教会の言葉
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1月のメッセージ
2020-02-14
『たとえそうでなくても』
牧師 藤田浩喜
「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
(ダニエル書3章17~18節)
ダニエルと共にバビロンに連れて来られた3人の友人、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、ネブカドネツァル王がドラの平野に造った金の像を拝むように命令されました。彼らは捕囚の地にあって、同胞のユダの人々を治めるために、ネブカドネツァル王が行政官に任命した者たちでした。しかし、捕囚の地でその国の一員として生きようとしていた彼らも、金の像を拝むことはできませんでした。彼らはヤハウェなる神さまに仕える信仰者であったからです。そのため3人は、燃え盛る炉の中に投げ込まれようとしていましたが、その時に語ったのが冒頭の言葉であったのです。「そうでなくても」という18節の言葉は、とりわけ印象的です。安 利淑さんの『たとえそうでなくても』という本の題名はここから取られました。日本が朝鮮を植民地支配していた時代、日本帝国主義は神社参拝を朝鮮のキリスト者たちに強要しようとしました。その命令に屈せず、日本の官憲の迫害にあっても、断固自分たちの信仰を貫いた人たちが、朝鮮にはたくさんいたのです。3人の友人たちもそうですが、彼らもヤハウェなる神を信じる絶対的な信頼を抱いていました。しかし、それにもかかわらず自分たちの願いを神に押しつけるのではなく、どんな運命が待ち受けていても、神の御心に従っていくとの決意を併せて待っていました。その信仰が「そうでなくても」という一語に凝縮されているのです。先に申しましたように、ダニエルも3人の友人たちも、捕囚の地であるバビロンにおいて、神の遠大な計画に身を委ねつつ、その国の一員として生きることに前向きに取り組んでいました。異教の地にあるからといって、反抗ばかりしていたのではありません。しかし、その国が自分たちの信じる神さまに背いて、偶像を拝ませようとした時、彼らは明確に「否」を表明したのです。どんなことが自分たちを待ち受けていようと、神さまにすべてを委ねたのです。この姿勢は異教社会に生きる私たちにとっても示唆的です。私たちは一人の国民として社会に貢献します。しかし神への信仰を阻む力に対しては、不服従を貫くのです。(2020年1月)