教会の言葉
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2月のメッセージ
2018-03-16
『主イエスのエルサレム入場』
「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた」。
(マルコによる福音書11章7~8節)
牧師 藤田浩喜
2月18日(日)にはレント(受難節)に入ります。冒頭の聖書は、主イエスのエルサレム入城に関わる場面です。主はご自分がエルサレムに入城されるに先立って、二人の弟子をベタニアの村に遣わし、まだ誰も乗ったことのない子ろばを借りてこさせます。弟子たちが村に行くと、すべてが主の言われたとおりでした。受難物語には主が予め言われたことの実現する場面がいくつも出てきます。「鶏が二度鳴く前にあなたは三度わたしのことを知らないというだろう」(14:30)というペテロの否認を予告する言葉は有名です。たとえ苦難の運命の中でも、主イエスは受け身ではなく、ご自身が主体的に運命を引き受けておられることを、これらのことは示しているのです。さて、主イエスは「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」(9節)という歓呼と共に、エルサレムに迎え入れられました。「多くの人が自分の服を道に敷き」(8節)というのは、列王記下9章13節で、新しいイスラエルの王が即位するとき、民衆が即興で行ったことです。このように主イエスは、エルサレムの民衆によって、ダビデの栄光を再びもたらす待望の主として迎え入れられたのです。しかし、主イエスが主体的に乗り物として選ばれたのは、馬ではなく子ろばでした。労働力になる前の実績も経験もない子ろばでした。しかし、この乗り物によって、主イエスはご自分がどんな王であるかを、はっきりと明示なさるのです。馬は背が高く、人が騎乗すると大の大人でも見下ろしてしまいます。ところが、ろばは足も短く背も低いので、背中に乗っても大人と同じくらいの高さになります。また馬の主な用途は軍馬でしたが、ろばは人や重い積荷を粘り強く引く、日常生活に欠かさない乗り物でした。主イエスは子ろばに乗られることによって、ご自分が私たちの労苦の多い生活を共に担ってくださることを、自ら示されたのです。人間の歴史の中でいまだかつて登場したことがなく、これからも登場することのない真の柔和な王であることを明示されたのです。主は未熟な実績もない子ろばに乗られました。そんな子ろばでなければ主の貴い御用を果たすことができなかったのです。主は今もなお、子ろばのようば私たちを、御用のために用いられます。(2018年2月)