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教会の言葉

今月のメッセージ

―5月のメッセージ―
『資格なき者の救い』  牧師 藤田 浩喜
 「ところが、女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。』そこで、イエスは言われた。『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。』」。(マルコによる福音書7章28~29節)
主イエスが異邦人の地、ティルスに行かれた時のことです。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女性が、主イエスのもとにやって来ました。そして主の足もとにひれ伏し、娘から悪霊を追い出してくださいと懇願しました。母親は何としても、幼い娘を苦しみから助け出したかったのです。しかし、主イエスの言葉は意外なものでした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(27節)。子供たちとはユダヤ人のこと、小犬とは異邦人のことです。パンは救いのことであり、この場合は悪霊を追い出す御業のことです。主イエスは神の救いの御業には順序があるのであり、まず契約の民であるユダヤ人に救いがもたらされ、その後に異邦人への救いが与えられると言われたのです。実際、主の復活後、初代教会の使徒たちによって異邦人への伝道が開かれていきました。しかし、幼い娘の母親は引き下がりません。腹を立ててその場から立ち去ることもしません。異邦人である自分と娘に、救いに与る資格がないことをまず認めます。しかしその上で、「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と言います。ここには、主イエスに対する比類なき信仰が表明されています。母親は、主イエスというお方が、たとえ資格のない者にも、その深い憐れみのゆえに、救いというパンを与えてくださることを信じて疑いません。また、主イエスの与えてくださる救いはパン屑のようにわずかであっても、娘を悪霊から救うのに十分すぎるほど大きいということを確信しているのです。マタイによる福音書ではこの言葉を聞いて、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(15章28節)と母親の信仰を賞賛しておられるのです。この母親の信仰は、子供と言われているユダヤ人だけでなく、神の子としていただいたキリスト者にも衝撃的です。救われる資格があるということに安住していてはなりません。本来滅びるしかない私たちを救われた神さまの憐れみの深さ、救いの大きさこそが、私たちの祈り願う拠り所なのです。

4月のメッセージ

― 4月のメッセージ ―
『主は弟子の足を洗われた』 牧師 藤田浩喜
「ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは、『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答えられた」。(ヨハネによる福音書13章8節)
主イエスが弟子ひとり一人の足を洗われた出来事は、大変印象的です。ヨハネによる福音書には共感福音書のように「主の晩餐」の記事がなく、十字架の肉と血による罪の贖いということが、この洗足によって表されているという理解があります。主の十字架の死によって、弟子たち(=人間)の罪が贖われた(=洗われた)からです。そのように考えると、表題の聖書の言わんとするところも理解できるのではないでしょうか。ひとり一人弟子の足を洗われた主イエスは、ペトロのところに来てひざを屈めます。当時の社会では、客人の足を洗うのは奴隷の仕事でした。「主イエスは進んで弟子たちの足を洗われましたが、自分はそんなことをしていただくわけにはいきません。弟子がお互いに仕え合いなさいという意味で主が模範を示されたのなら、もう十分です。よくわかりました。だからもう、わたしの足など洗わないでください。」ペトロはそのような思いで、主の行為を思い止まらせようとしたのです。しかし主イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられました。つまり主イエスは、互いに仕え合うための模範を見せられただけでなく、ひとり一人の罪を贖って(=洗って)くださったのです。神に背き、神と人間を隔て、人間の永遠の滅びをもたらす罪は、ひとり一人が主に贖っていただかなくてはなりません。自分だけその必要がないという人は、だれ一人いないのです。この対話に続いて、ペトロは「主よ、足だけでなく、手も頭も」と願います。素朴で直情的なペトロらしい反応です。それに対して主は、おそらく微笑みながら言われました。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」「体を洗った」とは水による洗礼を、「足を洗う」ということは霊による洗礼を表しています。私たちに引き寄せて言えば、洗礼を授けられた私たちは、主の晩餐(=聖餐式)に与ればそれでよいのです。洗礼は一度ですが、聖餐は繰り返しです。そこで聖霊を通して、私たちは主の十字架の贖いに与ります。その贖罪の出来事を、感謝をもって受け取っていくことこそ、私たちの洗足なのです。

