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礼拝説教

2月21日礼拝説教

創世記48章1~11節              2021年2月21日(日)
「わたしを背負ってくださる神」   藤田浩喜
 ドイツの首相アンゲラ・メルケルさんの『わたしの信仰 キリスト者として行動する』(新教出版社)という本を最近読みました。メルケルさんがキリスト教会関係の大会などで語った講演やスピーチを集めたものです。メルケルさんのお父さんは共産主義国家の旧東ドイツでプロテスタントの牧師をしていたのですが、お嬢さんの信仰も筋金入りであることが、この本を読むとよく分かります。また、幾つかの講演やスピーチで何度か強調されていることがあります。それは定年後の世代に色んな分野でボランティアとして働いてほしいということです。ドイツでも日本と同様速いスピードで高齢化が進んでいます。しかし定年後の世代は、まだまだ体力や気力に満ちています。培った経験や能力があります。それを社会の様々な分野でボランティアとして活用してほしい、それがドイツの将来にとって大きな力となるというのです。日本でもおそらく状況は同じでしょう。少子高齢化の中で、色んな分野の働き人が不足しています。定年後の世代が、無理のない程度に仕事をし、そこで得た収入を生活費の足しにしたり、余暇を楽しむために使うことも大切でしょう。それと同時に週の1日、2日を社会的に意義のあるボランティアのために使うということも、大変豊かな過ごし方だと思います。神さまに与えられている命と時間を、社会や他者のためにも使うなら、それは神さまに喜ばれるキリスト者の生き方になるのではないでしょうか。
 さて、今日は創世記48章を読んでいただきましたが、ここにはヤコブ(イスラエル)の最晩年のことが記されています。目も見えなくなり、床に就いていることが多くなった、終わりが近づいている時のことです。ヤコブは死を迎える前にやっておかなくてはならない三つのことをしています。ヤコブの終活とも言えることが記されているのです。
◎一つ目のことは、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムを、自分の子どもにしたい、養子にしたいということです。ヤコブはヨセフに、主なる神がヤコブの子孫の繁栄とカナンの土地所有を約束された言葉を伝えたあと、このように言うのです。5節以下です。「今、わたしがエジプトのお前の所に来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となるが、その後に生まれる者はお前のものとしてよい。しかし彼らの嗣業の土地は兄たちの名で呼ばれるであろう。」ヤコブは息子のヨセフではなく、ヨセフとエジプトの祭司の娘アセナトの間に生まれた二人の息子を自分の子どもとし、主なる神の祝福を継ぐ者としたいと言うのです。ここには、ヨセフがエジプトで王に次ぐ地位にあり、エジプトから離れられないだろうという配慮があったのかも知れません。
 それにしても興味深いのは、イスラエルの12部族の中に初めからエジプト人の血を引くマナセとエフライムが加わっていたということです。旧約聖書を見ますと、イスラエルだけを正統とする国粋主義的な面がある一方で、外国や異邦人にも門戸を開くような普遍主義的な面が見受けられます。主なる神の祝福を受け継ぐ契約の民の中に外国人の血が入っていても、気にする風はありません。そうした異なる者、ある種異質な者も含みながら、神の約束の民は地上に増え広がっていくのです。そういう懐の深さがあるのです。
 先ほどドイツのメルケル首相の話をしましたが、大陸でつながっているということもあり、ドイツはトルコなどの国々から多くの労働者を受け入れてきました。ドイツできちんとした生活が成り立つように、無償で語学教育をしたり、就労先を提供したり、様々な生活保障を講じたりしてきました。こうした素地もあって、シリアからの難民を百万人以上も受け入れる決断をしたのです。もちろん、コロナ禍の少し前、この政策によってメルケルさんは窮地に追い込まれつつありました。あまりにも多くの難民を受け入れることが、ドイツ国民から仕事を奪い、ドイツ国民との様々な摩擦を引き起こすことが懸念されたからです。しかし、日本と同様少子高齢化が進むドイツにあって、民族を問わないで多様な人々を受け入れる、特に若い世代を受け入れることが、国力を維持し、更に発展させていくというビジョンが、そこにはあるように思います。民族とか血とか文化の同質性だけにこだわるあまり、国そのものが衰退し、体をなさなくなっていくことを、私たち日本人は心配すべきなのかもしれません。その意味でも、異質なものを取り込みつつ神の民を広げていく聖書の懐の深さに、学ばされる思いがするのです。
◎ヤコブがしている終活の二つ目は、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムを祝福したことです。しかし、その場面でも大変興味深いことが起こっているのです。祝福はまず長子に授けられるべきものです。長子には右手を置いて祝福しました。ところが、それとは反対のことが起きているのです。13~14節を読んでみましょう。「ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。」皆さん、理解できたでしょうか。ヨセフはヤコブと向かい合っています。そこで右手で次男のエフライムをヤコブの左側に置き、左手で長男のマナセをヤコブの右側に置きました。普通にすれば、ヤコブは右手を長男のマナセの頭の上に置き、祝福することになります。ところが、ヤコブはその両手を交差させて、右手を事もあろうに左側にいた次男のエフライムの頭の上に置いたというのです。最晩年のヤコブが行うとは思えないアクロバティックな動きです。ヨセフも当然いぶかしく思い、ヤコブの手を置き換えようとします。しかしヤコブは、それを拒んで「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている」と言ったのです。これはどう考えたらよいのでしょう。後のイスラエルの歴史をたどりますと、マナセ族よりも次男の子孫であるエフライム族が勢力を増し大きくなります。ヤコブは祝福の瞬間、そのことを主なる神に示されて、両手を交差させたのかも知れません。ある注解者が言うように、「死にゆく者には遠い未来が見えた」のかもしれません。
 いずれにしても、祝福の担い手であるヤコブは、このとき主なる神の示しを受けたのでしょう。長男だから祝福を第一に受け継ぐ、次男だから二番目に受け継ぐというのではなく、神はご自身の主権において自由に人を選ばれたり、お立てになったりする。神さまの自由な選びは、人に妨げられることなく御心のままに進められていく。そのことが示されているのではないでしょうか。
 今日司式長老に、マタイによる福音書20章15~16節だけを読んでいただきました。有名な「ぶどう園の労働者」のたとえです。一日中汗水たらしてぶどう園で働いた人は、自分が一時間しか働かなかった人と同じ1デナリオンの報酬であったことに文句をいいます。それに答えて主人が言った言葉が15節以下なのです。「『自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」私たちはここで語られているのがたとえ話であり、神の救いの恵みがどんな人にも等しく与えられることを、教えるものであることを知らなくてはなりません。どんな境遇にある人も救おうとされる神さまは、人の常識や論理に妨げられることなく、まったく自由に、御心のままに、御業を進められます。私たちはそこに人間の考える最善ではなく、神さまの考える最善のあることを信じて、神さまの御業に従っていくことが求められているのです。最晩年を生きたヤコブでしたが、彼は神さまの自由な選びを受け入れることができたのです。
◎ヤコブの終活の三つ目は何でしょう。それは二人の息子の父であるヨセフを祝福すること、そして自分の生涯を通じて生きて働いてくださった神さまの恵みを証しすることでした。自らの人生を回顧しつつ、15~16節のように語るのです。「そして、ヨセフを祝福して言った。『わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。』」
 ヤコブは11節でヨセフに、感慨を込めて語ります。「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」ヤコブの神さまへ深い感謝、その御業への驚きが、この言葉から伺えます。そして、信仰者として長い歳月を生きてきた皆さんは、多かれ少なかれ、このような感慨を持っておられるのではないでしょうか。
 そしてヤコブは、息子ヨセフとその息子たちを前に、主なる神さまがどのようなお方であったかを、証しするのです。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。」彼らがその御前に歩んだ。それはとりもなおさず、神さまが先祖や自分と共に歩んでくださったということです。
 「わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。」羊飼いは迷いがちな羊を正しい道に導いてくれます。それだけでなく、羊を青草の原に伴い、養ってくださいます。過ち多かったヤコブは、そのことをしみじみ感謝しているのです。主なる神は、弱く迷いやすい私たち一人ひとりを導き、養ってくださるのです。
 「わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。」ここでは神ご自身ではなく御使いが登場します。ヤコブの生涯を振り返ると分かりますが、ヤコブは幾多の苦しみを味わいました。しかし神の不思議な働きによって、その幾多の苦しみから贖い出されました。そのように神さまは、私たちが苦しみの虜になったままに放置されることはありません。ご自身の貴い犠牲の代価を払って、ご自分の恵みのもとに取り戻してくださるのです。それが贖われるということなのです。
 ヤコブは自分の波乱万丈の生涯を回顧し、主なる神がいかにその強き恵みの御手をもって導き、支えて下さったかを証ししました。それがヤコブの終活の仕上げであり、最も大切ななすべき業であったことを思います。私たちもやがて自分の生涯を終える時に、信仰者としてこのような証しと祝福を、親しい者たちに遺すことができるならどんなに幸いでしょう。そのような者として神さまに用いて頂けることを願って、祈り、努めてまいりましょう。

2月14日礼拝説教

ヤコブの手紙3章5節後半~12節      2021年2月14日(日)
「舌を制御できる人」   藤田浩喜
 先週に続いて、舌によって発せられる言葉のことが語られています。言葉を語ることについて、三浦綾子さんは著書『小さな一歩から』の中で次のように書いておられます。「言葉は力である、と私は思う。ひと言がその命を奪うこともあれば、受けた人の人生を変えることもある。『舌先三寸で人を殺す』という言葉を、幼い頃からよく聞いたものだ。言葉というものは理不尽なほどに人を動揺させ堕落させ、非情に走らせるかと思うと、奇跡のように甦らせ、向上させ、意欲を与えるものである。……人間の言葉は、本来なおざりであったり、真っ赤な虚偽であったり、裏切りであったりしてはならないのだ。人を力づけ、慰め、励まし、希望を与えるものでなければならない。いつもそのような真実な言葉を出せたらと思う。」三浦さんの考えに、私たちもうなづかされます。しかし、私たちが舌によって語る言葉は、私たちの性格や、心がけや、気持ち次第で、良くなるのでしょうか。人を力づけ、慰め、励まし、希望を与える言葉になるのでしょうか。それについてヤコブの手紙は、とても深い思索を思い巡らせているのです。

 今日の3章5節後半以下の所で、まずヤコブは「舌」を「火」にたとえています。ペンテコステの時「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」たとあり、「舌」と「火」は形が似ているのかも知れません。そして、「火」が瞬く間に燃え広がり、あらゆるものを焼き尽くすように、「舌」の語る言葉も炎のように人を焼き尽くすと言うのです。5節後半以下です。「御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」昨年、オーストラリアやアメリカのカリフォルニアで
大規模な山火事が発生しました。逃げ惑い、傷つく動物たちの姿が目に焼き付いて離れません。そのように自然発火の小さな火や、ハイカーの捨てたタバコの火によって、何百ヘクタールという広大な森が焼き尽くされてしまったのです。それと同じように、小さな「舌」の語る言葉が、その人自身やその人の人生を滅ぼし、死に至らしめることがあるというのです。
 それはなぜかと言いますと、欲望に操られた「舌」は神に敵対する勢力の支配下にあるからです。そのことがここでは、「舌は『不義の世界』です」と表現されています。1章15節で「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」と言われていました。人は欲望に操られているとき、神の御支配の下にはなく、神に敵対する勢力の虜になっています。神に敵対する勢力は、神とは正反対であり、人を滅ぼし、死に至らせようといたします。それだからこそ、小さな「舌」の語る言葉が燎原の火のように燃え上がり、その人自身やその人の人生を焼き尽くしてしまうのです。欲望に操られた「舌」は、そのような恐ろしさを持っているのです。
 また、欲望に操られた「舌」は、制御することができません。そもそも人は、そのような「舌」を制御する力を持っていないのです。7~8節を読んでみましょう。「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」 
この言葉の背景には、創世記1章28節の天地創造の御業があります。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」支配せよと言うと、自分勝手に好きなようにするというふうに取られがちですが、そうではありません。世話をして馴らすという意味を持っています。ある注解者は馴らすとは、制御し有益で有用なものにすることだと言っています。神は天地創造のときに、世界のあらゆる生き物を人間にお任せになり、世話をして馴らすようにお命じになった。そのような創造の秩序を、神はお立てになったのです。そのような創造の秩序に則って、人間はあらゆる生き物を制御し、それを善用することが許されているのです。だからこそ人間はそのことを感謝し、慎み深くあらなくてはいけません。生き物たちに対して、神の御心に背くようなことをしてはならないのです。
それに対し、欲望に操られた「舌」は神に敵対する勢力の虜になっているのですから、神の立てられた創造の秩序に則ってはいません。人間に託されたあらゆる生き物たちとは違い、制御することはできません。創造の秩序の外にあるのですから、人間がどうこうできるものではありません。人間の力によって有益なものにすることも、善用したりすることもできないのです。
この創造の秩序の外に、欲望に操られた「舌」があるということを、興味深いたとえで示しているのが、11~12節です。ヤコブの手紙は、同じ一つの「舌」から、神への賛美と神のかたちに造られた人間への呪いが出て来る矛盾を、次のようなたとえで指摘するのです。「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」ここに述べられていることは、いずれも神が立てられた創造の秩序に則っています。泉のわき出る同じ水中の穴から、甘い水と苦い水がわき出ることはありません。いちじくの木はいちじくの実を付けるのであり、ぶどうの木がいちじくを付けることはありません。しかし欲望に操られた「舌」は、同じ舌であるのに、神へ讃美と神のかたちに造られた人間へ呪いが出て来る。これは神の立てられた創造の秩序を無視したことであり、「このようなことはあってはなりません」と、ヤコブは厳しく批判するのです。

