教会の言葉
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4月のメッセージ
2019-05-17
「イエスの焼き印を身に受けて」
「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(ガラテヤの信徒への手紙6章17節)
牧師 藤田浩喜
使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の末尾でこのように記しています。「イエスの焼き印」とあります。「焼き印」は、「刺青による印」や「物品の商標」を意味する言葉で、当時のキリスト者の中にはキリスト信徒のしるしとして、十字架やキリストの頭文字Ⅹを、刺青で身体につける人があったと言います。しかし、パウロがそうしたしるしを身につけていたとは思われません。それにここの語は複数形です。それゆえ「イエスの焼き印」とは、十字架を宣べ伝えたゆえに迫害を受け傷ついたパウロの傷跡であり、その幾つもの傷跡は十字架の使徒として立てられたパウロの使命の実行が刻印されているのです。パウロはこれからも、十字架の使徒として前に進んでいかなくてはなりません。だから、「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい」とガラテヤ教会の人々に伝えているのです。迫害の傷は、苦難を受けたしるしです。使徒に限らず、試練に遭い、苦難を受けることは信仰者のだれにでもあります。そして聖書は、信仰ゆえの苦難を怪しむべきだとは教えません。苦難をうけることはキリストの苦しみにあずかること、十字架のキリストと深い結びつきの中に置かれていることだと言うのです。使徒パウロが受けた「イエスの焼き印」だけでなく、すべての信仰者がその信仰生活の中で、イエス・キリストの証し人として、主の苦しみにあずかることがあります。信仰生活を生きながら、身体が病むこともあるでしょう。それも「イエスの焼き印」と呼んでもよいのではないでしょうか。信仰者であるゆえに受ける大小の試練、ストレス、そして病、それらの痛みは、「キリストの苦しみ」にあずかっていることです。その苦しみの中で主イエスの十字架の恵みにあずかっています。それはまた、主イエスの恵みの勝利にあずかっていることでもあるのです。パウロはキリストの使徒として、数々の苦難に遭いました。しかし、どんなに苦難を受けても、それは見捨てられることではありませんでした。そうではなく、イエスの焼き印を身に受けた彼にとっては、主の十字架に一層強く結ばれ、救いの喜びと確信を深くする機会だったのです。それは私たちもまた同じなのです。(2019年4月)