3月のメッセージ

―3月のメッセージ―
『主の愛の御心による救い』 牧師 藤田浩喜
「イエスはその場所の来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた。」(ルカによる福音書19章5節)
大変よく知られた「徴税人の頭ザアカイの悔い改め」のエピソードです。彼は主イエスとの出会いによって、これまでの自分の生き方を悔い改めます。「…ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」この決意表明は、この場面のハイライトであり、最も感動的な場面です。でも、どうしてザアカイはこの「唐突」とも言える決意表明ができたのでしょうか。一つは、徴税人の頭として財を蓄えながら、満たされぬ心を抱えていたということがあるでしょう。金持ちの彼の機嫌を取り、おべっかを使う者はたくさんいたでしょう。しかし、ローマの手先となり不正な利益を得ていた彼に、心を許す者はいませんでした。主イエスを見たいと思っても、背の低い彼に便宜を図ってくれる者はいませんでした。彼は多くの群衆に囲まれていましたが、ぞっとするような孤独の中に置かれていたのです。彼は幸福ではなかったのです。しかし、それ以上に彼を決意表明に導いたのは、ザアカイに出会おうとする主イエスの強い御心でした。主イエスはザアカイに出会うために、エリコの町にやって来たように思われます。主イエスは失われたザアカイを、捜し求めてエリコにやって来られた。その証拠に、いちじく桑の上で身を隠すようにしていたザアカイを、主の方からお見つけになり声をかけられます。そして最初から予定されていたかのように、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と告げるのです。(口語訳では「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と明瞭です)。そしてザアカイの立派な決意表明を聞いた主イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。…人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われているのです。ザアカイは、迷い失われた自分のような罪人を、如何にかして救おうとしてくださる主イエスの強い御心に触れて、心から悔い改めることができたのです。私たちの伝道とは何か。それはイエス・キリストに表された人を救わんとする愛の御心に、隣人を出会わせることなのです。

2月のメッセージ

―2月のメッセージ―
『私たちの願いを越えた救い』 牧師 藤田 浩喜
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。(マルコによる福音書10章51~52節)
盲人バルティマイが必死に主イエスを呼び止め、主が彼の目を見えるようになさったという出来事です。あきらめず主に求め続けることの大切さを教えている箇所ですが、私は長い間、主イエスが「何をしてほしいのか」とバルティマイにお尋ねになったことが、よく理解できませんでした。尋ねなくても、「目が見えるようになることに決まっているではないですか」と、主に反論しそうになるのです。しかし、ハタと考えます。私たち人間は、一体何を主イエスにしてほしいのでしょうか?1月下旬から2月初めにかけて、比較的大きな病気で入院し手術をしました。もう少し発見が遅ければ、取り返しのつかない状況になっていたかもしれません。10日間の入院の中で思ったのは、死というものがごく身近にあるということと、命を救われたことへの感謝と喜びです。そして、今主イエスに願いたいことは、病気が再発することなく生きながらえさせてください、これからもあなたの僕として仕えさせてくださいということです。このい願いは切実です。そして主イエスは「『何をしてほしいのか』」率直に言いなさい。包み隠さず述べなさい」と促しておられるのです。「やせがまんをして黙ったり、本当の思いを隠す必要などない。あなたの心の叫びをありったけぶつけなさい」と促しておられるのです。主イエスは聞いてくださるのです。盲人バルティマイは、願いを聞き入れてもらい、目が見えるようになりました。私たちが願うことも主によってかなえていただけるなら、どんなに幸いなことでしょう。しかし、主イエスがバルティマイにしてくださったことは、彼の願いを大きく越えたものでした。これは「あなたの信仰があなたを救った」と言われているように、救いを与えられました。救いはもはや、生と死を越えてバルティマイを支えます。そして救いに入れられた信仰者として、彼は新しい道「イエスに従う」道を希望をもって歩いていくのです。地上の死を人は避けることはできません。しかし主は、死を越えた救いを、信仰によって私たちに見させてくださるのです。

