礼拝説教
11月8日礼拝説教
2020-11-16
ヘブライ人への手紙12章1~3節 2020年11月8日(日)
「完成者である主イエスを見つめつつ歩む」 藤田 浩喜
今日は教会創立記念・召天者記念礼拝を守っています。この礼拝を共にしている皆さまの中には、自分の親御さんを見送られた方も多いでしょう。井上靖という作家がこんなことを言っています。「父が亡くなったら急に父という屏風がなくなって、向こうに死の海が見えた」。それまでは父親が生きていたから、それが屏風になってさえぎってくれ、自分は死と直面することがなかったのです。しかし、父親が死んだ今、死の海が大きな穴をあけたように見えたのでしょう。この感覚は、わたしにもよく分かります。私の父は42歳で亡くなり、母は78歳で亡くなりました。母が亡くなった時、自分の上にはもう親がいないんだと思って、心細さを感じたのを覚えています。「いよいよ次は自分の世代が死に直面する番だな」と少し緊張が走ったのを覚えています。
私たちは今日、そのように先に送った家族のことを偲んで、この召天者記念礼拝を守っています。その家族はキリスト者として生涯を送った方々でしたが、この先輩のキリスト者たちは、何を見、どのようなことを考えながら、その生涯を生きていかれたのでしょう。今日の聖書箇所ヘブライ人への手紙12章1~3節は、召天者記念礼拝や葬儀で読まれる有名な箇所です。ここの御言葉に共感し、拠り所にしているキリスト者も多いと思います。ですから今日は、この箇所から今申し上げたことを聞いていきたいと思います。
まず、1節にこう言われています。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」キリスト者の生涯はどのようなものか。手紙の著者は、マラソンのような長距離走になぞらえているのです。聖書では信仰者の生き方が、ボクシング、レスリング、マラソンになぞらえられることがあります。古代オリンピックの伝統が、紀元1世紀のこの時代にも脈打っていたからかもしれません。
この長距離走になぞらえられた信仰者の歩みは、他の人と競争したり、順位を競ったりするものではありません。最後まで走り切り、完走することが目的です。
そして、最後まで走り切ることは簡単なことではありません。皆さんも学校のマラソン大会で10キロとか走らされたことがあると思いますが、ゴールまでの道のりは大変苦しいものです。こんなに苦しい状態が続くのであれば、途中でリタイヤしてしまおうかとか、速度を緩めてしまおうと、何回も考えます。そのようにキリスト者として生涯を全うするということも、容易なことではなく、走り通せるだろうかという不安に駆られることも、稀ではないのです。
しかし、キリスト者は一人で走っているのではありません。「おびただしい証人の群れに囲まれています」「多くの証人に雲のように囲まれています」(口語訳)。これは、競技場の観客席に満員のキリスト者たちがいて、声援を送っている様子だと、考える人がいます。またそうではなく、おびただしいキリスト者たちがいて、一緒にこの長距離走に参加している。同じ信仰の道のりを走るキリスト者たちが、前にいたり、肩を並べたり、後ろにいたりして、互いに声を掛け合い、励まし合っている。その様子だと考える人もいます。いずれにしても、キリスト者は一人ではありません。孤独にひとりぼっちで、長距離走を走るのではありません。先に走る先輩の背中を見ながら、その姿に励まされます。「あの人が走っておられるのだから、自分も最後までがんばろう」と、勇気や力をもらいます。また、肩を並べて走っている仲間から、くじけそうになる気持ちを励ましてもらうこともあります。反対に気落ちし、走りの弱くなっている信仰の友のために、声を限りに応援することもあります。世代を超えて、置かれた状況を超えて、互いに支え合い、励まし合い、祈り合って、キリスト者としての生涯を進んでいくことができます。これは大変すばらしい経験ではないかと思います。
しかも、それだけではありません。キリスト者の走る長距離走には、信仰の先輩や同世代の仲間たちだけではありません。私たちの主イエス・キリストが、共に走ってくださっているのです。手紙の著者は、2節で「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら(走ろう)」と、呼びかけているのです。信仰の創始者とは、今まで未開拓の道を開いてくれた人のことです。イエス・キリストは罪によって断絶されていた神さまへの道、永遠の命に至る道を開いてくださいました。それは尋常なことではなく、神の御子がそのご栄光を捨てて人となり、十字架の死を耐え忍び、人間の罪を贖うことによって、初めて成し遂げられたのでした。イエス・キリストが道を切り開いてくださったからこそ、後に続くキリスト者はその道を通って、神さまのもとに辿り着くことができるのです。
