礼拝説教
11月22日礼拝説教
2020-11-30
ヤコブの手紙1章19~27節(Ⅱ) 2020年11月22日(日)
「御言葉を行う人になりなさい」 藤田浩喜
今日の聖書ヤコブの手紙1章26節は、「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くなら、そのような人の信心は無意味です」と言っています。ここの「信心」という言葉を、最近出た『聖書協会共同訳』や『新改訳2017』は「宗教」と訳しています。ただこの言葉は宗教全般というよりも、実際に行われる儀式や儀礼を表わしていると言われます。キリスト者で言えば、主日礼拝を守り、その中で祈りや讃美や献金を捧げたりすることです。そうしたことはキリスト教信仰の中心をなすものであり、とても大切なものです。しかしヤコブの手紙の著者は、そのような礼拝をいくら熱心に守っても、それだけでは十分ではない。キリスト教信仰の全体から考えれば、半分ぐらいにしかならないというのです。主日礼拝がいかに大切か、日頃から教えられてきた私たちは、このヤコブの言葉をどのように受け留めたらよいのでしょうか。
今日は22~27節をご一緒に学んでいきますが、まず22~24節には次のように記されています。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまします」。
前回のところで、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」(21節)と勧められていました。礼拝で語られる御言葉を、聞いて受け入れることは大切です。「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(21節)と言われていました。しかし、礼拝において「いのち」の御言葉を聞いても、その御言葉を行うということにつながって行かなければ、意味がない。本当に御言葉を聞いたことにはならない、と言われているのです。主イエスも山上の説教で次のように言われています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)。御言葉は父なる神さまやイエス・キリストの御心です。父なる神さまやイエス・キリストは、キリスト者に御心を行うように求めておられます。ところがいくら御心を語っても、それが少しも実行に移されなければどうでしょう。お使いを頼まれた子どもが、よい返事だけして一向に腰を上げないなら、それは親の言うことを聞いたことにはならないのです。
でも、どうして神さまの御心である御言葉を行うことができないのでしょう。
ヤコブの手紙の著者は、鏡に自分の生まれつきの顔を映して見ることにたとえています。この時代の鏡は現代のようなガラスではなく、金属である青銅を磨き上げて作られた物でした。今の鏡のようにクリアに映らなかったかも知れませんが、自分の生まれつきの顔を映して見ることはできました。鏡というのは、掛値の無い自分の姿をありのままに見せてくれます。見たくないしみやしわ、皮膚のたるみがあったとしても、否応なく目に入ります。でも、鏡の前を立ち去ると、そこに自分の顔はありません。自分の見たくないもの、不都合なものを忘れることもできるのです。聖書の御言葉は私たち信仰者にとって、鏡のような存在です。御言葉によって、私たちの罪が暴かれ、私たちが罪のゆえに死すべき存在であることが明らかにされます。掛値の無いありのままの姿が映し出されます。しかし、それと同時に、父なる神さまが御子を十字架にお掛けになることを厭わないほどに、私たち人間を愛してくださり、罪と死の縄目から解き放ってくださった事実も明らかにされます。イエス・キリストの十字架によって罪赦され、永遠の命を受ける者とされた姿も、明らかにされます。けれども、そのような神の前での私たちの掛値の無い姿を、私たちはすぐに忘れてしまうのです。主日の礼拝が終わり、教会の扉をくぐって外に出た途端、自分の姿を忘れてしまいます。神さまがどんなに大きな愛をもって私たちを愛し、どんなに価高い犠牲を払って私たちを救ってくださったかを覚えていません。そのため、その結果として、神さまの愛に応答して御言葉を行うことができないのです。
私たちキリスト者は、どうしたらよいのでしょう。どうしたら、神さまの愛と憐れみに応答して、御言葉を行う者になれるのでしょう。ヤコブの手紙は25節で、次のように言うのです。「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」。この25節はヤコブの手紙を「わらの書簡」と呼んだ宗教改革者マルティン・ルターが、極端に嫌った箇所だと言われています。信仰義認、信仰によってのみ救われることを主張したルターにとって、律法を守ることによって救われるように説くこの箇所が、我慢ならなかったのかもしれません。しかし、ここの律法というのは、規則づくめの律法ではなく、イエス・キリストが打ち立ててくださった愛の律法です。イエス・キリストの十字架における神さまの愛に応答して、人間が行う愛の行為です。十字架によって義とされた者たちが、神の愛に押し出されて行う愛の行為です。救われた者たちが進んで行く聖化の道です。この愛の律法を聞いて知っているというだけでなく、この愛の律法を主イエスの御心として絶えず心に留めていること。日々の生活において、行動に移していくことが求められています。頭の中で考えているだけでなく、具体的な形をとるように行うことが大切なのです。意志的な行動なのです。
