教会の言葉
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真理を生きる歩み
西宮中央教会牧師 藤田浩喜
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」
(ガラテヤの信徒への手紙5章6節)
自分の言葉と自分の行動の距離感ということに、誰しもが悩むことがあるのではないでしょうか。例えば、私は親として子どもたちに、「すべきこととしたいことの区別をつけなさい。そしてしたいことではなくすべきことを、まずしなさい」ということがよくあります。親として切に伝えたい言葉です。でも親の立場を離れた自分のことを省みると、すべきことを後回しにしてしたいことからやってしまう自分の行動パターンに、情けない思いをすることが多いのです。「そんな偉そうなことをよく子どもに言えるものだ!」と、後ろめたい気持ちを感じないではおれないのです。
このような自分の言葉と行動のかい離は、クリスチャンを悩ませる大きなものの一つではないかと、思います。キリスト教は愛の宗教だ。イエス・キリストご自身が、人間への愛のゆえに十字架にお掛かりになった。そのような主の御後に従うクリスチャンも、愛に生きなければならない。隣人に愛の業を示さなければならない。けれども実際の自分は、いかに愛の業から遠い生活をしているかを知っている。愛を語る自分と愛を行いえない自分との落差に、愕然としてしまうのです。そしてそのような思いのために、プロテスタントの信仰においては、善き行い、愛の行いをすることが影をひそめ、観念的かつ受動的な「信仰」ということに、強調点がおかれるようになったのではないでしょうか。愛の行いをすることに臆病になってしまったのです。
しかし冒頭の聖句でパウロは、イエス・キリストに結ばれた者にとって大切なのは、愛の実践を伴う信仰だと言っています。口語訳聖書では、「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」となっていました。割礼や律法遵守だけでもなく、かといって観念的な信仰だけでもない。愛の実践と不可分な行動する信仰といったものが、ここでは勧められているように思うのです。イエス・キリストはご自分がなさったような完璧な愛の業を、クリスチャンに求められてはいるわけではありません。しかし私たちを、どんなにささやかであっても愛の行動へと向かわせる、動的な信仰に生きるように励ましておられるのです。パスカルというキリスト教思想家は、「生きられた真理だけが真理である」と述べています。私たちが語るだけでなく生きていこうとする中に、たとえどんな歩みでも、言葉と行動の溝が少しずつ埋められていくのだと思います。(2011年3月)