教会の言葉
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「十字架から降りて来い」
西宮中央教会 牧師 藤田浩喜
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、
自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」
(マタイによる福音書 27章40節)
新約聖書は、しばしばこの世の考えとは正反対の教えを語りますが、マタイによる福音書27章32節以下の主が十字架に付けられる場面ほど、その逆説性が鮮やかに示されている箇所もないでありましょう。 主イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが掲げられていました。その称号は間違いではありませんでした。主イエスはダビデ王の血統を引く家系に生まれられました。しかし、この王は王宮に住まい、軍隊を動かし、国民に号令をかける王ではありませんでした。異教のローマ兵に「ユダヤ人の王、万歳!」とあざけられ、唾を吐きかけられ、葦の棒をもって頭をたたかれ、挙句の果てに、その衣服もくじで剥ぎ取られてしまったのが、この王でありました。また、主イエスは「神の子」であられました。神の御性質は全知全能であり、神には何もできないことはありません。その神の子である以上、十字架に釘付けられたままでいることなどあり得ない。自分の力で十字架から降りてくるか、さもなければ神に頼って救ってもらえるはずだ。それが、十字架の周囲にいた人たちが異口同音に発した主イエスへのののしりの言葉でした。しかし、神はその全能の力を、御子をまことの人としてこの世界に生まれさせるという仕方で行使されました。それだけでなく、私たち人間の罪を贖うために、神の御子が十字架に釘付けられ状態に留まり続けるというところに、神の全能の御力が現わされたのです。 御子イエスが十字架から降りられたならば、人々から拍手喝さいを浴びたかもしれません。しかし、私たち罪人の救いは消し飛んでしまっていたでしょう。主イエスはご自分の救いのためではなく、彼をあざけり、ののしるすべての者たちを救うために、自ら十字架の上に留まり続けられたのです。そこには、神に背いてばかりいる人間の滅びを望まず、何とかして救おうと願われた、神の計り知れない深い愛が貫かれているのです。主イエスを十字架から降ろさないのは、両手と両足を貫いている太い釘の力ではありません。罪人を愛して救われる父なる神の御心と、罪人を救うことを自らの使命として引き受けられたキリストの固い決意が、断じてそうさせないのです。私たちの神のまことの偉大さに瞠目させられながら、日々を過ごしていきましょう。(