また、イエス・キリストは完成者です。ただ道を切り開かれただけではありません。最後までそれを成し遂げてくださる方です。弱く挫けそうになってしまうキリスト者を、イエス・キリストは聖霊を送ることによって、励まし強めてくださいます。イエス・キリストの遣わしてくださる聖霊の助けによって、キリスト者は力を与えられます。ゴールまでの行程を走り切ることができるのです。預言者イザヤが語るように、「疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられ」ます(イザヤ40:29)。「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(同40:31)のです。キリスト者として生きるということは、この「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」生きることです。今も生きて働かれるイエス・キリストと共に、そのお方の存在を身近に感じながら、そのお方に支えられて生きていくことができるのです。
このように見てきますと、キリスト者の人生というのは、平たんで安易な人生ではありません。聖書はそのような約束をしていません。今日の短い箇所に「忍耐」や「耐え忍ぶ」という言葉が3回も使われているように、苦しみや労苦は避けがたく、それを穿(うが)ちつつ進んでいく忍耐が求められます。人が通常遭遇する困難だけでなく、信仰者であるがゆえに負わなくてはならない労苦もあります。しかし、それはイエス・キリストが切り開いてくださった道を、ゴールを目指して進む行程です。そこには死で終わることのない人生のゴールがあります。
そして、その行程をひとりぼっちで進むのではありません。そこには、世代や性別、置かれた立場を超えた信仰仲間との交わりがあります。共に目標を目指す者同士、祈り合い、励まし合い、声を掛け合っていくことができます。そして何よりも、今も生きて働き給うイエス・キリストが、信じる者をゴールに至るまで、力強い御手をもって導いてくださいます。生ける主イエスとの豊かな交わりが、信仰者の日々の喜びとなります。キリスト者として生きるとは、そういうことなのだと思います。そして先に召された先輩の兄弟姉妹も、そのような生き方を願い、その願いを貫かれたのだと思うのです。
最初に申し上げたことですが、齢を重ねるに従って、私たちは死を身近に感じるようになってきます。地上の死を迎えるということは、信仰をもつキリスト者にとっても圧倒的な出来事です。キリスト者だから、死を恐れないと簡単に言うことなどできません。しかし、死を正しく迎える、死をふさわしく受け入れるというのは、一体どういうことなのでしょう。それは死を無きがごとくに忘却することではありません。忘れようとしても、死はある日突然、不意打ちのような仕方で襲いかかってきます。避けて通ることはできないのです。また、絶えず死におびえ、死のことばかり考えてしまうというのも違います。そんなことをしていたら、せっかく与えられている人生の日々を楽しんだり、喜んだりすることはできません。私たちの毎日が死の暗い影に覆い尽くされてしまいます。
死は死だけを見つめても、その意味は分かりませんし、正しく受け入れることもできません。そうではなく、「死を意識しつつ人生を生き切る」ということに、私たちの目を向けなくてはならないのです。生きるということを考えることなしに、死というものを正しく受け入れることはできないのです。ハンセン病患者の治療に尽くした有名な精神科医である神谷美恵子さんが、尊敬してやまなかった詩人にカリール・ジブラーンという人がいます。そのジブラーンが、次のような詩を遺しています。「今度は死について伺いたい、とアルミトラが言った。/彼は言った。/死の秘密を知りたいのですか。/しかし、生の只中にこれを求めないで/どうやって見つかるでしょうか。/闇に慣れた梟(ふくろう)は盲(めしい)いていて(目が見えず)、/光の秘密を明らかにすることができない。もしほんとうに死の心を見たいと思うなら、/生命(いのち)そのものに向かって広く心を開きなさい。/なぜなら川と海とが一つのものであるように/生と死は一つのものなのだから」。
生と死は一つのものであり、切り離して考えることはできません。生は生だけでは、それが本来持っている輝きを知ることはできませんし、死は死だけでは、それが湛えている深みを知ることはできません。「メメントモリ」(死を覚えよ)ということを心に置きつつも、与えられ許された時を精一杯生き切っていくこと。自分が生かされている意味と使命を謙遜に問い続けながら、前を見つめて精一杯生きていくこと。若い人は若い人なりに、年とった人は年とった人なりに、病を得た人は病の人なりに、生かされている意味と使命を尋ね求めながら、毎日を丁寧に生きていく。そのような中で、死ということもおのずから受け入れられるようになっていくのではないでしょうか。
還暦を迎えた私自身について言えば、死とは、夜眠った自分がそのまま目覚めることのないような状態だと、考えています。そして平均寿命から考えれば、人生も4分の1ほどしか残っていない。なので、なるべく前向きで生産的なことに力を注ぎたいと思います。否定的な事に時間を使いたくはありません。そして讃美歌にあるように、「主よ、終わりまで仕えまつらん。御そば離れずおらせたまえ」という歩みができたらと、切に願っています。キリスト者とは、今まで述べてきましたように、目標を目指して走る生き方、そして信仰仲間と祈り合い、支え合って生きようとする生き方、生きて働き給うイエス・キリストとの交わりの中で生きようとする生き方です。このような生き方は、信仰の先輩たちが生涯を貫いて最後まで走り通した生き方です。忍耐も求められますが、大変充実した素晴らしい生き方です。今日礼拝されているご家族の方々にも是非、この生き方に加わって頂きたい。そのことを心から願っております。
(2020年11月8日)