 ◎次に私たちは、復活されたイエスに出会ったもう一人の人物シモン・ペトロの物語に目を向けてみたいと思います。彼はイエスの弟子の中でも最も重要な弟子であったと考えられています。かつてガリラヤ湖の漁師であったペトロはイエスの弟子となることで、いつもイエスの側でそのみ業を目撃し、その話を聞くことができた特別な人物だからです。おそらく、ペトロはイエスの弟子としてその生涯を終える覚悟を持って、イエスに付き従っていたのでしょう。しかし、彼のその覚悟は思いも寄らない出来事によって阻まれてしまいます。それがイエスの逮捕という出来事であり、またそれに続くイエスの十字架上での死でした。
  何よりもイエスの逮捕という出来事は、ペトロの弱さを露呈させるようなものとなったことを聖書は証言しています。ペトロはイエスが逮捕された際に連れて行かれた大祭司の館に、後ろからついて行きました。しかし、そこでペトロは人々に「お前もイエスの仲間ではないか」と問われると、あわててそれを打ち消して「イエスなど知らない」と否定してしまったのです(ルカ22章54〜62節)。それも一度きりではなく、三度も否定してしまったと言うのです。聖書において三という数字は特別な意味で用いられます。三は完全数と考えられているからです。つまり、ペトロがイエスを「知らない」と三度否定したということは、完全に否定したということで、これはもはや取り返しのつかないような出来事であったと言うことができます。
  ですから、イエスの復活の後にもペトロにはこのつらい体験が、トラウマのように残されてしまったようです。彼はイエスの弟子を辞めて、ガリラヤ湖の漁師に戻ろうとしてしたのです(ヨハネ21章1〜19節)。そして取り返しのつかない失敗を犯したことを悔やむペトロの前に、復活されたイエスは現れます。そこでイエスはペトロに「わたしを愛しているか」と三度も尋ねられたのです。これはペトロの犯した失敗を完全にゆるし、その心の傷を癒すために語られた言葉でした。そしてこの言葉によってペトロは立ち直り、イエスの弟子としての生涯を再出発することができたのです。
 ◎私たちは最後に、復活されたイエスに出会って完全に人生を変えられたもう一人の人物について考えてみたいと思います。それは今日の礼拝のテキストにもなっているコリントの信徒への手紙を記したパウロのことです。パウロが復活されたイエスに出会った体験は、他の弟子たちの体験と大きく違っています。聖書の記述によればパウロは、イエスの昇天の後に、復活されたイエスと出会う体験をしているからです(使徒9章1〜9節)。

パウロはかつて自分の力で神の律法を守ることで、神の愛を獲得しようとした「律法主義者」の一人として活動していました。営業マンがその売上げによって、その成績が評価され、会社の待遇も変わるように、律法主義者たちは自分の行なう熱心な行為を通して、神から善い評価を受け、その祝福に与ろうとしたのです。パウロはその自分の熱心を示すために、それまでキリスト教徒を迫害し続けていました。多くの信者を捕らえ牢獄に入れました。教会における最初の殉教者とされているステファノの死にも、彼は関わっていたという記録が聖書に残されています(使徒7章54〜8章1節)。
  この律法主義者パウロの生涯が、復活されたイエス・キリストとの出会いによって180度変えられてしまいます。パウロはイエス・キリストに出会う以前と以後の自分の違いについて次のように証言しています。
  「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3章7〜8節)。
  パウロはここで、自分の力で自分の価値を証明しょうとうする律法主義者から、キリストの恵みによって生きる信仰者に変えられたと語っています。自分の力を頼りにする者は、その力が失われることにいつも不安を抱いて生きて行かなければなりません。しかし、私たちがどんなに健康に気をつけて、アンチエージングに心がけても、年を取れば肉体も心も必ず弱っていくはずです。だから自分の力に希望を置く者は、その希望を失うときが必ずやって来るのです。しかし、自分の力にではなく、キリストの恵みに希望を置く者はそうではありません。むしろ、キリストの恵みによる希望は私たちの内側で日に日に強められるのです。この希望は私たちが地上の死を経たとしても、決して失われることはありません。なぜなら、そのことをキリストの復活という出来事が私たちに保証しているからです。
  イースターの日に復活されたイエス・キリストは、今も生きておられます。だから私たちも、イエスの復活に出会った弟子たちと同じ体験をすることができるのです。イエス・キリストのご復活を、心から喜び合いたいと思います。

3月28日礼拝説教

ルカによる福音書23章32~44節       2021年3月28日(日)
「イエスは罪人を救われる」  藤田浩喜
◎受難週の主日礼拝において与えられた聖書箇所は、ルカによる福音書23章32~43節です。ここでは主イエスが二人の犯罪人と並んで、十字架に付けられた時のことが報告されています。「犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」とありますので、主の付けられた十字架が真ん中に立っていたことは間違いありません。この場面を描いた絵など見ますと、主が付けられた十字架は他より手前に、大きく描かれています。クローズアップされています。しかし実際は、同じ大きさの十字架が3本立っていたに違いありません。イエス・キリストは、二人の犯罪人とまったく同様に、罪ある一人の人間として十字架刑に処せられたのです。そうでなければ、罪ある人間の身代わりとなり、その罪を贖うことはできないのです。
◎34節以下を見ますと、十字架に付けられた主を見つめる様々な人たちが登場します。ある「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合」います(34節)。人の不幸などお構いなく、自分の得になることだけを考える人がいます。また、「民衆は立って見つめていた」(35節)とあります。興味本位にやってきた野次馬であったかもしれませんし、主イエスが無実であることを知りつつ、なすすべもなく沈黙するほかなかった人たちだったのかも知れません。
 次に出て来るのは議員たちです。これはユダヤ教の最高法院のメンバーであり、主イエスを総督ピラトに訴え、死刑に追い込んだ側の人たちです。彼らはあざ笑って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)。「もし神の子なら、何々せよ」(4:9)というのは、かつて主イエスがサタンから受けた誘惑です。主なる神に仕えるユダヤ教の指導者たちが、自分たちの企みを果たすために、サタンの手先になっているのです。
 次に出て来るのは兵士たちです。彼らはローマの兵士たちでなく、ユダヤの王ヘロデに仕える兵士たちではなかったかと言われます。「兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱」します(36節)。酸いぶどう酒は主の苦しみを和らげるためでありません。主に紫の衣を着せて王として拝むまねをしてからかった時のように、面白半分でしたことでしょう。そして言うのです。「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」(37節)。主イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げてありました。この札は、ユダヤの祭司長たちが「ユダヤ人の王と名乗った者」と変えてほしいと願ったのに、総督ピラトが「そのままにしておけ」と命じて付けられた札です。しかしそれは真実でした。イエス・キリストは言葉の真実な意味で、メシアであり、ユダヤ人の王として死なれたのです。
 最高法院の議員たちは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)と言いました。しかし、本当のメシア・救い主は、自分を救うためではなく、多くの人々を救うために到来した方です。神さまの御心は、御子イエス・キリストが自ら十字架にかかり、すべての人間の身代わりとなって、その罪を贖うことです。主イエスは、より広い意味で他の人々を救うために遣わされたメシアであるので、自分自身を救うことができないのです。主イエスは、ご自分に濡れ衣を着せ、十字架へと追いやった最高法院の議員たちのためにも死なれました。自分に悪意を抱き、死へと追いやった者のためにも死ぬ。本当のメシアの働きは、それほどまでに深く広いのです。
 兵士たちは「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と言いました。本当の王とは、どのような王なのでしょう。一国のリーダー、政治的指導者は、本来自分が治める国民に責任を持たなくてはなりません。自分を救うことよりも、国民を救うことを優先するのが、本当の王であり、指導者です。しかし、私たちの生きている世界を見渡すとき、そのような王や指導者は滅多に見つかりません。まず自分の保身をはかるのであり、その結果国民がどんなに犠牲になっても意に介しません。司馬遼太郎という作家は、日本の政治家に失われたのは「志」
だと言いましたが、それを痛感せずにはおれません。しかし、イエス・キリストはこの世界の真の王であり、霊的な指導者です。主イエスはご自分のことよりも、主に属する者たちのことを、第一に考えてくださるのです。
◎さて、次に登場しているのは、十字架に付けられた二人の犯罪人です。その内の一人は、あの議員たちと同じように主イエスをののしります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」というのです。迫りくる死の恐怖に、自暴自棄になっている者の叫びでもあったでしょう。しかし、もう一人の犯罪人の態度は異なりました。彼は主イエスをののしる犯罪人をたしなめて、次のように言うのです。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40~41節)。
 このもう一人の犯罪人は、他の福音書マタイ、マルコ、ヨハネには出てきません。ルカによる福音書だけが記しています。しかし、それだからこそ、ここにはルカによる福音書の真髄とも言えるメッセージが込められているのです。
この犯罪人は、イエス・キリストが無実の罪で十字架の死を遂げようとしていることを知っています。そしてそれだけではなく、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには」(42節)と、主イエスが神の御国から来られたメシアであることを、告白しているのです。彼は、十字架に付けられた主を見ただけで、主を救い主と告白することができたのです。これは主が息を引き取られたとき、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)と告白した百人隊長と匹敵する告白です。主イエスの弟子たちは、復活された主と出会って初めて、「わたしの主よ、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と告白しましたが、それよりももっと前に、この犯罪人は、主を救い主と告白することができたのです。
これは驚くべきことです。どうして、そのようなことが起こったのか。彼は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」(41節)と言っています。どんな罪であったかは分かりません。盗みをしたのか、人を殺めたのか、ローマへの反逆を企てたのか、詳しいことは分かりません。しかし、彼はいずれにしても、十字架での処刑を前にして、自分のしてきたことが、いかに神さまの御心から遠いことであり、いかに神さまを悲しませる生き方であったかが、分かったのではないでしょうか。そのことが神さまに背を向ける生き方であったことを悟った犯罪人は、自分の罪を告白しました。地上の生を終える間際ではありましたが、悔い改めました。その時彼は、自分と並んで十字架に掛けられているお方が、まことの救い主であることが分かり、イエスをキリストと告白することができたのです。
このことを思うとき、私たちは同じルカによる福音書にある徴税人の頭ザアカイの回心の記事を思い起こします。ザアカイも、イエスと出会い、自分がどんなに神さまから遠く離れた歩みをしていたかを悟ります。彼は自分の罪を知らされます。そして回心した彼は、このように告白するのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:8)。自分の罪を告白したザアカイは、イエスを心から「主よ」と告白し、新しく歩む決意を表明しているのです。この犯罪人は、死の間際に立っており、ザアカイのように、新しく地上を歩むことはできません。しかし、彼は死の間際であったとしても、自分の罪を悔い、心からそれを告白することができました。そしてその時彼は、自分の傍らにおられるお方が、まことの救い主であることを知り、主に自分を委ねることができたのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、言うことができたのです。
 すると、主イエスは言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。イエス・キリストは、この犯罪人の罪の告白と悔い改めを受け入れられました。そして、彼に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、救いの約束を与えてくださったのです。
ザアカイの回心の言葉をお聞きになって、主が彼にかけられた言葉を思い起こします。「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』」(19:9~10)。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」主イエスの救い主としての使命は、この十字架の時にも貫かれていたことが分かります。今日出て来た犯罪人は、死の間際まで失われたままでした。神さまに背を向け、神さまから遠く離れた生き方をしていました。彼が自分の罪を悔い改め告白したのは、今まさに死を迎えようとしている時でした。しかし、主イエスは彼を失われたままにしておくことはなさいませんでした。主はこの犯罪人を今わの際に捜し出し、彼に救いをお与えになりました。自分の罪を悔い改め、罪を告白し、神さまに向かって方向転換する者には、遅すぎるということはありません。私たちの主イエス・キリストは、私たちが死を迎えようとする時にいたるまで、あきらめることなく、見つかるまで私たちを捜し続けてくださるのです。
 今日の聖書を読みながら、あらためて思わされたことがあります。それはこの犯罪人の姿は、他ならぬ私たちの姿ではないかということです。私たちこの礼拝に与っている者たちは、すぐ先に死が迫っているということはないかもしれません。しかし、私たちには明日のことも、次の瞬間のことも、正確には分かりません。東日本大震災や今回のコロナ禍が私たちに突きつけるのは、明日という日の不確かさです。今日という日の延長に、必ずしも私たちが思い描く明日が来るとは限りません。気がついたときには、もう死が間近に迫っていたということが、残念ですが、人生には起こり得るのです。人の生とはそのようなものであることを、どこかで覚悟しなくてはなりません。
 しかし、たとえそのような終わりであったとしても、私たちは今日の犯罪人と同じ立場にあります。死の間際にあっても、傍らにはイエス・キリストがおられます。主は私たちの恐れと不安をすべて受けとめ、私たちの切なる祈りをお聞きくださいます。そして、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束をしてくださいます。人の死を一緒に経験された主イエスが、その先にある楽園へと私たちを連れて行ってくださるのです。第一のアダムはその罪のゆえに、エデンの園から追放されました。しかし真の人として生まれ、第二のアダムとなられたイエス・キリストは、信じるすべての者たちを神の永遠の住まいであるエデンの園へと導き入れてくださるのです。

3月21日礼拝説教

創世記49章18~26節             2021年3月21日(日)
「祝福の輪の中に置かれる」  藤田浩喜
◎創世記49章の冒頭には、「ヤコブの祝福」という題が掲げられています。イスラエルというのは、ヤコブが神さまからもらった、新しい名前だということは、これまで何度か申し上げました。そのヤコブ、すなわちイスラエルと呼ばれたこの人から、イスラエルの12部族は始まり、広がっていくのです。
 創世記49章は、もともとヨセフ物語にはなかった独立した文書ともいわれます。やがてそれがどういう部族になるかということを、「部族の詞(ことば)」という形で入れて、12人の息子に対するヤコブの祝福という大きな枠組みの中に置かれたのだということです。それは、後代の出来事と関連付けられているとも言われます。つまりルベン族はどういう部族となるのか。ユダ族はどういう部族となるかということが書かれている。もっとはっきり言ってしまえば、ずっと後に、創世記がまとめられた時代の状況を反映しながら、それをさかのぼって、ヤコブの口を通して語られたようにして挿入されたのでしょう。
◎この部族の詞を見て、まず気づくのは、この12人についての記述は必ずしも同じ割合で書かれてはいないということです。ほんの数節、あるいは1節だけの人と、詳しい人がいます。ほんの数行しか触れられていない人を先に挙げてみますと、13節のゼブルン、14~15節のイサカル、16~17節のダン、19節のガト、20節のアシュル、21節のナフタリです。そして意外なことに27節のベニヤミンもそうです。合計7人。そしてここに記されているのは、簡潔にその部族の特徴のようなこと、そしてある種の金言(ことわざ)のような言葉です。
 残りの5人は、もう少し詳しいことが述べられています。それは3~4節のルベン、5~7節のシメオンとレビ、また8~12節のユダ、22~26節のヨセフです。
 まず長男ルベンです。「ルベンよ、お前はわたしの長子/わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した」(3~4節)。最後の記述は、創世記35章22節の出来事を指しています。「イスラエルがそこに滞在していたとき、ルベンは父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った。」本来、ルベンが受けるべき長子の特権は、その自由奔放さにより失われ、ユダに委ねられることになったということを暗示しているのでしょう。「ルベンが父の寝台に上った」というのは性的衝動のことを指しているともとれますが、むしろそれにより父の権威を奪おうとしたということが大きな意味を持っていると思われます。
 シメオンとレビについては、5~7節に次のように語られます。「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し/思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく/憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け/イスラエルの間に散らす」(5~7節)。
 シメオンとレビに対しては、祝福とは言い難いような言葉ですが、この言葉の背景にあるのは、創世記34章に記されていたシケムでの虐殺事件です。シメオンとレビと同じ母親から生まれた妹のディナが、現地の人シケム(町の名と同じ名前)に、いわばレイプされてしまいます。そのシケムはその後態度を改めて、正式に結婚を申し込んできます。しかしシメオンとレビはそれを許さず、憤り、彼らを下劣な方法でだまし、殺してしまいました。一見和平を受け入れたように見せかけて、「あなたたちが、私たちと同じように割礼を受けるなら、その結婚を認めよう」と提案をするのです。シケムの人たちはその提案を受け入れるのですが、実はそれはわなでした。彼らが割礼を受けて、まだ傷が回復しない間に、シメオンとレビはシケムだけではなく、一族の男たちを皆殺しにしてしまうのです。その場ではその罪は問われず、すっと流れていくのですが、決してそれは許されることではなかった。その罪がここでは問われている、そのことのゆえに散らされるのだと、語られているのです。
 8~12節はユダです。ユダについては長い言及があります。とても大きな祝福を受けています。前半の8~9節は他と同じ「部族の詞」の部分ですが、10~12節では将来への約束が書かれています。
 ユダは、「兄弟たちにたたえられる」(8節)とありますが、この詞が書かれたずっと後の時代には、すでにユダ族は他の部族よりも卓越した位置を占めていました。11節に、「彼はろばをぶどうの木に/雄ろばの子を良いぶどうの木につなぐ」とありますが、「ろば」は王の乗り物(ゼカリヤ9:9)につながっていくこと、そしてそれはイエス・キリストのエルサレム入城の乗り物につながっていくことを、はるかに指示しているように思います。
 また「彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる」(11~12節)というのは、神の祝福を象徴し、この部族から、やがて理想の王と呼ばれることになるダビデが登場することを指し示しているようです。さらに言えば、それは、ダビデの子孫としてユダ族から生まれるイエス・キリストをも指し示しています。
 しかし、ユダのこれまでの行動を見れば、それは決して称賛されるようなものとは言えません。若いヨセフを兄たちみんなで殺そうとしたとき、確かにユダは止めようとしましたが、売り渡せばよいと提案したのはユダでした。また38章に記されているタマルの物語はもっとひどいことをしています。長男の嫁であるタマルと、娼婦と勘違いして交わり、タマルが妊娠したことを知ると、それを厳しく罰しようとしました。
 しかしユダは罪を犯したのち、それを謙虚に認め、悔い改める者でもありました。タマルの事件においてもそうでした。また弟ヨセフを売り渡したことでは、ずっと咎めを感じていました。末弟ベニヤミンがエジプトで罪を犯したように見えたときには、自分たちはその時の罰を受けているのだと受け止め、自分の身を挺して、ベニヤミンを助けてやってほしいと乞いました。そのユダが大きく祝福を受けているのです。
 ヨセフに対する祝福は、ユダに対する祝福よりも、さらに大きな祝福です(22~26節)。「ヨセフは実を結ぶ若木/泉のほとりの実を結ぶ若木」(22節)と始まり、最後の25~26節では、「祝福」という言葉が、何度も何度も出てきます。「どうか、あなたの父の神があなたを助け/全能者によって祝福を受けるように。上は天の祝福/下は横たわる淵の祝福/乳房と母の胎の祝福をもって。あなたの父の祝福は/永遠の山の祝福にまさり/永久の丘の祝福にまさる。これらの祝福がヨセフの頭の上にあり/兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように」(25~26節)。
 やがてヨセフの息子たち、マナセ、エフライムがヨセフを継ぐ者となりますが、エフライムの名は、イスラエルの呼び換えのような栄誉を受けることになっていくのです(ホセア11:18など)。
◎さて、49章18節を見ますと、「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」という不思議な言葉が挿入されています。これはそのまま読むと、直前のダンという部族の救いについて語っているようですが、そうでもなさそうです。この言葉は、後代の付加だと言われますが、そうだとしても、私には、この言葉が全体を意味付けているように思えます。この時の情景そのものが、神さまの救いを待ち望んでいる姿だということです。そしてその情景は、やがてイエス・キリストの時代まで引き継がれ、12弟子が新しいイスラエルとして、イエス・キリストから救いと祝福を受けることへとつながるのです。
 今、私たちはレント(受難節)の時を過ごしており、今日の聖書朗読ではマタイによる福音書の最後の晩餐の準備の部分を読んでいただきました。「夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた」(マタイ26:20)。十二という弟子の数は、イスラエル十二部族の場合と同様に、完全数を表わしています。イスカリオテのユダをも含めた12人全員が一人も欠けることなく、この場に連なっていることが重要です。
 私は、最後の晩餐について語るときにいつも触れることですが、後に裏切ることになるイスカリオテのユダも、弟子の輪の中に加えられていることは、とても大きな意味があると思います。イスカリオテのユダも、そこから洩れてはいない。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(マタイ26:21)というのは、呪いの言葉のようにさえ聞こえますが、それでも排除はされていない。それはイエス・キリストの嘆きの言葉です。彼も同じ祝福を受けているということに意義があります。そのイスカリオテのユダのためにも主イエスは十字架にかかり、彼のためにも死なれた。また十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られたその祈りには、イスカリオテのユダも含まれています。
 そのイエス・キリストの祝福と同じように、このヤコブの祝福の前にも十二人の兄弟が皆顔をそろえて集まっています。レビやシメオンに対しては「呪われよ」とさえ言われるのですが、全体として祝福と位置付けられています。28節には、「これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである」とあります。この祝福の輪の中に、厳しく非難されたルベンも、「呪われよ」と言われたシメオンとレビも加えられている。このことは、イエス・キリストの最後の晩餐に、イスカリオテのユダも加えられていることにも通じています。どんなに酷いことをしたとしても、そして一見、呪いの言葉をかけられたように見えたとしても、祝福の輪の中から洩れていない。それは、アブラハム以来継承されてきた神の祝福なのです。だからこそ、希望がある。だからこそこの言葉の中に、私たちは希望を見ることができるのです。
 ある人は、「父親が子になし得る最高の贈り物、それは子を祝福することであり、祝福を神に求めることである」と言っています。この言葉は大変深い言葉です。祝福は、神さまが私たちに与えてくださるものです。この祝福は今も、イエス・キリストを通して私たちに注がれています。私たちに求められていることは、人がどんなに大きな失敗や過ちを犯しても、神さまを裏切るようなことをしても、私たちは神さまの祝福の輪の中にいると、子どもたちに伝えることです。そして、子どもたちが神さまの祝福の輪の中に置かれていることを確信できるように、絶えず祈り続けることなのです。その最高の贈り物を、子どもたちだけでなくこの世の隣り人たちにも、贈り続る者でありたいと思います。