さて、少し込み入ったことを申し上げてきましたが、今日の御言葉はそもそも誰に向けられたものだったのでしょう。9~10節をあらためて読みますと、こう言われています。「わたしたちは舌で、父なる主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」聖書の注解者たちは、「父なる主を賛美し」というのは、教会での主日礼拝を指しているのだろうと申します。また、これはヤコブの手紙が、二枚舌のような物言いを一般的、道徳的に批判しているのではない。そうではなく、彼が教会において実際に見聞きしていたリアルな状況を、取り上げているのだと申します。つまり、主日礼拝において高らかに神さまを賛美し、神の御名を褒め称えたと思ったら、その舌の根も乾かないうちに、同信の兄弟姉妹の悪口を言ったり、陰口を叩いたりする。そのような嘆かわしい有り様を取り上げて、ヤコブは「このようなことはあってはなりません」と、厳しく批判しているのです。
こうしたことは、私たちの西宮中央教会では起こり得ないことでしょうか。私たちの教会には当てはまらないと、自信をもって言えるでしょうか。あるいは、そういうことが実際あったとしても、「人間ですから、そんなことがあるのは当然です」と、開き直ってしまうでしょうか。「人の世ではよくあることですから、気にするには及びません」と、軽くやり過ごしてしまえばよいのでしょうか。
わたしはそうではなく、ここには深刻な状況があると思わずにはおれません。
こうした態度の根底には、私たちを惑わし操る悪の力が働いています。霊的な危機に瀕しているのです。ヤコブが警告しているように、欲望に操られた「舌」は神に敵対する勢力の虜になっており、小さな火のように見えても、やがて激しく燃え広がり、その人やその人の人生を焼き尽くしてしまうかもしれません。また、欲望に操られた「舌」は、神の創造の秩序の外にあり、人間の力では制御することも、有益なものにすることもできません。小さなことのように軽視していると、教会の交わりを損ない、教会そのものを破壊していくことにもなりかねません。小さな舌の語る言葉など心配ないと油断するのではなく、ヤコブが今日の箇所で警告していることを、霊的な心で真剣に受け止める必要があるのだと思います。

 それでは、どうしたらよいのでしょう。どうしたら、三浦綾子さんの言うような、人を力づけ、慰め、励まし、希望を与える言葉を語ることができるのでしょうか。今日は司式長老に旧約聖書の詩編19篇12~15節を読んでいただきました。詩人はそこに先立つ8節以下で、主なる神の示してくださる様々な御旨を数え上げ、それらは「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」と歌います。そして、それらの示された御旨をいつも思い巡らし、それを守ることができるように願います。詩人は自分が知らずに罪を犯してしまうことや、すぐに驕り高ぶってしまう弱さのあることを告白しています。そして詩人は懇願します。そのような危うさや弱さのあるわたしを、罪から清めてくださいと、切に祈るのです。
ある神学者は「言葉の最高の使用は、祈りである」と言っています。主イエスも、御国の福音宣教と力ある御業をなさったあと、しばしば静かな所に退かれ、父なる神さまに祈りをお捧げになりました。私たちも主に倣い、自らの弱さや危うさを神さまの前に注ぎ出して、神さまに罪を赦していただくことが、神さまの御旨から離れない信仰者の歩みを造り出していくのではないでしょうか。
 そして19編の最後15節には、こう歌われています。「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」この15節の御言葉以上に、今日の私たちの切なる願いを率直に言い表してくれている祈りはありません。私たちの発する言葉は、欠けや過ちを避けることができません。人を力づけ、慰め、励まし、希望を与えるのではなく、聞いた人が傷つき、悲しみを味わい、希望を失ってしまうような言葉を語ってしまいます。しかし、私たちの心の思いを神さまの御前に置き続けること、すなわち、神さまを見上げ、神さまに依り頼み、神さまの御前から決して離れないときに、神さまは必ずや、御旨にかなった言葉を備えてくださるでありましょう。私たちの語る御旨にかなった言葉だけが真実であり、人を生かし、立ち上がらせることができるのです。そのことを私たちの心に刻みつけたいと思います。

2月7日礼拝説教

ヤコブの手紙3章1~5節前半          2021年2月7日(日)
 「舌は大言壮語する」   藤田 浩喜
 最近世間では舌禍事件がマスコミを賑わせています。少し前は緊急事態宣言下の東京で、与党の有力議員が同僚議員二人と酒宴を楽しんでいた事件です。最初一人で行っていたと答えていましたが、お連れがいたことをすっぱ抜かれると、若い人たちをかばう為だったと、苦しい言い訳をしていました。その場をやり過ごす嘘をついても、後でバレて大変なことになることが分からなかったのでしょうか。もう一つは首相経験者の女性差別発言です。女性の委員が多くなると、競うように発言するので、会議が長くなるといった発言をして、国内外から批判を受けました。しかし、責任を取って辞任するということには、どうもならないようです。自分の舌から出た言葉がこんな大騒ぎになるとは、くだんの人たちは予想もしなかったのかも知れません。
 しかし、今日の聖書にあるように、舌は小さな体の器官ですが、そこから発せられる言葉は大きな影響を及ぼしてしまうのです。3~5節は、そのことを二つの分かりやすいたとえで示してくれるのです。「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。」小さな舌の語る言葉が、大きな力や影響力を持っているのです。

 そのように舌が語り出す言葉は、とんでもない波紋を引き起こすことがあり得ます。そこで著者ヤコブは、そのような言葉を使って教える教師には、滅多になるものではないと、助言するのです。1節「わたしの兄弟たち、あなたがたのうちの多くの人が教師になってはなりません。」たいていの人は、教師になるのに慎重であるべきだというのです。それはどうしてなのでしょう。日本のキリスト教会の教会員には、「教師」が多いというのはよく言われることです。この教会にも、幼稚園の先生から大学の先生まで、「教師」の教会員がたくさんおられます。また、教会の牧師も「教師」と呼ばれ、ヤコブがここで問題にしているのは、どちらかというと、牧師のように神の御言葉を教える「教師」であろうと思います。しかしいずれにせよ、誰かの前に立って教えを述べる教師になるのは、慎重にならなくてはならないというのです。
 なぜか? 一つは1節の後半にあります。「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」これは終わりの日、最後の審判の時に、教える務めを託された教師が、より厳しい責任を問われることを示しています。それと同時に、教師の教えたことや語った言葉が、教えられた側の人たち、生徒たちに、後々まで影響を及ぼすことを伝えているのではないでしょうか。「中学生の時に、あの先生に言われたあの一言で、私の人生は変わってしまった」というような話を、私たちは聞くことがあります。教師の側からすれば、ほんの冗談で言ったようなひと言が、聞いた生徒に深い傷を残すともあります。反対に、「あの絶望しかなかった時に、あの先生のひと言で救われた、もう一度がんばってみようと思った」、ということもあるに違いありません。教師が語る言葉はそのように、聞いた人の人生に影響を与えないではおかないという意味で、将来にわたって責任があるのです。
 また、「教師」になるのに慎重でなければならない2番目の理由は、言葉で失敗したり、過ちを犯すことが避けられないからです。2節でこのように言われています。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」語る言葉でしばしば、失敗をしてしまうのです。間違いは避けられないのです。あるベテランの保育士の先生が、子どもたちへの言葉掛けで上手くいくのは3割ぐらいだと、ある本の中に書いておられました。まだ十分状況を説明したり、自分の気持ちを言葉で言い表せない幼児たちです。保育者が懸命に状況判断して言葉掛けをし、子どもの心に共感しようとしても、うまく伝わらないことも多いのです。それが保育という営みの持つ奥深さなのでしょう。
 また、「教師」は長く続けていれば、それで務まるというものでもありません。だいぶ昔に聞いた話ですが、大阪教育大学の先生が保育士の先生を対象に講演してくださいました。その時にその先生は、長い経験を積んだ保育者には、経験が長いがゆえに落とし穴がある。それは自分が培ってきた知識や経験に間違いはないと過信して、今自分の目の前にいる子どもを保育しようとする。しかし、子どもたちが置かれた環境も、育ってきた状況も、社会のあり様も、刻々と変わっていく。同じではあり得ない。だから保育士の先生は、鉄腕アトムのように、「心やさしき科学の子」である必要があるのだと、言うのです。豊かな経験で子どもたちをやさしく受け入れると同時に、社会や子どもたちの変化を、最新の研究に学びながら客観的に見ていく必要がある。その両方が求められるのです。学校や幼稚園の先生方は、多くの研修の時を持ち、精力的に学んでおられます。それは教え導く対象が、今をまさに生きる子どもたちであり、その教育実践がダイナミックで難しいものだからでしょう。間違いや失敗を経験し、乗り越えて行くことなしに、「教師」の務めを全うすることは到底できないのです。

 さて、今日の聖書は「教師」になることにおいて慎重であれと語っていますが、先に触れたように、それは誰よりも教会で神の言葉をつたえる「教師」たちに向けられたものです。私たちの教会で言えば、牧師や長老、日曜学校の先生などがそれにあたるでしょう。ヤコブが手紙を送った教会では、神の言葉を伝える「教師」になりたがる人が、少なくなかったようです。「教師」という務めを何か名誉なことのように感じていたのかもしれません。あるいは人の上に立てるかのような優越感を求めていたのかも知れません。けれどもヤコブの手紙の著者は、その務めには将来にわたって大きな責任が伴うことや、過ちを犯してしまうことも度々であることを示して、思い止まらせようとするのです。
 しかし、教会には神の言葉を伝える「教師」がいなくてはなりません。だれもが「教師」に召されているわけではありませんが、預言者イザヤの語るように「良い知らせを伝える者の足」が必要です。イザヤ書52章7節には、次のように歌われています。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」伝える者の麗しい足があってこそ、良き知らせである福音は、主にある兄弟姉妹の信仰を養い、教会の外に向かって持ち運ばれていくのです。 
 その場合に、選ばれ立てられた「教師」に求められていることは何でしょう。教師は小さな舌を通して言葉を語ります。その言葉は、天の神さまが御子イエス・キリストという「言(ロゴス)」を、この世界に送ってくださったことに基礎づけられます。ヨハネによる福音書1章14節はこう記しています。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」父なる神さまは、この世界と私たちを救うために、御子イエス・キリストという「言(ロゴス)」を差し出してくださいました。この「言(ロゴス)」には、神さまの慈愛と真実のすべてが込められています。だからこそ、教師が伝える福音の言葉も、全存在を懸けて語られなくてはならないのです。言葉は、それを語る人から独立してあるのではなくて、他の人に働きかける時の自己表現であり、交わりの手立てです。そこには、自分自身が差し出されています。だからこそ、イエス・キリストを証しする言葉は、口先だけ語る言葉や、心と裏腹の言葉であってはなりません。イエス・キリストを信じる日々の信仰生活から出てくる言葉でなければ、伝えることはできません。イエス・キリストを信じる生活の背景がなければ、どんなに巧みな言葉を見事に語っても、それは相手には伝わりません。しかし、それが感謝に溢れた信仰の生活に根ざしているなら、たとえたどたどしい言葉であったとしても、それは確実に相手の心に響いていくのです。
 そしてもう一つ大切なのは、何を語り、何を差し出すべきかは、神ご自身によって示されるということです。自分が神の言葉を捉えるというよりも、先に神の言葉によって自分自身が捕らえられる。それによって初めて言葉を語り得る者とされるのが、教師のあるべき姿なのです。先ほども読んだヨハネによる福音書1章ですが、その17~18節で、聖書はバプテスマのヨハネの言葉として、次のように記しています。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」私たちは旧約の信仰者たちとは違い、御子イエス・キリストを与えられました。イエス・キリストにおいて、神さまの恵みと真理は現れました。この方は今も聖霊を通して、私たち信仰者と共にいまし、父なる神さまを余すところなく啓示して下さっています。そのイエス・キリストに固着し、キリストを通して御言葉を聴き取っていくことによって初めて、教師は神の御言葉を取り次ぐことができるのです。改革派教会はその伝統において「礼拝において語られた説教が、神の御言葉である」と語ってきました。しかし、これは牧師が礼拝説教で語った言葉が、何でもそのまま神の御言葉になるということではありません。神さまはイエス・キリストを通して語ってくださいますが、説教者が「語れ」と言われる御言葉を聴き取ることができるまで、徹底的に耳を傾けなければ、それを語ることはできないのです。そのようなことを、人間の誰ができるでしょうか? それは聖霊の力をいただかなくては不可能です。そうであればこそ、語る者は祈りながら、神の御言葉を徹底的に聴くことが求められます。それと同時に、その務めは、聞く人々の祈りに支えられなければ、到底果たすことはできません。語る者と聞く者が、祈りつつ懸命に、神の御旨を聴き取ろうとしていく。その営みがあって初めて、「礼拝において語られた説教が、神の御言葉である」という出来事が起こるのです。生きた神の言葉が語られる教会を目指すために、教師と呼ばれる者も、それを迎えている群れ全体も、神から真剣に聞き、聖霊の助けを祈り求めることが不可欠です。そのことを私たちは、心深く覚えていきたいと思います。

