教会の言葉
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時宜にかなった時を与えられる神
西宮中央教会牧師 藤田浩喜
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。…神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神がなさる業を初めから終わりまで見極めることは許されてはいない。」(コヘレトの言葉3章1節、11節)
新しい2011年を迎えました。卯年にふさわしく、政治や経済も飛躍の年にならばよいのですが、行く手は不透明で混沌としています。私たち一人ひとりも、どのような心構えをもって、この一年を歩んで行けばよいのでしょうか?冒頭に掲げたコヘレトの言葉は、「時」について教えています。この「時」はカチカチと時計が刻む時ではなく、何かが起こるのにふさわしい時、ある行為を行うのにふさわしい時のことです。私たちは、何か大きなことを実行するのに、今がその時だという時に、行動に移します。様々なことを検討し尽くした上で、実行するのです。しかし後になって考えてみると、あの判断は正しくなかった、もっと良い時が別にあったと、悔やむことも多いのです。また反対に、私たちからすればあまり良い時には思われなかった時が、最もふさわしい時であったということもあるのです。
一つ実際に経験した例を挙げますと、10年ほど前、教会の建物にエレベーターと福祉対応トイレを設置する大きな工事を行いました。教会堂の北東部分を1階から2階まで壊して造り変えるという大工事でした。北隣りには民家があります。鉄筋コンクリートを砕く騒音が、隣家の方にどれだけご迷惑をお掛けするか、それが一番の心配事でした。ところが、こちらの予定と施行会社の予定が合わず、当初考えていた時期に工事を着工できなかったのです。工事は1月〜3月の寒い時期と決まり、少し離れた仮設トイレを使うわずらわしさを考えると、とても悪い時期でした。実際、不安の声も大きかったのです。ところが、年が明けると、ちょうど同じ時期に隣家でも海外赴任から帰国する息子さん一家のために、大きなリフォーム工事をすることが分かりました。隣家の方はその期間、別の場所に住まわれました。こうして一番心配していた問題が解決されたのです。私たちには予想すらできませんでしたが、神さまは最もよい時を、御心のうちに備えてくださっていたのです。
私たちは、様々な人生の「時」を思い通りにすることはできません。しかし神さまは深い御心をもって、私たちの「時」を導いてくださっています。神さまに委ねつつこの一年も歩んでいきましょう。(2011年1月)