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礼拝説教

10月18日の説教
2020-10-26

創世記45115節             20201018日(日)

「神の大いなる摂理を生きる」    藤田 浩喜

 ヨセフ物語を第3主日には読んでいますが、今日の箇所はヨセフ物語のクライマックスとも言うべき箇所です。前回、ヨセフの大切な杯がベニヤミンの袋から見つかりました。当事者の末っ子だけが奴隷になればよいと言うヨセフに、4男のユダが、「ベニヤミンの代わりに奴隷として残ります」と言います。それを聞いたヨセフには、万感迫るものがあったのでしょう。もはや平静を装っていることができなくなりました。彼はエジプト人の僕たちに、席を外してくれるように言います。そして、兄弟たちに自分の身を明かします。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」(3節)。ヨセフはそう言うと、声をあげてさめざめと泣いたのでした。

 兄弟たちは、ヨセフが自分たちの国の言葉で話しかけたことに驚いたでしょう。それ以上に、ヨセフが語った内容は衝撃的でした。彼らはあまりにも驚きが大きくて、何も答えることができませんでした。ヨセフは兄弟たちに、もっと近くに来るように促します。離れたままでは、十分顔が分からないと思ったからかもしれません。兄弟たちは近づき、ヨセフとの距離が縮まります。兄弟たちはこの後自分たちがどうなってしまうのか、言い知れぬ不安に襲われていたに違いありません。しかし、ヨセフは彼らを前にして、次のように言ったのです。4節後半から5節です。「わたしはあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」ヨセフは「わたしはあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです」と名乗ります。彼はかつて兄たちが自分にした仕打ちを、あいまいにはしません。なぜなら、彼らの関係を引き裂き、兄たちに長年罪の意識を負わせていた原因がここにあることを、知っていたからです。この事が解決しないと、根本的な解決にはならないのです。しかしヨセフは、その辛い出来事も神さまが自分を先にエジプトに遣わすためのものであったと、証ししているのです。つまり、奴隷としてエジプトに売り飛ばされた出来事を、一族を飢饉と絶滅の危機から救うために神さまがエジプトに遣わしたこととして、受け取り直しているのです。続く6節以下の言葉には、直接手を下したのが兄弟たちであったとしても、エジプトにヨセフを遣わしたのは神の御心であったという、確かな確信が表明されているのです。「この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」。ヨセフは、自分のたどった道のりを振り返り、それが神さまの導きによるものであると悟ることができました。こうした信仰を、私たちは「摂理信仰」と呼んでいます。

 摂理とは、神さまの見えざる導きのことです。運命論ではありません。運命論と摂理信仰は、一見似ていますが、似て非なるものです。運命論も摂理信仰も、人生には自分を超えた力が働いていると考える点で、共通したところがあります。ただ運命論の場合には、自分ではどうすることもできないと思って悲観的となり、祈ることもしません。しかし摂理信仰の場合には、神との対話があり、神に祈り、その意味を求めます。自暴自棄的な葛藤ではなく、御心を尋ね求めるような、積極的な葛藤があります。そして善き意思をもったお方が自分の人生を導いておられるという信仰により、逆境も乗り越えていく力が与えられるのです。試練が与えられるときにも、それに屈しない強い意志が与えられる。他方、運命論の場合には、無気力の中でさらに悲観的な考えに陥ってしまうのです。

 

 ヨセフの場合を考えてみますと、彼とても最初から神さまの御心が分かったわけではないと思います。特にエジプトに売られて侍従長ポティファルの奴隷となりましたが、13年もの間労苦の多い歳月を過ごしました。忠実に主人に仕え、信頼を勝ち得たと思ったのも束の間、ポティファルの妻の誘惑を拒んだために濡れ衣を着せられ、牢獄につながれてしまいました。牢獄でも看守長の信頼を得たものの、給仕役の長の夢を解いてあげた恩はすっかり忘れられ、なかなか牢獄から出ることはできませんでした。うまく運が開かれそうな時に、突然前途が閉ざされるような経験を何度もしてきました。そうした中で、彼は神さまが何を自分になさろうとしているのか、どこに導こうとされているのか、皆目分からなかったに違いありません。しかし、王が見た七年の豊作と七年の凶作の夢を解き、飢饉の対策を全面的に任されたヨセフは、エジプトで王に次ぐ地位に取り立てられました。彼はエジプトの民が飢饉で苦しむことのないように、豊作の時の穀物を備蓄し、凶作の時に備えました。エジプトには豊富な穀物があるということは、周辺諸国にも伝わりました。そして、ヤコブの命を受け、ヨセフの兄たちが穀物を買いにエジプトにやって来ます。こうした状況に遭遇して、ヨセフは自分がエジプトに遣わされた意味を、悟り始めたのではないでしょうか。自分がエジプトに奴隷として売られたのは、確かに兄たちの悪意によってだった。しかし、自分がエジプトにやって来たのは、それだけではない。主なる神さまが兄たちに先立って、私をエジプトにお遣わしになったのだ。大飢饉が来ることを知っておられた神さまは、父の一族、神さまによって選ばれたイスラエル民族が、エジプトの地で生き永らえることができるよう、私をエジプトに遣わした。遣わされただけでなく、それが可能となるように、私をエジプト全国を治める者にしてくださった。ヨセフは、最初から神さまの御心を知らされたのではなく、自分のたどった道を振り返り、今立っている場所を見つめる中で、神さまの深い御心を悟ることができたのです。そこに自分が生かされている本当の目的があることを、確信をもって知ったのです。そして、神さまの御心、神さまの本当の目的を悟ったとき、ヨセフはエジプトで生きた20年以上に及ぶ、労苦に満ちた自分の人生を肯定することができました。そして、長年罪の呵責に苦しんできた兄たちを、本当の意味で許すこともできたのだと思います。