1月31日礼拝説教

マルコによる福音書4章35~41節        2021年1月31日(日)
「嵐の中を進む教会」   藤田 浩喜
◎今日は一年に一度の教会総会の日です。教会が昨年一年の歩みを振り返り、新しい一年の歩みへと踏み出していく日です。昨年は皆さんもご承知の通り、新型コロナウィルス感染症の甚大な影響を受けた一年でした。色んな課題を突き付けられ、その対応に右往左往した一年でした。その影響は、今もなお続いています。コロナ禍の出来事が今後の教会の歩みをどのように変えていくのか、恐れや不安を感じないではおれません。しかし神さまは、御言葉と聖霊をもって教会の歩みを必ずや導いてくださいます。その確信に立って、今年の教会総会を行い、2021年の歩みを始めていきたいと思います。
◎この朝、私たちに与えられた聖書の箇所はマルコによる福音書4章35~41節です。故郷ガリラヤのナザレで福音宣教を始められた主イエスは多忙でした。12弟子を選ばれた後、多くの人々に神の国の福音を宣べ伝えました。病気の癒しや悪霊の追放など力ある業も行われました。主イエスの評判は高まり、多くの群衆が切れ目なくやって来ます。祈りと静まりの時を持つこともできません。弟子たちも疲れていたに違いありません。そこで主イエスは、舟に乗って「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われたのでした。主イエスと弟子たちは、何艘かの舟に分かれて、向こう岸を目指してガリラヤ湖に漕ぎ出したのでした。
 キリスト教会は、よく舟にたとえられることがあります。舟は船着き場に留め置かれるのではなく、目的地に向かって海や湖に漕ぎ出していきます。漕ぎ出さないなら、舟はその役目を果たすことはできません。それと同じように教会も、新しい歩みへと漕ぎ出していくよう促されているのです。主イエスは「向こう岸に渡ろう」と、舟の行先を示してくださいました。あてどなくさまようのではありません。教会という私たちの舟に対しても、神さまはヴィジョンを与え、進むべき方向を示してくださいます。
◎舟は順調に目的地に向けて進んで行きました。弟子の中にはガリラヤ湖の漁師出身の者が何人もいます。彼らの熟練した舵(かじ)さばきのおかげで、舟は快調に目的地を目指して進んでいました。ところがです。今まで静かだったガリラヤ湖に突風が起こりました。大きな波が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどでした。このままでは舟は沈むか、転覆してしまうかもしれない。突然、危機的な状態に陥ったのです。
 ガリラヤ湖は狭い渓谷の中にありました。ハウランの高地やヘルモン山から吹き降ろす風が、その狭い渓谷を通って、南の平野部に解放されます。そのためガリラヤ湖には、天候に関わりなく、予想もしない時に突風が吹き、舟を襲うことがあったのです。漁師であった弟子たちは、当然そのことを知っていたでしょう。
しかし自然の脅威は、いつ、どこで起こるか分かりません。また、どんなに熟練した技術を持ち、豊富な経験があったとしても、大きな自然の脅威の前では無力です。弟子たちは激しい突風にあおられて、どうすることもできませんでした。
 私たちの教会という舟も、今同じような状況に置かれています。去年の今頃、私たちのだれが、コロナ禍という恐ろしい突風に見舞われることを想像したでしょう。コロナ禍という自然の脅威に対して、私たちは無力です。できることは何百年も前にペストを経験した人たちと、基本的には変わりません。ワクチンの開発など、現代科学の恩恵には感謝すべきです。しかし自然の脅威は巨大です。現代に生きる私たちも、それが過ぎ去るのを身を屈めて待っているしかないのです。
◎ところで、このガリラヤ湖に漕ぎ出した舟には、主イエスが乗っておられました。「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」(38節)とあります。主イエスは初めに申しましたように、数々の力ある業をなさった方です。そのような主イエスがこの舟に乗っておられます。そんな舟がどうして突風に襲われなくてはならなかったのでしょうか。教会という舟もそうです。教会はイエス・キリストを頭とする、キリストのからだなる教会です。教会には主イエスがご臨在くださいます。そのような教会がなぜ、コロナ禍や巨大地震や津波などに襲われなくてはならないのでしょう。そこにはどんな意味があるというのでしょう。
 弟子たちは突風に翻弄されている最中に、「イエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った」(38節)のでした。彼らは突風に見舞われて、初めて主イエスの存在に気づいたかのような様子です。そしてこのお方にすがる他に術はないとばかりに、主を揺さぶり、助けを求めるのです。あなたが乗っておられるのですから、何とかしてくださって当然です、という響きすら感じます。弟子たちはそれほど切羽詰まっていたのでしょう。
 先日、片田敏孝という災害情報学の先生が書いた『人に寄り添う防災』という新書を読んでいましたら、興味深いことが書いてありました。片田先生は、日本の各地に講演会に行かれます。するとかならずその場所で、「次にいつ巨大地震は起きますか」、「それはどのくらいの規模ですか」と聞かれるそうです。片田先生はそれに対していつも、「分かりません」と答えるそうです。そのように敵とも言うべき災害について、人は正確に知ることはできない。しかし、災害から身を守るために大切なのは、敵ではなく「我を知ること」。自分が地震や津波、大規模水害などの自然災害に対して、どんな気持ちでおり、どんな姿勢で臨んでいるかを正確に知ることから、防災は始まるというのです。たとえば人は、心の平静を保ちたいという気持ちがあって、自分が災害に見舞われるような状況を、積極的に想像しようとしません。これを正常性バイアスと言うそうですが、これが働いてハザードマップを見たり、避難経路を確認したり、緊急避難袋を備えたりするのを怠ってしまうのです。しかしその反面、誰かのためになら行動したいという愛他性というものがあります。「おじいちゃんがいるので、自分たちだけなら行かないけれど、早めに避難所に行っておこう」と考える。「あなたが積極的に率先して避難することで、他の多くの人も後押しされて避難するんですよ」と言われると、他の人に役立つならと、率先して避難をする。そういう正常性バイアスと愛他姓を併せ持っているのが人間です。そのような「我を知ること」から、災害に備えることは始まるのだと言われるのです。
 これを知って、なるほどと思わされました。教会という主イエスが乗り込んでおられる舟にも、突風のような出来事が起こります。今回のコロナ禍のような、自分の力ではどうしようもない、無力としか感じないような出来事が起こります。神さまは勿論、私たちを苦しめようとして、このような疫病や自然災害を起こされる方ではありません。これらの疫病や自然災害は、神さまが天地創造の時に造られたこの地球のメカニズムが、様々な外部要因を受けて、自ら引き起こしているものではないでしょうか。コロナ禍にしても、人間による過度な開発によって、本来人間が接点を持たない野生生物の領域に踏み込んでしまったことが、原因の一つだと言われています。航空輸送の飛躍的な発達によって、人々が全世界を行き来できるようになったことも、その一因でしょう。ですから、疫病や自然災害を神さまが引き起こしたと、単純に言うことはできません。
 しかし、神さまはこうした大きな出来事を通して、教会という舟に乗っている私たちが、本来あるべき自分の姿に気づくように、促しておられるのではないでしょうか。信仰者である「我を知ること」、「信仰者である我が神に改めて立ち帰る」機会として、神さまはこのような出来事をも、用いられようとされるのです。決して無駄にはされないのです。この嵐のような出来事にも、神さまの不思議な御旨が働いています。この嵐も、主の御旨の中に入っているのです。
ボンヘッファーはナチスドイツに抵抗したために、投獄され、その後処刑された牧師であり神学者ですが、彼は牢獄の中で次のように書いています。「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生ぜしめることができ、それをお望みになります。そのため、すべてのことが働いて、益となるような奉仕をする人を必要としておられます。神は、どんな困難にあたっても、わたしたちが必要とするかぎりの抵抗力を与えてくださいます。しかし、その力を前もってはお与えになりません。それはわたしたちが自分にではなく、神により頼ませるためにほかなりません。こう信じれば、将来に対する不安はなくなります。わたしたちのあやまちや過失さえも、むなしくはなく、神は、そのような過失や誤りをさえ用いて、わたしたちが良いと思っていることよりも、もっと良いことをしてくださることが、困難でないと信じます。神は、無時間的な運命ではありません。誠実な祈りと責任ある行為を期待し、それに答えてくださることがおできになる方だと信じます。」突風に襲われた弟子たちも、コロナ禍という出来事に見舞われている私たちも、湖面が穏やかな間は、どれだけ深く神さまに依り頼んでいたでしょう。主イエスがこの舟におられることすら忘れているような、自分本位な生活を送っていたのではないでしょうか。しかしそれは信仰とは言えません。教会の存亡に関わるような巨大な嵐が襲ってくならば、決して耐えることはできないでしょう。「あるべき我」を見いだし、「依り頼むべき方」に本当に依り頼むことができるように、神さまは必ずや今回の出来事も用いてくださるでありましょう。
◎弟子たちに起こされた主イエスは、立ち上がり、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」ました。「すると、風はやみ、すっかり凪になった」と言われています。主イエスは、弟子たちが恐れ、驚嘆したように、「風や湖さえ従わせられた」のです。これは主イエスが神と等しい方であり、自然的世界をも支配されること表しています。これに関連して興味深いことは、主が同じような言葉を、汚れた霊を追い出したときに、使われていることです。1章21節以下は、会堂にいた悪霊につかれた男を主イエスが癒された出来事が記されています。主は悪霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」(1:25)とお叱りになって、その人を悪霊の支配から解き放ってくださったのです。イエス・キリストは、自然的世界を従わせるだけでなく、神に逆らう悪霊をも従わせられます。私たちは主にあって、自然的な脅威や悪魔的な支配から解放されて、今や、神の恵みの支配へと移されているのです。この舟は「向こう岸へ渡ろう」と主が言われて船出したものでした。そして、この舟は湖を進んで行きます。前途には色んな出来事が起こるでしょう。しかし、この舟は神の御心に導かれ、神の恵みの御支配のもとに進んで行きます。どんな自然的な脅威も悪魔的な攻撃も、この舟を損なうことはできません。神の守りの中で、神の御心に適った目的地に到達することができるのです。教会という私たちの舟が、そのような特別な舟、神の小羊を旗印に戴く特別な舟であることを、私たちは深く覚えたいと思います。

1月24日礼拝説教

ヤコブの手紙2章20~26節      2021年1月24日(日)
 「行動の中に具体化した信仰」 藤田 浩喜
 今日読んでいただいた聖書ヤコブの手紙2章26節において、ヤコブはこのように言っています。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」「行いを伴わない信仰は死んだものです。」大変はっきり、ズバッと言っています。これを聞いて皆さんは、どんな感想をお持ちになるでしょう。「確かに、信仰にとって行いは大切だ。しかし、行いがなければ信仰は死んだものとは、言い過ぎではないか。行いたくてもできないこともある。行い至上主義になってはいけない。」あるいはそれとは正反対に、こう思うこともあるでしょう。「マザー・テレサや石井十次といったキリスト者のことを考えると、自分はあまりにも愛の行いができていない。信仰が心の中だけのことになってしまっている。先人たちのように、もっと愛を行う人になりたい。」
 このように「信じること」と「行うこと」は、なかなか難しい問題です。この両者の関係をどう考えたらよいのでしょう。ある人は、パウロはこの関係を教理的に考え、ヤコブは実践的に考えたと言っています。以前にも申し上げましたように、使徒パウロもキリスト者の「行い」を大切なものと考えています。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)という彼の言葉を紹介しました。しかしパウロは、割礼や安息日厳守などの律法を守らなくては救われないという律法主義と戦っていました。もしそうならば、ユダヤの律法を守らない異邦人は救われないということになってしまいます。しかしパウロはその律法主義を否定し、人はイエス・キリストの十字架と復活を信じることによってのみ救われるという信仰義認を主張したのです。それによって、ユダヤの律法を守らない私たち異邦人にも救いがもたらされたのです。パウロはそのことを明確にしなくてはなりませんでした。だから信じることと行うことを分離して、救いにはただ信じることだけが必要だと述べたのです。しかしだからと言って、キリスト者に行い、特に隣人への愛が不必要というわけではありません。キリストによって救われた者は、その恵みへの喜ばしい応答として隣人への愛に生きるように促されます。だからキリスト者として、キリストの御後に従って生きる時に、愛を行うことが大切になってきます。パウロはそのように、信じることと行うことを段階的に考えているところがあるのです。理屈に適っているという意味で教理的なのです。
 一方ヤコブは、パウロより後の時代に生きています。ヤコブにおいても、人が救われるのはイエス・キリストの十字架と復活を信じることのみによることは変わりません。しかしヤコブは、信仰を信じることと行うことに分けて考えることに反対します。仮に教理としては正しくても、信じることと救いが直結しているため、どうしても行うことが軽んじられてしまいます。パウロの言うことを最後まで聞かないで、行いなしの信仰が存在するかのような誤解が生まれてしまいます。行うということが、信仰において大して意味を持たないかのように思い込んでしまします。プロテスタント教会には、そうした傾向があるように思います。それに対して、ヤコブは強烈な異議申し立てをしているのです。そもそも神さまを信仰するということは、信じることと行うことの両面から成り立っている。信じることは人を行うことへと駆り立てずにはおかない。反対に行うことによって、その人の信じていることが明らかにされ、より深く信じることへと導かれる。それは私たちも、経験的に感じていることではないでしょうか。ヤコブは信仰が、信じることと行うことの両面からなることを実践的、経験的に知っていました。それが見過ごされてはならないと、強く感じていました。だからこそ今日の21節でヤコブは、次のように言うのです。「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。」ヤコブは信じるだけで自己満足しているキリスト者を、嘆かわしく思っていたことが分かります。彼の信仰的な経験によれば、信じることだけで行いの伴わない信仰は、役に立たないだけでなく死んだものなのです。
◎そしてヤコブは、自分が確信していたことを、旧約聖書に登場する二人の人物を取り上げることで証明しようとしています。旧約聖書も信じることと行うことを、深く結びつけていたことを、明らかにしようとするのです。
 まずは「信仰の父」と呼ばれたアブラハムです。21~22節を読んでみます。「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」そのようにヤコブは語りまして、それに続く23節には、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という大変有名な言葉が語られるのです。
 この「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という言葉は、創世記に出てくる言葉です。しかし、イサクを祭壇に犠牲として捧げようとした創世記22章ではなく、少し前の15章に出てくるのです。この15章で主なる神は、子どものいないアブラハムに向かって、祝福を述べられます。そしてその祝福をあなたの子どもが受け継ぐことになると言われるのです。それだけでなく、主なる神はアブラハムを外に連れ出し、満天の星が輝く夜空を彼に仰がせます。そして言われるのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)。子どものないアブラハムは、その主の約束を信じます。心から受け入れます。そこに出てくるのが「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という御言葉なのです。確かにアブラハムは、主なる神の約束を信じることで義と認められたのです。
 しかしアブラハムの信仰は、主なる神の約束を受け入れるだけに留まることはありませんでした。創世記22章では、主なる神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい…彼を焼き尽くす献げ物としてささげない」とアブラハムに命じます。この戦慄すべき命令を受けたアブラハムの感情は、聖書の記事からほとんど読み取ることができません。出来事は淡々と進んで行きます。そして、アブラハムは、祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。そのまさにその時に、主なる神は御使いを通して介入され、次のように言われたのです。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ」(創世記22:12)。主なる神は、愛する我が子すら献げようとするアブラハムの行いをご覧になりました。その御言葉に従う行いを見て、彼が本当に神を畏れる者であることが分かったと、認めておられるのです。主なる神にとっても、人間の信仰は、心で信じることに終わるものではありません。主なる神も、信じていることが具体的な行いとなって現われ出ることを求めておられる。行いとして表してほしいと願われている。イサクを捧げる出来事は、そのことを教えてくれるのです。
◎もう一人の旧約聖書の人物は遊女のラハブです。今日の25節を読んでみましょう。「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。」この女性をめぐる出来事は、ヨシュア記2章に詳しく記されています。約束の地カナンに攻め込む準備のため、ヨシュアは密かに二人の斥候をエリコに送り込みます。斥候というのは偵察員・スパイのことです。二人はラハブという遊女の家に宿を取ります。ところがエリコも警戒していたのでしょう。偵察員が潜入したという情報が入り、エリコの王はそのスパイを捕まえるために、追っ手を放つのです。その追っ手は、遊女ラハブの家にもやって来ます。怪しい者がいるなら引き渡せと、迫ります。しかし、ラハブはそのような者は見かけたが、すでに町を出て行ったと、うその報告をします。彼らを見当違いの所に向かわせます。それだけでなく、斥候の二人を壁伝いに綱で家の窓からつり降ろし、追っ手に捕まらないための策を授けて、二人を無事に町から逃がしてやるのです。
 異邦人であり、エリコの住人であったラハブがどうして、イスラエル方の斥候をかばい、彼らを町から安全に逃がしたのか。どうして、自分の町に攻め込んで来るような者たちに味方したのか。聖書はその理由を、ラハブがイスラエルの神を、まことの神だと信じたからだと言うのです。ラハブは、イスラエルの主なる神が出エジプトの時、紅海の水を干上がらせたことを聞いていました。また、同じカナンの王たちであるアモリ人のシホンとオグを滅ぼし尽くしたことを聞いていました。そうしたことを聞いて、ラハブは次のように言うのです。「それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」(ヨシュア2:11)。ラハブは主なる神こそが、まことの神であり、この方の前では何人も立ち向かうことはできないと確信しました。天と地のすべてを治めておられることを確信しました。この方の御心であれば、エリコの王がどんなに抵抗しても、防ぐことはできません。そのことを確信したラハブは、ヨシュアたちが攻め込んで来た時、自分と家族に危害を加えないという交換条件で、二人の斥候をかくまい、逃がしたということだったのです。彼女は状況を的確に読める女性であり、二人の斥候を助けたのも自分とその家族の身を守るためではありました。しかし、そうではあっても、彼女はイスラエルの主なる神こそが、全地を治めるまことの神であることを信じました。そして信じたことが、その神の御心に仕えるために何をすべきかという行いへと、彼女を導いたのです。
主なる神こそが全地を治める神であると、私たちも信じています。しかしその信仰は、私たちの生き方や日々の生活の中で、どのような行いとなって結実しているでしょうか。主なる神は、ラハブがそうであったように、ご自身への信仰を具体的な行いとして表すことを、お喜びになります。異邦人であり、社会的に低く見られていた女性の勇敢な行為を、神は御心に仕えるものとして用い、イスラエル民族の記憶の中に深く刻んでくださったのです。信じることから促された行いを、それがどんなにささやかであっても、神は祝福し用いてくださるのです。
◎今日の箇所でもそうですが、ヤコブは信仰において信じることと行うことを切り離すことのないように、強く訴えています。行いが救いを生み出すということではありません。そうではなく、信じることと行うことは、私たち人間が生ける神を現実に体験する、切り離しがたい二つの面なのです。その両面があってこそ、信仰生活は、死んだものではなく、生きたもの、いのちに満ちたものになっていくのだと思います。「それを、どうしても知ってほしい!」そのヤコブの切実な訴えに、心から聴いていく私たちでありたいと思います。