3月14日礼拝説教

ヤコブの手紙4章4~6節         2021年3月14日(日)
「ねたむ神の愛」   藤田浩喜
◎先週新聞を読んでおりましたら、歳を取ってからの友だち関係のあり方を、若い人に学べと書いてあり、興味深く読みました。歳を取ると出かける回数も少なくなり、コロナ禍などもあり、どうしても友だち付き合いが少なくなる。それによって寂しさが募り、孤立感が強くなります。でも、今の若い人たちを見ていると、オンラインも使い友だちと適当な距離を保ちながら上手に付き合っている。独りで過ごすことも恐れず、自由を楽しみながら、緩やかに友だちとつながり、孤立することなく日々の生活を続けている。こうした友だち関係が、年配者が心のバランスを保って生活するためにも、大切ではないかというのです。
 その記事にはまた、「♪一年生になったら、友だち100人できるかな♪」という歌が、友だちは多くつくらないとダメだという強迫観念を、日本人に植え付けてしまったのではないかと、書いてありました。確かに友だちは多い方がいいという考え方が、私たちの世代の者たちにもあります。しかし、子どもたちの話を聞いていると、「そんなに友だちは多くなくてもいい、親しい友だちが2、3人いればそれでいい」と言います。確かに「親友」は英語で「ベスト・フレンド」ですから、ベストな友だちがたくさんいるというのも、おかしな話です。私たちにとっては、100人の友だちを見つけることよりも、本当に心を許せる親友がいることの方が大切なのかもしれません。
◎さて、今日のヤコブ書4章4節には、「友」という言葉が出てきます。「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」。世の友になることは、イコール神の敵になることだというのです。この言葉をお聞きになって皆さんは、ずいぶん極端なことが言われているな、と感じられたかもしれません。
 しかし、ここの文章を理解するには、「世」という言葉と「友」という言葉を理解しなくてはなりません。「世」は私たちが住む世界です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)と言われているように、「世」は神さまの愛の対象です。神さまは「世」とそこに生きる私たちを救おうとされます。しかし同時に、「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(ヨハネ1:10)とあるように、この世は、神と御子にそむき、イエス・キリストを受け入れようとしないところでもあるのです。神さまの愛の対象でありながら、御子イエス・キリストを頑なに拒むのが「世」なのです。
そして「世」には、世の持っている原理や価値観があります。今日の「世」であれば、「能力主義」「成果主義」「自己責任論」といった考えがそれに当たるかもしれません。そして「友」となることは、それらと親しく、強い結びつきを持っている関係、時には一つの魂、一つの心を共有し合っている関係に入ることを意味します。つまり、そのような価値観を持つ「世」と親友になるならば、もはやあなたは神の友ではない。神の敵であると言われるのです。
これまでも繰り返して申し上げてきましたが、ヤコブの手紙の宛て先である教会には、看過できない大きな問題がありました。人を見かけで判断し、裕福そうな人は教会の上席に案内し、みすぼらしい身なりをした人はぞんざいに扱うということがありました。明日の生活にも困っている兄弟姉妹に、具体的な援助をまったくせずに、見せかけの優しい言葉ですませる、ということもありました。
礼拝で神さまを賛美したかと思えば、その舌の先も渇かないうちに、同じ舌で兄弟姉妹を貶めるということもありました。ヤコブはそのような教会の諸問題の根底には、世の大勢となっている物の見方や世の価値観が、そのまま教会に入りこんでいる状況があることを見抜いていました。世と変わらない有り様だったのです。教会の人たちは、それほど深刻に受け止めていなかったかも知れません。しかしヤコブは、「そのようなあなたたちのあり方は、世の友になっている状態であって、もはや神の敵になっている」と、厳しく警告しているのです。
 私たち今日の信仰者も、教会で聞く聖書の教えとこの世で力を揮っている価値観のズレを感じることがあるでしょう。私たちは、その両方を折り合わせたり、状況に応じて二つを使い分けたりしながら、信仰生活を送っているのではないでしょうか。それはヤコブの手紙の宛て先教会の信仰者たちも、同様であったのではないかと思います。しかし、主イエスが言われているように、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか。一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」(マタイ7:24)。神だけを「友」としない限り、教会は「世」の原理や価値観に浸食され、呑み込まれていくのです。
◎そもそも神さまと私たち信仰者の関係は、どのような関係なのでしょうか。先ほどは「友」という関係だと言われていました。しかし、4節の冒頭でヤコブは宛て先教会の信仰者たちを、「神に背いた者たち」と呼んでいます。これはもっとはっきり訳すと、「不貞の者どもよ」と言われているのです。「姦淫を働いた者ども」というのが、正確な意味なのです。
 旧約聖書において、神ヤハウェとイスラエルの民の関係は、しばしば夫と妻の関係にたとえられることがありました。そして、イスラエルがヤハウェ以外の神を信じたり、偶像を拝んだりした時、イスラエルはヤハウェに不貞を働いた、姦淫の罪を犯したと、見なされたのです。そこからも分かりますように、神さまと信仰者の関係は夫婦の関係であり、そこに第三者が入り込むことは断じて許されないのです。これは驚くべきことです。神は取るに足らない私たちを、王に仕える家臣と見なされたのでも、主人の所有する奴隷と見なされたのでもありません。夫と妻という極めて親しい関係にあるものと見なしてくださるのです。
◎その神さまの私たちへの愛の大きさは、いかばかりでしょう。今日の5~6節には、聖書の御言葉として次のように記されているのです。「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。』それで、こう書かれています。『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』」。
創世記2章7節には、人間を創造された時の様子が次のように記されています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」土の塵から造られた肉なる人間は、命の息である霊を吹き込んでいただいて、生きる者となりました。神さまは、その霊を吹き込んだ人間を、ねたむほど深く愛してくださっていると言うのです。ねたむとは、「嫉妬する」ということです。神さまは「やきもちを抑えきれない」ほどに、私たちを愛してくださるのです。
ここを読んで、出エジプト記20章4節以下を思い出す方も多いでしょう。主なる神は、モーセの十戒の第二戒で「あなたはいかなる像も造ってはならない」(4節)と命じられました。そしてそれに続けて「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(5節)と言われました。ここは口語訳聖書では、「ねたむ神」と訳されていました。「ねたむ」が「熱情の」と訳されたように、この言葉は、「その中に熱く燃えている熱」という意味を持っています。神さまが人間の霊を熱く―他の愛が人の心に入り込むのに耐えられないほどに熱く―愛しておられるということを示しているのです。そして、その愛は神さまに従う者に豊かな恵みを与えてくださるのです。出エジプト記の20章5節以下は、次のように続きます。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」否む者の罪を問うのは三、四代であるのに対し、愛する者への慈しみは幾千代にも及ぶと言われています。
そして、この神さまの豊かな恵みは、イエス・キリストの十字架の恵みとして「世」と私たちにもたらされたのです。私たちは今レントの時を過ごしています。神の御子が苦難と十字架の道を歩まれたことを思い起こしながら、この時を過ごしています。神の御子がどうして、私たち人間の身代わりとなり、私たちの罪を負って十字架に命を捧げられたのか。それは、神さまが創造の時、ご自身の霊を住まわせ、人としてこの世に誕生させた私たちへの燃えるような愛が引き起こした出来事だったのです。神さまは御子を十字架に付けるほどに、「世」と私たちを愛してくださったのです。それは、愛する者への幾千代にも及ぶ慈しみです。その恵みは、世の終わりまで尽きることがないのです。
◎先週11日(木)は、東日本大震災からちょうど10年の追悼の日でした。テレビや新聞でも、多く特集が組まれました。あるテレビの番組で、福島県の南相馬に住む40歳の男性と70歳近い父親の二人が出演されていました。その方たちの家は東日本大震災による大きな津波に襲われ、40歳の男性のおばあちゃん、お母さん、奥さんと7カ月の男の子が流され、命を落としました。4人の遺影が横一列に並べられている場面が映ると、この家を見舞った悲劇の大きさが胸に迫ってきました。10年前の4月の終わり頃でしょうか。その40歳の男性は流された家の跡に、近くで見つかった鯉のぼりを立てました。鯉のぼりは、7か月で亡くなった男の子が初節句を迎えたら、立ててあげようと買ってあったものでした。その初節句を迎えることなく、あの3月11日に我が子は波にさらわれてしまった。せめてその子が生きていた証しにと思って、鯉のぼりを立てました。すると、その翌日行方不明だった男の子の骨が、偶然見つかったのです。お父さんは、「あの子が鯉のぼりを見に来てくれたのかな」と、言っておられました。子を思う親の気持ちが、その思いの深さゆえに、不思議な出来事を引き寄せる。そのようなことが、私たちの生きる世界にも起こるのではないでしょうか。
そうであれば、神さまがこの「世」と私たちに向けられている至高の愛は、多くの恵みの出来事を、この世界にもたらしてくださるのではないでしょうか。その出来事の頂点はイエス・キリストの十字架の出来事ですが、その後もなお、神さまはご自身に自らを明け渡し委ねる「謙遜な者」たちに、くすしき恵みの出来事をもたらしてくださるのです。神に頼ることをよしとせず、この世の価値観に身を委ねる「高慢な者」となってはなりません。「世の友」となって、「神の敵」となる道を歩んではなりません。神さまの燃えるような愛を受け、私たちも心を燃やされて、神さまを愛する信仰者としての道を、一途に歩んでいきたいと思います。

3月7日礼拝説教

ヤコブの手紙4章1~3節            2021年3月7日(日)
「神に何を求めるべきか」  藤田浩喜
◎私たちの世界には、今も多くの「戦いや争い」があります。国と国、部族と部族、支配者層と民衆との「戦い」があります。会社や政党、学校にも、派閥「争い」があります。個人と個人の間にも、「戦いや争い」があるのではないでしょうか。その「戦いや争い」は、どこから来ているのでしょう。
国連のユネスコ憲章前文には、次のように記されています。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなくてはならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通して世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通部分であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争になった。」戦いや争いはどこから来るのか。戦争は人の心の中で生まれるものなのです。そして「相互の風習と生活を知らないこと」が、「疑惑と不信をおこした共通部分である」と言います。お互いをよく知らないこと、そこから来る誤解と偏見によって大変な問題が生じるのです。
それに対して今日のヤコブの手紙は、1節で次のように言います。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」ヤコブの手紙は、人の心の中で争い合う欲望が、戦いや争いの原因であるというのです。私たちの中には、食欲、物欲、愛欲、名誉欲、権力欲、知識欲などがあります。そのような欲望が、心の中で頭をもたげ、自制心や正常な判断と争って打ち勝ってしまう時、戦いや争いが起きると言うのでしょう。私たちはこの世界において、一部の政治的指導者の欲望によって、どれだけ無益な戦いが起こり、その国の国民が悲惨な目に遭っているかを知っています。人の心の中の欲望が、一つの国のみならず世界全体を危機にさらしてしまうことすら、起こり得るのです。
◎それでは、心の中で争い合う欲望は、具体的にどのような事態を引き起こしてしまうのでしょう。2節の前半を読んでみましょう。「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」ウィリアム・バークレーというイギリスの聖書学者は、欲望に支配された生活が引き起こす結果を、次のように述べています。《一つは人間を共倒れにしてしまうということです。欲望が人間同士をお互いに戦わせるのです。人は、金銭、権力、名声、肉体的な快楽などを求めます。すべての人間が同じ目当てを獲得しようとして競い合う時に、人生は避けがたく競争社会になってしまいます。人間はひとつのものを強引に獲得するために、お互い同士を踏み倒してしまうのです。欲望に支配されることによって、人間は分断させられてしまうのです。二つ目は、欲望が人間を恥ずべき行為に追いやり、妬みと嫉妬と敵意を起こさせるということです。人が心の中に欲望を起こした時、その欲望はその人の思いを圧倒しはじめます。彼は目覚めている時にそれについて無意識に考え、眠っている時にはその夢を見るのに気づかされます。それから彼は、それを手に入れるために想像力を働かせて、計画を練り始めます。この計画には、これを邪魔する者を排除する方法も含まれています。これらの計画はすべて、人の知性と思想の中で十分あたためられます。そしてある日、その想像力が行動へと燃え上がります。彼は、自分が欲しているものを手に入れるために、恐るべき手段を講じつつあるのに自ら気づくのです。欲望とは、はじめは心の中で思うだけのことなのですが、心の中でじっくり養われたのち、結局は行動に移されてしまうのです》。この聖書学者の述べていることは、強い欲望が頭をもたげる時、私たちの心に何が起こるかを、不気味なほどリアルに描写しているのではないでしょうか。
 たとえば、教会という共同体においても、私たちの心の中の欲望が戦いや争いをもたらすことがあり得ます。ヤコブの手紙は、宛て先の教会でそのような戦いや争いが実際に起こっていることを聞いていたので、このようなことを書いているのです。もっともどのような戦いや争いであったのかは、正確には分かりません。しかし、教会の兄弟姉妹の交わりにおいて想定され、とかく起こりがちなのは、人と人との関係が上手くいかないということです。教会内のある特定の兄弟姉妹に敵意を抱き、その人を拒否したいという強い気持ちに捉われてしまうのです。敵意を抱いている人の上に立ちたい、その人に言うことを聞かせたい、その人を折あらば「ぎゃふん」と言わせたいという欲望が、むくむくと頭をもたげてくるのです。気がついたら、その人をどうしたらやり込めることができるかばかり考えていた。そんな経験を、皆さんもお持ちなのではないでしょうか。
 しかし、ヤコブによれば、そうした欲望は「人を殺します」。教会内でそんな物騒なことは滅多には起こりません。しかし、相手の存在を否定し、その人があたかもいないかのように、相手を無視してしまうことはあり得ます。そして、そうした否定的な思いがエスカレートして、あってはならないことも起こるというのが、人間の現実なのではないでしょうか。またヤコブは「熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします」と言っています。敵意を抱いている人の上に立ちたい、その人に言うことを聞かせたいと心を燃え上がらせても、お互いが自我と意地を張り合っているのですから、思うように事が運ぶはずもありません。相手を自分に服させるどころか、両者の関係はますます険悪になり、戦いは果てしなく続いていくことになります。そのような敵意のために、時間も気力も消耗してしまいます。教会に来ること自体に、意味を見出せなくなるのです。
 そもそも冷静に考えた時、敵意を抱いている相手を否定することは、大きなリスクを冒すことにもなります。私たちは不遜にも「その人がいなければ、どんなに楽しく教会生活ができるだろう」と想像するかもしれません。その人を除きさえすれば、万事上手く行く、ハッピーになると考えがちです。しかし、その時私たちは、その人が教会にとってどんなに大切な働きを担っているか、その人がいなければどんなに大きな痛手であり、困ったことになるかが見えていないのです。強い欲求に捉われるあまり、全体的な状況を見失ってしまうのです。アメリカの諺に、「壊れていないものを、直してはいけない」という諺があるそうです。当たり前だと思いますが、人はしばしばそのような愚かな行動をしてしまいます。まだまだ十分働いているのに、下手に直そうとして、前よりも状態が悪くなってしまう。人間の関係においても同様です。自分を正義だとする独りよがりの対応が、共同体全体の状態を良くするどころか、悪くしてしまうこともあるのです。
◎では、どうすればよいのでしょう。欲望に捕らえられて身動きできなくなった時、どこに解決を見出すことができるのでしょう。2節後半から3節には、次のように記されています。「得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分のために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」「得られないのは、願い求めないからである。」願い求めるとは、主イエスの名において神さまに祈ることです。どうしても上手くいかない人間関係がある。その人を見ると、避けがたく敵意を感じてしまう。相手を否定してしまいたくなる。そういう心の欲求に捉われていても、その解決を私たちは神さまに願い求めているでしょうか。神さまに相談しても、埒があかないと考えているかも知れません。
そんなみっともない祈りはできない、と思っているかも知れません。しかし、そうではありません。神さまに願い求めるところにこそ、解決の道があるのです。
 主イエスは「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)と言われました。「こんなことは願い求めても無駄だろう」と考えてはなりません。神さまに祈り求めるとき、人が思いも寄らなかった道が開かれていくのです。どうしても見つからなかった解決の糸口が、不思議な仕方で見つかるのです。考えたこともなかった素晴らしい導きが与えられるのです。
誰かを否定したくなるという心の欲望は根強いものがあり、もがけばもがくほど、深みにはまっていくようなところがあります。意識すればするほど、関係はギクシャクしていきます。しかし、そんな関係を、神さまと時間にゆだねてしまうのです。自分で何とかしようとすることを止めて、神さまにお任せしてしまうのです。すぐには何も起こらないかもしれません。時間はかかるかも知れません。しかし、神さまに祈りつつゆだねてしまうならば、心に平安が戻ってきます。無理にどうこうしようと思わなくなります。そして、時間はかかるかも知れませんが、神さまは自分と相手の状況、自分と相手の気持ちを、少しづつ変えていってくださるのです。私たちが予想もしないところから、考えもしなかった仕方で、平和と和解への糸口を開いてくださるのです。主イエスの名によって神さまに祈り求めるとき、私たちは自分が神さまの御心のうちに守られていることを知ります。自分が願ったこととは違った結果を与えられたり、自分の願いが応えられなくても、神さまの御臨在とご意志を感じます。神さまの御心の内におかれていることが分かるので、私たちは平安であり、安心なのです。すべてのことを最善に導いてくださるのは神さまです。そのことが分かっているので、神さまの御心に適った道を歩むことが、キリスト者の最善なのです。祈り願っていることが叶えられるか否かが、祈りの究極の目的ではありません。神さまの御心に適う道を示され、それに従うことが祈りの目的なのです。
だからヤコブが3節の後半で語っているように、「自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求め」ても、神さまは願うものをお与えになることはありません。神さまは、人間の欲望を叶えるための僕でも手段でもありません。神さまは、ご自身が最善と考えられる御心に適った賜物を私たちに与えてくださいます。私たちに大切なのは、神さまに全てをゆだねて祈り続けることなのです。
今私たちは、レントの時を過ごしています。主イエスは十字架への歩みにおいて、ゲッセマネの園で切なる祈りを捧げられました。「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。しかし、この祈りを通して主イエスは、十字架の杯を受けることが神さまの御心であることを知らされました。そして、そのことを悟った主イエスは、眠りこける弟子たちを促して、「立て、行こう。見よ。わたしを裏切る者が来た」(マルコ14:42)と、決然と前に進まれるのです。神さまの御心がそこにあることを知らされて、主イエスは全てを神さまにゆだねて、十字架の道を進まれるのであります。
キリスト者にとって何よりも大切なのは、神さまの御心を知らされ、御心にゆだねて歩んでいくことです。それ以上に、確実で平安な道はありません。そのためにも、願い求めることを決して止めない一人一人でありたいと思います。

