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教会の言葉

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3月のメッセージ
2018-04-13
『十字架の重さを知る』
「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」(マルコによる福音書15章21節)    
                 牧師  藤田浩喜
レントの時を過ごしています。主イエスの苦難と十字架の死を黙想したいと思います。十字架にかけられる者は十字架の横木を自分で背負って、ゴルゴダの刑場までいかなくてはなりませんでした。しかし主イエスは、大祭司や総督ピラトのもとでの審問とむち打ちで衰弱し、それが難しくなりました。そのためローマ兵は、主イエスの十字架を担ぐ者として、キレネ人のシモンという人を徴用したのです。ローマ兵は「無理に担がせた」のであり、シモンにとってはとんだ災難だったに違いありません。
私たちにとっても、「十字架」というのは無理に担がされるものではないでしょうか。それは思いがけず負わされるものであり、それを負うことは災難としか思えないようなことなのです。今水曜日の祈祷会でホセア書を学んでいます。預言者ホセアは、4人の子どもをもうけながらも自分や子どもたちを捨て、他の男に走った姦淫の妻ゴメルを愛せよと、神さまから命じられます。(ホセア3:1)そこでホセアは、男たちに捨てられ、今や売春宿で宿主の所有になっているゴメルを、銀15シュケルと大麦1ホメルと1レテクで、買い取るのです。大麦の量は345ℓにもなり、彼はゴメルを贖うために自らそれを運ばなくてはなりませんでした。神さまは、ご自分が他の神々に走った姦淫のイスラエルを贖うために、どんな大きな代価を払ったかを実感させるために、ホセアにそのことを命じられたのです。ホセアが体験したことは、まさに神さまが背信のイスラエルにしてくださったことだったのです。キレネ人のシモンは、主イエスの十字架を担がされたとき、とんだ災難だとしか思えなかったでしょう。自分に何の関係があるのかと、舌打ちしたかもしれません。しかし、後に主イエスが復活されたとき、シモンは弟子たちの伝道を通して、主イエスの十字架の意味を悟らされるのです。自分が主イエスの十字架を背負ったのではない。事柄はまったく逆で、本来自分が背負うべき十字架を、主イエスが代わりに背負ってくださったのだということを、彼は知らされたのです。あのゴルゴダへの道のりを歩くのは、本当は自分だったということを。自分の十字架を負いつつ生きる私たちです。しかしそれは、無意味ではありません。そのことを通して、主イエスの負ってくださった十字架の意味と重さがわかるからです。(2018年3月)

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