1月のメッセージ

―1月のメッセージ―
『母親を見て、憐れに思い』  牧師 藤田 浩喜
「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。・・・イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると死人は起き上がってものを言い始めた。(ルカによる福音書7章13~14節)
主イエスがナインの町のやもめの母親の一人息子を起き上がらせた出来事です。いつ読んでも、母親の悲しみが伝わってくるようで、何とも言えない気持ちになります。大切な子どもたちを天に送ったすべての親たちに、やもめの母親と同じ奇跡が起こったら、どんなによいだろうと思います。そんな思いで読むせいか、息子は母親に返されたにもかかわらず、ハッピーエンドの出来事のようには感じられないのです。この出来事で印象的なのは、主イエスがやもめの母親の思いを、真正面から受け止めてくださったということです。「主はこの母親を見て憐れに思い」とありますが、「憐れに思い(スプランクニゾマイ)」は「内臓」という言葉からきています。日本語でいうなら、主イエスは母親の境遇と悲しみを思うと、断腸の思いにならざるを得なかったのです。また主は「近づいて棺に手を触れられ」ました。当時、死人に触れることは、汚れを帯びることであり、律法で禁じられていました。しかし主イエスは、敢えて棺に手を触れタブーを犯し、一人息子を墓場へと連れていく死の葬列を止められたのです。主イエスは真の人として、一人息子を送らねばならない母親の悲しみに、はらわたがちぎられるような思いになられました。そして他方で、墓場へと死の世界へとむかわなくてはならない一人息子の棺に寄り添い、死すべき人間の定めにご自分を重ね合わせてくださったのです。つまり、私たち人間が最も深く悲しみ悩まざるを得ない、死をめぐる二つの現実をご自分のこととして受け止めてくださったのです。とかくこの箇所を読むとき見過ごしてしまいますが、この一人息子を起き上がらせた主イエスを見て、人々は恐れ、神を賛美して言います。「大預言者が我々の間に現れた」、「神はその民を心にかけてくださった。」この大預言者は旧約において子どもを蘇生させたエリヤやエリシャのことを表しています。しかし神は大預言者以上の方を私たちのもとに遣わしてくださいました。この救い主イエス・キリストは、真の人として死の苦しみと悲しみを味わい尽くされるだけでなく、真の神として死そのものに打ち克たれました。そして真実者すべてを復活の命へと起き上がらせてくださいます。

12月のメッセージ

―12月のメッセージ―
『羊飼いに起こったこと』 牧師 藤田 浩喜
「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。・・・羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカによる福音書2章17節、20節)
羊飼いたちが幼子イエスを礼拝しに行く有名な場面です。羊飼いたちに何が起こったのでしょう。野宿して夜通し羊の番をしていた羊飼いたちに、まばゆい光が降り注ぎ、彼らは非常に恐れます。するとそこに天使が現れ、このように告げるのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」まばゆい光は神の啓示の光です。そして羊飼いたちは、彼らの救い主が誕生されたという大きな喜び(=福音)を告げ知らされるのです。羊飼いたちの仕事はユダヤの人々の生活になくてはならないものでしたが、彼らは社会の周辺に追いやられていました。彼らは裁判の証人になれないほど社会的信用がありませんでした。また曜日に関係のない彼らに仕事は、彼らを安息日の礼拝から遠ざけました。彼らは人々が救い主を待ち望んでいることを知っていましたが、律法を守れない自分たちには無縁だと考えていました。社会も彼ら自身も、自分たちを蚊帳の外に置いていました。彼らのように多くの人々が、主イエスの誕生を自分と無関係だと見なしています。しかしそうではなく、救い主の誕生は、「民全体に与えられる大きな喜び」であり、幼子イエスは誰にとっても「あなたがたのため」と言える救い主なのです。羊飼いは自分たちの救いを見出すことができたのです。それだけではありません。天使の言葉を聞いてベツレヘムに急いだ彼らは、天使の言葉どおり、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている幼子を見つけます。彼らは啓示によって自分たち知らされた福音が本当のことだと確信します。そして彼らはそのことを、大喜びで周囲の人々に知らせたのです。裁判の証人にすらなれなかった彼らが、神の大いなる御業である救い主の誕生を証言する務めを果たしているのです。そして救い主とまみえた彼らは、神をあがめ、賛美しながら、生活の場に帰って行ったのです。考えてみますと、この出来事は羊飼いだけに起こった出来事ではありません。啓示の光によってキリスト者となった、私たち全ての出来事でもあるのです。

