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教会の言葉

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7月のメッセージ
2017-08-18
 『信仰の叫びである「祈り」』
「わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥じとした。『わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります』と王に言っていたからである。
 (エズラ記8章22節)        牧師  藤田浩喜
 
 
エズラを中心とする帰還兵は、ペルシャ王アルタクセルクセスの許可と支援を受けて、バビロンからエルサレムに向かおうとしていました。 旅を始めるにあたって、エズラはアハワ川のほとりで人々に断食を求め、神の前に身をかがめて祈った、というのです。というのも、かねてからエズラはペルシャ王に、「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります]と神を証ししていました。そのように神に全幅の信頼を寄せるエズラは、旅の護衛として歩兵や騎兵を付けてくださいと、王に願いませんでした。信仰者としてのプライドが、願うことを恥じさせました。もはやエルサレムまでの長旅を続けていくのに、人の力を頼むことはできません。そこでエズラは、人々に「断食を呼びかけ、神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした」(21節)のでした。エルサレムへの帰還民は多く、その中には幼い子どもも含まれています。またバビロンからエルサレムまでは、4か月近くかかったようです。エズラは、守るべき者たちの多さや掛替えのなさを目の当たりにしたとき、困難な旅の前途を想像したとき、護衛の歩兵や騎兵を求めなかったことを、少し後悔したかもしれません。「早まってしまった」と頭を抱えていたかもしれません。けれども、人の力を頼まず、神にのみ依り頼んで進んで行く決断をした以上、他に道はありません。エズラとその一行は、断食をし、神の前に身をかがめて、一心に祈ったのです。心にかかることを一つ一つ具体的に数え上げ、切なる祈りを合わせたのです。祈りというのは何でしょう。何でも自分のほしいものを求めることが祈りであると考えている人がいます。しかし、祈りそのものが信仰の行為です。御言葉に聞き、それに従おうとするときに出てくる叫びです。この切なる叫びとしての祈りなしに、人は神の御言葉に従っていくことはできないのです。信仰者は、神に依り頼み、神の御言葉に従って行くとき、祈りの叫びを上げざるを得ません。しかしそのような歩みの中において、歴史を支配したもう神の御手に触れることができます。活きて働きたもう神を心からあがめることができるのです。(2017年7月)

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