2月28日礼拝説教

ヤコブの手紙3章13~18節      2021年2月28日(日)
「上からの知恵と良い実」   藤田浩喜
◎今日先ほど司式長老に読んでいただいたヤコブの手紙3章13~18節には「知恵」という言葉が出てきます。「知恵」を簡単な辞書で調べますと、次のように記されていました。「知恵」とは、「道理を判断し処理していく心の働き。筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。」今日のヤコブは、「知恵」について語っているのです。
 「知恵」についてヤコブはまず、二つの表われ方をする知恵があると申します。ヤコブにおいては「知恵」は一通りではないようです。今日の13~14節を読んでみましょう。「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。」
 片方の「知恵」は、柔和な行いや立派な生き方となって表われる知恵です。知恵が頭の中だけの考えや心の動きに留まらず、柔和な行いに結実するというのは、いかにもヤコブらしいところです。他方「知恵」を発揮しても、心の中にねたみや利己心が渦巻いているなら、それは自慢できない知恵であり、そうした知恵であることを偽ってはならない、ちゃんと認めなさいというのです。片や柔和な行いや立派な生き方となって表われる知恵があり、片や心の中にねたみや利己的な思いを燃え上がらせるような知恵がある。その二つは区別されなくてはならないのであり、一緒にされてはならないのです。「知恵比べ」という言葉があるように、人は知恵の深さや高さを競う性質があります。「自分の知恵はあの人より上だ」と優越感を抱くこともあれば、「あの人の知恵には遠く及ばない」と劣等感にさいなまれることもあります。知恵がねたみや利己的な思いを燃え上がらせるというのは、そうした状況を描いているのかもしれません。
◎そして次にヤコブは、その二つの「知恵」の違いが知恵の出どころの違いにあることを語っているのです。15節を読んでみましょう。「そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。」
15節は、ねたみや利己的な思いを燃え上がらせるような知恵のことを言っています。この知恵は上から、すなわち神から来たものではなく、地上のもの、この世のもの、神に敵対する悪魔から出たものである、というのです。「地上のもの」から出た知恵は、命を持っているすべての動物に共通な知恵です。それは、自分が生き残るために他のものにかみつき、餌食にすることも辞さない動物的な知恵なのです。「この世のもの」から出た知恵は、この世的な意味での成功を計ります。その目的はこの世的な目的なのです。そして、「悪魔」から出た知恵は、神が喜ばれるような人間の状況ではなく、悪魔が喜ぶような状況を生み出すのです。
他方、柔和な行いや立派な生き方となって表われる知恵は、上から、つまり神やイエス・キリストから出たものである、というのです。旧約聖書の外典(カトリック教会が聖書に収めている文書)である『集会の書』では、「すべての知恵は主から下る。それは常に神の傍らにある」(1:1)と言われています。また使徒パウロの書いたコリントの信徒への手紙 一 1章30節には、次のように記されています。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」そのように、主なる神や御子キリストから出た「知恵」に生きるように、ヤコブは宛て先教会のキリスト者たちに強く勧めているのです。
わたしは最近、思うことがあります。それはこの世を生きる私たち人間の賢い生き方とは、どういう生き方か。それは、「リスクを最小に抑え、利益を最大にしようとする生き方」ではないかということです。どうしたら自分に降りかかる危機や面倒な事柄を最小限度にできるだろうか。どうすれば無駄のない効率のよい方法で利益を最大にできるだろうか。私たちはキリスト者も含めて、いつの間にかそのような生き方を目指しているのではないでしょうか。人間関係においても、できるだけ面倒なことには首を突っ込まない。時間や労力が掛かりそうだなと判断すると、上手にそれを避けて遠ざかっていく。そのような生き方が、賢い人の生き方、知恵のある人の生き方だと思ってはいないでしょうか。
しかし、私たちにとって神の知恵となってくださったキリストの生き方は、
それとは正反対でした。イエス・キリストは、病める者、苦しみに喘ぐ者、悲しみに打ちひしがれた者のもとに、ご自分の方から出向かれました。律法学者やファリサイ派の人たちの反感や憎悪を買うことが分かっていても、手の萎えた人を病から解放するために、安息日に癒しの奇跡を行われました。それだけではありません。ご自分は少しの罪も犯されなかったのに、わたしたちの罪を贖うためにご自分の命を捧げてくださいました。私たちは今レントの時を過ごしていますが、主イエスが歩まれた苦難と十字架の道は、私たちが賢いと考えている生き方とは正反対であったことを知らされます。私たちを罪と滅びから救い出すために、リスクを負い、面倒なことを厭わず、ご自分を捧げ尽くされたのが、主イエスの生き方でした。私たちはもちろん、主イエスのように生きることはできません。主の御後を少しでもついて行きたいと、願うことしかできません。しかし「リスクを最小に抑え、利益を最大にしようとする生き方」に閉じこもるのではなく、苦労を買って出るような、多少お節介な生き方が、キリスト者にはふさわしいのではないでしょうか。主イエスが模範となってくださった生き方に倣うとき、私たちはそれまで体験したことのなかった豊かな地平へと踏み出していくことができます。信仰が新しくされ、神さまや隣人との深い交わりが開かれます。聖書がそのような「上から出た知恵」に生きるように勧めている御言葉に、私たちは聴きいていきたいと思うのです。
◎さて、これまで何度も申し上げてきましたが、ヤコブの言葉は一般的な道徳訓ではなく、宛て先教会の状況を踏まえたものだと言われます。ヤコブは、今まで申し上げてきた二つの「知恵」が、実際の教会生活や兄弟姉妹の交わりにどのような影響を及ぼしていたかを、知っています。それを踏まえた上で、二つの出どころの違う「知恵」が、何を教会にもたらしているかを語るのです。16~18節を読んでみましょう。「ねたみや利己心のあるところには、混乱や悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず純真で、さらに温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」
 二つの「知恵」のうち、ねたみや利己心を通して表われる知恵は、「混乱」や「悪い行い」を引き起こすと言われます。この「混乱」は、「不安定な」という言葉の名詞形です。このような知恵は、信仰生活や教会を不安定にする。妬みや利己心は、神さまへの確固たる信頼を失わせると共に、教会全体に不安定さを生じさせ、教会を混乱へと陥れるというのです。私たちはコリントの教会で、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」などと主張する分派争いがあったことを知っています。それぞれが自分の主張を譲らないために、教会が分裂しそうになったのです。教会において真剣な議論は大切です。しかし、自分の考えに固執し、自分の知恵を過信してしまうと、他者との建設的な対話ができなくなってしまいます。どんなに優れた人であっても、すべてを見渡すことはできません。主の体なる教会は、それぞれの知恵を出し合う建徳的な対話の中で、健やかに建て上げられていくのです。
 一方、上なる知恵、神から与えられる本当の知恵は、たくさんの良い実を生み出します。9つの良い実が挙げられていますが、4つのものだけ見てみましょう。「何よりもまず、純真で」と言われています。これは「ハグネー」という言葉で、神に対する一心さを表わしています。外典のマカベヤ書では、殉教者の魂の清さを表わしており、処女の純潔の意味でも用いられています。新約ではコリントの信徒への手紙 二が、キリスト者を、夫としてのキリストに献げられた清い乙女と表現しています。この言葉は、神さまの前に出るのに十分清いということです。
本当の知恵は、神さまの吟味に耐えることができるものなのです。
 本当の知恵は「温和で」あると言われています。これは「エイレイネー」という言葉で、「平和的」と訳すこともできます。この言葉の基本的な意味は、「人間と人間、または人間と神さまが正しい関係にある」ということです。人間の間には、その同胞に対して優越感をもって臨むという類の傲慢な知恵があります。清さと神への忠誠から人を逸脱させてしまう悪しき知恵があります。しかし、本当の知恵は、時と共に人間をお互い同士近づけ合い、神へと近づける知恵なのです。
 また、本当の知恵は「憐れみ」に満ちていると言われます。これは「エレオス」という言葉です。「エレオス」はたとえその苦悩がその人自身の過失であったとしても、苦悩している人を憐れむことを意味しています。この同情は神の同情の反映です。神さまは、人間が不当な苦しみを受けていた時ではなく、自分自身の罪や過失に苦しんでいた時に、憐れんでくださいました。私たちは、ある人が苦悩に陥っている時に、「それはあいつの過失が原因だ。蒔いた種は刈らねばならない」と言いがちです。そんな人に対して責任はないと思いがちです。しかし、キリスト教の憐みは、たとえその人が自分で苦悩を招いたとしても、苦悩に陥っている人に憐れみを示すことなのです。神の憐れみを受けた者だからこそ、憐みを示そうとするのです。
 そして、最後の18節には、「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」と言われています。ここの「義の実」とは、終わりの時に神から与えられる義認であり、終末時に与えられる救いであると言われます。そして、この義の「実」をもたらす種が、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれていると言われるのです。つまり、真の救いをもたらす義の実へと成長していく種が、教会の中に平和を実現しようとしている人たちよって、すでに蒔かれていると言うのです。これは本当に慰められ、励まされる御言葉ではないでしょうか。教会の中で人間の努力で造り出される平和が、終わりの時に神から与えられる救いへとつながっている。その種をすでに、キリスト者は蒔いていると言うのです。何と喜ばしい種蒔きでしょう。今日から始まる一週間、この喜ばしいヴィジョンをいつも目の前に描き出しながら、イエス・キリストの「知恵」に生きる者でありたいと思います。

2月21日礼拝説教

創世記48章1~11節              2021年2月21日(日)
「わたしを背負ってくださる神」   藤田浩喜
 ドイツの首相アンゲラ・メルケルさんの『わたしの信仰 キリスト者として行動する』(新教出版社)という本を最近読みました。メルケルさんがキリスト教会関係の大会などで語った講演やスピーチを集めたものです。メルケルさんのお父さんは共産主義国家の旧東ドイツでプロテスタントの牧師をしていたのですが、お嬢さんの信仰も筋金入りであることが、この本を読むとよく分かります。また、幾つかの講演やスピーチで何度か強調されていることがあります。それは定年後の世代に色んな分野でボランティアとして働いてほしいということです。ドイツでも日本と同様速いスピードで高齢化が進んでいます。しかし定年後の世代は、まだまだ体力や気力に満ちています。培った経験や能力があります。それを社会の様々な分野でボランティアとして活用してほしい、それがドイツの将来にとって大きな力となるというのです。日本でもおそらく状況は同じでしょう。少子高齢化の中で、色んな分野の働き人が不足しています。定年後の世代が、無理のない程度に仕事をし、そこで得た収入を生活費の足しにしたり、余暇を楽しむために使うことも大切でしょう。それと同時に週の1日、2日を社会的に意義のあるボランティアのために使うということも、大変豊かな過ごし方だと思います。神さまに与えられている命と時間を、社会や他者のためにも使うなら、それは神さまに喜ばれるキリスト者の生き方になるのではないでしょうか。
 さて、今日は創世記48章を読んでいただきましたが、ここにはヤコブ(イスラエル)の最晩年のことが記されています。目も見えなくなり、床に就いていることが多くなった、終わりが近づいている時のことです。ヤコブは死を迎える前にやっておかなくてはならない三つのことをしています。ヤコブの終活とも言えることが記されているのです。
◎一つ目のことは、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムを、自分の子どもにしたい、養子にしたいということです。ヤコブはヨセフに、主なる神がヤコブの子孫の繁栄とカナンの土地所有を約束された言葉を伝えたあと、このように言うのです。5節以下です。「今、わたしがエジプトのお前の所に来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となるが、その後に生まれる者はお前のものとしてよい。しかし彼らの嗣業の土地は兄たちの名で呼ばれるであろう。」ヤコブは息子のヨセフではなく、ヨセフとエジプトの祭司の娘アセナトの間に生まれた二人の息子を自分の子どもとし、主なる神の祝福を継ぐ者としたいと言うのです。ここには、ヨセフがエジプトで王に次ぐ地位にあり、エジプトから離れられないだろうという配慮があったのかも知れません。
 それにしても興味深いのは、イスラエルの12部族の中に初めからエジプト人の血を引くマナセとエフライムが加わっていたということです。旧約聖書を見ますと、イスラエルだけを正統とする国粋主義的な面がある一方で、外国や異邦人にも門戸を開くような普遍主義的な面が見受けられます。主なる神の祝福を受け継ぐ契約の民の中に外国人の血が入っていても、気にする風はありません。そうした異なる者、ある種異質な者も含みながら、神の約束の民は地上に増え広がっていくのです。そういう懐の深さがあるのです。
 先ほどドイツのメルケル首相の話をしましたが、大陸でつながっているということもあり、ドイツはトルコなどの国々から多くの労働者を受け入れてきました。ドイツできちんとした生活が成り立つように、無償で語学教育をしたり、就労先を提供したり、様々な生活保障を講じたりしてきました。こうした素地もあって、シリアからの難民を百万人以上も受け入れる決断をしたのです。もちろん、コロナ禍の少し前、この政策によってメルケルさんは窮地に追い込まれつつありました。あまりにも多くの難民を受け入れることが、ドイツ国民から仕事を奪い、ドイツ国民との様々な摩擦を引き起こすことが懸念されたからです。しかし、日本と同様少子高齢化が進むドイツにあって、民族を問わないで多様な人々を受け入れる、特に若い世代を受け入れることが、国力を維持し、更に発展させていくというビジョンが、そこにはあるように思います。民族とか血とか文化の同質性だけにこだわるあまり、国そのものが衰退し、体をなさなくなっていくことを、私たち日本人は心配すべきなのかもしれません。その意味でも、異質なものを取り込みつつ神の民を広げていく聖書の懐の深さに、学ばされる思いがするのです。
◎ヤコブがしている終活の二つ目は、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムを祝福したことです。しかし、その場面でも大変興味深いことが起こっているのです。祝福はまず長子に授けられるべきものです。長子には右手を置いて祝福しました。ところが、それとは反対のことが起きているのです。13~14節を読んでみましょう。「ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。」皆さん、理解できたでしょうか。ヨセフはヤコブと向かい合っています。そこで右手で次男のエフライムをヤコブの左側に置き、左手で長男のマナセをヤコブの右側に置きました。普通にすれば、ヤコブは右手を長男のマナセの頭の上に置き、祝福することになります。ところが、ヤコブはその両手を交差させて、右手を事もあろうに左側にいた次男のエフライムの頭の上に置いたというのです。最晩年のヤコブが行うとは思えないアクロバティックな動きです。ヨセフも当然いぶかしく思い、ヤコブの手を置き換えようとします。しかしヤコブは、それを拒んで「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている」と言ったのです。これはどう考えたらよいのでしょう。後のイスラエルの歴史をたどりますと、マナセ族よりも次男の子孫であるエフライム族が勢力を増し大きくなります。ヤコブは祝福の瞬間、そのことを主なる神に示されて、両手を交差させたのかも知れません。ある注解者が言うように、「死にゆく者には遠い未来が見えた」のかもしれません。
 いずれにしても、祝福の担い手であるヤコブは、このとき主なる神の示しを受けたのでしょう。長男だから祝福を第一に受け継ぐ、次男だから二番目に受け継ぐというのではなく、神はご自身の主権において自由に人を選ばれたり、お立てになったりする。神さまの自由な選びは、人に妨げられることなく御心のままに進められていく。そのことが示されているのではないでしょうか。
 今日司式長老に、マタイによる福音書20章15~16節だけを読んでいただきました。有名な「ぶどう園の労働者」のたとえです。一日中汗水たらしてぶどう園で働いた人は、自分が一時間しか働かなかった人と同じ1デナリオンの報酬であったことに文句をいいます。それに答えて主人が言った言葉が15節以下なのです。「『自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」私たちはここで語られているのがたとえ話であり、神の救いの恵みがどんな人にも等しく与えられることを、教えるものであることを知らなくてはなりません。どんな境遇にある人も救おうとされる神さまは、人の常識や論理に妨げられることなく、まったく自由に、御心のままに、御業を進められます。私たちはそこに人間の考える最善ではなく、神さまの考える最善のあることを信じて、神さまの御業に従っていくことが求められているのです。最晩年を生きたヤコブでしたが、彼は神さまの自由な選びを受け入れることができたのです。
◎ヤコブの終活の三つ目は何でしょう。それは二人の息子の父であるヨセフを祝福すること、そして自分の生涯を通じて生きて働いてくださった神さまの恵みを証しすることでした。自らの人生を回顧しつつ、15~16節のように語るのです。「そして、ヨセフを祝福して言った。『わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。』」
 ヤコブは11節でヨセフに、感慨を込めて語ります。「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」ヤコブの神さまへ深い感謝、その御業への驚きが、この言葉から伺えます。そして、信仰者として長い歳月を生きてきた皆さんは、多かれ少なかれ、このような感慨を持っておられるのではないでしょうか。
 そしてヤコブは、息子ヨセフとその息子たちを前に、主なる神さまがどのようなお方であったかを、証しするのです。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。」彼らがその御前に歩んだ。それはとりもなおさず、神さまが先祖や自分と共に歩んでくださったということです。
 「わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。」羊飼いは迷いがちな羊を正しい道に導いてくれます。それだけでなく、羊を青草の原に伴い、養ってくださいます。過ち多かったヤコブは、そのことをしみじみ感謝しているのです。主なる神は、弱く迷いやすい私たち一人ひとりを導き、養ってくださるのです。
 「わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。」ここでは神ご自身ではなく御使いが登場します。ヤコブの生涯を振り返ると分かりますが、ヤコブは幾多の苦しみを味わいました。しかし神の不思議な働きによって、その幾多の苦しみから贖い出されました。そのように神さまは、私たちが苦しみの虜になったままに放置されることはありません。ご自身の貴い犠牲の代価を払って、ご自分の恵みのもとに取り戻してくださるのです。それが贖われるということなのです。
 ヤコブは自分の波乱万丈の生涯を回顧し、主なる神がいかにその強き恵みの御手をもって導き、支えて下さったかを証ししました。それがヤコブの終活の仕上げであり、最も大切ななすべき業であったことを思います。私たちもやがて自分の生涯を終える時に、信仰者としてこのような証しと祝福を、親しい者たちに遺すことができるならどんなに幸いでしょう。そのような者として神さまに用いて頂けることを願って、祈り、努めてまいりましょう。

2月14日礼拝説教

ヤコブの手紙3章5節後半~12節      2021年2月14日(日)
「舌を制御できる人」   藤田浩喜
 先週に続いて、舌によって発せられる言葉のことが語られています。言葉を語ることについて、三浦綾子さんは著書『小さな一歩から』の中で次のように書いておられます。「言葉は力である、と私は思う。ひと言がその命を奪うこともあれば、受けた人の人生を変えることもある。『舌先三寸で人を殺す』という言葉を、幼い頃からよく聞いたものだ。言葉というものは理不尽なほどに人を動揺させ堕落させ、非情に走らせるかと思うと、奇跡のように甦らせ、向上させ、意欲を与えるものである。……人間の言葉は、本来なおざりであったり、真っ赤な虚偽であったり、裏切りであったりしてはならないのだ。人を力づけ、慰め、励まし、希望を与えるものでなければならない。いつもそのような真実な言葉を出せたらと思う。」三浦さんの考えに、私たちもうなづかされます。しかし、私たちが舌によって語る言葉は、私たちの性格や、心がけや、気持ち次第で、良くなるのでしょうか。人を力づけ、慰め、励まし、希望を与える言葉になるのでしょうか。それについてヤコブの手紙は、とても深い思索を思い巡らせているのです。

 今日の3章5節後半以下の所で、まずヤコブは「舌」を「火」にたとえています。ペンテコステの時「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」たとあり、「舌」と「火」は形が似ているのかも知れません。そして、「火」が瞬く間に燃え広がり、あらゆるものを焼き尽くすように、「舌」の語る言葉も炎のように人を焼き尽くすと言うのです。5節後半以下です。「御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」昨年、オーストラリアやアメリカのカリフォルニアで
大規模な山火事が発生しました。逃げ惑い、傷つく動物たちの姿が目に焼き付いて離れません。そのように自然発火の小さな火や、ハイカーの捨てたタバコの火によって、何百ヘクタールという広大な森が焼き尽くされてしまったのです。それと同じように、小さな「舌」の語る言葉が、その人自身やその人の人生を滅ぼし、死に至らしめることがあるというのです。
 それはなぜかと言いますと、欲望に操られた「舌」は神に敵対する勢力の支配下にあるからです。そのことがここでは、「舌は『不義の世界』です」と表現されています。1章15節で「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」と言われていました。人は欲望に操られているとき、神の御支配の下にはなく、神に敵対する勢力の虜になっています。神に敵対する勢力は、神とは正反対であり、人を滅ぼし、死に至らせようといたします。それだからこそ、小さな「舌」の語る言葉が燎原の火のように燃え上がり、その人自身やその人の人生を焼き尽くしてしまうのです。欲望に操られた「舌」は、そのような恐ろしさを持っているのです。
 また、欲望に操られた「舌」は、制御することができません。そもそも人は、そのような「舌」を制御する力を持っていないのです。7~8節を読んでみましょう。「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」 
この言葉の背景には、創世記1章28節の天地創造の御業があります。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」支配せよと言うと、自分勝手に好きなようにするというふうに取られがちですが、そうではありません。世話をして馴らすという意味を持っています。ある注解者は馴らすとは、制御し有益で有用なものにすることだと言っています。神は天地創造のときに、世界のあらゆる生き物を人間にお任せになり、世話をして馴らすようにお命じになった。そのような創造の秩序を、神はお立てになったのです。そのような創造の秩序に則って、人間はあらゆる生き物を制御し、それを善用することが許されているのです。だからこそ人間はそのことを感謝し、慎み深くあらなくてはいけません。生き物たちに対して、神の御心に背くようなことをしてはならないのです。
それに対し、欲望に操られた「舌」は神に敵対する勢力の虜になっているのですから、神の立てられた創造の秩序に則ってはいません。人間に託されたあらゆる生き物たちとは違い、制御することはできません。創造の秩序の外にあるのですから、人間がどうこうできるものではありません。人間の力によって有益なものにすることも、善用したりすることもできないのです。
この創造の秩序の外に、欲望に操られた「舌」があるということを、興味深いたとえで示しているのが、11~12節です。ヤコブの手紙は、同じ一つの「舌」から、神への賛美と神のかたちに造られた人間への呪いが出て来る矛盾を、次のようなたとえで指摘するのです。「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」ここに述べられていることは、いずれも神が立てられた創造の秩序に則っています。泉のわき出る同じ水中の穴から、甘い水と苦い水がわき出ることはありません。いちじくの木はいちじくの実を付けるのであり、ぶどうの木がいちじくを付けることはありません。しかし欲望に操られた「舌」は、同じ舌であるのに、神へ讃美と神のかたちに造られた人間へ呪いが出て来る。これは神の立てられた創造の秩序を無視したことであり、「このようなことはあってはなりません」と、ヤコブは厳しく批判するのです。

