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礼拝説教

10月11日礼拝説教
2020-10-19
ヤコブの手紙1章16~18節         2020年10月11日(日)
「父なる神からの贈り物」    藤田 浩喜
 
9月27日(日)久しぶりに日曜学校の子ども会を行いました。星博士の「ホッシー・エイジ」こと松本栄次先生から、『夏の大三角形のひみつを探ろう』というお話を聞きました。先生が監修された絵本を音楽やナレーションつきのスライドにしたものを見たり、代表的な星の距離が分かるクラフトを画用紙で作ったり、最後に星型の金平糖とラムネの入ったお菓子をもらって帰りました。
星のお話は、スケールの大きなお話です。月までは30万キロで宇宙船で行くことができますが、星の中には何万光年という遠さの星がざらにあります。光の速さの宇宙船があったとして、それに乗っても何万年とかかります。まさに天文学的な距離です。そして、そのような星や惑星ですが、季節や場所によって違った配置(コンステレーション)を私たちに見せてくれます。太陽や月は、自転や公転の組み合わせによって、満ちた姿で見えたり、欠けた姿で見えたりします。日食や月食などの天体ショーは、ニュースでも大きな話題になります。壮大かつ神秘的で興味の尽きない魅力を、天体は持っているのではないでしょうか。
 
さて、今日のヤコブの手紙1章16~18節には、その天体のことが例に採られています。17節の2行目です。「御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」「移り変わり」は、星の配置が季節によって違うことを言っています。また「天体の動きにつれて生ずる陰」とは、日食や月食のことでしょう。天体である星や太陽、月には、変化が起こる。今までとは違った姿に変化をすることがある。しかし父なる神には「変わる」ということがない。「愛する兄弟たち、思い違いしてはいけません」(16節)とヤコブの手紙は言うのです。
どうして、ヤコブの手紙はそんなことを言うのでしょうか。旧約聖書の時代からユダヤの人々は、神が太陽や月、星を創造されたということを信じていました。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ」(創1:12)と、創世記1章にも記されています。太陽や月、星は、神が創造された被造物なのです。
しかし、このスケールの大きい天体という被造物も、先ほど申し上げたように、様々に変化した姿を見せます。科学的知識の少ない時代ですから、当時の人たちの目には、太陽や月、星が、実際に変化しているように見えたに違いありません。そして、被造物が持っている性質は、それを創造した神ご自身の性質が現れ出たものだと考えられていました。被造物である太陽や月や星が変化するのだから、それを創造された神ご自身も変化されるに違いない。そんなふうに考える人たちもいたのです。その理屈で行きますと、私たち人間も変化するものです。皆さんも毎朝鏡に自分の顔を映して見ておられると思います。毎日見ているものですから、あまり変わったようには思いません。しかし、10年前、20年前に撮った写真を見たとき、その変わりように愕然とするのではないでしょうか。外見だけではありません。時間の経過と共に、私たちの物事を見る見方や考え方も変わってきます。かつてはこんなことを熱心に考えていたんだと、ノスタルジックな気持ちに浸ることもあります。そのように、被造物である私たち人間も変化を避けることはできません。もしそうであれば、人間を創造してくださった神も変わられるのではないか。変わるという性質は、創造者であられる神がそもそも持っておられる御性質ではないか。だとすると、良いことを始められた神も、人間のだらしなさに愛想をつかして、態度を変えられるのではないか。いつまでも優しい態度で接してくださるわけではなく、手のひらを返したように峻厳な態度を取られ、人間を滅ぼしてしまわれるのではないか。神が心変わりされるのではないか。そのように不安になる人たちもいたのです。私たちも自分の罪深さやだらしなさを思い知らされた時、ふとそのような不安に襲われるのではないでしょうか。
しかしヤコブの手紙は、そうではないと断言します。創造者である神と被造物である天体や人間は違うと言います。16節~17節1行目です。「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」旧約聖書 創世記1章3節に、「神は言われた。『光あれ』。こうして光があった。神は光を見て、良しとされた」とあります。主なる神は光を創造し、光でこの世界を照らされました。この光は太陽の光や照明の光とは別次元の光です。啓示の光です。恵みと憐みの光です。今も神は光の源であり続けられます。その光の源である神さまは、変わることはありません。世界に良い贈り物、完全な賜物を送り続けられます。光が闇に変化することはありません。そのように神は少しも変わることなく、この世界と私たちに良い贈り物、完全な賜物を送り続けてくださっているのです。
 
