教会の言葉
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10月のメッセージ
2015-11-20
生きた信仰でなければ
牧師 藤田 浩喜
「それはエリヤムの娘バト・シェバで、へと人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。」(サムエル記下11章3~4節)
サムエル記下11章は、大変有名なダビデのスキャンダルである。王ダビデは姦淫の罪を隠すために、バト・シェバの夫であるウリヤをわざと戦死させたのである。この箇所は私たちにいろんなことを考えさせる。その一つは、罪というのは一旦それを犯すと、ブレーキが利かない。途中で立ち止まることができない。坂道を転がり落ちるように行くところまで行ってしまうという恐ろしさである。最近も現職の巡査部長が、付き合っていた20代の女性を絞殺し、逮捕され、懲役18年の判決を受けたというニュースをやっていた。なんで市民の生命の安全を守るはずの警察官が殺人を犯すのかと思う。途中で思い止まることができなかったのかと、私たちは考える。しかし一旦罪に捉えられてしまうと、本来できるはずの正常な判断ができなくなる。それが罪の怖さなのである。それはこの巡査部長も、イスラエルの王であるダビデも変わるところはない。むしろ、いたずらに権力を持っているだけに、その誘惑は大きく、その罪によって被る犠牲も大きいのである。「君子危うきに近寄らず」という諺がある。これは、君子と呼ばれる人たちの強さを称えている諺ではない。君子は多くの誘惑に囲まれており、自分という存在がいかに誘惑に弱いかを知っている。そのような自己洞察を持っているから、危うい所や誘惑に近寄らないのである。わたしたちに必要なのも、このような自己洞察に基づく謙遜さではないだろうか。そしてもう一つ、今日の箇所を見ると、ダビデはかつての彼とは別人のように見える。むしろ「ヤハウェはわが光」という名を持つウリヤの方が、かつてのダビデのように見える。このような逆転が、どうして起こったのか。それはやはり、ダビデがイスラエルの王として自覚を失い、ヤハウェ信仰に基づく健全な緊張感のようなものを失っていたからではないか。スキが生まれてしまった。信仰による目覚めがなければ、わたしたちは本当に弱い存在なのである。ダビデのような人でも、いつまでも信仰の巨人でいることなできない。信仰はその人が一度獲得すれば、ずっと維持しておけるような所有物ではない。神さまを礼拝し続ける生きた信仰生活の中でしか、その健全さを保つことはできないのである。王ダビデと僕ウリヤのあり方を通して、私たちはそのことをもう一度心に刻みたいと思う。(2015年10月)