11月のメッセージ

―11月のメッセージ―
 『感情ではなく神に自分を任せる』 牧師 藤田 浩喜
「サウルは声をあげて泣き、ダビデに言った『お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した』」。(サムエル記上24章17~18節)
エン・ゲティの要害での出来事です。ダビデがいるとの情報を得たサウル王は、3千人の兵を連れてダビデを探します。その途中、ある洞窟にサウル王が用を足しに入ったとき、洞窟の奥にはダビデとその家来たちがいたのです。王は一人で無防備です。家来は「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのはこの時です」(24:5)と進言します。自分を殺そうとしているサウル王を討つ絶好のチャンスだったのです。ダビデもサウルの上着の端をひそかに切り取ります。迷いがあったのでしょう。しかし「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない」(24:6)と言い、サウルを襲うことを許さなかったのでした。「これは絶好のチャンスだ。サウルを討つ絶好の機会を神が与えてくださった。これが神の御心だ」と判断しても、おかしくはありません。心の葛藤もあったでしょう。しかし、王の処遇は神がお決めになることであり、神の主権を侵してはならないと、ダビデはすべてを神に委ねたのでした。私たちは状況を自分の都合の良いように受け取り、すぐに感情に任せて行動してしまいがちです。しかし、そこに本当に神の御心があるかを思い巡らし、神の主権にお委ねしなくてはなりません。特に否定的な感情、敵対的は感情を持っている相手に対しては、神のお計らいに任せることが大切なのです。しかし、黙ってじっと我慢しなさいというのではありません。ダビデもサウル王に対し、自分が王に悪事も反逆も働く意思はないことを示し、そのような自分を殺そうと追い回す王に毅然と抗議の声を上げています。自分の思うところを冷静に率直は言葉で相手に伝えています。この言葉を聞いて、サウル王は自分の非に気づかされ、ダビデの行為の正しさを認めることができたのです。難しい人間関係においても、それは当てはまります。けんか腰で感情をぶつけ合うだけでは、感情の応酬に終始してしまいます。しかし、理の通った静かな言葉で、自分の思いや考えを伝えることで、初めて相手も私たちの本当の思いが分かり、自らの間違いや至らなさに気づかされるのです。ダビデの態度に学びたいと思います。

10月のメッセージ

― 10月のメッセージ ―
『御心が成ることを願う』 牧師 藤田 浩喜
「今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」
(サムエル記上8章9節)

イスラエルは最後の士師と言われたサムエルが指導してきました。しかし、彼も高齢になり、二人の息子たちも「賄賂を取って裁きを曲げ」(8:9)るような人たちでした。また、敵ともなり得る近隣諸国は「王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み」(8:20)戦っていました。そこで12部族の長老たちは、「王を立ててください」とサムエルに求めたのです。イスラエルは本来、神が王となって治めたもう国です。神はサムエルを通して、王をもつことがイスラエルの民にどんなに大きな負担をもたらすかを示します。軍隊への徴兵やさまざまな仕事への徴用、家臣を養うための畑の没収、いくつもの重い税負担など。「こうして、あなたたちは王の奴隷となる」(8:17)と警告します。しかし、目に見えない神に依り頼むことに不安を感じる長老たちは、とにかく周辺諸国並みになりたいとサムエルに願い、神もその要求を容認するのです。主なる神はどうしてイスラエルの要求を容認なさったのでしょうか。神は大変教育的なお方です。ご自分の御心を頭ごなしに命令し、強いられる方ではありません。皆さんもご承知の通り、人はいくら諭されても、自分で経験しなければ分からない存在です。ここでのイスラエルも、王を立てることによって、どんなに大きな苦しみが、のしかかるか理解できません。王が支配することの良い側面だけに目を向けて、その悪い面は小さくしか見積もっていません。そのことをご存知の神は、神ではなく人が王となることの現実を体験によって分からせようと、イスラエルの願いを容認なさったのです。御心だったわけではないのです。このことは私たちの教会にとっても、キリスト者ひとり一人にとっても重要なメッセージです。私たちは神に様々な願いを申し上げます。願いが叶えられるのはうれしいことです。しかし、願いが叶ったからといって、それが神の御心であるとは限りません。神は私たちが信仰者としてもっと成長するために、失敗することを承知の上で、願いを容認されることもあるのです。もちろんそれは単なる失敗ではなく、神の教育的な訓練の機会でもあるのです。いずれにせよ、私たち信仰者は自分の願いいが叶うことを第一とするのではなく、御心が成ることを第一に祈り求めたいと思います。

