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教会の言葉

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10月のメッセージ
2013-11-15

「見える」と言い張る罪
               
             西宮中央教会 牧師 藤田浩喜
 「イエスは言われた。『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、《見える》とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る』」
    (ヨハネによる福音書 9章41節) 

時々『ニューズウィーク日本版』を読むのですが、今年の10月15日号を読んでいて、認識を新たにされたのは「イランの核危機は妄想の産物だ」(カート・アイケンワルド氏)の記事でした。イスラム教国イランは、宗教国家であり独特な考えに基づいて核兵器開発を進めている。私も平均的な日本人の一人として、そんなふうに考えていました。しかし、アメリカの諜報組織や軍事専門家によれば、「イランの指導部は理性的で、核兵器の製造は国益に沿わないとみている」というのです。実際イランの最高指導者アリ・ハネメイ師は自らの宗教令で、「そうした武器の所有は重大な罪だ」と宣言しています。また、現時点でイランは、核兵器転用可能な濃度20%以上の高濃縮ウランを保有していません。そしてイランが本当に恐れているのはアメリカがイスラム教国であるイランを打倒することであり、そのような不安に対抗するために、IAEA(国際原子力機関)の査察を拒否し、核兵器開発の可能性を維持していることをアピールしているのではないかというのです。もちろん真偽のほどは分かりませんけれども、国際政治というのは私たちが考えているほど一面的でも単純でもないということを、痛感させられたのです。映像でも自由に加工できる時代です。「百聞は一見にしかず」というのもあてにはなりません。原子力発電所の問題にしても、集団的自衛権にしても、緊張する中国や韓国の関係にしても、自分は分かっていると思っていても、実際は情報操作に操られているだけということも起こりかねません。先入観への捉われや単純化を避け、自分なりに信頼に足る情報を集めながら、自分の頭でしっかり考え抜くということが私たちには求められているのではないでしょうか。そしてこのことは、信仰においてもあてはまります。冒頭の箇所は、生まれつき目の見えない人を主イエスが癒されたことを聞きつけて、その出来事の詮議にやってきたファリサイ派の人々に主が語られた言葉でした。癒された盲人は、その出来事を通して主イエスが神から来られた方だと告白しました。しかしファリサイ派の人々は彼の告白を無視し、「罪の中に生まれたお前が私たちを教えるのか」と彼を蔑むことしかしなかったのです。ファリサイ派の人々は、「自分は見える」と言い張り、目の前に起こっている神の恵みの御業に「心の目を開こうとしない」罪に陥っていたのです。わたしたちは、彼らの愚かさを繰り返してはいないでしょうか。信仰についても、思い込みや先入観から自由でありたいと思います。(2013年10月)
 

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