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教会の言葉

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1月のメッセージ
2018-02-16
『主の和解と平和に生きる』
「神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』主なる神は女に向かって言われた。『何ということをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』」     
(創世記3章11~13節)    
     牧師  藤田浩喜
よく知られたアダムとエバの堕罪物語です。アダムとエバはエデンの園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけないと神さまから命じられていました。しかし二人は神さまの命令に背いて、善悪を知る知識の木の実を食べてしまいました。人間の第一の原罪は、神さまの命令に従わない不服従の罪であったのです。しかし、それで終わりではありませんでした。アダムは神さまから「取って食べるなと命じた木からたべたのか」と問い詰められたとき、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので食べました」と答えます。アダムは自分の罪を認めるどころか、エバに責任転嫁をしています。しかも、「あなたが・・・共にいるようにしてくださった女」と、神さまにも責任をなすりつけています。そしてエバはエバで、自分の罪を認めることなく、「蛇がだましたので、食べてしまいました」と、蛇に責任をなすりつけているのです。自分の罪を認めるのではなく、他者に責任転嫁することによって、自分の正当性を主張しようとする。そのような責任転嫁の罪が、神への不服従の罪と並んで人間の原罪を構成しているということに、あらためて気づかされたのです。唯一の神である御方への敬虔な畏れを無くしたとき、私たち人間は他者の罪をあげつらい、そのことによって自分の正しさを強弁する罪から抜け出せなくなってしまうのです。考えてみますと、このような責任転嫁の罪は国と国、社会層と社会層、個人と個人との間で蔓延しています。幼い子どもたちの間にすら、このような風潮が広がっています。他者に責任をなすりつけたところで、自分の過ちが消えてなくなるわけではありません。やましさを抱え続けるだけで、心は不健康になるばかりです。他者との緊張は高まる一方です。関係は壊れたままです。しかし、十字架と復活の主イエスは、そのような人間の罪を贖い、罪の縄目から私たちを自由にしてくださいました。私たちは安心して、お互いの罪を認め合うことができます。お互いに赦し合い、和解の手を取り合うことができるのです。主イエスの和解と平和に生きる一年といたしましょう。(2018年1月)

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