9月のメッセージ

― 9月のメッセージ ―
『働きの場での宣教』  牧師 藤田 浩喜
 「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」
 (マルコによる福音書1章16~17節)
弟子の召命はまず、主イエスの働きかけから始まっています。16節で「イエスは・・・シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった」とあります。また19節では、「・・・ゼペダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが船の中で網の手入れをしているのを御覧になると」あります。弟子への召命は、イエス・キリストが御覧になり、声をかけられるところから始まるのです。ユダヤ教のラビの弟子になりたい者は、弟子志願者の方から先生のところへ出かけて行きました。弟子の入門を先生が許します。しかし、イエス・キリストの弟子となることは、主イエスご自身が目を留め、招かれるところから始まるのです。しかも彼らが召命を受けたのは、シモンとアンデレが「湖で網を打っている」時であり、ヤコブとヨハネが「船の中で網の手入れをしている」時でした。漁師としての日々の仕事をしている最中にこの召命は起こったのです。
そういえばアルファイの子レビが召命を受けたのも、彼の仕事場である収税所においてでした。このことは、弟子への召命という出来事が私たちの日常の営みの中に起こることを示しています。宗教的な修行をしたり、修練を積まないと弟子になれないというのではないのです。しかし、それと同時に主の弟子になるということは、それぞれの仕事や務めと切り離されるものではないことを示してはいないでしょうか。確かに漁師をしていたこの4人もレビも、その職を捨てて主イエスの御後に従いました。これは今日で言えば、今までの職業を辞めて伝道者になることと同じでしょう。しかし、御国の福音は専任の伝道者だけで進められるものではありません。信仰者となった者たちが、この世では様々な職業や務めを持ちながら、その働きの場で御国の福音を告げ知らせる弟子としての使命を担っています。むしろ、そうした働きや務めの場にいなければ、伝えられない福音宣教の働きがあります、弟子として召された者たちは、この世に遣わされていくのです。4人の漁師たちや徴税任のレビがその職場で召されたという出来事には、そのようなメッセージもまた込められているのではないかと思うのです。

8月のメッセージ

― 8月のメッセージ ―
『心の準備を整える』  牧師 藤田 浩喜
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋を
   まっすぐにせよ』」。(マルコによる福音書1章3節)
 福音をもたらすためにイエス・キリストがおいでになったことは、決して約2千年前に起こった偶然の出来事ではなく、それ以前から長い間イスラエルの人々が神の約束として待ち望んできたことであり、歴史を支配される神の深いご計画によって、あらかじめ定められていたことなのです。旧約聖書は、そのことを私たちに教えています。だから、旧約聖書を抜きにして私たちは新約聖書を正しく理解できませんし、イスラエルの歴史を抜きにして、イエス・キリストについて語ることはできません。それゆえ福音書は、イエス・キリストのことを述べるのに先立って、イザヤ書に預言されている「荒野に主の道を備える声」(イザヤ書40:3)としてあらわれた、バプテスマのヨハネについて述べているのです。何をするにも準備が必要です。王が地方に旅するとき、その土地の住民は道を整備して迎える用意をしたと言われますが、イエス・キリストが神の国の王として私たちの世界においでになるにあたっても、神はヨハネを遣わして、あらかじめ周到な準備をおさせになったのです。ヨハネは主イエスの親戚にあたる祭司の家に生まれ、長い間エルサレムと死海の間に広がる荒野で、らくだの毛衣をまとい、革の帯を締め、いなごと野蜜を食べて厳しい禁欲的な生活を送っていました。しかし、主イエスが活動をお始めになる時が近づいたことを知った彼は、人々に主イエスをお迎えする心の用意をさせるために、厳しい言葉で罪の悔い改めを促し、ヨルダン川のほとりでバプテスマ(洗礼)をさずけました。ヨハネはイエス・キリストをお迎えするために、ユダヤ人をふくめて、すべての人が罪を悔い改めて、洗礼を受けなければならないと教えたのです。自分は悔い改める必要のない正しい人間であり、自分の正しさによって生きていけるというような、思い上がった心をもっている人は、イエス・キリストを受け入れようとしません。ヨハネは神に赦されなければ生きることのできない私たちの罪に汚れた心を、鋭く指摘することによって、私たちの心をまっすぐにして、主イエスを心の中に喜んでお迎えする用意をさせたのです。私たちも聖書をただ知識として学ぶだけでは不十分です。イエス・キリストを一人一人の生活の中にお迎えすることができるように、心の準備を整えたいと思います。

