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教会の言葉

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6月のメッセージ
2014-07-18
神の選びと赦しを知る           
              
              西宮中央教会 牧師 藤田浩喜
 
「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」  (ヘブライ人への手紙11章11節)
アブラハムの妻サラは127年の生涯でした。(創23:1)。ヘブライ人への手紙は、彼女を偉大な信仰者の一人に加えています。しかし聖書を読むとき、私たちは彼女のあまりにも人間的な姿に、これが信仰の母と呼ばれるのにふさわしい人なのかと思うことがあるのです。彼女は自分に子どもがいないことを憂いていて仕え女ハガルを夫に与えますが、ハガルが妊娠するやいなや、嫉妬に燃えて彼女に辛くあたります。その後、サラ自身に子どもが与えられると、ハガルの子イシュマエルとその子が遊ぶことを快しとせず、夫をそそのかして哀れな母と子を追い出してしまいます。また、天の使いが神の約束を告げたとき、それを笑い、そのことをとがめられると、「私は笑っていません」と否定します。実に不正直で自分勝手です。このようなサラが、どうして信仰の母と呼ばれるのだろう、と反問したくなるのです。しかし、サラのすばらしさは、彼女の人格によるものではありません。神の選びによるのです。彼女が信仰の父アブラハムの妻として選ばれたことにあるのです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」(ヘブライ2:8〜9)ただサラがアブラハムの妻として、彼と共にいたところに、彼女の光栄のゆえんがあったのです。それ以外ではないのです。ソロモンが「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)と歌っていますが、人間にとって神による選びを知り、赦しを知るにまさる知恵はありません。人間はだれ一人、そのままで神の前に義とされることはできません。それゆえ、私たちにとって信仰における迷いや動揺が皆無であることが、誇りなのではありません。そうではなく、不義の器であるにもかかわらず、それをあえて選び、赦してくださる主こそが、私たちの誇りなのです。サラの127年の生涯は、ことごとく神の恩寵でありました。それと同様、私たちの生涯もまた、すべてが主の恵みです。ちっぽけな自分の義を誇ったり、他と競い合ったりしている場合ではありません。今が恵みの時、救いの日であることを感謝して、主を見上げて日々を過ごしていきましょう。(2014年6月)

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