さて、少し込み入ったことを申し上げてきましたが、今日の御言葉はそもそも誰に向けられたものだったのでしょう。9~10節をあらためて読みますと、こう言われています。「わたしたちは舌で、父なる主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」聖書の注解者たちは、「父なる主を賛美し」というのは、教会での主日礼拝を指しているのだろうと申します。また、これはヤコブの手紙が、二枚舌のような物言いを一般的、道徳的に批判しているのではない。そうではなく、彼が教会において実際に見聞きしていたリアルな状況を、取り上げているのだと申します。つまり、主日礼拝において高らかに神さまを賛美し、神の御名を褒め称えたと思ったら、その舌の根も乾かないうちに、同信の兄弟姉妹の悪口を言ったり、陰口を叩いたりする。そのような嘆かわしい有り様を取り上げて、ヤコブは「このようなことはあってはなりません」と、厳しく批判しているのです。
こうしたことは、私たちの西宮中央教会では起こり得ないことでしょうか。私たちの教会には当てはまらないと、自信をもって言えるでしょうか。あるいは、そういうことが実際あったとしても、「人間ですから、そんなことがあるのは当然です」と、開き直ってしまうでしょうか。「人の世ではよくあることですから、気にするには及びません」と、軽くやり過ごしてしまえばよいのでしょうか。
わたしはそうではなく、ここには深刻な状況があると思わずにはおれません。
こうした態度の根底には、私たちを惑わし操る悪の力が働いています。霊的な危機に瀕しているのです。ヤコブが警告しているように、欲望に操られた「舌」は神に敵対する勢力の虜になっており、小さな火のように見えても、やがて激しく燃え広がり、その人やその人の人生を焼き尽くしてしまうかもしれません。また、欲望に操られた「舌」は、神の創造の秩序の外にあり、人間の力では制御することも、有益なものにすることもできません。小さなことのように軽視していると、教会の交わりを損ない、教会そのものを破壊していくことにもなりかねません。小さな舌の語る言葉など心配ないと油断するのではなく、ヤコブが今日の箇所で警告していることを、霊的な心で真剣に受け止める必要があるのだと思います。

 それでは、どうしたらよいのでしょう。どうしたら、三浦綾子さんの言うような、人を力づけ、慰め、励まし、希望を与える言葉を語ることができるのでしょうか。今日は司式長老に旧約聖書の詩編19篇12~15節を読んでいただきました。詩人はそこに先立つ8節以下で、主なる神の示してくださる様々な御旨を数え上げ、それらは「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」と歌います。そして、それらの示された御旨をいつも思い巡らし、それを守ることができるように願います。詩人は自分が知らずに罪を犯してしまうことや、すぐに驕り高ぶってしまう弱さのあることを告白しています。そして詩人は懇願します。そのような危うさや弱さのあるわたしを、罪から清めてくださいと、切に祈るのです。
ある神学者は「言葉の最高の使用は、祈りである」と言っています。主イエスも、御国の福音宣教と力ある御業をなさったあと、しばしば静かな所に退かれ、父なる神さまに祈りをお捧げになりました。私たちも主に倣い、自らの弱さや危うさを神さまの前に注ぎ出して、神さまに罪を赦していただくことが、神さまの御旨から離れない信仰者の歩みを造り出していくのではないでしょうか。
 そして19編の最後15節には、こう歌われています。「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」この15節の御言葉以上に、今日の私たちの切なる願いを率直に言い表してくれている祈りはありません。私たちの発する言葉は、欠けや過ちを避けることができません。人を力づけ、慰め、励まし、希望を与えるのではなく、聞いた人が傷つき、悲しみを味わい、希望を失ってしまうような言葉を語ってしまいます。しかし、私たちの心の思いを神さまの御前に置き続けること、すなわち、神さまを見上げ、神さまに依り頼み、神さまの御前から決して離れないときに、神さまは必ずや、御旨にかなった言葉を備えてくださるでありましょう。私たちの語る御旨にかなった言葉だけが真実であり、人を生かし、立ち上がらせることができるのです。そのことを私たちの心に刻みつけたいと思います。

2月7日礼拝説教

ヤコブの手紙3章1~5節前半          2021年2月7日(日)
 「舌は大言壮語する」   藤田 浩喜
 最近世間では舌禍事件がマスコミを賑わせています。少し前は緊急事態宣言下の東京で、与党の有力議員が同僚議員二人と酒宴を楽しんでいた事件です。最初一人で行っていたと答えていましたが、お連れがいたことをすっぱ抜かれると、若い人たちをかばう為だったと、苦しい言い訳をしていました。その場をやり過ごす嘘をついても、後でバレて大変なことになることが分からなかったのでしょうか。もう一つは首相経験者の女性差別発言です。女性の委員が多くなると、競うように発言するので、会議が長くなるといった発言をして、国内外から批判を受けました。しかし、責任を取って辞任するということには、どうもならないようです。自分の舌から出た言葉がこんな大騒ぎになるとは、くだんの人たちは予想もしなかったのかも知れません。
 しかし、今日の聖書にあるように、舌は小さな体の器官ですが、そこから発せられる言葉は大きな影響を及ぼしてしまうのです。3~5節は、そのことを二つの分かりやすいたとえで示してくれるのです。「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。」小さな舌の語る言葉が、大きな力や影響力を持っているのです。

 そのように舌が語り出す言葉は、とんでもない波紋を引き起こすことがあり得ます。そこで著者ヤコブは、そのような言葉を使って教える教師には、滅多になるものではないと、助言するのです。1節「わたしの兄弟たち、あなたがたのうちの多くの人が教師になってはなりません。」たいていの人は、教師になるのに慎重であるべきだというのです。それはどうしてなのでしょう。日本のキリスト教会の教会員には、「教師」が多いというのはよく言われることです。この教会にも、幼稚園の先生から大学の先生まで、「教師」の教会員がたくさんおられます。また、教会の牧師も「教師」と呼ばれ、ヤコブがここで問題にしているのは、どちらかというと、牧師のように神の御言葉を教える「教師」であろうと思います。しかしいずれにせよ、誰かの前に立って教えを述べる教師になるのは、慎重にならなくてはならないというのです。
 なぜか? 一つは1節の後半にあります。「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」これは終わりの日、最後の審判の時に、教える務めを託された教師が、より厳しい責任を問われることを示しています。それと同時に、教師の教えたことや語った言葉が、教えられた側の人たち、生徒たちに、後々まで影響を及ぼすことを伝えているのではないでしょうか。「中学生の時に、あの先生に言われたあの一言で、私の人生は変わってしまった」というような話を、私たちは聞くことがあります。教師の側からすれば、ほんの冗談で言ったようなひと言が、聞いた生徒に深い傷を残すともあります。反対に、「あの絶望しかなかった時に、あの先生のひと言で救われた、もう一度がんばってみようと思った」、ということもあるに違いありません。教師が語る言葉はそのように、聞いた人の人生に影響を与えないではおかないという意味で、将来にわたって責任があるのです。
 また、「教師」になるのに慎重でなければならない2番目の理由は、言葉で失敗したり、過ちを犯すことが避けられないからです。2節でこのように言われています。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」語る言葉でしばしば、失敗をしてしまうのです。間違いは避けられないのです。あるベテランの保育士の先生が、子どもたちへの言葉掛けで上手くいくのは3割ぐらいだと、ある本の中に書いておられました。まだ十分状況を説明したり、自分の気持ちを言葉で言い表せない幼児たちです。保育者が懸命に状況判断して言葉掛けをし、子どもの心に共感しようとしても、うまく伝わらないことも多いのです。それが保育という営みの持つ奥深さなのでしょう。
 また、「教師」は長く続けていれば、それで務まるというものでもありません。だいぶ昔に聞いた話ですが、大阪教育大学の先生が保育士の先生を対象に講演してくださいました。その時にその先生は、長い経験を積んだ保育者には、経験が長いがゆえに落とし穴がある。それは自分が培ってきた知識や経験に間違いはないと過信して、今自分の目の前にいる子どもを保育しようとする。しかし、子どもたちが置かれた環境も、育ってきた状況も、社会のあり様も、刻々と変わっていく。同じではあり得ない。だから保育士の先生は、鉄腕アトムのように、「心やさしき科学の子」である必要があるのだと、言うのです。豊かな経験で子どもたちをやさしく受け入れると同時に、社会や子どもたちの変化を、最新の研究に学びながら客観的に見ていく必要がある。その両方が求められるのです。学校や幼稚園の先生方は、多くの研修の時を持ち、精力的に学んでおられます。それは教え導く対象が、今をまさに生きる子どもたちであり、その教育実践がダイナミックで難しいものだからでしょう。間違いや失敗を経験し、乗り越えて行くことなしに、「教師」の務めを全うすることは到底できないのです。

 さて、今日の聖書は「教師」になることにおいて慎重であれと語っていますが、先に触れたように、それは誰よりも教会で神の言葉をつたえる「教師」たちに向けられたものです。私たちの教会で言えば、牧師や長老、日曜学校の先生などがそれにあたるでしょう。ヤコブが手紙を送った教会では、神の言葉を伝える「教師」になりたがる人が、少なくなかったようです。「教師」という務めを何か名誉なことのように感じていたのかもしれません。あるいは人の上に立てるかのような優越感を求めていたのかも知れません。けれどもヤコブの手紙の著者は、その務めには将来にわたって大きな責任が伴うことや、過ちを犯してしまうことも度々であることを示して、思い止まらせようとするのです。
 しかし、教会には神の言葉を伝える「教師」がいなくてはなりません。だれもが「教師」に召されているわけではありませんが、預言者イザヤの語るように「良い知らせを伝える者の足」が必要です。イザヤ書52章7節には、次のように歌われています。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」伝える者の麗しい足があってこそ、良き知らせである福音は、主にある兄弟姉妹の信仰を養い、教会の外に向かって持ち運ばれていくのです。 
 その場合に、選ばれ立てられた「教師」に求められていることは何でしょう。教師は小さな舌を通して言葉を語ります。その言葉は、天の神さまが御子イエス・キリストという「言(ロゴス)」を、この世界に送ってくださったことに基礎づけられます。ヨハネによる福音書1章14節はこう記しています。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」父なる神さまは、この世界と私たちを救うために、御子イエス・キリストという「言(ロゴス)」を差し出してくださいました。この「言(ロゴス)」には、神さまの慈愛と真実のすべてが込められています。だからこそ、教師が伝える福音の言葉も、全存在を懸けて語られなくてはならないのです。言葉は、それを語る人から独立してあるのではなくて、他の人に働きかける時の自己表現であり、交わりの手立てです。そこには、自分自身が差し出されています。だからこそ、イエス・キリストを証しする言葉は、口先だけ語る言葉や、心と裏腹の言葉であってはなりません。イエス・キリストを信じる日々の信仰生活から出てくる言葉でなければ、伝えることはできません。イエス・キリストを信じる生活の背景がなければ、どんなに巧みな言葉を見事に語っても、それは相手には伝わりません。しかし、それが感謝に溢れた信仰の生活に根ざしているなら、たとえたどたどしい言葉であったとしても、それは確実に相手の心に響いていくのです。
 そしてもう一つ大切なのは、何を語り、何を差し出すべきかは、神ご自身によって示されるということです。自分が神の言葉を捉えるというよりも、先に神の言葉によって自分自身が捕らえられる。それによって初めて言葉を語り得る者とされるのが、教師のあるべき姿なのです。先ほども読んだヨハネによる福音書1章ですが、その17~18節で、聖書はバプテスマのヨハネの言葉として、次のように記しています。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」私たちは旧約の信仰者たちとは違い、御子イエス・キリストを与えられました。イエス・キリストにおいて、神さまの恵みと真理は現れました。この方は今も聖霊を通して、私たち信仰者と共にいまし、父なる神さまを余すところなく啓示して下さっています。そのイエス・キリストに固着し、キリストを通して御言葉を聴き取っていくことによって初めて、教師は神の御言葉を取り次ぐことができるのです。改革派教会はその伝統において「礼拝において語られた説教が、神の御言葉である」と語ってきました。しかし、これは牧師が礼拝説教で語った言葉が、何でもそのまま神の御言葉になるということではありません。神さまはイエス・キリストを通して語ってくださいますが、説教者が「語れ」と言われる御言葉を聴き取ることができるまで、徹底的に耳を傾けなければ、それを語ることはできないのです。そのようなことを、人間の誰ができるでしょうか? それは聖霊の力をいただかなくては不可能です。そうであればこそ、語る者は祈りながら、神の御言葉を徹底的に聴くことが求められます。それと同時に、その務めは、聞く人々の祈りに支えられなければ、到底果たすことはできません。語る者と聞く者が、祈りつつ懸命に、神の御旨を聴き取ろうとしていく。その営みがあって初めて、「礼拝において語られた説教が、神の御言葉である」という出来事が起こるのです。生きた神の言葉が語られる教会を目指すために、教師と呼ばれる者も、それを迎えている群れ全体も、神から真剣に聞き、聖霊の助けを祈り求めることが不可欠です。そのことを私たちは、心深く覚えていきたいと思います。

1月31日礼拝説教

マルコによる福音書4章35~41節        2021年1月31日(日)
「嵐の中を進む教会」   藤田 浩喜
◎今日は一年に一度の教会総会の日です。教会が昨年一年の歩みを振り返り、新しい一年の歩みへと踏み出していく日です。昨年は皆さんもご承知の通り、新型コロナウィルス感染症の甚大な影響を受けた一年でした。色んな課題を突き付けられ、その対応に右往左往した一年でした。その影響は、今もなお続いています。コロナ禍の出来事が今後の教会の歩みをどのように変えていくのか、恐れや不安を感じないではおれません。しかし神さまは、御言葉と聖霊をもって教会の歩みを必ずや導いてくださいます。その確信に立って、今年の教会総会を行い、2021年の歩みを始めていきたいと思います。
◎この朝、私たちに与えられた聖書の箇所はマルコによる福音書4章35~41節です。故郷ガリラヤのナザレで福音宣教を始められた主イエスは多忙でした。12弟子を選ばれた後、多くの人々に神の国の福音を宣べ伝えました。病気の癒しや悪霊の追放など力ある業も行われました。主イエスの評判は高まり、多くの群衆が切れ目なくやって来ます。祈りと静まりの時を持つこともできません。弟子たちも疲れていたに違いありません。そこで主イエスは、舟に乗って「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われたのでした。主イエスと弟子たちは、何艘かの舟に分かれて、向こう岸を目指してガリラヤ湖に漕ぎ出したのでした。
 キリスト教会は、よく舟にたとえられることがあります。舟は船着き場に留め置かれるのではなく、目的地に向かって海や湖に漕ぎ出していきます。漕ぎ出さないなら、舟はその役目を果たすことはできません。それと同じように教会も、新しい歩みへと漕ぎ出していくよう促されているのです。主イエスは「向こう岸に渡ろう」と、舟の行先を示してくださいました。あてどなくさまようのではありません。教会という私たちの舟に対しても、神さまはヴィジョンを与え、進むべき方向を示してくださいます。
◎舟は順調に目的地に向けて進んで行きました。弟子の中にはガリラヤ湖の漁師出身の者が何人もいます。彼らの熟練した舵(かじ)さばきのおかげで、舟は快調に目的地を目指して進んでいました。ところがです。今まで静かだったガリラヤ湖に突風が起こりました。大きな波が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどでした。このままでは舟は沈むか、転覆してしまうかもしれない。突然、危機的な状態に陥ったのです。
 ガリラヤ湖は狭い渓谷の中にありました。ハウランの高地やヘルモン山から吹き降ろす風が、その狭い渓谷を通って、南の平野部に解放されます。そのためガリラヤ湖には、天候に関わりなく、予想もしない時に突風が吹き、舟を襲うことがあったのです。漁師であった弟子たちは、当然そのことを知っていたでしょう。
しかし自然の脅威は、いつ、どこで起こるか分かりません。また、どんなに熟練した技術を持ち、豊富な経験があったとしても、大きな自然の脅威の前では無力です。弟子たちは激しい突風にあおられて、どうすることもできませんでした。
 私たちの教会という舟も、今同じような状況に置かれています。去年の今頃、私たちのだれが、コロナ禍という恐ろしい突風に見舞われることを想像したでしょう。コロナ禍という自然の脅威に対して、私たちは無力です。できることは何百年も前にペストを経験した人たちと、基本的には変わりません。ワクチンの開発など、現代科学の恩恵には感謝すべきです。しかし自然の脅威は巨大です。現代に生きる私たちも、それが過ぎ去るのを身を屈めて待っているしかないのです。
◎ところで、このガリラヤ湖に漕ぎ出した舟には、主イエスが乗っておられました。「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」(38節)とあります。主イエスは初めに申しましたように、数々の力ある業をなさった方です。そのような主イエスがこの舟に乗っておられます。そんな舟がどうして突風に襲われなくてはならなかったのでしょうか。教会という舟もそうです。教会はイエス・キリストを頭とする、キリストのからだなる教会です。教会には主イエスがご臨在くださいます。そのような教会がなぜ、コロナ禍や巨大地震や津波などに襲われなくてはならないのでしょう。そこにはどんな意味があるというのでしょう。
 弟子たちは突風に翻弄されている最中に、「イエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った」(38節)のでした。彼らは突風に見舞われて、初めて主イエスの存在に気づいたかのような様子です。そしてこのお方にすがる他に術はないとばかりに、主を揺さぶり、助けを求めるのです。あなたが乗っておられるのですから、何とかしてくださって当然です、という響きすら感じます。弟子たちはそれほど切羽詰まっていたのでしょう。
 先日、片田敏孝という災害情報学の先生が書いた『人に寄り添う防災』という新書を読んでいましたら、興味深いことが書いてありました。片田先生は、日本の各地に講演会に行かれます。するとかならずその場所で、「次にいつ巨大地震は起きますか」、「それはどのくらいの規模ですか」と聞かれるそうです。片田先生はそれに対していつも、「分かりません」と答えるそうです。そのように敵とも言うべき災害について、人は正確に知ることはできない。しかし、災害から身を守るために大切なのは、敵ではなく「我を知ること」。自分が地震や津波、大規模水害などの自然災害に対して、どんな気持ちでおり、どんな姿勢で臨んでいるかを正確に知ることから、防災は始まるというのです。たとえば人は、心の平静を保ちたいという気持ちがあって、自分が災害に見舞われるような状況を、積極的に想像しようとしません。これを正常性バイアスと言うそうですが、これが働いてハザードマップを見たり、避難経路を確認したり、緊急避難袋を備えたりするのを怠ってしまうのです。しかしその反面、誰かのためになら行動したいという愛他性というものがあります。「おじいちゃんがいるので、自分たちだけなら行かないけれど、早めに避難所に行っておこう」と考える。「あなたが積極的に率先して避難することで、他の多くの人も後押しされて避難するんですよ」と言われると、他の人に役立つならと、率先して避難をする。そういう正常性バイアスと愛他姓を併せ持っているのが人間です。そのような「我を知ること」から、災害に備えることは始まるのだと言われるのです。
 これを知って、なるほどと思わされました。教会という主イエスが乗り込んでおられる舟にも、突風のような出来事が起こります。今回のコロナ禍のような、自分の力ではどうしようもない、無力としか感じないような出来事が起こります。神さまは勿論、私たちを苦しめようとして、このような疫病や自然災害を起こされる方ではありません。これらの疫病や自然災害は、神さまが天地創造の時に造られたこの地球のメカニズムが、様々な外部要因を受けて、自ら引き起こしているものではないでしょうか。コロナ禍にしても、人間による過度な開発によって、本来人間が接点を持たない野生生物の領域に踏み込んでしまったことが、原因の一つだと言われています。航空輸送の飛躍的な発達によって、人々が全世界を行き来できるようになったことも、その一因でしょう。ですから、疫病や自然災害を神さまが引き起こしたと、単純に言うことはできません。
 しかし、神さまはこうした大きな出来事を通して、教会という舟に乗っている私たちが、本来あるべき自分の姿に気づくように、促しておられるのではないでしょうか。信仰者である「我を知ること」、「信仰者である我が神に改めて立ち帰る」機会として、神さまはこのような出来事をも、用いられようとされるのです。決して無駄にはされないのです。この嵐のような出来事にも、神さまの不思議な御旨が働いています。この嵐も、主の御旨の中に入っているのです。
ボンヘッファーはナチスドイツに抵抗したために、投獄され、その後処刑された牧師であり神学者ですが、彼は牢獄の中で次のように書いています。「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生ぜしめることができ、それをお望みになります。そのため、すべてのことが働いて、益となるような奉仕をする人を必要としておられます。神は、どんな困難にあたっても、わたしたちが必要とするかぎりの抵抗力を与えてくださいます。しかし、その力を前もってはお与えになりません。それはわたしたちが自分にではなく、神により頼ませるためにほかなりません。こう信じれば、将来に対する不安はなくなります。わたしたちのあやまちや過失さえも、むなしくはなく、神は、そのような過失や誤りをさえ用いて、わたしたちが良いと思っていることよりも、もっと良いことをしてくださることが、困難でないと信じます。神は、無時間的な運命ではありません。誠実な祈りと責任ある行為を期待し、それに答えてくださることがおできになる方だと信じます。」突風に襲われた弟子たちも、コロナ禍という出来事に見舞われている私たちも、湖面が穏やかな間は、どれだけ深く神さまに依り頼んでいたでしょう。主イエスがこの舟におられることすら忘れているような、自分本位な生活を送っていたのではないでしょうか。しかしそれは信仰とは言えません。教会の存亡に関わるような巨大な嵐が襲ってくならば、決して耐えることはできないでしょう。「あるべき我」を見いだし、「依り頼むべき方」に本当に依り頼むことができるように、神さまは必ずや今回の出来事も用いてくださるでありましょう。
◎弟子たちに起こされた主イエスは、立ち上がり、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」ました。「すると、風はやみ、すっかり凪になった」と言われています。主イエスは、弟子たちが恐れ、驚嘆したように、「風や湖さえ従わせられた」のです。これは主イエスが神と等しい方であり、自然的世界をも支配されること表しています。これに関連して興味深いことは、主が同じような言葉を、汚れた霊を追い出したときに、使われていることです。1章21節以下は、会堂にいた悪霊につかれた男を主イエスが癒された出来事が記されています。主は悪霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」(1:25)とお叱りになって、その人を悪霊の支配から解き放ってくださったのです。イエス・キリストは、自然的世界を従わせるだけでなく、神に逆らう悪霊をも従わせられます。私たちは主にあって、自然的な脅威や悪魔的な支配から解放されて、今や、神の恵みの支配へと移されているのです。この舟は「向こう岸へ渡ろう」と主が言われて船出したものでした。そして、この舟は湖を進んで行きます。前途には色んな出来事が起こるでしょう。しかし、この舟は神の御心に導かれ、神の恵みの御支配のもとに進んで行きます。どんな自然的な脅威も悪魔的な攻撃も、この舟を損なうことはできません。神の守りの中で、神の御心に適った目的地に到達することができるのです。教会という私たちの舟が、そのような特別な舟、神の小羊を旗印に戴く特別な舟であることを、私たちは深く覚えたいと思います。

