教会の言葉
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10月のメッセージ
2019-11-15
『休ませてあげよう』
牧師 藤田浩喜
「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、
わたしに学びなさい。 そうすれば、
あなたがたは安らぎを得られる」
(マタイによる福音書11章28~29節)
主イエスの時代、人々は多くの重荷を負って疲れていました。ローマ帝国に支配され、国民の大半は貧しく、その日一日を暮らしていくので精一杯でした。その上、宗教的戒律である律法が、彼らの生活に重くのしかかっていました。人々は政治的、経済的、宗教的な重荷にあえいでいたのです。現代の私たちにとって、重荷とは何でしょう。不安定な国際情勢や政治の空洞化、莫大な国の借金や年金をはじめとする経済的不安があります。そして現代の律法主義とも言うべき、成果主義や自己責任論が世の中を席巻しています。人よりも自分の方が優れている、人よりもたくさんの業績を上げていることを示せないと、自分は生きていてはいけないのではないかという思いに、苦しめられているのです。自分の有用性を示し続けなければならない重荷にあえいでいるのです。そのようなストレスの多い私たちに、どのようにしたら休みが与えられるのでしょうか。一つは私たちが成果によって人間の価値を決めようとする価値観から自由になることです。神さまは、人間を成果や業績によって判断されません。人が何と言おうと、神さまは私たち人間を無条件で「わが目にあなたは尊い」と言われます。人間を滅びから救うために、ご自身の御子をすらささげてくださいました。そのような、神のまなざしの中にある自分の姿を、見つめ続けることです。もう一つは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と主が言われているように、主イエスの軛を主と一緒に負うことです。「これがどうして休みになるのか」と、あなたは言うでしょう。「軛を負うなんて、窮屈で重荷が増えるだけじゃないか」と言うかもしれません。しかし「休ませる」とは「元気づける」という意味もあります。主イエスの軛とは、愛の軛です。共に生きる他者のために、お互いに愛の業を行い、愛を宿した言葉をかけあっていく。主イエスに力をいただいて、互いの軛を負い合う。そのことによって、私たちの癒しがたい疲れが取り去れます。そして私たちには、今までにない元気と喜びが沸き上がってくるのです。(2019年10月)