教会の言葉
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馬により頼むのではなく
西宮中央教会 牧師 藤田浩喜
「王は兵力の多さでは救われず、勇士は力の多さでは
救い出されない。馬は救済には見かけ倒し」
(詩編33編16〜17節)
2014年は、干支でいう午年(うまどし)です。今回は、聖書の中で馬がどのように描かれているか少し考えてみましょう。旧約聖書に馬は138回出てくるそうですが、これは驢馬(ロバ)とほぼ同数だそうです。馬は旧約においては、恐ろしい戦争のイメージとの関連で語られます。驢馬と馬との対照の最もよい例は、平和をもたらすメシヤ到来の預言として有名なゼカリヤ書の言葉でしょう。「見よ、あなたの王があなたのところにやって来る。彼こそ義しく、勝利を得る者。柔和な人で、驢馬に雌驢馬の子である小驢馬に乗る方。わたしはエルサレムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は断たれ、彼は諸国民に平和を告げる」(ゼカリヤ書9:9)この預言の成就として、イエス・キリストは驢馬に乗ってエルサレムに入城され、ご自分が平和をもたらすメシアでであることを示されたのです。馬は人類の歴史において長い間、戦いの武器であり最も強力な兵器でした。イスラエルの王国時代、ダビデ王は馬による騎兵隊や戦車隊を大規模に組織することはなかったようです。しかし次のソロモン王は、馬や戦車の導入に初めて積極的に乗り出します。彼は戦車1400台、騎兵1万2千を保有し、それを首都エルサレムおよび地方の主要都市に配備したと言われています。そのための購入資金は莫大であり、戦車1台600シュケル、馬1頭150シュケルもしました。ソロモンの栄華は国民に大きな負担を強い、それが原因で彼の死後王国は南北に分裂します。高価な馬や戦車を買いすぎて、家を傾かせてしまったと言えるかもしれません。そしてそれ以上に問題であったのは、歴代の王たちが、主なる神ヤハウェに頼むのではなく、馬や戦車に代表される軍事力に頼もうとしたことでした。彼らは大国に囲まれる厳しい世界情勢の中で、国の力はすなわち軍事力の大小で決まるものあり、軍事力だけが国の安泰を保障するものだと考えました。その軍事力に信をおき神を頼みとしない生き方が、預言者イザヤやゼカリヤによって厳しく批判されているのです。軍事力を増強し、その力によって自国の力を誇示するあり方は私たちの日本においても無縁ではありません。今教会には預言者としての使命が与えられているのです。(2014年1月)