教会の言葉
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主に招かれているわたしたち
西宮中央教会牧師 藤田浩喜
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録2章38節)
ペトロの説教を聞いた人々は、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいですか」と尋ねています。彼らは自分たちの歩んできた道が間違っていたことを知らされます。「このままではいけない」と痛感させられます。「やり直しをしたい」と真剣に願います。そのような切なる求めにペトロは、「悔い改めなさい。キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい、そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と道を示します。新しくキリスト者として招かれた者は、キリストによって新しく誕生した者、イエス・キリストへの信仰によって、新しく人生の歩みをはじめる者たちなのです。しかしその歩みは、単独で進んでいくものではありません。お遍路さんのようにキリストと同行二人で進むというのでもありません。父なる神とキリストによって与えられる「賜物としての聖霊」(38節)は、キリストの体である教会に注がれます。したがってキリスト者は、神の民の群れである教会の一員として、歩みを進めて行くのです。それを欠いたキリスト者の歩みはないのです。教会において本質的なことの一つは「交わり」です。交わりは「コイノニア」と言われます。この教会における交わりは、お互いに顔なじみであるとか、楽しくおしゃべりできるということが、第一義的なことではありません。もしそうなら、「その日に三千人ほどが仲間に加わった」と言われる初代の教会は、交わりができなかったことになります。そんなことは考えられません。教会における交わりはそうではなく、神から与えられる聖霊の恵みを共に受ける」「主の十字架と復活の恵みに共にあずかる」ということが、彼らの交わりの中心であったということなのです。「賜物として聖霊」を十分に受けているか、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みが活きて働いているかが、教会の交わりの豊かさのバロメーターなのです。初代教会のキリスト者たちは、きわめて豊かな交わりを与えられていました。それは、彼らが特別優れていたというのではありません。それは彼らが「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くことに、祈ることに熱心であった」。彼らが忠実な礼拝する民であったということによるのです。しかし、礼拝を通して「賜物としての聖霊を受け」「十字架と復活の恵みに生かされること」は、教会の群れを一つにすると同時に、教会の外にいる人たちへの証しにもなります。神を賛美する彼らは「民衆全体から好意を寄せられた」というのです。(2012年7月)