1月17日礼拝説教

創世記47章18~26節             2021年1月17日(日)
「キリストによって買い取られた命」   藤田 浩喜
 中東世界を襲った飢饉は、収まる様子がありませんでした。ヤコブの一族が住んでいたカナン地方も同様でした。飢饉により食べる穀物が少しも獲れません。そこで、エジプトの総理大臣になっていたヨセフの勧めに従って、ヤコブの一族すべてが全財産をたずさえてエジプトにやって来たのでした。
 ヨセフは兄弟たちの内五人を選ぶと、エジプト王ファラオに謁見させます。ファラオは兄弟たちの願いを聞くと、エジプトのどこにでも住んでよいという許可を出し、有能な者はファラオの家畜の監督者に取り立てようと言います。そして、兄弟たちとは別の機会に、父ヤコブをエジプト王ファラオと謁見させるのです。
 その時のことです。ファラオの前に立ったヤコブは、「ファラオに祝福の言葉を述べた」(7節)です。エジプト王ファラオを祝福したというのです。片や大帝国エジプトの絶対的君主であるファラオです。中東世界の支配者とも言うべき存在です。片やカナン地方の牧畜を生業とする一部族の長にすぎないヤコブです。しかも今は、エジプト王に住まいや食料の援助を受けなければ、生きていくこともできません。その立場は比較することすらできません。ところが、ヤコブの方がファラオを祝福したというのです。祝福というと、より高い立場にある者がより低い者に与えるものという感じがします。しかし、ここでは立場的には圧倒的に低いヤコブが、エジプト王ファラオに祝福の言葉を述べているのです。
 ご承知のように主なる神は、アブラハムを召し出し、祝福して言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」(創世記12:2)。この主なる神の祝福は、その子イサクを通して、孫であるヤコブに受け継がれていました。ヤコブは今、祝福の源として、エジプト王ファラオを祝福しています。それによって「あなたの祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)という約束が成就するのです。
ヤコブは確かに地上にあっては今、エジプト王ファラオの庇護を受けなくてはならない者です。ファラオは主なる神の御心に沿って、ヤコブの一族に住居、食料、仕事を提供します。しかし、ヤコブは地上の権威を超えたお方の約束を与えられ、その約束のもとに生きています。彼は地上でどんな境遇に置かれても、神から与えられた祝福の源としての使命に生きています。だからこそ、この世で絶大な力を持つファラオの前でも堂々としており、その計らいに感謝しつつも、ファラオに祝福の言葉を述べることができたのです。
これは、私たちキリスト者の生き方にも通じるものです。私たちはキリスト者として、この祝福の系譜に連なっています。ヤコブと同じように私たちは、この世に生きる限り、様々なものをこの世に負っています。この世から受け取っています。食料、財産、仕事など。しかしこの世を超えた権威の下、この世を超えた約束の下に生きているがゆえに、この世で力あるものの前で卑屈にならず、時にそれに感謝しつつも、それを絶対化することなく生きていくことができるのです。
さて、今日司式者に読んでいただいた箇所は13節から始まりますが、「ヨセフの政策」という小見出しがついています。読まれてお分かりになったように、飢饉が一向に収まらない中で、エジプトの民が生きんがために、色々なものを穀物に換えていったことが記されています。最初はお金と引き換えに、総理大臣のヨセフから穀物をもらいました。その次に、エジプトの民は財産であった家畜を連れて来て家畜と引き換えに、穀物をもらいました。それでも飢饉は収まる様子はありません。そこでとうとうエジプトの民は、自分の持っている土地と自分自身を差し出すことで、ヨセフから穀物をもらうことができたのです。それは、彼らが土地共どもファラオの所有となり、ファラオの奴隷になるということでした。
ここの箇所を読まれて、あまりよい感じを受けなかった方もおられるでしょう。強大な力を持つ者が、弱い立場にある民の窮状を利用して、次々に彼らの持ち物を取り上げ、最後には民自身も奴隷にしてしまう。その巧妙さと冷徹さに、嫌悪感を抱く方もおられるに違いありません。聖書の学者たちによれば、これは当時のエジプト王が持っていた強大な権力(至上権)が、どのように形作られてきたか、その由来を語る物語(原因譚物語)であろうと言われています。ヨセフが非常に優秀な為政者であったので、ヨセフの政策によってこのようなエジプト王の強大な権力が確立していったのだと述べている。つまり、それができた原因を、ヨセフの政策と功績に帰そうとしているというのです。
それはともかく、聖書はこの13~26節の箇所を通して、どのようなメッセージを私たちに語ろうとしているのでしょう。キリスト教信仰は、ここに登場しているヨセフを、イエス・キリストの予型、イエス・キリストを指し示すような存在として考えてきました。ヨセフを後に現れる救い主イエス・キリストに準えることによって、聖書のメッセージを受け取ることができるのです。
まず第一に、私たちはエジプトの民が、自分の命を保つために自分の持ち物を全部携えて行き、奴隷となろうとしたことを知らされます。エジプトの民は、自分の持ち物にしがみついて死ぬよりも、すべてを捧げて必要なものをいただき、生きる方を選んだのです。彼らは命を保つためには、自分の持っているものを携えてヨセフのもとに行くべきだと知っていたのです。
このせっぱ詰まった状況の下で王の僕となる人々の経験から、私たちは神さまの僕となって命を与えられることを学びます。自分の持ち物や能力に依り頼んでいる人は死んで滅んでいきます。しかし、すべてを主イエスの御前に携えて行き、神さまの御支配の中に入れていただくなら、生きることができるのです。自分の小さな力やわずかな持ち物で何とかしようと思っても、活路は開かれません。思い煩いが深くなるばかりです。しかしそうではなく、私たちの持てる物を携えてとにかくイエス・キリストのもとに駆け込むなら、生きることができます。困難の中で生きていくために、必要なものが与えられるのです。
実際、23節以下には土地と共に奴隷となったエジプトの民のために、ヨセフが具体的な手立てを授けています。彼らはファラオの所有とはなりましたが、収穫の五分の一だけをファラオに納めるように言われました。あとの五分の四は、自分や家族の食料にしたり、種もみにすることができたのです。この二割の上納分は、驚くほどの低さです。バビロンの記録では四割、エレファンティネ島の記録では六割だったと言われます。日本の江戸時代でも年貢は五割が基本で、藩によっては六割というところもありました。確かにエジプトの民は土地共々ファラオの所有にはなりましたが、打ち続く飢饉の中にあっても、彼らは生きるための確実な手立てが与えられていたのです。
それと同じことが、持てる物を携えてイエス・キリストのもとに駆け込む私たちにも当てはまります。飢饉のような困難や試練は、相変わらず続いているかもしれません。状況はすぐに好転しないかも知れません。しかし、イエス・キリストは、その中で私たちが生き抜いていくために必要な手立てを示してくださいます。パウロが言うように、「試練と共に、それに耐えられるように、逃れる道をも備えていてくださるのです」(Ⅰコリント10:13)。
この箇所が語る二つ目のメッセージは、23節でヨセフがエジプトの民に言った言葉です。「よいか、お前たちは今日、農地とともにファラオに買い取られたのだ。」穀物という代金を払って、彼らが買い取られた。ファラオの持ち物になったということが宣言されているのです。今日このことに関わって読んでいただいたのは、コリントの信徒への手紙7章22~23節でした。もう一度読んでみましょう。新約聖書308ページです。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。」
ヨセフは穀物という代価を払って、エジプトの民をファラオの奴隷としました。ファラオの所有物となりました。しかし、ヨセフが指し示した救い主イエス・キリストは、キリストの死という身代金を払って、人を神のものとされました。神の所有とされたキリスト者は、神のご支配の下にあります。神の御心に服さなくてはなりません。キリストの奴隷となった以上、主人はイエス・キリストです。イエス・キリストが聖書を通して語られているように、キリスト者は生きていかなくてはなりません。もはや、自分勝手に生きることはできないのです。
しかし、それは本当に窮屈で不自由なことなのでしょうか。エミール・ブルンナーというドイツの著名な神学者は、「人間というのは立像(スタチュー)ではなく、浮彫(レリーフ)である」と言っています。つまり、何ものからも独立して自由に立っているのではなく、何かを背景に持ちながらそれに張り付いて生きているのが人間だというです。いつも何かに支配され、それに捕らわれて生きているのが人間の掛値のない姿だというのです。パウロは先ほどのⅠコリント7:23で「人の奴隷となってはいけません」と言っています。自分は自由だ、何ものからも独立していると思っていても、人の目の虜になっているかもしれません。お金や名誉や権力欲の奴隷になっているかも知れません。神に敵対するサタンや様々な偶像の奴隷になっているかも知れません。そういう私たちを、イエス・キリストが買い取って自分のものとしてくださった。私たちはイエス・キリストという背景を持たなくては、他の悪しき者を背景として生きていかなくてはなりません。私たちを利用し、滅ぼそうとするものに張り付いて、生きていかなくてはなりません。そうならないように、イエス・キリストはご自分の命を捧げて、私たちを買い取ってくださったのです。私たちを生かし、本当の自由を得させるために、そうされました。だからこそパウロは、「しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤ5:1)と、叫ぶように語るのです。
今日の説教の始めに語りましたように、アブラハムの約束を受け継ぐヤコブは、この世にあって、この世を超えた約束のもとに生きた人でした。彼はこの世で力ある者の前でも卑屈にならず、時にそれに感謝しつつも、威厳をもって生きることができました。彼は時の絶対的な権力者であるファラオもまた、主なる神のご支配の下にあることを知っており、彼に祝福の言葉を語ったのです。この約束は、私たち今日のキリスト者にも、イエス・キリストを通して受け継がれています。イエス・キリストに買い取られ、イエス・キリストの所有とされた私たちも、アブラハムやヤコブと同じように、この世を超えた約束のもとに、祝福を世にもたらす源として歩んでいくように、励まされているのです。この世にあってこの世を受け入れつつも、この世を超えたものに導かれて、神の祝福を持ち運ぶ者として用いられている。そこに、キリスト者として生きる私たちの歩みがあるのです。

1月10日礼拝説教

ヤコブの手紙2章14~19節          2021年1月10日(日)

「行いを伴う生きた信仰」  藤田 浩喜

 今日読んでいただいたヤコブの手紙2章15~16節で、著者ヤコブは実にショッキングな例を挙げています。実際にあったことか、ヤコブの創作かは分かりませんが、次のように言うのです。「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」「兄弟あるいは姉妹」というのは、教会で兄弟姉妹と呼び合う信仰仲間のことです。その信仰仲間が、着る物だけでなく食べる物にも困窮している。それを知っていながら、耳ざわりのよい言葉を掛けるだけで、必要な食べ物や着る物を何一つ提供しようとしないなら、困っている仲間には何の役にも立たたない。耳ざわりのよい言葉は、絵空事でしかありません。そこから分かるように、信仰を持っていると言っていても、行いが伴わなければ、絵空事に過ぎないし、何の役にも立たないと言うのです。

 特にここの言葉「安心して行きなさい」は、人々が分かれる際に交わされるあいさつであると同時に、当時の教会において、礼拝の最後に語られる祝福の言葉でもあったと言われています。本来、礼拝から遣わされて世に出て行く人に、守りと平安を祈る祝福の言葉が、中身のない、わざとらしい、絵空事の言葉になっているのです。しかし、このような言葉を、信仰を持っていると言う私たちキリスト者も使っていることがありはしないか。空々しい言葉を掛けるだけで、兄弟姉妹にとって実際の助けとなる行いがどれだけできているのか。この例話は、私たち信仰者の心に鋭く迫って来るのです。

 

 そもそも今日の箇所で著者ヤコブが言わんとしていることは、一体何でしょう? 彼は「人は信仰のみによって救われる」という信仰義認を否定しているのではありません。「信仰」と「行い」を二者択一的に並べて、「行い」こそ選ぶべきだと言っているのではありません。新約聖書学者たちは、ヤコブがパウロのことを知っており、ローマの信徒への手紙の内容も知っていたと言います。

 ご承知のように使徒パウロは、「行い」による救いを否定し、人は「信仰によってのみ」救われると主張しました。人がどんなに善い行いを積み重ねても、救いを生み出すことも、救いに到達することもできません。主イエス・キリストが十字架と復活によって私たちの罪を贖い、神と私たちを和解させてくださった。そのことを信じることによってのみ、私たちは救われるのです。

 しかし、パウロは手紙においてそのような救いの教理を語った後で、キリスト者がどのように生きるべきかという実践的な勧告を、必ずと言ってよいほど語ります。キリスト者にとって、御心に適った生活をすることや隣人に愛を行うことがいかに大切かを丁寧に教えています。ガラテヤの信徒への手紙5章6節では、「…愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と言っています。パウロは、救われた信仰者がキリストの愛に根ざした愛の行いに生きることを、強く勧めているのです。人が救われるために行いは必要ありません。しかし、救われたキリスト者が、信仰をもって生きるということの中に、愛の行いは不可欠なのです。限りなく愛してくださる神さまに応答して、私たちも隣人への愛を行っていくこと。それが私たち信仰者にとって、聖化の道を歩んでいくということなのです。

