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教会の言葉

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9月のメッセージ
2017-10-12
 『規格外の神さま』
「イエスは次のたとえを話された。『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人たちを呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」というだろう』。」
 (ルカによる福音書15章4~6節)   牧師  藤田浩喜
 
ルカによる福音書15章には、三つの有名なたとえが記されています。「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえです。これらにはいずれも、共通のメッセージがあります。それは、無くしたものを見つかるまであきらめずに探す熱心さと、それが見つかった時に周囲の人たちにも一緒に喜んでほしいという気持ちです。放蕩息子のお父さんも実際に探しに出かけはしませんでしたが、いつも弟息子のことを気にかけ、心の中で探し続けていたのです。ところで、「見失った羊」の冒頭には、この無くしたものが誰であるのかが、記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた」(1節)。徴税人は、ローマ帝国の手先としてユダヤの人々から税金を徴収していました。それだけでも許せないのに、彼らはその立場を利用して私腹を肥やしていました。また罪人と呼ばれる人々も、神の律法に反した生活を送り、人々から後ろ指をさされていた人々でした。主イエスがたとえで念頭に置いておられるのは、このような人々なのです。家族のように可愛がっていた羊、何かあった時のために親が持たせてくれた大切な銀貨、愛してやまない弟息子なら、私たちも一生懸命探すでしょう。「見つかったよ、一緒に喜んで!」と言われれば、「良かったね!」と喜びを共にするに違いありません。しかし、主イエスが心に描いておられるのは、人々が裏切り者として憎み、罪人として軽蔑していた人々だったのです。こんな人たちが見つかったからと言って、本当に喜べるだろうか、むしろ放蕩息子の兄のように、迎え入れた父を非難するのではないかと思います。そうです、たとえを通して主イエスが指し示している父なる神は、人間の規格や物差しには収まりきらないお方なのです。人間が考えるようには考えられない、規格外れのお方なのです。私たちは皆、罪の闇を抱えています。徴税人や罪人の比ではないかもしれません。でも、だからこそ、悔い改める者を手放しで喜び迎えてくださる規格外の神のもとに心安じて帰っていくことができるのです。(2017年9月)
 

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