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教会の言葉

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11月のメッセージ
2016-12-17
 礼拝説教より(10月16日)    
『生きる意味      
                   船本 弘毅先生
                  (関西学院大学名誉教授)
 今年の夏は二つの大きな特色があったと考えています。一つは記録的な猛暑であったこと。もう一つは次々といろいろな事件が起きたことです。非常に大きな出来事が起こり、すぐまた別の事件が起きるために、前の事件が記憶から薄れていくほどに多くの事件がありました。これが2016年の特色だと思います。例えば5月27日にオバマ大統領が現職のアメリカ大統領としては初めて広島を訪問しました。これは大きな出来事であったと思います。毎年、広島と長崎では平和宣言が出されるわけですが、今年はオバマさんの言葉がどちらでも引用され非常に中味のある力強い平和宣言がなされました。8月にはリオデジャネイロで第31回のオリンピックと9月4日からは第15回パラリンピックが開かれました。理念のあった、理想のあった非常に良いオリンピックだったと思います。初めは設備などが遅れて本当にオリンピックが行われるのだろうか、テロは大丈夫なのだろうか、そういう危険があったのですが、あの開会式には私たちの心を打つものがありました。特に印象に残ったのは、難民選手団が正式に代表として迎えられ、オリンピックでは最後のブラジル大選手団に取り囲まれるようにして入ってきたこと。またパラリンピックでは、難民選手団が先頭を切って入ってきて、たいへん心に残る、また歴史的な出来事であったと思っています。7月26日には社会福祉法人かながわ共同会「津久井やまゆり学園」で悲惨な出来事が起こりました。年老いた障がい者が19人殺されて、27人が負傷を負うという事件がありました。このような出来事や事件から人間が生きるとはどういうことなのだろうか。人の命に優劣があるのか。仕事のできる人間は良い人間で、仕事があまりできない人間は悪い人間と誰が決めることできるのか。そういう基本的なことが厳しく私たちに問いかけられています。静岡県の榛原にキリスト教社会福祉法人の「やまばと学園」という施設があります。そこの機関誌「やまばと489号」に”人間の価値を何で決めるのか”という一文が載りました。今回の事件をとり上げて障がい者は生きていてもしょうがないという考え方は、人間が本質的には弱い存在であることを知らないから、あるいは知っていてもその事実から無理に目をそむけた考えなのではないか。このような考え方は、障がい者の命を否定するだけではなく、やがては自分の命、すべての人の命を否定することにつながるのではないでしょうか。ということが載っていました。たいへん心を打つ共感を覚える文章でありました。今日、説教に選びました旧約聖書の詩編8編で詩人はこう言っています。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」。詩編ではこのような思想を繰り返し語っています。例えば、144編3~4節には「主よ、人間とは何ものなのでしょう、あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう、あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの、彼の日々は消え去る影」。あるいは89編48~49節に「心に留めてください、わたしがどれだけ続くものであるかを、あなたが人の子らをすべて、いかにむなしいものとして創造されたかを。命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか。陰府の手から魂を救い出せるものがひとりでもあるでしょうか」。これらの詩編の中に共通していることは何か、人間は弱いものだということ、人間はもろいものだということ、人間は病めるものだということ、人間ははかないものにすぎない、問題がない人間なんてだれもいない、皆弱さを持って生きている。それにもかかわらずその人間に、神さまどうしてあなたは目を留めてくださるのですか、それにあなたはどうして顧みてくださるのですか。これが詩編の詩人が私たちに問いかけているのです。詩編の詩人が歌っている言葉であります。主は私たちを「御心に留め」の御心に留めるという言葉のもともとの意味は「憐みと親切を持って覚えていてくださる」ということです。ただ忘れないで覚えていますよということではなく、深い憐れみとほんとうにその人のことを思って、しっかりと覚えていてくださる。「顧み」という言葉は身を入れてあたたかく接してくださるという意味を持ち、詩編8編のようにこの二つの言葉を重ねて用いることで意味が強まり、なぜわたしを心に留めてくださるのか、なぜわたしを顧みてくださるのか、非常に深い思いをこめてこの言葉が重ねられているわけです。詩編8編は「人間はいかにむなしいもの、人間はいかい弱いものであること」を嘆いているのでは決してありません。そうではなくて弱い無力な人間に対する憐みと顧みへの驚き驚嘆、そして感謝が貫かれているのが詩編8編であります。ですから詩人はこの後でこう言うのです。「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお栄光と威光を冠としていただかせ御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました。」。この聖句は過去の歴史の中ではかなり議論された言葉です。神より人間を低く造ったということからその階級的、差別的な要素が聖書に中にはあるのではないかという考え方をする人がいます。しかし聖書全文や原文では低いものとか階級的に下であるとする意味には使われているものではなく、人間がいかに神に近く、神と深い関わりがあるものとして造られたということを意味しているのです。そのことを私たちは見落としてはならないと思うのです。この詩編8編は、なぜ人間が神さまによって顧みられるのかというその一つの問題と、その神と人間の関係はどういう関係であるのか、それは神の後に従い行く、神の最も近いところに造られたものとして、私たちが生きていく、そのことを明らかにしているわけです。イエスが十字架におかかりになったとき、弟子たちはイエスから離れていきました。ペトロは他の弟子がみんな離れることがあっても、私は大丈夫だと誓ったのです。その誓いをしたペトロの思いにうそはなかったと私な思います。彼は本心そう思って誓った、しかしそのわずか後、数時間にちに隣にいた女の人から「おまえはイエスの仲間じゃないのか、イエスと一緒にいたではないか」と言われたときに自分を守ろうとしたのです。自分の身に危険を感じたときに彼は「あなたの言っていることは分からない」と言っているのです。誓ったところも否定したところもペトロです。それぞれ真剣にそう言わざるを得ない人間がいた。聖書はそのことを私たちに語っているのではないでしょうか。ガリラヤに逃げた弟子たちは再びエルサレムに集まってきました。しかも彼らがそこで最初に説教した言葉は「あなたがたが、十字架につけたイエス・キリストは神を蘇らせて、私たちの救い主としてくださった。」ということでした。そこから教会が始まり、キリスト教が始まったのです。福音の言葉を聞いてイエスのあとに従った人々によって教会が生まれました。私たちは今、それぞれ自分の生を生きています。決して住みやすい時代に生きているわけではないのです。いろんな問題が私たちの周囲にあります。足を引っ張る誘惑が満ちています。しかしその中で「主よ、どうしてこのわたしを顧みてくださるのですか、心に留めてくださるのですか、詩編の詩人が歌ったようにすぐあとに従うものでありたいと切に思います。時代が厳しいだけに信仰によって生きるという意味は深い者があります。主に従うということは、主の後について少し遅れて、先立ちたもう主に私たちはただついて行く、そこに一人ひとりの信仰の歩みというものが生まれている。そして教会が本当にいのちのあふれた主の群れになるのです。
 
 
2016年11月

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