教会の言葉
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12月のメッセージ
2020-01-17
『御言葉に望みをおく』
牧師 藤田浩喜
「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」 (ルカによる福音書1章20節)
ザカリアとエリサベトという夫婦がいました。ザカリアは神殿の仕える祭司であり、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」(6節)とあります。マリアの受胎告知を知らされた夫ヨセフも「正しい人」(マタイ1:19)と言われていました。人の目から見れば、ザカリア夫妻もヨセフも模範となるべき「正しい人」でした。しかし今日の箇所では、神さまの前で本当の「正しさ」とは何かが問われているのではないでしょうか。ザカリアが神殿で香をたく奉仕をしていたとき、主の天使ガブリエルが現れます。ザカリア夫妻に男の子が与えられることが告げられます。しかし、すでに年をとっている自分たちに子どもが与えられることなど信じられません。そこで「何によって、わたしはそれを知ることができますか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)と言います。それに対して主の天使が述べたのが、冒頭の言葉なのです。ガブリエルは、「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった」と言っています。主の天使の言葉は神さまの言葉です。神さまが「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む」(13節)と約束なさった。その神さまの約束よりも「年をとった自分たちに子どもが授かるはずはない」という人間の常識を信じた。そのために、ザカリアの口はしばらく利けなくなってしまうのです。人間は非常識であってはなりません。内田 樹という哲学者が、今の日本の政治状況に触れて、その振舞いは常識に適っているかどうかということが問われるべきではないかと述べていました。いろんな主張はありうるだろうが、常識からかけ離れた言動が多すぎると言うのです。確かにそうした常識は大切です。ザカリアとエリサベトもそうした常識をわきまえた「正しい人」であったのでしょう。しかし神の前に本当に「正しい人」というのは、時として人間の常識を越えて、神の約束の御言葉に望みをおくことのできる人ではないでしょうか。神の御子が私たちを救うために人となってくださった。この望みに生きる者でありましょう。(2019年12月)