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礼拝説教

11月1日の説教
2020-11-09

ヤコブの手紙1章1927(Ⅰ)        2020111日(日)

  「聞くのに早く、怒るのに遅く」   藤田 浩喜

 私たちは言葉を使って生活しています。それゆえ、言葉を聞くこと、言葉を話すことについて、色んな知恵が蓄積され、ことわざのようになっています。「話上手は聞き上手」、「口は禍の元、禍の門」、「わたしたちが二つの耳と一つの口を持っているのは、わたしたちがより多くのことを聞き、より少なく語るためである」(ゼノン)。他に私自身が好きなことわざは、「御礼の言葉でもお見舞いの言葉でも、早く送ることは二倍送るのと同じ値打ちがある。」「話はよく聞いてもらうだけで、半分の報酬を得たことになる。」後のことわざは少し分かりにくいかもしれませんが、相談に来た人の話を真剣に聞くことの大切さを教えてくれます。誰かに相談を持ちかけられたとき、内容の深刻さや大きさに何もしてあげられないと思うことがよくあります。小さな事ならともかくも大きな事、深刻な事を聞いても、聞くことしかできない。何も現実的な力になれない、ということがほとんどです。でも、相談をもちかける本人も、そんなことは大体分かっています。しかしそれでも、真剣に話を聞いて相手の立場に寄り添おうとするなら、相談をもちかけた人は大切なものを受け取ることができるのです。「苦しい思いを吐き出すことができた」。「自分の思いを受け止め共感してくれる人がいた」。「真剣に話して、気持ちが整理され進むべき方向が定まった」。そういう良きものを受け取ることができます。それをある精神科医は、「半分の報酬」という言葉で表現していました。私たちは相手の話を真剣に聞くことによって、自分が考えるよりも大きな働きをなすことができます。聞くということを過少評価しないで、他者と関わっていきたいものだと思います。

 また、今日の聖書には「怒るのに遅いようにしなさい」(19節)ということが言われています。「怒る」という感情は、私たちの日常生活に馴染み深いものです。皆さんの中に、昨日の一日、一回も「怒り」の感情が湧かなかったという方は、どれだけおられるでしょう。大きな政治のことから、小さな日常生活や周囲の人たちとの関係に至るまで、私たちの心の中には、日に何度も怒りの感情が湧き起こっています。そしてこの「怒り」という感情は、よく「仮面を被った感情」と言われることがあります。「怒り」という感情が起こる場合、表面的な理由だけでなく、その奥に別の深い理由が隠されており、それが自分にも自覚されていないだけということがあるのです。たとえば、今大きな問題になっている児童虐待の問題ですが、親自身が子どもの時に虐待を受けた経験を持っていると、自分の子どもを虐待してしまう可能性が高いと言われています。これを「負の連鎖」と言いますが、どうしてそんなことが起きるのでしょう。虐待というつらい目に遭ったら、「子どもにだけはそうすまい」と考えるのは当たり前ではないかと、私たちは思います。しかし実際はそうではなくて、自分の心の中にある不安や恐怖、怒り、無力感などを掻き立てた人物、つまり虐待した親ですが、その親の攻撃をまねすることで、屈辱的な体験を乗り越えようとする防衛メカニズムがあるというのです。悲しいことですが、自分の受けたつらい経験を子どもに味あわせることで、その経験を乗り越えようとするのです。こういう場合、そんな防衛メカニズムは、親には意識されていません。子どもが言うことを聞かないから、子どもをまっとうな人間にするために、しつけをしているんだと思っています。しかしその時の「怒り」には、本人にも自覚されていない別の理由があるのです。こうしたことは、児童虐待のような深刻な場合だけではありません。「怒り」という感情は曲者です。建前や表面的な理由とは別に、心の深いところにうごめく、「怒り」を引き起こす理由が、私たちを突き動かしていることがあるのです。その深い理由を自覚し、そんな思いを抱く自分を肯定し、その理由と正しく向き合うことによって、「怒り」の感情から自由になることができるのです。

 

 さて、だいぶ横道に逸れてしまいましたが、今日のヤコブの手紙の御言葉は、人と人との関係において有益な示唆を与えてくれますが、それだけでなく、否それ以上に、神さまとの関係にも当てはまるものです。今日の箇所の前半、1921節は、私たち信仰者の神さまに対する姿勢について教えるものでもあります。この教えを守ることによって、人は自分を罪と死に至らしめる「欲望」(114節)から自由になることができるのです。

 ヤコブの手紙119節は、「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい」という呼びかけから始まります。イエス・キリストへの信仰を同じくする信仰仲間への、深い愛と配慮から語られている言葉なのです。