 ところが使徒パウロの健全な信仰を誤解して、「信仰」と「行い」を分けて考える人たちが現れました。イエス・キリストの救いを信じることだけが大切で、行いには何の意味もない。それは行いによって救われようとする「行為義認」である。「信仰だけあれば十分なんだ。」そういうパウロの健全な信仰を誤解したキリスト者たちが、ヤコブの手紙の宛て先教会にもいたようです。ヤコブはそのような人たちの考えを糾し、彼らを健全な信仰理解に連れ戻すために、今日の言葉を強い口調で語っているのです。三つのことを聞いていきましょう。

 まず、ヤコブの手紙がここで言っていることは、「耳ざわりのよい言葉を語る感情に酔うな」ということです。冒頭に取り上げた言葉の中で、貧しい兄弟姉妹に語りかけた信仰者は、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言っています。この人は恐らく、心からそう思って声を掛けているのでしょう。着る物や食べ物に困っている信仰仲間に、具体的な援助を行うということには全く思い至りませんが、そういう信仰者らしい言葉を掛けている自分の気持ちに酔っているのです。これは他人事ではありません。私たちはしばしば「あなたのことを祈っていますからね」と、信仰仲間に言葉を掛けます。実際にその日から、その友のために祈り始める人もいるでしょう。しかし、「あなたのことを祈っていますからね」と言えたことに満足して、実際には祈らなかったということもあるのではないでしょうか。信仰仲間が置かれた状況に共感し、感情が動かされ、その人のためを思う言葉が口をついて出てくる。そんな自分であることに満足して、そこで止まってしまうのです。

 こうした人について、ウィリアム・バークレーという注解者は次のように言っています。「いつも、すばらしい感情にひたっているだけの人は、その感情領域を出て行動にあらわすことはない、ということはよく経験する事実である。ある意味で、人は少なくとも憐れみと同情を行動に移すのでなければ、憐みとか同情を感じる権利をもつことはできないと言える。感情とはそれをもてあそぶものではない。それは努力と苦労と規律と犠牲という代価を払って、人生という織物におりこまねばならないものである。」聴くべき言葉ではないでしょうか。

 二番目にヤコブが言っているのは、信仰を行いによって示しなさいということです。18節を読んでみます。「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」この18節の前半は難解で、色んな読み方が提案されてきました。ヤコブが言っていることと、ヤコブが批判している人の言葉があべこべではないかとも感じます。そこで、日本におけるヤコブの手紙の第一人者である新約学者は、ここを次のように訳しています。「だが、ある人は言うだろう、『君は信仰を持っているのか?』ならば私は[言おう]、私は行いを持っている、と。行いなしで君の信仰を私に見せてくれ。そうしたら私は、行いによって私の信仰を君に見せよう。」批判されている者の言葉を、「君は信仰を持っているのか?」という疑問文一文だけとすることで、ヤコブの論旨が明快になっています。いずれにしてもヤコブにとって、信仰は信仰だけで独立したものではありません。信仰は行いとなって現われてくるものなのです。信仰はその人の心の中にあって見えないものです。しかし、その人が信仰によって生み出す行いを見て、周囲の人々はその人の中に確かな信仰が宿っていることを知るのです。

 主イエスはマタイによる福音書7章15節以下で、「良い木はその実によって分かる」と言っておられます。私たちはキリスト教信仰が良いものであり、人を救うものであることを、家族や周囲の人たちに分かってほしいと、願っています。そのキリスト教信仰の良さ、素晴らしさは、言葉による説明や説得ではなかなか伝わりません。それも必要ですが、イエス・キリストの愛に照らされ、押し出されて行う、私たちの日々の行いや生きる姿勢といったものを通して、周囲の人々はキリスト教信仰の素晴らしさを感じるのではないでしょうか。もちろん立派なあなたを見せなさいということではありません。背伸びをすることでもありません。心から依り頼めるお方と共に、人生を歩んでいける。自分には心から自分を愛してくださる方がいてくださる。その嬉しい思いが、小さな行いや態度を通して伝わっていくよう、祈りつつ努めればそれでよいのです。それで十分なのです。

 第三番目のことは、知識や概念だけの信仰は、死んだものであり、人を生かさないということです。19節にはこう言われています。「あなたがたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」ここで「神は唯一だ」ということが出てくるのは、唐突だと思われるかも知れません。これは、旧約聖書時代以来のイスラエルの人たちが唱え続けた正統的な信仰告白、信条、また信仰箇条でした。しかし、そのように信仰を告白するだけなら、悪霊でもしているというのです。いくらそのことを知っていても、生活が変わらなければ悪霊と同じだというのです。やがて滅ぼされてしまう悪霊と変わらない境遇にあるのです。それとは反対に、信仰から出てくる行いによって生活は変わり、毎日が生きたものになっていくのです。自分の生活だけではありません。日々関わっている家族や周りの人たちにも、いのちの息吹が及んでいくのです。

 

 今日の説教の最初に、行いの伴わない信仰者が信仰仲間に掛けている言葉として、「安心して行きなさい」という言葉が語られていました。実はこの言葉を、主イエスもしばしば、弱い立場にある人や病を癒された人に向かってお掛けになったのです。マルコによる福音書5章21節以下に、主イエスが12年間も出血の病に苦しんでいた女性を癒された記事があります。その癒しは、主イエスがご自分の意志でなさったものではありませんでした。「この方の服にでも触れればいやしていただける」という女性の信心に応えるように、主イエスの内から出て行った力によってなされたものでした。いずれにせよ、女性の長年の病は癒されたのです。そして、主イエスはそのまま彼女を、その場から去らせはしませんでした。群衆のひしめく中でしたが、主は触れた者を見つけようと辺りを見回されました。そして、おずおずと名乗り出た女性に向かって、この言葉を掛けられたのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」(34節)。主イエスは、ここで実際に、この女性の病の苦しみを解決されて、この言葉を語っておられます。この言葉にふさわしい事柄が、実際に主イエスによってなされています。そしてそこから、病の苦しみから解放された、この女性の新しいいのちが始まっていったのです。これまでの日々とは違う、喜びの歩みが始まっていったのです。「安心して行きなさい」と言うだけでなく、その言葉にふさわしい信仰の行いがなされていく。それはどんなにささやかな行いであっても、主イエスの与えてくださるいのちの息吹を持ち運んでいくことなのです。たとえ、その行いが小さな祈りであったとしても、主はその行いを豊かに祝し、いのちの息吹をもたらしてくださるのです。そのことを心に刻んで、今日からの新しい一週間を過ごしてまいりましょう。

2021年 1月3日礼拝説教

ルカによる福音書2章41~52節 2021年1月3日(日)
「父の家にいます主イエス」  藤田 浩喜
 今日は1月3日(日)のお正月です。例年ですと、神社にたくさんの人たちが初詣に訪れます。今年はコロナ禍のせいで、分散して参拝するよう呼びかけられています。いずれにしても日本人の多くは、お正月に初詣に出かけ、思いのこもった願いを捧げます。けれども、神社との関りは一年に一度だけ、という人も多いのではないでしょうか。

 さて、今日司式者に読んでいただいた聖書でも、ヨセフとマリア、12歳のイエスが、エルサレム神殿に詣でています。旧約の律法によれば、「律法の子(パル・ミツヴァー)」と呼ばれる成人男子は、年に3回エルサレム神殿を詣でるように定められていました。過越しの祭、五旬祭、仮庵の祭の時でした。ヨセフとマリアの夫婦はこの律法の定めを熱心に守っていたようです。そして、この過越しの祭の時にも、ナザレから100キロの道のりを旅して、エルサレムまで上って来たのでした。
 息子のイエスは12歳で、来年には律法の定める成人になります。そのこともあって、息子のイエスにも宮詣の経験をさせようとエルサレムに連れてきたのでしょう。一行は祭の期間中何日かエルサレムに滞在し、神殿にも参り、その後帰路についたのでした。
 ところがナザレに向けて一日進んだところで、マリアとヨセフは息子のイエスが、旅の一行にいないことに気づくのです。当時、エルサレム詣では村単位、町単位で行われていました。大勢の人たちが男組、女組に別れて、その日の集合地点まで旅をしていました。ヨセフは息子イエスが母と一緒にいるだろうと思い、マリアの方は息子が父と一緒だと思っていたのでしょう。集合地点で落ち合うと、父母のどちらとも一緒に来ていない。どこにもいない。これは大変だということで、ヨセフとマリアの夫婦は親せきや知り合いの人に尋ねながら、息子イエスを探して、エルサレムへの道を戻って行ったのです。12歳の成人間近とは言え、まだ子どもです。二人は気が気でない思いで、必死に息子を探しながら、来た道を戻って行きました。

 そして、息子の姿が見えなくなって三日後のことです。マリアとヨセフはとうとう都エルサレムまで戻ってきました。ひよっとしてと思って、エルサレム神殿に行きました。すると、そこに息子イエスがいたのです。46節以下の所です。「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの受け答えに驚いていた」。過ぎ越しの祭の期間、神殿の境内では律法学者や信仰熱心な人たちが、神の教えである律法について学び合う機会が設けられていたようです。日頃疑問に思っていることについて、律法の先生に教えを請うたり、自分の考えを述べる機会になっていたようです。今日で言えば、公開学習会といったところでしょうか。その場の真ん中に12歳の少年が座り、律法について話を聞いたり、質問をしたりしていたと言うのです。勿論、後の主イエスのように、人々に教えを述べていたというのではないようです。しかし、律法学者や信仰熱心な大人たちに交じって、対等に受け答えをしていた。熱心に語られることに耳を傾け、的を得た質問をしていた。人々はイエスの賢い受け答えに、驚き、感心していたのでした。
 その場面を目撃したマリアとヨセフは、驚きます。12歳のまだ子どもでしかない息子が大人たちに交じって、対等に受け答えをしているなど、想像もつかなかったからです。しかし、していることはともかく、何の断りもなしに旅の集団から離れて、単独行動をしたことは許されることではありません。マリアは少しきつい口調で、こう声をかけたのでした。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです」(48節)。私たちがマリアの立場であれば、もっときつく叱りつけたに違いありません。三日間も行方知れずの息子を見つけたのですから、親としては当然のことです。
 しかし、それに対する少年イエスの答えは、父母のまったく虚を突くような、思いも寄らないものだったのです。49節です。「すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか』」。エルサレム神殿を、「自分の父の家」だと言っている。父の家とは、ナザレのヨセフの家ではないのか。この子は何を言っているのだろう。マリアとヨセフは、イエスの言っている言葉の意味が分かりませんでした。しかし、行方知れずの息子が見つかったことには違いありません。父と母は息子を伴って、ナザレへと帰って行ったのでした。母マリアも、息子が何を言おうとしたのかは、分かりませんでした。しかしそれでも、ベツレヘムで羊飼いの礼拝を受けた時と同じように、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(51節)のでした。

 12歳の少年イエスは、神殿の境内の真ん中に座りながら、マリアとヨセフに言いました。「…わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)。この言葉は、ヨセフではなくて、父なる神こそが自分の父であると表明した言葉です。少年イエスは、自分が神の子であり、子である以上、父なる神の家である神殿にいることは当たり前であると、述べているのです。これまで、羊飼いたちに現れた天の御使いが、イエスは神の御子であると伝えました。羊飼いたち、シメオンや女預言者アンナも、幼子イエスが神の子であると証ししました。そして、ここでは少年イエスご自身が、自分は神の子であると、自ら述べているのです。そして皆さまがご存じの通り、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、父なる神ご自身がそのことを証しされるのです。イエスが洗礼を受けて祈っておられると「…『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」(3:21)のでした。そのように、主イエスは神の御子であられますから、本来、父である神の家、すなわちエルサレム神殿におられるのが、当然なのです。そこが本来、おられるべき場所なのです。
 しかし、「自分の父の家にいるのは当たり前」なのは、神の独り子イエス・キリストだけではありません。主の功(いさお)しにより神の子として頂いたキリスト者にとってもそうなのです。私たちには肉の父親がおり、その父の家に住んでいる者たちです。しかし、私たちはイエス・キリストが兄弟姉妹となってくださったゆえに、神の子として頂きました。そのようなキリスト者は何よりも神さまに属する者であり、父なる神がおられる所を本来の居場所としなくてはなりません。
後に偉大な預言者となったサムエルは、母ハンナによって神に捧げられ、祭司エリに預けられ、エルサレム神殿で寝起きしました。私たちキリスト者も、肉体の上では別の所に住んでいても、信仰的・霊的には神の宮である教会を住まいとしていなくてはなりません。自分の父の家にいるのが当たり前なのが、神の子として頂いた者たちのあり方なのです。
 もちろん、肉の父親よりも真の父である神を優先するあり方は、肉の父親や家族たちと緊張関係をもたらすことがあります。「なぜ、こんなことをしてくれたのです」と叱責を浴びることもあるでしょう。また、「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」とあるように、自分の考えや生き方を理解してもらえないということも起こり得ます。イエス・キリストが神の国を宣べ伝え、力ある業を行っておられると、母や兄弟たちは主イエスが正気ではない思い、連れ戻しに来たということもありました。そのように子として天の父に属する者になることは、肉親との間に波紋を引き起こすことがあります。しかし、それを恐れたり、尻込みしたりしてはなりません。このこともまた、真の人となり給うイエス・キリストがすでに経験してくださったことです。主イエスはそのような私たちを、「わたしの母、わたしの兄弟(姉妹)」(ルカ8:21)と呼んでくださるのです。
 また、このことに関わって、今日の52節は大切な示唆を与えてくれます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」。少年イエスは、自分の父の家だからと言って、両親の手を振り切って神殿に留まり続けたのではありませんでした。少年イエスは、両親と共に家族の住むナザレに帰ります。そして公生涯を始めるまでの18年間、両親に従順に仕え、家族を支える大黒柱として家族の面倒を見ました。イエスさまにとって、父なる神さまとの関係は変わりませんでした。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」ということに、何の変化も変更もありませんでした。しかし、そうした神さまへのより高い愛と従順の中で、家族に対する愛と従順も豊かに育まれていったのです。その二つは時として一時的に緊張関係を孕むことがあるかもしれませんが、神さまに対する愛と従順を貫く中で、家族に対する愛と従順が本当に真実な形で実現していくのです。
 少年イエスは「背丈も伸び」ましたが、「知恵が増し」ました。この「知恵」は単なる知識でも、世渡り上手の才覚でもありません。それは宗教的な洞察であり、人が生きていく上で最も大切な示唆を与えるものです。また「神と人とに愛された」とあります。神さまを父として生きていくということが、神に愛されるだけでなく、人にも愛されるということに繋がっていくのです。天の父を真の父とし、そこに自分のいるべき場所を定めるというのは、肉にある父親や家族を蔑ろにしてしまうように感じるかも知れません。何か冷たい態度のように思うかもしれません。しかし、そうではないのです。家族の間にある愛と従順は、神さまに対するより高い愛と従順の下で、豊かに育まれていきます。そのより高い愛と従順の中に身を置くことによって、自分の家族を神さまの御心に適う仕方で、受け容れ、愛していくことができるのです。肉親の甘えやエゴイズム、人間の損得勘定ではありません。神さまが私たちを愛し慈しんでくださっているように、神さまの愛の中で、肉親の家族との関係を受け取り直していくことができるのです。

