教会の言葉
バックナンバー
6月のメッセージ
2018-07-13
『弱さを恥じない』
「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(マタイ福音書26章75節)
牧師 藤田浩喜
主イエスが大祭司カイアファの屋敷で審問を受けているとき、弟子のペトロはその屋敷の中庭にいました。かがり火はあっても夜の薄暗さの中では、自分の素性はわかるまいと思ったのでしょう。しかしそれにしても、ペトロはどうして大祭司の屋敷まで、やって来たのでしょう。他の弟子たちのように、主イエスが逮捕されたときに逃げ出さなかったのでしょう。彼は主イエスが受難予告をされたとき、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26:35)と啖呵(たんか)を切りました。そう言った手前、かれは主を見捨てて逃げ出すことはできなかったのでしょう。あるいは本当に、主イエスのためなら死んでもいいと思っていたかもしれません。彼は一途で真っすぐな人間だったのです。しかし、そのような彼に、主イエスと彼を関係づける証人が登場します。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」、「確かにお前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」。次々に主イエスとの関係を問い詰める証言を浴びせられ、ペトロは怖くなりました。主イエスの仲間であることによって彼にもたらされる禍(わざわい)が、急に現実のことと感じられ、彼はおびえたのです。そして、そのような禍を引き寄せまいと、三度も主イエスとの関係を否定しました。最後には主イエスに対する呪いの言葉すら口にして、主との関係を振り払ったのです。しかし、これはペトロだけのことでしょうか。キリスト者は、イエスをキリスト(救い主)と告白いたします。主イエスに従う者たちです。観念的にキリスト者でいることは難しくありません。しかし、キリスト者が人口の1%もいない異教社会の日本でキリストを告白することは、簡単なことではありません。日常生活の小さな場面で、好奇の目を恐れるあまり、また何か不利益が及ぶのではないかと恐れて、イエスをキリストと告白しないということは、三度どころではありません。何度も何度もあるのではないでしょうか。しかし、主はペトロだけでなく、そのような私たちの弱さもご存じです。それを承知の上で、弟子に値しない者であることを悔いる私たちだからこそ、私たちを主の弟子として、再び新しく立ち上がらせてくださるのです。弱さを恥じてはなりません。(2018年6月)