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教会の言葉

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8月のメッセージ
2015-09-21

信仰のセンス      

                 牧師 藤田浩喜

「あらゆる苦難からわたしの命を救われた主は生きておられる」

(サムエル記下4章9節)

8月3~5日、ジュニア科のキャンプで徳島県の阿南にあるYMCA阿南海洋センターに行ってきました。このキャンプでは聖書の学びの他に、海でのアクティビティを満喫し、一人乗りのカヌー、ジャンボカヌー、二人乗りのヨットを体験しました。二日目の午後は二人乗りのヨットを楽しみましたが、指導してくださったリーダーさんがいろいろ説明した後、「これ以上の説明は止めます。ヨットはセンスなんです。」と言われました。ヨットがうまく走るかどうかは、乗る人のセンスによるところが大きいと言われたのです。このセンスというものは、信仰にもあてはまる部分があるのではないでしょうか。そしてダビデという人には、この信仰のセンスというものが備わっていたように思うのです。サムエル記下4章は、つい最近祈祷会で聞いたのとよく似た出来事です。それはサムエル記1章で、サウル王の願いによってとどめを刺し、そのことをダビデに伝えに来たアマレク人を、ダビデが処刑したという出来事です。褒美をもらえると期待してダビデのもとに来たのに、ダビデは処刑をもってアマレク人に報いたのです。信仰のセンス、それと同じような内容がサムエル記下4章にも記されています。サウル王の重臣でイシュ・ボシェトの後見人のような存在であったアブネルが、ダビデの重臣ヨアブによって殺されました。この知らせを聞いたイシュ・ボシェトは力を落とし、北イスラエルの人々も脅えました。アブネルはイシュ・ボシェトの目の上のたんこぶのような存在でしたが、若いイシュ・ボシェトにとっては頼りになる拠り所でもあったのです。アブネルを失った北イスラエルの命運は、もはや尽きたかのように思われました。そうした状況を見るのに敏であったのが、略奪隊の長であるバアナとレカブでした。彼らは没落する北イスラエルから脱出し、活路を開こうと行動を決行します。それが小麦粉の倉庫のある家の寝床に寝ていたイシュ・ボシェトを、槍で突いて殺害するということでした。彼らはサウル王の継承者であり、主君であるイシュ・ボシェトを殺害し、首を切り、その首を持ってダビデのもとに駆けつけました。イシュ・ボシェトの首を手土産に、その手柄によってダビデから好意を得ようと考えたのです。ダビデの前に来たとき、二人は「ご覧ください。お命をねらっていた王の敵サウルの子イシュ・ボシェトの首です。主は、主君、王のために、サウルとその子孫に報復されました」と述べています。これはまさに、人間的観点から考えるならばその通りであり、イシュ・ボシェトの死によって全イスラエルを統一する上で今や最大の障害が取り除かれたのでした。ダビデに敵する存在は、もはや事実上いなくなったのでした。ところが、ダビデは彼らのしたことを褒めることも、褒美を与えることのしませんでした。そうではなく、あのアマレク人の時と同様、死をもって彼らに報いました。しかも「自分に家の寝床で休んでいた正しい人を、神に逆らう者が殺した」と断定し、彼らを処刑しただけでなく、彼らの両手両足を切り落とした上で、彼らのなきがらをヘブロンのほとりの木み吊るし、見せしめとしたのです。アマレク人の時以上の峻烈な仕置きがなされたのでした。ダビデはどうして、バアナとレカブの行為を良しとしなかったのでしょうか。二人の行為は、全イスラエルを統一するという彼の悲願に大いに貢献するものであったのに、なぜ死をもって報いたのでしょう。 内心では小躍りしながら、自分の手は汚れていないということを示そうとする、パフォーマンスであったのではないかと考える人がいたとしても不思議ではありません。しかし、彼は9節の二人への言葉の中で、「あらゆる苦難からわたしの命を救われた主は生きておられる」と告白しています。彼はあくまでも、生きておられる主が何を正しいとされるかを基準にして行動するということを、ここではっきり告白しているのです。ダビデは、全イスラエル統一という神の御心を実現するためであっても、人の考えでそれを進めようとはしません。生ける神が正しいと考える方法でそれを進めようとします。それはこの場合、イシュ・ボシェトを殺害することによって成し遂げることではなかったのです。生ける主が何を求められているかを問うことが、すべてに勝って重要なのです。榎本保郎先生が『旧約聖書一日一章』の中で、この章を解説して、パウロのフィリピ伝道の出来事を取り上げておられます。フィリピでパウロは占いの霊の取りつかれた女性につきまとわれ、二人は「いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を述べ伝えているのです」と大声で宣伝されます。この女性はフィリピの町では信頼されており、彼女の宣伝を利用してパウロはフィリピン伝道を進めることもできました。しかしパウロはそうしようとはせず、困ったことが生じることを承知の上で、彼女に取りついていた占いの霊から彼女を解放したのです。パウロは福音宣教のため、神のためだからといって、人間的な考えを優先しようとはしなかったのです。あくまでも、生ける主が本当に願われることを優先したのです。たしかにダビデという人にも人間臭いところがあり、バテシバ事件をはじめとしていろいろな過ちを犯しています。ダビデも決して完全な人ではありません。しかし彼は、過ちを犯しても神の前に悔いくずおれることを知っていた人であり、生ける神が何を望んであられるかを問うことのできる人でした。神のためにと言い聞かせて、自分の考えを正当化する人ではありませんでした。そこに、類まれな彼に信仰のセンスを、私たちは感じるのです。しかしこのセンスはヨットのセンスとは違い、神さまが与えてくださる後天的なものです。私たちは、聖書に聞き、祈り続ける中で、この信仰のセンスが磨かれます。その意味で私たちの誰にでも、大いに上達の望みがあるのです。(2015年8月)

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