教会の言葉
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遠回りの人生でも
西宮中央教会牧師 藤田浩喜
「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙1章14〜15節)
最近、ある映画を観ました。まだ上映中なので、あえて映画名は伏せたいと思いますが、映画の後半で次のような事実が明らかになってきます。中学校の水泳部で4人のメンバーが選ばれ、大切な競技大会に出席します。3人は上級生で1人は下級生です。下級生は先輩たちに迷惑をかけないように、緊張して臨みます。しかしその気負いが裏目に出て、その下級生はフライングをしてしまい、チームは失格となります。下級生は平謝りしますが、上級生はおさまりません。下級生に焼きを入れようと、夜間の学校プールでいじめとも言える特訓をさせるのです。そこに水泳部の顧問の教師が見回りに来ます。上級生たちはプールから逃げようと慌てますが、下級生がまだプールにいることを思い出して戻ります。しかし下級生は、すでに意識を失ってプールの中に沈んでいたのです。そこにやって来た顧問の教師は、その場の事情を察して、とにかくこの場から立ち去るように、上級生たちに命じます。教師は3人の上級生の将来を考えて、彼らが無関係であったことにしようとします。こうして事実は隠蔽され、下級生は自発呼吸こそできるものの意識が戻らないまま、母親の全面的な介護なしには生きられない身になってしまうのです。ところが数年後、ひょんなことから事件の真相が暴かれそうになります。封印していた過去が上級生の一人を脅かします。彼はそのことを恐れ、告白を迫った人物をナイフで殺し、自分も地下鉄に飛び込んで自殺しようとするのです。一連の事件を追っていた刑事は、顧問である教師を取調室に呼び、厳しくなじります。「あなたが、あの事件が起こった時、子どもたちに自分の罪と向き合わせていれば、人が死ぬことも、子どもが自殺しようとすることもなかった。あなたが子どもたちの将来を思ってしたことの結果が、この様だ。そんなことも分からないなら、教師なんかやめろ!」この映画は、もちろんフィクションです。しかし、私たちが罪や過ちを認め、それを清算しないと、どんな結果が待っているかを、とてもリアルに示していると思ったのです。罪や過ちと向き合い、それを償うのは、大変なことです。できればなかったことにして、やり過ごしたいという欲望が頭をもたげます。しかしそのような「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」ことになってしまうのです。たとえ遠回りしても罪は償わなくてはなりません。その遠回りの人生を、神は祝してくださいます。 (2012年2月)