教会の言葉
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希望に生き、共に生きる
西宮中央教会牧師 藤田浩喜
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ローマの信徒への手紙8章22〜24節)
東日本大震災から1年が経ちました。地震や大津波による大きな爪痕や原発の事故による重い不安は、ほんの少ししか拭われてはいません。その意味では、人間を含めてすべての被造物たちが、今もうめき続けています。私たちはテレビなどで、警戒区域に取り残された牛や豚などの痩せ衰えた姿を何度も目にしましたが、それを見るたびに、人間と他の被造物たちがこの地上にあって運命を共にしている仲間であることを知らされました。神によってこの世界を治めるように委ねられている人間の責任の重さと広さを痛感させられたのでした。 そのような中で私たち信仰者は何をすることができるのでしょうか?新聞のインタビュー記事の中で、ある超売れっ子のマンガ作家がこんなことを言っていました。「あの東日本大震災が起こったとき、自分はマンガなんて描いていていいのだろうかと正直悩んだ。でも被災地で子どもたちが一冊のマンガをボロボロになるまで回し読みしてくれていたということを聞いて、自分はマンガを描いていていいんだ、被災地の子どもたちが日常生活に戻るために自分も役立っているんだと思って安心した。」その人は、自分の仕事が被災地の人たちとつながっていることを確認したのでした。では、私たちが信仰者として生きることと被災地の人たちとは、どこでつながっていくのか?それは、「希望に生きる」ということと「共に生きる」ということなのだと思います。21節でパウロは、今は「虚無に服している被造物が・・・・いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれる」希望をもっていると言っています。「このような希望によって救われているのです」と言います。この世界と被造物が、たとえ幾多の困難を経ようとも、やがて贖われるときがやって来る。世界の創造者であるお方が、そのときを来らせてくださる。この希望を語り続け分かち合い続けていくことが、信仰者には委ねられているのです。ある被災地の中学校の先生は、生徒たちに「みんなの助けがあれば、どんなつらいことも乗り越えていける」とエールを送っておられました。そんな「みんな」の一人に、私たちもなることによって、息長く共に生きていく。私たち信仰者の歩みも、そこでつながっていくのだと思います。(2012年3月)