本文へ移動

教会の言葉

今月のメッセージ

―5月のメッセージ―
『暗いところに輝くともし火』  牧師 藤田 浩喜
「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出して来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。(ペトロの手紙二2章17~18節)
この手紙が送られた教会には、偽教師が大きな影響を及ぼしていました。彼らはイエス・キリストの再臨を否定し、それに備えて倫理的に生きようとするキリスト者の生き方を否定していました。彼らはキリスト教が広く地中海世界に拡大する中で、最新のギリシャ思想に出会った人々でした。その思想にかぶれた彼らは、新しいキリスト教をこしらえようとしました。それによって当時のキリスト者を、再臨と最後の審判の恐怖から解放し、堅苦しい倫理的な生活から自由にできると、尊大にも考えていたのです。こうしたことは、21世紀の現代にも起こり得ます。科学的・実証主義的な時代に生きる現代人には、イエス・キリストの再臨もそれに備えての倫理的な生き方も、空想的なことのように感じられます。そのため、そのような初代教会以来伝えられてきた教理を倉にしまい込んで、目に触れないようにします。取り上げようとしません。そして現代の人たちに耳触りの良いメッセージを、はやりの思想とブレンドして提供しようとするのです。しかしペトロは、「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧」であると言います。また、「迷いの生活からやっと抜け出して来たひとたちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑する」と言われます。人生の悩み苦しみから福音を信じて救われたキリスト者を、空しい滅びの生活に舞い戻らせてしまうと言うのです。キリストの再臨と最後の審判とそれに備えて過ごす倫理的な生き方は、イエス・キリストが教え、初代教会の使徒たちが代々伝えてきたものです。使徒たちが失敗や挫折を経験しながらも、キリスト者の人生に不可欠な信仰内容として、手渡してきたものです。それを捨てることは、私たちを解放し自由にするどころか、以前の比ではない深い恐れと苦悩に陥れることになるのです。ペトロは「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るまで、暗いところに輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください」(1:19)と訴えています。この助言にこそ聞きましょう。

4月のメッセージ

― 4月のメッセージ ―
『心は燃えていたではないか』  牧師  藤田 浩喜
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
 (ルカによる福音書24章30~31節)
 ことわざに「百聞は一見に如かず」というのがあります。見ることは、それだけ確かだというのです。しかし、現代のように映像加工技術の発達した時代では、嘘の映像も簡単に作ることができます。目で見ても何が真実かわからない時代に、なってしまったのかもしれません。表題の聖句は、エマオに急ぐクレオパともう一人の弟子が、復活の主イエスと出会ったことを伝える箇所です。その箇所では興味深いことに、「見る」ということが不確かなこととして描かれています。クレオパともう一人の弟子は、復活の主が近づいて来て、一緒に歩き始めたのに、そのお方が主イエスだとは気づきません。「二人の目は遮られていて」と記されています。主イエスを死んだ過去の人だと思い込んでいた彼らは、共に歩みを進めている方が主イエスだとは思いもよらなかったのです。また、無理に引き留めて、その旅の人と同じ宿に泊まった時のことです。その人がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いた時、二人の目は開けて、その人が主イエスであるとわかりました。しかし次の瞬間、「その姿は見えなくなった」(31節)のです。パン裂きの所作は過越の食事でも、5千人の給食でも見ていたので、その所作で主イエスだと気づいたのかもしれません。しかし、姿が見えることがそんなに大事なことではないかのように、復活の主の姿はすぐに見えなくなってしまうのです。しかしそれに対して、この箇所では耳で聞くことが大きな役割を果たしています。弟子たちと一緒に歩かれた旅の人はエルサレムで起こったことを理解できない二人の弟子たちのために、旧約聖書から語ります。メシアは苦しみを受けた後に、栄光に入ることになっていたことを、聖書全体から証しします。その時の経験を二人は次のように述懐するのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちはいつの時代でも、主イエスを証しする御言葉を聞くことができます。そしてこの御言葉によって、復活の主にお会いすることができるのです。感謝!

3月のメッセージ

― 3月のメッセージ ―
『福音の力を信じる』 牧師  藤田 浩喜
「監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。私の心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。」(フィレモンへの手紙10~11節)
フィレモンへの手紙は、エフェソの獄中にあったパウロが、コロサイの家の教会のリーダーであったフィレモンに書き送った手紙です。この手紙はパウロのもとにいたオネシモという信仰者を、フィレモンが主にある兄弟として受け入れてくれるように願って書かれたものです。オネシモはかつて、フィレモンが所有する奴隷の一人であったようです。古代の奴隷は近代の奴隷とは少し異なり、国や都市国家が戦い負けて、勝利者側の所有となった人たちでした。裕福なフィレモンの家には、そのような奴隷が何人もいたのでしょう。ところがオネシモは何かの事情があって、フィレモンのもとから逃亡しました。そして、パウロのいるエフェソにたどり着き、パウロと知己を得ることになります。パウロはオネシモに伝道したのでしょう。その甲斐あってオネシモは信仰者となり、軟禁状態にあったパウロの身の回りの世話をするようになったのです。パウロはオネシモから身の上話を聞き、彼がフィレモンのもとから逃亡してきたことを知ります。パウロはオネシモを自分のもとに留めることもできました。しかし過ちを犯したオネシモを一度はフィレモンのもとに帰さなくてはならないと思い、この手紙を書いたのでした。パウロはオネシモを送り帰すにあたって、「彼は、以前はあなたにとって役立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と記しています。「オネシモ」という名は「役立つ者」という意味です。彼はフィレモンの家にいる時は、名前とは真逆で、「役立たない」と見なされていたようです。心もすさんでいたのでしょう。しかしパウロのもとに来て福音と出会い、彼は今や名前通りの「役立つ者」となりました。彼は元の主人であるフィレモンの所へ勇気をもって帰ろうとしています。ここに私たちは、キリストの福音がどれほど人の生き方を変えるのかを、目の当たりにするのです。パウロ自身が福音に劇的に変えられた人でしたから、福音の力を信じていました。私たちもこの福音の力を信じて、伝道に励んでいきましょう。

