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礼拝説教

11月15日礼拝説教
2020-11-23
 創世記46章1~7節           2020年11月15日(日)
 「本当の元気を取り戻す」      藤田 浩喜
 昨今の車の多くにはカーナビ(カーナビゲーション)が付いています。カーナビ搭載の車に乗るようになってから、わたしは日本国内ならどこでも運転できると思えるようになりました。わたしはあまり地理に強くなくて、何度行っても道を覚えられないような人間です。そのためカーナビの無い時は、わたしよりも地理に詳しい配偶者に「今のところを曲がらなくてはならなかったのに!」と、よく言われたことがありました。でもカーナビは、何回道を間違えても、間違った所から正しい目的地に案内し直してくれます。いつも変わらぬ優しい声で案内してくれるので、こちらが委縮してしまうことがないのです。また、時々変な道を指示されることはありますが、それさえ我慢すれば必ず車を目的地まで案内してくれます。目的地に着けることは100%間違いがありません。そのような安心感があるので、地理に疎いわたしであっても、日本全国どこにでも行けるぞという、元気が湧いてくるのです。
 
 さて、今日の聖書の箇所は年老いた族長ヤコブが、カナンの地からエジプトに下って行くというところです。オリエント世界の大飢饉によってヤコブの一族が住んでいたカナンも食糧不足にあえいでいました。エジプトだけには食糧が豊富にあるということで、ヤコブの11人の息子たちが食糧を買いに来ます。そして今やエジプトの宰相になって政策を指揮している弟ヨセフに出会います。色々ありましたが、かつてエジプトに奴隷として売られたというわだかまりも解消され、
ヨセフは父ヤコブと一族の者たちをエジプトに呼び寄せることにします。父を迎えるために11人の兄弟が、父の住んでいるカナンに帰って来たのです。
 ヤコブは息子たちの話を聞いて、「気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである」(創45:26)と記されています。愛する息子ヨセフが生きていただけでも驚きだったのに、そのヨセフがエジプトで王に次ぐ地位を得ているという。そんなことを急に聞かされても、すぐに本当のことだとは思えなかったのです。しかし、息子たちの話すことをすべて聞き、ヨセフが迎えのために寄こしてくれた馬車を見て、父ヤコブは元気を取り戻しました。そして、「わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい」と、ヨセフの待つエジプトに向かう決心をしたのです。
 しかし、カナンを離れてエジプトに移り住むには、心にひっかかることがありました。それは神さまが約束し導いてくださったカナンから離れてしまうということでした。実はヤコブの父イサクも、かつてカナンに飢饉が起こった時、エジプトに下って行こうとしたことがありました(創26:2)。ところがその時神さまは、「エジプトに下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい」と言われたのでした。エジプト行きを禁じられたのです。ところが、自分は一族を連れてエジプトに下ろうとしている。それは神さまの御心に背くことになるのではないかと、ヤコブは悩んだに違いないのです。大きな躊躇があったのではないでしょうか。しかしそのようなヤコブの心をご存じの神さまは、ベエル・シェバにおいて夜、幻の中で現れられます。そして、こう言われるのです。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトに下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」(創46:4)。ここで神さまは、いかなる事情のもとでも、神の民にひたすらカナンで生きることを求められる形式主義的な方ではありません。神さまは生きた人格的存在であり、人間の苦しみと歩みを共にし、それを用いて、鍛え、育て、やがて本来のあり方に連れ戻して下さるお方です。神さまは形式的なことに固執するお方ではなく、現実の中で真剣に人間と共にあろうとしてくださるお方です。ヤコブとその一族が飢饉の危機から逃れることができるように、将来にわたって神の選びの民として生き続けていくことができるように、かつて命じられたことも撤回して、人と共に生きようとされるのです。
 「わたしがあなたと共にエジプトに下」る。「自分のもとに来い」と言われるのではありません。神さまの方がエジプトに下るヤコブたちのところに来て、歩みを共にしてくださると言われます。このことは後に、神の御子イエス・キリストが人となり、人と共に生きられ、十字架の死を遂げられたことにおいて、完全に成就します。私たちの信じる神さまは、インマヌエル(神は我々と共におられる)神さまです。どんな状況にあっても、共に歩んでくださるお方なのです。
 
