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礼拝説教

10月4日の説教
2020-10-12
ヤコブの手紙1章12~15節        2020年10月4日(日)
 「命の冠をいただくために」   藤田浩喜
 今日の説教題を、「命の冠をいただくために」としました。「冠」(ステファノス)という言葉は、聖書にも出てきますが、4つのことを連想させます。第一、花の冠は喜びの時に、たとえば結婚式とかお祝いの時にかぶりました。冠は幸福と祝福のしるしでした。第二、冠は王権のしるしでした。冠は王様や権威ある人々がかぶりました。第三、月桂樹の冠は競技の勝利者の冠であり、とりわけ競技者が得ようと切望したものでした。そして第四、冠は名誉と尊敬のしるしでした。箴言1章9節では、両親の教訓はそれを聴く者に、恵みと冠をもたらすことができると言われています。
バークレーという注解者は、ここで言われている「冠」の意味も、どれか一つを選びとる必要はなく、これら全部が含まれていると言います。そして、このように言うのです。「キリスト者は他の人たちがかつて持つことのできなかった喜びを持っている。キリスト者の人生は、永遠の祝いに列席しているようなものであって、他の人たちが気づくことのなかった王権をもっている。というのは、たとえ地上での状況が粗末なものであっても、彼らは神の子にほかならないからである。キリスト者はまた、他の人たちが得ることのできない勝利を得ている。というのは、彼はイエス・キリストの現臨と交わりという克服力によって、人生とそのあらゆる要求を充実させているからである。わたしたちに勝利を与えられるのは神ご自身である。そしてキリスト者は新しい尊厳を持っている。というのは、神が自分を、イエス・キリストの生と死に価していると考えられたということを自覚しているからである。キリストがその人のために死んだとしたら、どんな人でも無価値な人はいない。」
 少し長い引用でしたが、「試練を耐え忍んだキリスト者に与えられる「冠」が、どんなに素晴らしいものかを伝えています。キリスト者はその信仰生活のゆえに様々な試練に遭います。ローマ帝国によるキリスト教迫害などは、その典型的な例です。異教社会である現代の日本においても、キリスト教信仰を貫くためには色々な困難が伴います。無理解な態度に遭遇したり、信仰生活を続けるために努力や犠牲が求められます。しかし、そのような「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。…神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(12節)と言われているのです。「耐え忍ぶ」という言葉は、原文では「あるものの下に留まる」という意味の言葉です。あるものの下に居続けることです。辛く苦しいからといって、そこから逃げたり、離れたりせずに、踏み留まることです。そこに踏み留まる人は幸いであり、神さまから「命の冠」をいただくことができるのです。
 いただく冠は「命の冠」と言われています。冠のもつ素晴らしい意味は先ほどご紹介いたしましたが、ここではあらためて「命の冠」と言われています。今、聖書の学びと祈祷会ではヨハネの黙示録を学んでいますが、その2章10節にも「命の冠」という言葉が出てきました。「あなたがたは十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」
「命の冠」とは、命そのもの、イエス・キリストによって与えられる新しい命のことです。試練を耐え忍ぶ人は、イエス・キリストの救いを通して、より豊かな命、真の命、朽ちることのない永遠の命に入れられるのです。
 
