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2月のメッセージ
2016-03-18
血の代価としての十字架
                   牧師    藤田 浩喜
「三人の勇士はペリシテの陣を突破し、ベツレヘムの城門の傍らにある井戸から水をくみ、ダビデのもと
 に持ち帰った」 (サムエル記下23章16節)
 ダビデはアドラムの洞窟にいた時に、「ベツレヘムの城門の傍らにある、あの井戸の水を飲みたい」と、三勇士にもらしました。考えようによっては、随分無茶な願いであり、どうしてそんなことをダビデが言ったのかは分かりません。しかし、いずれにしても三勇士は敵の最前線をくぐり抜け、命がけでベツレヘムの井戸から水を運んできたのです。ダビデはその水が、いかに大きな危険を冒して、三勇士が運んで来てくれたかを、身に染みて感じたのでしょう。その水を自分は飲むことをせず、主の祭壇に注いで、次のように言ったのです。17節「主よ、わたしはこのようなことを決してすべきではありません。これは命をかけて行った者たちの血そのものです。」ダビデはこの水を「これは命をかけて行った者たちの血そのものです」と言っています。彼にとって水は、まさに兵士たちの血の代価で買い取られたものであり、それを思うとき、ダビデは安々とそれを飲むことはできなかったのです。私たちは、イエス・キリストの十字架の死によって、血の代価を支払われた者であることを信じて生きています。しかし、私たちはあの十字架を、私たちのためにに支払われた血の代価として、どれだけ真剣に受け取っているでしょう。ダビデが「わたしはこのようなことを決してすべきではありません」と言ったほどに、私たちはあの神の御子の命に対して畏敬の念を持っているでしょうか。しかし、他方主イエスは、ヨハネによる福音書6章53節で次のように言われています。「『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの血はまことの飲み物だからである』。」私たちは今、申しましたように神の子の死の代価を安きこととしてはなりません。しかしそれと同時に、その重さゆえに飲むことを恐れてはなりません。福音を信じるとは、大胆にその恵みにあずかることであり、与えられた命の水を喜んで飲み干すことだからです。主は十字架で血を流し、まことの飲み物を備えてくださいました。福音信仰とは、そのような神の恵みを喜び受け取ることにあるのです。私たちはそのようなメッセージを、ここの箇所から聞きたいと思います。
 (2016年2月)

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