教会の言葉
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3月のメッセージ
2020-04-17
『老いの重荷という言葉』
牧師 藤田浩喜
「その日には/家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ/窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。」(コヘレトの言葉12章3・4節)
2月の一聖会では、「最上のわざ」という詩を皆さんで味わいました。これは『ホイヴェルス随想選集 人生の秋に』(春秋社)という本の「年をとるすべ」(P.74~)と題する随想の中に出てきます。この詩を皆さんで共感しながら読みましたが、その中で唯一理解が難しいと感じられた箇所がありました。それは「老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために」というくだりです。皆さんは、どのようにここを読まれるでしょうか。その時の出席者の一人は、「年をとっていくと、肉体的にも社会的にも今まで備わっていた能力が一つ一つ失われていく。しかしそのことによって、まことにより頼むべき方の姿がはっきりと見えてくるようになる。だから老いるということも、神さまからの賜物なのではないでしょうか。」その言葉をお聞きして、心にストンと落ちるような気がしたのです。ボーボワールというフランスの作家は、「人は自分の死を想像することはできるが、自分が老いた姿は想像することはできない」と言いました。まことにその通りで、今年やっと還暦を迎える筆者が、したり顔で老いについて語ることは慎まなければなりません。(目や耳や体の動きなど、老いの兆候は確実に感じますが・・).80歳の方が75歳の方に、「80歳になったら、初めて80歳の気持ちがわかるようになるよ」と論したという話を聞いたことがあります。実際、冒頭のコヘレトの御言葉は老いた人の姿を見事に活写していますが、その響きはもの悲しさをたたえています。人が老いていくことは、やはり寂しいことであり、心細いことであるに違いありません。その当事者にしかわからないつらさや、苦しさがあることを周囲の者たちは理解しなければなりません。しかし私たちは信仰において、「老いの重荷は神の賜物」と歌うことが許されているのではないしょうか。神さまが賜るもので、無駄なものも、意味のないものもありません。私たちが「まことのふるさとへ行く」ための大切な備えとして、老いの重荷もまた、賜物なのであります。(2020年3月)