 私たち一人一人の信仰者にとっても、人生はつまづきや戸惑い、失敗の連続です。思い通りに行かないことも多くあります。悲しみや喜び、怒りや空しさ、無力感や高揚感に揺れ動きながら、私たちの人生は進んで行きます。どこに行こうとしているのか、簡単には分かりません。しかし、神さまは私たち一人一人を、神さまの深い摂理の中で導いておられます。「わたしはこの事をなすために、これまで導かれて来たのだ」という所に、私たちを導いてくださいます。ある人はその不思議さを、刺繍の絵になぞらえて語ります。刺繍の絵は、裏から見るとき何が描かれているのか、皆目分かりません。異なる色の糸がでたらめにあちこち行き交っていることしか分かりません。しかし、刺繍をひっくり返し、表にして見た瞬間どうでしょう。そこには、美しい素晴らしい絵が姿を現わすのです。そのように神さまは、信仰者である私たちに、神さまが私たちのために用意してくださっていたご計画を、鮮やかに示して下さるのです。それを知ることによって、たとえどんなに私たちの人生が混乱し、迷いや失敗に満ちていたとしても、それまでの人生を肯定することができます。静かな感謝と共に、受け入れることができるのです。歴史の中に、人生の中に、しかも愚かな歩みの中に、神さまの救いの御業の進展を悟ることのできる者は、なんと幸いなことでしょうか。信仰をもつことの深い意味は、まさにこのことを知ることであります。

 

 さて、ヨセフを通してヤコブの家族を救われた神さまは、その後さらに「大いなる救いに至らせるために」、別の計画を実行されることになります。別の方を遣わされることになるのです。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ445)。ヨセフは穴の中に落とされましたが、その方は、神のおられる高い天からこの地上へと降りて来られました。ヨセフはエジプトという異教の地へ売られましたが、その方は天の故郷から地上という異教の地に来られました。ヨセフはエジプト人の奴隷になりましたが、その方はすべての人に仕える僕になられました。

ヨセフは、それらの試練を乗り越えて、エジプト全国を治める者として高く上げられることになりましたが、その方はさらに深く下り切ることによって、逆に高く上げられ、この世界全体を治めるまことの王となられました。王の中の王、キング・オブ・キングスとなられました。その誕生はクリスマスの夜に起きた出来事でした。ヨセフの兄たちは、驚きから恐れへと至りましたが、許しの言葉を受けて、心安らかに家路につきました。クリスマスの夜にも、羊飼いたちは「恐れるな」という言葉を受けて、救い主と出会い、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。兄弟たちは父のもとへ帰りました。「死んだはずの者が生きていた」。このことは兄たちに恐れをもたらしましたが、それを乗り越えて、和解を伴う喜びをもたらしました。父ヤコブにとっては、まさに「死んだはずの者が生きていた」というよりは、「死んだ者が生き返った」という復活のメッセージであったのではないでしょうか。「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい」(4528)と、ヤコブは言うのです。

 「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(455)。これはヨセフが兄たちに語った言葉ですが、私たちはこの言葉をあたかもイエス・キリストが語られたように、聞くことができるのではないでしょうか。ヨセフにおいて神がなさったことを超える出来事が、イエス・キリストにおいて起こったのです。そして、神さまの救いのご計画は立ち止まりません。今もその完成に向かって、進展し続けているのです。
(2020年10月18日)
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