7月のメッセージ

―7月のメッセージ―
『初めから持っていた掟によって』  牧師 藤田 浩喜
 「さて、婦人よ、あなたにお願したいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。」
(ヨハネの手紙二5~6節)
この手紙は、ある「婦人」に宛てられていますが、これは手紙を受け取った教会が擬人化されているようです。子供たちはその教会に属するキリスト者たちのことでしょう。「長老」(1節)と名乗る筆者は、手紙を送った教会のキリスト者たちが神から受けた掟、すなわち愛の掟を守って、真理の道を歩んでいることを聞いて、喜んでいるのです。しかし、そのような教会にも大きな問題があったようです。それは次の7~9節に出てきます。そこを見ますと、教会の問題が「人を惑わす者」(7節)であったことが分かります。そして彼らの問題はどこにあったか。それは、「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」ことでした。つまり、イエス・キリストが真の人となられたという「受肉」を否定していたのです。そのようなイエス・キリストの「受肉」を否定するようなキリスト者が、大勢世に出ていたのです。そしてその者たちは、自分たちのことを、進歩的は考えを持つ信仰者だと考えて、自分たちの考えを他のキリスト者にも広めていたのです。そうした深刻な問題に対してどう対応したらいいか、教会の人たちも悩み、苦しんでいたに違いありません。それに対して筆者は、何か特別なことをするのではなく、初めからあなたがたが聞いていた掟、つまり互いに愛し合うという愛の掟に従って歩みなさいと、勧めるのです。私たちの教会も地上の教会ですから、いろんな問題が起こることがあります。事柄を明確にし、何が問題であるのかを明らかにすることは大切でしょう。しかし、非難し合ったり、相手の間違いを糾弾するといった仕方では、本当の解決は得られません。教会が分裂してしまうこともあります。私たちは、教会生活の基本である愛の掟を聞かされています。それは新しい掟ではなく、日頃から聞かされてきた掟です。しかし、教会に何か問題が起こったときに、このいつも聞かされてきた掟を実践することが大切なのです。愛によって歩むということなしに、本当の解決は得られないのです。

6月のメッセージ

―6月のメッセージ―
『信仰における雄々しさ』   牧師 藤田 浩喜
 「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセに命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する」(ヨシュア記1章7節)

荒れ野の40年が終わり、イスラエルの民はいよいよ約束の地カナンに入っていくことになりました。長年イスラエルを導いたモーセは世を去り、ヌンの子ヨシュアが新しいリーダーとして民を導きます。若い時からモーセの側にいていろいろ見聞きしていたにせよ、これからは自分がリーダーとして立っていかなくてはなりません。相当な重圧がかかっていたのではないでしょうか。自分にこのような重い任が務まるだろうかという懼(おそ)れもあったのではないでしょうか。そのようなヨシュアに主なる神は、「強く、雄々しくあれ」と3度にわたって励ましの声をかけておられるのです。(6、7、9節)。「つよく、雄々しくあれ」。これを聞きますと、これからカナンに侵攻するにあたって、「勇ましく戦いなさい」と励ましておられるように聞こえますが、軍事的な勇猛果敢さだけが求められているのではありません。むしろここでは信仰上の勇敢さが、より明確に求められていることがわかります。6節では「あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である」と、神の与えた約束への信頼を求めています。7節では「わたしの僕モーセに命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない」と、神の教えである律法を拠り所とするよう求められています。そして9節では「うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」と主の御臨在の確かさに依り頼むように求められています。神の民イスラエルのリーダーに求められるのは、軍事的な勇敢さや司令官としての能力ではなく、主なる神を畏れ、神の約束を信じ、神が共にいますことを拠り所として民を導いていくことなのです。神の民イスラエルは、出エジプトの後、主なる神に何度も背きました。奴隷の縄目から解放してくださった恵みを忘れ、不平不満をぶつけました。その結果、自分たちの罪の報いとして、荒れ野の40年の旅を続けなくてはなりませんでした。しかし、主なる神はどんなことがあろうとも、民と共におられ、御自分の与えた約束を果たされます。この神の御臨在の確かさに依り頼むことが、信仰における雄々しさなのです。

5月のメッセージ

―5月のメッセージ―
『暗いところに輝くともし火』  牧師 藤田 浩喜
「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出して来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。(ペトロの手紙二2章17~18節)

この手紙が送られた教会には、偽教師が大きな影響を及ぼしていました。彼らはイエス・キリストの再臨を否定し、それに備えて倫理的に生きようとするキリスト者の生き方を否定していました。彼らはキリスト教が広く地中海世界に拡大する中で、最新のギリシャ思想に出会った人々でした。その思想にかぶれた彼らは、新しいキリスト教をこしらえようとしました。それによって当時のキリスト者を、再臨と最後の審判の恐怖から解放し、堅苦しい倫理的な生活から自由にできると、尊大にも考えていたのです。こうしたことは、21世紀の現代にも起こり得ます。科学的・実証主義的な時代に生きる現代人には、イエス・キリストの再臨もそれに備えての倫理的な生き方も、空想的なことのように感じられます。そのため、そのような初代教会以来伝えられてきた教理を倉にしまい込んで、目に触れないようにします。取り上げようとしません。そして現代の人たちに耳触りの良いメッセージを、はやりの思想とブレンドして提供しようとするのです。しかしペトロは、「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧」であると言います。また、「迷いの生活からやっと抜け出して来たひとたちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑する」と言われます。人生の悩み苦しみから福音を信じて救われたキリスト者を、空しい滅びの生活に舞い戻らせてしまうと言うのです。キリストの再臨と最後の審判とそれに備えて過ごす倫理的な生き方は、イエス・キリストが教え、初代教会の使徒たちが代々伝えてきたものです。使徒たちが失敗や挫折を経験しながらも、キリスト者の人生に不可欠な信仰内容として、手渡してきたものです。それを捨てることは、私たちを解放し自由にするどころか、以前の比ではない深い恐れと苦悩に陥れることになるのです。ペトロは「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るまで、暗いところに輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください」(1:19)と訴えています。この助言にこそ聞きましょう。