 私たちキリスト者は、年に一度宮に詣でるのではありません。神の宮であり、キリストの体である教会にいることが、当たり前のあり方です。私たちは主の日ごとに教会に集まり、神に礼拝を捧げ、祈りと賛美の声を挙げます。一年の間、神さまを覚え、神さまと共に歩ませていただくのです。この一年も、そのような月日を、皆さまとご一緒に歩んでまいりたいと思います。

12月27日礼拝説教

ルカによる福音書2章25~35節     2020年12月27日(日)

「救い主を抱きしめて」   藤田 浩喜

 先ほど司式長老に読んでいただいた聖書の箇所は、クリスマスの後日譚とも言うべき所です。御子イエスは生まれて8日目に割礼を受け、正式にイエスと名付けられました。割礼は男の子が神の民イスラエルに属する「しるし」であり、イエスという名は生まれる前に天使から示された名前でした。それから33日後、ヨセフとマリアは赤ちゃんを連れて、エルサレム神殿にやって来ました。それは生まれた赤ちゃんを神さまに献げ、再び神さまから受け取る儀式に参加するためでした。ヨセフとマリアは貧しかったので、神さまから子どもを受け取る贖いのいけにえとして、山鳩一つがいか家鳩の雛二羽を神さまに献げたのでした。

 その神殿に来たヨセフとマリア、何より幼子イエスとまみえた人がいました。それはシメオンとアンナという人でした。大事なことの証人は、一人ではなく二人いなくてはならないとされていました。だから二人の人が、幼子イエスとまみえたのでしょう。二人には違ったところがありました。一人は男で、一人は女です。シメオンについてどういう人であったかそのプロフィールは分かりませんが、アンナについては結婚後7年で夫と死別したとか、今84歳であるとかプロフィールが分かります。しかし、二人には共通したところがありました。それは二人とも高齢であったということです。シメオンについては年齢は記されていません。しかし2章29節の「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉から、シメオンも高齢であると昔から考えられてきました。

 

 まず、シメオンについてですが、あらためて彼はどういう人だったのでしょう。25~26節を読んでみましょう。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」そして「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき」(27節)、いけにえを献げに来ていたヨセフとマリア、幼子イエスと遭遇したのでした。

 シメオンが、どこに住み、どんな仕事をしていたか、家族はどうだったかなどは、少しも記されていません。特別な地位にある人でも、神殿に仕える聖職者でもなく、信仰をもった一庶民であったということかも知れません。しかし、ここを読んでいて気づかされるのは、「聖霊」や「霊」という言葉が3回も使われているということです。「聖霊が彼にとどまっていた」(25節)、「お告げを聖霊から受けていた」(26節)、「“霊”に導かれて神殿の境内に入って来た」(27節)とあります。ここから察するに、シメオンという信仰者は「神の御心を悟る賜物を持った」信仰者だったのではないでしょうか。「神の御心が何であるか」を、他の人よりも深く敏感に悟ることのできる人が、シメオンであったのではないかと思うのです。勿論それは、神さまが彼に「聖霊」を通して示されたのです。

 シメオンが「聖霊」を通して示された御心は、実に驚くべきものであり、人知では計り知れない深いものでした。まず、彼には「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(26節)という御心が示されていました。その御心通りに、シメオンはエルサレム神殿で、救い主なる御子イエスに出会うことができたのです。そして、彼は幼子イエスを胸に抱きながら、このお方がどのような救いを成し遂げるお方であるかを、語ります。31~32節「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」シメオンは示された御心によって、救い主イエスが、イスラエルだけでない、全世界の異邦人にも救いをもたらす方であることを語るのです。また、34節以下を見ますと、主イエスが長じて救い主の働きを始められたとき、どのようなことが起こるのか、そして主イエスがどのような最後を遂げるのかまでも、正確に見通しているのです。救い主イエスのお働きによって、主に敵対する者も現れるが、主によって苦しみから立ち上がる者も多く現れる。そして、最後には人間の罪をすべて背負って、十字架の死を遂げられる。その時には、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と予告します。シメオンは母マリアが、主イエスの十字架の目撃者となることを、予告しているのです。

 そのように、神の御心を深く敏感に悟ることのできたシメオンでした。しかしだからこそ、それに伴う労苦もあります。彼は「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいました。彼は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と示されていました。シメオンは神の御心を深く敏感に悟る人であったために、いつも将来に目を凝らしていました。援軍の到来を待つ見張人のように、緊張感をもって救い主を待ち望んでいました。周囲に救い主について希望を失っている者がいれば、「元気を出しなさい。救い主はかならず来られるから!」と励まし続けていたに違いありません。それは決して、簡単なことではなかったでしょう。御心を知らされた者にしか分からない、苦労や忍耐があったに違いありません。

 しかし、待ち続けていた救い主とお会いすることができ、そのお方を腕に抱くことができた。やっとお目にかかることができた。その時にシメオンは、あの有名な言葉を語るのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(29節)。この言葉は、「救い主をこの目で見ることができたので、安らかに生涯を終えることができます」という意味でしょう。しかしそれと同時に注解者たちは、ここの「主」が神を表わす「キュリオス」ではなく、いわゆる「家の主人」を表わす「デスポテース」という言葉が使われ、「去らせる」も僕をその務めに「留めおくことなく自由にさせる」という言葉が使われていると指摘しています。つまり、長年果たしてきた僕としての仕事・役割から自由にされるという意味も、そこにはあるのです。神の御心を深く知らされた者は、その御心に生き続ける使命があります。挫けることなく、その御心の実現を待ち望み、その御心を周囲の人たちに伝え続けていく使命があります。シメオンは救い主イエスにお会いして、その重大な務めから解放されたと、安堵の思いを言い表してもいるのです。

 シメオンは特別な賜物を与えられた人でしたが、私たち現代を生きるキリスト者も聖霊を与えられ、聖霊に導かれています。そして、シメオンがそうであったように、神の御心をイエス・キリストを通して示されています。その御心の最大のものは、クリスマスに神の御子が到来され、十字架と復活によって人間の罪を贖い、死に打ち勝ってくださったということです。そして、終わりの日にもう一度主イエスが到来され、この世界の救いを完成してくださるということです。その神さまの御心を私たちは信じ、その日の到来を待ち望みつつ、この世に福音を語り続けているのです。それは、21世紀の日本に生きる私たちにとって、簡単なことではありません。世の無理解や反発を受けながら伝道していくのです。

 先週の祈祷会で、奨励してくださった長老が興味深いお話を野球になぞらえてしてくださいました。クリスチャンチームとこの世チームが、試合をしています。9回裏2アウト、イエス様がバッターボックスに立ち、さよならホームランを打ってくださいました。白球は確かにフェンスを越えていきました。クリスチャンチームは勝利を確信します。ところがこの世チームには、イエス様のホームランは見えていません。試合が終わったことは認めません。そこで、そのまま延長戦に突入し、クリスチャンチームは防戦一方の戦いを続けている。いつ終わるか分からない、厳しい試合が続いていると言うのです。「なるほど」と思いました。イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、決定的な勝利がもたらされました。しかし、それは世の多くの人たちが認めるには至ってはいません。端(なな)からバカにする人もいます。しかし、御心を示されたキリスト者は、終わりの日を待ち望みつつ、緊張感をもって福音を語り続けていくのです。神さまがその務めを解いてくださるその日まで、神さまの御心に仕え続けていくのです。

 

 さて、神殿で幼子主イエスにまみえたもう一人の人は、女預言者アンナという人でした。この人については先に申し上げたように、かなり詳しくプロフィールが記されています。彼女は結婚しましたが、わずか7年で夫と死別しました。10代の後半が結婚年齢であったとすると、20代半ばでやもめとなったことになります。それから約60年の間、女一人で人生を生き抜いてきたのでした。夫との死別後のアンナの生涯がどのようなものであったかは、分かりません。女預言者という務めが、職業として成り立ったのかどうかも不明です。しかし、確実なことは、彼女が神殿での信仰生活を、どれだけ生きる拠り所としていたかです。「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」(37節)とあります。若い日の夫との死別という悲劇に見舞われたアンナは、神殿を拠り所とし、神さまから決して離れようとはしませんでした。礼拝をし、断食と祈りを欠かしませんでした。そのアンナに、神さまは思いもよらない恵みを与えられました。彼女はイスラエルが待ち望んだ救い主イエスさまとお会いし、そのことを周囲の信仰者たちに伝えることができたのです。預言者にとって、救い主の誕生を伝えることほど、誉れある大きな務めはありません。信仰生活を生きる拠り所として生涯を過ごしたアンナに、神さまは大いなる祝福を与えられたのです。

 私たち現代の信仰者も、人生で色んな出来事に見舞われたことをきっかけに、教会の門をくぐることになった方たちが多いと思います。人生には予想もしないことが起こります。心を刺し通されるような悲しみもあります。しかし神さまは、傷ついて御翼の陰に避難して来る者たちを、あたたかく抱きしめてくださいます。その者を癒し、養い、育ててくださいます。そしてアンナがそうであったように、新しい使命に喜びをもって、生きることができるようにしてくださるのです。

 

 今日はクリスマス物語の後日談として、シメオンとアンナが幼子イエスとお会いしたところを読みました。二人に共通していたのは、共に高齢であったということです。二人には違ったところがありましたが、いずれもその信仰の生涯を神さまの守りと導きのうちに過ごしたことは確かです。神さまが与えてくださる務めに生きたのです。それは簡単なことではなかったでしょう。しかし神さまはその生涯の最晩年に救い主と見える機会を与えてくださり、彼らの人生を満たしてくださったのです。「わたしは主なる神にあって生涯を全うした!」と感謝と共に人生を振り返ることができたのです。そのような祝福に満たされた人生を、神さまは一人一人に用意してくださっています。そのような主にある人生を歩む決意を、一年を終えるに当って心に刻みたいと思います。

12月24日讃美礼拝

ルカによる福音書2章1~12節       2020年12月24日(木)

 「クリスマス ―闇の中の光―」    藤田 浩                       

 タイの難民収容所での小さな、しかし偉大な出来事を紹介します。ひとりの衰弱し切ってひと言も口にせず、空(くう)を見つめたままの子がいました。病気をいくつか持っていたし、食べ物も受け付けませんでした。医師団は打てるだけ手を打った後、サジを投げました。「衰弱して死んでいくだけしか残っていない。可哀想に……。」子は薬も流動食も受け付けませんでした。

 ピーターというアメリカ人の青年が、テントで働いていましたが、医師がサジを投げたその時から、その子を抱いて座りました。二日二晩、全身を蚊に刺されても動かず、子を抱き続けました。三日目に反応が出ました。ピーターの眼をじっと見て、その子が笑いました!「自分を愛してくれる人がいた。自分を大事に思い、全身で受け容れてくれる人がいた。自分は誰にとってもどうでもいい存在ではなかった……。」

 ピーターは泣きました。喜びと感謝のあまりに。泣きつつ勇気づけられました。子は食べました。薬も飲みはじめました。絶望が希望にとって代わられたとき、子は生きはじめたのです。子の心には、自分を愛してくれる人がいるという、希望の光が灯ったのです。

 

 今日司会者の方に朗読していただいた聖書には、前半に御子イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で誕生されたことが、後半にはその誕生を知らされた羊飼いたちのことが記されています。

 羊飼いと言えば、イスラエル史上最高の王であったダビデも、元は羊飼いでした。また、神さまと神の民イスラエルの関係で言えば、神は羊飼いのようにイスラエルを養い、導かれました。神さまは羊飼いにたとえられたのです。そのような羊飼いでしたが、御子イエス・キリストが誕生された時代、羊飼いというのは人々から軽んじられていました。

家畜の世話に休日はありませんから、安息日の礼拝を守ることはできません。餌場を求めて各地を移動しなくてはならないので、落ち着いて暮らすこともできません。そのため、徴税人や犯罪者、売春婦と同様、裁判の証人にはなれない人たちだったのです。ユダヤの社会の中で周辺へと追いやられていたのです。それに加えて、家畜の世話をするこの仕事は重労働でした。羊が自分の財産であれば張り合いもありますが、大半は安い労賃で働く雇われ羊飼いだったのです。

 そのように、彼らの周りには闇が取り囲んでいました。闇に囲まれた羊飼いたちの心も、明るいものではなかったに違いありません。昔からイスラエルでは、神の民を救うメシア(救い主)の到来が待ち望まれていました。その救い主が自分たちを困難な状況から助けてくれると信じていました。しかし、人として一人前に扱われていない彼らは、自分たちには関係ないことだと考えていたに違いありません。ユダヤの同胞たちから相手にされない自分たちが、神さまから相手にされるはずなどない。彼らの心は暗く閉ざされていたのです。

 ところがどうでしょう。羊飼いたちが夜野宿をして羊の番をしていると、主の栄光が辺り一面を照らし、主の天使が彼らに近づきました。そして天使は、このように告げたのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(1012節)。「民全体に与えられる大きな喜び」であれば、本来国を代表するヘロデ王や祭司長に伝えられるべきものです。しかし、それが社会で軽んじられていた羊飼いたちに、まず伝えられたのです。そして、「あなたがたのために」と言われています。羊飼いたちは蚊帳の外に置かれてはいませんでした。それどころか、救い主は、羊飼いたちのような、貧しき者、軽んじられた者、苦しめる者のためにお生まれになったと言われます。そして救い主がそのようなお方であることのしるしが示されます。そのしるしは、この方が「馬小屋の飼い葉桶の中に寝ている」ことだと告げられたのです。