 さて、今日は読まれなかった箇所ですが、ヤコブとその一族はエジプトのゴシェンの地に到着します。46章28節以下のところです。そして17歳の時から約20年の歳月を経て、ヤコブは愛する息子ヨセフと再会することができました。「ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた」(創46:29)。エジプトの宰相に上り詰めたヨセフが、父ヤコブの前では幼な子に戻ってしまったかのようです。どんなに再会を待ちわびたことでしょう。短い抑制された描写ですが、それだけに一層、ヨセフの溢れる思いが伝わってきます。そして、ヤコブは息子を受け止めつつ、このように言うのです。
「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから」(創46:30)。ここにはヤコブの実感がこもっており、彼の心満たされた思いが溢れています。長い間、息子ヨセフのことは、父ヤコブの心から離れることはありませんでした。17歳の時、ドタンで野獣に襲われたことを物語る血の付いた着物を見せられたものの、ヨセフの消息は本当には分かりませんでした。生きているのか死んでいるのかも分からない。おそらく心の整理もつかないままに、どこかで重い気持ちを抱えながら、20年近くを過ごしてきたに違いありません。心の底から笑うことも、満ち足りた幸福な思いに浸ることも、あまりなかったに違いない。そのようなヤコブが、今、生きていたヨセフの姿を目にして、「自分はもう死んでもよい」というふうに、心満たされている。「自分の人生に思い残すことはない」と言うほどに、満足感を覚えている。それはよく分かります。ヨセフとの再会は、ヤコブの人生というジグソーパズルを完成させる最後の1ピースであったとすら言えるでしょう。
 しかし、そこにあったのは、20年ぶりに息子の元気な姿に会えたというだけではありません。20年ぶりに会ったヨセフが今やエジプトの宰相となり、飢饉によって命の危機に直面していたヤコブの一族と再会し、エジプトへと呼び寄せてくれた。ヨセフを通じてヤコブの一族、後の神の民イスラエルが、エジプトで生き続けていくための道が開かれた。ヤコブはその一連の出来事の中に、神さまのくすしき御手の導きを見て、「もう、思い残すことはない」「わたしはもう死んでもよい」と、安心したのではないでしょうか。
 この箇所を読むとき思い起こすのは、幼な子イエスがお宮参りをした時に、その幼な子を胸に抱くことのできたシメオンの言葉です。長い間、「イスラエルの慰められるのを待ち望み…主が遣わされるメシア」を待っていた年老いたシメオンは、幼な子イエスを胸に抱いてこう言うのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」(マタイ2:29~32)。シメオンは、救い主イエス・キリストが成長し、どのように働かれたかは知りません。イエス・キリストが十字架の死と復活によって、救いを成就されたことも知りません。彼は、救い主となる幼な子をその胸に抱いただけです。しかし、そのすべてを見ることができなくても、この小さな幼な子がこの世界に与えられたことを通して、神の救いの業が力強く進められていくことを示され、シメオンは心から安心し、満ち足りた思いに溢れることができたのです。まさに神が与えてくださる「啓示の光」がシメオンにも臨み、救いが完成する様を彼に悟らせて下さったのです。彼にはそれで十分だったのです。
 おそらく今日のヤコブにも、神が与えてくださる「啓示の光」が臨んだのではないでしょうか。彼がその目で見ていたのは、20年ぶりに再会した息子ヨセフが、エジプトの宰相として目の前にいるということでした。それ以上のことではありません。しかし、ヤコブはヨセフとの再会を通して、主なる神が祖父アブラハムや父イサクに約束された祝福を必ず実現してくださるお方であることを確信することができました。まだ見ていない約束の成就が、神さまによって果たされることを、はっきりと悟ることができました。だからこそ、ヤコブはすべてを神さまにゆだねて、心安んじることができたのです。有限な人間には、神さまの壮大な救いの歴史を、すべて見渡すことはできません。しかし、たとえ見渡すことはできなくとも、神さまは「啓示の光」を与えてくださいます。その救いが完成することを、私たちに悟らせてくださいます。だからこそ、私たちは満たされた思いで、平安のうちにこの世を去ることができるのです。
 
今日の説教題を「本当の元気を取り戻す」と付けさせていただきました。私たちはそれぞれが、人生の道のりを歩んで行きます。その歩みにおいて、私たちはいつも元気に、快活に進んで行けるわけではありません。くたびれ果てて、その場にうずくまってしまうこともあります。何をすることもできないほどに、打ちひしがれてしまうこともあります。また、本当は元気などないのに、無理してカラ元気を出していることもあります。しかし、私たちはいつも元気でいることはできませんし、その必要もないのではないかと思います。自分の中から元気を振り絞ろうとしても、それには限界があり、長続きはしないのです。
しかし、今日の聖書が語っているように、誰にも増して、私たちの信じる神さまは、私たちの元気の源です。今、人間関係論において「人に力を与えたり」「勇気を与えたり」する能力として、「エン・パワーメント」とか「エン・カレッジメント」ということが注目されています。人にやる気や元気、勇気を起こさせる能力のことです。しかし、この「エン・パワーメント」とか「エン・カレッジメント」を、神さま以上にお持ちの方はおられません。神さまは、どこまでも私たちと共にいて、私たちのことを考え、私たちを励まして下さいます。たとえ道を間違っても、何度でも最善の道へと導き直してくださいます。そして、私たちの道のりが最後には御救いの完成に至ることを、啓示の光によって悟らせて下さいます。私たちはすべてのことは分かりません。しかし安心して、満ち足りた思いで、神さまの御手の導きにゆだねることがことができます。本当の元気は、ここから来るのだと思います。神さまが与えてくださる本当の元気を祈り求めながら、この一週間を過ごしていきましょう。(2020年11月15日)
 
 
 
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