マザー・テレサは、インドのコルコタ(カルカッタ)で、行き倒れている人々を自分たちの施設に運んできて、最後の瞬間まで心を込めてお世話をするという愛の業を続けていました。毎日シスターたちは、御言葉に養われ、祈りを捧げたのち、カルカタの街に出かけていました。彼女たちは、「わたしの兄弟であるこの最も小さな者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という主イエスの御言葉を聞いていました。マタイによる福音書25章40節の御言葉です。そして、行き倒れている人たちの姿に小さなキリストを見て、キリストにお仕えするように、この人たちに仕えたのでした。ここには、御言葉を聞くということと御言葉を行うというが、分かちがたく一つとなっています。愛の律法を行うということは、こういうことを言うのではないでしょうか。
そして、この律法についてヤコブの手紙は、「自由をもたらす」という形容詞と「完全な」という形容詞をつけています。まず後の「完全な」ですが、この「完全な」は三つの意味を持っています。一つは、この律法は神によって与えられた、神の律法ということで完全なのです。二つ目に「これ以上に良いものはない」という意味で完全なのです。そして三つ目ですが、この「完全な」は「テレイオス」というのが原語です。「テレイオス」は、ある与えられた目的に向かって完全であるという意味を持っています。この律法を守るキリスト者は、神さまが自分をこの世に送り給う目的を遂行します。その人は愛の律法を行うことによって、自分がこの世に送られた目的を実現します。その意味において完全なのです。また、この律法は「自由をもたらす」と言われています。律法というと、人間を戒律や規則によって縛りつけてしまうように感じます。しかし、愛の律法はそうではありません。愛の律法は、人間に真の自由を見出させる律法なのです。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)と、主イエスは言われました。ここの真理は、主イエスの御言葉であり、主の愛に留まることです。そのように愛の律法に服従することによってのみ、人間は本当に自由になることができるのです。
さて、これまで私たちは御言葉を行う、すなわちイエス・キリストが打ち立ててくださった愛の律法を行いなさいという勧めを聞いてきました。そのことの大切さは分かります。しかし、現代のキリスト者である私たちが、御言葉を行うというのは、具体的にどのようなことなのでしょう。今日の27節には、このように記されています。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」。初めに「みなしごや、やもめが困っているときに世話をする」ことが言われています。この寄る辺ない人たちに寄り添い、世話をすることは旧約聖書の時代から、神の民イスラエルに命じられていたことでした。収穫した後に落ち穂を残して、みなしごややもめ、寄留の外国人が集めることができるようにしていたのも、その一環でした。しかし、そのような仕事は現代において、社会福祉の働きとして行政や公的な機関が担っています。私たちはこのことを考える上で、先ほど取り上げたマタイによる福音書25章の主イエスの言葉に注目したいと思います。主は36節で「裸のときに着せ、病気のときに見舞い…」と言われていますが、ここの「見舞い」という言葉は、今日の27節の「世話をする」と同じ言葉が使われています。また43節で「病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」と言われていますが、この「訪ねる」という言葉も、今日の27節の「世話をする」と同じ言葉が使われています。ここから私たちは、「世話をする」という言葉が、現代においてより大きな広がりを持っていることに思い至るのです。御言葉を行うことが、キリストの愛の業への応答であることも先ほど申し上げました。キリスト者や教会が行う愛の業はその意味で、今日社会的に弱い立場におかれている人たち、あるいは教会の中で様々な困難を抱えている兄弟姉妹に心を寄せ、その人たちのために祈っていく。それと同時に、具体的な配慮や世話というような行動として表されていくことが、切実に求められているのだと思います。 また、もう一つここには「世の汚れに染まらないように自分を守ること」が挙げられています。ヤコブの手紙は、社会におけるキリスト者の実践を勧めた後で、その社会の中で悪しき力に負けることのない、信仰の真実を貫いていくよう勧めます。イエス・キリストの父なる神を信じ、キリストによって罪赦され新しくされた自分の立場を鮮明にするゆえに、この世で幅を利かす尺度に染まらないということが求められているのです。私たちの信心は、立派で整った礼拝を敬虔に守ることに尽きるものではありません。「御言葉を行う人になりなさい」という呼びかけが、鋭く心に迫ります。これを自分に向けられ言葉として聞きつつ、新しい一週間の歩みを進めてまいりましょう。(2020年11月22日)