教会の言葉
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5月のメッセージ
2018-06-15
『求められる聖霊』
「『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。・・・我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』」
(創世記11章6~7節)
牧師 藤田浩喜
5月20日(日)はペンテコステ礼拝です。使徒言行録2章4節には、エルサレムで祈っていた弟子たちに聖霊が降り、”霊”が語らせるままに彼らが他の国々の言葉で話しだしたと記されています。他の国々の言葉が理解できるようになりました。そのペンテコステの出来事と対照的なのが、バベルの塔の出来事です。ここでは、同じ一つの言葉で話していた人々の言葉が通じなくされ、その結果、人々が全地に散らされたということを伝えているのです。主なる神さまは、どうして人々の言葉を乱され、通じなくされたのでしょう。バベルの塔の出来事は、ある現象が起こった原因を古代の人たちが素朴に説明した原因譚(げんいんたん)物語だと言われます。世界にはたくさんの違った言葉が存在し、お互いの言葉が通じない。そうした言葉の違いがなぜ起こったかを説明するために、このような物語が考え出されたのだというのです。しかし、この物語は素朴なだけではありません。ここには現代社会にも通じる鋭い文明批判が込められているのです。バベルの塔は、当時の最先端の技術を駆使して建設されました。「石のかわりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」(3節)とある通りです。そのような最新の技術を結集して、「天まで届くような塔のある町を建て、有名になろう」(4節)とした。そして人間が築きあげた文明こそが、人々を一つにし、究極の幸せを保障すると考えたのではないでしょうか。しかし、神はそのような人間の企てを、人間の傲慢・思い上がり(ヒュブリス)だとみなされました。そして、これ以上間違った企てが継続しないように言葉を乱されたのです。私たちの生きる現代は、高度な文明を持っています。技術革新もあらゆる分野で大変なスピードで進んでいます。パソコンやスマホといった情報通信の手段を考えても、驚くべき進歩です。しかしそのような果てしない進歩が人間を一つにするどころか、私たちの間に分断と孤独をもたらし、互いの不信をふかめるような状況をもたらしているのではないでしょうか。人間は自分の産み出すものによって一つとなれるという傲慢を捨て、神の御心に聞き従う謙遜さで一致しなければなりません。そのために聖霊の働きが求められるのです。(2018年5月)