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教会の言葉

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12月のメッセージ
2019-01-18
「神の期待に応え得ない罪」
「これらすべてのことは ヤコブの罪のゆえに イスラエルの咎のゆえに起こる」。(ミカ書1章5節)
                         牧師  藤田浩喜
ミカは紀元前8世紀後半の預言者です。8世紀の最後の四半世紀にユダ王国で活動しました。彼の預言の多くは、南王国ユダのヒゼキヤ王の治世(前728~700)に語られました。彼と同じ時期、エルサレムで活躍していた預言者にイザヤがいます。ミカの時代はオリエント世界の再編の時代でした。アッシリアがすでに南下を始め、北イスラエルは滅亡の一歩手前にいました。最後の王ホシェアはエジプトを頼みとして最後の反抗を試みるも失敗。記下前722年サマリアは陥落し王国は滅亡しました。南のユダ王国ではアハズ王が先のシリア・エフライム戦争でアッシリアの援助を受けた結果朝貢国になり、アッシリアの宗教が導入されました。その後名君ヒゼキヤは宗教改革を断行しました。しかし、センナケリブ王は膨大な兵力をもってこの反乱を潰し、エルサレムに迫りました。この反乱に関わる言葉が、ミカ書1:8~16にあります。アッシリアの事情で、滅亡こそ免れましたが、ユダは完全にその属国になってしまったのでした。表題の1章5節で、イズラエル王国、ユダ王国への審判が、「ヤコブの罪のゆえに イスラエルの咎のゆえに起こる」と言われています。ここで「咎」とは特権の濫用を意味する言葉であり、「罪」とはなすべき事柄に対して達し得ていないことを表しています。つまり、ここでの「咎」や「罪」というものは、神と無関係なものに対することではありません。神の特別な選び、愛を受けた者に対して告発されているのです。だから「ヤコブ、イスラエル」と、神の選びの民であることが記されているのです。私たちは、「咎」や「罪」というと、刑法上の罪や、倫理的な罪のことを連想するかもしれません。私たちは善良な市民であり、そのような「咎」や「罪」とは縁がないと胸を張るかもしれません。しかし、私たちは信仰者として主イエスが期待しておられる生き方ができているでしょうか。神から預かった賜物を、御心に適った仕方で用いているでしょうか。受けるものだけ受けて、神のご期待には達し得ていないことも多くあるのではないでしょうか。「ヤコブの罪のゆえに イスラエルの咎のゆえに」というのは私たちと無関係ではありません。恩寵(恵み)と召命は、紙の表裏のようなものであることを、自らに問いたいと思います。(2018年12月)

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