 彼らは思いも寄らないことを告げられて、びっくり仰天したに違いありません。しかし、それはうれしい驚きでした。彼らは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、出発します。不思議な力が彼らを導いてくれたのでしょう。羊飼いたちは、御使いの告げた通り、マリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子に、見えることができたのでした。すべてが、主の天使が告げてくれた通りでした。羊飼いたちはどんなに嬉しかったでしょう。自分たちのことなど相手にされるはずがないと思っていた神さまが、誰よりも先に救い主の誕生を知らせてくださった。その救い主は、御使いを通して示された通りのお方だった。人は裏切ることがあっても、神さまは決して裏切ることはなさらない。羊飼いたちは、このとき自分たちを心から愛する神さまに、本当の意味で出会うことができたのです。彼らの闇に閉ざされた心に、大いなる光が輝いたのです。彼らは喜びのあまり、御子イエスについて天使から聞いたことを、周りの人々に話さずにはおれませんでした。

 彼らの喜びは、20節の言葉からも分かります。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」羊飼いたちは、これまで神さまをあがめ、賛美することなどほとんどなかったに違いありません。神さまのことを話題にすることすら、稀ではなかったかと思います。ところがそのような彼らが、神さまをあがめ、神さまを褒め称える賛美歌を歌いながら、自分たちの場所へ帰って行ったのです。

聖書には色んな奇跡や力ある御業が出てきますが、それよりも更に注目すべきことは、御子イエスと出会った人たちの生き方が変えられていったことです。ペトロやヨハネなどの弟子たち、盲人バルテマイ、重い皮膚病を治してもらったサマリヤ人、徴税人のかしらザアカイなど、何人もの人たちを挙げることができます。そして、今日登場している羊飼いたちも、神をあがめ、賛美する人生を歩む人へと変えられたのです。彼らが帰って行く場所は、以前いた場所と同じであるかもしれません。羊飼いとしての労苦の多い日々が、彼らを待っているかも知れません。しかし、彼らがこれから歩む人生は、以前と同じではありません。彼らがあがめ、賛美を捧げるお方が、共にいてくださるのです。彼らを愛し、どんなことがあっても、彼らを懐に抱いて離さない方が自分にはいる。人が自分を裏切るようなことがあっても、この方は決して裏切られることはない。神さまは必ず、約束を果たしてくださる。そのような希望の光が、彼らの心に輝きました。これが、世界で最初のクリスマスの出来事だったのです。

 

 現代を生きる私たちの守っているクリスマスは、光に満ち溢れています。色とりどりのまばゆい光が、町を、商業施設を、家々を照らし出しています。しかし私たちの心の中は、どうでしょう? 明るい光に照らされているでしょうか? ひょっとしたら、周りのまばゆすぎる光とは対照的に、私たちの心は暗さに覆われてはいないでしょうか? コロナ禍のもたらす不安も加わります。闇がますます、私たちの心を覆い尽くそうとしているのではないでしょうか?

 しかし、クリスマスは羊飼いたちが経験したように、私たちの心に神さまからの大いなる光が投ぜられた日です。神の独り子が「わたしたちのために」、わたしたちの救い主として、誕生してくださったのです。そして、この光は私たちがどのような暗い闇に覆われたとしても、私たちの心を照らし続けるのです。そして闇は、光に打ち勝つことはできないのです。希望といのちを私たちに与え給う光なる御子イエス・キリストを、私たちの心にお迎えしたいと思います。

12月20日の礼拝説教

マタイによる福音書1章18~25節       2020年12月20日(日)
「神は我々と共におられる」    藤田 浩喜
 イギリスの作家デッケンズの『クリスマス・キャロル』という小説を皆さんご存知のことと思います。ケチで高齢の高利貸しスクルージに、かつての同僚マーレイと過去・現在・未来の「精霊」が、夜寝ている時に現れます。この「精霊」は精神の精と霊と書きます。この「精霊」はスクルージに、今の金儲けしか頭にない生活をあらため、慈善、情け、寛容、思いやりを実現する生活をするように諭します。そして、スクルージに過去・現在・未来の場面を見せるのです。
この「精霊」は原語では、大文字のGhostという言葉が使われています。そのため日本語の翻訳では「幽霊」と訳されることが多いのですが、英語でHolly Ghostと言えば、父・子・聖霊の「聖霊」という意味を表わします。つまり天の御使いのように、大いなる存在の使者として描かれていることが分かります。そしてこの「精霊」は、助けを必要としている人間に働きかけ、寄り添っていくのです。大いなる存在の使者が、その使者の方から積極的に働きかけてくるのです。

 さて、今日朗読していただいた箇所は、マリアの夫ヨセフに主の天使が夢で現れ、マリアの聖霊による懐妊を告げた箇所です。ヨセフ版の受胎告知とも言われています。婚約し法的に夫婦であったマリアが、自分に身に覚えのない仕方で懐妊したということを、ヨセフは知ります。マリアが御使いガブリエルから受胎告知を受け、その通りになったことを、ヨセフに話したのかもしれません。
 当時、結婚関係にあった夫以外の子どもを妊娠すれば、律法によって石打ちの刑に処せられることになっていました。マリアを愛していたヨセフは、マリアをとてもそんな目に遭わせることはできません。さりとて「正しい人」であったヨセフは、律法に背くようなこともできません。第一、疑いやわだかまりを抱えたままで、結婚生活を始めることはできません。そのようなわけで、マリヤのことを表ざたにせずに、ひそかに離縁しようと考えたのです。そうすればマリアの命は守られますし、律法に背くことにはなりません。マリアは父親の分からない子どもを抱えて、どんなに苦労することでしょう。しかしそうすることが、「正しい人」ヨセフにできるギリギリの選択だったのです。
 しかし、そのように考えているヨセフに、主の天使が夢で現れます。そして、次のように言うのでした。20節の2行目からです。「ダビデの子ヨセフ、恐れずに妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」主の天使は、「恐れずに妻マリアを迎え入れなさい」と言います。ヨセフに、恐れや戸惑いがあることは承知の上です。しかし、マリアの懐妊は聖霊による神の大いなる御業であり、生まれる男の子は民を罪から救う救い主となると告げます。そのような神の救いのご計画のために、あなたはマリアを迎え入れる決断をせよ、と迫ったのです。律法に正しい者であることは大切だが、神の大いなる救いのご計画実現のために、その正しさの殻を打ち破っていきなさいと、促されているのです。より大きな神の正しさに仕えるために決断し、行動に移しなさいと迫られたのです。
 神が御使いを通してそのようにヨセフに促されたのは、神ご自身が自分の義(正しさ)の殻を打ち破られたからです。人間は神がお造りになったにもかかわらず、神の御心に背き、罪を犯しました。神の民であるイスラエルの歴史は、人間がいかに自己中心的であり、おのが腹を神としてしまう存在であるかを、雄弁に物語っています。何度罪を犯しても懲りない人間を、神が見放し裁いたとしても、それは当然の報いです。不従順で罪を犯してやまない人間を裁くことこそが、神の義(正しさ)であると言わなくてはなりません。
 しかし、神は創造した人間に対する愛と憐れみのゆえに、人間を滅びるに任せることはできませんでした。ご自分の義(正しさ)を貫徹しつつも、これまでの義の殻を破る決断をなさいました。その決断の結果が、御子イエス・キリストを真の人として生まれさせること、御子をすべての人間の罪を贖うために十字架に付けられるということでした。その十字架の罪の贖いによって、私たち人間は避けることのできない罪と死から救われることになったのです。
しかし、神がこれまでの義の殻を破る決断を実行されるためには、御子イエス・キリストが真の人として、母マリアの胎に宿るだけでなく、父ヨセフの系譜につながる者として宿らなくてはなりませんでした。なぜなら、救い主はダビデの子孫から誕生すると預言されていたからです。ヨセフが、こうした神の大いなる救いのご計画を、どこまで理解していたかは分かりません。マリアの胎に宿った男の子を通して、神がただならぬ御業を始めようとされているということだけしか分からなかったかもしれません。しかしヨセフは、御使いを通して示された神からの働きかけに応えました。すべてが了解できたわけではなかったでしょうが、御旨に応えて、マリアを迎え入れる決断をし、実際そのように行いました。そのヨセフの決断と行動によって、これまでの義の殻を打ち破り、御子を人間の救いのためにこの世に遣わすという御業が、実現することになったのです。ヨセフにせよ、マリアにせよ、彼らは御使いを通して神からの働きかけを受け、神の大いなるご計画を知らされます。そのご計画を聞いて、彼らはたじろがないではおれなかったに違いありません。しかし彼らは受け入れるという決断や行動に移すという決断によって、神からの働きかけに応えました。このような信じる者の応答する決断が用いられて、神の御業がこの世界に実現していくのです。
今日の説教題は「神は我々と共におられる」と付けました。「インマヌエル」という有名な言葉です。私たちは「神は我々と共におられる」と聞くと、神さまが、私たちの傍らや背後におられて、守ってくださっているイメージを思い浮かべます。それは間違いではないでしょう。それも心強くありがたいことです。しかしそれだけではなく、神は聖霊なる神さまを通して、積極的に働きかけて下さってもいるのではないでしょうか。私たちと共におられて、私たちが御心に適う、喜びに満ちた御業を行うよう、励まし、導き、働きかけてくださっている。私たちが神さまに創造された存在として、自分らしく、自由で幸いな歩みをしていけるように、働きかけ続けてくださっている。それもまた、「神は我々と共におられる」という重要な側面だと思うのです。ヨセフやマリアに示されたような、大きな御業ではないかも知れませんが、私たちも神さまの喜ばしい御業の一端を担うよう、呼びかけられ、働きかけられています。そのように信仰者として用いられ、生きがいをもって歩んでいくためにも、「神は我々と共におられる」のです。

今日の説教の冒頭に、『クリスマス・キャロル』のことに触れました。真冬でも使用人に暖房を使わせないほどお金がすべてのスクルージは、四人の「精霊」から働きかけられ、生き方を改めるよう迫られます。その最初に登場するかつての共同経営者のマーレイは、自分の生前の生き方を心の底から後悔しています。そして、自分と同じ目に遭わないように、そのことを伝えるためにスクルージのもとに来たと言うのです。彼はその中でこう言います。「人間こそ、わしの仕事だったのだ。万人の幸福こそ、わしの仕事であった。慈善、情け、寛容、そして思いやり―それらがみな、わしのなすべき仕事だったのだ。商売上の取り引きなんぞは、わしに課せられた仕事のすべてから見れば、大海の中の一滴の水にすぎん!」ここで「人間こそ」と書かれているのは、「真の意味で人間になること」と理解してよいでしょう。そして「精霊」となったマーレイが語っていることは、「生活」と「人生」という言葉を用いて、説明できるのではないかと思います。日々の生活の中で、どんなに仕事で成功を収め、金銭を貯め込んでも、それだけでは「人生の仕事」を果たしたことにはならない。「人生の仕事」と「生活の仕事」とは別の次元で果たされなくてはならないものであることを、精霊は懸命に伝えようとしているのです。「人生の仕事」とは、「たましいの仕事」と言ってもよいかも知れません。私たちは「生活の仕事」に忙殺されて、「たましいの仕事」の意味と重みを、いつの間にか忘れてしまいます。しかしそれは、この世の生の意味を大きく失うことだと、マーレイはスクルージに必死に訴えているのです。
「神は我々と共におられ」、このような「たましいの仕事」へと私たちを導き、励ましてくださっています。そのことを覚えるクリスマスにしたいと思います。

過去の礼拝説教

12月13日礼拝説教


ゼカリヤ書2章5~17節       2020年12月13日(日)    

「神の民よ、喜べ歌え」     藤田 浩喜

 アドベント(待降節)第三主日を迎えました。アドベントは主イエスのご降誕を待ち望むと同時に、主イエスの再臨の日を待ち望む時だと言われています。このアドベントを、どうして私たちは毎年守るのでしょうか。今日はアドベントの時によく読まれる旧約聖書のゼカリヤ書2章5~17節を通して、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

 預言者ゼカリヤが活躍した時代は、紀元前520年頃でした。その時代はイスラエルの民が半世紀にわたるバビロン捕囚から解放されて祖国に戻ってから、まだ20年も経っていない頃です。これからエルサレム神殿や町を囲んでいた城壁を再建し、新しく神の民として歩んでいかなくてはなりません。しかし、バビロンから帰還した人々は多くはありませんでした。大半はバビロンに生活の根拠ができたために、帰還しませんでした。祖国に帰還した人々は少数ながら、バビロニア帝国に破壊される前のエルサレムを、もう一度再建しようと必死でした。彼らは以前の栄光ある姿を、なんとか取り戻そうとしました。そのような時に預言者ゼカリヤを通して与えられたのが、今日朗読された預言の言葉でした。

 ゼカリヤが取り次いだ神の御言葉は、大きく3つのメッセージから成り立っています。まず一つは、「エルサレムを測り、その幅と長さを調べるため」に出かけて行った若者に対して、こう言われました。8~9節です。「…あの若者のもとに走り寄って告げよ。エルサレムは人と家畜に溢れ/城壁のない開かれた所となる。わたし自身が町を囲む火の城壁になると/主は言われる。わたしはその中にあって栄光となる。」

 若者が測り縄を手にして、エルサレムを測りに行ったのは、バビロニアに破壊される前のエルサレムとその城壁を、そっくりそのまま再建するためでした。しかし、主なる神は新しいエルサレムは、以前のようなものではない。もっともっと大きく、都は人と家畜で溢れる。また、町を防御する城壁はなく、神ご自身が火の城壁となって、イスラエルを守られると言われたのでした。当時のエルサレムにはバビロニア軍によって、破壊された町や壁の残骸が残っていたでしょう。そんなふうに完全に破壊されてしまった城壁を再建しても、また破壊されてしまいます。そうではなく、主なる神に依り頼み、主御自身が火の城壁となってくださることによって、イスラエルは敵から守られるのです。以前と同じエルサレムを再建することが、神の御心ではないのです。

 次にゼカリヤが告げたメッセージは、主なる神はイスラエルを敵の手から徹底的に守られるということです。確かに神の民は、主なる神に罪を犯して裁かれました。主なる神以外の偶像を拝み、神の命じられた正義の道を歩まなかったイスラエルは、神の裁きを受けました。50年間にわたるバビロン捕囚は、罪に対する罰であったのです。しかし、罰を与えられたからといって、神はイスラエルを捨てられたわけではありません。神はイスラエルを、心から愛しておられました。

「だから、罪を贖ったイスラエルに対して、もはや外国の勢力が指一本触れることも、私は許さない。イスラエルを虐げ、苛(さいな)んだ外国の勢力に私自身が報復をする。その報復の裁きに巻き込まれないように、あなたがたは敵の地バビロンを後にして逃げ去れ」と、語られるのです。

