教会の言葉
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4月のメッセージ
2020-05-18
『十字架の死と復活』
牧師 藤田浩喜
「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』」。
(マルコによる福音書15章29節)
主イエスが悲しみの道を通ってゴルゴダに至り、十字架に釘付けられた様子が、マルコによる福音書15章21~32節には記されています。最初に登場するのはキレネ人のシモンです。彼は過ぎ越しの祭を祝うために遠い田舎から出てきていました。彼は念願かなってエルサレムの都に上ってきました。しかし、彼は大変不運なことに、衰弱した主イエスの十字架を代わって担ぐために、ローマ兵によって徴用されたのです。シモンは主イエスと何の関わりもないと思っていたのです。迷惑でしかなかったのです。その後も、主イエスに何の関心も寄せず通り過ぎていく人々、主を罵りの対象としか考えない人々が登場します。そして「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい」(32節)と罵るのです。しかし、シモンも彼らも、主イエスがなぜ十字架にかからなくてはならないのか、主がなぜ十字架から降りてこられないのか、その真実を知らないのです。主イエスは、すべての人間のために身代わりとなって十字架にかかってくださった。それ以外に人間の罪が贖われ、赦されることはなかった。主イエスは私たち人間を罪から救うために、死に至るまで苦しみ十字架にかかられたのです。主の御力をもってすれば、十字架から降りてくることなど簡単なことであったでしょう。しかし、もしそうするなら、神の愛に限度があるということになってしまいます。神の愛の中に、人間のために苦しむ備えがないことになってしまいます。主イエスは神の愛の中には制限がないこと、神の愛は人々のために進んで苦しむことさえなされるということを、十字架の死によって示されたのであります。キレネ人シモンは、「アレクサンドロとルフォスとの父」と紹介されているように、後にキリスト者となり、初代教会の良き働き人となったようです。シモンはこの時はわかりませんでしたが、後に復活の主を信じ、主イエスの十字架の死が、本来自分が負うべき死であり、その死を主が代わって死んでくださったのだということが、はっきりわかったのです。私たちは主の復活に与る時、十字架に凝縮された神の愛の途方もなさを、知るのです。(2020年4月)