教会の言葉
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「愛されるという勝ち方」
西宮中央教会 牧師 藤田浩喜
「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
(ローマの信徒への手紙5章7〜8節)
最近気に入っているコマーシャルの一つに、トミー・リー・ジョーンズが出ている缶コーヒーのコマーシャルがあります。宇宙人ジョーンズが日本のいろんな職業に潜入して調査をするという設定で、今回は大相撲の行司に扮しています。そこに登場するのが、立合いの前に自分の顔を張って気合いを入れる高見盛関(現・振分親方)。高見盛は頑張って気合いを入れるものの、何度もあっけなく、土俵に転がされてしまいます。なかなか勝つことができない。でも。お客さんたちは高見盛が大好きです。負けても負けても、大声援を送り続けます。この様子を見ていた宇宙人ジョーンズは最後にひと言、「この国には愛されるという勝ち方がある」とつぶやくのです。冒頭のローマの信徒への手紙の御言葉は、長い間わたしが不思議に思っていた箇所です。パウロは「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」と言っています。正しいことを主張する人のために死のうという人はほとんどいないのに対して、善い人のためなら命を投げ出そうという人がいるかもしれない。パウロという人は、なかなか的を射た人間理解を持っていたことが伺えます。そして、私たちはどんなクリスチャンなのだろうと、自らを省みるのです。確かに世の中の不正に対して怒り、弱い立場にある人たちの権利を守るために正義を求めることは大切です。でも、私たちはそういう正しさを求めるよりも、自分のことは棚に上げて他者の欠点や失敗をあげつらうような正しさにこだわってはいないでしょうか。そういう小さな正しさへのこだわりがクリスチャンの印象を堅苦しく、近づきがたいものにしているのではないでしょうか。命を投げ出そうとまでは思ってもらえなくても、親しみを覚え愛されるクリスチャンになることが、今日求められているのではないでしょうか。パウロが御言葉の後半で語っているように、キリストは罪人である私たちのために死んでくださったことにより、私たちに対する愛を示されました。キリストは善い人でも正しい人でもなく、主を十字架につけた私たちのために、命をささげてくださいました。この主の十字架の愛を思うとき、私たちは自分の正しさなど少しも主張することはできません。主の途方もない愛によって罪ゆるされていることに、驚き、喜び、感謝せずにはおれません。クリスチャンは、この無上の愛に生かされている者として、愛に生きていくのです。(2013年5月)