1月24日礼拝説教

ヤコブの手紙2章20~26節      2021年1月24日(日)
 「行動の中に具体化した信仰」 藤田 浩喜
 今日読んでいただいた聖書ヤコブの手紙2章26節において、ヤコブはこのように言っています。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」「行いを伴わない信仰は死んだものです。」大変はっきり、ズバッと言っています。これを聞いて皆さんは、どんな感想をお持ちになるでしょう。「確かに、信仰にとって行いは大切だ。しかし、行いがなければ信仰は死んだものとは、言い過ぎではないか。行いたくてもできないこともある。行い至上主義になってはいけない。」あるいはそれとは正反対に、こう思うこともあるでしょう。「マザー・テレサや石井十次といったキリスト者のことを考えると、自分はあまりにも愛の行いができていない。信仰が心の中だけのことになってしまっている。先人たちのように、もっと愛を行う人になりたい。」
 このように「信じること」と「行うこと」は、なかなか難しい問題です。この両者の関係をどう考えたらよいのでしょう。ある人は、パウロはこの関係を教理的に考え、ヤコブは実践的に考えたと言っています。以前にも申し上げましたように、使徒パウロもキリスト者の「行い」を大切なものと考えています。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)という彼の言葉を紹介しました。しかしパウロは、割礼や安息日厳守などの律法を守らなくては救われないという律法主義と戦っていました。もしそうならば、ユダヤの律法を守らない異邦人は救われないということになってしまいます。しかしパウロはその律法主義を否定し、人はイエス・キリストの十字架と復活を信じることによってのみ救われるという信仰義認を主張したのです。それによって、ユダヤの律法を守らない私たち異邦人にも救いがもたらされたのです。パウロはそのことを明確にしなくてはなりませんでした。だから信じることと行うことを分離して、救いにはただ信じることだけが必要だと述べたのです。しかしだからと言って、キリスト者に行い、特に隣人への愛が不必要というわけではありません。キリストによって救われた者は、その恵みへの喜ばしい応答として隣人への愛に生きるように促されます。だからキリスト者として、キリストの御後に従って生きる時に、愛を行うことが大切になってきます。パウロはそのように、信じることと行うことを段階的に考えているところがあるのです。理屈に適っているという意味で教理的なのです。
 一方ヤコブは、パウロより後の時代に生きています。ヤコブにおいても、人が救われるのはイエス・キリストの十字架と復活を信じることのみによることは変わりません。しかしヤコブは、信仰を信じることと行うことに分けて考えることに反対します。仮に教理としては正しくても、信じることと救いが直結しているため、どうしても行うことが軽んじられてしまいます。パウロの言うことを最後まで聞かないで、行いなしの信仰が存在するかのような誤解が生まれてしまいます。行うということが、信仰において大して意味を持たないかのように思い込んでしまします。プロテスタント教会には、そうした傾向があるように思います。それに対して、ヤコブは強烈な異議申し立てをしているのです。そもそも神さまを信仰するということは、信じることと行うことの両面から成り立っている。信じることは人を行うことへと駆り立てずにはおかない。反対に行うことによって、その人の信じていることが明らかにされ、より深く信じることへと導かれる。それは私たちも、経験的に感じていることではないでしょうか。ヤコブは信仰が、信じることと行うことの両面からなることを実践的、経験的に知っていました。それが見過ごされてはならないと、強く感じていました。だからこそ今日の21節でヤコブは、次のように言うのです。「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。」ヤコブは信じるだけで自己満足しているキリスト者を、嘆かわしく思っていたことが分かります。彼の信仰的な経験によれば、信じることだけで行いの伴わない信仰は、役に立たないだけでなく死んだものなのです。
◎そしてヤコブは、自分が確信していたことを、旧約聖書に登場する二人の人物を取り上げることで証明しようとしています。旧約聖書も信じることと行うことを、深く結びつけていたことを、明らかにしようとするのです。
 まずは「信仰の父」と呼ばれたアブラハムです。21~22節を読んでみます。「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」そのようにヤコブは語りまして、それに続く23節には、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という大変有名な言葉が語られるのです。
 この「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という言葉は、創世記に出てくる言葉です。しかし、イサクを祭壇に犠牲として捧げようとした創世記22章ではなく、少し前の15章に出てくるのです。この15章で主なる神は、子どものいないアブラハムに向かって、祝福を述べられます。そしてその祝福をあなたの子どもが受け継ぐことになると言われるのです。それだけでなく、主なる神はアブラハムを外に連れ出し、満天の星が輝く夜空を彼に仰がせます。そして言われるのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)。子どものないアブラハムは、その主の約束を信じます。心から受け入れます。そこに出てくるのが「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という御言葉なのです。確かにアブラハムは、主なる神の約束を信じることで義と認められたのです。
 しかしアブラハムの信仰は、主なる神の約束を受け入れるだけに留まることはありませんでした。創世記22章では、主なる神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい…彼を焼き尽くす献げ物としてささげない」とアブラハムに命じます。この戦慄すべき命令を受けたアブラハムの感情は、聖書の記事からほとんど読み取ることができません。出来事は淡々と進んで行きます。そして、アブラハムは、祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。そのまさにその時に、主なる神は御使いを通して介入され、次のように言われたのです。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ」(創世記22:12)。主なる神は、愛する我が子すら献げようとするアブラハムの行いをご覧になりました。その御言葉に従う行いを見て、彼が本当に神を畏れる者であることが分かったと、認めておられるのです。主なる神にとっても、人間の信仰は、心で信じることに終わるものではありません。主なる神も、信じていることが具体的な行いとなって現われ出ることを求めておられる。行いとして表してほしいと願われている。イサクを捧げる出来事は、そのことを教えてくれるのです。
◎もう一人の旧約聖書の人物は遊女のラハブです。今日の25節を読んでみましょう。「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。」この女性をめぐる出来事は、ヨシュア記2章に詳しく記されています。約束の地カナンに攻め込む準備のため、ヨシュアは密かに二人の斥候をエリコに送り込みます。斥候というのは偵察員・スパイのことです。二人はラハブという遊女の家に宿を取ります。ところがエリコも警戒していたのでしょう。偵察員が潜入したという情報が入り、エリコの王はそのスパイを捕まえるために、追っ手を放つのです。その追っ手は、遊女ラハブの家にもやって来ます。怪しい者がいるなら引き渡せと、迫ります。しかし、ラハブはそのような者は見かけたが、すでに町を出て行ったと、うその報告をします。彼らを見当違いの所に向かわせます。それだけでなく、斥候の二人を壁伝いに綱で家の窓からつり降ろし、追っ手に捕まらないための策を授けて、二人を無事に町から逃がしてやるのです。
 異邦人であり、エリコの住人であったラハブがどうして、イスラエル方の斥候をかばい、彼らを町から安全に逃がしたのか。どうして、自分の町に攻め込んで来るような者たちに味方したのか。聖書はその理由を、ラハブがイスラエルの神を、まことの神だと信じたからだと言うのです。ラハブは、イスラエルの主なる神が出エジプトの時、紅海の水を干上がらせたことを聞いていました。また、同じカナンの王たちであるアモリ人のシホンとオグを滅ぼし尽くしたことを聞いていました。そうしたことを聞いて、ラハブは次のように言うのです。「それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」(ヨシュア2:11)。ラハブは主なる神こそが、まことの神であり、この方の前では何人も立ち向かうことはできないと確信しました。天と地のすべてを治めておられることを確信しました。この方の御心であれば、エリコの王がどんなに抵抗しても、防ぐことはできません。そのことを確信したラハブは、ヨシュアたちが攻め込んで来た時、自分と家族に危害を加えないという交換条件で、二人の斥候をかくまい、逃がしたということだったのです。彼女は状況を的確に読める女性であり、二人の斥候を助けたのも自分とその家族の身を守るためではありました。しかし、そうではあっても、彼女はイスラエルの主なる神こそが、全地を治めるまことの神であることを信じました。そして信じたことが、その神の御心に仕えるために何をすべきかという行いへと、彼女を導いたのです。
主なる神こそが全地を治める神であると、私たちも信じています。しかしその信仰は、私たちの生き方や日々の生活の中で、どのような行いとなって結実しているでしょうか。主なる神は、ラハブがそうであったように、ご自身への信仰を具体的な行いとして表すことを、お喜びになります。異邦人であり、社会的に低く見られていた女性の勇敢な行為を、神は御心に仕えるものとして用い、イスラエル民族の記憶の中に深く刻んでくださったのです。信じることから促された行いを、それがどんなにささやかであっても、神は祝福し用いてくださるのです。
◎今日の箇所でもそうですが、ヤコブは信仰において信じることと行うことを切り離すことのないように、強く訴えています。行いが救いを生み出すということではありません。そうではなく、信じることと行うことは、私たち人間が生ける神を現実に体験する、切り離しがたい二つの面なのです。その両面があってこそ、信仰生活は、死んだものではなく、生きたもの、いのちに満ちたものになっていくのだと思います。「それを、どうしても知ってほしい!」そのヤコブの切実な訴えに、心から聴いていく私たちでありたいと思います。

1月17日礼拝説教

創世記47章18~26節             2021年1月17日(日)
「キリストによって買い取られた命」   藤田 浩喜
 中東世界を襲った飢饉は、収まる様子がありませんでした。ヤコブの一族が住んでいたカナン地方も同様でした。飢饉により食べる穀物が少しも獲れません。そこで、エジプトの総理大臣になっていたヨセフの勧めに従って、ヤコブの一族すべてが全財産をたずさえてエジプトにやって来たのでした。
 ヨセフは兄弟たちの内五人を選ぶと、エジプト王ファラオに謁見させます。ファラオは兄弟たちの願いを聞くと、エジプトのどこにでも住んでよいという許可を出し、有能な者はファラオの家畜の監督者に取り立てようと言います。そして、兄弟たちとは別の機会に、父ヤコブをエジプト王ファラオと謁見させるのです。
 その時のことです。ファラオの前に立ったヤコブは、「ファラオに祝福の言葉を述べた」(7節)です。エジプト王ファラオを祝福したというのです。片や大帝国エジプトの絶対的君主であるファラオです。中東世界の支配者とも言うべき存在です。片やカナン地方の牧畜を生業とする一部族の長にすぎないヤコブです。しかも今は、エジプト王に住まいや食料の援助を受けなければ、生きていくこともできません。その立場は比較することすらできません。ところが、ヤコブの方がファラオを祝福したというのです。祝福というと、より高い立場にある者がより低い者に与えるものという感じがします。しかし、ここでは立場的には圧倒的に低いヤコブが、エジプト王ファラオに祝福の言葉を述べているのです。
 ご承知のように主なる神は、アブラハムを召し出し、祝福して言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」(創世記12:2)。この主なる神の祝福は、その子イサクを通して、孫であるヤコブに受け継がれていました。ヤコブは今、祝福の源として、エジプト王ファラオを祝福しています。それによって「あなたの祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)という約束が成就するのです。
ヤコブは確かに地上にあっては今、エジプト王ファラオの庇護を受けなくてはならない者です。ファラオは主なる神の御心に沿って、ヤコブの一族に住居、食料、仕事を提供します。しかし、ヤコブは地上の権威を超えたお方の約束を与えられ、その約束のもとに生きています。彼は地上でどんな境遇に置かれても、神から与えられた祝福の源としての使命に生きています。だからこそ、この世で絶大な力を持つファラオの前でも堂々としており、その計らいに感謝しつつも、ファラオに祝福の言葉を述べることができたのです。
これは、私たちキリスト者の生き方にも通じるものです。私たちはキリスト者として、この祝福の系譜に連なっています。ヤコブと同じように私たちは、この世に生きる限り、様々なものをこの世に負っています。この世から受け取っています。食料、財産、仕事など。しかしこの世を超えた権威の下、この世を超えた約束の下に生きているがゆえに、この世で力あるものの前で卑屈にならず、時にそれに感謝しつつも、それを絶対化することなく生きていくことができるのです。
さて、今日司式者に読んでいただいた箇所は13節から始まりますが、「ヨセフの政策」という小見出しがついています。読まれてお分かりになったように、飢饉が一向に収まらない中で、エジプトの民が生きんがために、色々なものを穀物に換えていったことが記されています。最初はお金と引き換えに、総理大臣のヨセフから穀物をもらいました。その次に、エジプトの民は財産であった家畜を連れて来て家畜と引き換えに、穀物をもらいました。それでも飢饉は収まる様子はありません。そこでとうとうエジプトの民は、自分の持っている土地と自分自身を差し出すことで、ヨセフから穀物をもらうことができたのです。それは、彼らが土地共どもファラオの所有となり、ファラオの奴隷になるということでした。
ここの箇所を読まれて、あまりよい感じを受けなかった方もおられるでしょう。強大な力を持つ者が、弱い立場にある民の窮状を利用して、次々に彼らの持ち物を取り上げ、最後には民自身も奴隷にしてしまう。その巧妙さと冷徹さに、嫌悪感を抱く方もおられるに違いありません。聖書の学者たちによれば、これは当時のエジプト王が持っていた強大な権力(至上権)が、どのように形作られてきたか、その由来を語る物語(原因譚物語)であろうと言われています。ヨセフが非常に優秀な為政者であったので、ヨセフの政策によってこのようなエジプト王の強大な権力が確立していったのだと述べている。つまり、それができた原因を、ヨセフの政策と功績に帰そうとしているというのです。
それはともかく、聖書はこの13~26節の箇所を通して、どのようなメッセージを私たちに語ろうとしているのでしょう。キリスト教信仰は、ここに登場しているヨセフを、イエス・キリストの予型、イエス・キリストを指し示すような存在として考えてきました。ヨセフを後に現れる救い主イエス・キリストに準えることによって、聖書のメッセージを受け取ることができるのです。
まず第一に、私たちはエジプトの民が、自分の命を保つために自分の持ち物を全部携えて行き、奴隷となろうとしたことを知らされます。エジプトの民は、自分の持ち物にしがみついて死ぬよりも、すべてを捧げて必要なものをいただき、生きる方を選んだのです。彼らは命を保つためには、自分の持っているものを携えてヨセフのもとに行くべきだと知っていたのです。
このせっぱ詰まった状況の下で王の僕となる人々の経験から、私たちは神さまの僕となって命を与えられることを学びます。自分の持ち物や能力に依り頼んでいる人は死んで滅んでいきます。しかし、すべてを主イエスの御前に携えて行き、神さまの御支配の中に入れていただくなら、生きることができるのです。自分の小さな力やわずかな持ち物で何とかしようと思っても、活路は開かれません。思い煩いが深くなるばかりです。しかしそうではなく、私たちの持てる物を携えてとにかくイエス・キリストのもとに駆け込むなら、生きることができます。困難の中で生きていくために、必要なものが与えられるのです。
実際、23節以下には土地と共に奴隷となったエジプトの民のために、ヨセフが具体的な手立てを授けています。彼らはファラオの所有とはなりましたが、収穫の五分の一だけをファラオに納めるように言われました。あとの五分の四は、自分や家族の食料にしたり、種もみにすることができたのです。この二割の上納分は、驚くほどの低さです。バビロンの記録では四割、エレファンティネ島の記録では六割だったと言われます。日本の江戸時代でも年貢は五割が基本で、藩によっては六割というところもありました。確かにエジプトの民は土地共々ファラオの所有にはなりましたが、打ち続く飢饉の中にあっても、彼らは生きるための確実な手立てが与えられていたのです。
それと同じことが、持てる物を携えてイエス・キリストのもとに駆け込む私たちにも当てはまります。飢饉のような困難や試練は、相変わらず続いているかもしれません。状況はすぐに好転しないかも知れません。しかし、イエス・キリストは、その中で私たちが生き抜いていくために必要な手立てを示してくださいます。パウロが言うように、「試練と共に、それに耐えられるように、逃れる道をも備えていてくださるのです」(Ⅰコリント10:13)。
この箇所が語る二つ目のメッセージは、23節でヨセフがエジプトの民に言った言葉です。「よいか、お前たちは今日、農地とともにファラオに買い取られたのだ。」穀物という代金を払って、彼らが買い取られた。ファラオの持ち物になったということが宣言されているのです。今日このことに関わって読んでいただいたのは、コリントの信徒への手紙7章22~23節でした。もう一度読んでみましょう。新約聖書308ページです。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。」
ヨセフは穀物という代価を払って、エジプトの民をファラオの奴隷としました。ファラオの所有物となりました。しかし、ヨセフが指し示した救い主イエス・キリストは、キリストの死という身代金を払って、人を神のものとされました。神の所有とされたキリスト者は、神のご支配の下にあります。神の御心に服さなくてはなりません。キリストの奴隷となった以上、主人はイエス・キリストです。イエス・キリストが聖書を通して語られているように、キリスト者は生きていかなくてはなりません。もはや、自分勝手に生きることはできないのです。
しかし、それは本当に窮屈で不自由なことなのでしょうか。エミール・ブルンナーというドイツの著名な神学者は、「人間というのは立像(スタチュー)ではなく、浮彫(レリーフ)である」と言っています。つまり、何ものからも独立して自由に立っているのではなく、何かを背景に持ちながらそれに張り付いて生きているのが人間だというです。いつも何かに支配され、それに捕らわれて生きているのが人間の掛値のない姿だというのです。パウロは先ほどのⅠコリント7:23で「人の奴隷となってはいけません」と言っています。自分は自由だ、何ものからも独立していると思っていても、人の目の虜になっているかもしれません。お金や名誉や権力欲の奴隷になっているかも知れません。神に敵対するサタンや様々な偶像の奴隷になっているかも知れません。そういう私たちを、イエス・キリストが買い取って自分のものとしてくださった。私たちはイエス・キリストという背景を持たなくては、他の悪しき者を背景として生きていかなくてはなりません。私たちを利用し、滅ぼそうとするものに張り付いて、生きていかなくてはなりません。そうならないように、イエス・キリストはご自分の命を捧げて、私たちを買い取ってくださったのです。私たちを生かし、本当の自由を得させるために、そうされました。だからこそパウロは、「しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤ5:1)と、叫ぶように語るのです。
今日の説教の始めに語りましたように、アブラハムの約束を受け継ぐヤコブは、この世にあって、この世を超えた約束のもとに生きた人でした。彼はこの世で力ある者の前でも卑屈にならず、時にそれに感謝しつつも、威厳をもって生きることができました。彼は時の絶対的な権力者であるファラオもまた、主なる神のご支配の下にあることを知っており、彼に祝福の言葉を語ったのです。この約束は、私たち今日のキリスト者にも、イエス・キリストを通して受け継がれています。イエス・キリストに買い取られ、イエス・キリストの所有とされた私たちも、アブラハムやヤコブと同じように、この世を超えた約束のもとに、祝福を世にもたらす源として歩んでいくように、励まされているのです。この世にあってこの世を受け入れつつも、この世を超えたものに導かれて、神の祝福を持ち運ぶ者として用いられている。そこに、キリスト者として生きる私たちの歩みがあるのです。