 さて、ヤコブの手紙の筆者はそれに続けて「誘惑」について語っています。13節「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。」
ここの「誘惑」は先ほどの12節の「試練」と、原語では同じ言葉(ペイラスモス)が使われているのです。先に申し上げたように、キリスト者にはその信仰のゆえに、様々な苦しみや困難が襲うことがあります。その苦しみや困難から逃げることなく踏み留まるなら、神はその人に「命の冠」を与えてくださいます。イエス・キリストを通して、神ご自身の命へと招き入れてくださいます。
 しかし、キリスト者が信仰ゆえに受ける苦しみや困難が、その人を神から遠ざけ、神との交わりを断ち切らせるものになるなら、それは「試練」ではありません。それはその人を、信仰から迷い出させ、神から離れさせてしまうゆえに「誘惑」となるのです。そして、神さまは人を「誘惑」されるようなお方ではありません。13節の後半にこう言われています。「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」神さまは人間のように、悪しき事柄へと誘われたりはしません。また、自ら人間を誘惑されることもないのです。神さまは、ご自身に背き、罪を犯した人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架にお捧げになりました。そのような貴い代価を払って、私たち人間を罪と死から救ってくださいました。そのような人間を神さまから遠ざけたり、離れさせたりすることが「誘惑」です。そのような「誘惑」を、神さまがなさるはずはないのです。
 では、どうして私たち人間は「誘惑」されてしまうのでしょう。どうして、他のものに惹かれて、神さまの手を振りほどいてしまうようなことをするのでしょうか。そのことについて、ヤコブの手紙は14節で次のように言うのです。「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」ヤコブの手紙は、人間が罪に陥る原因を、人間の内にある「欲望」に見ているのです。人が「誘惑」に陥る原因を神さまに求めるのはお門違いで、その原因は人の心の内にうごめく「欲望」にあるというのです。これは私たちの誰もが、実感していることではないでしょうか。私たちは絶えず、心の中に霊的な側面と、肉的な側面を持っています。前者は神に向き合い、神に応答できる一面であり、後者は肉の誘いに乗って、神から離れようという一面です。この両面が、人を正反対の方向に引っ張っていこうとします。さながら内戦が起こっているように、両方の力がせめぎ合っているのです。旧約以来のユダヤ人は、その経験の蓄積から、あらゆる人の内部には二つの傾向があるという教理に達したと言います。彼らはそれを「良い傾向」(イェツェル・ハトブ)と「悪い傾向」(イェツェル・ハラ)と呼びました。かつて熱心なユダヤ教徒であった使徒パウロは、その二つの傾向がせめぎ合っている苦しみを、次のように告白しています。ローマの信徒への手紙7章21~24節です。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」
 このように私たち人間の心の内にある「悪い傾向」、肉的な側面が「欲望」なのであり、その「欲望」に引かれていくままに「誘惑」に陥るのです。そして「欲望」は、そこだけに留まってはいません。15節の後半にあるように、「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」。「誘惑」は、神さまから人を引き離そうとする試みです。今まで神さまと向き合っていた人間を、神さまのもとから連れ去ってしまいます。それは神さまのもとにしかない真の命、永遠の命との関係を断ち切ってしまいます。「罪が熟して死を生みます」とは、地上の命が終わるだけではありません。誘惑された者に永遠の死をもたらしてしまうのです。
 
 それでは私たち信仰者は、どうしたらよいのでしょう。どうしたら、自分の内にある「欲望」に打ち勝ち、「誘惑」から守られるのでしょう。まず私たちは、自分の心の中には、自分でもコントロールしがたい「欲望」という「悪い傾向」があることを、率直に認めなくてはなりません。その内なる「欲望」が、私たちを神さまから離れさせる「誘惑」へと陥れるのであり、その原因をほかの所に求めることはできません。神さまに責任転嫁することも、自分の置かれた環境を言い訳にすることもできません。誘惑に心を許し、欲望に身を任せる私たち自身が、責任を負わなくてはならないのです。私たちに責任があるのです。
 しかし、パウロの呻きのような告白からも分かりように、誘惑に傾いてしまう「欲望」は、私たち自身を呑み込んでしまうほどに強烈です。そうであればこそ、
私たちがその「欲望」と戦い、それを治めるための手立ては、「祈り」以外にはないのです。イエス・キリストは「主の祈り」において、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ6:13)と祈るように教えてくださいました。また、イエス・キリストご自身も、私たちのために次のように祈ってくださっています。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」これはヨハネによる福音書17章15節のイエス・キリストの祈りです。私たちが「誘惑」から守られるように、主は主の祈りを教えてくださっている。それだけでなく、主イエス自ら、今も父なる神の右の座で、私たちが「誘惑」から守られるようにと、祈りを捧げてくださっている。この祈りに生き、この祈りに生かされていくことが、何にも増して大切なのです。ある注解書を読んでいましたら、こんな興味深い言葉を見つけました。「人はよいことに取り組むことによって、欲望がつけ入る時と場所を与えずにすむこともできる。サタンが危害を加えるのは、管理がゆきとどいていない心に対してである。」様々なことに心乱されている時は、どうしても心はバランスを失います。そんな時は、神さまに祈ることもおろそかになってしまいます。しかし、私たちが心乱され、欲望のうねりに呑み込まれてしまわないためにも、日々祈りを捧げるひと時が必要です。小さなことのように思えるかも知れませんが、そうした日々の営みを続けることで、私たちの心も手入れが行き届いていくのです。神さまの御手のみが、誘惑から私たちを守ってくださる唯一の力です。弱さを内に抱えている私たち一人ひとりです。だからこそ、そのような自分であることを素直に認めましょう。そして神の助けを求め、必要な御言葉を求め、ふさわしい知恵を求めて、祈り続けてまいりましょう。(2020年10月4日)
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