教会の言葉
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神の業が現れるために
西宮中央教会牧師 藤田浩喜
「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』イエスはお答えになった『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」
(ヨハネによる福音書9章2〜3節)
2月11日(金・祝)に『風をあつめて』というNHKのドラマを観ました。これは福山型筋ジストロフィーという難病をもつ二人のお嬢さんと生きる浦上誠さんの体験手記をドラマ化したものです。誠さんと妻の攝(せつ)さんが、杏子(ももこ)さん、杏菜(あんな)さんを授かり、共に生きてこられた姿、そこでご夫婦が交わされた言葉や気持ちが、とてもていねいに再現されていました。1時間のドラマでしたが、何度も心の揺さぶられる思いをしました。
その中でとても考えさせられた場面がありました。長女の杏子さんが10歳になり、筋力の衰えのため痰がたまり、呼吸が苦しくなります。毎晩のように苦しいときを耐えなければなりません。その姿を見ていた誠さんは攝さんに、「この子は何のために生まれて来たんだ。苦しむために生まれてきたのか」と問います。それに対して攝さんは、「杏子は、毎日楽しいことを探しながら生きとるよ。青い空に浮かぶ白い雲が少しずつ形を変えていくんよ。その様子を杏子はうれしそうに見とるんよ」と語ります。ふだんいつも杏子さんといっしょにいる攝さんは、当たり前の日常生活の中で、生きる楽しみやうれしさを味わっている杏子さんの姿を見逃しはしなかったのです。そして、それを聞いた誠さんは、「考えてみれば、俺は何のために生きているんやろ。健康で病気もない体を与えられているのに、何のために生きているんやろう」と、自らに問いかけます。健康で何でもできると思っていたはずの自分が、生きることの意味や目的を見失い、実感できていないことに気づかされたのでした。その誠さんの言葉を聞いたとき、この問いは私たち自身の問いでもあると、深く思わされたのです。
私たちは何のために生まれ、生きているのか?その問いに私たちは色んな答え方をするでしょう。悔いのない一生を送るため、大きな意義のある仕事を成し遂げるため、家族としあわせな日々を送るため、たくさんの未知なる経験をするため…。それは人によって様々でしょう。しかし私たちの人生が、どんなに小さくても神の愛の業を現わすために用いられるとしたら、それはどんなにすばらしいことでしょう!ドラマを観ながら、そんなことを思わされました。 (2011年2月)