教会の言葉
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教会から御国へ旅立つ
牧師 藤田浩喜
「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」
(ヘブライ人への手紙11章15~16節)
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最近親族の葬儀があって、三重県四日市の葬儀会館に行ってきました。親族は平均的な仏教徒で、天台宗のお坊さんが式を行ってくれました。それはともかく、近年葬儀会館がそこここにでき、その設備やシステムもますます便利になってきたように思います。今回の四日市の会館も、入口に受付の機械が2台据え付けられ、画面をタッチし必要事項を入力すると、プリンターから受付票が出てきます。それにお花料の金額を書いて有人の受付で渡すと、ご挨拶状と返礼品がその場で受け取られるのです。また、葬儀の進行も年ごとに洗練されてきました。心に残る式になるよう映像や音楽を用い、係るスタッフの動きのきびきびしています。このような洗練ぶりは結婚式にも共通しているのですが、過剰な演出に走って、式の本質がぼやけている結婚式よりは、はるかに控えめであり、好感が持てます。葬儀会館が多くなり、そのサービスも年々向上しているのは、時代がそれを求めているからでしょう。葬儀の形が多様化していることや、地方でも葬儀を担う地域のつながりが失われていつことも、影響しているでしょう。何よりも、会館がすべてしてくれて家族の負担が少ないよいう利便性が支持されているのでしょう。しかし、私たち信仰者にとって葬儀は、利便性を越えた重要な意味があります。ある礼拝学者は、信仰者の生涯を神の御国への旅として描き出しています。信仰者は主日ごとの礼拝を守り、神の国を望みつつ人生の旅を歩んでいきます。そして共に信仰生活に生きた仲間たちが、賛美を歌い、祈りを合わせて、その人を御国へ送り出すのが葬儀なのです。その最後の時を過ごすのにふさわしいのは、その人が生涯に渡って礼拝を守り、神さまの前に喜びも悲しみも注ぎ出した教会ではないでしょうか。洗礼を受け、信仰告白をし、(多くの人が)結婚の誓いを立てた礼拝堂ではないでしょうか。また、教会においてこそ、私たちは家族や親族にもっとも明瞭に信仰の証しを行うことができます。私は牧師として教会につながる皆さんが、礼拝堂かた御国へと送り出されることを、何よりも願っています。教会も努力を重ねていきますので、皆さんもぜひ、利便性を越えた決断をしてください。(2015年4月)