教会の言葉
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父の家におられた少年イエス
西宮中央教会牧師 藤田浩喜
「すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。』」
(ルカによる福音書 2章49節)
つい数週間前、主イエスのご降誕をお祝いしましたが、ルカによる福音書は冒頭の個所を除いて、主イエスの子ども時代のことをほとんど記しません。その意味では両親と宮もうでをされた今日の記事は、とても貴重なものと言えるかもしれません。しかし、多くの聖書学者はこのような出来事が実際にあったかどうかということに、あまり重きを置きません。そうではなく、主イエスの誕生と公生涯をつなぐこの個所が、主イエスが誰であり、何のためにこの世界に来られたのかを、印象的な形で要約した個所だと考えるのです。
主イエスも12〜13歳の成人になられたので、過ぎ越しの祭りの時、両親と一緒にエルサレム神殿にもうでます。ただ家族単位でというよりも、村単位で宮もうではなされたようです。そのため両親は、少年イエスがいないことを気づかないままに、帰り道を進んでしまいました。彼らは息子がいないことに気づいて「捜します」。一生けんめい「捜します」がなかなか見つからない。そして、「捜し」始めて「三日後」に、ようやくエルサレム神殿で、少年イエスを「見つけた」のでした。母マリアなどは、自分たちがどんなに心配したかと、息子をたしなめます。ところが少年イエスは、「な
ぜ、わたしをお探しになったのですか。わたしが父の家にいることをご存じなかったのですか」と、逆に息子からたしなめられてしまうのです。父と母は、少年イエスが何を言っているのか分かりませんでした。しかし母マリアは、分からなかったけれども、「この出来事を心に納めた」と聖書は記しているのです。
聖書学者たちは、少年イエスを「捜しても」、なかなか「見つからなかった」。そして、ようやく「見つかった」のが「三日後」であったということに注目します。そして、神殿において少年イエスは、自分が神の子であるということを明らかにされたが、両親にはその言葉の意味が分からなかった。つまりこの個所は、イエスが神の子であるということは、そう簡単には分からない。人間の知恵や経験によって、そこにたどり着くことはできない。しかし主イエスは、私たちの罪のために十字架の死を遂げられ、「三日目に」復活された。この十字架と復活を遂げられたイエスを、私たちの救い主として信じ受け入れるときに、イエスが本当に神の子であるということが分かる。そのように聖書学者たちは考えるのです。
少しまわりくどい読み方かも知れません。しかし、主のご降誕の出来事が、十字架と復活の出来事と直結していることを私たちは教えられるのです。その深い意味は、すぐには分からないかも知れません。しかしマリアがそうであったように、このことを「心に納めて」いくことが大切なのだと思います。御言葉を心に納めて、思いめぐらす。そのような一年でありたいと思います。(2012年1月)