1月10日礼拝説教

ヤコブの手紙2章14~19節          2021年1月10日(日)

「行いを伴う生きた信仰」  藤田 浩喜

 今日読んでいただいたヤコブの手紙2章15~16節で、著者ヤコブは実にショッキングな例を挙げています。実際にあったことか、ヤコブの創作かは分かりませんが、次のように言うのです。「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」「兄弟あるいは姉妹」というのは、教会で兄弟姉妹と呼び合う信仰仲間のことです。その信仰仲間が、着る物だけでなく食べる物にも困窮している。それを知っていながら、耳ざわりのよい言葉を掛けるだけで、必要な食べ物や着る物を何一つ提供しようとしないなら、困っている仲間には何の役にも立たたない。耳ざわりのよい言葉は、絵空事でしかありません。そこから分かるように、信仰を持っていると言っていても、行いが伴わなければ、絵空事に過ぎないし、何の役にも立たないと言うのです。

 特にここの言葉「安心して行きなさい」は、人々が分かれる際に交わされるあいさつであると同時に、当時の教会において、礼拝の最後に語られる祝福の言葉でもあったと言われています。本来、礼拝から遣わされて世に出て行く人に、守りと平安を祈る祝福の言葉が、中身のない、わざとらしい、絵空事の言葉になっているのです。しかし、このような言葉を、信仰を持っていると言う私たちキリスト者も使っていることがありはしないか。空々しい言葉を掛けるだけで、兄弟姉妹にとって実際の助けとなる行いがどれだけできているのか。この例話は、私たち信仰者の心に鋭く迫って来るのです。

 

 そもそも今日の箇所で著者ヤコブが言わんとしていることは、一体何でしょう? 彼は「人は信仰のみによって救われる」という信仰義認を否定しているのではありません。「信仰」と「行い」を二者択一的に並べて、「行い」こそ選ぶべきだと言っているのではありません。新約聖書学者たちは、ヤコブがパウロのことを知っており、ローマの信徒への手紙の内容も知っていたと言います。

 ご承知のように使徒パウロは、「行い」による救いを否定し、人は「信仰によってのみ」救われると主張しました。人がどんなに善い行いを積み重ねても、救いを生み出すことも、救いに到達することもできません。主イエス・キリストが十字架と復活によって私たちの罪を贖い、神と私たちを和解させてくださった。そのことを信じることによってのみ、私たちは救われるのです。

 しかし、パウロは手紙においてそのような救いの教理を語った後で、キリスト者がどのように生きるべきかという実践的な勧告を、必ずと言ってよいほど語ります。キリスト者にとって、御心に適った生活をすることや隣人に愛を行うことがいかに大切かを丁寧に教えています。ガラテヤの信徒への手紙5章6節では、「…愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と言っています。パウロは、救われた信仰者がキリストの愛に根ざした愛の行いに生きることを、強く勧めているのです。人が救われるために行いは必要ありません。しかし、救われたキリスト者が、信仰をもって生きるということの中に、愛の行いは不可欠なのです。限りなく愛してくださる神さまに応答して、私たちも隣人への愛を行っていくこと。それが私たち信仰者にとって、聖化の道を歩んでいくということなのです。

 ところが使徒パウロの健全な信仰を誤解して、「信仰」と「行い」を分けて考える人たちが現れました。イエス・キリストの救いを信じることだけが大切で、行いには何の意味もない。それは行いによって救われようとする「行為義認」である。「信仰だけあれば十分なんだ。」そういうパウロの健全な信仰を誤解したキリスト者たちが、ヤコブの手紙の宛て先教会にもいたようです。ヤコブはそのような人たちの考えを糾し、彼らを健全な信仰理解に連れ戻すために、今日の言葉を強い口調で語っているのです。三つのことを聞いていきましょう。

 まず、ヤコブの手紙がここで言っていることは、「耳ざわりのよい言葉を語る感情に酔うな」ということです。冒頭に取り上げた言葉の中で、貧しい兄弟姉妹に語りかけた信仰者は、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言っています。この人は恐らく、心からそう思って声を掛けているのでしょう。着る物や食べ物に困っている信仰仲間に、具体的な援助を行うということには全く思い至りませんが、そういう信仰者らしい言葉を掛けている自分の気持ちに酔っているのです。これは他人事ではありません。私たちはしばしば「あなたのことを祈っていますからね」と、信仰仲間に言葉を掛けます。実際にその日から、その友のために祈り始める人もいるでしょう。しかし、「あなたのことを祈っていますからね」と言えたことに満足して、実際には祈らなかったということもあるのではないでしょうか。信仰仲間が置かれた状況に共感し、感情が動かされ、その人のためを思う言葉が口をついて出てくる。そんな自分であることに満足して、そこで止まってしまうのです。

 こうした人について、ウィリアム・バークレーという注解者は次のように言っています。「いつも、すばらしい感情にひたっているだけの人は、その感情領域を出て行動にあらわすことはない、ということはよく経験する事実である。ある意味で、人は少なくとも憐れみと同情を行動に移すのでなければ、憐みとか同情を感じる権利をもつことはできないと言える。感情とはそれをもてあそぶものではない。それは努力と苦労と規律と犠牲という代価を払って、人生という織物におりこまねばならないものである。」聴くべき言葉ではないでしょうか。

 二番目にヤコブが言っているのは、信仰を行いによって示しなさいということです。18節を読んでみます。「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」この18節の前半は難解で、色んな読み方が提案されてきました。ヤコブが言っていることと、ヤコブが批判している人の言葉があべこべではないかとも感じます。そこで、日本におけるヤコブの手紙の第一人者である新約学者は、ここを次のように訳しています。「だが、ある人は言うだろう、『君は信仰を持っているのか?』ならば私は[言おう]、私は行いを持っている、と。行いなしで君の信仰を私に見せてくれ。そうしたら私は、行いによって私の信仰を君に見せよう。」批判されている者の言葉を、「君は信仰を持っているのか?」という疑問文一文だけとすることで、ヤコブの論旨が明快になっています。いずれにしてもヤコブにとって、信仰は信仰だけで独立したものではありません。信仰は行いとなって現われてくるものなのです。信仰はその人の心の中にあって見えないものです。しかし、その人が信仰によって生み出す行いを見て、周囲の人々はその人の中に確かな信仰が宿っていることを知るのです。

 主イエスはマタイによる福音書7章15節以下で、「良い木はその実によって分かる」と言っておられます。私たちはキリスト教信仰が良いものであり、人を救うものであることを、家族や周囲の人たちに分かってほしいと、願っています。そのキリスト教信仰の良さ、素晴らしさは、言葉による説明や説得ではなかなか伝わりません。それも必要ですが、イエス・キリストの愛に照らされ、押し出されて行う、私たちの日々の行いや生きる姿勢といったものを通して、周囲の人々はキリスト教信仰の素晴らしさを感じるのではないでしょうか。もちろん立派なあなたを見せなさいということではありません。背伸びをすることでもありません。心から依り頼めるお方と共に、人生を歩んでいける。自分には心から自分を愛してくださる方がいてくださる。その嬉しい思いが、小さな行いや態度を通して伝わっていくよう、祈りつつ努めればそれでよいのです。それで十分なのです。

 第三番目のことは、知識や概念だけの信仰は、死んだものであり、人を生かさないということです。19節にはこう言われています。「あなたがたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」ここで「神は唯一だ」ということが出てくるのは、唐突だと思われるかも知れません。これは、旧約聖書時代以来のイスラエルの人たちが唱え続けた正統的な信仰告白、信条、また信仰箇条でした。しかし、そのように信仰を告白するだけなら、悪霊でもしているというのです。いくらそのことを知っていても、生活が変わらなければ悪霊と同じだというのです。やがて滅ぼされてしまう悪霊と変わらない境遇にあるのです。それとは反対に、信仰から出てくる行いによって生活は変わり、毎日が生きたものになっていくのです。自分の生活だけではありません。日々関わっている家族や周りの人たちにも、いのちの息吹が及んでいくのです。

 

 今日の説教の最初に、行いの伴わない信仰者が信仰仲間に掛けている言葉として、「安心して行きなさい」という言葉が語られていました。実はこの言葉を、主イエスもしばしば、弱い立場にある人や病を癒された人に向かってお掛けになったのです。マルコによる福音書5章21節以下に、主イエスが12年間も出血の病に苦しんでいた女性を癒された記事があります。その癒しは、主イエスがご自分の意志でなさったものではありませんでした。「この方の服にでも触れればいやしていただける」という女性の信心に応えるように、主イエスの内から出て行った力によってなされたものでした。いずれにせよ、女性の長年の病は癒されたのです。そして、主イエスはそのまま彼女を、その場から去らせはしませんでした。群衆のひしめく中でしたが、主は触れた者を見つけようと辺りを見回されました。そして、おずおずと名乗り出た女性に向かって、この言葉を掛けられたのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」(34節)。主イエスは、ここで実際に、この女性の病の苦しみを解決されて、この言葉を語っておられます。この言葉にふさわしい事柄が、実際に主イエスによってなされています。そしてそこから、病の苦しみから解放された、この女性の新しいいのちが始まっていったのです。これまでの日々とは違う、喜びの歩みが始まっていったのです。「安心して行きなさい」と言うだけでなく、その言葉にふさわしい信仰の行いがなされていく。それはどんなにささやかな行いであっても、主イエスの与えてくださるいのちの息吹を持ち運んでいくことなのです。たとえ、その行いが小さな祈りであったとしても、主はその行いを豊かに祝し、いのちの息吹をもたらしてくださるのです。そのことを心に刻んで、今日からの新しい一週間を過ごしてまいりましょう。

2021年 1月3日礼拝説教

ルカによる福音書2章41~52節 2021年1月3日(日)
「父の家にいます主イエス」  藤田 浩喜
 今日は1月3日(日)のお正月です。例年ですと、神社にたくさんの人たちが初詣に訪れます。今年はコロナ禍のせいで、分散して参拝するよう呼びかけられています。いずれにしても日本人の多くは、お正月に初詣に出かけ、思いのこもった願いを捧げます。けれども、神社との関りは一年に一度だけ、という人も多いのではないでしょうか。

 さて、今日司式者に読んでいただいた聖書でも、ヨセフとマリア、12歳のイエスが、エルサレム神殿に詣でています。旧約の律法によれば、「律法の子(パル・ミツヴァー)」と呼ばれる成人男子は、年に3回エルサレム神殿を詣でるように定められていました。過越しの祭、五旬祭、仮庵の祭の時でした。ヨセフとマリアの夫婦はこの律法の定めを熱心に守っていたようです。そして、この過越しの祭の時にも、ナザレから100キロの道のりを旅して、エルサレムまで上って来たのでした。
 息子のイエスは12歳で、来年には律法の定める成人になります。そのこともあって、息子のイエスにも宮詣の経験をさせようとエルサレムに連れてきたのでしょう。一行は祭の期間中何日かエルサレムに滞在し、神殿にも参り、その後帰路についたのでした。
 ところがナザレに向けて一日進んだところで、マリアとヨセフは息子のイエスが、旅の一行にいないことに気づくのです。当時、エルサレム詣では村単位、町単位で行われていました。大勢の人たちが男組、女組に別れて、その日の集合地点まで旅をしていました。ヨセフは息子イエスが母と一緒にいるだろうと思い、マリアの方は息子が父と一緒だと思っていたのでしょう。集合地点で落ち合うと、父母のどちらとも一緒に来ていない。どこにもいない。これは大変だということで、ヨセフとマリアの夫婦は親せきや知り合いの人に尋ねながら、息子イエスを探して、エルサレムへの道を戻って行ったのです。12歳の成人間近とは言え、まだ子どもです。二人は気が気でない思いで、必死に息子を探しながら、来た道を戻って行きました。

 そして、息子の姿が見えなくなって三日後のことです。マリアとヨセフはとうとう都エルサレムまで戻ってきました。ひよっとしてと思って、エルサレム神殿に行きました。すると、そこに息子イエスがいたのです。46節以下の所です。「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの受け答えに驚いていた」。過ぎ越しの祭の期間、神殿の境内では律法学者や信仰熱心な人たちが、神の教えである律法について学び合う機会が設けられていたようです。日頃疑問に思っていることについて、律法の先生に教えを請うたり、自分の考えを述べる機会になっていたようです。今日で言えば、公開学習会といったところでしょうか。その場の真ん中に12歳の少年が座り、律法について話を聞いたり、質問をしたりしていたと言うのです。勿論、後の主イエスのように、人々に教えを述べていたというのではないようです。しかし、律法学者や信仰熱心な大人たちに交じって、対等に受け答えをしていた。熱心に語られることに耳を傾け、的を得た質問をしていた。人々はイエスの賢い受け答えに、驚き、感心していたのでした。
 その場面を目撃したマリアとヨセフは、驚きます。12歳のまだ子どもでしかない息子が大人たちに交じって、対等に受け答えをしているなど、想像もつかなかったからです。しかし、していることはともかく、何の断りもなしに旅の集団から離れて、単独行動をしたことは許されることではありません。マリアは少しきつい口調で、こう声をかけたのでした。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです」(48節)。私たちがマリアの立場であれば、もっときつく叱りつけたに違いありません。三日間も行方知れずの息子を見つけたのですから、親としては当然のことです。
 しかし、それに対する少年イエスの答えは、父母のまったく虚を突くような、思いも寄らないものだったのです。49節です。「すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか』」。エルサレム神殿を、「自分の父の家」だと言っている。父の家とは、ナザレのヨセフの家ではないのか。この子は何を言っているのだろう。マリアとヨセフは、イエスの言っている言葉の意味が分かりませんでした。しかし、行方知れずの息子が見つかったことには違いありません。父と母は息子を伴って、ナザレへと帰って行ったのでした。母マリアも、息子が何を言おうとしたのかは、分かりませんでした。しかしそれでも、ベツレヘムで羊飼いの礼拝を受けた時と同じように、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(51節)のでした。

 12歳の少年イエスは、神殿の境内の真ん中に座りながら、マリアとヨセフに言いました。「…わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)。この言葉は、ヨセフではなくて、父なる神こそが自分の父であると表明した言葉です。少年イエスは、自分が神の子であり、子である以上、父なる神の家である神殿にいることは当たり前であると、述べているのです。これまで、羊飼いたちに現れた天の御使いが、イエスは神の御子であると伝えました。羊飼いたち、シメオンや女預言者アンナも、幼子イエスが神の子であると証ししました。そして、ここでは少年イエスご自身が、自分は神の子であると、自ら述べているのです。そして皆さまがご存じの通り、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、父なる神ご自身がそのことを証しされるのです。イエスが洗礼を受けて祈っておられると「…『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」(3:21)のでした。そのように、主イエスは神の御子であられますから、本来、父である神の家、すなわちエルサレム神殿におられるのが、当然なのです。そこが本来、おられるべき場所なのです。
 しかし、「自分の父の家にいるのは当たり前」なのは、神の独り子イエス・キリストだけではありません。主の功(いさお)しにより神の子として頂いたキリスト者にとってもそうなのです。私たちには肉の父親がおり、その父の家に住んでいる者たちです。しかし、私たちはイエス・キリストが兄弟姉妹となってくださったゆえに、神の子として頂きました。そのようなキリスト者は何よりも神さまに属する者であり、父なる神がおられる所を本来の居場所としなくてはなりません。
後に偉大な預言者となったサムエルは、母ハンナによって神に捧げられ、祭司エリに預けられ、エルサレム神殿で寝起きしました。私たちキリスト者も、肉体の上では別の所に住んでいても、信仰的・霊的には神の宮である教会を住まいとしていなくてはなりません。自分の父の家にいるのが当たり前なのが、神の子として頂いた者たちのあり方なのです。
 もちろん、肉の父親よりも真の父である神を優先するあり方は、肉の父親や家族たちと緊張関係をもたらすことがあります。「なぜ、こんなことをしてくれたのです」と叱責を浴びることもあるでしょう。また、「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」とあるように、自分の考えや生き方を理解してもらえないということも起こり得ます。イエス・キリストが神の国を宣べ伝え、力ある業を行っておられると、母や兄弟たちは主イエスが正気ではない思い、連れ戻しに来たということもありました。そのように子として天の父に属する者になることは、肉親との間に波紋を引き起こすことがあります。しかし、それを恐れたり、尻込みしたりしてはなりません。このこともまた、真の人となり給うイエス・キリストがすでに経験してくださったことです。主イエスはそのような私たちを、「わたしの母、わたしの兄弟(姉妹)」(ルカ8:21)と呼んでくださるのです。
 また、このことに関わって、今日の52節は大切な示唆を与えてくれます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」。少年イエスは、自分の父の家だからと言って、両親の手を振り切って神殿に留まり続けたのではありませんでした。少年イエスは、両親と共に家族の住むナザレに帰ります。そして公生涯を始めるまでの18年間、両親に従順に仕え、家族を支える大黒柱として家族の面倒を見ました。イエスさまにとって、父なる神さまとの関係は変わりませんでした。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」ということに、何の変化も変更もありませんでした。しかし、そうした神さまへのより高い愛と従順の中で、家族に対する愛と従順も豊かに育まれていったのです。その二つは時として一時的に緊張関係を孕むことがあるかもしれませんが、神さまに対する愛と従順を貫く中で、家族に対する愛と従順が本当に真実な形で実現していくのです。
 少年イエスは「背丈も伸び」ましたが、「知恵が増し」ました。この「知恵」は単なる知識でも、世渡り上手の才覚でもありません。それは宗教的な洞察であり、人が生きていく上で最も大切な示唆を与えるものです。また「神と人とに愛された」とあります。神さまを父として生きていくということが、神に愛されるだけでなく、人にも愛されるということに繋がっていくのです。天の父を真の父とし、そこに自分のいるべき場所を定めるというのは、肉にある父親や家族を蔑ろにしてしまうように感じるかも知れません。何か冷たい態度のように思うかもしれません。しかし、そうではないのです。家族の間にある愛と従順は、神さまに対するより高い愛と従順の下で、豊かに育まれていきます。そのより高い愛と従順の中に身を置くことによって、自分の家族を神さまの御心に適う仕方で、受け容れ、愛していくことができるのです。肉親の甘えやエゴイズム、人間の損得勘定ではありません。神さまが私たちを愛し慈しんでくださっているように、神さまの愛の中で、肉親の家族との関係を受け取り直していくことができるのです。

 私たちキリスト者は、年に一度宮に詣でるのではありません。神の宮であり、キリストの体である教会にいることが、当たり前のあり方です。私たちは主の日ごとに教会に集まり、神に礼拝を捧げ、祈りと賛美の声を挙げます。一年の間、神さまを覚え、神さまと共に歩ませていただくのです。この一年も、そのような月日を、皆さまとご一緒に歩んでまいりたいと思います。

12月27日礼拝説教

ルカによる福音書2章25~35節     2020年12月27日(日)

「救い主を抱きしめて」   藤田 浩喜

 先ほど司式長老に読んでいただいた聖書の箇所は、クリスマスの後日譚とも言うべき所です。御子イエスは生まれて8日目に割礼を受け、正式にイエスと名付けられました。割礼は男の子が神の民イスラエルに属する「しるし」であり、イエスという名は生まれる前に天使から示された名前でした。それから33日後、ヨセフとマリアは赤ちゃんを連れて、エルサレム神殿にやって来ました。それは生まれた赤ちゃんを神さまに献げ、再び神さまから受け取る儀式に参加するためでした。ヨセフとマリアは貧しかったので、神さまから子どもを受け取る贖いのいけにえとして、山鳩一つがいか家鳩の雛二羽を神さまに献げたのでした。