4月のメッセージ

― 4月のメッセージ ―
『心は燃えていたではないか』  牧師  藤田 浩喜
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
 (ルカによる福音書24章30~31節)
 ことわざに「百聞は一見に如かず」というのがあります。見ることは、それだけ確かだというのです。しかし、現代のように映像加工技術の発達した時代では、嘘の映像も簡単に作ることができます。目で見ても何が真実かわからない時代に、なってしまったのかもしれません。表題の聖句は、エマオに急ぐクレオパともう一人の弟子が、復活の主イエスと出会ったことを伝える箇所です。その箇所では興味深いことに、「見る」ということが不確かなこととして描かれています。クレオパともう一人の弟子は、復活の主が近づいて来て、一緒に歩き始めたのに、そのお方が主イエスだとは気づきません。「二人の目は遮られていて」と記されています。主イエスを死んだ過去の人だと思い込んでいた彼らは、共に歩みを進めている方が主イエスだとは思いもよらなかったのです。また、無理に引き留めて、その旅の人と同じ宿に泊まった時のことです。その人がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いた時、二人の目は開けて、その人が主イエスであるとわかりました。しかし次の瞬間、「その姿は見えなくなった」(31節)のです。パン裂きの所作は過越の食事でも、5千人の給食でも見ていたので、その所作で主イエスだと気づいたのかもしれません。しかし、姿が見えることがそんなに大事なことではないかのように、復活の主の姿はすぐに見えなくなってしまうのです。しかしそれに対して、この箇所では耳で聞くことが大きな役割を果たしています。弟子たちと一緒に歩かれた旅の人はエルサレムで起こったことを理解できない二人の弟子たちのために、旧約聖書から語ります。メシアは苦しみを受けた後に、栄光に入ることになっていたことを、聖書全体から証しします。その時の経験を二人は次のように述懐するのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちはいつの時代でも、主イエスを証しする御言葉を聞くことができます。そしてこの御言葉によって、復活の主にお会いすることができるのです。感謝!

3月のメッセージ

― 3月のメッセージ ―
『福音の力を信じる』 牧師  藤田 浩喜
「監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。私の心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。」(フィレモンへの手紙10~11節)
フィレモンへの手紙は、エフェソの獄中にあったパウロが、コロサイの家の教会のリーダーであったフィレモンに書き送った手紙です。この手紙はパウロのもとにいたオネシモという信仰者を、フィレモンが主にある兄弟として受け入れてくれるように願って書かれたものです。オネシモはかつて、フィレモンが所有する奴隷の一人であったようです。古代の奴隷は近代の奴隷とは少し異なり、国や都市国家が戦い負けて、勝利者側の所有となった人たちでした。裕福なフィレモンの家には、そのような奴隷が何人もいたのでしょう。ところがオネシモは何かの事情があって、フィレモンのもとから逃亡しました。そして、パウロのいるエフェソにたどり着き、パウロと知己を得ることになります。パウロはオネシモに伝道したのでしょう。その甲斐あってオネシモは信仰者となり、軟禁状態にあったパウロの身の回りの世話をするようになったのです。パウロはオネシモから身の上話を聞き、彼がフィレモンのもとから逃亡してきたことを知ります。パウロはオネシモを自分のもとに留めることもできました。しかし過ちを犯したオネシモを一度はフィレモンのもとに帰さなくてはならないと思い、この手紙を書いたのでした。パウロはオネシモを送り帰すにあたって、「彼は、以前はあなたにとって役立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と記しています。「オネシモ」という名は「役立つ者」という意味です。彼はフィレモンの家にいる時は、名前とは真逆で、「役立たない」と見なされていたようです。心もすさんでいたのでしょう。しかしパウロのもとに来て福音と出会い、彼は今や名前通りの「役立つ者」となりました。彼は元の主人であるフィレモンの所へ勇気をもって帰ろうとしています。ここに私たちは、キリストの福音がどれほど人の生き方を変えるのかを、目の当たりにするのです。パウロ自身が福音に劇的に変えられた人でしたから、福音の力を信じていました。私たちもこの福音の力を信じて、伝道に励んでいきましょう。