それでは、その良い贈り物、完全な賜物とはどのようなものなのでしょう。ヤコブの手紙は、18節でこのように言うのです。「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。」神がくださる贈り物、完全な賜物は、色んなものが考えられるでしょう。雨を降らせて大地の実りを育んでくださることも、すべての生き物に住む場所と生きる手段を与えてくださっていることもそうでしょう。私たち一人一人に他の人が変わることのできない個性や賜物を与えてくださっていること、愛や正義、勇気や友情などの高き思いを与えてくださっていることもそうでしょう。しかし、何よりもその贈り物は、救い主イエス・キリストに関わるものだということは、間違いありません。救い主イエス・キリストを通して与えられている贈り物なのです。18節に「真理の言葉」とありますが、これはヨハネによる福音書1章1節以下の「言」(ロゴス)を思い起こさせます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」また18節の「初穂」という言葉も、次のような使徒パウロの言葉を思い起こさせます。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」(Ⅰコリ15:20)。そのように、究極的な良い贈り物、完全な賜物は、御子イエス・キリストであるということを教えられるのです。
 また、ある注解者はこの18節は、先週学んだ15節に対応するものとして書かれていると言います。15節では「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」と言われていました。18節は「真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」と、ここでも「生む」という言葉が使われています。私たちを誘惑へと引き込む「欲望」は、私たちを「罪」と「死」に陥れます。それは破滅的な結果に至ります。しかし、神はイエス・キリストという贈り物を私たちにくださいました。それによって私たちを「罪」の縄目から解放し、「復活の命」に生かしてくださいました。罪にあえぎ、滅びてしまうしかなかった私たちを、新しい命に生んでくださった。神が最初にこの世界と被造物を造られた「見よ、それは極めて良かった」(創世1:31)という最初の状態に、再創造してくださったということなのです。
そして神は、罪と死が入り込んでしまったこの世界と被造物たちを、滅びるに任せるようなことは断じてありません。神は変わられる方ではありません。イエス・キリストという贈り物を私たちに与えてくださった神は、イエス・キリストの恵みに与ることができるよう、聖霊を通して働き続けてくださっているのです。この世界とそこに生きる被造物たちが、永遠の新しい命に生まれることができるように、神が「見よ、それは極めて良かった」と祝福してくださる再創造に与ることができるように、変わりなく働き続けてくださっているのです。
 私たちはイエス・キリストの救いに与り、「造られたものの初穂」になった者たちです。それは同時に、その恵みがどんどん続いていくように仕える使命を帯びているということでもあります。麦でも稲でもそうですが、一つの穂に実が入ると、この後この光景がどんどん広がっていくしるしとなります。そのように、「初穂」として、新しく生まれ、再創造された私たちは、その恵みがどんどん広がっていくように、御言葉の宣教とキリスト者としての生き方を通して、この恵みを広げていくように召されているのです。パウロが言うように、罪と死の縄目に縛られているのは人間だけではありません。パウロは「被造物は虚無に服しています…被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(ローマ8:20、22)と述べています。人間だけでなく、造られた被造物全体が、人間の罪によって、苦しみ呻いているのです。そしてパウロが語るように、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかる」(ローマ8:21)ことを待ち望んでいるのです。この御言葉は、私たちの世界が直面している地球環境の破壊や動植物の絶滅、生態学的な危機を考える時、まことに身に詰まされる思いがするのではないでしょうか。イエス・キリストの恵みにまだ与っていない人間同胞だけではなく、同じ被造物であるこの世界とそこに生きるものたちのために、私たちは働いていかなくてはなりません。宣べ伝えていかなくてはならないのです。
 でも、あまりに大きな使命を託されて、意気阻喪してしまう必要はありません。創造者である神は変わらないお方ですが、被造物である私たちは変わり得る存在です。どんなに壁が厚く頑強に思えても、造られた被造物は変わる可能性を秘めています。福音に耳を塞いでいるような人であっても、変われるのです。そして何よりも、この世界と被造物たちのために変わることなく関り続けられるお方が、私たちにはついています。このお方に真実に依り頼みつつ、新しく造られたものの「初穂」として、共に仕えていきたいと思います。(2020年10月11日)

 
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