 12節の3行目から13節までを、読んでみましょう。「あなたたちに触れる者は/わたしの目の瞳に触れる者だ。わたしは彼らに向かって手を振り上げ/彼らが自分自身の僕に奪われるようにする。」私たちにとって目は、最も大切な器官の一つです。また攻撃されそうになると、最も素早く防御するのも目です。ボクシングで相手のジャブが向かって来ると、条件反射的に瞼(まぶた)を閉じます。目を攻撃されると、間髪を入れずそれを防御します。ほとんど無意識です。それと同じように、神がその民を守られるのは、まさに神の本性の一部だと言うのです。イスラエルは神が選ばれた神の民です。神はご自分の民を妬むほどに愛されています。たとえ神の民が罪を犯し、罰を受けるようなことがあっても、その愛が醒めてしまうことはありません。親が我が子に害を与えられた時、自分に与えられたよう感じるのは、親が我が子と一体だと感じているからです。それと同じように否それ以上に、神はご自分の民と一体となってくださっています。神は私たち虐げ、苛(さいな)む者があるなら、まさに身を挺して守ってくださるのです。

 ゼカリヤが取り次いだ三つ目のメッセージは、神がその民のもとに留まり、住まわってくださるということです。14~15節を読んでみましょう。「娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て/あなたのただ中に住まう、と主は言われる。その日、多くの国々は主に帰依して/わたしの民となり/わたしはあなたのただ中に住まう。こうして、あなたの万軍の主がわたしを/あなたに遣わされたことを知るようになる。」

 神がゼカリヤを通して示されたエルサレム、それは神が最終的にどのようなエルサレムを実現しようとされているのかを、私たちに教えてくれます。それはバビロン捕囚から帰還した人々が、やがて再建したエルサレムと同じではありませんでした。イスラエルの歴史上実現したエルサレムではなく、神が終わりの日に向けて最終的に実現してくださるエルサレムのビジョンが描き出されています。 

そのエルサレムには、神が到来され、そのただ中に神が住んでくださいます。それはまさに、神の御子イエス・キリストが受肉され、この世に到来されたことで実現しました。しかし15節で、「その日、多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり/わたしはあなたのただ中に住まう」と言われます。神さまのビジョンの中で、このエルサレムは世界の多くの人々が神を信じ、神の民に加わる都として描き出されています。だからこそ、7節で言われていたように、「エルサレムは人と家畜に溢れ/城壁のない開かれた所となる」のです。このような神の都エルサレムは、ゼカリヤの時代のイスラエルの人々にとって、未だ見ぬ憧れの姿であったに違いありません。しかし、当時のイスラエルの人々は、このようなエルサレムが、神によってやがて実現されることを望み見ながら、実際の再建作業を続けていったのです。このような神のビジョンが示され、そのビジョンに励まされて、その時代に託された再建事業に取り組んでいったのです。

そして、それは21世紀を生きる神の民である私たちも同じです。イエス・キリストは到来され、私たちのただ中に聖霊において住んでおられます。しかし、多くの国の人々が神を信じ、神の民に加わるエルサレムは、未だ実現してはいません。今だ道半ばです。しかし、その神のビジョンが実現する日を待望しています。神は必ず、そのビジョンを実現してくださいます。だからこそ私たちは、私たちの時代に託された務めに、精いっぱい取り組んでいくのです。

 

私たちは、ゼカリヤの時代の信仰者と共に、今日の御言葉を聞いています。私たち新しい神の民は、今どのような状況に置かれているでしょう。キリスト教会は今、不安の中に置かれています。教会がこれからも存続していけるのか、どんどん先細りになって立ち行かなくなってしまうのではないか、自分たちの信仰を受け継いでくれる人たちがいなくなってしまうのではないか、という大きな不安があります。そして今回のコロナ禍は、キリスト教会の将来に暗い影を落としていくことになりはしないかと、心配になります。かつての盛んな時代を知っている私たちは、少しでも以前の姿に近づけたい。かつての輝きを取り戻したいと思ってしまうのです。

 しかし、私たちの主が願っておられることは、かつてのエルサレムをそのまま再現することではありません。教会を取り巻く状況は、以前と同じではありません。以前通用していたことを繰り返しても、それで教会を守れるかどうかは分かりません。教会が守られ、存続していくために必要なのは、私たちの作る城壁ではなく、神ご自身が火の城壁となってくださることです。

神さまは、御自身の民を妬むほどに愛しておられます。教会が時代の逆風にさらされ、反対する力に脅かされるとき、それを放っておかれる方ではありません。主なる神はご自分の民を、どこまでも守り抜いてくださいます。「あなたたちに触れる者は/わたしの目の瞳に触れる者だ」と言ってくださいます。このお方の守りを心から信じて、私たちはかつての自分たちの姿に捉われることなく、神の開いてくださる道を進んで行けばよいのです。

そして、ゼカリヤの時代のイスラエルと共に、私たちはもう一つの御言葉を聞かされています。それは、主なる神は、私たちの世界について、確かなビジョンを持っておられ、そのビジョンを必ず実現してくださるということです。神はこう言われています。「その日、多くの国々は主に帰依して/わたしの民となり/わたしはあなたのただ中に住まう。」全世界の国々の人々が主なる神を信じ、続々と集まり、神の民に加えられていくビジョンが語られているのです。「娘シオンよ、声をあげて喜べ」と、促されています。世界の国々の人々が、主なる神の御前に集められ、恵み深い神の守りの中に置かれて一つになる。そのビジョンが実現する日を望み見て、「娘シオンよ、声をあげて喜べ」と促されているのです。

世界は今、自国中心主義、自分たちが豊かであればよいという意識の中で、分断されています。持っているものを分かち合い、共に生きていこうというあり方とは正反対の方に向かっています。コロナ禍は、国と国との間だけではなく、そこに住む国民と国民の間にも、そのような分断をもたらしました。そうした状況は、癒しがたく進行しています。しかし、それは人間が一時的にもたらした状況であって、この世界の主である神が導こうとされているビジョンではありません。神は計り知れないご計画とくすしき御業をもって、御自身のビジョンを実現されます。神のビジョンは必ず成就します。「その日、多くの国々は主に帰依して/わたしの民となり/わたしはあなたのただ中に住まう。」私たちは先に神の民とされた者たちとして、この神の御心とご計画をたゆみなく伝えていく使命が託されています。世の人々の前に、神の大いなるビジョンを描き出していくのです。

 

毎年わたしたちがクリスマスを待ち望むのは、永遠に変わらない神の愛と熱情を思い起こし、それを新しく私たちの心に刻むためです。そして、わたしたち人間を救わないではおられない燃えるような神の愛を、世に証ししていくために他ならないのです。「娘シオンよ、声をあげて喜べ」!



12月6日礼拝説教

ヤコブの手紙2章1~13節(Ⅱ)       2020年12月6日(日)

 「自由をもたらす律法」   藤田 浩喜

 今日の12節を見ますと、「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい」と言われています。「自由をもたらす律法」とは、イエス・キリストによって成就された律法です。「真理は汝を自由にする」と言われているように、イエス・キリストの福音と言い換えることのできる愛の律法です。この愛の律法に則って、語り、ふるまうよう、ヤコブの手紙は宛て先キリスト者たちに求めているのです。

 今日はヤコブの手紙2章1~13節の後半、8~13節を学んでいきます。先週の箇所で手紙の著者は、「…主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と戒めていました。教会にやって来る人たちを身なりで判断して、富んでいる人を歓迎し、貧しい人をぞんざいに扱うような態度は、神さまの御心にかなわない間違った態度だというのです。

 ところが、手紙の受け取り手である教会の人々は、自分たちの誤りを素直に認めようとはしなかったようです。それどころか、「自分たちは聖書が命じている隣人への愛を実行している」と、考えていたようなのです。今日の8~9節を読んでみましょう。「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。」

 ここを読む限り、手紙の受け取り手である教会の人々は、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を、自分たちは実行していると思っていたことが伺えます。どうして、そう思えたのか? 富んだ人を大事にして、貧しい人を軽んじるようなことをしていても、隣人愛を勧める戒めに背いていないと、思っていた。それには、彼らの律法理解が大きく影響していたようなのです。

 「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、もともと神の民イスラエルに属する同胞たちの間での戒めでした。隣人の中に異邦人は含まれていませんでした。また、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われていますが、隣人を愛せよという律法は、具体的な場面では一つや二つではありません。貧しい人たちを大切にしなさいということも含まれていたでしょうが、隣人の農作業を手伝うとか、隣人の家畜が穴に落ちていたらそれを助け上げるとか、麦や大麦を全部刈り取らないで困窮した人たちのために残しておくとかも、隣人愛の中に含まれていたでしょう。そのような隣人愛に関わる行いを一つ守れたらプラス1(いち)、守れなかったらマイナス1(いち)という仕方で、彼らは律法遵守を考えていました。守れないことが少々あっても構わない。最終的にプラスがマイナスを上回っていれば、それで自分の行いは合格と見なしていたのです。このような考え方は、ついつい私たちも納得してしまいそうになるところがあるかもしれません。そうした律法観を持っていたので、人を見た目で分け隔てするようなことがあっても、彼らは深刻には受け留めなかったのです。

 

 しかし、ヤコブの手紙の著者はそうは考えません。律法を人の力で守ろうとするなら、すべてを完全に守らなくてはならない。そうでなければ守ったことにはならないと言うのです。10~11節です。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪になるからです。『姦淫するな』と言われた方は、『殺すな』とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になるのです。」律法は神さまが神の民にお与えになった戒めです。そこには神さまの御心が込められています。その御心の込められた律法を、人間が自分勝手な判断で選り好みすることは許されません。「この戒めは守るが、この戒めは守らない」と選別することはできません。この世の法律でも、人が一つの法律を犯せば、犯罪者となります。それと同じように、律法においても一つのおちどがあれば、律法の違反者になるのです。

 それにしても、ヤコブの手紙の著者は「人を分け隔てすること」を、教会やキリスト者にとって極めて重大なことと見なしています。それは、あらためてどうしてなのでしょう? もう一度8節を見ますと、著者は「『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法」と言っています。「隣人を自分のように愛しなさい」という律法は、最も尊い律法だというのです。この「最も尊い律法」は、原語では「王の律法」という言葉です。それは、この命令が「全ての律法の王」であることを表しています。永遠の御国の王、教会の主である神の御国の律法として、人が生きる基準は、「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。「隣人を自分のように愛しなさい」というのが、神の国、神が支配される国に生きる者にふさわしい定め、生きる道、人生の指針なのです。

 私たちの人生において、最も大切なことは、自分のために生き、自分を生かすことです。自分を愛し、自分を生かすことのできない者が、他の人を愛し、生かすことはできません。三浦綾子さんはそのエッセーの中で、「『人生』は、人を生かすと書く。即ち、自分を生かし、まわりの人間を生かすのが人生である。それが本当の『人生』だ」と言いました。自分を生かしてはいるが、人を生かしてはいないということはないのです。人を生かしていないなら、自分をも本当に生かしていないのです。人を愛していないなら、自分をも愛していないのです。自分を愛していないなら、人をも愛することはできないのです。主イエスが教えてくださった道は、自分のために生きるということと、人のために生きることが、一つになることです。そのように、神が支配される御国に生きる者にふさわしい戒め、また生きる道だからこそ、「全ての律法の王」と呼ばれているのです。

 

 また、さらに大切なことは、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟が、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)という掟と、分かちがたく結び合わされていることです。主イエスは、律法学者の問いかけに対して、律法の中心がこの二つに要約されることを示されました。「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めは、「全身全霊を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めに生きることによってしか、それを本当に行うことはできません。反対に、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに生きることによって、「全身全霊を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めが、いかに恵み深いものであるかを、人は悟ることができます。だからこそ、「全ての律法の王」と呼ばれているのです。

 皆さんも身に染みて感じておられると思いますが、「隣人を自分のように愛する」ということは、難しいことです。隣人を愛そうと願っても、そこで気づかされるのは、自分の愛の無さです。いくら隣人のために善い業を行おうと努力しても、自分の罪を知らされるばかりです。パウロが言うように、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7:19)ことを、思い知らされます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:24)。

 しかし、イエス・キリストの十字架による罪の贖いによって、私たちは神さまの前に義なる者(正しい者)としていただきました。イエス・キリストが私たちの代わりに律法の要求を完全に満たし、律法を守らなければ救われないという重荷から私たちを解放してくださいました。私たちは今や神さまの前に、義とされた者、救いを与えられた者として立つことができます。そして、そのような自由をもたらされた者として、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに、新しく生きてくことができるのです。イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、律法の束縛から解放され、神に愛された者として、新しく律法に生きることができるのです。そして、そのような神の愛を知った時、私たちは神の愛の中にいる自分の存在の大きさを知るだけではありません。それと同時に神の愛の中にある隣人の存在の大きさにも気づかされるのです。まさに、「隣人を愛する」ということと「神を愛する」ということは、分かち難く結び合わされているのです。

 さて、今日の最後の箇所である13節には、次のように言われています。「人に憐れみをかけない者には、憐みのない裁きが下されます。憐みは裁きに打ち勝つのです。」「人に憐れみをかけない者」とは、人を見かけで判断し、貧しい者やみなしご、やもめなどを顧みない者たちのことが言い換えられています。人に憐れみをかけないこのようなあり方は、その人自身の性格や人柄に因るものではありません。人間の善意など、五十歩百歩の違いに過ぎないのです。そうではなくヤコブの手紙は、人に憐れみをかけないこのあり方の原因が、律法に対する向き合い方の間違いにあることを、鋭く見抜いているのです。救いの条件として律法を守ることが間違いなのです。イエス・キリストが来られる以前、律法はそのすべてを守らなくては、律法の違反者となりました。律法はその意味で、人が決して満たすことのできない呪いであったのです。しかし、イエス・キリストはこの世界に来て下さり、律法のすべての呪いを引き受け、律法を完全に満たしてくださいました。律法の完成者であられました。そのキリストの十字架の恵みと憐みに与った私たちは、キリスト以後のあり方で「神を愛し、隣人を愛する」という律法に生きていけば、それでよいのです。自分の救いを得るためでない。イエス・キリストに救われた者として、喜びと感謝をもってキリストの愛と憐れみに押し出されていけば、それでよいのです。

 

 終わりの日に、人はその為してきたことに応じて、裁きを受けることになります。その際に、どんなに忠実に自分の力で律法を守った人も、キリストの愛と憐れみの中で律法に生きた人に打ち勝つことはできません。なぜなら、人はどんなに律法を守ろうと努力しても、100パーセントに達することはできません。しかし、キリストの憐れみを受けた人は、キリストが律法の要求をすでに100パーセント満たして下さっています。そして、キリストの愛によって隣人愛へと押し出されることによって、100パーセント以上に上積みすることができるからです。まさに、「憐みは裁きに打ち勝つのです。」私たちは、イエス・キリストの到来以後の時代に生かされています。イエス・キリストの大いなる恵みと憐みに押し出されて、隣人へ愛に向かう生き方をしたいと思います。

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