2月のメッセージ

― 2月のメッセージ ―
『水をめぐる対話から』 牧師 藤田 浩喜
「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」(ヨハネによる福音書4章28~30節)
主イエスと弟子たちがユダヤからガリラヤに移動される途中に、サマリアはありました。ユダヤの人々は、歴史的に確執のあるサマリア人の地を通らず、遠回りしてガリラヤに向かいます。ところが主イエスは、大切な目的があるかのように、サマリアの町に入って行かれました。そして旅に疲れて井戸の側に座っておられました。そこに一人のサマリア人の女性が井戸の水を汲みに来たのです。主イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼んだのでした。女性はいがみ合っているユダヤ人から頼み事をされて驚きます。そして水をめぐるやり取りから、主イエスと女性との対話が始まっていくのです。主は「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)と語られます。水を乞われた主イエスが、実は渇くことのない永遠の命に至る水を与えるお方であることが示されます。そして二人の対話は少しずつ深まり、魂の奥深くに触れる宗教的な対話へと深化していくのです。そのポイントとなるのは、彼女の抱えていた深刻な問題でした。彼女はなぜ朝の涼しい時ではなく、日射しの強い昼下がりに水を汲みに来たのか。それは五人の夫と結婚し、今は夫ではない男性と住んでいる自分に向けられる視線を避けるためでした。そんな自分のあり様に負い目を感じていたので、人のいない時を狙って水汲みに来ていたのです。そのことを言い当てた主イエスに、女性は畏敬の念をいだきます。そして日頃は決してしないような宗教的な疑問を、主イエスに問いかけます。それは「神を礼拝するふさわしい場所はどこか」「救い主はいつ来られるのか」という問いかけです。その対話の深まりの中で女性は今、目の前にいる方が救い主であることを見出すのです。救い主と出会うのです。主イエスは、救いを必要としている人を狙い撃ちをされるような仕方で、救いに招かれます。水がめを忘れるほどに喜びと驚きに満たされたこの女性は、町の人々はに主イエスを堂々と証ししたのでした。

1月のメッセージ

― 1月のメッセージ ―
『コロナ禍を生きる』
       牧師 藤田浩喜
「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカによる福音書13章4~5節)
新型コロナウィルス感染症第3波の拡大が止まりません。私たちの社会も教会も混乱と不安の中に置かれています。有効なワクチンが一日も早く全国民に行き渡るのを願わずにおれません。ところで人間は、これまでの歴史において幾度となく、大規模な感染症を経験してきました。イスラエルを含む古代西アジアの人々も例外ではありません。人々は疫病(=感染症)をどのように受けとめてきたのでしょう。旧約学者の月本昭男氏によると、西アジアの多くの人々は、疫病を神の怒りや疫病神の仕業に帰し、「祟り」と考えました。そして儀礼と献げ物をもって神を宥め、疫病を遠ざけようとしました。それに対して旧約聖書の信仰者たちは、これを神からの「処罰」と理解したというのです。処罰と祟りは、微妙に異なります。人間の能力を超えた災厄が神からの処罰であれば、神を宥めても始まりません。人々はそこから罪の自覚へと促され、自分たちの生きざまに反省を迫られます。自らの罪を悔い改め、神に立ち帰らなければなりません。それと同じように、現在私たちが遭遇しているコロナ禍も人間のあり方に対する神からの処罰と受け止めつことができるのではないでしょうか。もちろん、冒頭の聖書にあるように、被害に遭遇した人たち(十八人)が特に罪深かったから起こった、というのではありません。犯人捜しができるようなことではありません。そうではなく、その疫病や災害を被った時代や社会に、自覚すべき罪があり、反省すべき過ちがあるのです。私たちの時代や社会が、神の御心に背く致命的な方向に向かってはいないかと、自ら顧みる必要があるのです。ただ、疫病にせよ、災害にせよ、それらが起これば、犠牲になるのは富者よりも貧者、健常者よりも障がいを抱えた人たち、強者よりも弱者です。神による処罰にそうした不条理があってよいものか、というのは大きな課題です。時代と社会への罰であれば、連帯してそれを負っていかなくてはならない。悔い改めは、そこにまで思いいたる必要があると思います。

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