教会の言葉
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10月のメッセージ
2016-11-18
礼拝説教より(9月25日)
『もはや絶望に戻ることはない、
ただ希望への道がひらけている』
イザヤ書55章8~11節
ルカによる福音書24章13~35節
ベルトールト・クラッパート先生
(ヴッパータル神学大学名誉教授)
親愛なるこの地の教会の皆さん、今朝皆さんと一緒に礼拝を守れますことを感謝いたします。私が所属しているヴッパータルの教会でも今日同じように礼拝を守っています。このことによって二つの教会はつながっています。それぞれは違う文化のもとにあります。しかし、キリストは一つです。そのもとで今朝ひとつになっているのです。祈ります。「イエスよ、正しいものを見分ける健全な目を与えてください。私の目に触れてください。光が見えないことこそ日々において最も辛いことだからです。」アーメン。今朝与えられた御言葉は、私たちに「前へ進みなさい」と呼びかけ、その際に4つの問いを投げかけるものです。今朝の御言葉は「過越祭の期間にエマオへ戻る」でした。問いの一つ目は「弟子はなぜ戻ったか」、二つ目は「イエスはなぜ知らなかったか」、三つ目は「あなたがた弟子たちはなぜ知らなかったのか」、四つ目は「なぜあなたたちは私のことがわからなかったのか」です。
1.弟子はなぜ戻ったのか? まず二人の弟子に疑問を持ちます。なぜ過越祭の途中、三日目にエマオへ戻ろうとしたのでしょうか。エマオへ戻ろうとした日は、エジプトでの奴隷状態からイスラエルが解放されたことを記念する7日間の過越祭の三日目であったと私たちは判断できます。弟子たちはなぜそんなに急いでエマオへ戻ろうとしたのでしょうか。列王記によればヨシヤ王の申命記改革によって過越祭はエルサレムでのみ行われるようになり、その時には神殿で神の御名が称えられ、解放への感謝の祈りが捧げられました。エマオへ戻る道にいた弟子たちは私たちと同じキリスト者です。信仰において私たちはイエスがともに道を歩んでくださっていること、イエスのあとを辿っていることを覚えます。しかし信仰者にも時に立ち止まってしまうことがあります。エマオへ向かっていた二人の弟子も、希望を見失っていました。過越祭の三日目、エマオまであと2時間の所にいました。21節「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」そこで今朝私たちは、このエマオへの道の物語で、根本的な深い疑問を持つのです。なぜ、彼らは戻ろうとしたのか。なぜエマオへと向かった弟子たちは過越祭を途中で投げ出したのでしょうか。なぜ多くの人々が人生の道半ばで信仰を投げ出し、神と救い主イエス・キリストの約束を信じ、再び立ち上がる希望の信仰を貫かないのでしょうか。15節にはこうありました。「話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。16節しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとわからなかった。」弟子たちは落胆にとらわれていたのです。 2.イエスはなぜ知らなかったか? イエスは見知らぬ同行者として弟子たちと話し始めました。17節から19節にはこうありました。「イエスは、歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。19節「エルサレムに滞在しながら、この数日そこで起こったことをあなただけはご存じなかったのですか」イエスは答えました。「どんなことですか」。二人の弟子はイエスについて自分たちが見聞きしたこと、そして理解していたこと、期待していたことを思い出したのです。19節以下にはこうあります。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行い言葉にも力ある預言者でした。20節それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡し、十字架につけてしまったのです。」彼らの訴えは切実さを帯びています。 3.あなたがた弟子たちはなぜなか? さて、いよいよこの大切な質問に戻ってきました。イエスは弟子たちにたずねます。あなたたちは知らないのですか?忘れてしまったのですか?25節以下です。「ものわかりが悪く、心が鈍く預言者たちの行ったことすべてを信じられないものたち、メシアはこういう苦しみを受けて、光栄に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたりご自分について書かれていることを説明されたのです。イエスは十字架での苦しみに満ちた自分の物語を語っています。イエスはご自分の物語が聖書、つまり律法と預言を含む旧約聖書すべてに関係していることを説明したのです。これはイエスを理解する上で決して譲ることのできない事柄です。何よりもイエスはご自分がモーセの律法の完成者であると自覚しておられました。私たちは聖書全体が待ち望んでいた復活を過越祭を通して受け止める必要があります。最終的にそれはイエスを祝うものとなりました。復活祭ではイエスを神の僕の子羊としてだけではなく、世の罪のために死なれた方として記念します。エジプトの奴隷状態から心の解放のみならず、総合的な未来が開かれたことを記念することが重要です。 4.なぜあなたたちは私のことがわからなかったのか。 しかし、イエスが二人の弟子に対して「あなたたちは私のことがわからないのか。」という質問もしました。この質問は私たちの人生にとって重要です。ここでは、イエスが弟子たち、私たちに質問してくださっているということが決定的に重要なのです。それは過越祭の3日目で、イエスはなおも先に行かれようとしていました。しかし、弟子たちはイエスを必要としていました。二人は、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言いました。二人の弟子にとって、この夜は過越祭を祝い、翌朝に解放を待ち望む夜ではありませんでした。しかし、イエスは、過越祭の祈りの順序に従って種無しパンを裂きました。これは救い主への希望が潰えておらず、過越祭もまだ終わってないことを示しています。二人の弟子はイエスがパンを裂いたことでイエスだ!とわかりました。当時、家族のリーダー格の人やラビがそうであったように、イエスもパンを裂く役割をしました。そのことによってその人が特別な存在であることをまわりは認識したのです。これによって、二人の弟子は「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださった時、私たちの心は燃えていたではないか」と思い出しました。二人の弟子は急遽エルサレムに戻り、他の弟子たちにエマオで起こったこと、そしてパンを裂いてくれた時にイエスだとわかった次第を告げ知らせました。救い主のあとに従うというのは、「新しい道」を歩むということです。使徒言行録によれば、イエスを信じた者たちは、ユダヤ人キリスト者と呼ばれる新しい道を歩むことになったのです。こうして過越祭の食事はイエスの記念として祝われるようになったのです。「私の記念としてこのように行いなさい」よいう御言葉に基づいてです。私たちがこれを主の晩餐として、またユーカリスティア(聖餐)、めぐみのみわざとして行う時、そこに主がおられることを認め、主n出会うことができるのです。私たちが共同体としてイエスと共にいるならば、御言葉としるしによって聖霊が私たちに働きかけるのです。エマオ途上にいた二人の弟子はエルサレムに引き返し、過越祭をそこで祝うことができました。彼らは絶望の夜から、過越祭の祈りにあるように明日を待ち望む復活と過越の朝に戻りました。新しい時代の幕開けの朝、光よりの光による輝きに満ちた朝です。過越祭の三日目は日曜日です。創世記によれば神は土曜日つまり、過越祭の二日目に休まれます。イエスが死んで墓に葬られたのも土曜日です。そして日曜日は神の第一日目でイエスの復活の日です。十字架につけられた救い主、イエスは、死から復活し、ふたたび創造の御業を始められたのです。アーメン(2016年10月)