 その神殿に来たヨセフとマリア、何より幼子イエスとまみえた人がいました。それはシメオンとアンナという人でした。大事なことの証人は、一人ではなく二人いなくてはならないとされていました。だから二人の人が、幼子イエスとまみえたのでしょう。二人には違ったところがありました。一人は男で、一人は女です。シメオンについてどういう人であったかそのプロフィールは分かりませんが、アンナについては結婚後7年で夫と死別したとか、今84歳であるとかプロフィールが分かります。しかし、二人には共通したところがありました。それは二人とも高齢であったということです。シメオンについては年齢は記されていません。しかし2章29節の「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉から、シメオンも高齢であると昔から考えられてきました。

 

 まず、シメオンについてですが、あらためて彼はどういう人だったのでしょう。25~26節を読んでみましょう。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」そして「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき」(27節)、いけにえを献げに来ていたヨセフとマリア、幼子イエスと遭遇したのでした。

 シメオンが、どこに住み、どんな仕事をしていたか、家族はどうだったかなどは、少しも記されていません。特別な地位にある人でも、神殿に仕える聖職者でもなく、信仰をもった一庶民であったということかも知れません。しかし、ここを読んでいて気づかされるのは、「聖霊」や「霊」という言葉が3回も使われているということです。「聖霊が彼にとどまっていた」(25節)、「お告げを聖霊から受けていた」(26節)、「“霊”に導かれて神殿の境内に入って来た」(27節)とあります。ここから察するに、シメオンという信仰者は「神の御心を悟る賜物を持った」信仰者だったのではないでしょうか。「神の御心が何であるか」を、他の人よりも深く敏感に悟ることのできる人が、シメオンであったのではないかと思うのです。勿論それは、神さまが彼に「聖霊」を通して示されたのです。

 シメオンが「聖霊」を通して示された御心は、実に驚くべきものであり、人知では計り知れない深いものでした。まず、彼には「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(26節)という御心が示されていました。その御心通りに、シメオンはエルサレム神殿で、救い主なる御子イエスに出会うことができたのです。そして、彼は幼子イエスを胸に抱きながら、このお方がどのような救いを成し遂げるお方であるかを、語ります。31~32節「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」シメオンは示された御心によって、救い主イエスが、イスラエルだけでない、全世界の異邦人にも救いをもたらす方であることを語るのです。また、34節以下を見ますと、主イエスが長じて救い主の働きを始められたとき、どのようなことが起こるのか、そして主イエスがどのような最後を遂げるのかまでも、正確に見通しているのです。救い主イエスのお働きによって、主に敵対する者も現れるが、主によって苦しみから立ち上がる者も多く現れる。そして、最後には人間の罪をすべて背負って、十字架の死を遂げられる。その時には、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と予告します。シメオンは母マリアが、主イエスの十字架の目撃者となることを、予告しているのです。

 そのように、神の御心を深く敏感に悟ることのできたシメオンでした。しかしだからこそ、それに伴う労苦もあります。彼は「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいました。彼は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と示されていました。シメオンは神の御心を深く敏感に悟る人であったために、いつも将来に目を凝らしていました。援軍の到来を待つ見張人のように、緊張感をもって救い主を待ち望んでいました。周囲に救い主について希望を失っている者がいれば、「元気を出しなさい。救い主はかならず来られるから!」と励まし続けていたに違いありません。それは決して、簡単なことではなかったでしょう。御心を知らされた者にしか分からない、苦労や忍耐があったに違いありません。

 しかし、待ち続けていた救い主とお会いすることができ、そのお方を腕に抱くことができた。やっとお目にかかることができた。その時にシメオンは、あの有名な言葉を語るのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(29節)。この言葉は、「救い主をこの目で見ることができたので、安らかに生涯を終えることができます」という意味でしょう。しかしそれと同時に注解者たちは、ここの「主」が神を表わす「キュリオス」ではなく、いわゆる「家の主人」を表わす「デスポテース」という言葉が使われ、「去らせる」も僕をその務めに「留めおくことなく自由にさせる」という言葉が使われていると指摘しています。つまり、長年果たしてきた僕としての仕事・役割から自由にされるという意味も、そこにはあるのです。神の御心を深く知らされた者は、その御心に生き続ける使命があります。挫けることなく、その御心の実現を待ち望み、その御心を周囲の人たちに伝え続けていく使命があります。シメオンは救い主イエスにお会いして、その重大な務めから解放されたと、安堵の思いを言い表してもいるのです。

 シメオンは特別な賜物を与えられた人でしたが、私たち現代を生きるキリスト者も聖霊を与えられ、聖霊に導かれています。そして、シメオンがそうであったように、神の御心をイエス・キリストを通して示されています。その御心の最大のものは、クリスマスに神の御子が到来され、十字架と復活によって人間の罪を贖い、死に打ち勝ってくださったということです。そして、終わりの日にもう一度主イエスが到来され、この世界の救いを完成してくださるということです。その神さまの御心を私たちは信じ、その日の到来を待ち望みつつ、この世に福音を語り続けているのです。それは、21世紀の日本に生きる私たちにとって、簡単なことではありません。世の無理解や反発を受けながら伝道していくのです。

 先週の祈祷会で、奨励してくださった長老が興味深いお話を野球になぞらえてしてくださいました。クリスチャンチームとこの世チームが、試合をしています。9回裏2アウト、イエス様がバッターボックスに立ち、さよならホームランを打ってくださいました。白球は確かにフェンスを越えていきました。クリスチャンチームは勝利を確信します。ところがこの世チームには、イエス様のホームランは見えていません。試合が終わったことは認めません。そこで、そのまま延長戦に突入し、クリスチャンチームは防戦一方の戦いを続けている。いつ終わるか分からない、厳しい試合が続いていると言うのです。「なるほど」と思いました。イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、決定的な勝利がもたらされました。しかし、それは世の多くの人たちが認めるには至ってはいません。端(なな)からバカにする人もいます。しかし、御心を示されたキリスト者は、終わりの日を待ち望みつつ、緊張感をもって福音を語り続けていくのです。神さまがその務めを解いてくださるその日まで、神さまの御心に仕え続けていくのです。

 

 さて、神殿で幼子主イエスにまみえたもう一人の人は、女預言者アンナという人でした。この人については先に申し上げたように、かなり詳しくプロフィールが記されています。彼女は結婚しましたが、わずか7年で夫と死別しました。10代の後半が結婚年齢であったとすると、20代半ばでやもめとなったことになります。それから約60年の間、女一人で人生を生き抜いてきたのでした。夫との死別後のアンナの生涯がどのようなものであったかは、分かりません。女預言者という務めが、職業として成り立ったのかどうかも不明です。しかし、確実なことは、彼女が神殿での信仰生活を、どれだけ生きる拠り所としていたかです。「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」(37節)とあります。若い日の夫との死別という悲劇に見舞われたアンナは、神殿を拠り所とし、神さまから決して離れようとはしませんでした。礼拝をし、断食と祈りを欠かしませんでした。そのアンナに、神さまは思いもよらない恵みを与えられました。彼女はイスラエルが待ち望んだ救い主イエスさまとお会いし、そのことを周囲の信仰者たちに伝えることができたのです。預言者にとって、救い主の誕生を伝えることほど、誉れある大きな務めはありません。信仰生活を生きる拠り所として生涯を過ごしたアンナに、神さまは大いなる祝福を与えられたのです。

 私たち現代の信仰者も、人生で色んな出来事に見舞われたことをきっかけに、教会の門をくぐることになった方たちが多いと思います。人生には予想もしないことが起こります。心を刺し通されるような悲しみもあります。しかし神さまは、傷ついて御翼の陰に避難して来る者たちを、あたたかく抱きしめてくださいます。その者を癒し、養い、育ててくださいます。そしてアンナがそうであったように、新しい使命に喜びをもって、生きることができるようにしてくださるのです。

 

 今日はクリスマス物語の後日談として、シメオンとアンナが幼子イエスとお会いしたところを読みました。二人に共通していたのは、共に高齢であったということです。二人には違ったところがありましたが、いずれもその信仰の生涯を神さまの守りと導きのうちに過ごしたことは確かです。神さまが与えてくださる務めに生きたのです。それは簡単なことではなかったでしょう。しかし神さまはその生涯の最晩年に救い主と見える機会を与えてくださり、彼らの人生を満たしてくださったのです。「わたしは主なる神にあって生涯を全うした!」と感謝と共に人生を振り返ることができたのです。そのような祝福に満たされた人生を、神さまは一人一人に用意してくださっています。そのような主にある人生を歩む決意を、一年を終えるに当って心に刻みたいと思います。

12月24日讃美礼拝

ルカによる福音書2章1~12節       2020年12月24日(木)

 「クリスマス ―闇の中の光―」    藤田 浩                       

 タイの難民収容所での小さな、しかし偉大な出来事を紹介します。ひとりの衰弱し切ってひと言も口にせず、空(くう)を見つめたままの子がいました。病気をいくつか持っていたし、食べ物も受け付けませんでした。医師団は打てるだけ手を打った後、サジを投げました。「衰弱して死んでいくだけしか残っていない。可哀想に……。」子は薬も流動食も受け付けませんでした。

 ピーターというアメリカ人の青年が、テントで働いていましたが、医師がサジを投げたその時から、その子を抱いて座りました。二日二晩、全身を蚊に刺されても動かず、子を抱き続けました。三日目に反応が出ました。ピーターの眼をじっと見て、その子が笑いました!「自分を愛してくれる人がいた。自分を大事に思い、全身で受け容れてくれる人がいた。自分は誰にとってもどうでもいい存在ではなかった……。」

 ピーターは泣きました。喜びと感謝のあまりに。泣きつつ勇気づけられました。子は食べました。薬も飲みはじめました。絶望が希望にとって代わられたとき、子は生きはじめたのです。子の心には、自分を愛してくれる人がいるという、希望の光が灯ったのです。

 

 今日司会者の方に朗読していただいた聖書には、前半に御子イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で誕生されたことが、後半にはその誕生を知らされた羊飼いたちのことが記されています。

 羊飼いと言えば、イスラエル史上最高の王であったダビデも、元は羊飼いでした。また、神さまと神の民イスラエルの関係で言えば、神は羊飼いのようにイスラエルを養い、導かれました。神さまは羊飼いにたとえられたのです。そのような羊飼いでしたが、御子イエス・キリストが誕生された時代、羊飼いというのは人々から軽んじられていました。

家畜の世話に休日はありませんから、安息日の礼拝を守ることはできません。餌場を求めて各地を移動しなくてはならないので、落ち着いて暮らすこともできません。そのため、徴税人や犯罪者、売春婦と同様、裁判の証人にはなれない人たちだったのです。ユダヤの社会の中で周辺へと追いやられていたのです。それに加えて、家畜の世話をするこの仕事は重労働でした。羊が自分の財産であれば張り合いもありますが、大半は安い労賃で働く雇われ羊飼いだったのです。

 そのように、彼らの周りには闇が取り囲んでいました。闇に囲まれた羊飼いたちの心も、明るいものではなかったに違いありません。昔からイスラエルでは、神の民を救うメシア(救い主)の到来が待ち望まれていました。その救い主が自分たちを困難な状況から助けてくれると信じていました。しかし、人として一人前に扱われていない彼らは、自分たちには関係ないことだと考えていたに違いありません。ユダヤの同胞たちから相手にされない自分たちが、神さまから相手にされるはずなどない。彼らの心は暗く閉ざされていたのです。

 ところがどうでしょう。羊飼いたちが夜野宿をして羊の番をしていると、主の栄光が辺り一面を照らし、主の天使が彼らに近づきました。そして天使は、このように告げたのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(1012節)。「民全体に与えられる大きな喜び」であれば、本来国を代表するヘロデ王や祭司長に伝えられるべきものです。しかし、それが社会で軽んじられていた羊飼いたちに、まず伝えられたのです。そして、「あなたがたのために」と言われています。羊飼いたちは蚊帳の外に置かれてはいませんでした。それどころか、救い主は、羊飼いたちのような、貧しき者、軽んじられた者、苦しめる者のためにお生まれになったと言われます。そして救い主がそのようなお方であることのしるしが示されます。そのしるしは、この方が「馬小屋の飼い葉桶の中に寝ている」ことだと告げられたのです。

 彼らは思いも寄らないことを告げられて、びっくり仰天したに違いありません。しかし、それはうれしい驚きでした。彼らは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、出発します。不思議な力が彼らを導いてくれたのでしょう。羊飼いたちは、御使いの告げた通り、マリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子に、見えることができたのでした。すべてが、主の天使が告げてくれた通りでした。羊飼いたちはどんなに嬉しかったでしょう。自分たちのことなど相手にされるはずがないと思っていた神さまが、誰よりも先に救い主の誕生を知らせてくださった。その救い主は、御使いを通して示された通りのお方だった。人は裏切ることがあっても、神さまは決して裏切ることはなさらない。羊飼いたちは、このとき自分たちを心から愛する神さまに、本当の意味で出会うことができたのです。彼らの闇に閉ざされた心に、大いなる光が輝いたのです。彼らは喜びのあまり、御子イエスについて天使から聞いたことを、周りの人々に話さずにはおれませんでした。

 彼らの喜びは、20節の言葉からも分かります。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」羊飼いたちは、これまで神さまをあがめ、賛美することなどほとんどなかったに違いありません。神さまのことを話題にすることすら、稀ではなかったかと思います。ところがそのような彼らが、神さまをあがめ、神さまを褒め称える賛美歌を歌いながら、自分たちの場所へ帰って行ったのです。

聖書には色んな奇跡や力ある御業が出てきますが、それよりも更に注目すべきことは、御子イエスと出会った人たちの生き方が変えられていったことです。ペトロやヨハネなどの弟子たち、盲人バルテマイ、重い皮膚病を治してもらったサマリヤ人、徴税人のかしらザアカイなど、何人もの人たちを挙げることができます。そして、今日登場している羊飼いたちも、神をあがめ、賛美する人生を歩む人へと変えられたのです。彼らが帰って行く場所は、以前いた場所と同じであるかもしれません。羊飼いとしての労苦の多い日々が、彼らを待っているかも知れません。しかし、彼らがこれから歩む人生は、以前と同じではありません。彼らがあがめ、賛美を捧げるお方が、共にいてくださるのです。彼らを愛し、どんなことがあっても、彼らを懐に抱いて離さない方が自分にはいる。人が自分を裏切るようなことがあっても、この方は決して裏切られることはない。神さまは必ず、約束を果たしてくださる。そのような希望の光が、彼らの心に輝きました。これが、世界で最初のクリスマスの出来事だったのです。

 

 現代を生きる私たちの守っているクリスマスは、光に満ち溢れています。色とりどりのまばゆい光が、町を、商業施設を、家々を照らし出しています。しかし私たちの心の中は、どうでしょう? 明るい光に照らされているでしょうか? ひょっとしたら、周りのまばゆすぎる光とは対照的に、私たちの心は暗さに覆われてはいないでしょうか? コロナ禍のもたらす不安も加わります。闇がますます、私たちの心を覆い尽くそうとしているのではないでしょうか?

 しかし、クリスマスは羊飼いたちが経験したように、私たちの心に神さまからの大いなる光が投ぜられた日です。神の独り子が「わたしたちのために」、わたしたちの救い主として、誕生してくださったのです。そして、この光は私たちがどのような暗い闇に覆われたとしても、私たちの心を照らし続けるのです。そして闇は、光に打ち勝つことはできないのです。希望といのちを私たちに与え給う光なる御子イエス・キリストを、私たちの心にお迎えしたいと思います。

12月20日の礼拝説教

マタイによる福音書1章18~25節       2020年12月20日(日)
「神は我々と共におられる」    藤田 浩喜
 イギリスの作家デッケンズの『クリスマス・キャロル』という小説を皆さんご存知のことと思います。ケチで高齢の高利貸しスクルージに、かつての同僚マーレイと過去・現在・未来の「精霊」が、夜寝ている時に現れます。この「精霊」は精神の精と霊と書きます。この「精霊」はスクルージに、今の金儲けしか頭にない生活をあらため、慈善、情け、寛容、思いやりを実現する生活をするように諭します。そして、スクルージに過去・現在・未来の場面を見せるのです。
この「精霊」は原語では、大文字のGhostという言葉が使われています。そのため日本語の翻訳では「幽霊」と訳されることが多いのですが、英語でHolly Ghostと言えば、父・子・聖霊の「聖霊」という意味を表わします。つまり天の御使いのように、大いなる存在の使者として描かれていることが分かります。そしてこの「精霊」は、助けを必要としている人間に働きかけ、寄り添っていくのです。大いなる存在の使者が、その使者の方から積極的に働きかけてくるのです。

 さて、今日朗読していただいた箇所は、マリアの夫ヨセフに主の天使が夢で現れ、マリアの聖霊による懐妊を告げた箇所です。ヨセフ版の受胎告知とも言われています。婚約し法的に夫婦であったマリアが、自分に身に覚えのない仕方で懐妊したということを、ヨセフは知ります。マリアが御使いガブリエルから受胎告知を受け、その通りになったことを、ヨセフに話したのかもしれません。
 当時、結婚関係にあった夫以外の子どもを妊娠すれば、律法によって石打ちの刑に処せられることになっていました。マリアを愛していたヨセフは、マリアをとてもそんな目に遭わせることはできません。さりとて「正しい人」であったヨセフは、律法に背くようなこともできません。第一、疑いやわだかまりを抱えたままで、結婚生活を始めることはできません。そのようなわけで、マリヤのことを表ざたにせずに、ひそかに離縁しようと考えたのです。そうすればマリアの命は守られますし、律法に背くことにはなりません。マリアは父親の分からない子どもを抱えて、どんなに苦労することでしょう。しかしそうすることが、「正しい人」ヨセフにできるギリギリの選択だったのです。
 しかし、そのように考えているヨセフに、主の天使が夢で現れます。そして、次のように言うのでした。20節の2行目からです。「ダビデの子ヨセフ、恐れずに妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」主の天使は、「恐れずに妻マリアを迎え入れなさい」と言います。ヨセフに、恐れや戸惑いがあることは承知の上です。しかし、マリアの懐妊は聖霊による神の大いなる御業であり、生まれる男の子は民を罪から救う救い主となると告げます。そのような神の救いのご計画のために、あなたはマリアを迎え入れる決断をせよ、と迫ったのです。律法に正しい者であることは大切だが、神の大いなる救いのご計画実現のために、その正しさの殻を打ち破っていきなさいと、促されているのです。より大きな神の正しさに仕えるために決断し、行動に移しなさいと迫られたのです。
 神が御使いを通してそのようにヨセフに促されたのは、神ご自身が自分の義(正しさ)の殻を打ち破られたからです。人間は神がお造りになったにもかかわらず、神の御心に背き、罪を犯しました。神の民であるイスラエルの歴史は、人間がいかに自己中心的であり、おのが腹を神としてしまう存在であるかを、雄弁に物語っています。何度罪を犯しても懲りない人間を、神が見放し裁いたとしても、それは当然の報いです。不従順で罪を犯してやまない人間を裁くことこそが、神の義(正しさ)であると言わなくてはなりません。
 しかし、神は創造した人間に対する愛と憐れみのゆえに、人間を滅びるに任せることはできませんでした。ご自分の義(正しさ)を貫徹しつつも、これまでの義の殻を破る決断をなさいました。その決断の結果が、御子イエス・キリストを真の人として生まれさせること、御子をすべての人間の罪を贖うために十字架に付けられるということでした。その十字架の罪の贖いによって、私たち人間は避けることのできない罪と死から救われることになったのです。
しかし、神がこれまでの義の殻を破る決断を実行されるためには、御子イエス・キリストが真の人として、母マリアの胎に宿るだけでなく、父ヨセフの系譜につながる者として宿らなくてはなりませんでした。なぜなら、救い主はダビデの子孫から誕生すると預言されていたからです。ヨセフが、こうした神の大いなる救いのご計画を、どこまで理解していたかは分かりません。マリアの胎に宿った男の子を通して、神がただならぬ御業を始めようとされているということだけしか分からなかったかもしれません。しかしヨセフは、御使いを通して示された神からの働きかけに応えました。すべてが了解できたわけではなかったでしょうが、御旨に応えて、マリアを迎え入れる決断をし、実際そのように行いました。そのヨセフの決断と行動によって、これまでの義の殻を打ち破り、御子を人間の救いのためにこの世に遣わすという御業が、実現することになったのです。ヨセフにせよ、マリアにせよ、彼らは御使いを通して神からの働きかけを受け、神の大いなるご計画を知らされます。そのご計画を聞いて、彼らはたじろがないではおれなかったに違いありません。しかし彼らは受け入れるという決断や行動に移すという決断によって、神からの働きかけに応えました。このような信じる者の応答する決断が用いられて、神の御業がこの世界に実現していくのです。
今日の説教題は「神は我々と共におられる」と付けました。「インマヌエル」という有名な言葉です。私たちは「神は我々と共におられる」と聞くと、神さまが、私たちの傍らや背後におられて、守ってくださっているイメージを思い浮かべます。それは間違いではないでしょう。それも心強くありがたいことです。しかしそれだけではなく、神は聖霊なる神さまを通して、積極的に働きかけて下さってもいるのではないでしょうか。私たちと共におられて、私たちが御心に適う、喜びに満ちた御業を行うよう、励まし、導き、働きかけてくださっている。私たちが神さまに創造された存在として、自分らしく、自由で幸いな歩みをしていけるように、働きかけ続けてくださっている。それもまた、「神は我々と共におられる」という重要な側面だと思うのです。ヨセフやマリアに示されたような、大きな御業ではないかも知れませんが、私たちも神さまの喜ばしい御業の一端を担うよう、呼びかけられ、働きかけられています。そのように信仰者として用いられ、生きがいをもって歩んでいくためにも、「神は我々と共におられる」のです。