 「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」

まず、「聞くのに早く」というのはどういうことでしょう? これは速度の速い遅いになぞらえて、神さまの御言葉に対する向き合い方が示されています。私たちの時代はご承知の通り、情報が洪水のように押し寄せてきます。色んな価値観が喧伝され、様々な思想が飛び交っています。そのような価値観や思想の海の中で、私たち信仰者も溺れそうになってしまいます。こっちの考え方も魅力的だし、あっちの考え方にも心惹かれてしまう。自分がよいと思う考え方やあり方をできるだけ多く自分の中に取り込んで、自分の人生を価値あるものにしようとします。

しかし、そういうあぶはちとらずの中で、信仰者として救いの確信に到達できず、却って進むべき道、目指すべき方向が分からなくなってしまうのです。勿論、訳も分からずに信じなさいというのではありません。健全な批判精神も失ってはならないでしょう。しかし、色んなものを内に取り込んで、あぶはちとらずになってしまうのでなく、まず自分の心を空にして、神さまの御言葉をストレートに受け入れる。神さまの御言葉を、とにかく真剣に聞いて、生きてみる。「聞くに早く」というのは、夾雑物を挟まないそうした純粋さを勧めているのです。

 次の「語るに遅く」というのは、どういうことでしょう? これは信仰者が伝道をする時の心得として読むことができるでしょう。私たちは大切な家族や親しい友だちに、イエス・キリストの福音を伝えたいという、切なる願いを持っています。そういう願いをもって、祈り続けることは大切です。しかし、伝道は神さまの御業です。信仰者が起こされ、主の福音を信じる者とされるのは、人間の業ではありません。少なくとも、私たちの考えるスケジュールや、私たちの計画通りに進むことではありません。伝えたいと願っている人にとって、ふさわしい時が与えられなくては、福音を伝えることはできません。性急に事を運ぶだけではダメで、その人の心の中で御言葉が熟成し、信仰がその人自身のものとなる時まで、待たなくてはなりません。その人のことをあたたかく見守りつつ、その人が救いを受け入れられるよう祈り続けて待つこと。「語るに遅く」とは、そういうことを教えているのだと思います。

 三番目の「また怒るに遅いようにしなさい」とは、どういうことでしょう? 神さまに対して「怒る」などということは、恐れ多いと思っておられるかも知れません。しかし、私たちは信仰者であっても、自分の願いがなかなか神さまに叶えていただけないと、不満を感じることがあります。自分が正しいと思っていることが反対されて前に進まないような状況に置かれると、神さまに腹を立ててしまうことがあります。そして、そんな神さまに信頼するのをやめたり、他のものを頼りにしたりしてしまうのです。しかし、旧約の預言者は神の御心を次のように証ししています。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたの思いを、高く超えている」(イザヤ書5589)。そのよう訳ですから、私たちは私たちとは異なる神さまの思い、私たちの思いを高く超えている神さまの思いを、それが明らかになるまで待つ必要があります。自分のタイミングで神さまの思いを計ってはなりません。それが、「怒るに遅いようにしなさい」という御言葉の意味なのです。20節にあるように、「人の怒りは神の義を実現」することはありません。主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ733)と約束されました。私たちの思いや願いを優先させるのではなく、何よりもまず、神さまの御心が行われるように祈りゆだねていくこと。そこに、神さまの義(正しさ)が実現されていくのです。

 そしてヤコブの手紙は、もう一度、信仰者が立ち帰るべき原点をはっきりと指し示しているのです。信仰生活が長く続く中で、ばやけてしまいがちな信仰の急所を突くのです。21節です。「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」ここの「心に植え付けられた御言葉」とは、私たち信仰者が、洗礼を授けられた時に植え付けられた御言葉、私たちに、救い主イエス・キリストを告白せしめた御言葉です。それは罪の赦しの御言葉であり、「あなたは新しく生まれ変わったのだ」と宣言する御言葉です。それは、信仰者の心に深く根付いているものです。しかし、その「心に植え付けられた御言葉」は、内から外から私たちの心に襲いかかる、「あらゆる汚れやあふれるほどの悪」によって、いつの間にかぼやけてしまうのです。主イエスの語られた「四つの土地に蒔かれた種のたとえ話」のように、世の思い煩いや悪しき思いが茨のように心の中にはびこり、植え付けられた御言葉を覆い隠してしまうのです。しかし、汚れた服を脱ぎ去るように「あらゆる汚れやあふれるほどの悪」を素直に捨て去ることによって、御言葉はその本来の力を発揮し、私たちの魂を救うことができるのです。「魂」と訳された「プシュケー」という語は、肉体に対する魂という意味ではなく、その人全体を表わします。洗礼を決断させた御言葉、「心に植え付けられた御言葉」が、丸のままの私たちを健やかにし、救いの喜びに生きる者としてくださるのです。ある宗教改革者は、「わたしたちがだらしなく耳を傾けるのに慣れてしまっている御言葉こそ、わたしたちの救いの根源である」と述べました。私たちは救いへと導いてくださった御言葉を、だらしなく惰性で聞き流していてはなりません。いつも新たな思いで、全く新しい御言葉として聞き取り続けていきたいと思います。(2020年11月1日)
 
 
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