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教会の言葉

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3月のメッセージ
2013-04-18
「明日のことを誇るな」
                          西宮中央教会 牧師 藤田浩喜
 「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(箴言27章1節)
 「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、
  いったいだれのものになるのか』と言われた」(ルカによる福音書12章20節)
箴言27章1節は、後半から考えると意味が分かりやすいでしょう。人間は今日の一日の間に何が起こるか知りません。そうであるなら、これから来る明日に対して、何の根拠もないのに、独り決めして誇ることはできない。そうした意味が込められているのです。私たちは明日(=未来の時)があたかも自分の所有のように誇れるけれども、時は神の御手にあることを知らなくてはならないのです。ルカによる福音書12章16節以下の有名な「愚かな金持ち」のたとえには、そのことを忘れていた一人の金持ちが登場します。新共同訳にはあらわれていませんが、彼は自分の心に語りかける言葉の中で、「わたしの作物」、「わたしの倉」、「わたしの穀物や財産」、「わたしの魂に」(新共同訳では「自分に」)と言っています。この金持ちは、自分のことを究極の所有者のように誤解していました。しかし神さまは、「今夜、お前の命は取り上げられる」と言われます。ここの「取り上げられる」は、直訳すると、「返済させられるであろう」という意味です。つまり、私たちの穀物や財産のみならず、私たちの命そのものが神さまからの預かりものなのです。そのことを忘れて明日のことを誇ったところに愚かさがあったのです。では、私たちはどのように生きていけばよいのでしょうか?主イエスは最後のところで、この農夫を反面教師として次のように語られます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」主イエスは、愚かな金持ちとは対照的な生き方を、「神の前に豊かになる」生き方として描き出されるのです。それは言い換えれば、「神を見つめ、神の慈しみのまなざしの中で生きる」ということではないでしょうか。明日という時も、私たちの命も神さまの御手にあります。私たちに与えられているのは、今日という一日です。この大切な一日を、主イエスと共に精一杯生きること、明日を誇ることなく、明日のために心をわずらわせることなく、神さまにゆだねて生きていくこと、それだけで十分なのです。荒れ野を行く旧約の民に、神さまは一日分のマナをお与えくださいました。私たちにとっても、この賜物としての一日は十分豊かなのです。

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