今日の説教の冒頭に、『クリスマス・キャロル』のことに触れました。真冬でも使用人に暖房を使わせないほどお金がすべてのスクルージは、四人の「精霊」から働きかけられ、生き方を改めるよう迫られます。その最初に登場するかつての共同経営者のマーレイは、自分の生前の生き方を心の底から後悔しています。そして、自分と同じ目に遭わないように、そのことを伝えるためにスクルージのもとに来たと言うのです。彼はその中でこう言います。「人間こそ、わしの仕事だったのだ。万人の幸福こそ、わしの仕事であった。慈善、情け、寛容、そして思いやり―それらがみな、わしのなすべき仕事だったのだ。商売上の取り引きなんぞは、わしに課せられた仕事のすべてから見れば、大海の中の一滴の水にすぎん!」ここで「人間こそ」と書かれているのは、「真の意味で人間になること」と理解してよいでしょう。そして「精霊」となったマーレイが語っていることは、「生活」と「人生」という言葉を用いて、説明できるのではないかと思います。日々の生活の中で、どんなに仕事で成功を収め、金銭を貯め込んでも、それだけでは「人生の仕事」を果たしたことにはならない。「人生の仕事」と「生活の仕事」とは別の次元で果たされなくてはならないものであることを、精霊は懸命に伝えようとしているのです。「人生の仕事」とは、「たましいの仕事」と言ってもよいかも知れません。私たちは「生活の仕事」に忙殺されて、「たましいの仕事」の意味と重みを、いつの間にか忘れてしまいます。しかしそれは、この世の生の意味を大きく失うことだと、マーレイはスクルージに必死に訴えているのです。
「神は我々と共におられ」、このような「たましいの仕事」へと私たちを導き、励ましてくださっています。そのことを覚えるクリスマスにしたいと思います。

過去の礼拝説教

12月13日礼拝説教


ゼカリヤ書2章5~17節       2020年12月13日(日)    

「神の民よ、喜べ歌え」     藤田 浩喜

 アドベント(待降節)第三主日を迎えました。アドベントは主イエスのご降誕を待ち望むと同時に、主イエスの再臨の日を待ち望む時だと言われています。このアドベントを、どうして私たちは毎年守るのでしょうか。今日はアドベントの時によく読まれる旧約聖書のゼカリヤ書2章5~17節を通して、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

 預言者ゼカリヤが活躍した時代は、紀元前520年頃でした。その時代はイスラエルの民が半世紀にわたるバビロン捕囚から解放されて祖国に戻ってから、まだ20年も経っていない頃です。これからエルサレム神殿や町を囲んでいた城壁を再建し、新しく神の民として歩んでいかなくてはなりません。しかし、バビロンから帰還した人々は多くはありませんでした。大半はバビロンに生活の根拠ができたために、帰還しませんでした。祖国に帰還した人々は少数ながら、バビロニア帝国に破壊される前のエルサレムを、もう一度再建しようと必死でした。彼らは以前の栄光ある姿を、なんとか取り戻そうとしました。そのような時に預言者ゼカリヤを通して与えられたのが、今日朗読された預言の言葉でした。

 ゼカリヤが取り次いだ神の御言葉は、大きく3つのメッセージから成り立っています。まず一つは、「エルサレムを測り、その幅と長さを調べるため」に出かけて行った若者に対して、こう言われました。8~9節です。「…あの若者のもとに走り寄って告げよ。エルサレムは人と家畜に溢れ/城壁のない開かれた所となる。わたし自身が町を囲む火の城壁になると/主は言われる。わたしはその中にあって栄光となる。」

 若者が測り縄を手にして、エルサレムを測りに行ったのは、バビロニアに破壊される前のエルサレムとその城壁を、そっくりそのまま再建するためでした。しかし、主なる神は新しいエルサレムは、以前のようなものではない。もっともっと大きく、都は人と家畜で溢れる。また、町を防御する城壁はなく、神ご自身が火の城壁となって、イスラエルを守られると言われたのでした。当時のエルサレムにはバビロニア軍によって、破壊された町や壁の残骸が残っていたでしょう。そんなふうに完全に破壊されてしまった城壁を再建しても、また破壊されてしまいます。そうではなく、主なる神に依り頼み、主御自身が火の城壁となってくださることによって、イスラエルは敵から守られるのです。以前と同じエルサレムを再建することが、神の御心ではないのです。

 次にゼカリヤが告げたメッセージは、主なる神はイスラエルを敵の手から徹底的に守られるということです。確かに神の民は、主なる神に罪を犯して裁かれました。主なる神以外の偶像を拝み、神の命じられた正義の道を歩まなかったイスラエルは、神の裁きを受けました。50年間にわたるバビロン捕囚は、罪に対する罰であったのです。しかし、罰を与えられたからといって、神はイスラエルを捨てられたわけではありません。神はイスラエルを、心から愛しておられました。

「だから、罪を贖ったイスラエルに対して、もはや外国の勢力が指一本触れることも、私は許さない。イスラエルを虐げ、苛(さいな)んだ外国の勢力に私自身が報復をする。その報復の裁きに巻き込まれないように、あなたがたは敵の地バビロンを後にして逃げ去れ」と、語られるのです。

 12節の3行目から13節までを、読んでみましょう。「あなたたちに触れる者は/わたしの目の瞳に触れる者だ。わたしは彼らに向かって手を振り上げ/彼らが自分自身の僕に奪われるようにする。」私たちにとって目は、最も大切な器官の一つです。また攻撃されそうになると、最も素早く防御するのも目です。ボクシングで相手のジャブが向かって来ると、条件反射的に瞼(まぶた)を閉じます。目を攻撃されると、間髪を入れずそれを防御します。ほとんど無意識です。それと同じように、神がその民を守られるのは、まさに神の本性の一部だと言うのです。イスラエルは神が選ばれた神の民です。神はご自分の民を妬むほどに愛されています。たとえ神の民が罪を犯し、罰を受けるようなことがあっても、その愛が醒めてしまうことはありません。親が我が子に害を与えられた時、自分に与えられたよう感じるのは、親が我が子と一体だと感じているからです。それと同じように否それ以上に、神はご自分の民と一体となってくださっています。神は私たち虐げ、苛(さいな)む者があるなら、まさに身を挺して守ってくださるのです。

 ゼカリヤが取り次いだ三つ目のメッセージは、神がその民のもとに留まり、住まわってくださるということです。14~15節を読んでみましょう。「娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て/あなたのただ中に住まう、と主は言われる。その日、多くの国々は主に帰依して/わたしの民となり/わたしはあなたのただ中に住まう。こうして、あなたの万軍の主がわたしを/あなたに遣わされたことを知るようになる。」

 神がゼカリヤを通して示されたエルサレム、それは神が最終的にどのようなエルサレムを実現しようとされているのかを、私たちに教えてくれます。それはバビロン捕囚から帰還した人々が、やがて再建したエルサレムと同じではありませんでした。イスラエルの歴史上実現したエルサレムではなく、神が終わりの日に向けて最終的に実現してくださるエルサレムのビジョンが描き出されています。 

そのエルサレムには、神が到来され、そのただ中に神が住んでくださいます。それはまさに、神の御子イエス・キリストが受肉され、この世に到来されたことで実現しました。しかし15節で、「その日、多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり/わたしはあなたのただ中に住まう」と言われます。神さまのビジョンの中で、このエルサレムは世界の多くの人々が神を信じ、神の民に加わる都として描き出されています。だからこそ、7節で言われていたように、「エルサレムは人と家畜に溢れ/城壁のない開かれた所となる」のです。このような神の都エルサレムは、ゼカリヤの時代のイスラエルの人々にとって、未だ見ぬ憧れの姿であったに違いありません。しかし、当時のイスラエルの人々は、このようなエルサレムが、神によってやがて実現されることを望み見ながら、実際の再建作業を続けていったのです。このような神のビジョンが示され、そのビジョンに励まされて、その時代に託された再建事業に取り組んでいったのです。

そして、それは21世紀を生きる神の民である私たちも同じです。イエス・キリストは到来され、私たちのただ中に聖霊において住んでおられます。しかし、多くの国の人々が神を信じ、神の民に加わるエルサレムは、未だ実現してはいません。今だ道半ばです。しかし、その神のビジョンが実現する日を待望しています。神は必ず、そのビジョンを実現してくださいます。だからこそ私たちは、私たちの時代に託された務めに、精いっぱい取り組んでいくのです。

 

私たちは、ゼカリヤの時代の信仰者と共に、今日の御言葉を聞いています。私たち新しい神の民は、今どのような状況に置かれているでしょう。キリスト教会は今、不安の中に置かれています。教会がこれからも存続していけるのか、どんどん先細りになって立ち行かなくなってしまうのではないか、自分たちの信仰を受け継いでくれる人たちがいなくなってしまうのではないか、という大きな不安があります。そして今回のコロナ禍は、キリスト教会の将来に暗い影を落としていくことになりはしないかと、心配になります。かつての盛んな時代を知っている私たちは、少しでも以前の姿に近づけたい。かつての輝きを取り戻したいと思ってしまうのです。

 しかし、私たちの主が願っておられることは、かつてのエルサレムをそのまま再現することではありません。教会を取り巻く状況は、以前と同じではありません。以前通用していたことを繰り返しても、それで教会を守れるかどうかは分かりません。教会が守られ、存続していくために必要なのは、私たちの作る城壁ではなく、神ご自身が火の城壁となってくださることです。

神さまは、御自身の民を妬むほどに愛しておられます。教会が時代の逆風にさらされ、反対する力に脅かされるとき、それを放っておかれる方ではありません。主なる神はご自分の民を、どこまでも守り抜いてくださいます。「あなたたちに触れる者は/わたしの目の瞳に触れる者だ」と言ってくださいます。このお方の守りを心から信じて、私たちはかつての自分たちの姿に捉われることなく、神の開いてくださる道を進んで行けばよいのです。

そして、ゼカリヤの時代のイスラエルと共に、私たちはもう一つの御言葉を聞かされています。それは、主なる神は、私たちの世界について、確かなビジョンを持っておられ、そのビジョンを必ず実現してくださるということです。神はこう言われています。「その日、多くの国々は主に帰依して/わたしの民となり/わたしはあなたのただ中に住まう。」全世界の国々の人々が主なる神を信じ、続々と集まり、神の民に加えられていくビジョンが語られているのです。「娘シオンよ、声をあげて喜べ」と、促されています。世界の国々の人々が、主なる神の御前に集められ、恵み深い神の守りの中に置かれて一つになる。そのビジョンが実現する日を望み見て、「娘シオンよ、声をあげて喜べ」と促されているのです。

世界は今、自国中心主義、自分たちが豊かであればよいという意識の中で、分断されています。持っているものを分かち合い、共に生きていこうというあり方とは正反対の方に向かっています。コロナ禍は、国と国との間だけではなく、そこに住む国民と国民の間にも、そのような分断をもたらしました。そうした状況は、癒しがたく進行しています。しかし、それは人間が一時的にもたらした状況であって、この世界の主である神が導こうとされているビジョンではありません。神は計り知れないご計画とくすしき御業をもって、御自身のビジョンを実現されます。神のビジョンは必ず成就します。「その日、多くの国々は主に帰依して/わたしの民となり/わたしはあなたのただ中に住まう。」私たちは先に神の民とされた者たちとして、この神の御心とご計画をたゆみなく伝えていく使命が託されています。世の人々の前に、神の大いなるビジョンを描き出していくのです。

 

毎年わたしたちがクリスマスを待ち望むのは、永遠に変わらない神の愛と熱情を思い起こし、それを新しく私たちの心に刻むためです。そして、わたしたち人間を救わないではおられない燃えるような神の愛を、世に証ししていくために他ならないのです。「娘シオンよ、声をあげて喜べ」!



12月6日礼拝説教

ヤコブの手紙2章1~13節(Ⅱ)       2020年12月6日(日)

 「自由をもたらす律法」   藤田 浩喜

 今日の12節を見ますと、「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい」と言われています。「自由をもたらす律法」とは、イエス・キリストによって成就された律法です。「真理は汝を自由にする」と言われているように、イエス・キリストの福音と言い換えることのできる愛の律法です。この愛の律法に則って、語り、ふるまうよう、ヤコブの手紙は宛て先キリスト者たちに求めているのです。

 今日はヤコブの手紙2章1~13節の後半、8~13節を学んでいきます。先週の箇所で手紙の著者は、「…主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と戒めていました。教会にやって来る人たちを身なりで判断して、富んでいる人を歓迎し、貧しい人をぞんざいに扱うような態度は、神さまの御心にかなわない間違った態度だというのです。

 ところが、手紙の受け取り手である教会の人々は、自分たちの誤りを素直に認めようとはしなかったようです。それどころか、「自分たちは聖書が命じている隣人への愛を実行している」と、考えていたようなのです。今日の8~9節を読んでみましょう。「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。」

 ここを読む限り、手紙の受け取り手である教会の人々は、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を、自分たちは実行していると思っていたことが伺えます。どうして、そう思えたのか? 富んだ人を大事にして、貧しい人を軽んじるようなことをしていても、隣人愛を勧める戒めに背いていないと、思っていた。それには、彼らの律法理解が大きく影響していたようなのです。

 「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、もともと神の民イスラエルに属する同胞たちの間での戒めでした。隣人の中に異邦人は含まれていませんでした。また、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われていますが、隣人を愛せよという律法は、具体的な場面では一つや二つではありません。貧しい人たちを大切にしなさいということも含まれていたでしょうが、隣人の農作業を手伝うとか、隣人の家畜が穴に落ちていたらそれを助け上げるとか、麦や大麦を全部刈り取らないで困窮した人たちのために残しておくとかも、隣人愛の中に含まれていたでしょう。そのような隣人愛に関わる行いを一つ守れたらプラス1(いち)、守れなかったらマイナス1(いち)という仕方で、彼らは律法遵守を考えていました。守れないことが少々あっても構わない。最終的にプラスがマイナスを上回っていれば、それで自分の行いは合格と見なしていたのです。このような考え方は、ついつい私たちも納得してしまいそうになるところがあるかもしれません。そうした律法観を持っていたので、人を見た目で分け隔てするようなことがあっても、彼らは深刻には受け留めなかったのです。

 

 しかし、ヤコブの手紙の著者はそうは考えません。律法を人の力で守ろうとするなら、すべてを完全に守らなくてはならない。そうでなければ守ったことにはならないと言うのです。10~11節です。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪になるからです。『姦淫するな』と言われた方は、『殺すな』とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になるのです。」律法は神さまが神の民にお与えになった戒めです。そこには神さまの御心が込められています。その御心の込められた律法を、人間が自分勝手な判断で選り好みすることは許されません。「この戒めは守るが、この戒めは守らない」と選別することはできません。この世の法律でも、人が一つの法律を犯せば、犯罪者となります。それと同じように、律法においても一つのおちどがあれば、律法の違反者になるのです。

 それにしても、ヤコブの手紙の著者は「人を分け隔てすること」を、教会やキリスト者にとって極めて重大なことと見なしています。それは、あらためてどうしてなのでしょう? もう一度8節を見ますと、著者は「『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法」と言っています。「隣人を自分のように愛しなさい」という律法は、最も尊い律法だというのです。この「最も尊い律法」は、原語では「王の律法」という言葉です。それは、この命令が「全ての律法の王」であることを表しています。永遠の御国の王、教会の主である神の御国の律法として、人が生きる基準は、「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。「隣人を自分のように愛しなさい」というのが、神の国、神が支配される国に生きる者にふさわしい定め、生きる道、人生の指針なのです。

 私たちの人生において、最も大切なことは、自分のために生き、自分を生かすことです。自分を愛し、自分を生かすことのできない者が、他の人を愛し、生かすことはできません。三浦綾子さんはそのエッセーの中で、「『人生』は、人を生かすと書く。即ち、自分を生かし、まわりの人間を生かすのが人生である。それが本当の『人生』だ」と言いました。自分を生かしてはいるが、人を生かしてはいないということはないのです。人を生かしていないなら、自分をも本当に生かしていないのです。人を愛していないなら、自分をも愛していないのです。自分を愛していないなら、人をも愛することはできないのです。主イエスが教えてくださった道は、自分のために生きるということと、人のために生きることが、一つになることです。そのように、神が支配される御国に生きる者にふさわしい戒め、また生きる道だからこそ、「全ての律法の王」と呼ばれているのです。

 

 また、さらに大切なことは、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟が、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)という掟と、分かちがたく結び合わされていることです。主イエスは、律法学者の問いかけに対して、律法の中心がこの二つに要約されることを示されました。「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めは、「全身全霊を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めに生きることによってしか、それを本当に行うことはできません。反対に、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに生きることによって、「全身全霊を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めが、いかに恵み深いものであるかを、人は悟ることができます。だからこそ、「全ての律法の王」と呼ばれているのです。

 皆さんも身に染みて感じておられると思いますが、「隣人を自分のように愛する」ということは、難しいことです。隣人を愛そうと願っても、そこで気づかされるのは、自分の愛の無さです。いくら隣人のために善い業を行おうと努力しても、自分の罪を知らされるばかりです。パウロが言うように、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7:19)ことを、思い知らされます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:24)。

 しかし、イエス・キリストの十字架による罪の贖いによって、私たちは神さまの前に義なる者(正しい者)としていただきました。イエス・キリストが私たちの代わりに律法の要求を完全に満たし、律法を守らなければ救われないという重荷から私たちを解放してくださいました。私たちは今や神さまの前に、義とされた者、救いを与えられた者として立つことができます。そして、そのような自由をもたらされた者として、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに、新しく生きてくことができるのです。イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、律法の束縛から解放され、神に愛された者として、新しく律法に生きることができるのです。そして、そのような神の愛を知った時、私たちは神の愛の中にいる自分の存在の大きさを知るだけではありません。それと同時に神の愛の中にある隣人の存在の大きさにも気づかされるのです。まさに、「隣人を愛する」ということと「神を愛する」ということは、分かち難く結び合わされているのです。

 さて、今日の最後の箇所である13節には、次のように言われています。「人に憐れみをかけない者には、憐みのない裁きが下されます。憐みは裁きに打ち勝つのです。」「人に憐れみをかけない者」とは、人を見かけで判断し、貧しい者やみなしご、やもめなどを顧みない者たちのことが言い換えられています。人に憐れみをかけないこのようなあり方は、その人自身の性格や人柄に因るものではありません。人間の善意など、五十歩百歩の違いに過ぎないのです。そうではなくヤコブの手紙は、人に憐れみをかけないこのあり方の原因が、律法に対する向き合い方の間違いにあることを、鋭く見抜いているのです。救いの条件として律法を守ることが間違いなのです。イエス・キリストが来られる以前、律法はそのすべてを守らなくては、律法の違反者となりました。律法はその意味で、人が決して満たすことのできない呪いであったのです。しかし、イエス・キリストはこの世界に来て下さり、律法のすべての呪いを引き受け、律法を完全に満たしてくださいました。律法の完成者であられました。そのキリストの十字架の恵みと憐みに与った私たちは、キリスト以後のあり方で「神を愛し、隣人を愛する」という律法に生きていけば、それでよいのです。自分の救いを得るためでない。イエス・キリストに救われた者として、喜びと感謝をもってキリストの愛と憐れみに押し出されていけば、それでよいのです。

 

 終わりの日に、人はその為してきたことに応じて、裁きを受けることになります。その際に、どんなに忠実に自分の力で律法を守った人も、キリストの愛と憐れみの中で律法に生きた人に打ち勝つことはできません。なぜなら、人はどんなに律法を守ろうと努力しても、100パーセントに達することはできません。しかし、キリストの憐れみを受けた人は、キリストが律法の要求をすでに100パーセント満たして下さっています。そして、キリストの愛によって隣人愛へと押し出されることによって、100パーセント以上に上積みすることができるからです。まさに、「憐みは裁きに打ち勝つのです。」私たちは、イエス・キリストの到来以後の時代に生かされています。イエス・キリストの大いなる恵みと憐みに押し出されて、隣人へ愛に向かう生き方をしたいと思います。

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