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教会の言葉

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3月のメッセージ
2016-04-15
「十字架の死による和解」
                    牧師  藤田 浩喜
 
「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」
 (ローマの信徒への手紙5章10節)
冒頭の聖書箇所は、パウロが書いたローマの信徒への手紙5章10節です。この箇所の前には、信仰によって人が義とされるということが、まず語られています。「義」とされるというのは、神さまが私たち人間を正しい者と見てくださるということです。神さまの目から見て、罪のない者と見てくださるのが、義認ということなのです。しかし、私たちはとてもそんなことを、期待することはできません。なぜならだれもが手を胸に当てて考えれば分かるように、死んでも死に切れないような罪を、私たちは犯してきたからです。解決されていない罪が心に積み重なっているからです。人はこの積み重なった罪を赦されない限り、死んでも死に切れないのではないでしょうか。罪を無しにはできません。人生の最後に、この罪の問題が大きく心にのしかかります。しかし聖書は、このような罪にあえぐ私たち人間のために、イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの代わりに私たちの罪を贖い、解決してくださったと語るのです。この箇所のすぐ前の5章8節には、次のように言われているのです。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」私たちの心にのしかかる罪の問題は、キリストの犠牲のゆえに、すでに解決している。神さまは、私たちの罪を赦してくださっており、すでに正しい者と見てくださっているというのが、聖書の語る使信なのです。今日の10節に「和解」という言葉が出てきますが、「和解」という言葉のギリシャ語の原語は、あるものを「別のものに取り替える」という意味を持っています。あるものがまったく「別のものに取り替えられる」。驚くべきことですが、イエス・キリストをただ信じることによって、私たちは「罪の重荷に苦しむ者」から「罪を赦された者」へと、取り替えられているのです。この驚くべき聖書の使信こそが、私たち信仰者を生涯にわたって支えてくれます。そして、キリストによって神の目からは義と認められているという確信を抱きつつ、この世を去ることができるのです。実に教会が世に向かって宣べ伝え続けるのも、究極的にはこの福音なのです。主の受難と十字架の道を覚えるレントの時です。聖書に聞きつつ意義深く過ごしていきましょう。
(2016年3月)

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