教会の言葉
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命を救う律法
西宮中央教会 牧師 藤田浩喜
「そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、
悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。」
(マルコによる福音書3章4節)
去る2月2日(月)に幼稚園のお母さんの有志の方々が主催した憲法カフェ(KENPOUCAFE)が行われました。教会員の皆さんも10名以上出席くださり、全体で40名程の出席がありました。また、前日の日曜日にカンパをしてくださった方々もたくさんおり、経済的にも必要を満たされたと、お母さんたちは喜んでおられました。この場を借りて私からもお礼申し上げます。当日の憲法カフェでは、神戸で活躍する若手の弁護士さんが4人も来てくださり、楽しい寸劇や紙芝居、プロジェクターを用いて、大変わかりやすくお話くださいました。憲法の精神や本質とは何か、また現在どのような憲法改正の動きがあるかなどについて、詳しく学ぶことができました。憲法というのは、元々、王さまの強い権力が民衆の自由や権利を侵さないように、王権を縛るものとして生まれてきたこと。従ってその流れの中にある日本国憲法も、国家という大きな権力によって、国民の自由や権利が侵害されないように、国家権力を縛るものとして定められたこと。その点が他の法律と違うところであり、その本質を失った憲法は、もはや憲法と呼ぶに値しないということを教えられ、目からうろこが落ちるような気がしました。憲法13条に「すべての国民は、個人として尊重される」と定められています。たとえ国家であっても、正当な理由なくして個人の自由や権利を侵害することはできない。これは長年の血みどろの闘いの中で、人類が勝ち取ってきた人権です。もしこのような人権が、国家の利益や公共の福祉の名の下に大きく制限される憲法へと変質するならば、私たちを巨大な権力の横暴から守ってくれる根拠を失うのです。押しつけられた憲法か自主憲法かという議論に惑わされることなく、憲法の精神や本質が損なわれてはいないかどうかを、厳しく見守っていかなくてはならないと思います。主イエスは安息日にもかかわらず、あえて手の萎えた人のいやしを行われました。それは神が与え給う律法が人の命を殺すためではなく、救うために立てられたことを確信しておられたからです。律法が善い行いや命を救うために用いられるべきことを知っておられたからです。法というものの精神と本質が、そこにあるように思います。(