2月のメッセージ

― 2月のメッセージ ―
『水をめぐる対話から』 牧師 藤田 浩喜
「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」(ヨハネによる福音書4章28~30節)
主イエスと弟子たちがユダヤからガリラヤに移動される途中に、サマリアはありました。ユダヤの人々は、歴史的に確執のあるサマリア人の地を通らず、遠回りしてガリラヤに向かいます。ところが主イエスは、大切な目的があるかのように、サマリアの町に入って行かれました。そして旅に疲れて井戸の側に座っておられました。そこに一人のサマリア人の女性が井戸の水を汲みに来たのです。主イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼んだのでした。女性はいがみ合っているユダヤ人から頼み事をされて驚きます。そして水をめぐるやり取りから、主イエスと女性との対話が始まっていくのです。主は「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)と語られます。水を乞われた主イエスが、実は渇くことのない永遠の命に至る水を与えるお方であることが示されます。そして二人の対話は少しずつ深まり、魂の奥深くに触れる宗教的な対話へと深化していくのです。そのポイントとなるのは、彼女の抱えていた深刻な問題でした。彼女はなぜ朝の涼しい時ではなく、日射しの強い昼下がりに水を汲みに来たのか。それは五人の夫と結婚し、今は夫ではない男性と住んでいる自分に向けられる視線を避けるためでした。そんな自分のあり様に負い目を感じていたので、人のいない時を狙って水汲みに来ていたのです。そのことを言い当てた主イエスに、女性は畏敬の念をいだきます。そして日頃は決してしないような宗教的な疑問を、主イエスに問いかけます。それは「神を礼拝するふさわしい場所はどこか」「救い主はいつ来られるのか」という問いかけです。その対話の深まりの中で女性は今、目の前にいる方が救い主であることを見出すのです。救い主と出会うのです。主イエスは、救いを必要としている人を狙い撃ちをされるような仕方で、救いに招かれます。水がめを忘れるほどに喜びと驚きに満たされたこの女性は、町の人々はに主イエスを堂々と証ししたのでした。

1月のメッセージ

― 1月のメッセージ ―
『コロナ禍を生きる』
       牧師 藤田浩喜
「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカによる福音書13章4~5節)
新型コロナウィルス感染症第3波の拡大が止まりません。私たちの社会も教会も混乱と不安の中に置かれています。有効なワクチンが一日も早く全国民に行き渡るのを願わずにおれません。ところで人間は、これまでの歴史において幾度となく、大規模な感染症を経験してきました。イスラエルを含む古代西アジアの人々も例外ではありません。人々は疫病(=感染症)をどのように受けとめてきたのでしょう。旧約学者の月本昭男氏によると、西アジアの多くの人々は、疫病を神の怒りや疫病神の仕業に帰し、「祟り」と考えました。そして儀礼と献げ物をもって神を宥め、疫病を遠ざけようとしました。それに対して旧約聖書の信仰者たちは、これを神からの「処罰」と理解したというのです。処罰と祟りは、微妙に異なります。人間の能力を超えた災厄が神からの処罰であれば、神を宥めても始まりません。人々はそこから罪の自覚へと促され、自分たちの生きざまに反省を迫られます。自らの罪を悔い改め、神に立ち帰らなければなりません。それと同じように、現在私たちが遭遇しているコロナ禍も人間のあり方に対する神からの処罰と受け止めつことができるのではないでしょうか。もちろん、冒頭の聖書にあるように、被害に遭遇した人たち(十八人)が特に罪深かったから起こった、というのではありません。犯人捜しができるようなことではありません。そうではなく、その疫病や災害を被った時代や社会に、自覚すべき罪があり、反省すべき過ちがあるのです。私たちの時代や社会が、神の御心に背く致命的な方向に向かってはいないかと、自ら顧みる必要があるのです。ただ、疫病にせよ、災害にせよ、それらが起これば、犠牲になるのは富者よりも貧者、健常者よりも障がいを抱えた人たち、強者よりも弱者です。神による処罰にそうした不条理があってよいものか、というのは大きな課題です。時代と社会への罰であれば、連帯してそれを負っていかなくてはならない。悔い改めは、そこにまで思いいたる必要があると思います。

バックナンバー

日本キリスト教会
西宮中央教会

〒662-0832
兵庫県西宮市甲風園
2丁目4番15号
TEL.0798-67-4347
FAX.0798-67-4561

TOPへ戻る